Twitterまとめ5告白「お付き合いを前提に結婚してください」
「ベッタベタなジョークだな、オイ」
疲労困憊を体現した顔で研究室にやってきた売れっ子芸能人は、がっしと俺の両肩を掴んで開口一番にそう告げた。
「いや、間違ってない」
「あ゛?」
「お付き合いを前提に結婚してください」
「……ちーっと待て、理解し難い」
ひとまず座れ、と掴まれていた腕を掴み直して来客用ソファへ引きずっていく。ちなみに他の職員は興味深そうにこちらの様子を窺っている……なんてこともなく、また二人で何か言い合ってるわ、くらいの無関心さで仕事を続けている。まったく良く出来た職員たちだ。
「で?」
「ん?」
「お付き合いを前提に? 結婚してください? なんだそりゃ」
「千空ちゃんに初々しいお付き合い的な楽しみを最初から求めてもリームーだろなって思ったから、とりあえず結婚ていう形をとってからゆくゆくはそういう事も出来る仲になりたいな、と」
「思考フルスロットルですっ飛ばし過ぎだろ、つーか何か? テメー俺に惚れてんのか?」
「わりと」
「わりと」
「いいじゃん、どうせ誰のことも欲しい訳じゃないし予定もないんなら俺に頂戴よ」
そんな『そのペン使わないなら頂戴』くらいの気軽さで他人の籍を強請るんじゃねえ。なんだ、何が目的だ? コイツがただ血迷った事を言い出すものか? 別の理由があるんじゃねえのか?
探るように見つめれば、ファンデーションで誤魔化した隈のある顔が同じように見返してくる。じっと暫く観察しても、何にも分かる気がしねえ。
「俺は千空ちゃんと今以上に、昔みたいに四六時中顔を合わせられる口実が欲しいのよ、ぶっちゃけたところ。ただ、お付き合いってだけじゃ千空ちゃん何もメリットないじゃん? それなら結婚のがいいかなと」
「メリット……あるか?」
「まず見合い話がなくなる。それから千空ちゃんの生活の世話する……って出来る程には俺も暇じゃないけど、手伝いの手が増える」
「そんだけか?」
確かにたまに持ってこられる見合い話は面倒くさいことこの上ないが、だからと言ってそれが無くなることが大きく魅力的なメリットになるとまでは思わない。生活の世話も同様だ。
首を傾げる俺へ、ゲンはニィと笑うと。
「それから、俺のことを囲い込める」
ぬけぬけと、そう言ってのけた。
「今は優先できてない千空ちゃんからの相談事も厄介事も、『伴侶』っていう肩書きをかさに着て、優先してくれって言う権利を持てるよ」
「テメーのメリットは?」
「千空ちゃんに頼られて甘えられてゴイスーしあわせ♪」
「付き合うことが前提っつったな、そこが不履行になる場合は離婚か?」
「ん~……どうしよっかな。まぁいいよ、千空ちゃんが言い出さない限り離婚はしない」
はぁ、とクソでかいため息が口から出る。ああ、そうかよ。
「分かった」
「え」
「してやるよ。オツキアイを前提とした結婚っつーやつをよ」
「ジーマーで? やったね、じゃあ記入よろ」
「準備周到だな、流石だわ」
「いえーい、褒められちゃった~」
渡された書類にさくっと書き込み、渡し返す。ありがとー、と笑みを浮かべたゲンは役所に出してくるねと出て行った。
「……、えっ? 先生、これガチのやつですか?」
「みてーだな」
結婚するなら一緒に暮らすんだろう。近々ウチに越してくるのか、それとも新居を探すのか。いずれにせよ部屋の片付けが必要だな、と、流石に大騒ぎを始めた職員たちを他人事に眺めながらそんなことを考えた。
「本当の所、何が決定打だったの?」
ワイドショーがあさぎりゲン結婚のニュースで盛り上がっているのを見ながら出た電話の向こう側で、おめでとうと告げながらも年上の昔馴染みは問いかけた。彼はあの男から婚姻届提出すぐに報告を受けていたのだそうだ。
「あー……」
コイツにはバレているらしい、メリット云々から頷いたわけじゃないのだと。さすがは羽京先生、洞察力担当は伊達じゃねえな。
「……、疲れてたんだ」
「は? ……えっ、まさか千空、疲れて面倒くさいからゲンの申し出受け入れたとか言わないよね? もしそうなら流石の僕も怒るよ?」
「俺じゃねえ。ゲンの方だ」
疲労困憊を体現している癖に目ばかり強いあの顔を脳裏に浮かべる。ギラギラとした視線は芸能界を渡る人間らしいものだとは思うが。
「俺はワーカホリックだ」
「自覚あるんだ」
「おう。で、だ。あのメンタリストも結構ワーカホリックだろ?」
「あー……そうかもね、確かに」
「……俺に意識向けとかねーとコイツ際限なく仕事するんじゃねえか、って」
あの男はエンターテイナーとしての生き方を、マジシャンという仕事を骨の髄まで愛している奴だ。そしてメンタリストとして得た知識を使った交渉人としての手腕も買われ、そっちの仕事も舞い込んでくる。どっちの仕事も好きなのだろう、何だかんだ楽しげに忙しく働いている。
「あれじゃ、今に使い潰される。それは違うだろ」
便利なのは、良く分かる。だが。
「──アレを使い潰していいのは、俺だけだ」
使い潰すかもしれない無理を強請って、仕方ないなと許容されてもいいのは俺だけだろ、どこぞのプロデューサーやお偉方じゃねえ。
「……、うわぁ」
ドン引きした呟きが電話の向こうから漏れ聞こえた。何でだよ。
「アイツが自分で囲い込めっつったんだから良いじゃねえか」
「あはは、君たちが良いなら良いんだけどね……」
「……別に、だからって使い潰してやろうなんざ思ってねーからな」
「分かってるよ。そうならないように適度にドイヒー作業をねだったり労ったりして仕事セーブさせたいってことでしょ?」
「……、まあ」
「お付き合いを前提に結婚してください、だっけ? 前提も何も、君らその辺で付き合ってるカップルよりも余程の距離感なのにねえ」
「うるせー」
そのうち祝いを持っていくよ、と言って電話は切れた。テレビでは記者会見をしているゲンが写っている。やけに晴れやかで、穏やかに落ち着いた顔。昨日の顔とは雲泥の差だ。お相手の『一般人』との適度に捏造したエピソードを披露しているのを眺めながら、込み上げてくる笑いを押し殺す。
初手からその捏造した記憶に合わせて恋人めいた真似をしてみようか、きっと慌てふためく事だろう。
(そういやまだ付き合ってもいなかった、って言われて気付いたっつったらどんな顔すんだろうな)
羽京へ伝えたのは嘘ではない、だが言ってないこともある。
「……俺も、口実貰えんのはおありがてえんだわ」
復興前みたく四六時中お前と共に居られるのなら、結婚くらい幾らでもしてやるわ。
しあわせで~す♪ と画面に映されたアホ面を眺めながら俺は、今夜は此処に帰宅しろとメッセージを送信した。
Junkie 忙しかった。
そりゃもうあっちこっち引っ張りだこで、マジック見せればキラキラした顔で驚き喜ばれ得も言われぬ満足感に浸り、交渉事に呼ばれれば丁々発止のやりとりに血湧き肉躍りすべて丸め込んだ時の達成感に浸り、上の名前を出されてどうしても断り切れず案件を捻じ込まれたと嘆くジャーマネに全部まとめて捌いてたげるから任せろと見得気ってみたり、仲の良い面々が巻き込まれた厄介事に首を突っ込んでみたり、まあ色んな仕事を千切っては投げ千切っては投げ……とやって、ふと、収録後の楽屋で気が付いた。
「……、疲れたな?」
気付いたらもうダメだった、やっちゃったなぁ~って思いながら変更できる予定をすべて適当な理由つけてリスケする。
駄目だ、俺の器がデカいばかりに無理がきいてしまうこの現状はよろしくない。あの極限状態の世界で生き抜いて、自分のキャパ以上の事をひたすら続けてきたからだろうか、ちょっと基準が馬鹿になってる。
「……だって、こなせちゃうんだよね~」
そのたったひとつのことで手一杯になるようなドイヒーな案件を『テメーなら出来んだろ?』って平気で投げてくる誰かさんと違って、これくらいならギリ並行して出来るかな~って仕事ばかりだし。
「……、ヤバいな」
倒語も出ない。こんなのワーカホリックどころかジャンキーだ。回し車を走らすハツカネズミじゃあるまいし、そんなに働いてどうすんのよ?
でも足りない、やりたい仕事も期待される仕事も敢えて利用されてやってる仕事も、どれもこれもまとめて捌いてやっと足りるんだ。
(それでも君とバカみたいな難題に挑んでた頃の、達成感には、まだ)
……、あっ。
「最近千空ちゃんの顔見てない!」
あっちが忙しくなって会う機会減った頃から俺も忙しくなって……いや違う、千空ちゃんに割くリソース減った分を仕事に回して忙しく『した』んだ。それじゃ何か、この忙しさってつまるところ千空ちゃんが居ない所為?
その結論に辿り着いた瞬間、俺はゲラゲラと笑い声を上げた。ああ、こんなに笑うのどれくらいぶりだろう!
バカだね、すっかりと作り変えられてしまっただなんて。俺もう君なしじゃマトモに生きるのも難しいらしいや。
どんな関係なら君は俺を遠慮なく使うだろうか。ビジネスパートナー? 顧問アドバイザー? ああ、もう考えるのも面倒くさい!
「あさぎりさん、笑い声廊下まで聞こえてますけど!?」
「メンゴ、メンゴ! ちょっと俺、千空ちゃんとこまで出掛けてくるね! 20時の収録は直接スタジオ向かうから!」
「あ、はい。博士から呼び出しでも貰いました?」
「ううん、ちょっとプロポーズしてくる!」
「……はぁ!?」
俺の人生押し付けるなら、これが一番手っ取り早いな。それに身近に俺を置く便利さを千空ちゃんは十二分に理解してるだろうから、ホントに結婚するのは無理でも半同居くらいは持ち込める筈。
考えたらワクワクしてきた、俺とした事がこんな簡単なことにも気付かなかっただなんて!
「振り落とされそうな馬を乗りこなしてナンボだよねぇ~!」
そうだ、どうせならベタなジョークでもかまそうかな。お付き合いを前提に結婚してください、って。……ああ、いいなそれ。お付き合い。千空ちゃんの隣なら、俺はきっとこの忙しさを求める気持ちを捨ててやっとゆっくり出来る気がする。君が穏やかな生活を得たんだと思えたなら、きっと俺も。
にやける顔をフルフェイスヘルメットで隠して俺は、まずは役所だと大型バイクを発進させた。
どいつもこいつもろくでもない 彼が言う。
「誰かの自己犠牲に頼って救われるなんて、まっぴらだよ」
僕は君にもそう言いたい。
「ホントに、ね」
気持ちを込めて、返した。
あたたかな眠りを「あったかくして寝るんだよ」
じゃあ、おやすみ。司ちゃん。
そう言ってゲンは灯りがまだついているラボへと去っていった。科学少年たちを寝所に追いやるお仕事が俺にはまだ残ってんのよ、と笑いながら。
その後ろ姿を見送って、自分も寝床へと向かう。今夜はスイカと一緒に寝るんだと未来が嬉しそうに話していたから、今夜はひとり静かに眠ることになりそうだ。横たわり、毛布に包まり、身体を丸め、そっと目を閉じた。
そうして、ゆったりと眠りに沈んだ筈であったのに。ふと、何時かも分からない夜更けに、薄ら寒いものを感じて目が覚めた。
何だろう。何故だろう。そんなに気温が低い訳でもない筈なのに。
(──寒々しい眠りは、すこし、)
あの日、俺の命を止めさせた冷たい箱の中を思い出させる。
寝返りを打って、身を守るように身体を丸め、もう一度眠りに沈み込もうと努め……溜め息と共に目を開いた。何だか、腹の底から薄ら寒い心持ちがして眠れない。それでも、身体を休めなければこの過酷な環境で暮らしていくのは──
(あったかくして寝るんだよ)
耳の奥で、まるで囁かれたかのようにゲンの言葉が甦った。あったかくして、寝るんだよ。……ああ、うん、そうか。そうだね。
無理をする必要はない。耐える意味などない。寒いなら、ただ、暖かくして眠ればいい。何も思い出さないように、ぬくもりの中で眠ればいいのだ。ゲン、君の言うとおりに。
その夜は、余分な毛布が無かったので代わりに少しの筋トレで身体を温めて再度寝転がったところ呆気なく入眠し、朝まで起きることはなかった。
礼と共にゲンへその話をすれば、それは程良く身体を動かしてすっきりしたから眠れただけじゃないの? と笑われてしまったが、その日以降、彼は『おやすみ』の言葉に必ずそのひと言を添えるようになった。
その響きは優しい時もあれば、定型句のようにおざなりに付け加えられる時もある。それでも忘れられずに告げられる面映ゆさは、あの頃だったなら出会えなかったものだろう。
「おやすみ、司ちゃん。あったかくして寝るんだよ~」
今夜も彼はそう告げる。
「ああ、おやすみ。ゲン」
どうか君にも、あたたかな眠りが訪れるように。
無茶すんなって「お馬鹿な子だねえ、千空ちゃんよ」
疲労と寝不足が原因だろう、没頭して書き込んでいた図面から顔を上げた瞬間ふらついて、よろめいた拍子に棚にぶつかり、あわや素焼きの壷が頭めがけて転がり落ちてき……そうなところで、傍にいた男が伸び上がってそれを押さえ込んだ。
丁寧に壷を置き直した彼は片側だけ口角を上げると
「こんなことで見限らせてくれるなよ?」
と、どこか茶化した顔で告げる。
「……仮眠する」
口元ばかりで目の笑わぬ相手へ降伏の印に両手を上げて応えたら、それでよしと眉間の皺を撫でられた。
もう来ない夢 どこへ行くというのだ? 私はここに居るというのに。こんなにも私はその手を握りしめて引き止めているというのに。こんなにも、こんなにも、こんなにも!
(ルリ姉、)
私のことが心配だろう? こんな困った妹のことは放っておけないだろう? ねえ、そうだろう、だから、
(お願いだ)
私を置いて行かないで。
「……ッ!?」
「どわぁ!? 何!?」
「……え?」
「あー、びっくりした……どしたの、寝惚けちゃってた? コハクちゃん」
「……ゲン?」
何も掴めなかった筈の両手が、近くに居た追いかけたかった人には似ても似つかないひょろひょろの男の腰を掴んでいた。
「……そ、そうみたいだな。すまない!」
慌てて手を離す。痛くなかったか? と聞けば、驚いただけだよ、とへらりと笑う。軽薄な顔に、少しだけ気が抜けた。
そうだ、稽古のあとにこの男の作業物資の追加を持ってきて、そのまま少し横になったんだった。出来上がった物の数を見る限り、そう時間は立っていないようだ。
「どんな夢だった?」
ちょっと休憩~、などと言ってゲンは私に向き直る。
「言葉にして整理できるものもあるよ」
まだ口つけてないから、と冷めた湯のみを私に差し出して、彼はそう言った。一口飲んでから、喉がカラカラだったと気付いた。
「……そうだな、」
口に出すのは、少しこわい。だが、この男はメンタリストというものらしい。言葉と気持ちの扱い方の専門家みたいなものと思えば良いと、いつだか千空が言っていた。
だから、私は答えた。
「ルリ姉が、行ってしまったんだ。私を置いて」
もう消えた未来の夢を見たのだ、と。
「千空が来てルリ姉はもう救われた。回復した。あの未来はもう来ない。私たちはもう幸せをひとつ手に入れた」
分かっているのに。
「……それでも時折、もう考える必要がないあの頃の不安を夢に見るんだ」
「そっか」
私の吐露に、ゲンは相槌を打ち、まるで私を慈しむような穏やかな目を向けた。――似たものを見たことがある、父の中に、姉の中に。
「それだけコハクちゃんは必死にルリちゃんを助けようとしていたんだから、身体と心が追い付かなくてもしょうがないよ」
「そ……うなの、か?」
「うんうん、きっとそう。張り詰めすぎて余裕もなくて、やっと落ち着いたとはいえまだ別の問題もあって。人の身体と心はさぁ、強いし弱いのよ。コハクちゃんは強いけれど、弱い時があってもいいよ」
だから不安だったと泣いてもいいんだ、と彼は言った。口に出すのは怖かった、その不安が消えた今ならもう口にしてもいいのだと。そう言った。
「……った」
「うん」
怖かった。そう認めて口にしたら、震えて涙が溢れてきた。
「怖かっ、た、んだ……いつまで頑張ってくれるのか、私が悪い妹でいれば、きっと姉上は心配で死ねないだろう、って……それでも……!」
「うん」
「いつルリ姉が居なくなるのか、毎日毎日、怖くて仕方なかった!」
「うん」
「もう、もう居なくならない、治ったんだ、ルリ姉は、もう……」
「よかったねぇ」
「ああ、よかった……よかった! もう怯えなくていい日が来て、よかった……」
「怖かったね」
「怖かった、怖かったんだ……」
「もう怖くないよ、これからコハクちゃんは皆で幸せになることを考えてもいいんだよ」
「ああ」
「よかったねえ」
「うん……!」
泣き崩れる私の背をゲンが撫でる。大きく暖かな手。父やジャスパーみたいな大きさの手が、記憶の中の母やターコイズみたいな優しさで触れてくる。それが余計に安心できて、涙はもっと溢れてきた。
一度吐き出したからか、泣き止んだあとは随分とスッキリした気分になっていた。
「どう?」
「もう大丈夫だ。ありがとう、ゲン」
何処からともなく(まぁ袖からだろうが)布を取り出して私の濡れた顔を彼が拭う。甲斐甲斐しいな、と思って少し笑う。
「私には姉が居れば十分だが」
「ん?」
「兄が居たら君みたいだったんだろうか」
「さあ? ていうか兄の見本なら金狼ちゃんが居るじゃない」
「あれは兄ではなくて『銀狼の兄』だ」
「あ~……それはちょっと分かる」
そう会話して、二人で顔を見合わせて笑う。本当にこの男たちは、こういう顔も出来る癖にどうして普段は悪ぶった顔ばかりするのだろうか。
「もう少しここで寝ていていいか?」
「もちろん。悪い夢を見たら何度でも起こしてあげるよ」
「いや、きっともう見ないさ」
「……そう」
寝転がり、目を閉じる。おやすみ、と穏やかな低音が耳にするりと入り込む。
願わくば次は、ルリ姉と皆と、それから君や千空が共に居る夢でありますように。
かちかち(dcstホラー)
音がするのだ。
かちかち、と。小さな音だけれど、確かに、かちかちと音がするのだ。
固い何かを打ち合わせるような、けれど少しくぐもっても聞こえるような、そんな音が、かちかちと。
ぐるりと見回して音の在処を探してみる。ボヤボヤ病の俺は物を探すのが下手だから上手く見つかるのかも分からないが、しかし気になるものは仕方がない。それにもし危険なものの予徴であるなら村の皆へ伝えねばならない。村を守るのは門番の仕事だ。
かちかちかちかち。かちかちかちかち、かちかちかちかち。かちかちかちかち。かちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかち。
(──、アッ)
かちかちかちかち、かちかちかち。その音は、思っていたより近くで響いていた。かちかちかちかちかちかちかちかち、近くの草陰から、響いていた。
痩せた男が座っている。村で見たこともない男だ。がりがりの、いつか昔に見た病で死ぬ前の老人みたいに痩せた男が膝を抱え、小さく小さく座り、どこを見ているとも分からない不自然なほどに大きくギョロついた目でじぃっと見つめ、かちかちと、歯を噛み鳴らしていた。かちかちと、かちかちと、かちかち、かちかちかちかち、かちかちかちかち、かちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかち、かち。
ふと、口を結んだ男の目が、どことも見ていなかった男の目が、ぎょろりと意思を持って動き、俺を見た。
(しまった!)
普段はぼやけてまともに見えない距離なのに、そいつのことは何故かはっきりと見えている。しっかりと目が合ってしまったその謎の男は、じいっと俺を見つめながら、ゆっくりと口を開く、その真っ黒い口の中にはびっしりと
「あ~! やぁっと見つけた~! 一緒に行こうって話してたのにヒドいよ~!」
離れた所から聞こえてきた呑気な声に思わず振り返り、我に返る。すぐに視線を戻したがそこにはもう何も居なかった。
「金狼? どうかした?」
「いや今、妙なモノが……」
「何か見間違えたんじゃないの~? 金狼、ボヤボヤ病だし」
「……そうかもな」
そういう事に、しよう。
「行くか、銀狼」
「はーい。……ん? ねえ、何か音しない?」
「しない。行くぞ」
「ちょっと!? 速いよ金狼! 待ってよ~!」
かちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかち、かち…………チッ。
寒い日 耳に鼻、指先を赤くしながら、寒いもんだねと笑って吐き出された息の白さに、嗚呼この男の中身は熱を帯びている、生きている人間なのだと何故か改めて思い知らされる心持ちになった。
「──ありゃ、初雪だ」
見上げれば、ちらほらと結晶が落ちてくる。冷える。冷やされる。身体が。身の内から。
(それでも、凍り付いて眠るには足りない程度の、寒さだ)
「……寒ィ」
それを感じられるくらいには、俺たちはまだ熱を持って生きている。
白い息を吐く。同じように獅子が白い息を吐いて雪の地に立つ姿を、果たして俺は見るのだろうか。
聖夜 毎年この日は忙しい、何せ稼ぎ時なもんで。
いつもならば会場から近ければホテルなんて何処でもいいと言っているけれど、この日だけは、俺はその時に泊まれるホテルの中で一番街を見下ろせる部屋をとっている。街の灯りがよく見えるように。
復興してから、君にとってそれなりに意味を持つこのイベント日を一緒に過ごせた例しがない。君はそれを良しとする。
けれど俺にとっても今日はそれなりに意味を持つ日なので、俺はこうして、あの日に君が再び見せてくれた科学の灯りを思い出しながら、街が光を取り戻した姿を眺め。
「おっつ~、千空ちゃん。メリークリスマス!」
今日という日に、世界の為の君が僅かの間だけでも俺だけを考えて他愛ない会話をする贅沢を噛みしめているのだ。
鬼が笑おうとも「動物園とか水族館もいつか復活するのかねぇ?」
雪道をさくさく踏みしめながら隣を歩く男が、不意にそんなことを口にした。
「あ゛?」
「ほら、そこにウサギの足跡。ノウサギなんか見たことも無かったのに随分見慣れたよなって思って、そこからの連想」
指し示された先には確かに特徴的な足跡がある。あとで村の狩猟班に伝えておこう。
「博物資料やら文化関連は後回しにされるだろうが、いずれは復活すんだろうな」
「そっか~……」
「んだよ」
「いやぁ? 俺きっとその時にはカワイイ~とかじゃなくてコレ食べられるかな美味しいかな、って視点で見るんだろうなって」
しみじみと呟かれ、思わず噴き出して笑う。
「ククク……テメー、それライオンとかゴリラ見ても思うのかよ?」
「そっちはうちのバトルチームのうち誰なら勝てるかなーって戦略立て始めるだろうね!」
「ギャハハハハ!」
大昔に見に行った小さな動物園を思い出す。その動物園の檻の前で真剣な顔でどう戦おうか考えて眺めているメンタリストを想像して、笑いが止まらなくなった。
「司、コハク、氷月はタイマンでいけんだろ?」
「あとマグマちゃんとか金狼ちゃんもいけるっしょ」
ああだこうだと詮無いことを語りながら、雪深い道をゆっくり歩く。どうでもいい話、何の役にも立たない話、記憶に残るかも分からないような大して意味もない話。
「くっだらねぇー」
「ねー、ほんとに」
ただただ、楽しいだけの、会話。
「先の話をすると鬼に笑われるんだっけ?」
「あ゛ー? 鬼だろうと蛇だろうと勝手に笑わせておきゃいいだろ」
「そうね、俺ら先のことばかり目指して生きてんもんねえ」
鼻やら頬やらを赤くした男はへらりと笑っている。そうだ、俺たちは誰に笑われようと未来を話して生きるのだ。きっとこんな風に無意味な話を、コイツや皆と笑いながら。
「あー、寒ッ! 早く皆んとこ戻ろ、千空ちゃん」
「あ゛あ゛」
ニヤける顔をマフラーで隠しながら、足を速めたゲンに続いた。
One count あ、転ぶ。
思った瞬間に俺の身体は、今まさに転びかけている千空ちゃんの前に飛び出していた。
「あ゛!?」
「ッ、おあァ!?」
庇うように飛び出してきた俺に千空ちゃんの驚く声が響く。これできちんと受け止めていたら百点満点だったんだけど、俺は俺で千空ちゃんが落とした書き損じた設計図をうっかり踏んで足を滑らせ、間抜けな悲鳴を上げる羽目となり。
かくして、自分と千空ちゃん二人分の体重を支えることが出来なかったモヤシは成るべくして成ったと言わんばかりに地面に引っくり返ってしまったのだった。
──ここまでだったら、何やってんだか、流石モヤシとミジンコだとか、打ちつけたケツが意外と痛いなんて話題を提供して笑い話に出来たのに。
「怪我してない? 千く」
「おい大丈夫か、メンタリ」
同時にそんなことを言って、俺は慌てて上体を起こし、彼も焦りながら身体を起こして俺を覗きこみ、そして。
ふに、と、柔らかな体温が俺の商売道具に触れた。
至近距離すぎる触れ合いに一瞬思考が停止する。いや、考えるまでもないでしょ。千空ちゃんとキスしてる、いわゆる事故チュー。
俺としては問題ない、気恥ずかしいとは思っても捻じ伏せて気にしてないよと笑って誤魔化せる。何ならラッキー! とも思ってる。でも千空ちゃんの方はどうだ、事故とはいえ野郎とキス。悪態ついて終わりになるならいいけど、ガチ凹みさせるのは忍びない。そりゃ憎からず思われてんのは分かってるけど、それがこういう事も含まれてるのかまでは知らないし。
というかいつまでも固まってるわけにはいかない。オーバーリアクションで勢い良く離れるのと、なんてことない風にそっと離れるのと、どっちがショックを与えないだろうか。そんな二択を思い浮かべたところで、ぎこちない動きで千空ちゃんが離れていった。
「……悪ィ」
ぼそりと呟く千空ちゃんの顔は真っ赤だった。真っ青でも真っ白でもなく。
「……ノ」
「の?」
「ノーカンで!」
「あ゛あ゛!?」
「今のは数に入りません! 歯が当たらなかっただけマシの、ただのエラー!」
そんな顔しないでくれよ、そんな恥ずかしいとか悔しいとか丸わかりの表情しちゃってさぁ。情緒の欠片もないって揶揄されても、流石にこんなのを最初の思い出にはしたくないよね。
「ノーカン……」
「イエス!」
「んなに嫌だったのか? ……や、違え、今のナシ!」
「全っ然イヤじゃないけど、コレが初めてっていうのはやっぱり勿体ないなぁ~ってね」
君なりのペースで進めたかっただろうけどね、もう起こっちゃったから仕方ない。
「……今なら数え直せるけど?」
俺の言葉に千空ちゃんは唇を引き結ぶ。俺は笑って目を閉じて、脳内のカウンターが0000から0001に変わる瞬間を待ち侘びた。
(peci様イラスト作品に寄せて)
要らない煙草(羽京さん夢風味) 換気扇を回す。何かゴミでもくっついているのか、一定間隔でノイズが混じる。掃除しなきゃ駄目かな、なんて思いながら回る羽根を眺めている。
室内の蛍光灯は薄っぺらに白くて、生活感溢れる部屋を照らし出す。ああ、隊服にアイロンをあてなければ。
ポケットから、さっき買ってきたばかりの煙草を取り出して台所へ放り投げる。ライターはどこにあったかな、無ければ別段ガスコンロで構わないが。火さえつけば何でも良いのだ。そう思いはしたが、二つ目の引き出しでライターは発見できた。以前、先輩に借りてそのまま返しそびれた百円ライター。
適当にフィルムを破り、煙草を取り出して、火を着ける。仕事だとか、人だとか、聞こえてくる音だとか、何を起因とするかもあやふやな遣る瀬なさだとか、つらつら考えてしまいそうなあれこれを噛みしめて苦い煙を肺に入れる。そうして噛みしめたものを混ぜこんで、混ぜこんで、換気扇の回る羽根を目掛けて吐き出せば、その煙はやがて空気中にとけていつか雨雲に混ざり海へと戻っていく……のかも、しれない。マネーロンダリングよろしく、きれいになって僕の沈む海へと戻ってくればいい。
(煙草吸うんだ? なんか意外~)
(うん。たまぁにしか吸わないけどね)
(口寂しいのなら煙草じゃなくて良いと思うけどな)
そう、たまにしか必要ない。けれどたまに、どうしても必要になる。いつでも中途半端に残って湿気させるだけだから確かに煙草じゃなくても良いのかもしれないけれど、いまだ代替品には出会えていないのだから仕方ない。そうだ、そういえば机の中にあるやつまだ捨ててなかったな。あの時は結構吸ったから、あと二本ってとこまで減らせたのに。
咥え煙草のまま引き出しを漁り、いつ買ったのか忘れた煙草の箱を取り出す。
(なら、次に煙草が欲しくなった時にはよろしくね)
「……ちょっと勿体なかったかな、あと少しだったのに」
ごみ箱に向かって呟きながら、湿気た煙草入りの箱を放り投げる。ゴミ袋に掠れる音に合わせたみたいに、はらりと煙草の灰が落ちた。
冬の夜長と野草茶と 早々に日が落ちる冬の日の夜。灯りの下、床に置いた図面を眺めていれば、
「あらら、まだ悩んでんの?」
そんな声が頭上から降ってくる。振り返れば、毛布に包まって座る俺の背後に立ち、手元の図面を見下ろすメンタリストと目が合った。
「あ゛ー……いや、そっちは片付いた」
「ふぅん? んじゃ、ついでに他の箇所も改良出来そうってんで新たに悩み出したってとこかな」
「……当たりすぎていっそキメェな」
「ドイヒー」
図星を指されてバツが悪い。つい悪態をついたが、ヒドいと言う言葉のわりに口調も表情も平坦だ。急ぎでもない用事ならさっさと休めとでも言われるだろうか、そう僅かに身構えた俺へ、奴は
「まだ起きてんなら飲み物持ってこようか? 休憩すんなら少し付き合うよ」
と、予想とは丸きり逆の台詞を告げた。
「あ゛?」
「ん? どしたの、お茶いらない?」
「要る。……テメーこそ、ちぃっと前までは小煩く休め寝ろって言ってきたのにどうした、宗旨替えか?」
出会って初めの頃、夜を徹して図面を書いたり計算を続ける俺をこの男はひたすら休めと寝かしつけにやってきていた。それは俺だけでなく、興奮して夜通し作業したがるクロムやカセキへも同様だったが。
そうでもしなけりゃ時間がなかったのだ、間に合わないかもしれないと焦れて急いていた。それでもコイツはオーバーワークを続ける非合理性を俺に言い含め、これ以上はヤバいというラインを見極めては小言を食らわせにやってきていたのだ。なのに何故か今、必要に迫られているわけじゃないのに容認された。
「ああ、そりゃね。あの頃は千空ちゃん倒れたら全員共倒れなんだから管理もするよ、どっかの誰かさんは言うことあんまり聞いてくれなかったけど」
まぁ今もその点は変わらない面もあるけども、と彼は言い
「んでも今はさ、寝不足で千空ちゃんが一日使い物にならないくらいならリカバー出来る余裕もできたし? たまの夜更かしくらい好きにすればいいよ」
にっと笑って、お茶を取ってくるからと去っていった。
背を見つめ、その翻る裾が見えなくなってから、両手で顔を覆って項垂れる。
「──クソ」
以前に言われたことがある。没頭したくて寝るのが惜しいんだとしても『今は』休憩は義務だ、と。アイツが自分で言った台詞を忘れるわけはない。つまりこれは、集団を負う人間の義務としての休息よりも、夜更かしという不健康を承知の個人的な余暇をあの男は是としたのだ。
──昔っから宵っ張りだったんだろうねぇ、千空ちゃんって。
──いやぁ、でも流石に楽しかろうとしっかり睡眠は取るべきと思うよ? 俺は。
──でもまぁ、それも復興した~っていうひとつの目安かもね。
──君が何も気にせず、自分の好きなように楽しく夜更かしが出来るようなったなら、きっとそれだけ千空ちゃんの負担が減ったってことだろうからさ。
覚えている。どうでもいい雑談の中身も、すべて。ちゃんとひとつまたひとつと進んでいるのだと示したつもりか?
ああ、甘やかされている、あまりにも分かりやすく。こんな気恥ずかしいことがあるか。
かた、と物音がして振り返る。戻ってきた男の手には湯気が立つカップがふたつ。
「寒いねぇ。はい、謎のお茶」
「なんだそりゃ」
「野草のブレンド茶って聞いたけど中身覚えてないし。でも美味いよ」
へらりと笑って、ゲンは隣に寄ってくる。
「そーかよ」
へらっと笑い返して、カップを受け取りながら温まった毛布を半分譲って招き入れる。
「道の駅とか田舎の高速のサービスエリアとかで売ってそうだよね、〇〇さんちの野草茶とかって名前で」
「じいさんばあさんの顔写真とか、絵手紙風のラベル貼ってあったり?」
「いいじゃん、いつか売ろうか? 石神さんちの野草茶って千空ちゃんの顔写真つけて」
「ヤメロ」
図面のことは明日に回そう。これを飲んで、話が終わったら今夜はもう寝ることとしよう。果たして話が終わるのかまでは分からないが。まぁ、それで夜明けが近くなろうと仕方ない。許したお前が悪い。
夜を徹して仲間と語り合うのが楽しいことなんか、石化前から変わりゃしないのだから。
「どした?」
冬の夜は長い。
「別に」
ああ、夜更かしは、楽しい。
(根矢崎様イラスト作品に寄せて)
掲げよ馨しの葡萄酒よ 月は明るいけれど星も良く見える夜だった。そんな夜に俺たちは、こっそり仕込んでたお酒とひっそり用意してきたツマミを持ち寄って、ふたりきりの酒宴を催した。
酔っ払って、ふわふわした気分で、幼い頃、ワインとは葡萄ジュースとほど近い濃厚な甘さの味をしているのだと思っていた、なんて話を口走る。彼は、テメーみたいなもんにもそんな純粋なコト思うような頃があったんだな、などと辛辣なことを言って笑ってる。
ふわふわとした気分で、うつらうつらしながら、君にだってそういうの何かあったんじゃないの、なんて。ちょっとぼんやりしながら、寄りかかって、くふくふ笑っちゃいながら、問いかけた。
「あ゛あ゛、そうだな」
そういえば、と。
「生まれ年のワインを用意するんだって意気込んでやがったな」
酒気交じりの吐息に笑みを混ぜて、
「結局気に入るもん見つけたのかは、知らねぇが」
夜空とカーマンラインのその先を眺めやりながら、君は言った。
ぱちんと目が覚めた心待ちで、そろりと身を離して覗う。こっちを見ないで、空を見ている君の心情など俺は勝手に推し量ることしか出来ないが。
再び軽く寄りかかって、左手でそっと後ろ頭を撫でて、側頭部を引き寄せる。語られた話は悲しいものなんかじゃなくって、きっとただ思い出されただけの記憶だと分かっているけれど。
「勿体なかったねぇ」
せめて、一緒に惜しませてくれよ。
「……だな」
身動ぎもせずされるがままの彼は俺に同意して、もう一度酒気交じりの吐息と共に笑っていた。
(ベルト様イラスト作品に寄せて)
横顔を知らない 彼は隣に腰掛けて酒を飲み、機嫌良く話している。僕も同じく酒を飲み、機嫌良く笑っている。いつかテレビで見た様子とはまったく違う雰囲気だ。こういう姿を見る度に、やっぱりテレビって虚構なんだなぁなんて、ちょっとばかり思ってしまった。
「そんで、クロムちゃんが千空ちゃんに向かってゴイスーな勢いで走ってきたと思ったらさ、――」
例えば僕らのリーダーのことだとか、仲間たちのことだとか、村の子どもたちのことだとか、そういった事を話している時の彼は実に穏やかで優しい顔をする。良い横顔だな、と僕は目を細める。まるで気の良い性格のただの善いヤツみたいだ。普段の偽悪的な姿を思い出して笑いが込み上げてくる。
「なに~、羽京ちゃんてばご機嫌じゃん?」
「あはは! うん、まぁね」
「ふぅ~ん? まっ、良いことだけどね~! 楽しいのが一番よ」
けらけら笑って僕に寄りかかり、背中をぺしゃりと叩いてくる。ご機嫌なのは君の方でしょ。
「良い席だねぇ」
「そうだね」
そうしてまた一口、酒を飲む。きっとこの宴席に辿り着くまでにあった今までや、こうして居られるようにしてくれた立役者たちのことでも考えているのだろう。
さて、そろそろ彼自身より彼の酒量限界を把握してるらしい我らがリーダーが迎えに来ることだろう。彼が酔いつぶれる前に回収するのを当たり前に自分の役目と思っているようなので。
「良~い夜だ、ねぇ」
盛り上がる人々を見回す。それから、向こうの方で立ち上がりこっちへ歩きだした人物を見つけて、笑みを深める。
二人だけで通じ合ってる相棒みたいな彼らだから、きっと互いにしか知らない顔とかあるんだろう。
「悪ィな、この酔っ払い回収してくわ」
「ええ~? 俺まだ飲み足りないんですけど~?」
「テメーそう言って飲み続けて前回二日酔いで午前中潰したじゃねーか」
「うっ……それ言われると弱い……せめてこの残り飲み終わるまでは!」
「あ゛? どーせチビチビ飲んで時間稼ぎするつもり……って、なんだよ、羽京」
けどきっと、君を考えている時のあの横顔を君だけは知らないんだろうね、千空。
「ううん、君たちの仲が良くって何よりだなって」
楽しくなって笑いながら、半分近く中身が残っていたコップをひょいと取り上げて僕は一気に飲み干した。
「あー!?」
「はい、オシマイ」
「ククク、ほら見ろ、羽京先生も帰れってよ」
腕を引かれ、渋々立ち上がった彼はまた明日と言葉を落として千空と去っていった。酔ってたなぁ、構われたがっちゃって。
友よ、君たちに幸あれ。一口しか残ってないコップを掲げて祈ってから、僕は他の飲み仲間を探しに立ち上がった。
愛と名の付く 石神千空はあさぎりゲンを好いている。
一を伝えれば十を知り、一を伝えずとも五は悟る。悔しさを感じる程に先回りし自分を気づかい、湿っぽさを嫌がる自分に合わせて茶化した逃げ道を用意し、その癖どうにも逃げられないような局面では侍るかの如くに傍らに立つ。
ひとつの道を選んで究めようとするマジシャン、メンタリストとしての矜恃、高い技能、それを会得するまでに積み上げただろう努力。軽薄で軟弱そうな振る舞いで覆い隠されたそれらすべてを、自身の為だと言いながら力を振るい千空へ協力する。
そんな相手を気に入らない訳がない。紛れもなく、嘘偽りなく、あさぎりゲンを好きだと発言しよう。
だが、石神千空はあさぎりゲンを愛している、となると話は別である。
性愛か、と問われたら違うと答える。現時点では、彼とセックスしたいとは思わない。出来るか出来ないかだけで言えば、本気で求められたなら流されてもいいくらいの許容の気持ちはあるが、じゃあ積極的に自分から手を出すかと言えば、それは無い。
友愛が近いのだろうか、とも考えた。大樹や杠へ感じる友情と同種の愛だろうか、と。しかし、そのわりに彼をまるで自分のもののように思う事があるのはどうしたことか。例えば大樹を親友だと思っているが、杠に大して自分の方が杠よりも大樹のことを理解しているなどと自慢げに思うなど一度たりともあったことはない。……ゲンに対しては、時折、ある。石化前にファンだったという人間たちが『あさぎりゲン』という芸能人について見当違いの話をしていると、何も知らない彼ら彼女らへ優越感を覚えるのだ。この感情は、友愛から外れてはいないだろうか?
自分が知識ではなく確実に知っている『愛』と名の付くものは、親愛、家族愛だけである。父である百夜から浴びるほどに受けたもの。己が父へ向けたもの。あれらは確かに愛と呼ぶものだった。ゲンから受ける、あるいは自分が向ける、ふとした瞬間に意識するそれらの大きさ温かさは似ているような気はするが、同じなのかまでは判断が出来ない。
故に、石神千空はあさぎりゲンを愛している、とはいまだ言えずにいる。
それでも白黒はっきりした頭とは裏腹にグレーゾーンに立つ曖昧さを許す男であるので、何も答えを出せていない俺の隣にゲンは変わらず座ってくれている。
今後も俺たちはこのままで良いのだろう、と。五分前までは、そう考えていた。
「千空ちゃんって、俺をどう思ってんの?」
ソファに寝転び、最近創刊されたというファッション雑誌を眺めながらゲンが言った。
「いい加減、二人ともいい歳だし。千空ちゃんの返答如何によっては、俺は君を手放したっていいと思ってるよ」
なんだ、その俺が何処かへ行きたがっているかのような言い方は。お前が引き止めるから俺が居るかのような言い方は。
「……どういう方向に腰を据えたらいいのか、ちょっと考えちゃってね。ただ気が楽だからって惰性で俺と居るっていうなら考えものじゃん? それはただのモラトリアムだ」
ご返答頂けますか、石神先生? ゲンが薄く笑って問いかける。俺は、つまりこれは答えを誤ればゲンは俺に手を振って立ち去るということなのか、という衝撃で口を半開きにしたままで硬直した。
「千空ちゃん? ねえ、君は何を思ってんの?」
何を、思っているのか。
──俺は。
「死んだ後でも手放したくねぇ」
まろびでた言葉に、ゲンは飛び起き目を見開いて俺を凝視した。俺も俺で、自分が何を言ったか理解が追い付かず驚いている。
死んだ後でも手放したくない。ああ、でもそうか、確かに。百夜は俺が石化している間にいつの間にか死んで骨も残らぬ月日が経った。死に目にあえなかったどころか享年も命日も分からない。──そういうのは、もう嫌だ。
「あ……そう……」
気が抜けたようにドサリとソファに倒れ込んで、ゲンは声を立てて笑った。
「うん。わかった」
愛とも呼べない、稚拙な執着を笑ってあっさり受け止めた男は、それ以上の言葉は告げなかった。けれど雄弁に語るその目が、俺を手放しはしないと伝えている。
石神千空はあさぎりゲンを好いている。愛なのかは分からない。けれど、もしかしたらこれは恋というものに限りなく近いのだろうか、と思いながら、衝動のままソファに寝転ぶ相手に両手を伸ばして抱きしめた。
ツバメの飛ぶ日 晴れた日はお弔いにぴったりの日です。その日も少年は、割れた石のツバメをそっと穴の中に置きました。
「やあ、ごきげんよう少年! こんな晴れた日に君は何をしているんだい?」
穴を埋めていたら、声がかかりました。シルクハットを被って、ツバメの尾のようなスーツを着た若い男の人がそこには立っていました。
「ツバメを埋めたんだ」
「ツバメ? ああ、たまに落っこちている石のことだね。埋めても芽は出ないよ? それとも集めて隠したのかい?」
「いいや、助けてやれなかったから、せめて弔ってやろうと思ったんだ」
少年がその見た目よりも賢しらに語るものですから、シルクハットの男は少し驚いたようです。目をパチパチ瞬かせてから、片膝をついてしゃがみ込み、少年の顔を覗き込みました。
「あの落ちている石は弔われるべきものなのかい?」
「ちがう。本当はみな空を飛べるようになるんだ。けれど、どうしようもなく砕けてしまって、カケラもたりないものはもう飛べるようにはならない」
あたりには掘り返して埋め直したあとがたくさんあります。それらすべては少年の手によるものなのでしょうか? それはわかりません。
「あれは石じゃなくて鳥なんだ。生きかえって、空を飛ぶいきものなんだ」
「へえ! そいつはゴイスーだねえ! じゃあ少年、きみは石を生きかえらせることが出来るのか!」
シルクハットの男の言葉に、けれど少年は顔をくもらせてうつむきました。生きかえらせるにはあと少し、もう少し何かが足りないのです。けれど、それが何なのか、まだわからないのです。
「ふうん? なぁに、そう落ち込むことはないさ。だってきみは青くみずみずしい若木のような髪を持っている、きみのように命にあふれた人ならば、きっと世界のすべての石に命を吹き込んで空へ羽ばたかせることもできるだろうよ」
にこにことシルクハットの男は笑って言いました。なんとも無責任な発言だと少年は呆れてしまいましたが、悪い気はしません。気持ちが上向いた少年を見て、シルクハットの男はたずねました。
「ねえ、ところで教えておくれよ。ツバメとはどんなものだい?」
「世界を渡る黒い鳥だ」
「そうかい、黒い鳥なのかぁ。ざんねんだなぁ……」
大げさなため息を吐いて立ち上がると、おもむろにシルクハットを掴みました。そして、バッ! とそれを脱ぐと、少年の目の前は真っ白なもので埋まりました。
「うわっ!」
「白いハトなら飛ばせるんだけど」
そう、それは真っ白なハトでした。バサバサと音を立てて羽ばたき、何匹ものハトがシルクハットの中から飛び立っていきました。
ぽかんと口を開けて、少年は青空を飛んでいくハトを見送り、それからもうシルクハットを被っていない男を見上げました。帽子を脱いだら半分だけ白いハトみたいな髪色のその人は、お芝居のようにうやうやしく頭を下げています。
「テメエはなんだ?」
「マジシャンだよ!」
「魔法使い?」
「そう、奇術師」
「今のはどうやったんだ?」
「ナイショ。でも、ちゃんと理屈もあるし仕掛けもある。どんなにありえない事に思えてもタネがある。きみはそれを知っているんじゃないのかい?」
話しながら、男は中に何も入っていないシルクハットの上に薄い緑色のハンカチを被せました。
「さて少年、それじゃあ稀代のマジシャンから最後のプレゼントだ。きみの未来へのはなむけに」
そして、指をパチン! と鳴らして、ハンカチをさっと取り外すと同時に、黒い小さな影が飛び上がりました。
「あっ!?」
それは、もうこの世にはどこにも居ないはずの、石となってしまったはずの、ツバメでした。二股に分かれた尾をピンと伸ばして、悠々とたった一匹のツバメは空を飛んでいました。
「これはきみがいつか見つける未来だよ」
聞こえた言葉にあわてて振り返りましたが、ツバメのような服を着たあのマジシャンは、もうどこにも居ませんでした。
パチリと、青年が目を覚ましました。夢の中では少年だった、あの彼です。夢の内容などもちろん何も覚えていません。ただ、夢を見ていたような気がするだけです。それもきっと、もう少ししたら忘れてしまうことでしょう。
起きて、彼はまた研究を続けます。夢と同じくツバメを、それから彼以外の石になった人間に命を吹き込み復活させるために。ツバメが空を飛び、人間がロケットで宇宙へ飛ぶ未来の為に、彼は挑戦を続けています。たったひとりの人間として。
太陽が世界を照らし始めました。朝です。ぐっと背伸びをして、なぜだか良い気分の彼は起き上がりました。
晴れた日は生きるのにぴったりの日です。さあ、今日も、人間を始めましょう。