title of 目が覚めたのは、まだ空も白んでいないような時間だった。
間もなく夜も明けるだろうが流石にまだ身体を起こすのには早い。二度寝するかと寝返りを打って、視界に入る筈の寝姿がないことに気が付く。視線を動かすと、寝床の上で片膝を立て、そこに頬杖をついてぼんやりとしている姿が見て取れた。
(……色が無ぇな)
自分でも変な感想だとは思うが、そう感じてしまった。表情なく、何処ともない虚空に目を向け、微動だにしない。いやに静かで、色も温度も感じられない様子はさながら置物のようだった。ポーズは違えど、いつか日本史の副読本で見た半跏思惟像をどことなく彷彿とさせる。そんな高尚なもんでもないだろうが。
ぱち、と瞬きした目がこちらに動く。目が合うと彼は顔をこちらへ向け、にっと笑みを浮かべた。
「寝てなよ、まだ鳥も鳴いてない」
色と温度と表情を取り戻した置物は、人に戻っても辺りを憚るような声を出すらしい。他に誰も居ないというのに。
「テメーが言うか、それ」
「だねぇ。いやぁ、なんか目が覚めちゃって」
へらりと笑った男は頬杖を外し、俺へ向き直るように胡坐をかいた。珍しい。肩に乗せただけだった羽織のズレを直しながら、寝たままの俺を見下ろす。見上げ、見返しながら問いかけた。
「夢にでも起こされたか?」
「そうかもね」
「どんな」
「知りたがりだなぁ、千空ちゃんは」
「あ゛あ゛、ご存知の通りにな」
笑い、背を丸めて俺の顔を覗き込み、俺も知りたいや、と小首を傾げる。薄暗い中で白い髪が揺れる。
「どうすれば、そんなにヒトを好きなままでいられるの?」
投げられた問いに、開きかけた口を噤んだ。今ここで好悪ではなく種として多様性が重要だから云々という話をするのが正解だとは、流石の俺でも思わない。見た夢を問い、その返しとして投げられた問いだ。関係があるのだろう。起こされ、寝付けぬまま思いを馳せる程の夢。ヒトを好きままでいられるのか、好きなままで居られなかったのは誰か。夢。現状。キーワード。もしも俺が何も知らないコイツの過去だけで構成されていたとするならお手上げだが、はぐらかすつもりならばコイツはもっと上手くやる。だとすれば、簡単に辿り着ける答えの筈だ。懸案事項の共通項、その最たるもの、者。
「……こういう時は、他の男の事なんか考えてんなよっつーのがセオリーだったか?」
「ッ、……あははははは! 言うねぇ純情少年!」
イチかバチか、辿り着いた人物を脳内に描きながら茶化すようにそう言えば、背を仰け反らせて愉快そうに笑い声を上げた。どうやら合っていたらしい。
「千空ちゃんだって人のこと言えないじゃん。科学に司ちゃんに、どんだけ股かけてんのさ、この浮気者」
けらけらと声を立て、笑い疲れたとばかりにひそやかな吐息を落とす。右膝の上に頬杖をついて、穏やかな顔で俺を見た。
「昔の夢を見たよ。断片。舞台とか、スタジオ収録とか、楽屋、打ち合わせ、まぁ色々な俺の生活の断片。司ちゃんも居た。特番で会っただけだけど。司ちゃんは一人きりのヒトだった」
訥々と語る言い草は普段よりも切れ切れで、いつものような完璧に作り上げられた『あさぎりゲン』はそこに居なかった。うす暗くてよく見えない視界とは裏腹に、中身が透けて見えているかのようだ。
「俺たちはさぁ、他人が居なかったら成り立たないのよ。他人に見せることで、他人に評価されることで出来上がる生き物なの」
不思議な生業だな、と思う。自己評価の基準をすべて他人に委ねるというのは、どういう気持ちなのだろうか。ぽつぽつ零れる言葉を寝転んだまま拾い上げる。
「でもさぁ、頑張って称賛を得るのと、称賛を得る為に頑張るって少し違うでしょう? 俺は前者の方が好きだ。俺の在り方として。でも因果は簡単にひっくり返るものでしょう。だから、人の中にあって、人が居なくちゃどうしようもないくせに、隔たりを置いたの」
飲まれないように。引きずられないように。欲張らないように。縋らないように。利用されないように。技術と対等でない称賛を信じ切って自惚れないように。隔たりを置いたのだと彼が言う。
「そうやって得た孤独は自由の別名だと思ってた」
浅はかだねぇ。吐息のように呟かれた自嘲は、僅かながら震えた響きを持っていた。
「昔に出会った司ちゃんは、さみしい人だった。ひとりきりの人だった。俺を同じだと彼は言って。俺と彼の『ひとり』は同じだったんだろうか、俺は変わったつもりでいたけれど、昔の俺はそもそもどういうものだったかな、とか。夢に出たもんだから、なんか色々とさ、思い出して。……取り留めのない話で悪いね」
「いや。まとまってもない話を聞きたがったのは俺の方だろ」
やさしーねぇ、千空ちゃんは。そう言って、また笑う。いつでも反射のように人を褒める男だな、コイツ。社交辞令でもこの口から出てくると悪い気がしないのは、何かテクニックでもあるんだろうか。
「こんな世界になって改めて思うよ、ひとりじゃあ生きていけないって」
ああ、全く以てその通りだ。身を持ってそれは思い知った。人間は、ひとりきりじゃ生きられない。俺もお前も、誰も。司も。
「千空ちゃん」
君はそのまんまで居ておくれよ、と彼が言った。
「ヒトに簡単に手を伸ばせるヒトのままでいてくれ、ヒトが居なくちゃ生きていけない癖に孤独ぶるような、俺みたいなモノにはならないでおくれね」
なるわけないと、思うけれど。そう付け加えて、小首を傾げる。髪が揺れる。
「……今のテメーだって、そんなモノじゃないだろ」
孤独を望むふりもなく、人に手を伸ばす側の人間だろう。どんなに自分が泥を被ろうと、人が好きな人間だろう。お前は。昔の芸能人あさぎりゲンは知らないが、俺の知るお前は、少なくとも。
「そう? だと良いなぁ」
穏やかな笑みに、いつもの姿を見出す。さっきまで透けていたものが不透明度を増す。僅かに握られた手がそっと退かれる。……あ゛あ゛、そういう事か。
(お前は今でも、自分からは手を伸ばせても、他人から伸びる手には怖じ気づくのか)
それでも孤独を望むふりはもうしないというのなら、俺のこんな戯れも構わないよな?
「ゲン」
「ん? っと、うわっ」
いつもなら袖の中に隠されてしまう手も、今ならば手が届く。寝床から伸び上がり、腕を掴んで引っ張った。不意を打ったからか、抵抗もなく彼の身体は俺の方へ倒れ込み、俺はそのまま抱きとめて寝転がる。
「えっ、何コレちょっと千空ちゃん」
「手ぇ伸ばす人間で居ろっつったのテメーだろ」
「いや、言ったけど」
「俺は必要なら引っ込めて隠された手だって掴むぞ」
掴んだ腕を放し、腕を伝って掌まで移動させ、冷え切った指を絡めるように握りしめる。
「伸ばされた手は掴む。伸びてこなくても掴む。テメーの手は、掴む」
ひとりきりだったあさぎりゲンは、もう居ない。
「もう少し寝ようぜ、この睡眠時間で作業はちとキツいぞ」
「このまま?」
「いや、フツーにそっち行け。狭い」
「えっ、やだ」
「……しょうがねぇな」
「ラッキー、言ってみるもんだね」
お邪魔しまーす、と弾んだ声で言いながらスルリと布団の中に入り込む。身体が冷たい。どんだけ起きていたのかと今更ながら気になった。
「千空ちゃんと朝チュンだ~」
「何だ、そりゃ」
「スラングだと思っておいて。そう言えば昔うちの近所によく燕が来ててさ、朝に雀じゃなくて燕の声で起こされることもあったなぁ……けっこう賑やかだった」
「ふぅん」
「燕、石になっちゃったからそれも今は聞こえないけどね。あーあと折角だからカッコウに起こされてみたい」
「湖畔じゃねえけどな、此処。あとあれ渡り鳥だから今の時期には居ねえぞ」
「ジーマーで?」
「春から初夏に渡ってくる鳥だ、鳴き声が聞こえてくるようならとっくに……」
「そっか。……春も、近いねぇ。千空ちゃん」
「……あ゛あ゛」
布団の熱を、あるいは俺の熱を奪って、ゲンの冷えた身体が温まっていく。腕が伸びてくる。抵抗せず、抱き寄せられる。
「あったかいなぁ」
「そうかよ」
「うん。人のぬくもりって良いよねぇ」
安堵のような吐息の後、小さく欠伸をするのを見て、俺もつられて欠伸が出た。漏れるような笑い声が聞こえる。
「おやすみ、千空ちゃん」
「おやすみ」
額を寄せ合ってそっと目を閉じた。
次に目が覚めた時に聞こえてきたのは雀ではなくキジバトの鳴き声で、平和で良いねぇと寝癖頭のゲンは笑っていた。