そして男は居なくなり、(番外編) あからさまでいっそ笑える、とは帰宅した自分を出迎えた配偶者の言である。
「何が」
「んー……何というか。随分と帰宅早くなったよねえ、千空ちゃん」
玄関先、靴を脱ぐ俺を見ながらゲンは含みを持たせるような遠回しな言い方をした。
「研究室に泊まり込むな帰れ休めってずっと口うるさく言ってたのテメーだろうが」
「そうだけど。あー、段々無理も効かないお年頃になってきた的な?」
「まぁな。それにもうちっとしたら、また暫くテメーの顔見られなくなるし」
マジックの興行で彼はまた渡米の予定だ。コイツが行方を眩ませていた期間よりは短いとはいえ、また一年近く居ない日々が来るのだ。言質もとった、籍も入れた。この男はもう何処へ行こうと俺の物だし、コイツも俺を手放さない。
それは分かっているが、数年越しでやっと戻ってきて何も遠慮がいらない間柄になったのだ。急ぎの案件がないなら、顔を合わせる時間を優先するに決まっている。
「……、俺のこと好きすぎじゃない?」
「何言ってんだテメー」
「はいはいメンゴ、気持ちわ」
「そうでもなきゃ籍なんか入れっかよ」
第三者からでも分かりやすく執着を目に見える形にして法的な繋がりを持つよう真似、好きでもなければするものか。何を自明な事をと呆れて言えば、何故か相手は目を見開いて硬直をした。
「……、おい?」
「ど……」
「ど?」
「堂々とデレるの止めてくんない……!?」
「んだ、そりゃ」
「開き直った千空ちゃんの愛情表現、破壊力バイヤーなんだけど! そういう感じなの!?」
どういう感じだよ、とツッコミを入れながら横をすり抜け部屋へと向かう。ご飯もう用意出来てるからねー、という声を背中に受けながら自室へ入って荷物を置き、小さな箱をポケットに放り込んでリビングへ戻る。
「飯、何?」
出来ていると言っていた通り、ゲンが台所で配膳の仕度をしていた。ふわりと出汁の良い香りが漂っている。
「適当に野菜を煮込んだ汁物と適当に肉と野菜を炒めたもの。こっちやるからご飯持ってって」
「おー」
最近ようやく昔のような味わいの米が流通するようになってきた。まだ少し割高だが、ヒョロガリ二人で喜び勇んで重たい米袋を抱えて帰宅したのは記憶に新しい。おかげさまで最近コイツの作る食事は和風一辺倒だ。
互いに軽く明日の予定を話しながら食事をし、さっさと食卓を片付ける。
「食器洗いヨロ~、俺先に風呂使うね」
「あ゙ー、待った。その前に」
洗い桶に食器を浸してから手招きをすれば、何かあった? と首を傾げつつ彼は台所へとやってきた。ポケットの中で小箱から指輪を取り出し、左手で掴んだ相手の左薬指にその指輪をスルリと嵌める。
「……、は?」
飾りっ気も何もない、細い銀の輪。
「えっ、え!? ちょ、今!?」
復活した現代人たちなら誰でも意味を知っている証。似合う似合わないで言えば、もちろんちゃんとこの手に似合っているが。
「……、やっぱ違えな」
「待あああああ!?」
「あ゙?」
外そうとしたら、叫びながら手を振り解かれた。夜なのにうるせーな。
「ツッコミどころが多すぎる!!」
「どうしたメンタリスト」
「何で指輪渡すのがこのタイミングとかサイズぴったりすぎてバイヤーとか渡すんならせめて何か言えよとか、まあまあツッコミたいことあるんだけどひとまず」
「おう」
「何で俺の薬指に指輪はめといて抜こうとした?」
「矛盾してんなと思ったから」
指輪をはめた手を見たら、より正確に言うなら俺の手でコイツの指に指輪をはめる一連を見たら、強烈な違和感に襲われたのだ。
「指輪はしないのかって周りに言われた。俺は要らねーが、テメーは衣装とかでもつけてるし、籍入れたなら確かにそんくらい渡してもいいかと思って用意してみたんだが」
「うん」
「何処にでも行って好きにすりゃいいっつっときながらこんなもんで俺の存在を主張すんのは、何つーか……いけ好かねぇなと」
五年も時間をかけ自分の中だけで全てに決着つけて、その上でまた此処に戻ってきた。当たり前のようにまるで俺の為だけに擲って生きようとしてくれたコイツが、やっと俺の為だけじゃなく好き勝手に生活を始めたのだ。それを是としておきながら、これではまるで。
「……俺はテメーにマーキングしたいわけでも、首輪や足枷はめたいわけでもねーんだよ」
「あー……や、あの……うわぁ……」
掌で目元を覆って、途方に暮れたような声でゲンが呻く。隙間から見える顔が赤い、何なら耳やら首もなんとなく赤い。……照れさせるようなこと言ったか? コイツのスイッチどこにあるんだか。しばらく様子を眺めていたら、ため息と共に立ち直って俺を見返す。
「千空ちゃん。俺絶対にコレ返したくないから、こう考えて」
「あ゙?」
「この指輪は君が俺を縛るためのマーキングじゃあなくって、」
右手でゆるゆると左手首を掴み、愛おしそうに手の甲、いや、薬指と指輪に頬ずりをして、
「君が、俺に縛られたことの証だ」
一瞬だけ瞳をギラつかせ、それからうっとりと笑った。
「ね?」
……、つまり、こんなもんは気の持ちよう、か。
「テメーが気に入ったんなら、それでいい」
「あったりまえじゃん、ゴイスーうれしい~! すんごい見た目馴染んでるし~」
「そりゃ勝手に撮ったテメーの手の写真に合わせて一番見た目の良い比率ひたすら検討したからな」
「たまに発揮される千空ちゃんのそういう凝り性なとこ好きだよ、俺」
ためつすがめつ銀の輪のはまった手を眺め、へらりと気が抜けた顔で嬉しそうにしている。相変わらず安いな、コイツ。
「次の休み千空ちゃんの指輪買いに行こう」
「要らねー」
「いいじゃん、オソロで指輪しようよ~! 新婚さんの間くらいそれっぽい真似事したっていいじゃん」
真似事って言ってる時点でテメーもただのロールプレイでしかないと言ってるようなもんだろうが。
俺のウンザリした顔を見て、ケタケタと奴は笑う。
「いや、だってさぁ。例えばホラ、うれしはずかし二人で始める共同生活は」
「始めるどころか村で出会ってからほぼずっとしてんだろ」
「新婚旅行」
「吊り橋効果マシマシのある意味一番のハネムーン期に全世界回ったな」
「結婚式」
「テメー興行準備で時間もねえってのに式どころじゃねーだろが。してえのか?」
「いや、面倒いからいい。皆へのご報告」
「大半の奴らに今更って顔されたし、大体の奴に聞き流されたが」
「……とまぁ、なーんも目新しいことないのよねぇ。俺ら。それも何か面白くないから指輪選びに行くくらいのイベントあってもいっかな~って……あー、いや、というか……」
言いながら自分の指を撫で、どこか気まずげな顔で視線を逸らされた。何だよ。
「……白状すると、ね? 千空ちゃん指輪は要らないだろうしな~って、揃いの指輪買うの止めて、代わり何贈ろうかって考えてた最中だったんだよね……」
先を越された、とゲンが大きな溜め息を吐く。
「プロポーズも先にされたし、これくらいは俺から渡すつもりだったのに。まさか千空ちゃんがこういうもの用意するとは思ってなかった……んだけど、考えたら千空ちゃんて結構人にサプライズでプレゼント用意すんの好きだったね」
「テメーも似たようなもんだろうが」
「そうよ、エンターテイナーですからね。あーもう! ド直球に指輪くるとは思ってなかった! 出遅れたー!」
「ほーん……なあ、研究室に新しい機材を入れたいんだが」
「そういう系の欲しいものは龍水ちゃんを口説き落として買ってもらってください」
「チッ」
「そもそも高くて俺じゃ買えないのわかってんでしょ……貰った指輪のお返しはしたいし、これなら身につけてても良いってもの考えといて、今度の休みまでに」
「ん」
「買ったらロマンチックな雰囲気の中で恭しく捧げたげるよ」
「こんな洗いもんだらけのキッチンじゃなくてな」
こんな反応をするのならもう少し雰囲気とやらを作って渡してやればよかっただろうか、と少しだけ思う。だがまぁきっと、仮に格好つけた真似をしたって熱でもあるのかと言われるのがオチだ。
今更の俺たちには、きっとこれくらいで丁度良い。
「風呂入んだろ、引き止めて悪かったな」
「ん? うん。あ、千空ちゃん」
「あ゙?」
ついでのような呼び掛けとは裏腹に、丁寧な手つきで左手を取られる。捧げ持つように、何よりも大事なものを手にするかの如く、両手で。
「要らないなら勿論それでいいんだけど、もし俺が居ない間に気が変わっても自分で買っちゃ駄目だからね」
薬指の付け根にそっと口づけを落とし、
「俺が渡すやつ以外この指を明け渡さないでね」
甲をさらりと撫でてから手は離れていった。
「ククク、俺相手にも随分と手慣れてきやがったなァ?」
「なーがーしーてー! 俺も探り探りなんだから! どう千空ちゃんとイチャつけばむず痒くないのかゴイスー手探りなんだから!」
「へいへい。んで? 試した結果は?」
「こういう気障っぽいのは無理! バカップルなノリのがマシ!」
「ほー。まぁトライエラーで頑張れ」
とっとと風呂に入れと追い払うように手を振れば、はいはいと返事をしながら去っていく。その背中が脱衣所に消えてから、振っていた左手をじっと眺める。
慣れない指輪など、正直邪魔だ。実験の前に外したらそのまま忘れて無くしそうな気さえする。……それでも、ゲンがここに指輪をはめたいのだと言うならば、つけることも吝かではない。
(俺も大概だな)
先ほど口づけられたのと寸分違わぬ位置に唇で触れる。さて俺の指輪も買うとアイツに伝えるならばいつが良いだろうか。考えながら、俺は皿洗いの為に蛇口へと手を伸ばした。