dcst小話集健やかなれ、科学の子
俺はそれを僥倖と呼んでいいんじゃない? なぁんて、思っている。
「千空ちゃ~ん、まぁだやってんの~?」
もうすっかり夜は更けて、それなのに居ないなぁと思ってラボへ赴けば、案の定そこに明かりが灯っていた。よくやるねぇ、という気持ちを口調に乗せながら覗き込んでみたならば。
「……、あーらら」
手にペンを握りしめたまま、設計図に突っ伏して倒れる千空ちゃんが居た。これ、設計図が皺くちゃになるだけならまだしもヨダレついちゃったら困っちゃうんじゃない?
そっと近寄り、傍らに立つ。唐突に電池切れしたかのような豪快な突っ伏し方に、ずぅっと前に見た小さい子が遊んでいる途中でパタッと倒れて眠ってしまう動画映像をうっかり思い出してしまって、込み上げる笑いを必死に噛み殺した。
(いや、まぁね? そーんなカワイイもんじゃないけど)
合理的すぎて時々マッドな思考になるわ、こんな原始の石世界でそれ再現しようとしてんの!? ってもの作り上げようとするわ、その為にドイヒーな作業こっちにぶん投げてくるわ、カワイイからはかけ離れた我らが科学少年。
(……そう、科学『少年』なんだよ、ねぇ)
自称しちゃってるし。舌噛みそうな名称をずらずらと並び立て語りながらクロムちゃんカセキちゃんと工作してる時のイキイキとした顔は、まさしく科学少年の呼び名に相応しいと俺も思う。
この頭脳と行動力を持った彼が、天才だ何だと煽てあげられ誰かに利用されることもなく、年齢と見合わぬ頭の良さだけを取り上げて『大人』を押し付けられることもなく、自ずから一足飛びに大人にならねばならない何かもなく、科学少年を自称するような育ち方をした。
(ゴイスーすぎるよね~、千空ちゃんパパってば)
なかなか出来ることじゃないのよ、それって。俺がそれを感謝するのは筋違いにも程があるんだろうけど、それでもやっぱり、嬉しいんだ。
彼の歩んできた道のりは健やかだった。これってさぁ、やっぱり僥倖って呼ぶしかないと思わない?
別に千空ちゃんをガキだとは思わないし、いつものロードマップよろしくひとマスずつ進んできた成育の道もこんな世界じゃ駆け抜けるように大人になっていくしかない。焦るつもりがなくたって、勝手に忙しく育ってく。それを否定する気はさらさらない。
(それでも)
「好きなだけ、科学少年を楽しんでよ」
七十億人を背負わせるんだもの、これぐらいは許されるでしょ? 誰が許さなくたって、俺が騙くらかせてでも許させる。たっぷり科学少年やってから、稀代の大科学者にジョブチェンジして頂戴。
そっと髪を梳いてから、犬を撫でるみたいにワシャワシャと大きくかき混ぜる。
「はーい、千空ちゃん起きて起きてー! こんなとこで寝落ちしちゃ駄目よ風邪ひくからねジーマ―で。ほーら、モヤシの俺じゃ運べないから起ーきーてー」
賑やかすような声をかければ、ガバリと勢いよく千空ちゃんが身体を起こした。
お疲~、と顔を覗き込んで目を合わせたら、焦点がようやく合ったらしい千空ちゃんに嫌そうな顔をされてしまった。
「おはよう、まだ全然夜だけど」
「あ゛ー……クソ、時間無駄にしちまった」
「ストップ、続けようとしなーい。このまま続けてまた寝落ちして疲れの取れない休息とるのと、今からちゃんと寝て回復したあと早起きして作業するの、どっちが休養時間の使い方として合理的?」
「後者だ、分かってるっての」
「大正解ー! 正解者の千空ちゃんに賞品として子守唄のプレゼント~」
「そりゃ賞品じゃなくって罰ゲームの間違いだろ」
「ドイヒ~、今ならあの頃の芸能人声マネ歌メドレーやってあげたのに」
「……ちょっと面白そうじゃねぇか、それ」
「えっなになに気になっちゃった感じ? 唆られちゃった? ジーマ―で? それなら練習してクオリティ上げてから披露しちゃおっかな」
「芸能人あさぎりゲンの物真似ワンマンショーか。ククッ、贅沢な話じゃねぇか、杠たちが喜びそうだぜ」
話しながら、くぁ、と千空ちゃんがでっかい欠伸をした。うん、無駄話はこれっくらいにしておこっか。
「俺ちょっとおトイレ行ってくるね~。それじゃ千空ちゃん、ちゃんと寝るんだよ。おやすみー」
ヘラヘラ笑って、ひらひら手を振って、フラフラその場を後にする。やや間を置いて歩き出した足音が遠ざかってから、俺は忍び笑いを漏らした。
きっと数日間くらいは聞き分けよく夜はちゃんと休むことだろう。身近な人間に少年だと言われて尚こどもっぽい行動をするような彼ではない。複雑なお年頃なのである。
(いつから起きてたの? なーんて、墓穴掘りそうだから俺も言えないし)
ちょっとばかし色づいていた耳を思い出して、もう一度笑う。そして、きっと明日には仕返しのようにドイヒー作業を振られるんだろうなぁと、嫌な予感に肩をすくめた。
【初出2020.6.17】
星空の彼方に歌姫は居ない
「あの計画を立てたのはどっちだったんだい?」
農作業の合間、木陰に逃げて休憩していた時の事である。座り込んだゲンへ、近寄ったニッキーが問いかけた。あの計画、もちろん偽リリアンのことだろう。
「そりゃあ、もちろん俺だよ。あれは俺が真似が出来るっていうところから始まる話だから」
「まぁ、そうだろうとは思ったけどさ」
Hi,Nicky!! とリリアンの声帯模写を披露すると、ホントによく似てる、とどこか呆れた顔でニッキーは呟いた。
「もしや、憧れの人を利用されたのはやっぱり腹が立ってきた! とか? いやー、これでも俺たちも非道だって自覚はあったからね? ありもしない希望をちらつかせて寝返らせるんだから。地獄に落ちるのも妥当な所業だ、ってね」
「ゲン、あんた本当にそんなこと思ってた?」
「ドイヒー! ちょっとニッキーちゃん、俺ってそんなに罪悪感のない冷血漢に見える? まぁ実際ないけど?」
「違うよ、そこじゃなくって」
ケラケラと笑ってみせるゲンをたしなめるような声音でニッキーは否定した。小さなため息を吐いてから、近くも遠くもない、微妙な距離を開けた位置に彼女は腰を下ろす。膝を抱えて座るニッキーへ、ゆるりとゲンは首を傾げて言葉の先を促した。
「嘘で騙して寝返らせる、あんたが非道だって言うのは、本当にそのことなのかい?」
「んー?」
「歴史の授業を真面目に受けてれば分かるよ、昔からよくある手じゃないか。嘘の手紙や噂で寝返らせるなんて手段。そんなものを『地獄落ちも妥当なこと』って言うような奴には見えないね」
膝の上に頬杖をついて、ニッキーはゲンの顔をじっと見つめた。小首を傾げたまま、彼はどうともとれる微笑を浮かべている。
素直に話すとは思ってはいないが、それにしても食えない男だ。自分の顔がどんどん変わっていくのが分かる。ただ見つめていた目がジト目に変わり、険が加わった辺りでゲンが吹き出して笑った。
「メンゴメンゴ、ニッキーちゃん! そんな今にも殴りそうな顔しないで~!」
こわーい! などと戯けて見せる姿に、一瞬本気で殴ってやろうかと思ったが、殴ったら吹っ飛びそうなモヤシ男だ、我慢しよう。その空気を察したのか、少し身を引きながら、すみません、とゲンが真面目な謝罪をした。
「それでどうなんだい?」
「うーん……そうだね、ニッキーちゃんには言ってもいいかな」
同じように頬杖をついて、彼はそんな事を言った。
「あの歌がどうして残っているのか、その辺の事情、少しは聞いたでしょ? 俺みたいな薄っぺら男でもね、尊く思っているんだよ。託された意思も、途絶した歌が残っている事実も、残されたその歌が脈々受け継がれた文化が到達した最先端にあったものであることも、残そうと努力してくれた千空ちゃんのパパたちが居たことも、全部」
心底、尊いと思っているんだよ。そう告げて、穏やかな笑みを浮かべた彼は
「でも俺はそれを『欺く為に都合良く利用できるただのモノ』にまで貶める策を講じた」
己自身を、断罪した。
「キレイなものを踏みにじるのは悪いこと、でしょ?」
芸術。文化が花開く旧世界でヒトが作り上げた美。ゲンもまた成熟したその世界だからこそ成り立つ活計で生きてきた人間だ、思い入れもある。
何より、その歌を残そうとした彼ら彼女らの想いに、託した千空の父の愛と信頼に、何も感じないわけがない。
「渋られたら別の案を考えただろうけどね、千空ちゃんは頷いた。彼に託されたものを、美しいままにせず欺く道具にすることにゴーサイン出させちゃった。ふふっ、俺のが深いとこに落ちるかも~、なぁんてね」
尤もそれも、千空と父である百夜との間にある深い繋がりがあるからこそ、すんなりと決断が出来たのだろう。無血の為の、合理的判断として。
「それと虚像の希望で皆を欺くこと自体にだって罪深さは感じているよ? これも嘘じゃない」
「……そうかい」
話させたのは自分だが、内心でニッキーは驚いていた。もっとはぐらかされると思っていたからだ。それこそ普段の立て板に水の如くペラペラと言い訳のように語るだろうと、その中にあるかもしれない真意を探れないだろうかと、そう考えていたのに。
まさかこんな倫理を語られるとは、いや、この男がそんな倫理を持っているとは思わなかった。
「何でそんな素直に……」
問いかけは、穏やかな表情によって消え去った。
懺悔ではない、この男はそんな事はしないだろう、付き合いの浅い自分でもそれは分かる。ならばこれは、
(批判を許すとでも、言いたいのかい?)
リリアンを、その歌を、心から愛していた自分にならその権利があるとでも言いたいのだろうか? ニッキーは思わず嘆息する。
「あんたたちが罪深いっていうなら、そのあんたたちの作ったリリアンを本物に近付けたアタシは何だってのよ?」
「うーん、悪魔にそそのかされた被害者?」
「アハハッ! そうかもね、リリアンの歌の為に悪魔へ魂を差しだしたのかも」
もう二度と聞くことは叶わないと思った至高の歌声、自分の心を救ったもの。唯一残った彼女の歌声を守るため、彼ら陣営に寝返った。愛した歌姫の虚像を支えた。
あの歌を守れるのならば、どんなことだってしてやろうと決意した。
「あんたたち二人が決断しなかったら、アタシは二度とリリアンに出会えなかった」
あちら側でも統率はとれていた、それなりに上手くやることは出来たのだろう。けれど、それではリリアンの歌は失われていたというのなら。
「ありがとう。千空が、あんたが、科学王国の皆がその道を選んでくれたから、アタシはまたリリアンの歌に出会えた」
僅かに瞠目する男に、してやったりとニッキーは笑って続けた。
「アタシもきっと天国へは行けないだろうからさ、その時には閻魔さまに申し開きをしてあげるよ。あんたたちの悪事に救われた奴も居た、って」
罪だというゲンに許しを与えられる人間はここには居ないけれど、その罪に感謝をすることなら自分にも出来る。そのくらいならしても良いんじゃないかと、ニッキーには思えた。
(だって、うれしいじゃないか)
思い入れの形は違えど、あの歌をこれほど大事だと言ってくれる人が他にも居るだなんて。
瞠目していたゲンは、ゆるりと表情の強張りを解く。
「かっこいーんだ、ニッキーちゃんてば」
そう言って、じんわりと笑った。
「やっだー、ちょっと惚れちゃいそう!」
「惚っ!? ちょっとそういう冗談やめてよ!」
「えー、自分は千空ちゃんに言ってたじゃな……あっ、睨まないで! オッケーオッケー、ニッキーちゃんにこういう軽口はNGね分かった!」
真面目な雰囲気をごまかすように茶化され、冗談とわかりきっているのに恥ずかしさが込み上げる自分が憎い。ギリと睨み付ける視線から身を庇うように、大袈裟な仕草でゲンが謝る。その道化た様子に、ニッキーは大きな溜め息を吐いた。
「Thank you for remembering me」
不意をつくように歌姫の声が聞こえた。
反射的にニッキーは顔を上げる。あんたに言われる事じゃない、まだふざける気なのか、そんな言葉を返そうとしたが、視界に入ったのは随分と穏やかな大人の笑みだった。
「……ああ、忘れるわけがない。覚えているに、決まってるよ。アタシは忘れない」
代わりに口からついてでたのは、宣言だ。
「それが偽者の声だって、本物とは絶対に聞き違えないってくらい、いつまでもリリアンを忘れない」
守ったレコードだけでなく、自分の中でもリリアンは生きている。生涯これを、守り抜く。
「さーてと! 休みすぎちゃったねえ、そろそろ続きしようか?」
「ああ、そうだね。しっかり耕さなくちゃ」
「頼もしいね~パワーチームは」
俺なんかジーマーで毎日ふらふらだよ~、などと間延びした弱音を吐きながらゲンが立ち上がる。続くように、ニッキーも立ち上がった。
空を仰ぐ。広がるのは晴天の青。石化前じゃ到底拝めない広がり。
良い天気だね、というゲンの言葉にニッキーは肯く。
「ねぇゲン。リリアンの居た宇宙ステーションってどんな感じだったのかな」
「今度千空ちゃんに聞いてごらんよ、きっと嬉々として語ってくれるんじゃない? そこまで聞いてないからもう止めてってくらい延々と」
「あー、なんか想像つくかも……」
残された歌を口ずさむ。どんなに心の中にありありと浮かぼうと、彼女の喉からは歌姫の声は響かない。
「きっと今夜は星がよく見えるよ」
「そうだね。きっと、よく見える」
星空の彼方に歌姫は居ない。
それでも自分たちは今夜、星空に歌姫を見るのだろう。
【初出2020.6.24】
利己主義者のささやかな献身
たまに、君を空恐ろしく感じるよ。
羽京からその言葉を投げかけられたのは、普段通り元司帝国民や村人たちの間をペラペラ喋りながら渡り歩いている時だった。
「なぁに羽京ちゃん、俺に見透かされたくない事でもあるの? お望みなら丸裸にしてあげちゃうよ~?」
「はは、それが冗談でなく出来ちゃうから怖いんだよなぁ……それも恐ろしいけど、僕が言いたいのはそうじゃなくってさ」
「うん?」
「ゲンのその献身が、たまに空恐ろしいなぁって思ってね」
「……、はぁ?」
何言ってんのこの人、と露骨に顔を歪めるゲンを見て羽京が笑う。
「だって、さっきまでの色んな人とのやりとりって不満の早期発見と対処の為でしょ?」
作業を手伝いながら、つぶさに人を見、会話し、その場で小さな不満の芽を摘み取る。あるいは報告し対処できる人間や方法、道具をあてがう。自分の事をやりながら、先回りして集団がまとまるように。
それが献身でないなら何なのさ、と笑う羽京は、
「いつか身を挺して殉死するんじゃないか、なんて馬鹿な心配が浮かぶくらいにね。時折、見えるんだよ」
そんな有り得ないことを、言ってのけた。
「……、いや羽京ちゃん、心外。それゴイスー心外なんだけど!?」
ウソでしょ羽京ちゃん!? とオーバーリアクションの手振りを加えてゲンはその言葉を否定する。
「俺ジーマーで自分が大事だからね!? てかモヤシの俺が何をどうやって千空ちゃん庇うの、俺が反応する前にコハクちゃんや大樹ちゃんや動ける皆が先に何やかやするに決まってんじゃん!」
「あれ、論点そこなの?」
「ごめん違う、あのねぇ、なぁんか根本から誤解されてそうなんだけど、俺そこまで身を差し出してないからね?」
まぁ身代わりで死にかけたことはあるけど俺の意思で代わったわけじゃないしねぇ、などとゲンは嘯く。痛いのも辛いのも苦しいのも御免だ、死ぬ気だってサラサラ無い。それが例え千空の為であっても。
「死なない為の危ない橋ならいくらだって渡ってあげてもいいけどねぇ、死ぬような真似するわけないでしょー俺なんかが」
だって生きる為に足掻く背中へついていってるのだ、死んでる暇なんかあるわけがない。
「俺は世界の未来じゃなくって俺の未来の為に文明取り戻して貰いたいわけよ~、つーまーりー! これは俺の俺による俺の為の千空ちゃんのお手伝いなわけで、献身なんてそんなもんじゃ~ないの」
ああヤダヤダ、と手をぱたぱた振りながら、心底嫌そうな顔をゲンは羽京へ見せる。その演技染みた顔へ羽京が苦笑を返せば、ゲンはあっさりとそのわざとらしい顔つきを捨て去った。
「気にしてくれてありがとね、羽京ちゃん」
「まったくの見当違いだったみたいだけどね?」
「んーん、気にかけて貰えるってだけで嬉しいもんよ~、そういうのは」
それにしても、とゲンは首を傾げる。
「そんな風に見えんの? 俺」
「尽くしてるなぁ、とは」
「まぁそりゃー惜しみなく協力してる自覚はあるけどねぇ」
そうか、まぁそうとも見えるのかねえ、などとゲンはぼやき。
「いや、でも千空ちゃん残して死ぬわけいかないでしょ」
ぽろりと零した自分の言葉に、はたと固まった。
「……うん? 俺いま何言った?」
「えっ、ゲンまさか素で言ったの、今の」
「待って待って待ってえーっとぉ? つまりぃ……?」
意外そうな顔をする羽京をろくに見もせず、焦った様子でゲンは今し方己が口走った言葉を思い返す。
――残して、死ぬわけには、いかない。
それは、傍らに常に居たい、守りたいという欲求とも少し違う気がした。ないとは言わない、けれど、意図からはズレていると感じてならない。なら何だ?
――残して、死ぬわけには、いかない。
じゃあ逆ならば良いのか? 残されて、死なれるならば、それは。残される? 千空ちゃんに? いやいや、彼には何としても長生きして……
(……、あっ)
ほんの一瞬だけ脳裏を掠めた、どこかの年老いた誰かの往生の姿。その傍らに侍るのは。
「看取りたい……?」
ぼそりとしたその呟きに、
「……怖っ」
「重っ!?」
聞いた側も言った側も、揃ってドン引きして顔を青ざめさせた。
「うわぁ……けっこうなこと言ったね、ゲン……」
「うっそでしょ、えっ、うっそぉ……えー? そりゃ長生きしてもらわなきゃ困るけど……」
「ああ、しかもそういう……ゲン」
「な、何でしょう羽京ちゃん……?」
「ただ身を挺するよりも大概だね」
「……聞かなかったことにしてくれない?」
「わかった、君は何も言ってない」
ははは、と乾いた笑い声を上げてから、揃って二人は溜め息を吐いた。
「なんか疲れちゃった、顔洗って頭冷やしてくるね~」
へらりと笑って、手を振って、ゲンはその場から立ち去る。
ああ何という自覚をしてしまったもんだ、と一人になったゲンは川へ向かいながらもう一度溜め息を吐いた。
(……あの夢想は、有り得ない願望みたいなもんだ)
全人類を救おうって彼だ、出来るだけ長生きして願いを叶えて、ついでに幸せにもなってもらいたい。千空は人に慕われる、だからきっと『その時』には出来ているかもしれない家族や友人たちや村の人たちや、そんな皆に囲まれているだろう。そこに俺も居る? 居るかな、居ないかも。ぼんやりと、願いとは反対の未来を思い描く。この方がきっと良い未来だ。
(でももしも、万が一、億が一)
彼が人の輪から外れるような、一人になるような道を最後に進んで、終えようとするならば。
(俺ひとりくらいは、居なくちゃいけない)
その傍らに。ただひとり。他でもなく、俺が。誰も居ないというならば、俺くらいは居なくちゃいけないたろう。
「ハハッ……バイヤー重すぎて自分でもドン引きだよ、コレ」
やめやめ、と虚空に描いた空想を打ち消すようにゲンは腕を払う。
俺は細く長く楽しく人生を歩みたくって、その為には千空ちゃんが欠かせなくて、千空ちゃんに頑張って貰う為にも俺も今頑張らないといけなくって、今の苦労はその布石で。 つらつらと考え、やっぱりこれは別に献身じゃないと思うんだよね、と独りごちる。
それだけ頑張る千空ちゃんには幸せになってもらいたいし、人類大好きな千空ちゃんには人に囲まれた余生と往生が相応しい。その様を見届ける為の手伝いだけが、唯一俺の献身と呼べるのかもしれない。
「はい、考えるのはここまで!」
口に出してから、ばしゃばしゃと辿り着いた川の水で顔を洗う。冷えた水で余計な思考も流されていくようだ。それでいい、それでいい。
「さぁて、何から片付けちゃおっかなぁ」
人の合間を縫って見たもの聞いたもの、起きた問題これから起こるかもしれない問題。誰かさんの真似をして、指を立てて集中し物事の順序を整理する。
よしと小さく呟いて、ゲンは髪の先から顎へ伝う水滴をその指で払って空を見上げた。問題の整理も、自分だけで片付けられるかどうかの仕分けも出来た。あとは少しばかり舌先三寸で誰も彼もを転がすだけだ。
(これだけ頑張ってんだから、またコーラでもねだろうかな。炭酸マシマシのやつ。休憩がてら、千空ちゃんに手ずから作らせてやろ)
安い見返りを思い浮かべて、少し笑う。そうしてゲンは裾を翻し、皆の元へ戻るために踵を返した。
「……、ええと。僕は何も聞いてないけれど、今の話を聞いちゃった人~……」
困ったような笑顔を浮かべながら、羽京はゆっくりと背後を振り返る。木の陰、やけに低い位置から一本の手が掲げられた。
「よりによってご本尊が聞いちゃったかぁ……」
近づき、ひょいと覗き込むと其処には片手で顔を覆い俯いてしゃがみ込む千空の姿があった。物音から誰か居るらしいとは気付いていたが、よもや本人だったとは。
「声かけてよ、千空」
「どのタイミングでかけろってんだよ、初っ端から気まずい話しやがって」
「そっから聞いてたんだ」
あ゛ー……と呻いて髪をかき混ぜながら、千空が立ち上がる。第三者から、途方もない献身をお前は受けているよう見えるんだなんて話をしている所にどう声をかけろと言うのだ、むすりと不機嫌そうな顔で羽京を振り返れば、羽京はゴメンと苦笑した。
「テメェの心配も大概だからな、羽京」
「ああ、どうやらお節介だったみたいだ……って、どこ行くの千空?」
「用事あって探しに来たのにまた居なくなられたからな、ちっと追いかけてくる」
「ところでさ、あれ聞いて何も思わないの? 千空、君は」
三歩進んで、振り返る。今際の際まで傍らに侍るという願望、その願望の向かう先は自分。それに、何を思えって? 穏やかな顔の羽京へ、千空は片頬だけを持ち上げる。
「終生使える人手が最低一人は確保出来た、実におありがてぇ話じゃねえか」
元から離れない限り手放すつもりのないカードだ、今さら何を思うも無い。
「……いいコンビだなぁ、君たちは」
傍で聞くには重たい告白を当然のように受け止めた千空へ、羽京は呆れにも似た感情を持つ。
「あのジョーカーを手にしたのが君で良かったよ、千空。本当に」
「あ゛あ゛? なんだそりゃ」
「何でも無い。ああ、あとゲンならすぐ戻ると思うよ。さっきまで色々聞き込みしていたから、早速動くつもりだろうし」
じゃあ僕ももう行くよ、と羽京は手を上げて立ち去った。その背中を見送ってから、ゆっくりと千空も歩き出す。すぐに戻ると言うならばそのうち行き会うだろう。
(いや、でも千空ちゃん残して死ぬわけいかないでしょ)
リフレインする声。何もかも覆い隠す男の洩らした、手つかずの素の言葉。
(テメェがそういうつもりなら)
引きずってでも連れて行く。この世の果てまで、地獄の果てまで。
道の向こうからやってくる、重たさの欠片もない軽佻浮薄な笑みと呼び声で手を振る男に手を振り返しながら、千空は喉の奥で小さく笑った。
【初出2020.7.10】