青い庭 ふらふらと、オレは切りつけたところから香る鉄のにおいを記憶に焼き付ける。あれは外側の醜悪さとはかけ離れていて、とてもきれいな赤色の光景だった。
どうにも今日は月が明るく、木の葉の影はまるで木漏れ日のように斑になって地面に表れている。こんな深い森の奥、動物一匹さえもいないような場所相応に風が吹けばざわめきが響く。
あれからどこまで歩いてきたのだろうか、俗世から切り離されて草木のにおいの中で彷徨っている。
最中、ふと清廉で濃い薔薇のにおいを感じた。たとえ人の手が入らない奥地とはいえ、自生してるとは考えにくいような土地だ。ならば人が手入れしている庭園のような場所だろう。
もしかしたら彷徨ううちに人が住む場所まで戻ってきたのかもしれない。そう思い香りを信じて歩き続ける。
そうしていくらか歩いていくうちに開けた場所が現れた。周囲には獣道さえもなく、まるで生い茂った木々が屋敷を隠しているようにぽつんとそれがあった。
おとぎ話に出てくるような大きな洋館だ。ひどく古い屋敷であったが窓のほうを覗けば明かりが灯っている。どうやら人が住んでいるらしい。
とりあえず少し休ませてもらおう、そう思い柵に沿って歩いていき門を探す。
しかし門よりも早く屋敷の庭でくつろぐ人影を見つけた。おそらくは屋敷の主だろう。少し距離があったはっきりは見えないが、体格から察するに男性だろう。
「すいません、少し休ませてくれませんか」
手を振りながら夜分に不釣り合いな大声で人影に声をかけた。すると人影はすくっと立ち上がった。
「おお、すぐそこの裏門から入ると良い。鍵はしていないはずだ」
同じく大声の返事があった。声はやはり男性のもので、のんびりとした穏やかな性格を彷彿とさせる声質だった。
男に言われた通り確認すると確かに呼び鈴のない門があった。そこから中へ入れば月下に咲き乱れた白薔薇が出迎える庭園が広がっている。素人目で見てもよく手入れされている庭は屋敷の古びた外観からは想像できないほど生命に溢れ青々としている。人の手が入ったそこは鬱蒼として森の雰囲気とはちぐはぐで、そこだけがぽっと現れたように浮いている。
庭の中央には白い丸テーブルがひとつ、テーブルと同じ意匠の椅子が二脚ある。テーブルには高そうなティーカップが二客、菓子を乗せる取り皿が二枚、明らかに二人前以上の菓子等が乗ったティースタンドが乗っかっている。
「せっかくの客だからなぁ、ほれそこに座れ」
「ありがとうございます」
「ちょうど一人で茶を飲んでいたところだからなぁ、良ければお前もどうだ」
「お言葉に甘えて」
とは言ったものの、この明らかな異常をどうしたものだろうか。男はオレの様子に驚くこともなく、嬉しそうに取り皿に菓子を盛り、カップに茶を注ぐ。
月光ではたいして色が識別できないが、恐らく紅茶だろう。茶の注がれたカップからは湯気が立っており、歩き疲れて冷えた体には菓子以上にとても魅力的に映った。
「口にあうといいのだが」
確かに休ませてくれと頼んだのはオレなのだが、怪しい男の不審な食べ物に口をつけていいものか。少しばかりの躊躇いがあった。
しかし疲弊した体の欲求は限界を訴えており、とうとう屈してカップに手を伸ばした。こくん、と一口飲めば温かさが染みわたっていく。
二口目では薄いカップの口当たりを味わった。温かい茶を引き立てる繊細な口当たりはカップの値段を語っている。そんなカップの柄は暗い中でも分かる繊細な絵は定番の花以外に月を思わせるレース模様が描かれていて美しい。
三口目でやっと茶を味わった。飲んだのはやはり紅茶らしい。品が良く艶めかしい香りは紅茶を普段飲まない者でも紅茶に興味が湧きそうなほど引きずり込まれていく奥深さがあった。それこそ、奥へと迷い込んで戻れなくなりそうなほどの誘惑だった。
「気に入ってくれたようだな。まだ沢山あるから遠慮はするな」
にこやかに笑う男にすっかり警戒を忘れて取り皿の菓子にも手を出した。やはりこれも美味い。頬張った菓子は先程までの高そうな味とは異なり、中に入った胡桃がアクセントになっておりバターの主張が強くない素朴なものだった。口内がぱさぱさするが、飾り気のあまりない菓子は紅茶の味を引き立てている。
「さて、もう知らぬ仲ではないのだ。お主の名前を聞いても」
男はオレが菓子を食べ終わったのを見計らってそう声をかけた。口に少し残るぱさつきを紅茶で潤してから男の問いに答えた。
「オレは和泉守。あんたは」
「三日月、とでも呼んでくれ」
「そうか……あぁ、そうですか」
「なに、そう改まった口調でなくとも大丈夫だ」
いつの間にか乱れた口調になっていたが、三日月は端正な顔を柔らかく綻ばせている。
改めてまじまじと男の顔を見る。見れば見る程欲しくてたまらなかった。しかしこれほどまでに月下が似合う男を、安息のため手にかけてしまうのはいくらオレでも惜しい。可能であれば懐柔、どうしてもなら極力美しいままの方法を模索すべきだろう。どちらの方法を取るにしても早めに決断するべきだろう。
「ふむ、そうまじまじと見られると少し照れるなぁ」
愛嬌の感じる声色だが、その表情は人を惑わす魔のような魅惑のそれだった。薄い唇は弧を書いて艶めき、長い睫毛が落とす影はまるで隈のようにも見える。夜の住人といった雰囲気だ。
「あんた、本当に一人なのか」
惑わされないよう、意識を律して出た言葉だった。三日月は一瞬考え込んでから回答する。
「ふむ、この屋敷には俺しかいないが」
「誰かを待っていることも」
「ないなぁ」
ならば誰のために、この茶があったのか。推理するよりも早く男がオレに話しかけた。
「ところで、和泉守は行く場所があるのか」
黙って横に首を振る。オレはその言葉に妙な焦りを覚え、そのままカップに残った紅茶を飲み干した。
男は嬉しそうにおかわりをついでくれるが、乾きとは裏腹にカップを持つ手はもう動かない。
「そうかそうか。ならば俺と来ると良い。悪いようにはしない」
「えっ」
「その様子ではどうせ行くあてもないのだろう。ここなら誰も来ない……否、ここへは誰も来られない。そして和泉守が帰れる場所はないのだろう」
然らば、オレの答えは一つだけだった。
「さぁおいで、この屋敷で新しい生を授けよう」
男の言う通り、オレの居場所はないのだから底が見えない男に応えて、今ここですべてを捨てて隷属しても変わらない。言葉として認識すればこれほどまでに意識がはっきりしているのに、一気に体が重たくなっていく。
もう、疲れ切った。オレは気持ちのままに静かに頷いた。