そして男は居なくなり、(復興後if)そして男は居なくなり、
「ちょっと出てくるね。戻らないから、あとヨロシク」
「おー、行ってこい。気ぃつけてな」
「ありがと。じゃあ、行ってきます千空ちゃん」
そう告げてふらりと出掛けた長年の同居人、あさぎりゲンはその日を境に行方を眩ませた。
何かが変だと気付いたのは翌日だった。何時に戻るのか、それとも今日も泊まりなのか。それ自体はどうでもいいが、もし帰ってくるのなら時間によっては夕飯の買い出しを頼むつもりで電話をかけたら繋がらなかったのだ。
――オカケニナッタ電話ハ、電波ガ届カナイ場所ニアルカ、電源ガ入ッテイナイ為カカリマセン。
仕方がない、後でまた掛け直せばいい。それが昼頃だ。だが二度三度と同じアナウンスを聞いたところで、小さな不安が湧いてきた。あの男も世界復興の立役者の一人だ。しかも、こちらの陣営で人前に出るような仕事の大半は彼と龍水に回していたこともあり顔が売れている。……何か事件に巻き込まれた、なんてことは無いよな?
もう日暮れだ。いやぁ充電が切れちゃってさぁ~、などと言いながら帰ってくるに決まっている。せめて何処へ行くか何をしに行くか等の情報はちゃんと聞いておくべきだった、いつもなら……
(……、あ゛?)
いや、待て。そもそも俺たちは立場上お互いのスケジュールは凡そ把握しているから、相手が出掛ける時に尋ねる習慣はない。そして予定にない外出の時は自分から言いおいて出掛けていた。それこそ、ちょっと店でコーラ買ってくる、程度の用事ですら、家に相手が居る時には無断で外出することはない。お互いの所在が不明になると、何か面倒が起こった時に問題対処が出来ないから。それはあの村で必死に生きていた頃から変わらない、意識せずとも行っている習慣だ。
(わざと、言わなかった?)
ぞわりと背筋に悪寒が走る。ちがう、いや、でもまさか。
――ちょっと出てくるね。戻らないから、あとヨロシク
なぁ、ゲン。それは『今夜は』戻らないから、ってことじゃなかったのか?
五度目のアナウンスを聞きながら立ち尽くす。その日も、彼は帰ってこなかった。
自分でも明らかに初動が遅すぎたことは自覚している。もしやと思った時点で片っ端から心当たりに電話を入れるなり探しに行くなり、警察に相談という形で実績を作っておくなり方法はあった。それをせず、ただまんじりと一睡もしないまま夜を過ごしたのは恐らく俺自身がまだ信じられないからに相違ない。
『あさぎりゲンが石神千空の傍から離れた』
呆れるほどの自惚れだ。俺はこの期に及んでまだそんな事があるわけないと思っている。事実、現状、アイツはここに居ないってのに。ソファに身を沈め、眉間を揉みながらデカい溜め息を吐く。いつまでこうしているつもりだ、俺。
とりあえずこいつにだけは報告をしておかなければ、と電話をかける。昨日と違い、2コール目の途中で電話は繋がった。
「どうした?」
「ゲンが出ていった」
「ハッハー! 痴話喧嘩をしての家出か? ……と言いたいところだが、どうやら真面目な話のようだな」
「一昨日の昼間に『ちょっと出てくる、戻らないからあとヨロシク。いってきます』って普段どおりに出かけて、そのまま戻ってこない。連絡もつかねー」
「貴様なぜ昨日のうちに手を回さなかった」
「いい歳した成人男性が一日帰ってこないからって捜索願が受理されると思うか?」
「だが居なくなったのは有名人あさぎりゲンだ、すぐに捜索しただろう」
そこまで言ってから龍水は、過ぎたことは言っても仕方がないか、と切り替え、自分の情報網も使って探してみると請け負った。
「千空、何か心当たりは無いのか? 奴が居そうな所に」
「あ゛ー、逆に聞いていいか龍水。アイツが俺の横以外に居そうな所って何処だと思う?」
「……恐ろしいくらい思いつかんな!」
「自惚れ甚だしい自覚はあるんだけどよ……」
「いや共通認識だ、安心しろ。部屋に何か手がかりは」
「無くなってんのは金や身分証なんかの貴重品とトランプ三組と少しの着替え、あと俺も全部は把握してねーが持ってくのに邪魔にならないサイズのマジックの道具もいくつか無い。それ以外は四日前に洗濯物をベッドに投げつけた時と何も変わってなかった」
「フゥン、流石だな」
石化前から世慣れた奴だ、それだけあればきっと何処にでも行けてしまうのだろう。
「なあ。何でゲンは居なくなったと思う?」
「千空、それを考えて答えを見つけるのは俺ではなくお前の役目だ。違うか?」
「いや、違わねー。……悪い」
「構わん。何か分かったら連絡する」
「頼んだ」
通話を終わらせ、ソファに寝転ぶ。捜索の実働はこのまま龍水に任せよう、資金力と行動力が桁違いだ。行く宛の心当たりなんか無い、というかアイツが俺の思い浮かべる範囲内の場所に行くわけがない。俺のことなんざ、アイツにはすべて筒抜けだ。
「……クソっ」
俺は今テメーの考えていることが丸っきり分からないというのに。苛立ちながら、もう一度だけ繋がらない番号へとかける。呼び出しの、コール音が、鳴った。
「なっ……」
すべて俺の取り越し苦労だったのか? 思わずソファから飛び上がる。だが、ほんの一瞬の期待は、
「ゲン!!」
「千空くん?」
あっけなく、崩れ去った。
「もしもし? 千空くん? 杠だけど」
「なんで杠がアイツの電話持ってんだよ!? アイツは!?」
「わっ! ちょちょちょ、落ち着いてよ千空くん! 一昨日この『仕事用の携帯電話』預かってって頼まれたの。今日になったら電源を入れて、千空くんからかかってきたら出てほしいって」
「……そうかよ」
「事件性はないから失踪届なんか出さないでよって伝えてって言われたんだけど。はは~ん、さてはアレですな? 喧嘩して、実家に帰らせていただきます! みたいな」
ニヤニヤと笑っていることだろうと思うような、面白がる声が聞こえる。龍水も同じようなこと言ってたな。その程度だったらどんなに良かったか。
「喧嘩なんかしてねーよ。あとそれ、プライベート用の電話。そもそも仕事用と使い分けしてない」
「へ?」
「テメーの言葉で確信出来たわ、サンキュ。あの野郎、マジで失踪しやがった」
「え? ……ええええええええええ!?」
「アイツ何か他に言ってたか?」
「う、ううん、ゲンくん、いつもと変わらなかった。いやその、電話預かってっていうお願いも伝言内容も変だなとは思ったんだけど、ゲンくんに『ややっこしい駆け引きの仕込みのひとつなんだ、聞いちゃうともっと面倒になるけど聞く?』『物が物だから下手な人には預けられないし、君しか居ないの!』って言われたら、何も言わないで受け取るしかないじゃ~ん……! 今までも、何が繋がってそうなるの!? ってこと沢山してるしさぁ……!」
「責めてねーから落ち着け。わかった。あとその電話、また電源落としといてくれ。今度取りに行く」
「うん……あの、千空くん」
「あ゛あ゛?」
「大丈夫?」
「気にすんな」
まだ何か言いかける杠へ、じゃあなと一方的に告げて電話を切る。これ以上話していたら気を使わせるだけだ。
『あさぎりゲンが石神千空の傍から離れた』
――ああ、確定してしまった。当たり前に俺の横に居たあの男は、俺の隣から居なくなってしまった。アイツ自身の意思で。
(大丈夫?)
杠の声が頭の中でリフレインする。大丈夫、だと?
「……リームー、だ」
なぁ、ゲン。これは考えれば理解できる問題なのか。俺が答えるべきは『何故』の解か、『何処』の解か、それを解けばお前は戻るのか。解いたところでお前は戻らないのか。頭が思考を拒否するなんて初めての経験だが、こんなものはまったく唆らねーよ馬鹿。
顔を覆って何度目か分からない溜め息を吐く。手指の先が、冬でもないのにやけに冷え切っていた。
「おい千空、顔ヤベーぞ。どうした? なんかまた面白い事でも思い付いて寝てないとかか?」
翌日、研究所で顔を合わせるなりクロムがギョッとした顔で寄ってきた。だろうな、明らかに睡眠不足の顔は我ながら酷いもんだと今朝の洗顔時に思ったものだ。
「あ゛あ゛、ちょっと厄介なことになってな」
「へー。折角休みだってのに大変だったんだなぁ、所長さんよぉ」
「おー、大変も大変だわ。ゲンが失踪した」
「ふーん、ゲンが失踪ねぇ。……ハァ!? 失踪!? めちゃくちゃヤベーじゃねぇか!」
「ったく、あの野郎どこに逃げたんだか……」
「ん?」
慌てふためいていたクロムは、俺の溜め息交じりの言葉に引っかかりを覚えてピタリと動きを止める。何だよ、と視線で問えば、クロムは不思議そうな顔で聞いてきた。
「誘拐とかそういうんじゃなくて、ゲンが自分から居なくなったってことか?」
「あ゛あ゛、多分。杠に事件性はないって伝言残してっからな」
「何だよ、ビビらせやがって。なら大丈夫だろ」
「……何が大丈夫なんだよ」
「何がって、そりゃゲンがだろうが。アイツあれでタフだし、心配いらないんじゃね?」
あまりにもアッサリとした態度に、つい言葉に詰まる。こいつ、ゲンの身の安全以外は心配する必要はないと思ってんのか?
「何処でも上手くやってけんだろ、ゲンなら」
何でもないことのようにクロムが言う。分かっている、無事だから大丈夫だと言いたいってことは。分かってはいるが、俺が居ようと居まいとアイツには何の関係もないのだと思い知らされるようで普通に凹む。
「そっかー、それにしてもゲンとも離婚かぁ……よっぽど向いてねーんだな、千空」
「は? 籍入れてねーし、そもそも付き合ってすらいねーよ」
「ハァ!? ジーマーで!?」
「テメーもうつってんなぁ、アイツの倒語」
話していて思い出した。そういえば随分前に、そういう事にしたんだった。周囲の想像のまま、恋人という陳腐なレッテルを貼らせたのだ。
誰か恋人は居ないのかと聞かれることも、作ればよいと興味もないのに人を紹介されることも、勝手に幻滅されて影であれこれ言われることも、そんな俺の隣にいつも居る男について下世話な勘繰りをされることも、何もかもが煩わしかった。
「なら、そういう事にしちゃえば良いんじゃない?」
不機嫌をぶつけるように飯を作る俺へ、ソファに寝転んだまま、あの日に奴はそう言った。
「望む答えが返ってくれば満足するでしょ。俺と千空ちゃんはラブラブで~す、ってコトに今後はしておけばいいよ」
どうしようもない輩には理解の出来る答えを提示してやりゃいいよ、俺は構わないから、とヒラヒラ手を振って、ゲンは居ない誰かを小馬鹿にするような笑みを浮かべた。
「メリットねーだろ、テメーに」
「まぁそうね、女の子と遊びたーい! って時にはちょっと面倒くさくなるし」
「なら」
「でもね? 千空ちゃん。俺の存在をダシにして、千空ちゃんを煩わせるとかクソじゃん?」
それはちょっと看過できないかなぁ、と穏やかな声音のままで言う。
「俺の使い方は俺が決める。だから千空ちゃん、俺を利用していいよ」
ぐっと伸びをしてから、ゲンはソファから跳ね起きた。台所にやってきた彼は必要以上に細かくみじん切りにされた野菜を俺の背後から覗き込み、それから俺の顔も覗き込む。
「次からはさ、俺との事を勘繰られたら肯定したらいい。俺がそう答えてもいいと言ったから、って。詳しく聞きたがるような奴には、俺から聞けって回しなよ。語弊がある程度に話してあげる」
そういうのは俺の領分だからねぇ、などと言って人の背中をぺしぺしと叩いた。
「無理に嘘は言わなくていいよ、少ない情報から勝手に想像させればいい。誤解されるような話は俺が適度に振りまくから。ところで今更の確認なんだけど、男同士で云々ってことで何か言われるのまでは面倒見切れないからね?」
「構うな、とっくに慣れた」
「うわぁ大変ねぇ千空ちゃん。原因の半分俺だけど」
そういうコイツの方こそ色々と言われただろうに。俺よりゲンの方が、余程に攻撃しやすく見えるから。
ただ共に居る、たかがそれだけのことがこんなにも訝しまれるものだなんて知らなかった。
「俺たちの馴れ合いを理解しろってのが無理な話でしょ」
友人と呼ぶには近しすぎ、恋人となるには甘さと欲が足りず、家族というには隔たりがある。自分ですら確かな名前が付けられない馴れ合いだ、いや、分かっていないのはひょっとしたら俺だけでゲンは何か答えを見つけているのかもしれないが。
「ところでツッコミ損ねてたんだけど、このみじん切りバイヤー過ぎじゃない? どうすんのコレ」
「麦飯炒飯」
「わぁ大半が具材でヘルシーだこと」
「ゲン」
「何?」
「助かる」
「ふふん、良いってことよ~」
ケラケラと笑う男の頼もしさに、肩の力はすっかり抜けていた。
最近はもう周知になったのか、聞かれることも話題を振られることもなくなって意識していなかったからか、それとも相手がクロムだからか。こんな所でボロを出すとは失態だ。どういう事かと驚いているクロムへ端的に偽装の話をすれば、呆れたような感心したような声を彼は上げる。
「わけわかんねーな、お前らって」
「ほっとけ」
「にしてもよ、こんだけ千空に協力してたんだ、急にそれ放り捨てるような真似する奴じゃねーだろ? だってゲンだぜ? 何か考えあっての事だろうし、もう少し様子見ようぜ。絶対ェ大丈夫だって!」
「あ゛ーはいはい、励ましのお言葉どーもありがとよ」
なんとも気が紛れる態度だ。コイツもちっとも変わらない、何年も経ったというのに。
ーー俺の使い方は俺が決める
あの日に言い切ったゲンの言葉が耳に甦る。今までアイツは『俺に委ねる』という使い方に決めていただけだった、今回その使い方を変えただけ。
梯子を外されたような気持ちを抱くのはお門違いだ。そうだ、そうだ。
「千空でもそんな落ち込んだり引きずったりすんのな」
「ヒトを何だと思ってんだ……自分で引くほど、驚きの凹みっぷりだわ」
「ヤベー、千空が素直だ……!」
ほっとけ。
どうせならと泊まり込みで作業を進めるつもりだったが、『寝ていないなら帰れ』とクロムを筆頭にした所員たちに追い出されてしまった。仕方がないので家に戻れば、デカい図体の男が扉の前で座って待っているのが見えた。
「んなとこで何やってんだよ、デカブツ」
「千空! おかえり、早かったな!」
早かったな、じゃない。小学生のガキみたいな待ち方してんじゃねえよ、大樹。
「来んなら連絡しろ、アホ。本当なら泊まり込みで帰るつもりなかったぞ、今夜」
「そうなのか? なら俺は運が良かったな」
「あ゛ー……とりあえず退け、今開けるから」
「いや大丈夫だ。今日はコレを渡しに来ただけなんだ」
預かってきた、そう言って立ち上がって大樹が取り出したのはゲンの携帯電話だった。差し出されるまま、見慣れたそいつを受け取る。喪失がまた現実味を増す。
「杠から聞いた。ゲンが居なくなったと」
「おー」
「そうか、辛いな」
それはこの数日で、初めて聞いた共感の言葉だった。心配でも励ましでもない、この男らしい、ただシンプルな。
「……あ゛あ゛。辛い」
だから俺も零した。シンプルな弱音を。軽口めいたもの以外を誰かに洩らすつもりはなかったってのに。
こちらに伸びた両手がバシバシと俺の両肩を叩く。オイもう少し加減しやがれ馬鹿力、こちとら運動不足の三十路過ぎたミジンコだぞ折れるわ。
「悪い奴だなーゲンは! 杠も帰ってきたら叱ってやるんだってぷんすかしてたぞ!」
「クククッ、そりゃまた勇ましいこった」
帰ってきたら、か。希望的観測どころかただの願望じゃねーか、そんなもの。だが、当然のようにそう信じる奴らが居てくれるのは救いに思えた。
「そん時ゃよろしく頼むって杠に伝えといてくれ」
「任せろ!」
だから叩くんじゃねえって。
「なあ、千空。ひとつ聞きたいんだが」
「あ゛?」
「ゲンを探しには行かないのか」
「佳境の研究を放ってか?」
俺自身がアイツを探しに行く、ああ、行きたい。この手で捕まえに行けるものなら。
「それをしたら、もう俺じゃねーだろ」
俺の身のしがらみをかなぐり捨てるのは簡単だ。けれどそれはきっと決別の合図となる。例え見つけ捕まえようとも、ゲンは二度と俺の元には戻らなくなる。俺が研究よりゲンを優先したことへ勝手に怒り、失望し、その選択をさせた事への罪悪感を抱えて、今度こそ本当に消えるだろう。
「優先すべきは、ゲンじゃない」
どんなに優先したくとも、それを選ぶわけにはいかない。
「俺には分からんが、千空がそう決めたならそれでいい」
「龍水に捜索は丸投げしてあんだよ、そのうち情報も入ってくるだろ」
「そうか! 龍水ならきっと見つけてくれるだろうな!」
大丈夫だきっと見つかる、そう力強く言い残して大樹は帰って行った。やれやれだ、小さく息を吐いて手の中の携帯電話を眺める。こんな風にしがらみを軽々と捨て去れる、その思い切りの良さはいっそ褒めてやっても良いんじゃなかろうか。何だかそんな気持ちにもなってきた。捨て去られたしがらみに俺自身も入ってんだけどな、と自虐に笑いながら家の鍵を開けた。
数日、一週間、半月、一ヶ月。一日、また一日と時は嵩む。
日々の中、時折一枚のハガキを眺めている。見る度に呆れてバカバカしくなる、アイツからの便りだ。
居なくなって数日後、宛所不明として『戻ってきた』ハガキが郵便受けに入っていた。宛先は仙台市の山田中 一太郎……いや誰だよ、偽名書くにしてもテキトーすぎんだろ。何で山田太郎と田中一郎を混ぜた? 差出人は俺になっているが、もちろん書いた覚えなんざ無い。そもそも俺の文字ではない。
「ほーん……成る程ねぇ」
デタラメの住所に送ることで、本来の宛先である差出人へタイムラグを作って届けさせたのか。小細工をしやがって、舌打ちしながら文面側へ裏返す。
「……あ゛あ゛!?」
どんな申し開きをするのかと思っていたのに、書かれていたのはたった一文。
『飯食って寝なよ。 幻』
書くべき内容そういうことじゃねーだろ、何考えてんだアイツ。思わず脱力して項垂れる。
消印の地名は空港の所在地、昼に家を出て、杠と会い、それから空港へ行ったとするならば、行き先はかなり絞り込める。何せ、一年前に国際線はようやく数本就航したばかりだ。わざわざここまで行ってハガキを投函したのがフェイクってことはあるまい。それに国内じゃすぐに見つかる、行くなら海外だろうと予想は立てていた。アイツが乗った可能性のある飛行機はひとつ、その行く先は。
「……懐かしのサンフランシスコか」
裏付けができて何より、だ。
一応の手がかりだからと龍水に話せば爆笑され、クロムに見せれば揶揄われた。行方不明で人を振り回しておいて、あっけらかんとしやがって。
「失踪じゃなくて、ただの旅行なんじゃねーの? これ」
クロムなど笑いながらそんな事を言う始末だ。本当にな、それならどんなに良いことか。
ーー飯食って寝なよ~、千空ちゃん。
呆れた声で、笑いを含んだ声で、心配した声で。それは同居していた日々に、何度も聞いた台詞だった。
(……滑稽なもんだ)
まだお前が俺を気に掛けてくれていることに、安堵している。
「失礼します、石神所長。獅子王さんが来られました。応接室にご案内いたしまして、クロム副所長が対応を」
「……あ゛あ゛、今行く」
呼びに来た所員へ礼を言い、ポケットにハガキを押し込んだ。
「千空」
「よぉ司。防衛成功おめでとさん」
「まだ何も言ってないよ」
「負けたのか?」
「まさか」
いつの時代も闘いは最大の娯楽だ。それこそ古代ローマから何も変わりはしない。ご多分に漏れず、この時代でも一番最初に復活した娯楽としての観戦スポーツは格闘技だった。まだまだ医療技術は前時代に追いついたと言えないというのに、世界には血の気の多い奴らが多すぎる。
というか、各国の人間が石化から解けて少し落ち着いてきた頃『今ならあの獅子王司と無法で闘える』と血迷った輩が湧くように現れ、結果として格闘技戦を復活せざるを得なかったとも言える。考えりゃわかるだろ、そっちが無法なら司もまた無法で闘えるんだから余計に勝ち目が無いのだと。
殺すわけにはいかないけれど、きっちり返り討ちにはしなくちゃいけないし、けれど殺意を持って挑む相手をただいなすだけで諦めてくれるものだろうか。
再起不能な程に叩き潰せばいいかな、と物騒な事を言うコイツを不必要な恨みを買うデメリットを必死に説いて、最終的に獅子王司へ挑戦するための闘技会を開催する運びとなったのだ。勿論、初回のプロデュースはどこぞのメンタリスト様である。
「ニューヨークだったか、今回は」
「うん。マディソン・スクエア・ガーデンをもう一度、だそうだよ」
今回で五度目の闘技会は、もう俺たちの手を離れている。司を招いて闘技会を開きたい、というプロモーターからのオファーで三度目からは他国開催となっていた。まだまだ娯楽の足りない世界で、確実に金を稼げる一大イベントだ。年に一度だけ、という枠を奪い合うように興行の権利を争っているらしい。
「純粋に俺に勝ちたくて挑む彼らと闘うのは、うん、嫌いじゃない」
見せ物のように闘うのは負担ではないのかと聞かれてそう答え、とどのつまり俺は闘うのが好きなんだろう、と話していたのを見たことがある。少なくとも不本意に利用されることもないから構わないらしい。そりゃそうだ、ガッチガチに周囲のスタッフで守り固めたからな。主に南とゲンが選び抜いた精鋭たちだ。
「マディソン・スクエア・ガーデン? って何だ?」
「あー、前時代にそういうモンがあったんだよ。色んな見せ物するための施設とでも思っとけ」
「うん。ニューヨークで有名な場所だったんだ」
クロムの問いに二人で答えた。へぇ見せ物する場所、とクロムは興味深そうに頷く。
「ゲンのマジックとかも、そういうとこでやってたのか?」
「それはどうかな、とても大きな会場だから。ゲンのマジックなら、うん、もう少し小さな舞台でよく見える方が合っているだろう」
そう答えてから司は15センチ程の箱を取り出して俺へ手渡した。
「アメリカ土産は君に頼まれていたもの含めて自宅へ届くように手配してある。それで、コレはゲンへ」
受け取りながら、ちらとクロムを見る。俺の視線を受けて首を横に振るところを見ると、どうやらまだ話していないらしい。
「あ゛ー……これ、食い物か?」
「いや、ミルクガラスっていうので出来たマグカップだよ。最近になって、コレクターが執念で再現した物が出回るようになったそうだ。石化前アメリカで住んでいた頃、似たような物をアンティークショップで手に入れて愛用してたと話していたから日頃の礼も兼ねて買ってきたんだ」
「そうか。司、悪いが預かっても渡せるか分からねー」
「うん? 君たち、一緒に暮らしているだろう?」
「それがよ、ゲンの奴どっか居なくなっちまったんだよ」
「あ゛あ゛、失踪した」
「……え゛」
コイツが動揺するとこ久しぶりに見たな。そりゃ驚くだろうと思いきや、
「……ゲン、休暇じゃなかったのかい?」
「あ゛?」
「会ったよ、ニューヨークで」
「「ハァ!?」」
驚いたのは俺たちの方だった。
「予選試合の賭けでボロ勝ちしたって報告を楽屋にしにきたよ。南に頼んで関係者席で見せて貰った、って……さっきのマグカップだって、楽屋で見て教えてくれたものだし」
「それから!?」
「俺の試合を見たらすぐ行く、って」
「何処へ」
「すまない、其処までは聞いてない。てっきり日本へ帰るのだと思っていたから」
申し訳なさそうな司の言葉に、反射的に浮いた腰をソファへ戻す。司の言い分は尤もだ、知らなければ日本へ帰るものだと思うだろう。
「まぁでもよ、千空! ゲンが元気だってのが分かって良かったじゃねえか!」
「うん、それは。変わりなく元気だったよ、相変わらず千空たちの話ばかりしていたしね」
クロムの言葉に次いで司もそうフォローする。だからこそ彼が逃げていただなんて気付かなかったのだけれど、という苦笑いも付け加えて。
「千空。俺が探しに行こうか?」
ゲンの真似事のように首を傾げて、司が言った。
「あの日、俺がゲンに千空を探させたように、今度は俺がゲンを探しに行っても構わないよ」
「……そんで、あの日アイツが言ったみてーに戻ってきたら俺へ言うわけか? ゲンは居なかった、影も形も見当たらなかったって」
肯定するように、司は笑った。この野郎。
「すごく自由だったんだ。見たこともないくらい、軽々としていた。楽しそうな姿は今まで何度も見たけれど、あんなに他人事のように清々しく楽しむ姿は、うん、多分初めてだ」
それは俺が見ていた奴とはどう違うのだろう。軽々としていた。自由だった。なら今まで背負っていたとでも言うのか、ああ確かにしがらみ全て置いていったもんな、お前は。
「もう少し、あのままゲンを放っておきたい気がするんだ。俺は」
「……そうか」
「うん。協力出来なくてすまない、千空」
「いや、こっちで勝手に探すから気にすんな」
さっきの彼らの言葉の通り、無事アメリカに到着して元気にやっている事だけでも分かって良かった。そう思おう。
「頑張ってね、千空」
「あ゛?」
「相手取ると最高に厄介な相手だよ、ゲンは。裏切られた俺が保証する」
「おー、今まさに骨身に染みてるわ」
くつくつと笑った司は、それにしても、と呟いた。
「君たちですら離れる事があるだなんて、人間って侭ならないものだね」
「どんな感想だ、そりゃ」
呆れた俺のツッコミに、司は素知らぬ顔で茶を啜っていた。
『マジックキャッスルの復活ムーブメントを起こすのは流石にまだ無理だけど、いずれまた此処は映画の街と名を馳せそうです』
司の帰国から間を空けずに届いたハガキには、昔のようにHOLLYWOODの看板が掲げられた丘が描かれていた。あの土地にはまたあの文字が街を見下ろしているらしい。
映画より驚くべき現実が起きてしまった今、例えばSF映画はどんな物が生まれてくるのだろう。特撮で作り出すのは大変だろう、技術や知識がある人間は残っているのだろうか、それとも新しい方法が生み出される方が早いだろうか。爆破シーンの撮影協力が必要なら喜んでするんだが。
「龍水、テメーこのマジックキャッスルって何か知ってるか?」
「マジック専門の会員制クラブだな。俺も行った事はないが、フゥン、こいつを復活させるというのも面白いな!」
曰く、一流のマジシャンが毎日のようにショーを開催している場所らしい。客はセレブや同業者であるマジシャンたち、その肥えた目の中で披露する。なるほど、アイツが好きそうだ。
「ここ、どのタイミングで行ったと思う?」
「サンフランシスコ国際空港からハリウッドへ行き、それからニューヨークへ移動したと考えるのが妥当だが、そうなると滞在時間はかなり少ないぞ。予選会を見に行っているのだろう?」
「君たち、あのゲンを見てないから効率の良いルートって考えるんだろうけど、多分アイツ思い付きで移動してるわよ」
だってその方が足がつかないじゃない、そう北東西南は不機嫌な顔つきでそう告げた。
「いつも以上にペラッペラの風で吹き飛びそうな感じは久しぶりの海外旅行で楽しんでるからと思ってたのに、実は逃亡してましたって何? それで情報与えるみたいに司さんへ顔を見せにくる? 馬鹿にしてんのかしら!」
「ハッハー! 随分と荒れているな、南よ!」
「当たり前でしょ、何考えてんのよあの男!」
龍水にハガキを見せるついでに、司と一緒に会っただろう彼女にも話が聞きたいと龍水のオフィスに呼び出したのだが、事情を聞いてからずっと苛々としっぱなしだ。宥めるようにフランソワから差し出されたお茶を受け取りながら、それでも機嫌は直りそうもない。
「千空。ゲン、彼ね、きっと一番君の印象に残る消え方をわざと選んだわよ」
分かんないわけないじゃない、吐き捨てるように、南が言う。
「いくらでも上手く居なくなれる癖に、こんな真似して」
「まー、ある意味上手く居なくなったがな」
「そういう事を言ってんじゃないの! 君のことでしょうが!」
ドン! とローテーブルに叩きつけられた拳が湯呑みを揺らす。なんでお前がそんなに怒るんだ。
「……残されるっていうのがどれだけの事か、アイツは知ってる癖に」
その呟きが何を思って発せられたのか、俺が知る術は無い。
(……こういうのも、分かってて選んだんだろうな。あの馬鹿)
影響を与えるのは俺にだけではない。それでも居なくなることを選んだ、その思考がとんと読めない。
「『あさぎりゲン、空白の時』とでも名前つけて失踪追跡ルポでも書いてやろうかしら」
髪を掻き上げ、大きな溜め息を吐く。ただの旅行記になるんじゃないか? それ。
「年単位は覚悟しないと無理よねー、そうなったら。……今から仕事整理して、そうね、来年くらいからなら本格的に追っかけられるかしら」
「あ゛? マジで言ってんのか?」
「マジよ、マジ。どうせずっと探すんでしょ? 龍水、動けるようになったら雇って」
「いいぞ! 海外特派員として雇ってやろう、ついでに世界情勢のレポートも頼む」
本気でルポを書くつもりなのか? と思ったが、どうやらマジなのはそちらの方ではなく、アイツを追っかける方らしい。
「だって私も知りたい」
訴えかけるような目、これを俺は知っている。真実、真相、未知を求めて追う瞳だ。
「何が彼を動かしたのか。知りたい。話を聞きたい。ついでに迷惑かけんじゃないわよって胸倉掴んで揺すってやりたい」
「後半のがメインなんじゃねーの?」
「そうね、そうかも」
ようやく笑った彼女は、そうと決まれば! と立ち上がる。
「どーせゲンの事だから、仕事関係の引き継ぎはどうにかなるよう手配してんでしょ? 前に伝手ないかって聞かれた人材、改めてリストアップして研究所に送っておくから人員補充の足しにして」
「そりゃおありがてえ」
「南、こちらにも同じ物が欲しい」
「わかった」
荷物をまとめ、さっさと出て行こうとして立ち止まる。
「ねえ千空。ゲン、戻らなかったらどうする?」
「さぁな。その時に考えるわ」
「そう。その時になるより前に、考えておくことをオススメするわよ」
そう言い残し、フランソワへお茶の礼を告げてから南は部屋から出て行った。釘を刺されバツが悪い気持ちのまま、笑いを堪える龍水へ蹴りを入れる。
「ハッハー! 形無しだな、千空!」
「うっせー」
「安心しろ、俺としてもゲンが居ないままでは仕事に支障がでる。探し出すのは任せておけ」
「悪いな、頼む」
龍水に任せておけばいい。それに南の人脈と取材力は優秀だ。時間はかかろうと、必ず彼らは見つけ出すだろう。
ーーゲン、戻らなかったらどうする?
ーーその時になるより前に、考えておくことをオススメするわよ
必ず見つけ出すだろうから考える必要はない、その答えは封じられてしまった。
考えたくないと可能性を見ないままでいる愚行は、いい加減に止めねえとダメか。見つけて、日本に連れ帰って、その時に本当にゲンが俺の隣に戻ってくるとは限らない。
どうする? さぁ、どうしたもんだろうな。せめて答えるまでに時間をかけさせて欲しい、誰かに言い訳するかの如く、内心でそう呟いた。
「僕が居ない間にそんな面白いことになってたの?」
「1ミリたりとも面白くねーわ」
久しぶりに顔を合わせた男、西園寺羽京は、俺の話を聞いて先ず一番にそんな感想を述べた。
羽京とは話をしたか? そう訊ねたのは龍水だ。
「いや、まだだ。第一、海自の訓練で今こっちに居ないんだろ?」
「フゥン……千空、それは誰から聞いた?」
「……ゲン、だな」
そういうことだ、と龍水が指を鳴らす。
「わりと頻繁に連絡を取り合っているようだったからな。何か参考になるやもしれん」
因みに俺は羽京にお前たちの情報をよく渡していたぞ、とオマケのように付け加えた。偶にしか会わないわりに話をすると『そうだったらしいね』と伝聞で知っているようだったのは、こことアイツが情報源だったのか。
「俺としては双方向に連絡が取れる状態にまでは最低限持っていきたいと考えている。だが無期限で世界を探し続けるわけにもいかん。千空、七年だ」
七年。失踪宣告が可能となる年月。その期間で積極的な捜索は打ち切る、龍水はそう宣言した。
「復興と発展が続けば渡航もしやすくなる。仕事で向こうに人をやる機会が増えたならそのついでに情報は集めるが、専念して探す人員は割かない」
「あ゛あ゛、それでいい」
コイツなりの気遣いでもあるのだろう。もし完全に行方を眩ませたとしても、期限を設ければ区切りはつく。諦めきれずとも、思考を切り換えるきっかけとなるからだ。
「龍水。テメーも帰ってこない方に一票投じてる側か?」
欲しい=正義と豪語する男が、連れ帰ることではなく『連絡を双方向で取れる』ことを最低基準とした。それはつまりゲンが戻る事までは望んでいないということだ。
「貴様を置いてまで何かを欲したのなら、諦めさせるのは少々気が咎める。だがこのまま縁が切れるのは余りに惜しい」
双方向の連絡は言わば妥協点だと龍水は言った。
「……馴染みが減るのは、つまらん」
拗ねたようなその口振りに面食らう。コイツのこんな様子は初めて見たかも知れない。
「羽京との話で、もし探す手がかりがあればこちらにも教えてくれ」
「おう」
羽京から『ゲンの電話に繋がらないんだけど』と連絡が来たのは、その会話の二週間後だった。
「電話はしてたけど、最後に会ったのいつだったかなぁ。一年以上顔見てないかも」
「そうなのか?」
「多分。僕も忙しいからね、これで」
「今回は?」
「アメリカ派遣訓練。ハワイの辺り」
昔と同じことやってきたよ、と羽京が言った。石化前と同じ関係を『米軍』と築いているもので、と戯けた様子で笑っている。
「で、ゲンの話だけど。ほっとくしかないんじゃない?」
「は?」
「ゲンが本気を出したなら無理でしょ。若い頃ならまだしも、今は百戦錬磨の猛者だよ? 皆でどれだけの修羅場くぐってきたと思っているのさ」
探すのも追いかけるのも止めはしないけどさ、とコーヒーを一口すすり、羽京が続けた。
「千空。ゲンってどんな奴だと思ってる?」
「どんな奴、って」
言い淀む。有能なメンタリスト、骨の髄までマジシャン、悪巧みの共犯者、必ず俺の隣に控えた同盟者。咄嗟に思い浮かんだのは役割だった。ちがう、そうではない。あの男は、
「僕はね、プライド高くて主導権を絶対に譲らない我の強い奴だと思ってる」
「誰だそれ」
反射的に声が出た。プライド高くて? 主導権を譲らない? 我の強い? 自分の仕事の領分には矜恃を持つ男なのは確かだ、そういう意味ではプライド高いと言えるか? だが我の強い奴ってなんだ、あれほど他人の立て方を知る奴はそう居ないだろうが。
「もちろん他にも優しいとか善人だとか計算高いとかわりと面倒くさいとか思ってることあるよ」
「容赦ねーな」
「あはは、そうかな? でね、千空。誰それって君が言うのは当たり前だ、僕も君が一番考えないような答えを出したから」
人それぞれ受け取る印象が違うのは当然のことだろ、と羽京は微笑む。
「君自身が傑物だからピンと来ないかもしれないけど、たった19歳で看板番組を持つって相当だよ? 事務所のごり押しだけじゃ無理でしょ、アイドルじゃないんだし」
そういうものなんだろうか。芸能人なんか年齢関係なしにのし上がるようなもんだろう? 不思議そうな顔をしている俺を見て、羽京は苦笑した。
「実力と人気だけで売れれば苦労しないよ。縦社会ってそんなもんじゃないもの、ゲンはそんな中で最短ルートを駆け上がった。ねぇ、ただ人が良いだけの青年がそんな事を出来ると思う?」
例えそれが普通とは少し違ってメンタリズムを駆使するマジシャンだとして、成人にも満たない青年が、海千山千の業界人だらけの芸能界で成り上がれると思うかい? 諭すようにも似た声音で羽京が語る。俺はただじっと聞いている。
「自分の利を見誤ることなく見極めて、強かに泳ぎ切って辿り着いたんじゃないかなぁなんてさ、僕は思うんだ。流される事なく、上手いこと」
勝手な想像だけれどね、と付け加えた後に、彼は俺を指差した。
「で。そんなゲンにとってのイレギュラーが千空、君ね」
「人を指差すなよ」
「ん、ごめん。状況が状況だったっていうのもあるとは思うんだけれど、自分の主導権受け渡してでも自分より君を優先させることにプライドかけて。そりゃ千空から見たら尽くしてくれる健気な奴に見えるよねぇ」
「……否定は、しない」
「ふふ、さて千空ここから本題だよ。質問です、そんな性質でありながら自分よりも君を第一としていた男が君よりも自分を優先しました。男は誰かに何かを言われたくらいで改心して以前と同じように戻るでしょうか?」
「あ゛あ゛ー……手厳しい指摘しやがんなぁ、羽京先生よォ……」
ーー俺の使い方は俺が決める。
思い出してからは頭からこびりついて離れない言葉がまた甦る。アイツは決めたのだ、自分自身の使い方を。そう易々と意見を翻す訳がない。
「前提条件崩れちゃったんだからゲンの思考なぞるの難しいと思うし、何処だとか何故だとかより、どうするかを考えるのをオススメするよ。ゲンが離れた今どう生きるかをね」
「そりゃ羽京先生からのありがたいご教授か?」
「ううん、あさぎりゲンの友人としての言葉かな。それから君の年上の友達としての」
冷めたコーヒーを飲み干して、羽京は立ち上がる。
「優先順位変わっただけで君が大事じゃなくなった、って事はないよ。彼は君を裏切らない」
「ほーん、ならこの仕打ちは?」
「さぁ? 洒落になり損ねた戯れかもね。それより千空、そろそろゲンが傍に居ないって話が出回る頃と思うから気をつけなよ?」
「何を」
「君を利用したくても手をこまねいていた輩が押し寄せてくるから頑張ってねって話」
まさか君知らないの? 目をぱちくりとさせて、羽京が曰く。
「石神博士の後ろには悪魔の顔をした守護者が立っている」
「はぁ? なんだそりゃ?」
「ゲンが耳に入らないようにしてたのかな、恥ずかしくて。人畜無害の皮を被り敵を手玉にとって笑う悪魔にドクターは守られているって、君が注目されて少し経った頃から言われてるの」
最近は減ったが、交渉事には必ずゲンを連れて行っていた。メンタリストのお仕事だもんねぇと言いながら、時には前に出て、時には後ろから俺を操って、商談や協力者との会談を幾度も成功に導いたものだ。
守護者か、誰だ言い出した奴は。悪くない。
「そっちは問題ない。何せその悪魔に長年仕込まれているもんで、お陰様で」
「置き土産もばっちりとは、流石はゲンだ」
必要ならまたいつでも話を聞くからね、そう言い残して羽京は店を出て行った。
羽京のしていた心配は、半分が当たったが半分は外れだった。当たったのは、俺の知名度や研究を利用したい輩からのコンタクトが増えたこと。外れたのは……ゲンが居なくても、優秀な事務スタッフたちが案件をきっちり捌くので然程の問題がなかったということ。
「ええ、それは勿論。これでも私たち、目は肥えておりますので」
これはとあるスタッフの発言だ。一緒に働くなら気分良く働ける方が良いだろう、と新人研修の中にコミュニケーション実習と銘打たれたものが含まれているそうだ。どんな風に接すれば人は快く相手を受け入れるのか、声の高さや抑揚まで含めて教わるのだという。そして研修の最後に言われるのだ、これらを全て駆使して会話するような奴は疑え、聞き心地のよい言葉に惑わされてはいけない、印象に引きずられず話の中身をしっかりと精査して見極めろ、と。
『意識的にやる奴は必ず理由がある。何故その相手は自分を良く見せたいのか、その理由の善悪に注視してね』
誰が言ったかって? あのメンタリスト以外に誰が居る。
「実際に研修の時にやってもらったんですよ。文面で見たら明らかにおかしいのに、あの人が喋ると何となく納得してしまうんです。あれを見たら誰相手でも警戒しますし、他の人ってもっと下手くそだから私たちも我に返っちゃうんですよね」
寝技は任せる、とアイツが居るときは丸投げしていたが、居ないときに困るでしょうと入れ知恵はたんまりとされてきた。その入れ知恵は俺だけに留まらず、広範囲に渡っていたようだ。
いや、教えていたのは何もアイツだけじゃない。人は増えたのだ、知識人は他にも居る。石化前に新人研修で教わった接客マニュアルが案外役に立ちまして、と知識を共有していた者も居た。
大丈夫ですよ、石神博士、自分たちに任せてください。スタッフたちは口を揃えて、自信に満ちた顔で言う。
「今まではあさぎりさん任せにしていましたけれど、これからは自分たちも頑張りますから」
誇らしげに笑みを湛え、誇らしげな態度で、言うのだ。
「頼もしいもんだな、期待してんぞ」
その言葉に嘘はない。心からそう思っている。なのに何故か、告げながらヒヤリとした気配を感じた。
『ストーンヘンジの名残っぽい石があった』
『ジャガイモは偉大』
『マフィアの後継がうまれるのは仕方ないことなんだろうね』
『南蛮と言えばオランダとポルトガルだった時代もあるのに、どっちの国のこともよく知らない事が今ちょっと悔やまれる』
『スペイン艦隊て何?』
『こんな所で初めてのシェイクスピア劇を見るなんて、柄にもなく感動しています。惜しむらくは内容が合っているのか分からないこと』
たまに届くハガキはいつも他愛ない言葉だったが、無碍にできない情報も時折混ざっていた。どうやら今はヨーロッパに居るらしい。ただ、書かれている内容と消印は一致していない。他国へ移ってから送っているのだろう。同時に二枚届く日もあった。
早いもので、あさぎりゲンが居なくなってから一年以上が過ぎ去った。あの日から何も変わらない主不在の部屋へ、我が物顔で入り込んで窓を開ける。空気が淀まないように。
アイツが好んで飲んでいたハーブティーは勝手に俺が飲みきった。腐るものではないが、残しておいても風味が落ちるだけなので。飲みきっても、俺の手元には今、同じブレンドの新しいハーブティーがある。季節になるとスイカが送ってくるのだ。居ないから送らなくていいと言ったが、もし戻ってきた時になかったらゲンが残念がるかもしれないからと、例年より少ない分が届いたのは先日のことだ。きっとこれも、俺が飲みきることになるだろう。
ーー来年行われる予定の、石化復活から初の柔道世界大会開催地がカナダに決定致しました。金メダルを期待される女子70キロ級代表内定の花田仁姫選手は、この大会を最後に引退を宣言しており……ーー
会うことが減った昔馴染みの名前がラジオから聞こえてくるのにも随分と慣れた。テレビはまだ復活していない……というか、テレビその物は作れても放送するコンテンツを作り続けるにはまだ準備不足なので後回しにしたのだ。今こうして話しているアナウンサーが誰かは知らないが、ラジオ放送を本格的に始めた頃は人が足りず、ゲンやルリも頻繁にパーソナリティを務めていた。そういえば居なくなる少し前までは二週に一度、昔の深夜ラジオのノリで番組も持っていた。番組改編で終わっちゃったよ仕事減っちゃった~、なんて話をしていたのは居なくなる二ヶ月前だった。仕事に穴を開けずに済むようになった、というのも居なくなるキッカケのひとつだったんだろうか。アイツが喋っていた枠で、今はどんな奴が何を話しているのか、俺は知らない。
ひとつひとつは些細な事だ。だがその些細な事柄たちは、揃って同じ主張をする。
『あさぎりゲンである必要はない』
アイツに任せきりだった仕事は後継が育ち引き継がれている。アイツがやっていた番組も終わってしまえば別の番組が当然のように始まる。アイツの為に用意されたハーブティーすら、アイツではなく俺が消費している。
世の中は、あさぎりゲンが居なかろうと淀みなく恙なく不都合なく進むものなのだ。
俺だって、そうだ。居ない事を意識しなくなってきた。一人の飯にも明かりのついていない家にも深夜にただいまと呼びかけてくる小声や朝の台所で湯を沸かしながらおはようと欠伸まじりにかかる声が無いことにも慣れた。慣れてしまった。
(俺は、)
お前が居なくても、生きていける。
(それを寂しいとも、もう思わない)
「なら、代わりに隣に居てやろうか? 千空」
先日会った時のコハクの言葉が甦る。生きていて、無事で、楽しくやっている、それ以上に何を望むんだ? 心底不思議そうな顔でアイツはそう言っていた。他に何が要るのかと。
「私が居てやろうか? 空いた、その隣に」
こんなにも心を配られているのに、ただ其処に居ない程度のことが何故受け入れられないのだ? 幸せに生きてくれているのに。コハクが言う。
「お生憎だが、俺の隣は埋まってんだよ。いつだって」
やっとその答えに辿り着いた俺を、コハクは笑い飛ばして。
「ああ、そうだろう。そうだろうとも!」
嬉しそうに、肯定した。
さっき届いたばかりのハガキを手に取る。
『パントマイムの腕が上がりました』
相変わらず脱力するような内容だ。言葉が通じない国でもどうやら上手くやっているらしい。
人を散々に振り回しておいて、好き勝手に楽しそうに生きやがって。笑いが込み上げてくる。俺が其処に居なくても、お前の世界も安泰で幸せらしい。
ーーじゃあ、行ってきます千空ちゃん。
あ゛あ゛、行け行け。好きなところへ行ってこい。
例えお前が此処に居なくても、俺の隣はお前で埋まってる。
何も言わずあんな風に居なくなったことには未だ不満を持ってはいるが、年々その気持ちも薄まっている。時間薬とはよく言ったもんで、あの日の傷口はきっともう塞がった。
一年、二年、と年を経るごとにハガキが届くペースは落ちてきた。俺も郵便受けを小さな期待と共に覗くことは止めた。それでもハガキを見つけては口元が緩むことくらいは許されるだろう。
時折、龍水を通して南の捜索報告を受けている。簡素な捜索報告書とともに、嬉々として書かれただろう国際情勢レポートを大量に認めては小包で送ってくると龍水が満悦顔で言っていた。
『たまに取材先の上層部で「アジア人の旅行者から聞いたんだが」って君の研究所について聞かれるんだけど、本当にゲンは何なの?』
そのアジア人は若いのに半分が白髪の珍しい髪色をしていたらしい。何をちゃっかり営業活動してんだ、俺より自分の宣伝をしろ。
足跡を隠すのを止めたのか、最近は居場所が追いやすくなってきたけれど、いつもあと一歩のところで出し抜かれるから腹が立つ。南の手紙には強い筆跡で、そう書かれていた。
研究漬けの日々の中でも色々あった。例えば居なくなった頃から掛かりっきりだった研究の論文は近頃やっと査読が終わったし、ウチの若手の研究にスポンサーがついた。今まで全く縁がなかった企業だが、とある白黒頭のアジア人から飲み屋で聞いた話が回り回ってトップへ辿り着きわざわざ日本にまで視察に来たと言っていた。
大樹と杠には娘が産まれて、何故だか名付け親を頼まれた。悩みに悩んだが、何処ぞのメンタリストが若い頃にぺらっぺらと花言葉を話していたのがこんな所で役立ったのだから驚きだ。それにしてもこの時期を見逃すなんざ勿体ないことしてんなぁ、テメー。
最近の捜索レポートには、協力者らしき若い男とあと一歩のところで逃げられたと書かれていて久しぶりに凹んだ。誰だ、そいつは。相方は俺だろうが。年下構うのがそんなに良いのか、この野郎。
それから近所にうまいラーメン屋が出来た。
そんな色々ある日々に紛れて久しぶりに届いた便りは、ハガキではなく分厚い封書の形をしていた。
ーー親愛なる千空ちゃん
元気? お久しぶり。ちゃんと食べて寝てますか? 生活を整えてくれる人間が居ないのなら、自分できちんとやらないとダメだよ。誰の所為で、とか思っていそうだけれど、俺の所為という自覚があるから書いています。健康第一だよ。
君の隣から離れて五年ほど経ちました。決して短くない時間です。その間にどんどんと復興していく世界の姿は目を見張る物がありました。取り戻したもの、取り戻せなかったもの、新しいもの、未だ古いもの。様々な物が入り交じって何だか不思議な光景の、このすべては君の功績だ。言い過ぎなんかじゃないよ、誇らせておくれ。
そういえば、また何だか画期的な論文を提出したそうだね? 生憎と俺には難しすぎて理解は出来なかったけれど、君の研究がまたひとつ実を結び次代に繋ぐものが増えたことは分かったよ、おめでとう。
さて、この五年の間で初めて長文の手紙を書いていることからも気付いているだろうけれど、そろそろ俺が居なくなった経緯を語ろうと思います。先に謝っておくけれど、深刻な理由じゃないです。あんまりにも俺は君に全てを擲っているなあと我に返ってしまったので、ちょっと離れてみました。それだけ。
出会ってからずっと君の隣で生き抜いて、生活が落ち着いてからもお互い気楽だからと一緒に暮らして、誰よりも君の意図と意思を知る者として忙しい君の代理人として仕事して、オマケにすぐ不摂生する君のフォローなんかもしちゃって。その生活に不満はなかったよ、何も。
それに気付いて怖くなった。
今更ながらに俺の中の君がデカすぎる。このままじゃ君なしで生きていけなくなりそうだから、ちょっと物理的に距離を置いて俺の中の君を適切なサイズにしなくてはと思ったんだよね。
そんなわけで、君から離れるついでに世界を見て回ることにしました。君が救った世界です。お偉方の視察では見られない、雑踏の中を選んであちこち回ろうって。それを本当に見たいのは君だろうから、俺が代わりに見ています。やってること視察と変わんないなと二年目に気付きました。開き直って色々そういう目で見ては、今まで培った人脈辿って各所に内政干渉って言われない程度の報告書を提出しておきました。ついでに君の研究の事とかもそれとなく触れておいたんだけど、少しは役に立てたかな。
笑っちゃうよね、結論として俺の中の君はデカすぎるまんまです。何にも変わらなかった。君を考えなかったのは、旅費稼ぎに路上でマジックをしてた時くらいかな。結局のところ俺は何をしようとももう全ては君に帰結するようです。人の有り様を根っこから変えてくれちゃって何してくれてんの?
でもまあ、お陰で俺も腹をくくりました。何するつもりだと嫌そうな顔しないでください、元に戻るだけだから。君に俺を擲つだけです、以前変わりなく。君なしで生きていけなくなっても良い、ということにしました。
俺は俺の意思で、君に俺を捧げます。
あの頃のような恋情に似た熱意とは違うけれど、熱に浮かされなくても俺は君を選びます。たったこれだけの、わかりきった答えを出すのに五年もかかった。馬鹿だね、俺も。
あとこれだけは謝罪する。エアメールの消印を辿って追ってきた君の雇った捜査員らしき人を何度も撒いたのは、君との力比べが楽しかったからです。まさかそんなに凹んでいるとは思わなかったんだ、君なら悔しがって更に俺の裏をかこうとするだろうと……。この手紙を書く前にとうとう南ちゃんに捕まったんだけど、そこで説教を食らいました。ごめんなさい。
この手紙を投函したら、すぐに帰国の準備をします。手紙と俺とどっちが早いかな? あんまり変わらないかも。俺を背負いたくないのなら逃げるのをオススメします。まぁ逃げる暇もないかもしれないんだけどね。
じゃあ、また。
君の浅霧幻より
帰宅して見つけたその手紙。三度読み返し、目を閉じ、たっぷり五秒かけて息を吐き出した。
五年間、書かれた内容が予想通りだったことなんざ一度も無えよ。この封書を開けるのにどれだけ緊張したか、お前は知りもしないだろう。
ーー俺は俺の意思で、君に俺を捧げます。
ちがう、そうじゃねえだろう。何で巻戻ってんだよ、捧げるとか言ってんじゃねえ。そんな事はもうしなくていい。
『俺は君を選びます』
その言葉だけあれば十分だ。いくら自分の意思だろうと、俺の為だけに生きるようなそんな生き様を、俺はもう当たり前に受け取る事は出来ない。
(あ゛あ゛、クソ面倒くさい思考しやがって!)
けれど、そうか、俺はもうこの不満も直接ぶつけられるようになるのか。そうか、あ゛あ゛、そうだ。
ガチャ、と、その時。玄関の扉から音が聞こえた。
振り返る。鍵がかかっていた筈の扉が、開く。
「良かった~、鍵の交換されてたらジーマーでどうしようかと思ってたよ~。今からホテル探すの大変だしさぁ」
何の衒いもない声で喋りながら、男が扉を開けて立っている。
「今日は仕事、そんなに遅くなかったんだね」
手にしていた手紙を床に放り捨て廊下を駆けると、其処に立つ男の胸ぐらを両手で掴んで扉へ叩き付けた。
「痛ッ!? ちょっと~……いや、まぁ当然っちゃ当然だろうけどさぁ……」
呆れたような、困ったような、そんな声で、言う。
昔より少し日に焼けた顔。僅かばかり痩せた肩。薄汚れて首回りがヨレヨレのシャツ。馴染みのない異国の香り。アシンメトリーがすっかり崩れた白と黒のロングヘア。
五年間という歳月を身に纏い、それでも何ひとつ変わらない顔をして、そいつは其処に立っていた。
「ただいま。千空ちゃん」
肯くように顔を俯かせる。歯を食いしばって呻くしか出来ない俺は、『おかえり』の四文字すら発声出来なかった。
五年一ヶ月と四日。その日、あさぎりゲンは俺たちの家に帰宅した。
とりまシャワー浴びてきていい? としゃあしゃあと言ってのけ、あっさり俺の手から逃れて奴は自室へ当然のように入っていく。そして五年ぶりの出番となった服を片手に部屋から出てくるとこちらを一瞥もせずに風呂場へと直行した。
感慨やら何やらを指摘する側だったんじゃねーのかよ、テメーは。
膝から崩れ落ちそうな脱力感を抱えながら、クソデカい溜め息を吐く。駄目だ、調子が狂う。まだ動揺しているようだ。
髪を搔きむしり、もう一度溜め息を吐いてから台所へ向かった。とりあえず茶の用意だ。棚の奥に仕舞いっぱなしの小箱からミルクガラスのマグカップを取り出して洗う。湯を沸かしておき、物音が聞こえてきたタイミングでポットにハーブとお湯を入れた。
「あ゛ー……さっぱりした」
洗い髪をぞんざいな手つきで拭きながら脱衣所から出てきたゲンは、漂う香りに気付いてかふと笑みを浮かべる。
「ありがと」
「おー」
応じて、両手にそれぞれマグカップを持ってソファへと腰掛ける。俺に続いて隣に腰掛けたのを見てから、ミルクガラスのマグカップを手渡した。
「……あれ? こんなの持ってなかったでしょ、買ったの? 懐かしいなぁ、なんか。俺ね、石化前に」
「アメリカで住んでた頃にアンティークのやつ買って愛用してたんだろ?」
「うん、そう。あれ、俺この話したっけ?」
「俺相手じゃなく司にな。それ、司からテメーにって預かった土産。五年越しだが確かに渡したぞ」
「……、ああ。あの時に買ってくれたんだぁ司ちゃん」
「このハーブティーも、毎年スイカがテメーにって欠かさず送ってきてたヤツな」
「だねぇ、変わらない味」
ずずっと両手で持ったマグカップから茶を啜り、ふうと息を吐いて小首を傾げた。
「言いたかったことの中心は手紙に書いたと思うけど。どう話せばいいかなぁ、千空ちゃん。何から聞きたい?」
「あ゛ー……そうだな」
聞きたいことも話したいことも、山ほどある。間を持たせるように、先ほど床に落とした手紙を拾いながら考える。さしずめ、まず一番に聞くとするならば……
「一緒に逃げた若い男ってのは何だ?」
「え゛っ、この流れで最初に聞くのがそれぇ!? しかも何その言い方!」
素っ頓狂な声を上げるな、気になってたんだからいいじゃねーか。むっとする俺へ、まぁ良いけどさぁ、と苦笑いを浮かべてゲンは何かを否定するようにヒラヒラと手を振った。
「まず誤解を解くけど、あれね、ナマリちゃん」
「あ゛?……ナマリ?」
「見たくなっちゃったんだってさ、ちがう色の空と海。見たことのない色の絵を描いてみたいって。話を聞いて、お金貯めて、とうとう村出てきちゃったんだって」
感慨深いよねぇ、あの子が! とゲンは笑みを深める。
「会ったのは偶然だったんだけどね~。やっぱりちょっと心配じゃん? あの村生まれの子が石化から戻った人だらけの常識も違う外国でひとり、っていうのはさぁ。だから暫く水先案内人やってたのよ。あとほら危ないし、女の子に見えない格好をオススメした。元からボーイッシュな子だしね」
「ふぅん、成る程なぁ……」
「俺もやりたいことのために日本飛び出した側だったから、そんな若者のお手伝いしたいじゃない? それが見知った子なら尚更さ。あとで見せたげるね、エーゲ海の絵。ゴイスー上手よ」
持ってきたスケッチブックたちのページをすべて埋め尽くしてナマリは日本へ帰り、コイツはそれを見送ったそうである。
「テメーは何がやりたくて日本飛び出したんだ?」
「マジック」
間髪入れずに答えが返る。
「ずっと昔も、今も」
俺の目的はいつだってそれだよ、俺にはそれしか無いんだもの。へらりと笑って奴は言う。
「手紙にも書いたけど、俺ジーマーで不満はなかったのよ。メンタリストとして千空ちゃんの無茶振りをひぃひぃ言いながら解決したり世話焼いたりして、俺を千空ちゃんの為に使うのは楽しかった。君からの全幅の期待と信頼を取りこぼさずに受け止めて、それに応じて成果を上げて、でかした! って褒めてもらって。そんな日々で構わないって思ってたのよ」
嬉しそうに、満たされたように、甘やかな笑みでゲンが俺を覗き込む。
「ホントに俺ってば、ーー日和りやがって」
その笑みのままで吐かれた言葉は、
「千空ちゃんの為に生きるのは簡単だよ、そしてとても幸福だ。俺は千空ちゃんからの情を疑ったことはないもの。なんて安穏で幸せな生活だろうねぇ! だから断ち切ることにした。君へ擲ち、君の為にしか生きられない、そこに不満を持たない俺が怖ろしくて……許せなかった」
どこまでも独りよがりな言葉だった。
「……言えよ」
「んー?」
「言えよ、俺に。先ずは」
「ええー? だって話したら止めるでしょ、千空ちゃん。意味が分からねーとか理解できねーとか何やら言って」
そんな事はない、と言おうとして口籠もる。コイツの話を理解して肯くのは今の俺だからだ。五年前の俺ならばきっと止めたろう、コイツが言った通り。
「強行する以外にないのよ。千空ちゃんに止められたら、留まってしまうもの」
俺は千空ちゃんに甘いからさぁ、などとハーブティーをまた一口飲みながらゲンが笑う。ああ、知ってる。
「……正直、」
「なぁに?」
「俺からしたら予徴もなくテメーが消えて、キツかった」
「うん。こんな消え方をしたら、千空ちゃんはきっととても傷ついてくれるんだろうなって思ったから、ああいう逃げ方をしたの」
当たり前の日常の中から、呆気なく姿が消えた。あのじわりと不安が這い寄る感覚も、疑惑が確信に変わった瞬間の空虚も覚えている。
この男は、それを意図的に与えたのだと言いたげに、笑みを深めた。
「いくらでも自分で立ち直るし君の周りにはたくさんの人が居るから大丈夫だとしてもさ、癒えようと、それを忘れようと、傷付いた過去は変わらない。事実は残る。俺は、だからね、千空ちゃん、君を傷付けたかった」
その心に引っかき傷をつけた事実を抱えるだけで俺は満足できるのよ。こちらに伸ばされた指が、とん、と俺の心臓の上に止まる。
「俺は君にとって、君を傷つけ得るだけの価値がある存在だったと自惚れたかった」
俺の目を覗き込んで、そう言った。
「謝らないから、許さなくっていいよ」
「……ハナっから怒ってねーよ」
「千空ちゃんてば寛大~」
けらけらとわざとらしい笑い声を上げてソファの背に凭れたゲンは、少しばかり疲れたような息を笑い終わり小さく吐いた。
「俺、もう戻れないかもなって思ってた。そうでもなきゃ千空ちゃん傷付けようなんて真似しないよ。いつか全てを手紙に書くなら、きっと〆には『君ともう会うことはなくっても、俺の感謝と敬愛は変わりません』なんて書いたりして、それっきりにするんだろうなって。そうやって離れてやっと、君を俺のように思うことのない『俺』を取り戻せる……んー、違うな。離れたままでないと取り戻せないと思ってた、かな」
そこで言葉を一旦切ったゲンは、脚を伸ばして俺を軽く蹴飛ばした。
「離れてもなーんも変わんなかったよね~、どっかの誰かさんのキャラが濃すぎる所為で~」
「あ゛? 知るか、そんなもん」
「いや、だってさぁ……流石に予想外だったよ、千空ちゃん居なくても違和感ないくらい存在ジーマーで薄まってくんないんだもん」
話しながらもつつくように蹴飛ばされるのが鬱陶しくて蹴り返す。互いにゲシゲシと蹴り合い、いい加減面倒になって蹴れないよう両脚をゲンの太股の上に載せてやった。
「ちょっ、コラ千空ちゃん、重い」
「んで? なんで変わんねーって分かったのにさっさと帰って来なかったんだよ」
「うわぁ聞き流しやがったよ。やだもう、千空ちゃんってば構われたがっちゃって~」
「あ゛あ゛、何せ暫くほったらかしにされたもんでなぁ」
言い返す俺の言葉にゲンが怯む。ざまあみろと鼻で笑えば、揶揄う為の言動と思ったのだろう。少し照れたような、悔しそうな顔で視線を逸らした。
(軽口じゃなくて心底の本心だっつーの)
落とされないのを良いことに、脚を載せたまま顎をしゃくって話の続きを促す。肩を竦めて、ゲンは話を続けた。
「ぶっちゃけ一ヶ月くらいでもう俺これダメかなと確信してたんだけど、時間が経つうちに何か変わるかなって試してた。一年目くらいは意地張ってる気分で、二年目には居ても居なくても大差ないなら居ない方に慣れようと過ごしてた。三年目は君が居なくても俺は幸せに生きられるらしいと安心して。四年目には追いかけてくれてるのならいつ捕まってもいいかなくらいの気持ちになって」
「逃げ切っておいてよく言うな?」
「だって滞在予定の間に追いついてくれないんだもん。ナマリちゃんと一緒の時は、今ここで捕まると放り出すことになっちゃうから捕まってあげられなかっただけですー」
「五年目は」
「ナマリちゃんの帰国を見送って、南ちゃんに説教されて、その時にパスポートの期限のこと思い出してさ。あっ、もういいや帰ろ、って何かストンとそんな気持ちが落ちてきて」
「……パスポート」
「パスポート。大事でしょ?」
劇的な事件は何もなく、ひとり日々を重ねることで抱えたものを消化し、何てことない事柄を切っ掛けに新しい歩みを進める。
(……っとに、スゲー奴)
人を振り回して、自己完結して、いっそ清々しいほど自分勝手だ。どんだけ猫被っていやがった? だめだ、笑えてきた。
『すごく自由だったんだ。見たこともないくらい、軽々としていた』
いつか司が言っていた言葉を思い出す。作り物の軽さとは違う、この男の本来の軽さがこれだと言うのなら俺は随分と勿体ない時間を過ごしたもんだ。俺という重石のないコイツの方がよっぽど唆る。
「もういいよ、俺の在り様が根底から変えられてももう構わない。居ても居なくても大差ないなら、実物の千空ちゃんの隣に居る人生の方が面白い」
載せていた足を軽く叩かれる。指示に従って足を下ろすと、真面目な顔でゲンは俺へと体ごと向き直った。
「勝手承知で言うけど、もっかい俺のこと使ってくれないかな? 俺はまた千空ちゃんに身を捧げるような生き方がしたい」
「要らねー」
「即答すんのはドイヒーじゃない!? 受け取ってよ!!」
「断る」
ぐっと言葉につまるゲンを横目にマグカップをローテーブルへ置く。それから腰を浮かせて両手を伸ばし、丸い頭を揺すぶるようにぐっしゃぐしゃに髪をかき混ぜた。
「う゛ぇあッ!?」
「テメー、図太いのか遠慮しいなのかハッキリしろよ」
「はい!?」
ぼさぼさ頭を鼻で笑って身を引くと、俺を見上げる呆然とした顔が目に入った。
「捧げなくていい、んなもんは要らねー。そんなことの許可を取ろうとすんな。俺はお前が居なくても生きていける」
「さみしいこと言うなぁ」
「気付かせたのはテメーだろ」
俺の人生に組み込まれたお前が欠ける事など生涯あるわけがないと、そう信じ切っていた。そんなこと、あるわけないのに。お前は他人なのだから、いつだって道を違えることは可能なのに。お前から与えられる全てに慣れきって、別個の人間であると知っているのに忘れていた。お前は俺じゃないのだから、俺の都合で生きているわけがない。
「擲つだの捧げるだの、そんな意気込みでもなきゃ俺といられねえってのか? テメーは」
「い……いやぁ、だって、ホラ。やっぱり売り込みにはメリットの提示は大事じゃん?」
「メリット? 生きてりゃいい」
お前が生きているなら、俺はそれでいい。見開かれた目を覗き込む。
「テメーの言葉を借りるなら、俺もテメーからの情をもう疑わない。好き勝手に楽しく生きてりゃそれでいい。そこに居ようと居まいと俺の傍らに立つのはあさぎりゲンただ一人だ、俺はその決め事だけ抱えていれば生きていける」
だから安心しろ。
「どれだけでも我が侭に生きてろ。折角イイ男になって戻ってきたのに、わざわざ見栄張りの小せぇ野郎に戻ろうとしてんなよ」
テメーが何をしようと、どうあろうと、お前の席はいつだってこの傍らに空けておく。
じわりと顔を染め、引き攣ったような笑みを浮かべたゲンは、言葉にならない声を上げて俺の顔を片手で掴んだまま押しやった。おい。
「待って待って待って千空ちゃん顔が良い! ちがう間違えた顔が近い!」
「痛え!」
「五年振りの千空ちゃんの顔のドアップ心臓に悪い!!」
「分かったから離せアホ! テメー指の力強えんだよッ」
告白紛いの返事にアイアンクローかますとは良い度胸じゃねえか、この野郎。力が緩んだ隙を見て無理やり手を引っ剥がす。
「……バイヤーすぎる……千空ちゃんちょっと見ないうちに男前に拍車かかったねえ……」
「なんだそりゃ」
「いやぁ、だってねぇ……ハハッ! あー、うん。俺はさぁ、そういう千空ちゃんだから、何だって君にあげたくなるんだよねぇ。オッケ~、好きにしていいなら押し売りする」
「……言ったな?」
「うん?」
「何だって、つったな? 今」
「言ったけど、え、なになに急に不穏なんだけど!? 俺のこと別にいらないんじゃないの!?」
「要らないなんて言ってねーだろ、俺が望むからって自分蔑ろにしてまで人生差しだすんじゃねーって話だろうが」
「えー……つまり千空ちゃんは俺を置いときたいけどあくまでもそれは希望なだけで、俺の自由意志の尊重が最優先、と。うっわ、好き」
「テメーさては頭あんまり回してねーだろ? 疲れてんのか?」
「メンゴ。ひとっ風呂浴びてもリセット出来てないくらい浮かれてんだと思う、わりと脳直で喋ってる。だって久しぶりに脳内の千空ちゃん以外の千空ちゃんとの会話よ?」
「脳内の俺の方を主体におくんじゃねえ」
「そうねえ、今日からは実在してる方の千空ちゃん主体に置くよ。で、何の話だったっけ?」
わざと話逸らしてんじゃねえだろうな? コイツ。うんざりしながらマグカップを手に取る。冷めきったハーブティーを飲みながら横目で覗うと、どことなく不安そうな顔で彼も茶を飲みながらこちらを窺っていた。
小さく息を吐いてから、残った中身を一気に飲み干す。向き直る俺を見て、彼もカップを置いて身体ごと振り向いた。
「ゲン」
「うん」
「何でもって言うなら骨よこせ」
「……、はい?」
「好きに生きれば良い、だが死んだら話は別だ。テメーが何処に居ようと誰と居ようと、俺は何を投げ捨ててでも骨を拾いに行く。そんで墓まで抱えて持ってく」
「せ、……くう、ちゃ」
「同じ墓なら地獄で落ち合うのも楽だろうよ」
だから、もしも俺が先に死んだなら。
「テメーも俺の骨を抱いて死ね」
強欲は百も承知の願いだが、何でもというのならお前を抱えて眠る終の安寧の権利が欲しい。
「おああああああ……!」
両手で顔を覆い隠し、ゲンは悶えながらソファの背に沈み込んだ。
「あの、千空ちゃん、それは」
「……んだよ」
「それは、同じ墓に入ろうっていう、古式ゆかしいプロポーズと受け取ってもよろしいのでしょうか……?」
「あ゛!?」
「えっ、違うの!?」
驚いて飛び起きるゲンの顔を、俺もまた驚いて見返す。プロポーズ?
「いや。そうか、それでいいのか」
そうだ、そんな約定の形もあった。
「うわぁ……ジーマーで千空ちゃん、眼中に結婚て選択肢が入ってなかったんだねえ……」
「それで返事は?」
「イエスはイエスなんだけど、俺も言語化したい色々があるんで正式な答えは明日でいい?」
「是か否か以外に何の答えがあるってんだよ?」
「はいはい、それは明日ちゃんと教えてあげるから」
今夜の話はもうオシマイ! と両手を叩いてゲンはソファから立ち上がった。疲れたのだと言われると、それ以上話を続けるのは躊躇われる。結局、今夜はお開きにすることにした。
部屋へ消える姿を見送ってから俺は、おやすみと告げる声の懐かしさに少しだけ喜んだ。
翌朝、俺より先に起きたゲンは五年前と変わらない眠たげな顔のまま台所で朝食の支度をしていた。
「おはよう千空ちゃん」
「おう……おはよう」
「~~ッちょっと千空ちゃ~ん? 寝起きとは言え気ぃ抜けすぎじゃない?」
「あ゛?」
「そんな嬉しそうな顔されると流石の俺も照れるんだけど」
余所では気をつけなよ、という声を背中に受け、首を傾げながら洗面所に向かう。鏡の中の自分が脂下がっていた。……言い訳もできねーな、これ。気まずさを誤魔化すように顔を洗う。頬の火照りに冷水が心地良かった。
同じ食卓で朝食をとり、日中は出掛けるが夜までには戻るよ、こっちも早めに切り上げて帰る、等の予定の確認をし合ってから家を出る。五年前と変わらぬ朝のルーティーン。
「……くっそ」
緩む口を覆いながら俯いて歩く。どれだけ俺が飢えていたのか思い知らされるようで腹立たしい。
(いっそ暫くの間アイツを構い倒せば落ち着く……のか?)
いや、アレは最初は戸惑おうともすぐに切り替えて悪ノリするタイプだ。さて、どうしたもんだかな。考えているうちに研究所へと辿り着く。
「おう、千空! 随分と機嫌いいな、今朝は」
「……そんっなに分かりやすいのか、俺は」
あとからやってきたクロムは俺の顔を見たなりそう告げた。渋面を作りながら聞けば、そりゃ分かんだろ、と事もなげに言う。
「どんだけ長い付き合いだと思ってんだよ。んで、何かあったのか?」
「あ゛ー……帰ってきた」
「ん?」
「ゲン、が。帰ってきた、昨日」
「マジか!? ヤベー!! おい皆! ゲン帰ってきたってよ!!」
クロムの叫びを聞いて、近くの職員たちが騒然とする。オイ待て、何だ、この盛り上がりは。
「えっあさぎりさん帰ってきたんですか!? 昨日!?」
「よっしゃ! 五年以内ッ」
「いや待て、逸るな、まだ分からないぞ!」
「所長! あさぎりさん正確には何年何ヶ月に戻りましたか!?」
「五年一ヶ月四日」
「畜生! 誤差が憎い!」
「よし確定! 七年以内! 連絡網回せ!」
……、おい。
「なんだよ千空、皆でゲンの奴がいつ帰ってくるか賭けてたの知らなかったのか?」
「や、流石に所長の耳に入れるわけないじゃないですか」
一年以内、三年以内、五年以内、七年以内、そして七年以上。この五つに分けて賭けをしていたらしい、研究所職員ほぼ全員参加で。ちなみに三年以内が一番人気だったらしい。知るか。
「クククッ……ほーお、そうかそうか。そんなに俺らの行く末を気にかけて頂けてたとは驚きだなあ? んなことに脳みそ使ってるってこたぁテメーら余程に暇らしいな……?」
これで後回しにしていた仕事が数日の間で一気に片付けられそうだ。遠慮なくこき使える人材が育っている事のなんと有難いことか。覚悟しておけよテメーら! と声高に告げると、呼応するように大勢の悲鳴とクロムの爆笑が研究所内に響き渡った。
「ギャハハハハハ! うっそ~、そんな事になってたの!?」
帰宅し、夕飯の仕度をしながら今日あった事を話せば、彼は腹を抱えて笑い出した。
「あ゛あ゛、あの野郎ども……! てか胴元、あさぎり班の奴らだったんだがなぁ? ええ?」
「ジーマーで? んっふふ、そっかあー! いやー良く育ってくれて先生は嬉しいよ!」
「ざけんな、この愉快犯製造機が」
研究所立ち上げの際、事務方に広報と渉外をメインとした人員を置きたいと作ったチームがある。見目形から口の上手さ、性格、性質、交渉に向いている人材を集めゲンがその技術を徹底的に仕込んだチーム……の筈だったのだが、当時筆頭だったゲンが『情報扱うのなら研究所内の全体像を知らないといけないよねぇ』と言って様々な部署に顔を出しては聞きかじった問題をあっちの別部署へ投げこっちの部署へ投げ、または解決法をチームに考えさせ、と何故か所内の御用聞きと問題解決を兼ねる謎部隊へと進化した。
その姿を見て、コイツあの頃からやってること変わんねぇな、とクロムと話したのをよく覚えている。いつしか広報という名前は対外的にしか使われなくなり、ゲンが役職から引いた後も『あさぎり班』という通称が残ったのだ。
「それなら相談役からも降りようかなぁ、俺」
「いつ顔出してくれるのかって聞かれたぜ? 研究のお偉方ならまだしも各国のお偉方の相手が増えてツラいアンタの名前出してやってくるんだから助けてあさぎり師匠! だそうだ」
「この五年やってきたんだから甘えるな、やんなさい。って伝えといて~。拗れたときは助けてあげるから、その時は教えてね千空ちゃん。でも俺の助けがあるってのは内緒にしといて」
意外とスパルタだなと笑いつつ、そういえば以前ならこういう時ですら俺の研究に邪魔が入るといけないから~と早々に手助けをしてくれていた気がしてきた。さっさと片付けた方が良いでしょ、と。
「おー、伝えとくわ。あさぎり師匠は本業でお忙しくてそんな暇がねえってな」
「あれ、話したっけ? 俺」
「勘」
「さっすが千空ちゃん冴えてる~!」
適当ぶっこいただけで実は勘ですらないのだが、それは言わぬが花だろう。曰く、アメリカで半年ほどサーカスに混じってマジックショーをやるのだという。
「いつ?」
「来年の夏からスタート。もちろん打ち合わせも練習もあるからもっと前に行くけど」
「そうか」
「昔ほど機材も充実してないし、そもそも人数だって少ない一座なんだけどさぁ。向こうで偶然知り合って仲良くなってね、マジシャンだっていうなら出ないかって誘ってくれたの。客演で何度かやったあと、次は一緒に回ろうって」
その顔に浮かぶ表情は、俺と悪巧みをしている時の愉しさとはまた別の、まるで子供が期待に満ち溢れるかのような楽しげなものだった。
「……ちゃっかり逃げ場用意しとくとは周到なこった」
「そりゃ準備しとくに越したことはないでしょ? 荷物処分して引き払う事くらい想定してたよ。今日、昼間はどっかスポンサーやってくれそうなとこないか龍水ちゃんに相談しにいってたのよ。借用書を貰うついでに」
「借用書?」
「日本までの渡航費足りなかったから南ちゃん通して龍水ちゃんにお金借りたの。借用書じゃなくて借金分の情報売る形になったから助かったけど。そんなわけで千空ちゃん、生活費しばらくの間は出せそうにないんだけど頼っていい?」
「いい、いい。んなもん気にすんな」
「ありがと。いくらか南ちゃんから取材先の紹介料で入る予定だから……」
「いらねえって。準備にも金かかるだろ、気になるならショーでガッポリ稼いでからくれ」
それに共同財布は今に始まったことじゃないだろうと告げれば、キョトンとした顔のあと首を傾げ、ようやく思い至ったとばかりに破顔した。
「ドラゴ稼ぎはまた別でしょ?」
「そうか? 似たようなもんだろ」
あの時は稼いだねぇ、ケタケタと笑って、じゃあ甘えるわシクヨロ~と軽い調子でゲンが言う。
(……、ああ、そうだったのか)
ふとその言葉に引っかかりを覚え、原因に気付き目を細める。元からあんまり言う奴じゃなかったけれど、甘えを言い出す時は大抵こっちが言い出せないから『甘えられて仕方なく』というポーズを取らせる為に言われる事の方が多かった。あとは仕込みの為の方便だとか。……気兼ねのない軽い甘えをコイツにされたこと、今までにあったか?
(こんなにも俺たちは歪だったのか)
「ん? どうした、千空ちゃん」
「いや、喋り倒して手が止まると大樹たち来る時間になっちまうなと」
「おっと、しまった。それもそうね。お子ちゃん早く見たいな~!」
「アレだ、百夜が俺にウザいほど絡んできた気持ちがやっと理解できたわ」
きっと俺が誤魔化したことに気付いているだろうが、ゲンはそれには触れず話題を変える。ありがたくその気遣いを受けて、喋りながら夕飯の仕度を続けた。
呼び鈴が鳴ったのは、適当に具材を放り込んだごった煮スープがほろほろに煮込まれた頃合いだった。
皿を置いて出ようとしたゲンを手で制し、玄関へと足を向ける。扉を開けると、眠る子供を抱いた大樹と杠が立っていた。
「よう大樹、杠……杠?」
普段通りで変わらない大樹と反対に、杠はピンと張り詰めた表情で立っていた。お邪魔します、と固い声のまま呟くと杠は俺の横をすり抜けてズンズンと中へ進んでいく。
「おい、杠ぁ? 大樹、アイツどうした」
「大丈夫だ、千空」
「あ゛あ゛?」
訳が分からないまま後を追い、大樹は更にその後ろをついてくる。
「久しぶりだね。杠ちゃん」
居間へと入れば、食卓の傍に立つゲンと、その目の前に立つ杠が視界に入った。こちら側に背を向けているから杠の表情は見えない。
「ゲンくん」
「はい」
ふ、と息を吐く音が聞こえた。そして振りかぶられた腕と、パンッ! と響く平手を打つ音。
「……ッ」
「おいっ!?」
思わず杠へ手を伸ばすが、大樹に肩を押さえられる。その手を見て、大樹を見返して、もう一度ゲンと杠を見る。
叩かれた勢いのまま顔を背けていたゲンはゆっくりと顔の向きを杠へと戻し、それから。
「……ありがとね、杠ちゃん」
にへら、と、嬉しそうに穏やかな優しい笑みを浮かべた。
「~~~もおぉぉぉ! ゲンくんの馬鹿あああ! あの後どれだけ千空くん落ち込んだと思ってるの!? 帰ってきてくれて良かったよぉぉ!! お帰りなさいいい!!」
「わー!? 杠ちゃん泣かないで!? ほら赤ちゃん起きちゃうから! お母さん泣いてたら赤ちゃんびっくりしちゃうから!」
なんだコレは。呆気にとられる俺の肩を笑いながら大樹が叩く。だから言ったじゃないか、と。
「帰ってきたら叱ってやるんだ、って」
そうだ。そんなことも、あった。あれ本気だったのか。
「千空ちゃんはホントに良い友達を持ったよねえ」
「……まぁな」
少し赤くなった片頬のままゲンも笑っている。感極まって泣いていた杠も手の甲で涙を拭い、赤い目で鼻を啜っている。
「ああ、そうだ。二人居るならちょうど良いかな」
当事者である筈の俺を置いてけぼりにして勝手に丸く収まってんなぁと眺めていたら、ゲンがこちらへ寄ってきた。
「大樹ちゃんもお久~」
「ああ、久しぶりだな! おかえり、ゲン」
「君は初めましてだね~、起きたら挨拶させてね」
へらりと笑い手を振って大樹と挨拶を交わす。抱かれた子へは、そんな言葉をかけていた。
「俺が言うことじゃないんだけど、二人が千空ちゃんと居てくれて良かったなぁとジーマーで思ってんのね、俺は。二人が居るなら大丈夫って思ったから、俺も好きに逃げられた」
結局こうやって戻ってきちゃったけどさ~、とヘラヘラ笑い、ゲンが俺の前に立つ。笑みが変わる。真摯で、穏やかで、力強い笑み。
「しかも自分勝手なことをした俺を三人して受け入れちゃうし許しちゃうし」
「え~、私けっこう強く引っ叩いちゃったよ……?」
「たったこれだけで禊ぎになるならいくらだって頬を差しだすってば。そうやって皆が甘やかしてくれるんなら、俺も有難く甘やかされようかなと思うんですよ。千空ちゃん、俺はきっとこれからも勝手をするけれど。それでも、病めるときも健やかなるときも、君がどんな無茶難題を出そうとも、俺の心も骨身も君に寄すると誓います」
傅き、俺を見上げ、ぽんと何処からか安っぽい造花を一輪取り出して。
「結婚してください、千空ちゃん」
彼の言葉に杠が顔を輝かせるのが見えた。多分、隣の大樹も似たような顔をしているんだろう。俺は、そっと手を伸ばし、その花を受け取り……
「な、に、を! しれっとテメーからプロポーズしたことにしようとしてんだよ!」
その花で、少し下にある頭を叩いた。
「ええええええ!? 千空くん!?」
「先に俺が言ってんだろうが、昨日。人の言葉ノーカンにしてんじゃねーぞ」
「なにー!? そうなのか千空!?」
「あっはっは! いいじゃーん、俺にだって言わせてよ~!」
先程までとはガラリと様子を変えてゲンが立ち上がる。
「んじゃ、いい加減ご飯にしよっか~冷めちゃうし。千空ちゃん、スープよそって」
「おー」
「待って二人とも!? プロポーズの話題このまま流れるの!?」
「あ゛?」
「ああ、婚姻届は貰ってきてあるから、あとで二人とも保証人欄に記入お願いしていい?」
「用意がいいじゃねーか、百億万点やるよ」
「まあね~」
互いに言い合っている時点で返事なんか決まりきっているのだ、わざわざここで言う必要はない。それに俺の返事を聞くのはコイツ一人で良いし、その時の表情を見て良いのは俺だけだ。さっきの公開プロポーズも恐らく、心配をかけた二人へのパフォーマンスでしかないのだろう。
「格好つけやがって」
「ふっふーん、そりゃあ見栄と格好つけと外連味で生きてる業界人なもんで」
「よく言うわ、リアクション芸人みたいな癖に」
「分かってないねぇ千空ちゃん、あれは職人芸よ?」
思わず呟いた言葉をすかさず拾って返される。軽口を叩き合いながら配膳を進める俺たちを大樹たち二人が嬉しそうに眺めているのが、何でか印象的だった。
飯食って書類を記入して、起きた子どもを大人四人がかりで構い倒して、夜も遅いからと大木一家は帰って行った。
「賑やかだったねえ」
「だな」
「久しぶりだったんじゃない? こういうの。俺はわりと飲み屋で他人のテーブルに混ざってたけどさぁ」
洗い物の水音越しに、ゲンの声を聞く。こういう光景を見るのも久しぶりだ。
「……テメー、本当にいいのか?」
「分かるだろうってばかりに脈絡なく話すの止めてくださーい」
「でも分かんだろ?」
「くっそ、可愛いな……なぁに、婚姻届のこと? 同性婚の制度も出来て年数経ってるし、俺らずっとお付き合いしてきたことになってんだから周りも何も言わないよ」
「周りの話はしてねーだろ、今」
「はいはい、もう洗い終わるからちょっと待ってて」
呆れた声で切り捨てられた。以前より扱いが雑な気がする。……正直、べたべたされるよりこっちの方がずっと唆るな。雑に扱っても許される、と俺に対して考えていることに他ならない。これがコイツの自然体だというなら尚更。
俺の顔を見て、ゲンは訝しみ首を傾げながらも手早く洗い物を済ませて俺の隣にやってきた。
「なんで待てって言われて機嫌良いのよ、千空ちゃん」
「色々あんだよ」
「……あ~、わかっちゃった。これ聞きだそうとしたら墓穴掘るタイプのやつだ、オッケー聞かない」
相変わらず察しが良い。言い聞かせたらどうなるのかと一瞬思ったが、それより早く言わなくていいと釘を刺されてしまった。
「昨日の時点でイエスって言ったでしょ。俺はね、戻ってこれるならそれだけで良かったし、またあの馴れ合いに身を浸しても一向に構わなかったの。そういう覚悟で戻ってきたら、好きにしていいから骨を寄越せだもん、びっくりした。千空ちゃん俺を欲しいの!? って」
「要るわ。めちゃくちゃ要るわ」
「それ聞いたとき気付いたのよ。千空ちゃんって他人の好意を受け止めるのも、それに返すのも上手い人じゃん? しかも博愛精神だし」
「そうかぁ?」
「自覚なくてもそうなのよ。でさ、俺はきっと、君に望んで貰いたくて、望まれることの代償のように尽くしてたのかもなって。……あ、最初の頃は違うからね? もっと単純に千空ちゃんに全賭けして復興の為に働いてただけ……だけ、でもないか。まぁ、うん」
いつから変質したかを説明するのは難しいけれど、と視線を背けながら彼は話を続けた。
「望んでくれなくても返してくれるだけで十分だった、でも望んでくれるっていうんなら俺も欲をかくよ」
振り向きざま、にまりと笑う。毒々しくて小癪で、幾度となく救われた、謀の始まる合図。
「千空ちゃん。俺の止まり木、俺の寄る辺。君が俺を望んで灯す澪標を目掛けて俺は戻るよ。だから」
自然にこちらの口角も上がる。喉の奥に込み上げる笑いを殺しながら。
「俺が戻るに値する人でいてくれよ、千空ちゃん」
「ククク、いいぜ上等だ。いつでも飛んで帰りたくなる特等席を用意しといてやるよ」
心も骨身も寄すると言う、あの誓いを是が非でも守りたいとお前に思わせてやる。前言撤回だ、何処ででも好きに生きればいいが『誰か』と居るのは許さない。お前の中の選択肢に俺以外を挙げさせてたまるか。お前が欲をかくと言うなら俺も欲張る、あ゛あ゛望むさ、誰にも譲るものかよ。
「覚悟しとけ」
「いいねぇ、期待してるよ」
友人と呼べる程度に遠慮がとれ、恋人として手を伸ばすだけの欲が出て、家族になる為の法的手続きの準備も出来た。結局、俺たちの関係にどう名前をつけていいのか未だに俺には分からない。
「馴れ合うだけじゃない二人になろうじゃないか、千空ちゃん」
それでもゲンが何か答えを見つけているのなら、それで構わないと思う。
「そりゃ名案だ」
ひらりと見せられた掌の意を汲んで、同じように手を掲げる。互いの掌を打ち付けて響いた音は、さしずめ祝福のようだった。
謎のおじさんになってみたい「いや~、かわいいねぇ……天使じゃん……! 千空ちゃんメンゴ、今後の俺の課金先こっち優先するわ」
「安心しろ、俺の課金先もこっち優先だ」
「いや千空ちゃんは研究費を最優先にしなさいよ」
「ふふっ、この子ね、千空くんが名付け親で……」
「初耳なんだけど!?」
「そりゃ言ってねーからな」
「そういう事こそ共有してほしいんですけど~!? 最早それ親戚じゃん! うらやましい!!」
「結婚したら二人とも親戚みたいなものになるんじゃないか?」
「えっ、いいの? 大樹ちゃん」
「もちろんだ! なぁ杠」
「もっちろん!」
「やった~! ゴイスーうれしい! じゃあ俺、年一回以下しか会わないけど会う度に変な土産をくれる謎のおじさんポジション狙っちゃお~!」
「なんだ、そりゃ」
「創作物でよく居ない? そういう不思議な親戚のおじさん。あれやるの絶対楽しいじゃん」
「あ゛ー……だそうだが、どうだ?」
「会うのが年一回だけなのはさみしいですなぁ。ねえ、大樹くん」
「だな。もっとたくさん会いに来てやってくれ! ゲン!」
「だそうだぞ」
「なんで千空ちゃんがドヤ顔してんのよ」
遠慮もクソもないでしょ?今更「羽京ちゃーん、おひさ~!」
「やあ、ゲン。久しぶり」
「あんまり時間ないんでしょ? ありがとね、わざわざ」
「いや、僕こそ顔を見たかったしね」
「わ~、卒がない満点な台詞~」
「それにしても、ゲン」
「なに?」
「髪が長いと胡散臭さとかインチキっぽさが増すね」
「龍水ちゃんですら言うの躊躇ったこと直球で言うの止めよっか、羽京ちゃん」
研究所にラジオが流れた日「皆さん、こんばんは。今週も始まりました『ルリの夜語りラジオ』、お相手は石神村のルリです。今宵もお付き合いよろしくお願いします。さて皆さん、本日はゲストをお招きしております。この方です!」
「はぁーい! リスナーの皆さん元気~? お久しぶりです、あさぎりゲンでーっす!」
「ふふっ、はい! というわけで今夜はゲストとしてマジシャン、そしてメンタリストのあさぎりゲンさんにお越し頂いております! 久しぶりですね、ゲン」
「ルリちゃんこそ~! あ、これ聞いてる最近からのルリちゃんファンの皆! 俺は復興前に村住まいもしてた昔馴染みだからね! ゲストなのを良いことにチャラ男が馴れ馴れしく迫ってるとかじゃないからね!?」
「ええ、家族ぐるみ、村ぐるみでの仲良しなんですよ。ゲンは最近まで海外をあちこち巡り渡っていたとか」
「そうそう、何だかんだで五年くらいフラフラしてたよ~」
「いきなり旅立つから手紙が来るまで皆で心も配してたんですよ? 今度、顔を見せに村まで来て下さいね」
「そうね、早めに行くよ。来年はまたアメリカだし」
「あら、そうなんですか?」
「詳しい日程は後日改めて広告を出すけど、アメリカで半年ほど移動サーカスでマジックショーをやることになりました~! はい拍手ー!」
「本当ですか!? おめでとうございます!」
「ありがと~! てことで、これを聞いてるアメリカで広告を出したい企業さん、スポンサー契約お待ちしてまーす」
「ちゃっかりしてますねぇ、流石……。日本でのショーの予定は?」
「今のところはないんだよねぇ。オファーもお待ちしてまーす!」
「日本公演があったら絶対見に行きますからね」
「うれしいなぁ、その時には是非」
「はい! ところでアメリカ以外にも各国を回ったのですよね? 印象的だった物などはありますか?」
「そうだねぇ、たっくさんあるよ。日本が石化する前に知っていた場所と変わりきってしまったのと同じだけ、世界も変わってしまったから。何を見ても驚いてたよ」
「そうなんですね」
「うーん……そうだ、じゃあこの話にしよう。ルリちゃんにも馴染みのある『塩』のお話」
「塩……ですか?」
「村でも作っていたでしょ? どう作ってた?」
「それは、海水を煮詰めて……」
「だよね。でも海以外でも塩って採れるのよ、それが岩塩。海水が地殻変動とかで何やかやあって取り残されて塩湖になって、それが干上がって塩の層になるの。詳しい話はこのラジオを聞いて塩湖について質問攻めしてるだろう旦那さんに後で教えて貰ってね。でね、俺その塩湖のあるとこに行ってきたのよ。あの光景もなかなか現実離れしててゴイスーよ?」
「はい」
「そこは昔から、あー、この場合の昔からっていうのは俺らが過ごしてた前時代より昔って意味ね、そこで塩を採掘してはラクダで運んで交易をしていた地域で」
「あの、ラクダ……ですか? それは……」
「あっ、百物語には出てこなかった? ラクダ。見た目は違うけど、馬みたいな四つ足の動物って思ってよ。砂漠のような、草もない気温の寒暖差も激しい過酷な土地でも生きられる動物。それを労働力としての家畜として飼ってるの」
「へえ……あっ、ありがとうございます。今、ディレクターさんから手描きの絵が渡されました。これがラクダ……この背中、なんですか?」
「わあ、ヒゲのおっちゃんから生まれたとは思えないほどゴイスー可愛いイラスト……このコブに脂肪分が蓄えてあって、それがあるから数日食べられなくても大丈夫なんだって」
「変わった生き物ですねぇ……」
「ねえ、ほんと。で、今も彼らは隊列を組んで塩の板を積んで運んでたんだけど、それがね、俺にとってはとっても感慨深い光景だったんだ」
「ええ」
「大変だったと思うのよ、彼らにとってラクダは財産だった。目覚めたらそれが無いんだもの、まず野生化したラクダを家畜として捕まえて飼うことから始めなきゃいけない。ないないづくしで、苦労しっぱなしだったって。でもさ、空白期があったっていうのに、また昔ながらのやり方がゆるやかに繋がって、当時にも見られただろう光景を変わらず見られたっていうのがね、何か嬉しくて」
「はい」
「生きてくしかないからやっているだけって言ってたけどさ、それでも何もかも途切れた世界で繋がったものを見ると救われるねぇ」
「その繋がりを取り戻せたのはゲンたちの努力のおかげですよ」
「一因ってだけよ~。そういうものにたくさん会えたっていうのが、今回の旅で一番印象的だったかなぁ。うっわぁ、なんか真面目なこと語っちゃった~! キャラがブレちゃうよ、バイヤー!」
「あらあら。そんな事を言いますけど、ゲンは以前から真面目なところあるでしょう?」
「やめてルリちゃーん! 営業妨害です!」
「ふふふっ、そうですか? さて、そろそろ今夜の一曲目にいきましょうか。ゲンからのリクエスト、リリアン・ワインバーグ『One Small Step』インストゥルメンタルバージョン、ギターの生演奏でお送りいたします。曲の後はお知らせを挟んで、引き続きゲンの話を聞いていきたいと思います」
「まだまだお付き合いシクヨロ~!」
またひとつ日々が変わる
人の気配がある家に帰宅する、たかがそれだけのことで浮き足立つ。我ながら頭が沸いていると思う。それでも、ただ数年ぶりに帰ってきた男が、数年前と変わらぬ定位置に腰掛けている、そのソファの背もたれから覗く丸い後ろ頭が見られるのがどうしようもなく嬉しかった。
「おかえり~」
以前より俺に気遣うこともなく、読んでいた本から顔すら上げずに声を上げる。その気の抜けた声が良い。
「ただいま」
「夕飯用意してあるけどすぐ食べる?」
「食う」
「おっけー、着替えといで」
そこまで言って、ようやく本から顔を上げた男の
「……へ?」
顎をソファの後ろから掴まえて、覆い被さるように口付けた。慣れてもいない、触れるだけの拙いもの。
「……、えっ、千空ちゃん、そういう感じなの?」
「どういう感じだよ?」
「や、俺に対して性衝動的なもん働くんだなと思って」
首を反らして俺を見上げるゲンは、少し驚いた顔をしてそう言った。
「そういうの無い類の人なのかなって勝手に思ってたから驚いちゃった、メンゴ」
言いたいことは分かる。俺も驚きだ。野郎にキスとかどんな罰ゲームだよ、とか昔の俺なら絶対言ってた。それがテメーであっても。
「……研究所のやつらが喫煙所で、くっちゃべってたんだ」
――結婚祝いとかどうします? 石神博士の
――あんまり仰々しいもん用意しても受け取らないだろうし、てか相手あさぎりさんって時点で今更だろ
――だなあ、美味そうな酒か食い物で良いんじゃないか?
――それでいくかぁ。……それにしてもさ、
――うん?
――男抱くって、どんな感じなんだろな
「それ聞いて、」
指の背で頬を撫で、ゆるりと喉仏をさする。
「テメーをそういう目で見ても良いんだって、思い至った」
ごくり、と音が鳴る。唾の嚥下で喉仏が上下する。
この男が自分を選んで傍らに居るだけで良い、そう思っていた。関係に昔より少しだけ分かりやすい名前がついた、それだけだと思っていた。
けれど、研究所の彼らの下世話な会話を耳にした時。
「俺だけは、テメーをそういう目で見ても咎められない立場を手に入れたんだな、と」
何度も聞いた。ずっと前から。俺のパートナーだという建前を言い出す前から。品の無い言葉でこの男を貶す言葉を何度も聞いた。交渉のあとアレなら抱けるななんてこっそり言ってたらしいオッサンを数回の取引で切った事もある、これだけが原因のことではないが。
「人の相棒をそんな風に見てんじゃねーよ、って思ってたが。何のことはねえ、多分俺もずっとテメーのことエロい目で見てたんだわな」
無自覚ではあったが、あの嫌悪感はきっと人の片割れを不埒な目で見て貶める奴らと自分も同等だと認めたくなかったからなのだろう。
「多分なの?」
「あ゛あ゛、だから今試してみた」
「へえ。ご感想は?」
「次からはテメーに倣って、まともにリップクリーム使う」
「アハハッ! 何それ~!」
顔を背け吹き出して笑ったあと、ゲンは下から手を伸ばし俺の顔を引き下ろし、頬にリップ音を立てて口付ける。
「どうせだったらもっと若い時に気付いて欲しかったなぁ~。俺の身体がぴちぴちの時に」
「加齢と伴って括約筋は緩んでくるから却って楽なんじゃねえか?」
「ゴイスー問題発言かましやがりますね、純情科学者さん!? いや、まぁ千空ちゃんらしいですけど」
とん、と俺の胸を押して離させ、ゲンはソファに膝立ちになって俺へと向き直る。
「俺も野郎に下世話な視線向けられるのはご勘弁~って思ってたし、千空ちゃんにそんな視線向ける奴ら全員ギルティ! とか思ってたし実際ヤバそうなのは排除しまくってたけど」
「マジか? 俺も?」
「ジーマーです、君もうちょっとツラの良さに自覚的になってね?」
でもそれは誰とも知れない他人の話であってさ、そう笑いながら彼は両手をゆるりと広げた。
「俺、千空ちゃんとのスキンシップなら何だって大歓迎みたい」
照れ臭さを堪えているのか、眉が困ったように下がった笑みで、俺の行動を待っている。顔を見られたくなくて、その身体を抱きしめた。
「こういうコトも含まれるってのは想定外だったんで、お手柔らかに頼むよ? 千空ちゃん」
「俺も想定外すぎて正直どうしていいか分からん」
「あはは~、デスヨネー……とりま、お互い感情とスキンシップに慣れることから始めよっか? ぶっちゃけ俺も千空ちゃんをエロい目で見るの、まだちょっと罪悪感あるし……」
「あ゛ー……それだわ、流石メンタリスト。言語化うめーな」
抱きしめた身体を手放せない癖に何が罪悪感だ、と思わないでも無いが、お互いに『コイツをそんな目で見るな』と言い続け庇ってきた気持ちは早々に抜けきるものじゃない。
「ほら、お腹空いてるんでしょ? そろそろ離れて、着替えといでよ」
「あと二十秒」
「はいはい」
呆れたような返事だけれど、抱き返す腕の力が少しだけ増す。残り時間を惜しむように。
(これはもう俺だけが享受してよいものだと、誰憚ることなく、言えるのだ)
その事実に満足しながら、俺は残りの秒数をカウントした。