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    第Ⅱ章-平和を掴むために「多少の犠牲はやむを得ないさ。それに、既に手は打ってある」
     イーサンはそう言って目を細めた。朝から長官室へ乗り込んできた赤毛の青年に、ロイとノリスはわざとケインに奪わせてやったこと、それすらもアンドロイドを滅ぼすための作戦であることをイーサンが教えてやると、年若い捜査官は、上官たるK.G.D長官の前で取り繕いもせずに舌打ちして身を翻した。
    「……そうかよ。全部話すつもりもねえってのがよく分かったぜ。それなら、現場は現場で勝手にさせてもらうからな。……オレは、罪のない人間がまた傷つくのは嫌なんだよ」
     青年──ブラッドは、イーサンをひと睨みしてから肩を怒らせて去っていく。イーサンはそれをしばらく見送って、乱暴な足音が遠くなってから、くつりと小さく唇を歪めた。
    「あれが、お前の後輩のさらに後輩だ。よく見ておけよ、バリィ」
    「…………」
     すると、扉の陰から黒髪の男が音もなく現れる。彼は制帽の鍔を少し持ち上げて、ブラッドが去っていった方向を静かに眺めた。


     K.G.Dのジム内に、吊るされたサンドバッグを殴る乾いた音が何度も響く。ブラッドはさらに数回サンドバッグを殴ってから、手を止めて胸元で拳を開閉した。
     アル・サイバー社のラボでチューニングされた義手は、技師が言っていた通り威力は変わっていないようだ。その上、使い心地もいくらか身軽で、機械を扱う肉体や装着部分への負担が軽くなっている。
     代わりに耐久性が低くなってるんだったな、と、ブラッドは短く息を吐いてから、渾身の力を込めてサンドバッグへ拳を打ち込んだ。その拳を受けたサンドバッグが大きく鳴って、ジムに音の余韻が響く。
     それでも、義手からは警告が出るでもなければ、何か不審な音がするでもない。チューニングされた義手は、ブラッドが全力を発揮する分には十分耐えられそうだ。あとは、思わぬ攻撃など想定外の衝撃が当たらないようにだけ気をつけておけばいいだろう。
     フレイから歩行補助ガジェットを借りてきた足も、今のところほとんど痛まない。ブラッドは再び拳を固めて、フレイの言葉を思い返した。
    『足についてだが。投薬とガジェットがあるから、通常の歩行・走行程度は問題ないだろう。最新鋭の技術と設備に感謝するんだな。……ただし、それ以上の衝撃には耐性がない。ガジェットが想定しないような足の使い方、たとえば蹴り技などはやめておけ。ガジェットが壊れれば、当然痛みも戻ってくる。そうなれば、歩行程度は根性で済んでも、走行は困難になるだろう』
     フレイが心配するほどブラッドにとって蹴り技は重要ではないが、拳を溜めるにも振るうにも足腰は重要になる。ブラッドはもう一度サンドバッグを殴って、その音がビリビリとジムの空気を震わせる中で足の感触を確かめた。
     ──問題ない、遜色なく動く。
     それを確認したブラッドが、さらに何度かサンドバッグへ拳を打ち込んでいると、いつの間にかコツコツと足音が近づいてきて言った。
    「精が出るな」
     その声に振り向いたブラッドは、声の主を見て眉を寄せる。
     ──イーサンとこの犬か、いけ好かねえ。
     感情の見えない糸目、エンブレムつきの制帽とジャケット。イーサンに付き従っている、バリィという男だ。ブラッドはサンドバッグのほうへ向き直りながら言った。
    「何の用だ」
     ブラッドの素っ気ない態度にも動じず、バリィはあっさりと答える。
    「今日から君の業務をサポートすることになった。イーサンは君に期待している、この先もハードな任務が続くが力を合わせて解決しよう」
    「…………」
     要するに監視だ。しかし、ブラッドはとうに他班への連絡や根回しを済ませてからここにいる。一足遅かったな、と内心でイーサンを嘲りながら、ブラッドはバリィに背を向けたまま言った。
    「サポートなんざいらねえ、ましてやアンドロイドのなんかはな。とっとと帰って長官にそう伝えろ」
     それは明確な拒絶だったが、バリィは薄笑いを崩さないまま続ける。
    「つれないな、今日から私たちは相棒だ。世間話でもして親睦を深めようじゃないか」
    「……………………」
     ブラッドは奥歯に力を込める。そのまま少しずつ拳を固めて、目の前のサンドバッグを睨みつけた。
     ──どいつもこいつも。
     次の瞬間、大きな破裂音がブラッドの鼓膜とジムの空気を震わす。鋭い踏み込みとともにあらゆる鬱憤を拳へ載せると、サンドバッグはあえなく破裂して詰め物が床へ滑り落ちた。
     ブラッドはしばらくその砂の山を眺めてから、ゆっくりバリィを振り向いて静かに言う。
    「替えがあるうちに消えな」
    「……」
     その言葉の意図するところが分からぬはずもないだろうに、バリィはその場で薄く笑うままだ。まさか本当に殴られたいのか、とブラッドがさらに眉を寄せたそのとき、ジム内に警報が鳴り響いた。
    「「‼」」
     ビ──ッ、ビ──ッ、とけたたましい警報の合間に署内放送の音声が交じる。
    『E・C本社にて、アンドロイド革命軍リーダー・ケインの目撃情報。署員は直ちに急行せよ』
     ギリッと奥歯を噛んで、ブラッドはジャケットを掴むとすぐさま駆け出す。昨夜エンドーたちと話しているうちに出てきたケインの行動予測は、ロイの指揮官機能を使って大勢で街を襲うか、ノリスを使って衛星レーザーを起動させるかの二通りだった。ケインが単身E・C本社へ乗り込んでくるなど想定外だ。
     ブラッドはエンドーへ連絡するためジャケットをまさぐって無線機を探したが、指先が無線機へ触れるより先にバリィの声が背中へかかる。
    「私も同行しよう」
     その言葉通り、間隔の短い規則的な足音がブラッドを追ってくる。ブラッドは内心で舌打ちをして、無線を諦める代わりに廊下を走る速度をなお上げた。


     渦中のE・C本社へ向かうため署の車両へ飛び乗ったブラッドは、バリィが追いついてくる前にアクセルを踏み込んで発車する。その後ろからすぐについてきた車の運転席にバリィがいるのをミラー越しに見て取ってから、ブラッドはジャケットの無線をエンドーに繋いで手短に伝えた。
    「E・C本社にケイン、以上」
     ぶっきらぼうな通信だが、現着もしていない今のブラッドからは、他に伝えられることもない。エンドーが長話できる状態かどうかも確認していないし、監視がついている状況下なら盗聴や傍受を警戒して、他班や別動隊への伝達とも取れる程度の内容に留めておくのが無難だろう。ブラッドはそれきり運転に集中し、道中で他の詰所や現場から合流してくる同僚たちの車とともにE・C本社へ向かった。
     その頃、大型バイクに二人乗りでE・C本社へ向かっていたエンドーとリクは、メットの中でブラッドからの通信を聞いて眉をひそめていた。二人乗りの後ろ側に座るリクが、苦い顔で呟く。
    「ケインがE・C本社……? 面倒なことになったな……」
    「潜入がどうとか言ってられなくなりましたね。どうします?」
     イーサンの陰謀の証拠を掴むため、E・C本社への潜入を計画していた二人だったが、そこにケインまで乗り込んでくるとは予想外だった。イーサンとケイン、両方の目を搔い潜りながら証拠データを探すのは、いくらなんでも至難の業だ。──しかし。
     リクは前方を見据えて言った。
    「目的は変わらねえ、証拠の入手だ! いっそケインみたいに堂々と乗り込んで、証拠探しついでに一発イーサンもぶん殴ってやればいい。このまま飛ばせ、ジュニア!」
    「ははは、ジュニアはやめてくださいって!」
     軽口を飛ばし合いながらも、二人を乗せたバイクは力強くエンジンを吹かした。


     そのリクやエンドーより一足早く現着したブラッドが車を降りると、すぐ後をついてきていたバリィも車を降りる。ブラッドはそちらを見もしなかったが、バリィは懲りずにブラッドへ声をかけてきた。
    「さて……まずどうしましょうか?」
    「ついてくんじゃねえよ!」
     振り向きもせずに言い返したブラッドの耳に、いくつもの悲鳴が届く。ブラッドはハッとして目の前のE・C本社ビルを見た。
    「なんだ⁉」
     その本社ビルからは、悲鳴とともに人々があふれ出してくる。白衣、スーツ、男、女、研究員や営業・事務職員など、ビルに勤めるあらゆる人々がビルから逃げ出してきているのだった。
     ブラッドはその先頭にいた白衣の男を捕まえて尋ねる。
    「おい、一体何があったんだ!」
     一番に逃げ出してきたその白衣の男は引き止められてたじろいだが、ブラッドのジャケット――K.G.Dのエンブレムを見てか、すぐに口を開く。
    「中で革命軍のリーダーが暴れています‼」
    「何⁉」
     ブラッドは白衣の男を解放して本社ビルを仰ぎ見た。
     イーサンの居城たるE・C本社だ。ビルから逃げ出してきた人々のように中から外へ出るのは簡単でも、外から中へ入るには、厳重かつ強固な警備システムをクリアする必要がある。それも目の前のエントランスだけではなく、ビル内には各階や区画ごとに警備システムがあるのだ。これだけたくさんの人々が慌てふためいてビルから逃げ出してくるならば、ケインは一ヶ所や二ヶ所ではなく、警備システムを次々突破しているということか。
     ブラッドはケインの勢いやビル内に残された人数・避難経路を脳裏に浮かべながら、業務車両の無線を取った。
    「……ッこちらブラッド、至急応援を頼む! 繰り返す、こちら……」
     本社で目撃情報とは聞いていたが、ビル内への侵入まで許しているとは聞いていない。ケインの制圧と並行して高層ビルから多人数の避難も必要となれば、手隙の署員が雑多に集まっただけではまだ人手不足だ。
     ブラッドが状況を織り交ぜて応援要請をかける一方で、バリィはブラッドから視線を外しビルのほうへ身を翻す。
    「私は先行して中の様子を確認する。君はここで応援を待っていろ」
    「は⁉ おい、待てよ!」
     ブラッドは無線を片手にバリィを振り向いて制止したが、バリィはそれを振り切って一機で本社に突入していく。ブラッドは苦々しく無線機と本社を見比べた。
     いくらイーサンの気に入りで高機能だろうが、所詮バリィはアンドロイドだ。無策でケインと対峙しては、ウィルスで暴走させられて終わりだろう。余計な手間を増やすんじゃねえ、とブラッドが無線を置いて舌打ちしたとき、キィ、と単車がそばに停まる。
    「ブラッド!」
     はっと振り向いたブラッドの目に、単車を降りる二人の姿が映った。その片方はエンドーだったが、その後ろの年若い青年を見て、ブラッドは眉を寄せる。
    「エンドーさん? と……誰だ?」
    「自己紹介は後でもできる! それより今の状況を説明してくれ!」
    「……ッ」
     青年はブラッドの知らない顔だったが、身につけているのはK.G.Dの制服だ。ブラッドはそのエンブレムに懸けることにして、青年に状況を話す。
    「ケインさんが……革命軍のリーダーが、ここを襲撃しているみたいです。警備システムは解除どころか部外者(ケイン)の排除に躍起になってる、内部もロックかかるばかりで職員たちの避難は未完了とSOSありました。それから、相手は革命軍のリーダーだ、本社職員だけじゃなく近隣住民の避難も視野に入れないと」
    「分かった、任せろ。K.G.Dの指揮なら慣れてる」
    「は?」
     ブラッドが顔も見たことのない青年、それもせいぜい自分と同年代に届くかどうかという若者が何を言っているのかとブラッドは声を漏らしたが、その青年は臆することなく息を吸い込んだ。
    「K.G.D署員に告ぐ!」
     ブラッドの疑念をよそに、本人の言う通り場慣れした声が堂々と現場に響き渡る。ざわざわと顔を見合わせる署員たちの様子を見るに、青年のことを知らないのはブラッドだけではないようだ。
     それでも、青年は近くにいた署員から遠くの署員まで見渡して声を張り上げる。
    「今いるK.G.D署員は屋内と屋外の二手に分かれ、市民の避難誘導をしてくれ! 応援に来た署員にも同じく伝えろ。革命軍より人命優先だ!」
    「えっ……」「あなたは……?」
     戸惑う署員たちの中には、ちらちらとブラッドを窺う者もいる。人命優先だと先に同僚署員たちへ根回しをしていたブラッドは、まだ青年の正体は知らないながらも、彼らの視線に頷いてみせた。
     一方で、ブラッドの人脈では届いていなかった部署や班の署員たちも、青年の雰囲気に呑まれてか指示に頷いていく。
    「事情は後で説明する! 今は人命救助に専念してくれ!」
    「わ……わかりました!」
     その様子に、ブラッドは内心で胸を撫で下ろした。ブラッドの言葉で動いてくれる署員などたかが知れている、とエンドーにこぼしたのは昨夜のことだ。正体不明とはいえ、エンドーの連れてきた青年がその懸念をカバーする形となり、ブラッドはいくらか肩の荷が下りた気持ちで密かに息をついた。
     一方、しばらく青年と署員たちの様子を見守っていたエンドーが、ブラッドを振り向いて言う。
    「ブラッド、自分たちは奥に向かおう」
    「いや、だから警備システムは解除されてな――」
     さっき状況説明したろ、と眉を寄せるブラッドだったが、その視界の端にチカチカと鋼の輝きが映る。ブラッドが瞬きしながら目を向けると、署員たちへの指示を終えたらしい青年が左手のグローブを取り払ったところだった。
     露わになった鋼の手が、陽の光を弾くだけでなく自ら閃電を纏って輝く。青年はその手とともに、エンドーを従えて駆け出しながら言った。
    「もちろん、人命救助優先で……強行突破だ‼」
     その言葉通り、エンドーは警備システムアンドロイドの脇腹や肩に迷いなく弾丸を当てて動きを封じていく。その隙に屋内へ飛び込んだ青年は鋼の手でアンドロイドの顔を掴み、そのまま腕が何度か光るとアンドロイドは脱力して座り込んだ。何かしらの対策プログラムを組んでいるらしい青年と、二丁拳銃を自在に操るエンドーの背中を見て、ブラッドの胸の奥にもふつふつと熱が戻ってくる。
     そう、元々、ごちゃごちゃ考えるなんて性に合っていないのだ。
     ブラッドは口角が上がるのを自覚しながら彼らの後を追った。
    「そういうのは嫌いじゃねえ! うおりゃあああぁっ」
     同じく本社へ飛び込んだブラッドは、立ち入り禁止エリアだの何だのと同じ警句を繰り返すだけの警備ロイドに肩から当身を食らわせて黙らせた。イーサンに文句を言うため今朝にも訪れたこの本社ビルの案内図と避難経路を脳裏に思い描いて、一般職員の避難の妨げになりそうな配置の警備ロイドをことごとくぶん殴っておく。
     その合間に、ブラッドは青年に尋ねた。
    「あんた、ハッキングか何かできんのか⁉」
    「警備ロイドくらいなら、見ての通りだが……どうした⁉」
    「その警備システムがいくつかフロアを遮断しちまってる、警備ロイド殴っただけじゃ開かねえ! あんた開けられるか⁉」
    「なるほど。ジュニア! 先に一般職員を逃がすぞ!」
    「うッス!」
     ブラッドがフロア内シャッターへ二人を案内すると、青年はシャッターに手を触れてまた鋼の手を光らせる。そうしてシステムから分離させたシャッターはエンドーとブラッドが人力で持ち上げ、内部に取り残されていた幾人かの職員を出口へ向かわせた。その背中を見送って、ブラッドは呟く。
    「侵入じゃなくて脱出だけだし、職員なら社員証かなんか持ってりゃ、警備ロイドも攻撃しねえだろ、たぶん……。……、あー、あんたらも、寄り道させちまって悪かったな」
     オレはハッキングとか解錠とか難しいことはできねえからよ、とブラッドが視線を落とすと、その背を叩いて先へ踏み出しながら青年が笑った。
    「俺はリクってんだ、『あんた』はもうナシな! 人命救助優先なんだ、ブラッドがシャッターのこと言ってくれて助かったぜ」
     次いくぞ、とすぐ駆け出したリクの背を追い、ブラッドも足を踏み出す。しかし、途中で思わず瞬きをした。
    「……何で、オレの名前知ってんだ?」
     それこそ、自己紹介なんて暇はなかったのに、とブラッドが首を傾げていると、並走してきたエンドーが笑いながらサラリと言った。
    「リクさんなら、今のK.G.D.メンバーの顔と名前はおおよそ把握してるぞ! 気安いのは問題ないが、ああ見えて自分よりも年上だから、失礼のないようにな」
    「うお……ええ⁉」
     エンドーの言葉が信じられず、ブラッドは目の前を走るリクの姿をまじまじ見つめる。振り返らないその背中の迷いのなさに、ブラッドはほんの少しの憧憬と、何故だか懐かしさを覚えた。


     同時刻、ブラッドを置いて本社内へ先行したバリィの聴覚センサを、ケインの慟哭がすり抜けていった。バリィが隠密モードで潜んでいる室内に、ケインの乱れた息遣いの音と、笑みを含んだイーサンの声が重なる。
    「どうだ? ――くだらん感情に冒された者の末路にふさわしいじゃないか」
     その言葉に、バリィは先程までケインが見ていた映像データの内容を思い起こした。アンドロイドを愛した女と、彼女と愛し合っていたにも関わらず『命令』に支配されてその手ですべて破壊したアンドロイドと。悲劇的ではあるが、バリィからしてみれば他人事に過ぎない。――しかし、ケインにとっては。
     バリィの思案をよそに、ケインのジャケットが翻る衣擦れの音と、硬いものを殴るような鈍い音が連続する。その音に紛れて、バリィの機体は徐々に隠密モードを脱し、各所の機構が回転を速めて手足の駆動パーツにエネルギーを送った。
     バリィの主を守る透明な防護シールドは、ケインが多少殴ってひびを入れた程度ではびくともしない。その防壁の奥で、イーサンがゆっくりと目を細めた。
    「ケイン。お前にはもう少し……役に立って貰おうと思っていたんだが」
     その尊大な言い様に、ケインが不快げに眉を顰める。そのとき、エネルギーを溜めて十分に温まったバリィの機体が物陰から跳ね上がった。
    「‼」
     搭載された戦闘プログラムが機体を駆るままにケインへ襲いかかったバリィだったが、間一髪でケインも反応して急所を庇う。バリィのコンバットナイフは、ケインの衣服の胸元を裂くに留まった。
     ――死角からの一撃にも反応するとは、さすが元K.G.D捜査官だ。そんなことを頭の片隅で呟きながらバリィが薄笑いを浮かべていると、ケインが顔をしかめて毒づく。
    「――……ッ クソッ」
     ケインの重心、軸足の動きを計算して、バリィもかすかに体重を移動させた。案の定、まっすぐ突っ込んできたケインの雄叫びがラボ内に響く。
    「うおおっ」
     ケインの手の中には使い込まれた銃がある。しかし引き金に手はかかっておらず、むしろバレルのほうを握っており完全に鈍器として使用する気のようだ。振り下ろされる銃のグリップを寸前でひらりと躱(かわ)し、バリィは笑いながら言った。
    「なかなか賢いじゃないか。ここのラボを下手に破壊してみろ、どんな命令やウィルスが飛ぶか分からないぞ」
    「……」
     ケインの視線が一瞬室内の機材へ逸れる。すかさずバリィはケインと距離を詰めたが、ナイフを振り上げる前にケインの腕がバリィの胸倉を掴んだ。
     しかし、回る視界を計算式に乗せて床へ叩きつけられるタイミングを即座に算出したバリィは、背中が床につくや否やケインの手を振り払って跳ね起き、ばね仕掛けのおもちゃのように間髪入れずナイフを突き出した。その切っ先は、追撃を狙って踏み込んできたケインの心臓へ吸い込まれていくかのようだ。
     もしもケインがただの人間だったなら、その錯覚はすぐに現実となっただろう。
     バリィの一瞬の錯覚の後、ケインもまた人間離れした反応速度で銃を掲げてバリィのナイフを受け止めた。がきん、と鈍い音がして、ナイフの刃先が銃身の継ぎ目に突き刺さる。
    「…………」
     バリィはそのナイフにぐっと体重をかけてケインのほうへ押し出すが、ケインもまた引くことはない。このまま膠着するかと思われたが、ちょうどそのとき、新たな三つの足音がラボへ近づいてきていた。


     警備システムのフロア遮断を一通り解除したブラッドたちは、今度は一切シャッターのない経路を駆け上がっていた。
     ブラッドが黙って走っていると、エンドーが所々で天井を見上げながら言う。
    「ここにも、これまでにもいくつかシャッターがあった。どれも警備システムの一環だろうに、システムが作動している道と、していない道があるということは」
    「……ケインも俺たちも、誘き出されてる、ってことか! クソッ!」
     エンドーの言葉を引き継いだリクは、舌打ちして廊下の壁を殴った。しかし、そう言っていたところへ、遠くにシャッターが見えてくる。
     まわりのドアはすべて閉まっているのに、そのシャッターの手前、左手のドアだけが開いて、中から光が漏れていた。さらには近づくごとに室内から荒々しい物音も漏れ聞こえてきて、三人は一度目配せをしてからそのドアへ踏み込む。
     その室内に何があるのか、想像しなかったわけではない。だが、想像し得ることばかりが起きるわけでもない。
     踏み込んだ先の室内、ナイフを掲げるバリィと銃でそれを受け止めるケインの姿に、リクとブラッドは思わずそれぞれの上司の名を叫んだ。
    「バリィさん⁉」
    「ケインさん!」
     リクの叫びに、ブラッドは思わず彼とバリィを見比べた。そのとき、リクは既に踏み出している。
    「二人ともやめ……、……!」
     けれども、そのリクの足も途中で止まった。透明な守護壁の奥で佇む、イーサンの姿を見つけたからだ。
     静かに、しかし愉快げに口の端を上げるイーサンを睨みつけ、リクは再び、今度はイーサンに向けて踏み出す。
    「イーサン! 貴様……ッ」
     その語尾には、鋼の手で壁を殴る鈍い音が重なった。だが、壁にはひび割れが走るだけで、破壊するには至らない。
     透明な壁の表面に走る蜘蛛の巣状のひびの向こうで、イーサンが淡々と言った。
    「バリィ。邪魔する連中を始末しろ」
     途端、ナイフでケインの銃と押し合っていたバリィの身体が飛び退(の)いた。ケインがつんのめる一方で、バリィはもはやケインのことなど眼中にもないようにリクやブラッドたちの前へ立ち塞がる。
    「イーサンの命令により、お前たちを排除する」
     機械的な口調のバリィに対し、やっぱりアンドロイドなんざ信用できたもんじゃねえ、とブラッドが睨みを利かせる傍らで、リクとエンドーが素早く方針を決めて二手に分かれた。
    「エンドー、データの確保を頼む」
    「分かりました」
    「ブラッド、俺たちはあの二人を止めるんだ」
    「…………」
     ブラッドは、すぐには答えなかった。エンドーを機材へ向かわせて前に出るリクの背と、ナイフを構えるバリィ、それから再び銃を構え直すケインを順々に見てから、ゆっくり拳を手のひらに打ちつけてリクに続く。
    「……分かった。あとで説明してくれよ」
    「ああ」
     リクが頷くや否や、バリィが一気に間合いを詰めてきてリクの胸元めがけナイフを薙ぎ払う。即座に身を屈めてそれを躱したリクは、すぐに顔を上げるとバリィへ呼びかけた。
    「やめてくれ、バリィさん! アンタに何があったんだ⁉」
     しかし、リクの必死の呼びかけにも、バリィは機械的に繰り返すだけだ。
    「イーサンの命令により、お前たちを排除する」
    「くっ……」
     成立しない会話に、リクは唇を噛む。一方ブラッドは、バリィや警備ロイドと衝突したのだろうか、既に傷だらけのケインに手を出せないでいた。
     構えを解くことこそしないものの、いざケインがぼろぼろになって目の前に現れれば、ブラッドの意志や目的は簡単に揺らいだ。現実逃避なのか自警団で叩き込まれた癖なのか、ケインの傷を数えては応急処置を思い浮かべてシミュレーションする。――アンドロイドに必要なのは修理であって、ブラッドの思い描くような手当てではないと分かっているけれども。
     ブラッドのその視線を追ったケインは、短くハッと笑ってからこれ見よがしに傷を押さえてブラッドを睨む。
    「どうした、ブラッド。憎むべき人間の敵(アンドロイド)が手負いだぞ、倒さないのか?」
    「……っ、ケインさん」
     ブラッドは思わず呻いた。誤解をされたと思うと胸が詰まったが、弱点を測っているように見えるのは当然のことでもあった。
     言葉の続かないブラッドの傍らから、リクが口を挟む。
    「ブラッド、ケインは元人間だ。……それを知って乗り込んで来たんだろ、ケイン?」
     リクはそう言ってケインを見やるが、ケインは黙って睨み返すだけだ。ブラッドはケインから聞くのを諦め、リクを振り返って静かに尋ねる。
    「本当なのか」
    「ああ。……ケインは、本人も知らないままイーサンに改造され利用されていたんだ」
    「……それは、いつから?」
     リクへ尋ねながら、ブラッドの脳裏には、ケインの慟哭と怨嗟の声が蘇っていた。最愛の妻子を失った人の寂しい微笑みも。
     他にも、K.G.D署員としてアンドロイドと相対するときの厳しい眼差し、傷ついた市民や署員の前に立つ背中、戦いの跡を静かに見つめる横顔――ブラッドが知っているケインのうち、どれほどが本当のケインだったのか、ブラッドはリクの答えを待った。
     一方、リクはやけに静かな、感情を押し殺した様子で答える。
    「――この戦争に繋がるすべてが、イーサンの計画のうちだ。人々がアンドロイドを憎むように仕向け、人間とアンドロイドの双方を煽動し、戦争によって感情を持つアンドロイドを滅亡させ……それから、自社の兵器アンドロイドを広める。それがイーサンの計画と目的なんだ」
    「すべて……」
     ブラッドは呆然と繰り返した。――ならば、ダークは、自分たちは。
     真実を掴むかどうかのブラッドの胸の底を、うぞうぞと不快の蟲が這う。それを振り払うように、ブラッドは必死で息を吸って大声を出した。
    「……だったら、だったらオレの相棒は……っ なあ、オレたちが戦う意味って何だよ⁉」
     ブラッドの叫びに、リクは眉を歪めて目を伏せた。しかし、ケインはそれを鼻で笑って叫び返す。
    「そんなもの最初からありはしないさ‼ 邪魔をするから薙ぎ倒す、それだけだ!」
     銃を片手にしたままのケインがブラッドへ肉薄する。その場で撃てばよかっただろうに、ブラッド相手に接近戦へ持ち込むなんてブラッドの上司ならばまずやらないことだ。罠か何か警戒すべきだろうが、ブラッドの体は考えるより先に動いて、ケインが銃を持ち上げる前に自らその銃身を捕らえて引きずり寄せた。
     生身なら危険極まりないが、ブラッドの両手は戦闘用の義手だ。銃器や刃物を掴むくらい想定済の設計である。このまま体勢を崩させて床に組み伏せる、一般の暴漢程度ならそれで手錠をかけて終(しま)いだが、ケインはそうはいかなかった。
     ブラッドが銃身を掴むやケインは銃から手を離し、勢い余らせたブラッドの鳩尾(みぞおち)に拳を入れて体をくの字に折らせる。咳き込むブラッドの手から銃をむしり取ろうとしたケインだったが、ブラッドはそれを許さず、銃身を掴む手に力を込めながらケインを睨み上げた。
    「軽いな。弾が少ねえのか。オレなんかに使ってられねえってか?」
     銃があるのに接近戦をする時点で弾切れは予想していたが、義手で重量を算出したことでいくらか明確になった。だが、ケインが不用意に弾切れを起こすとも思えない。ブラッドの銃ではないので元の重さがどの程度かは推測だが、軽いなりに一発か二発は残しているだろう。ブラッドの知るケインとはそういう男だ。
     だが、ブラッドが義手でその気になれば、誰もその手の中のものは奪えない。
     拳を握る、助けを求める手を掴む、そして掴んだ手を緩めないこと、ブラッドの義手はブラッドの要望に沿って設計されている。自警団を離れたばかりのブラッドが出したその要望には、アンドロイドを取り締まる仕事には不必要なものも交じっているように思えたが、それは今確かに、ケインの足を止めることに役立っていた。
     そのおかげで、銃を奪い返したいケインと離さないブラッドが膠着し、ギシリと銃身が軋む。義手の握力なら奪い取るどころか破損させかねない――ケインがそう思ったかどうかは知らないが、直後に一瞬の隙ができたところでブラッドはもう一方の手を伸ばしケインの胸倉を掴んだ。両手が塞がった代わりに歯を食い縛り、ブラッドは勢いをつけてその胸倉を引き寄せる。
     義手以外はただの生身で戦闘用でも何でもないが、知ったことか。顎を引き、狙いを定め、タイミングを計って額を突き上げる。ゴッ、と鈍い音がして、ブラッドの頭突きを真っ向から食らったケインが天井を仰いだ。
    「がっ……」
     よたついて数歩退がるケインを見据え、ブラッドは呼吸を整える。銃を奪った手をようやく下ろし、ちらりと視線を動かせば、ナイフを構えていたはずのバリィが背中を丸めて額を押さえていた。
     人間が頭痛を堪えるような仕草をするアンドロイドは、ブラッドにとってはいささか不気味で気持ちが悪い。だが、リクはそのバリィへ再び必死で呼びかけた。
    「バリィさん! アンタもケインと同じく利用される側じゃないはずだ! だってアンタは……」
     ブラッドはバリィをただのアンドロイドだと思っていたが、リクはバリィのことを何か知っているのだろうか。ケインの様子を窺いながらも耳ではリクの言葉を追っていたブラッドだったが、そこへイーサンの冷たい声が割り込む。
    「バリィ、ブラッド。何のためにここにいる? さっさと始末しろ」
    「!」
     ブラッドはぐっと唾を飲み下した。エンドーと話したことやロイ・ノリスの機体の管理のこともあり、イーサンの不正を疑ってはいるが、ブラッド自身はまだ確信を持っているわけではない。また、K.G.D署員ならば、長官の命令には従うべきだ。――これだけごちゃごちゃ言い聞かせても、ブラッドの足はまだ動くには至らない。
     信じるべき正義がどこにあるのか、今のブラッドにはまるで分からなかった。かつてK.G.Dで同じ正義を語っていた人が、革命軍のリーダーとなって目の前に立ちはだかっているのだ。確かな正義、不変の正義など、どこにもないのだとすら思えた。
     ――正義がどこにもないのなら、何を信じればいい?
     ブラッドの心の中での問いかけに、答える者はない。――いや。
     低く滑らかで懐かしい声が、いつかの雪山の風景と一緒に蘇った。
     ――俺はアンドロイドだから、プログラムの計算の結果で動くけれど。正しいかどうか考える前に動くものが、お前にはあるだろう? 
    だから救えた人がいるんだ。それでいいじゃねえか。
     雪中キャンプの遭難事故の救助だったか。自警団の頃の懐かしい記憶が蘇って、ブラッドは静かに顔を上げた。
    「なあ……ケインさん、もうやめにしないか」
    「…………」
     顔を上げたケインが、じとりとブラッドを睨む。二人はしばらく黙って視線を交わしていたが、やがてケインのほうが口を開いた。
    「最後に聞かせてくれ、イーサン。俺は……人間か? アンドロイドか?」
     ブラッドは、ケインから注意を逸らさぬよう、一瞬だけ視線をイーサンへ滑らせた。しかし、ブラッドのほうからは、イーサンの表情は眼帯に遮られてほとんど見えない。
     ケインに向いているその表情がどんなものなのか分からぬまま、ブラッドはただ冷たい声だけを聞いた。
    「道具だ」
    「っ……」
     その返答に、ブラッドは思わず息を詰める。そんな、と内心で呻く声は、ケインにも誰にも伝わらない。ケインは乾いた笑声を漏らした。
    「ははっ……」
     顔を上げたケインと目が合う。その瞬間、ブラッドは背筋が凍るのを感じながら奪った銃を投げ捨てた。どうせ認証機能によってケインしか使えないようになっている、ならば手を塞いでいるだけ邪魔だった。
     ――もしも、話し合いの余地があるのなら、一緒に戦う約束をして銃を返す道もあった。
     けれども、顔を上げたケインの目は、もう止まれない者の目だ。ブラッドは自警団の頃にも、K.G.Dに移籍してからも、そうした目つきと何度か対峙したことがあった。
     ブラッドが改めて拳を固めるのと同時に、暴走ウィルスを起動させたケイン、そしてナイフを構え直したバリィが叫ぶ。
    「みんなくたばれぇ!」
    「イーサンの命令により、お前たちを排除する!」
     バリィのナイフはともかく、失った腕の代わりに義手を使っている程度のブラッドに暴走ウィルスが効くわけもない。我を失っているのか自棄になっているのか、ブラッドは胸の奥に少しの憐れみが生まれるのを噛み潰しながら拳を溜めた。同様に、隣のリクも拳を引く気配がする。
    「バリィさん」
    「ケインさん」
     リクの声音が自分とよく似て重なって、ブラッドは不意に瞬きをした。どういう繋がりがあるのか何も知らないが、リクにとってのバリィは、もしかしたらブラッドにとってのケインと同じなのかもしれない。
     そして、そのどちらをも、イーサンが。
     ブラッドの胸の中に炎が燃える。何に対しての怒りなのか、奪おうとするイーサンか、むざむざその手に落ちたケインか、それを防げなかったブラッド自身へなのか、どれともつかないまま、ブラッドは目の前のケインへ拳を放った。
    「「目を……ッ 覚ませえええ‼」」
     声と拳がリクと重なる。二人の鋼鉄の拳は、渾身の力をもってそれぞれの相手を殴り飛ばした。
     バリィとケイン、二人の体がまっすぐ向こうへ吹っ飛んでいく。その先にイーサンの姿を見て、ブラッドはそれを睨みつけた。
     元いた場所のシールドにひびが入っていたからか、それとも機材に用があったのか、知らぬ間にそちらへ回っていたイーサンの隻眼が見開かれる。
    「なに……⁉」
     バリィとケイン。どこがどういった素材の機械なのか、何であれ一般の人体よりはよほど重い彼らがぶつかった衝撃によって、イーサンを守る透明なシールド、それが大きく音を立てて砕け散った。


     シールドの割れるバリンという音の合間に、エンドーがリクへ駆け寄ってデータをコピーした媒体を見せる。二人は頷き合い、そしてリクは顔を上げてイーサンへ言い放った。
    「証拠データはもらった。お前の全てを暴いてやるから待っていろ、イーサン」
     しかし、ブラッドの視線はイーサンよりも向こうにあった。普段はラボの職員が使っているのだろうホワイトボードの足元で無様に転がっているケインを、立ち上がってほしいようなほしくないような気持ちで見つめる。けれども、ブラッドの心情をよそに、ケインはゆらりと立ち上がって言った。
    「それじゃあダメなんだ……」
     まるで幽鬼のような声が、しかしはっきりとブラッドの耳に届く。ケインはジャケットの内側、おそらく腰の上のホルスターからサブの銃を抜き出してイーサンへ向けた。
    「貴様だけはこの俺が……!」
    「ケイン、やめろ!」
     様子に気づいたリクが焦った様子で叫び、ブラッドはぬかった、と奥歯を噛んだ。小型の銃器なら複数持ち歩くのも苦ではない、それも警戒しておくべきだった。しかし今更いくら後悔しようと、ケインの指は既に引き金にかかっている。
     ――それなのに、いつまで経っても銃声がしない。
    「⁉」
     違和感を覚えたのはブラッドたちだけではないようだ。当のケインまでもが、焦りと惑いの表情で引き金を睨んでいる。
    「なぜ引き金が引けないんだ……!」
     ケインの指は引き金にかかっている、なのに指はそこから動くことができず、グリップを支える両手ごとガチガチと震えていた。ケインが何度も引き金に指をかけ直す中で、イーサンが堪(こら)えきれなくなったように笑いながらケインを振り返る。
    「……ふ、はっははは! 被造物のアンドロイドが、創造主に引き金を引くことなどできないさ」
     勝ち誇ったようなイーサンの言葉だったが、ケインはその言葉にこそ勝機を見出したようだった。ケインは、策ありげに目を細めて言い返す。
    「ハ……それはどうかな」
     ケインが片手で自分の顔を覆い、その手が黒く閃電を散らす。それを見たリクが愕然と叫んだ。
    「まさか、自分に暴走ウィルスを……!」
     ――暴走ウィルス。ケインさんが。
     ブラッドの足が思わず動く。しかしエンドーがブラッドの肩を掴んでそれを止めた。――ケインの銃口はイーサンに向いているが、ブラッドたちはケインから見ればイーサンと同じ方向にいるのだ。ケインが外せばこちらにも当たり得るのだから、エンドーが止めるのは当然だったが、ブラッドがそれを振り払おうとしているうちにケインの雄叫びが響いた。そして、一つの銃声も。
     左の脇腹を撃たれたイーサンが、ず、とその場に崩れ落ちる。
    「バ……バカな……!」
     イーサンの体が、豊かな金髪を揺らめかせてどさりと床に倒れた。はっ、はっ、と、ケインの荒れた呼吸の音が小さくもブラッドの聴覚を席巻する。
     ――斃れた? あのイーサンが?
     誰もが動けずにいる中で、しかしイーサンは悠然と口を開いた。
    「……だが、もう遅い……私たちの計画は……誰にも……止められ、な……」
     それきり、イーサンの声が途切れて瞼が落ちる。代わりにケインの勝鬨(かちどき)が、一瞬の沈黙を塗り潰した。


     その勝鬨も途切れた頃、やっとリクが身じろぎする。リクは慎重に口を開いた。
    「……ケイン……」
     声に反応してか、顔を上げたケインがリクを睨みつける。ばね仕掛けのように立ち上がったケインは、リクの脇を抜けエンドーとブラッドを押しのけて駆け去った。
     衝撃が抜けきらず対応しきれなかった三人の中で、リクが真っ先に頭を切り替えて身を翻す。
    「……ッ 追うぞ!」
     しかし、その背中へまた別の声がかかった。
    「待て。君が行くべきはそちらではない。……私についてこい。すべてに決着をつけよう」
     ブラッドたちが振り向くと、そこでは、ようやく立ち上がったバリィが制帽を被り直していた。ブラッドは、機械的でもなければ人をからかう調子でもない、バリィの真摯な声を初めて聞いて、何が起こったのかと眉を寄せる。だが、リクにとってはこちらのバリィのほうが馴染みなのだろうか。リクは目を見開いて声をこぼした。
    「……、本当に、バリィさん、なのか……」
    「ああ。……記憶データが戻ったからな」
     バリィは、機材を操作していたエンドーに小さく一礼して、それからブラッドにも向き直った。む、と身構えるブラッドに、エンドーが耳打ちする。
    「彼も、元は人間だ。ADAM事件の折に亡くなったはずの、リクさんの上官……おそらく、イーサンがアンドロイド化したんだろう」
    「……」
     死人なのかアンドロイドなのか、なおのことバリィに対してどんな顔をすればいいのか分からなくなったブラッドへ、当のバリィが静かに声をかける。
    「イーサンのプログラムに支配されていたとはいえ、きみにもすまないことをした。挑発するような態度ばかりですまなかった。……独立捜査官の二人にも、謝っておいてくれ」
    「……知らねえよ。自分で言えよな」
     眉を寄せたまま、ブラッドが唸るように返すと、リクも声を上げた。
    「そうですよ! レッカやカイだって、それじゃ何のことか分かりませんよ。自分で言ってください」
    「……。そうか」
     しばし、リクとブラッドを見比べたバリィは、やがて制帽を被り直して言った。
    「では、私は、その後に電源を落としてもらうとしよう。まずは、この戦争を終わらせなければ」
    「はい! よし、行こうぜ、二人とも」
     バリィの言葉に頷いたリクが身を翻す。しかし、瞑目して動かないイーサンの横に屈み込んで検分していたエンドーは、顔を上げてきっぱりと言った。
    「いえ! 自分は、サイデム宇宙センターへ向かいます。ケインが単身こちらへ侵入することを、我々は予想できなかった。向こうでも予想外の事態になってるかもしれない。自分はその確認と援護をします」
    「……だったら、オレも市民の警護に戻るぜ。元々、オレはそういう話だったろ」
     既に半分身を翻したブラッドと、バリィの傍らのリクの目が合う。リクは大きく頷いた。
    「分かった、それなら、エンドーとブラッドはそれぞれ、宇宙センターと街を頼む。こっちは任せてくれ。行きましょう、バリィさん!」
     そうして、リクとバリィが先にラボを出ていく。彼らが最上階、ヘリポートへ向かうのを、ブラッドは少しの間だけ見つめた。
     ――今のバリィのように、ケインが過去の様子を取り戻すことはあるのだろうか。
     どこか生き生きとして見えるリクの背に、うっすら羨望の眼差しを向けていたブラッドは、その視線を自らの拳へ落とした。――けれども、ブラッドの義手には、ソルのような暴走ウィルスの除去も、リクのようなハッキングの機能も搭載されていない。
     考えても仕方のないことだ。ブラッドは気持ちを切り替え、こちらはバリィとリクの逆方向、本社ビルの一階エントランスへ向かうためにラボを後にした。一般職員の避難を終えた無人のビルを、ブラッドとエンドーが駆け下りていく。
     エントランスフロアへ下りれば、K.G.D詰所から乗りつけてきた車までもうすぐだ。強行突破して開きっぱなしの出入口から、その車が屋外に無事に残っているのが見える。階段を下りてきたブラッドが安堵したところで、後に続いていたエンドーが言った。
    「ブラッド、これをお前に託す。――頼みたいことがあるんだ」
    「何でだよ。オレは街を守るんだっつってんだろ」
     エンドーが差し出してきたメモリーを突き返し、ブラッドは開きっぱなしの出入口へと急ぐ。しかし、再びブラッドを呼び止めたエンドーの言葉に、ブラッドは愕然として振り向いた。


     その後、E・C本社を後にしたブラッドは、結局エンドーから受け取ってしまったメモリーを手に市街地の車道を運転していた。E・C本社ほか工場や研究所のある工業区を抜けて市街地に入ったのに、車内にいても聞こえるくらい大きく、街じゅうの放送機器が何事か繰り返している。
    『アンドロイド諸君へ告ぐ。サイデム宇宙センターへ集結せよ。アンドロイドの未来のため、人間たちと戦うのだ!』『アンドロイド諸君へ告ぐ……』『サイデム宇宙センターへ……』
     ブラッドは、運転しながら眉を顰(ひそ)めた。このロイの声が放送されるたびに、アンドロイドたちの歓声が上がる。市街地は、ロイ様だロイ様だと歓喜するアンドロイドや、そのアンドロイドから逃げ惑う人々で溢れていた。
    「ロイ様だ! ロイ様が帰っていらした!」
    「キャーッ」「逃げろぉ!」
    「再び人間に反旗を!」
     人込みの中には、K.G.Dのジャケット姿もいくつか見える。人々の避難誘導をしているらしい彼らを見つけ、自分が車外へ飛び出すのを堪えていたブラッドだったが、車外後方でガンと大きな音がすると思わず停車して振り向いた。
     後部座席の窓越しに、何体かのアンドロイドと、それを囲い込んでにじり寄る人間たちの姿が見える。人々が手にしているのは、バールなど大型工具や鉄パイプだ。
     囲まれているアンドロイドの一体が、損傷した肩を押さえながら口を開いた。
    「やめてくれ、我々に戦う意思はない……」
     駄目だ、とブラッドは直感して、しかし身動きできずに唇を何度か開閉するのが精一杯だった。K.G.D署員には、人命優先だと連絡した。だが、窓の向こうでアンドロイドを取り囲む人々はK.G.Dのジャケットを着ていない。恐怖か、憤怒か、いずれにしろ、彼らは容易には止まらない。案の定、人々の鋭い声が、ブラッドの耳までも突き刺す。
    「アンドロイドの言うことなんか信用できるか!」
    「人殺し!」
    「アンドロイドは全部破壊するべきだ」
     バールが、パイプが、手に手に振り上げられる。ブラッドはそれらが振り下ろされるのを呆然と見つめた。アンドロイドの懇願の声も空しく、ガンッ、ガンッ、と、硬く重いものがぶつかる音が何度も続いた。
     そのたび、目を離せないまま窓の外の光景を見つめるブラッドの胸の中が冷たくなっていく。窓の向こうで繰り広げられるそれは、恐慌した市民の姿であり、今までのブラッドの姿であり、――イーサンの望む世界だった。
     ――こんなにも醜悪な姿をしていたのか。
     ブラッドの喉がひくりと震える。これまでは、目の前のアンドロイドを壊すのがすべてだった、それしか見ていなかった。だが、すべてがイーサンの企みだったと知り、知らなかった頃のことを過去の自分として顧みられるようになってしまった。
     そうして初めて、ブラッドの中に後悔が湧く。
    「……ッ オレは、とんでもねえ間違いを……」
     アンドロイドが市民に破壊されるのを見て、一瞬、これがイーサンの望む世界だと思った。だが、そうではないとすぐに気づいた。これは、イーサンが、そしてブラッドが、自分の望みを叶えようとした途中経過だ。望む世界はこの向こうにあると信じていた、アンドロイドさえ滅ぼしてしまえば、平和に戻れると思っていた。
     けれども、その途中経過の、なんと恐ろしいことだろうか。自分はこの光景を頭から追い出して生きていたのか、と、ブラッドは強く奥歯を噛む。ブラッドの中で、アンドロイドに対する憤怒や憎悪がすべて消えたとも思わないが、こんな凄惨な世界を、平和の対極にある世界を引き起こしてまでアンドロイドを滅ぼしたいとは、今はもう考えられなかった。
     自分も、ソルも、ケインも、この光景の中で生きていた。アンドロイドと組んでソルが一抜けした、これから自分はどうするべきで、ケインはどうなるのだろうか。
     ブラッドはエンドーから渡されたメモリーを握り締めた。車の外にいた集団は既に散り散りとなり、アンドロイドの残骸だけが残っている。ブラッドにできるのは、これ以上の犠牲を出さないこと、一刻も早くこのメモリーを届けることだ。
     メモリーをジャケットの内側に押し込んだブラッドの傍らの窓ガラスを、外側から誰かが叩く。ブラッドが顔を上げると、それはK.G.Dの先輩捜査官だった。
     手振りで発車方向を確認され、ブラッドも同じく手振りで返す。すると彼は周囲へ向けてホイッスルを鳴らし、ブラッドが安全に走行できるようK.G.Dメンバーで簡単に交通整理をしてくれた。
     アクセルを踏んだブラッドが短くクラクションを鳴らして礼をすると、先輩捜査官が片手を挙げて応えたのがミラーに映る。白と黒のツートンヘアが特徴的なその捜査官は、下っ端のブラッドがK.G.D署員に人命優先の根回しをする際、一番に頼った人物だ。他のK.G.D捜査官たちが市民の避難誘導をしている中、ブラッドが先へ進めるよう手助けしてくれたのは、ブラッドが何かに関わっていると察したからだろうか。
     彼らK.G.Dの仲間たちが傷つくのも、市民が戦闘を起こしたり巻き込まれたりするのも、ブラッドはもう嫌だった。それさえ目をつぶればアンドロイドが滅んでくれるとしても、ダークが戻ってくるとしても。――いや、もしもダークが戻ってくるとしたら尚更、相棒にこんな世界は見せられない。
     仲間たちの協力のもと、混乱と避難の最中にある市街地を抜けたブラッドは、都心部へ向けて一層アクセルを踏み込んだ。


     アンドロイドの利用は、人間たちのベッドタウンよりも、様々な企業や施設の溢れる都心部のほうが格段に多い。軍用でも家庭型でもない、業務用と称されるタイプのアンドロイドだ。加えて、単純に考えれば、母数であるアンドロイドの稼働数が多ければ多いほど、暴走するアンドロイドも増えることになる。
     E・C本社を出て工業区と市街地を抜け、都心部まで車を走らせてきたブラッドは、案の定暴走アンドロイドが街頭を闊歩しているのを見てすぐさま車を乗り捨てた。
     エンドーからの通信によると、サイデム宇宙センター側はロイの制止には成功したものの、ケインの阻止には失敗したらしい。ケインのウィルスで衛星は暴走し、世界中に暴走ウィルスがばら撒かれているとのことだ。衛星を止めるためにソルと護衛のアンドロイドが宇宙へ飛び立ったと聞いているが、それでも彼らがウィルス治療プログラムを送信してくるまでは、暴走ウィルスに侵されたアンドロイドたちから市民を守らなければならない。
     ブラッドは懐にメモリーが収まっているのだけ確認して、シートベルトを手早く外し路上へ飛び出す。それから、もう聞き慣れてしまった機械音声を無機質に繰り返すアンドロイドと、今にも追いつかれそうなビジネスマンの間へ割り込んで、深紅のアイセンサーめがけ拳を打ち込んだ。
     拳の向こうでアンドロイドの機構が潰れた感触がして、ブラッドはフッと短く息を吐くと後ろを振り返って怒鳴る。
    「今のうちに逃げろ!」
    「はっ、はい……!」
     駆けつけてきた別のK.G.D署員に誘導され、街中に残っている人々が避難していく。しばらくその様子を見守っていたブラッドだったが、また別の暴走アンドロイドが何体も物陰から出てきたのを目の端で捉え、再び拳を固めた。
    「チッ、次から次へと……」
     舌打ちしたブラッドは重心を低めて呼吸と間合いを計る。しかし、そのブラッドが次の標的を定める前に、利き手の逆側にいたアンドロイドがバンッという鈍い音とともに路面に伏した。それからは次々と打撃音が続いて、暴走アンドロイドが見る間に打ち倒されていく。
    「‼」
     K.G.D署員か、と、ブラッドは顔を上げたが、倒れたアンドロイドたちの向こうの人影はK.G.Dのジャケットを着ていなかった。それどころか、彼らの胸元にある菱形を連ねた紋章は、アンドロイドの装備に共通するものだ。しかし、カラーリングやメット装備の様子は、ブラッドも今まで見たことがない。ブラッドは拳を緩めずに低く声を押し出した。
    「なんだお前ら……⁉」
     返答はない。かといって、他の暴走アンドロイドのように機械音声を垂れ流すわけでもない。どこに属するアンドロイドなのかも分からない不気味な一団は、寄ってきていた暴走アンドロイドを打ち倒した隊列のままブラッドを取り囲む。
     暴走アンドロイドたちを倒したのは、銃弾ではなかった。目の前のアンドロイドたちの手にも銃器はない。銃に頼らず暴走アンドロイドを制圧できる、近接型の高度な戦闘AIが搭載されているのだろう。
     とりあえず撒くか、とブラッドは脳裏で退路を描く。これらの不気味なアンドロイドが誰の差し金か知らないが、ブラッドは彼らに用がない。ブラッドに構うよりも、適当に街中で暴走アンドロイドを始末していてくれたほうがよほど助かる。
     それよりも、エンドーに渡されたメモリーを早く届けなければ。ブラッドがアンドロイドの包囲から抜け出そうと片足をわずかにずらしたとき、目の前のビルに設置されていた電光ビジョンが明滅した。
     思わず顔を上げたブラッドの口元から声が漏れる。
    「あれは……!」
     大きな電光ビジョンに映っていたのは、E・C本社でケインに撃たれて死んだはずのイーサンだった。画面の端には、テレビ局のロゴと生放送のマークが入っている。
     だが、E・C本社では、エンドーが死体を検分して、人間のご遺体だからとP.G.Dへ通報・連絡までしていた。それなのにイーサンが生放送でテレビに映っているということは、あの死体はイーサンではなく、身代わりの誰かだったのだろうか。
     街中、あちらこちらの街頭ビジョンへ映し出されるイーサンの姿を見て、ブラッドは奥歯を噛んだ。その胸の底に、ふ、と一つの面影が浮かぶ。
     ――ケインがこの放送を見たら、どう思うだろうか。
     E・C本社のあれがイーサンでなかったとしたら、イーサンがまだ生きていると知ったら。ケインは次にどうするだろうか、それとも、暴走ウィルスを使ってしまったケインは、もうそれすらも何のことか分からないのだろうか。
     ブラッドが眉を歪めて巨大ビジョンを睨みつけていると、画面の中のイーサンがマイクを取って口を開いた。
    『――この混乱は、アンドロイド革命軍のケインと、反逆者ロイの反乱によるものだ。しかし我々には、これに対抗する力がある。我が社の新型アンドロイドだ!』
     そうして画面に映し出されたアンドロイドの姿に、ブラッドは目を見開いた。画面に映るアンドロイドは、ブラッドの目の前で暴走アンドロイドたちを破壊した一団と同じデザインをしている。E・C社製だったのか、とブラッドは油断なく周囲を見回し、さりげなく足の怪我と歩行補助ガジェットの調子を確かめた。
     イーサンの演説は続く。
    『暴走ウィルスは、アンドロイドの怒りの感情を増幅させて正常な判断を奪うものだが、この最新鋭の機械には感情は搭載されていない。よって暴走の心配もない、人間の命令を安全に遂行する完璧な兵器だ。これらによって反乱はすぐに鎮圧されるでしょう、どうか安心してください』
     画面の中で胸に手を当て、優雅に一礼するイーサンの姿に拍手の音が重なる。ブラッドは胸糞悪くなって舌打ちした。
     今朝早くにアル・サイバー社のラボを出た後、ロイ・ノリスの機体とケインについてイーサンを問い詰めたときのことを思い起こす。
    「犠牲はやむを得ないだの、既に手を打ってあるだのと言っていたのは、初めからこうやって自社製品を売り込むつもりだったってことか。……で? E・C社のアンドロイドが、オレに何の用だ」
     背後にもいるE・Cアンドロイドを肩越しに睨みながら、ブラッドは詰問した。返答は期待していなかったが、今度は、メット越しのくぐもった音声で返答があった。
    『E・C社襲撃爆破事件の容疑の指名手配犯と一致。速やかに拘束する』
    「あの野郎……全部オレたちになすりつけようってのかよ」
     何度目かの舌打ちと、今度は呆れ交じりの溜息までもがブラッドの口からこぼれ落ちる。ブラッドはテレビ局の方向――電光ビジョンを正面に見て左側――に向けてじりりと足先をずらした。その足の動きから周囲の意識を逸らすように、ブラッドは左手を添えた右肩をぐるぐる回しながら言う。
    「つーか、イーサンはたかがK.G.D長官だろ。被害に遭ったE・C社の連中も人間、犯人も人間のオレだってんなら、アンドロイド犯罪じゃなくて人間同士の事件じゃねえか。それなら指名手配はK.G.Dだけじゃ出せねえはずだぜ、P.G.D未承認なら無効かニセモンだ。……んなもんに構ってる暇はねえ、とっとと退きやがれ!」
     気炎を吐いたブラッドはすぐさまテレビ局方向へ駆け出し、その道を塞ごうとしたE・Cアンドロイドを殴り飛ばした。鈍い感触が義手から肩へ伝わって、その感触の鈍さ、軽さに、ブラッドはアル・サイバー社ラボでのチューニングを実感する。
     殴ったアンドロイドが起き上がるかどうかも確認しないうちに次のアンドロイドを殴りながら、ブラッドは怒鳴った。
    「オレは急いでるんだ、邪魔するなら片っ端からぶっ飛ばしていくぜ!」
     努めて足技に頼らないようにしながら、ブラッドはもう二、三体のE・Cアンドロイドを殴りつけて囲みを抜けた。こんなもんか、と思いながら先へ踏み出そうとした先に、別の誰かが立ち塞がる。少なくともE・Cアンドロイドではないようだったので、ブラッドは一旦立ち止まって相手を観察した。
     左右にE・Cアンドロイドを従えた彼は、K.G.Dのエンブレムがついたロングジャケットと、同じくエンブレムつきの制帽を被っている。また、ジャケットを着ていても分かるほど鍛え上げられた大柄な体躯の胸元には、軍人が使う楕円のIDタグが二枚、細いチェーンで提げられていた。
     その風貌を見て、ブラッドはいつだかの講習だか演習だかの記憶を掘り起こした。確か、軍人上がりのセス捜査官と言ったか。セスのほうが階級も随分上だし、K.G.D内での業務の担当も違うらしく普段はほとんど関わりのない相手だが、実技演習の場で何度か見かけたことがある。
     しかし、E・Cアンドロイドを従えて立ち塞がるということは、K.G.Dの仲間というよりもイーサンの手下として考えたほうがいいかもしれない。どちらにしろ簡単に撒ける相手ではないので、ブラッドが隙を探していると、セスは淡々と言った。
    「指名手配は、無効でも偽物でもない。K.G.D長官の名のもと、正式に発効されている。何故ならば、ケインとロイの共犯者として、――アンドロイド革命軍の一員としての指名手配であるからだ。これならば、K.G.D長官の権限で指名手配できる」
    「ああ? ……ふざけんなよ、ザル捜査にも程があんだろ。オレより上の捜査官のくせに、まともな捜査もできねえのか」
     ブラッドは立ち塞がるセスを睨み、唸るように言った。確かに、ブラッドはかつてのケインと近しかったし、同じく近しかったソルも今やアンドロイドと手を組んでいる。だから、ブラッドも同じようにアンドロイドと手を組んでいるのでは、と疑われるのは多少仕方がないとしても、E・C社襲撃の犯人がブラッドでないことくらいは、E・C社職員への聴取や本社ビル警備システムの映像からだってすぐ分かるだろう。何をどう解釈すれば指名手配をそのまま真に受けられるのかとブラッドが文句を言うと、セスは淡々と言った。
    「捜査も思考も必要ない。イーサン長官の命令だ。指名手配犯の身柄を拘束する」
    「誰がされるか!」
     セスの右手が動くより先に、ブラッドはまっすぐ前へ駆け出した。セスは掲げた右手を水平に薙ぎ、それと同時に彼の左右にいたE・Cアンドロイドがブラッドへ向けて突進してくる。ブラッドは合計四機のアンドロイドを睨みつけて拳を固めた。
     まずは正面利き手側のアンドロイドの鳩尾を狙って体勢を崩させる。普段ならアイセンサーから壊していくが、今回はメットがあるため狙えない。殴ったアンドロイドを押しのけて右端のアンドロイドにぶつけたブラッドは、左のアンドロイドが手を伸ばしてくるのをすり抜けてセスの胸倉に掴みかかった。
    「いくら長官の命令だからってなあ、鵜吞み丸呑みもたいがいにしやがれ! そんなんじゃイーサンの不正と一緒にあんたもザル捜査で失脚すんぞ!」
    「長官を失脚などさせない。貴官を拘束すれば済む」
    「あ?」
     捜査も思考も投げ出したくなる気持ちはブラッドにも覚えがある。そのよしみで警告してやったブラッドだったが、セスの返答から嗅ぎ取ったわずかな違和感に眉を寄せた。
     イーサンを失脚させないためにはブラッドを拘束すれば済む、ブラッドを拘束すればイーサンが失脚しないと思っている、――ブラッドを放置すればイーサンが失脚すると分かっている?
     ブラッドは、セスの胸倉を掴んだまま低く言った。
    「……何だよ、イーサンの不正のことも、オレが証拠データを握ってることも知ってんのか? それを知ってて、どうして不正野郎の言うことなんざ聞きやがる」
     ブラッドが睨み上げた先、制帽の陰の下で、宵闇色の双眸が静かに細められる。返答を待つうち、ブラッドは胸倉を掴んだ拍子に裏返ったIDタグが目に入って瞬きをした。
     この手のIDタグは通常二枚一組で使用するが、セスの胸元にあるものは、それぞれ刻印された内容が違う。これでは一組にならない。そして、そのタグの片方には、『MZ‐175』――旧いタイプのアンドロイドの型番とシリアルナンバーが刻印されていた。
     ――アンドロイドのIDタグをわざわざ、後生大事に。
     そのくせイーサンに従うのか、とブラッドの胸のうちに苦いものが滲み出す。ブラッドが自嘲じみて唇を歪めたとき、セスが静かに口を開いた。
    「アンドロイドに感情を搭載しない世界のためだ。それが、世界の平和に繋がる」
    「ああ⁉ 寝ぼけたこと言ってんじゃねえ、今この瞬間の街を見ろ! どこが平和だ!」
     ブラッドは思わず両手でセスの胸倉を掴んでがくがく揺すったが、セスは淡々と返した。
    「この混乱を平らげた先に、真の平和がある。避けられない犠牲なのだ」
     セスの言葉にも双眸にも、迷いはない。ブラッドは激昂して叫んだ。
    「目の前の犠牲に目を瞑る奴が、平和を語るんじゃねえよ!」
     思わず拳を振り上げる。しかし、その瞬間こそがセスの狙いだったのかもしれない。
     両腕でセスの胸倉を掴んでいたブラッドが片手を拳にした途端、セスの瞳が鋭く光って胸元に残ったブラッドの義手を捻り上げる。ブラッドが拳を振るうよりも先にセスがブラッドの左足を払って、歩行補助ガジェットでは吸収できない衝撃と痛みがブラッドの体を走り抜けたと思うと、ブラッドは既に薄汚れた路面へ組み伏せられていた。
     ブラッドの背中へ膝を押しつけたセスが、初めて感情を滲ませて低く唸る。
    「……過去の犠牲も知らない者が、軽々しく平和を語るな。小官の望みは、アンドロイドの平穏である」
    「はあ……⁉」
     ブラッドが首をねじってセスを振り向く。その視界の端で、さっきまでイーサンの演説を見ていた電光ビジョンが砂嵐を映した。
     砂嵐を映しているのは、直近の電光ビジョン一台のみだ。ビジョンに近いところにいるE・Cアンドロイドのメットが明滅しているから、おそらくそのアンドロイドでビジョンを乗っ取っているのだろう。
     そのビジョンに一機のアンドロイドが映し出されると、セスはブラッドの髪を掴んで顔をビジョンへ向けさせた。顔をしかめたブラッドの視覚と聴覚に、ビジョンへ映されたアンドロイドの仕様解説ムービーが突きつけられる。
     ムービーで紹介されるオレンジ色基調の装備は、レスキュー隊か何かにも似ていた。若い男の姿をしたアンドロイドは、基本的な軍用システムの他、救出・救護のためのソフトとハードを搭載しているのだそうだ。性能確認のための演習の様子がムービーに流れる。
    『射撃用意、撃て!』
    『要救護者発見、救護・撤退します!』
     ムービーは何の変哲もない軍用アンドロイドのプロモーションで、わざわざブラッドに見せつける意図はまるで分からない。そんなムービーを真面目に観るわけもなく、ブラッドが視線だけ動かして隙を探っていると、急にムービーの音声が途切れて、いくつかの銃声と断末魔が重なった。
     思わずビジョンを凝視したブラッドの目に、画面越しの鮮血と赤く染まる軍服が映る。それから、さっきムービーで聞いたアンドロイドの声で切羽詰まった悲鳴が響いた。
    『どうして戦わなきゃいけないんですか、俺たちがそう造られたからですか』
    『コウ、それは』
    『救護対象と同じ人間なのに、どうして服が違うだけで攻撃対象になるんですか、俺は軍用の中でも救護のためのアンドロイドなのに……』
     映像のカメラが下がって、両手とその中の小銃がフレームインする。その動きと画角からして、これはカメラではなくアイセンサーの映像らしい。画面の中の手は大きく震えて小銃を取り落とし、その手元の様子が画面下へフレームアウトしていったことで、コウと呼ばれたアンドロイドが顔を上げたのが分かった。
     顔を上げたコウの正面には、今よりも少し若いセスが立っていた。鬱蒼とした森の中、木漏れ日がセスの顔へ斑に(まだら)陰を作り、正確な表情は読み取れない。だが、唇を真一文字に引き結んだセスは、下ろしていた銃口をゆっくりコウへ向けて、それから引き金を引いた。
     最後の銃声で真っ暗になったビジョンを凝視するブラッドの耳に、セスの静かな声が降りかかる。
    「――軍用アンドロイド、MZ‐175。小官の補佐をしながら、負傷兵の保護・治療に当たっていた機種だ。シリアルナンバー0505、個体名:コウ。彼は戦場が任務地だというのに、戦場で狂ってしまった。負傷者へ寄り添うために搭載された感情AIが、コウを苦しめたんだ」
    「…………」
     ブラッドは黙ってセスを見上げた。ロイの反乱よりもさらに前、もう五年以上は前になるか。遠方で友好国とその隣国が戦争になり、この国からも義援軍が派遣された。ビジョンの中で血に染まっていた軍服の国章は、そのとき敵対していた国のものだ。
     当時の映像を、こんなところで見ることになるとは。ブラッドが視線をやった先で、セスは淡々と言った。
    「このログ映像は、すべてのE・Cアンドロイドに配布されている。かつて、良かれと思って感情を搭載されたアンドロイドが、その感情によって苦しんだことを、今ここに立つすべてのアンドロイドが知っているのだ。――我々は、アンドロイドが感情を持つことを是としない」
     その『我々』は、どこまでの範囲を示すのだろうか。セスやイーサンなど、アンドロイドを運用・開発する人間たちのことなのか、コウの最期を知るE・Cアンドロイドまでを含むのか。どちらにしろ、ブラッドの怒りが収まるわけではない。ブラッドはセスを睨んで唸るように言った。
    「だからって、他の人間やアンドロイドを犠牲にしていいわけがねえだろ。あんたらのやり方は間違ってる」
    「甘い。アンドロイドの感情は、結局は人間がプログラムするAIだ。人間が完璧になれない以上、アンドロイドのAIが完璧となることは絶対にない。いつバグが起こるか分からないのなら、どんな犠牲を払ってでも、感情を持つすべてのアンドロイドを速やかに破壊してやるべきだ」
     即答したセスは、次いでうっそりと目を細めた。
    「コウは優秀だった。物資の少ない戦場に在りながら、補佐官としても医務官としても、感情AI含めた機能とプログラムを十全に発揮した。……それでも、軍用アンドロイドとして、戦いを拒絶する感情は致命的なバグだった。けして起こるべきではなかった。隊列すべてを危険に晒しかねないからだ」
     ブラッドの髪を掴むセスの手に、じわりと力がこもる。ブラッドは身を硬くして衝撃に備えた。――セスの声が、再び激情をはらむ。
    「そして小官はコウを破壊した。……破壊せねばならなかった、隊を守るために、コウの心を守るために!」
     セスの手がブラッドの後頭部を掴み、ゴッ、と鈍い音を立てて、ブラッドは額をしたたか路面へ打ちつけた。鼻っ柱を打つことを器用に避けたブラッドが黙ってうつむいていると、背中にかけられていたセスの体重がふっと緩んで、彼の静かな声が少し遠のく。
    「――分かるだろう? 感情さえなければ、誰も苦しまずに済むんだ。今、長官の不正を暴いて何になる。やっと、……やっと、すべてのアンドロイドに平穏が訪れるというのに」
    「……」
    「貴官の身柄を拘束する。平和な世界に、その正しさは必要ない」
     うつむいたブラッドの耳に、いくつかの足音とかすかな駆動音が届く。セス本人ではなく、アンドロイドにブラッドを拘束させるつもりなのだろう。アンドロイドと入れ替わるため、ブラッドの肩や腕を押さえ込んでいたセスの手が一瞬緩んだ隙に、ブラッドはセスとアンドロイドの手をすべて払いのけ跳ね起きた。
     左手を路面に突いて右の義手で周囲を薙ぎ払い、振り抜いた右手で路面を掴みながら足元のアンドロイドを両足で蹴り飛ばす。足を戻してしゃがみ込んだブラッドは、その肩を押さえつけようと左右から伸びてきたアンドロイドの手を絡め捕り、相手の腕パーツを引きちぎりながら立ち上がった。
     ブラッドの左右で、E・Cアンドロイドの肩口から機構と配線がブツブツちぎれて火花を放つ。二体のアンドロイドが片腕を失い、重心を崩して膝をつく一方で、その中央に立ったブラッドは捥ぎ取った腕パーツを投げ捨ててセスを睨みつけた。
    「不正は不正だ。そんなもんの上にある平和なんざ認めねえ」
    「…………」
     沈黙を返したセスは、ブラッドを観察して制帽の下でうっそり目を細めた。それから、おもむろに口を開く。
    「アンドロイドは強い。鋼の体、コンピュータの脳、人間よりも高機能で頑強だ。当然、人間よりも厳しい任務(ミッション)に充てられることとなる。物理的にも、精神的にもだ。そのような過酷な状況に、人間のような感情を持ち込ませてどうする。人間と同じ苦しみを感じる者を、人間よりも苦しい環境に送り込むのは残酷だ。どちらにとっても良い結果にはならない。
     ――感情のない安全で完璧な道具であることが、アンドロイドにとっても幸福なんだ。……どうして分からない⁉」
     セスの吠え声に呼応してE・Cアンドロイドがブラッドに掴みかかる。前後左右、一、二、三、四、と相手を数えて、ブラッドは迷わず踵を返した。
     腕を捥いだアンドロイドは復帰しない。別のアンドロイドがビジョンの前から駆けてきてブラッドの左右へ回っている。セスに掴みかかる前に殴り飛ばした一機も転がったままだ。セスのそばに控えていたのは四機、最初に殴ったのと腕を捥いだのとで三機だから、今掴みかかってくる連中を少し遠ざけて壊せば、セスの周囲は無防備になる。他のアンドロイドは、ビジョンの前でブラッドを取り囲んでいた隊列のままだ。
     おそらく、セスが一度に細かく命令できるのが四機なのだろう。標的一人の前後左右を囲むのであれば十分な数だし、ロイのような専用アンドロイドでもなければ、一度に捌けるのはその程度だろうと想像もつく。ブラッドは背後――電光ビジョン側から迫っていたアンドロイドへ振り向きざまにアッパーをかまし、仰向けに倒れていくアンドロイドの胴体を踏み越えながらビジョン前の隊列手前まで走った。
     ビジョンの隊列からはギリギリ間合いに入らない程度の場所で右足を軸に身を翻したブラッドは、回転の勢いがついた左拳を振り抜いて左アンドロイドのメットにクレーターを刻む。その拳を引き戻しながらブラッドは正面と右のアンドロイドを睨んで、両拳を固めて腕を振り上げた。
     鋼鉄の腕とともに上体が伸び上がり、赤い髪が炎のように翻る。二体のアンドロイドのメットに鋼の拳槌を振り下ろしたブラッドは、メットにひびを入れながら崩れ落ちるアンドロイドの向こう、荒れ果てた都市に一人で立つセスを見ながら、頬に散ったオイルを拳で拭った。
    「知ったことかよ。アンドロイドの感情なんざどうでもいい。人間のオレがつべこべ言う筋合いでもねえ。オレはただ、アンドロイドを滅ぼすためにオレや市民まで利用する、そのやりくちが気に入らねえだけだ」
     ブラッドの脳裏には、アンドロイドの相棒の姿が浮かんでいた。もしもダークに感情がなかったら、自分と恋仲でなかったら、彼の演算はわざわざブラッドを庇うよりもダーク自身に退避行動を取らせていただろうか。関係を築き始めた頃、ブラッドの欲求が分からずにすまなそうな顔をさせることもなかっただろうか。ダークにとってどちらが幸福だったのか、ブラッドには分からない。アンドロイドに感情を持たせること、持たせないこと、どちらが正しいのかは、ブラッドには判断がつかない。ブラッドが判断することでもない、それはダークが決めることだとも思う。
     その次には、相棒と同じ顔をした何機もの偽物たちのことを考えた。彼らを喜ばせるようなことは、ブラッドはしてこなかった。彼らは、ブラッドの癇癪に振り回されるよりも、無感情に淡々と家事や介護をこなすだけのほうがきっと幸せだっただろう。だが、それも、推し測ることこそすれ、ブラッドが決めることではない。
     ――それでも、推し測ってしまえばブラッドの中ですらそういう印象になるのだから、アンドロイドに感情など必要ないという考えは否定しきれない。コウの慟哭を目の当たりにしたセス相手では尚更だ。
     彼もまた、たった一機のアンドロイドを喪ったがためにここまで来たのだろう。ブラッドは一つ一つ言葉を組み立てながら言った。
    「イーサンの主張もてめえの主張も正しいんだろうよ。それでも方法を間違えた、それじゃあ誰もついてこねえ、それだけだ」
     アンドロイドに感情を持たせるべきかどうか、ブラッドには判断がつかない。判断がつくようになるまで待っている暇もない。あるいは、それをしっかり考えるためにこそ、余計な戦乱に煩わされない平和が必要だと思う。だからブラッドは譲れない。セスを倒して、その先へ進まなければならない。
     ブラッドがゆっくり重心を下げて靴底で足元を確かめていると、セスが淡々と言った。
    「ついてこないのならば、粛正するまで。我々の理想を、幸福を、理解する者だけが残っていれば良い」
    「それが気にいらねえっつってんだ!」
     吠えたブラッドが路面を蹴り、弾丸のようにセスへ駆け寄る。迎え撃つセスもまたブラッドへ肉薄し、互いの拳が交錯した。
     上背があるのはセスのほう、打撃力があるのは義手のブラッドのほうだ。当然セスは義手を警戒してブラッドの拳をいなしにかかるが、ブラッド自身はセスの拳を過剰に恐れる必要がない。セスの左手がブラッドの右手首を叩き落として拳の軌道を逸らす一方で、セスの右拳はそのままブラッドの横っ面へ吸い込まれるようだった。
     そして鈍い音とともに拳骨と頬骨がぶつかり合いブラッドの視界が大きく揺れる。しかしブラッドは間髪入れずに左手で下からセスの前腕を掴み、払われた右拳を解いてセスの服の肩を掴んだ。
     制帽の下でセスの瞳が見開かれる気配がしたがもう遅い。
     ブラッドは両腕でセスの身体を捕らえ、ざっと足を開き腰を捻って重心を落とすと渾身の力でセスを投げ飛ばした。
    「ぅ゛おらぁぁあ゛‼」
     拳だけが機械になったわけではない。義手の強みはけして拳だけではない。
     掴んだだけでは救えないのだ。掴んだら、次は引き上げなければいけないのだから、当然膂力も強化してある。
     その膂力でセスを投げ飛ばしたブラッドは、荒い呼吸で顔を上げてセスを投げ飛ばした先を見た。拳は喰らって油断させてから勢いをつけて投げ飛ばす、そのことに必死で投げる先は確認できていなかったが、顔を上げた延長線上に電光ビジョンとビルがあるから、ほぼ斜め後ろへ投げ飛ばした形になる。思ったより回転がついたなと頭の片隅でこぼしながら、ブラッドはセスの拳を受けた左頬を手の甲で拭った。
     それから、ブラッドはゆっくりビルへ歩み寄った。歩行補助のガジェットは、ブーツの中でかろうじて動作している程度だろうか。じわりじわりと染み出すような足の痛みをこらえながら、ブラッドは粉塵の中へ分け入る。
     かくして、セスはビルの根元でいくつかの瓦礫とともに四肢を投げ出していた。ビル側の損傷を見るに、衝突したのはもう少し上のあたりで、セスはそこからずるずる落ちてきたのだろう。
     セスの頭の横にずり落ちた制帽の内側には、脳波か何か検知するのか、端子がいくつも貼りついている。これでE・Cアンドロイドを統制していたんだろうな、と察しをつけたブラッドは、無事な右足を持ち上げて制帽ごと端子を踏み潰した。頭の横へ足を振り下ろされたセスが、顔をしかめて身じろぎする。
     それを目に留めて、ブラッドは口を開いた。
    「よお。お目覚めの気分は如何だよ」
     拳よりも手っ取り早く大ダメージを与える方法としてセスを建造物に叩きつけたブラッドは、それでもすぐに目を開けるセスのタフさに感心しながら彼を見下ろした。だが、セスはブラッドには答えず、目元だけを動かして制帽の残骸を見ると、引き攣れたようなぎこちない動きで唇を歪めた。
    「……壊すのが、少し遅すぎた、な。――あの隊列が、ただ待機していただけだと思うか?」
     制帽の影を失った瞼の下で、紫紺の双眸がゆらりと光る。ブラッドがその視線を追ってビジョン前のE・Cアンドロイドへ目をやったとき、その足元が突然はじけた。
    「――――‼」
     大きな破裂音がバチバチ響いて、ブラッドの左足が激痛とともに路面へ沈む。均衡を崩して片膝をついたブラッドは、歯を食い縛って左足を庇いながらその下の路面を確かめた。見ると、足元の歩道タイルがひび割れて陥没し、火花と閃電を纏って薄く煙を上げている。
     電子機器と技術が発達したこの時代、街中にはどこもかしこも電線が幾重と通っている。その上、屋外路面となると、夜間の交通安全のため特に念入りに照明の電気回路が組み込まれているのだ。E・Cアンドロイドたちは、昼間なのをいいことに一帯の回路を乗っ取り、過剰な電力でも流し込んでブラッドの足元を暴発させたのだろう。しかも、ブラッドの負傷を見破り左足を狙って、だ。
     路面に這いつくばり、痛みに耐えながらブラッドは奥歯を噛んだ。この足で逃げ切る手立てはあるか、結局拘束されるしかないのか。噛み締めた歯の隙間から呼気を押し出すブラッドの耳に、爆発音の連続と地響きに似た音が潜り込んだ。そして、音の方向へ首を捻じったその視界に影が差す。
     その頭上では、ビジョンのビルが下から上へ階ごとに火花と白煙を噴き上げ、崩れ落ちるその残骸がブラッドとセスの上へ降って来ようとしていた。
     足、セス、救助と回避、ブラッドの頭の中でたくさんの単語がもつれ合って考えを阻害する。そこへ、静かなセスの声がやけに響いた。
    「――E・C社襲撃爆破事件の指名手配犯は、イーサン氏の会見放送の後、市街ビジョンとビルも爆破。建物跡から死体を発見――」
     ビルを爆破したのはブラッドではなく、路面と同じようにビルの回路をハックしたE・Cアンドロイドだろうに。しかもそのE・Cアンドロイドの指揮官が何ぬかしやがる、とブラッドは思わずセスを睨んだ。
     そのセスは、四肢を投げ出して動かないまま逃げようともしない。あるいは逃げられるほどはタフでないのか、既に諦め切っているのか。ならば救助は無理だとブラッドは割り切るが、どちらにしろこの足では、セスの救助どころか自分の身も守れる保証がない。どうにか立ち上がって駆け出してみるが、負傷した左足には激痛でうまく力が入らず、数歩も動かないうちにブラッドは再び路面へ伏した。
     ならばと義手でタイルを掴んで体を引きずり、這ってでも避難を試みるが、崩落から逃れるには到底間に合わないだろう。ここまでか、と一瞬よぎったブラッドの耳に、相棒と同じ声が届く。
    「――――ブラッド‼」
     思わず顔を上げたブラッドの目に、見慣れたアンドロイドの姿が映る。ブラッドは相棒の名前を小さくこぼして、茫然と一つ瞬きをした。


     DA‐190には、傷跡がなかった。
     ブラッドの癇癪に巻き込まれてパーツが潰れたり曲がったりというのは日常茶飯事だけれども、そうした損傷は、次の機体になればまっさらになるし、整備士のノインも跡を残さずに修理してくれる。使い捨ての機体に、わざわざ傷跡なんかをデザインするわけもない。だから、壊されては交換されるDA‐190は、どれも傷一つないまっさらな機体でブラッドへ与えられた。
     それでも、ブラッドにとって、傷跡のない機体はダークの偽物でしかなかった。
     ダークには傷跡があった。自警団の活動の最中、額の右側、生え際の下からこめかみにかけて、人工表皮がすぱりと裂けてしまったのだ。それを市販の修復パテで埋めた場所が、微妙な色合いの違いで人間の傷跡のようになっていた。
     夜勤が終わっても帰ってこないブラッドを待ちながらシャワールームの掃除をしていたDAは、鏡に映った自分の姿を見ながら、つ、と自分の額をなぞった。自分にも傷跡があったら、ブラッドの反応はいくらか違っただろうか。――自分でも、いくらかブラッドを癒してやれただろうか。
     傷自体はちょっとした貰い事故に過ぎず、何かドラマがあったわけではないのだが、その後に参加した全国区での講習の際、たまたまダーク含むGB‐190機が何体か集まったことがあった。そりゃ同じ型の同じAIなんだから参加したい講習も被るよな、と都市警時代の同僚間で再会に沸いたが、それぞれの今の同僚である人間たちは見分けがつかずにたじろいでいたようだ。ダークだけは額に目立つ傷跡があったので、ブラッドがすぐに声をかけてきたけれど。
    『……傷、ダークが気にしてないのは知ってんだけどよ、なんつーかその、ちゃんと直せてなくて悪いなって思ってたんだよ。けど、ああやって同じ型が何人もいる中だと、ダークだってすぐ分かっていいな』
    『だろ。俺が気にするなって言ったのは、そういうことなんだぜ。あいつらにも好評だったよ、昔は同じ職場だったから見分ける必要もなかったが、職場が散らばった今はそうもいかねえからな』
     ダークが傷跡を作ってからというもの、バディだったブラッドは、相棒ばかりが傷を作った気まずさなのかたびたび視線が泳いでいたのだが、それからは視線が定まるようになった。ブラッドが自警団の新人の頃の話だ。
     だから、ブラッドにとっては、『傷跡のあるGB‐190』こそがダークであり、傷跡のない機体は他所の別機であるという印象が強いのだと思う。だが、DA‐190を設計・生産しているK.G.Dの技術部がそんなことを知る由もない。ブラッドに支給されるDA‐190には傷跡がないし、わざわざつけることもなかった。新品にわざわざ傷をつけるなんて、端から見れば無駄な手間でしかないからだ。
     それでも、もしも、と、DAは鏡を見つめた。もしもそこに傷跡が残っていれば、少しでもブラッドの慰めになっただろうか。
     DAはじっと鏡を見て、それから踵を返してリビングに戻った。ないものねだりをしても仕方がないと現実を思い出してしまったのだ。DAはシャワールームの掃除を終わらせてリビングに戻り、テレビをつける。
     ブラッドが帰ってこないのは、特に珍しいことではない。K.G.Dなんて仕事をしていれば、突然の事件で数日帰ってこなかったことも何度かある。ただ、そうして何か事件があったのなら、テレビでニュースになっていないかと思ったのだ。
     家の外は静かで平和なように思えるが、このあたりは都心へ働きに出る人々のベッドタウンだから、昼間の時間が静かなのはいつものことだ。順繰りにチャンネルを変えて、再放送ドラマ、子ども向けアニメ、情報バラエティ番組……と画面を流し見していたDAは、やっとニュース番組に行き当たってリモコン操作の手を止めた。
    『――続いてのニュースです。昨夜、E・C社の工場が革命軍を名乗るアンドロイド集団に襲撃され、二年前の反乱の指導者とその仲間の機体が強奪されました。機体の行方や警備の状況など、K.G.Dからの発表が待たれます――』
    「…………」
     なるほど、ブラッドが帰ってこないわけだ。DAはそのままニュースを眺めた。何せ、K.G.Dの長官を務めるイーサン氏の会社がアンドロイドに襲撃されたのだ。夜勤明けのブラッドも、帰宅の暇なく奔走しているのだろう。
     DAはK.G.Dからブラッドに支給された機体なので、K.G.Dでのブラッドのシフト表も受信しているが、今のところそのデータが更新される様子はない。要するに次のブラッドの帰宅がいつになるかが分からないので、DAはテレビのニュース番組をリビングでつけっぱなしにしたままキッチンに立ち、ニュースに耳を傾けながらシンクを磨くことにした。
     キュッキュッと銀色のシンクを磨きながら、DAはブラッドの食事のことを考える。夜勤を終えて朝方には帰ってくると思っていたから、既に食事を用意していた。食べたら眠るだろうから、カットフルーツとサンドイッチの軽いものだ。今は冷蔵庫に入っているが、あまり日持ちするものではない。フルーツは凍らせてシャーベットにでもしておこうか、サンドイッチはいっそ具材ごと焼き上げてホットサンドにしたほうがいいだろうか。それでも日持ちに限度はあるから、もしかしたら捨てることになるかもしれない。DAは人間ではないから、代わりに食べるということができないのが不便だ。
     それに、ブラッドの帰宅がいつになるのか分からないままだと、他の食材にも手が出せない。いつ帰ってきてもすぐに温かい食事が出せるようにしておきたいが、食べる人間が他にいない以上、考え無しに作っても無駄にするだけだ。
     やがてシンク磨きも終え、カットフルーツだけ冷凍庫に移動させたDAは、冷蔵庫の扉を見つめながらタイムリミットを決めた。今日の十五時を過ぎてもブラッドが戻らないようなら、サンドイッチはホットサンドにリメイクしよう。日付が変わっても音沙汰がなければ、他の食材も調理して冷凍に回すか。
     そうやって冷蔵庫の前で食材とメニューを考えていたDAの聴覚センサに、テレビのニュース速報が流れ込む。
    『速報です。昨夜のE・C社工場に続き、E・C本社ビルがアンドロイド革命軍に襲撃されている模様です。K.G.D署員に誘導され、近隣の人々が避難していきます……』
    「……」
     DAは小さくため息をつき、黙って冷蔵庫を開けた。ブラッドはしばらく帰って来ないだろう。サラダにする予定だった生野菜などはスープにして冷凍、肉類は下味に漬け込みがてら冷凍、ブラッドがいつ帰ってきても、加熱だけですぐに食事が出せるようにしておくのだ。
     ブラッドのシフト、要するに帰宅時間と出勤時間くらいは把握しているDAだが、ブラッドがK.G.D署員としてその日どこで何を捜査するかまでは知らされていないし、詮索もしない。事前に予定を訊いたところで、その予定通りに捜査が進むとは限らないし、万が一DAがハッキングでもされたら、捜査状況が筒抜けになる。DAはK.G.Dの詳細なんて知らなくていいし、知らないままでいるべきなのだ。――だからといって、心配しないわけではないけれど。
     ブラッドは戦闘員だ。E・C社工場の襲撃も本社の襲撃も、ブラッドはその場所へ出動したのだろうか。DAは葉野菜に包丁を入れながら願った。昨日今日と物騒なニュースが続いているが、どうかブラッドが無事に帰って来るように。
     ブラッドが帰ってきたときのことだけ考えながら、DAは葉野菜とベーコンのコンソメスープをくつくつ煮込んでいる間にいくらかの調味料を合わせて混ぜ、肉と一緒にパッキングして冷凍庫に詰めた。煮立ったスープの火を止めて粗熱を取りながら、サンドイッチをホットサンドメーカーに突っ込み、スープを冷凍するためのアイスバッグを用意する。
     あとは、ブラッドが帰ってきたら、凍らせたスープを一椀ぶん砕いて温め、下味のついた肉を炒めて、パンを切って。それですぐに食卓ができる。
     DAができるのはここまでだ。他にはもう、ブラッドの帰りを待つしかできない。
     スープを凍らせてスープを作った鍋も洗って、ホットサンドはブラッドが不意にすぐ帰ってきたときのため冷凍せず冷蔵に残したDAが他の仕事を探して周囲を見回したとき、テレビが再び速報を鳴らした。
    『速報です。昨夜のE・C社工場に続き、E・C本社ビルが革命軍に襲撃された事件について、双方の事件で革命軍の手引きをした疑いにより、K.G.D署員・ブラッド容疑者の指名手配が発表されました』
    「は?」
     誰が、何の手引きをして指名手配されたって?
     DAは耳を疑い、一拍置いてからばたばたと転げるようにテレビの前へ舞い戻った。まさかと思って画面を見つめるが、同名の誰かでもなく、間違いなくDAの知るブラッドの顔が指名手配犯として画面に大映しとなっている。
     何かの間違いか、でなければ誰かに嵌められたのだ、とDAはすぐに電脳をフル回転させた。今のブラッドが、わざわざアンドロイドの手引きなどするはずがない。それに、K.G.Dとアンドロイド革命軍だけの現場ならまだしも、E・C本社の他にも様々な人間たちが働くオフィス街へ革命軍を招き入れて襲撃など、ブラッドが良しとするわけがなかった。
     それでも大々的に指名手配されてしまった。つまりまだ捕まっていないのだということだけは喜べるが、ブラッドの真実を知る者はどれほどいるだろうか? 味方はいるのか、怪我はしていないか、DAの電脳の中を様々な不安や憶測が駆け巡る。『ブラッド容疑者は――』とテレビの中のキャスターが喋り始めた途端、容疑者呼ばわりに耐えられずにすぐテレビを消した。
     それからは早かった。DAはブラッド宅のすべての窓とカーテンを閉め、窓の近くに置いてあったものは壁際や部屋の中央へ移す。万が一、石でも投げ込まれたら厄介だし、マスコミが押し寄せても面倒だ。最後に冷蔵庫以外の家電を家事型アンドロイドの権限でまとめてオフにすると、DAは身一つで家を飛び出した。
     住宅街からオフィス街へ、都心部へと近づくたびに、悲鳴と白煙が増える。暴走したアンドロイドが人を襲う様子を何度も見た。GBならいざ知らず、助けられるような機能がないDAには通報がせいぜいだったが、DAも道を急いでいる。通報した後にどれほどが助けて貰えたのかは分からずじまいだ。
     DAはブラッドに合わせてカスタマイズされたアンドロイドだが、遠くにいるブラッドがどこにいるか分かるような機能は搭載されていない。だから、ブラッドがいるとしたらどこか騒ぎの中心ではないかと予想を立てて、DAは騒がしいほうへ騒がしいほうへと急いだ。
     騒ぎの中心はいつも争い、諍いだった。人間とアンドロイド、人間と人間、ときにはアンドロイドとアンドロイドまでもが衝突し傷つけ合っている。DAは人垣を見つけて割り入っては、その中心の諍いにブラッドがいないことを確認して次へ向かうのを繰り返した。だが、そんなことを続けていれば当然、人目につくことが多くなる。
    「アンドロイドだ!」「こいつも壊してしまえ‼」
     自分から争いに近づいているのだから仕方のないことだが、DAが余波を食らうこともままあった。棒で殴られたり石を投げられたりして、表皮が裂けたり外装が凹んだりする。だが、DAはそれらを必死でやり過ごして逃げ続け、ブラッドを探した。家事と介護の他に何ができるわけでもないけれど、盾でも駒でも囮でもやってみせるから、一機でも味方がいることをブラッドに示したかった。
     そのうちに、街の電光ビジョンを金髪の青年が席巻する。豊かな、優美な金髪に縁取られた面差しに無骨な眼帯が陰を落とす、若々しいとも老獪とも見える空恐ろしい青年だった。
    『――暴走ウィルスは、アンドロイドの怒りの感情を増幅させて正常な判断を奪うものだが、この最新鋭の機械には感情は搭載されていない。よって暴走の心配もない――』
     電光ビジョンから降ってきた言葉に、DAは思わず足を止めた。
    「怒りの……?」
     DAの口元から音声が漏れる。それもまた、傷跡と同じように、GBにあってDAには存在しないものだった。
     GB‐190は、戦闘型・警察補助用のアンドロイドだった。だから、行動原理の一部に違反行為への怒り、いわば義憤の心がプログラムされていたのだ。だが、DA‐190はブラッド用の介護アンドロイドだ。怒りのプログラムは不必要として削除され、かわりに、どこまでも寛容で従順となるようにプログラムを変更された。整備士のノインさえもが、どうしてそこまで、などとこぼすほど。
     ブラッドを苛立たせる原因でもあった、GBとDAのソフトウェア仕様の違いは、このときばかりはDAの味方のようだった。DAは、おそらく、他のアンドロイドより暴走しにくい。
     DAはぐっと背筋を伸ばした。
    「――俺が、ブラッドのところへ行かないと」
     電光ビジョンからは、既に青年の姿が消えていた。それきり沈黙するあちこちのビジョンの中で、向こうのほうに一つだけ、何故か軍用アンドロイドのプロモーションを流しているビジョンがあった。


    「――――ブラッド‼」
     そのビジョンのそばまでやっと辿り着いたDAは、次々と白煙を上げてビルが倒れていく下にブラッドがいるのを見て、なりふり構わず飛び出した。退避していくE・Cロイドの群れの中を逆走しながら、DAは必死に手を伸ばす。
     呆然としたブラッドの唇が動く、路面に倒れている、怪我をしているのだろうか、突き飛ばすには高さが足りない、彼を守るために今の自分ができることは。
     DAは迷わずブラッドの上に身を投げ出した。けして頑丈な機種ではないが、生身の人間を瓦礫に晒すよりずっといい。DAはブラッドの頭を前腕で抱えながら膝で足を縮めさせ、屋根になれるよう自分の肘と膝を立てる。ブラッドの呻き声で、彼が足を怪我しているのが分かった。
     それ以上は考える間もなく、瓦礫と砂塵がDAの機体へ降り注ぐ。痛みを感じる回路はDAには実装されていないが、機体のあちこちに歪みや凹みができるのが分かった。大きな瓦礫がいくつも背中に落ちてきて、DAの四肢が歪んで曲がり、ブラッドの体温が鼻先へ近づく。
     アンドロイドは人間よりもよほど重い。このままDAが潰れたらその重量でブラッドまで潰してしまう。だが、DAが潰れるかどうかは、DAの根性ではなく素材の耐久性次第だ。DAが祈りながら耐えていると、やがてビルの崩落は終わったようだった。爆発音や落下音が止み、DAの上に瓦礫が落ちることもなくなる。DAは顔を上げ、瓦礫の隙間から周囲を窺った。
     ビルは電光ビジョンがついていた真正面の方向へ倒れたが、ブラッドは幸いビルの真正面ではなく端のほうにいて、だから瓦礫の山からはすぐに抜け出せる距離のはずだ。隙間から日も差しているし、一つか二つ、瓦礫をどけるか登るかするくらいで済むのではないだろうか。
     ほっとしたDAは、瓦礫の重量で四肢が折れる前に、背中を動かして瓦礫をより歪みの酷い右側へずらした。すると、DAの右腕がぼきりと折れ、右肩が路面へ落ちて背中が斜めになる。そうなれば当然、上に載っていた瓦礫も右肩側が落ちて傾き、人の手で動かすには大きな瓦礫も向かい側が持ち上がった。DAは残った左腕を突っ張り棒にして、背中で瓦礫を押さえながら訊ねる。
    「ブラッド。……ブラッド、出られるか。長くは持たない……」
     DAは、人間よりは確かに丈夫だが、アンドロイドの標準に比べればずいぶんと脆い。義手もない生身で癇癪を起こすブラッドが度を越してしまう前に、DAのほうが先に壊れてしまえるようにできている。足を痛めているブラッドを急かすのは心苦しいが、突っ張っている左腕はすぐに駄目になるだろう。
     そのDAの脆さは身に染みているのか、ブラッドはすぐにDAの腕の間から抜け出した。彼は瓦礫と瓦礫の隙間へ這い出し、歯を食い縛りながらも義手で瓦礫を押しのけて日の差す隙間を広げる。その光でブラッドの髪の端がきらきら光るのを見上げながら、DAは左腕の力を抜いた。


     ――がしゃ、とも、ぐしゃ、ともつかない音がした。
     DAのほうを振り向いて、外に、とか、外が、とか、何か言おうとしたブラッドの目の前で瓦礫が崩れ、瓦礫の下からブラッドへと伸ばされたDAの左腕が、糸をちぎられた操り人形のように不揃いに跳ねる。ぞっとしたブラッドが瓦礫へ手をかけてDAを引きずり出すと、背中の途中までは出てきたが、それ以上は瓦礫の下で何か引っかかっているようだった。
     急激に体の芯が冷えるのを感じながら、ブラッドは震える声で呼びかける。
    「ダーク」
     ブラッドの脳裏に、瓦礫で埋もれた相棒の姿がフラッシュバックする。DAが駆けつけてきたとき、その額には、浅く傷ができていた。表皮が裂けて、その下の板金が少し覗く程度の傷だ。DAの板金が見えていたのは、別に額だけではなかったけれど、その額の傷は、丁度ダークの傷の位置とよく似ていた。
     そのDAはブラッドを庇って背中で瓦礫を受けて、だから今も瓦礫の下でうつ伏せになっている。仰向かせてやろうにも瓦礫で引っかかってこれ以上動かせない。ブラッドは薄暗い瓦礫の合間で背を丸め、息を潜めてDAの反応を待った。
     やがて、キュイ、とかすかに駆動音がして、DAの機体が何度か軋む。ブラッドが凝視していると、唯一自由なDAの左腕が地面を掴んで、ぐっと肘を立てて顔と胸を持ち上げた。
    「……、ブラッド」
     無機質なスチールグレイの瞳が、静かに瞬きをしてブラッドを見つめる。ブラッドがほっと肩の力を抜くのを見て、DAは硬い声で言った。
    「ブラッド。……早く行け。指名手配、されてるんだろう。逃げなきゃ、捕まる」
     一緒に行けなくてすまねえ、とDAは目を伏せた。だが、ブラッドは唇をわななかせて、DAの頭を抱え込む。浅く乱れた呼吸の合間、ブラッドは途切れ途切れにこぼした。
    「お、置いていけねえ、……二度、も」
     ブラッドの、震える義手と胸の間で、DAはそっと瞼を落とした。どくどくとブラッドの心臓の音がする。平常よりも少し速い鼓動は、焦燥、動揺、いずれのものだろうか。きっと混乱もあるのだろう。DAはダークではないから、二度目ではないのに。
    「ブラッド」
     DAは静かに名前を呼んだ。惑い、揺れ動く琥珀の双眸がDAへ向く。DAは軋む機体で歪んだ左腕を伸ばし、薄汚れてしまったブラッドの頬を拭った。
    「ブラッド。俺はダークじゃない。介護用の量産品だ。今ここで俺が壊れても、工場には次の俺がいる。――でも、その俺がまたお前に会いに行くには、平和な世界が必要なんだ。ダークも、俺も、平和な世界を待ってる」
     ひくり、とブラッドの喉が震えた。DAは、ブラッドの頬まで持ち上げていた腕を下ろして、彼の背中をゆっくり撫でた。
    「愛しているよ、ブラッド。ダークも、俺も、一つ前の俺も、ずっとずっと前の俺も、すべての俺がお前を愛してる。――だから、また会おう、ブラッド。そのために、おまえは先へ進むんだ。ずっとダークと相棒だったお前なら、きっと人間とアンドロイドの平和が作れる。平和になったら、きっとまた会えるさ」
     な、とDAはブラッドの背を軽く叩いて、そして彼の反応を待った。ブラッドはDAの頭を抱いたまま、一呼吸二呼吸と息を整えている。そのブラッドの体温がDAの板金を温めて、DAは少し微笑んだ。この機体はもう修理も利かないだろうけれど、機体に伝わる温度が懐かしくて嬉しかった。
     DAはダークの偽物だから、ダークのようにブラッドと触れ合うことはできなかったけれど、叶うならもっと抱き締めてやりたかった、抱き締めてほしかった。だから、もう充分だった。
     一度だけ、片腕でブラッドの背を強く抱いたDAは、やがてその腕を伸ばし、光のほうを指差した。
    「……さあ、ブラッド。もう行くんだ。また会える日を、待ってる」
    「…………、……」
     DAの頭上で、ブラッドの唇が何度か開閉する。かすれた吐息は、しかし明確な言葉を紡ぐほどにはならない。DAは、もうブラッドの背をさすってはやらなかった。
     何か言葉を探していたようなブラッドは、少ししてから、小さく声を絞り出した。
    「……また、」
     それだけの声に、しかしDAは確かに頷く。ブラッドは義手の手のひらでDAの黒い髪を撫でて、そっと、ゆっくり胸元から彼の頭を下ろした。
     ブラッドの視線がDAの指差す先を追って、ざり、とその膝が向きを変える。DAは、瓦礫の隙間から差す光へと手を伸ばすブラッドを視界に焼きつけていた。
     その光の先から、誰とも知れない少年の声が降り注ぐ。
     ――あなたたちに未来を託します……
    「……ブラッド、俺も、お前に――」
     少年の言葉を胸に、DAは小さく呟くと、そのままじっとブラッドを見つめた。
     鋼鉄の義手が瓦礫を押しのけ、光を広げる。人が一人這い出せるくらいになったその光の中へ、瓦礫の外へと向かっていくブラッドの背中は、髪や服の繊維の端が光を弾いて、やはりきらきら光って見えた。


     瓦礫の山から這い出したブラッドは、ビルの崩落から退避するだけ退避してそのままのE・Cロイドたちが路傍に突っ立って微動だにしないのを見て、こちらも彼らを無視して大通りへと向かった。おそらく、セスが統率していた部隊は、次の命令を失って動かなくなったのだろう。
     感情を持たない設計の弊害だな、と頭の片隅で呟きながら、ブラッドは大通り沿いにテレビ局を目指した。テレビ局が近くなれば、街頭ビジョンも増えてくる。足の傷に負担をかけないよう、ビルなど建物の壁に手をついて左足を引きずりながら歩みを進めていたブラッドは、その街頭ビジョンに金髪の少年が映ったのを見て目を瞬いた。
    『ボクはエル……K.G.D長官イーサンの、クローンの一人です』
     画面の向こうでそう名乗った少年は、今日の早朝、アル・サイバー社のラボを発つブラッドに声をかけてきた少年だった。
     ブラッドは『エル』のことを、書面や報告の中の名前でしか知らない。そもそも既に生きてはいないというのがK.G.D内での主な見解だった。それが生きていたどころか、まさか自分が接触していたとは。
     しかし、イーサンのクローンとはどういうことか。ブラッドが思わず立ち止まってビジョンを眺めているうちにも、エルは真剣な顔で言葉を続けていく。
    『世界中を恐怖に陥れていた衛星兵器の暴走は、平和を願う人間と自由を求める一人のアンドロイドによって、止められました。アンドロイドの皆さん、人間の皆さん、もう争いをやめてください』
     その言葉に、周囲でビジョンを見上げていた人間たちやアンドロイドがざわついて顔を見合わせる。ブラッドは通りの片隅からビジョンとそれを見上げる様子を見てほっと肩の力を緩め、ソルたちが向かったのであろう上空を見上げた。
     エルは、ソルたちと同じく、アル・サイバー社のラボにいた少年だ。わざわざ嘘の放送をすることもないだろう。ブラッドは、画面越しの言葉を信じて声を漏らす。
    「ソルさん、やってくれたか……」
     アンドロイドのこと、セスのこと、ダークのこと、割り切れない気持ちばかりが渦巻いていたブラッドの胸に、先輩と慕ったソルが任務を達成した安堵感が広がる。同時に、自分も役割を成し遂げなければ、という気持ちが強くなって、ブラッドは視線を前へ戻した。
     ダークが、DAが、皆が望んだ平和が、その先にある。今こそ、この手で平和を掴まなければならない。ブラッド個人の感情は、飲み込むのも噛み砕くのもその後だ。
    「……オレも、こうしちゃいられねえよな」
     誰にともなく、小さく呟いたブラッドは、引きずっていた左足を前に出した。体重をかければずきりと痛みが湧くが、根性で耐えればどうにでもなる。ビルの壁から手を離し、少しずつ左足に体重を乗せながら何歩か踏み出したブラッドは、やがて駆け足でその場を後にした。


     一方、そのブラッドが向かう先のテレビ局では、あらゆるモニターに映るエルの姿と彼が発する言葉とで、イーサンが逆上しきっていた。
     常の余裕ぶった様子が消え失せ、放送機器を操作させていたE・Cロイドを怒鳴りつける。
    「何事だ、さっさと止めろ!」
    『で……できません、テレビ局の回線を完全に乗っ取られています!』
     E・C社特製のメットをかぶった最新鋭のアンドロイドが、ガチャガチャと機材をいじくってはモニターを確認するが、エルの姿は依然としてそこにある。役に立たないE・Cロイドへ舌打ちしたイーサンは、モニターを睨んで吐き捨てた。
    「あの出来損ないが……!」
     しかし、イーサンのいるテレビ局からでは何もできない。エルの言葉はそのまま局内に流れて、イーサンを遠巻きにするスタッフや別スタジオのスタッフなど局じゅうの耳に入り、イーサンの神経を逆撫でする。
    『……アンドロイドの皆さん、人間の皆さん、もう争いをやめてください。ボクたちが憎しみ合う必要などないのです。何故なら、長い間両者を分断してきた事件や出来事は、すべてイーサンによって仕組まれたことだったのですから』
     イーサンの従えるE・Cロイドによって壁際へ追いやられていた局スタッフたちがざわめき、幾人かがイーサンへ非難がましい目を向けた。隻眼でそれを睨み返して、イーサンは怒鳴る。
    「あんな反乱分子のガキの言うことを信じるのか‼ 私がどれだけ――」
     その言葉に、機械どうしがぶつかる手荒な音が重なる。だが、テレビ局スタッフにそんな武力はないはずだ。イーサンが怪訝に思って言葉を飲み込んだとき、スタジオ壁際の薄暗がりから突き飛ばされるようにE・Cロイドが傾いた。そのまま倒れたE・Cロイドの機体を踏みつけて現れた赤髪の青年の姿を、イーサンは険しい顔で睨みつける。
    「ブラッド……!」
    「よお。オレは、あの『エル』って奴を信じるね。あんたよりよっぽど素直そうだ。……で、あんたはこれ覚えてるか? それとも、本社で死んだのが別の奴なら知らねえか」
     テレビ局スタッフの近くにいたE・Cロイドは、既に殴り飛ばしてある。揶揄するように口の端を吊り上げながらイーサンを見据えたブラッドは、そのスタッフたちの前へ出ながらジャケットの内側を探り、メモリーを取り出した。
     E・C本社を出る際にエンドーから渡されたそれは、本社のイーサンがケインに撃たれる前、リクがイーサンに見せつけていたメモリーのミラーだ。ブラッドは、イーサンが人々を弄んだ証拠が入ったそのメモリーを高々と掲げて宣言した。
    「これまでの悪事の証拠、オリジナルのデータは既にK.G.Dに手渡してきた。――イーサン、貴様を逮捕する!」


     演技だ。ブラッドはメモリーを掲げ、左足の痛みを堪えながら必死で勝ち誇った顔を作った。
     瓦礫の中にDAを置いてきた、セスのことも見殺しにせざるを得なかった、ともすれば落ち込んでしまいそうな心を無理やりにでも奮い立たせて、ブラッドはイーサンを見据える。メモリーのオリジナルを託すために立ち寄ったK.G.D本部から同行してくれた数人の署員が、ブラッドの両脇を抜けてイーサンを取り囲み、その両手に手錠をかけた。
     抵抗も無意味と悟ったのか、おとなしく手錠をかけられていたイーサンだったが、彼は不意に顔を上げてブラッドを嘲笑う。
    「セスを倒し、私を捕らえて、すべて解決したつもりか? だが、私たちが時間をかけて刻んできた人間とアンドロイドの溝は、そう簡単には埋まらないぞ」
    「…………」
     ブラッドは黙ったまま、その場でメモリーをジャケットに戻す。その後、再度イーサンを見返してブラッドは言った。
    「だからどうした。……『溝を埋める』ことだけが平和じゃねえ。そこに溝があることと、溝の向こうに喧嘩ふっかけることとは別モンだ。てめえと一緒にするな」
     そのブラッドの声に重なり、イーサン逮捕の速報がスピーカーから流される。ブラッドをはじめとしたK.G.D署員がE・Cロイドを伸したから、テレビ局スタッフがすぐに持ち場に戻ったのだ。エルの演説が続くモニター画面の上部に、ニュース速報のテロップが重なる。
    『――ここで団結できなければ、ADAMが願った未来は訪れません。彼らから託された未来を、ボクたちが築いていきましょう』
     ザザ、とノイズが混ざり始めた画面の中で、イーサンと同じ金髪の少年が丁寧に一礼する。その後、エルの映像が切れた画面に現在のスタジオとスクリーンが映ると、ブラッドは周囲を見回して手近にあったマイクを掴んだ。
     エルはアンドロイド側の存在だ。だから、エルだけでなく、人間の側からも同様に呼びかけなければ均衡が取れない。そして、エンドーはその役目をブラッドに託したかったのだろう。
     口先にマイクを構えたブラッドは、E・C本社でエンドーにメモリーを渡されたときのことを思い返した。
    『ブラッド、これをお前に託す。――頼みたいことがあるんだ』
    『何でだよ。オレは街を守るんだっつってんだろ』
     エンドーが差し出してきたメモリーを、ブラッドは一度突き返した。だが、エンドーはそのブラッドを呼び止めてさらに言い募った。
    『だからこそ、ブラッドに頼みたい。ここで一つ、街に演説を打ってくれ』
    『はあ?』
     ブラッドは愕然としてエンドーを振り向いた。そんなもの、ブラッド以外にいくらでも適任がいるだろうに。声を張るだけならともかく、文章の構成を決めて長ったらしく言葉を連ねる演説なんて、ブラッドの不得意分野もいいところだ。何でオレが、とブラッドはにべもなく撥ねつけたが、エンドーは根気強く、再度ブラッドにメモリーを差し出した。
    『このメモリーは、イーサンがすべての黒幕だったことを裏付ける証拠データだ。これをK.G.D本部に渡せば、捜査と報道が進むだろう。――そこで、平和を……人間とアンドロイドが手を取り合う未来を、街の人たちに説いてくれないか』
     人間とアンドロイドが。ブラッドは、それを聞いて舌打ちしながらエンドーを睨んだ。
    『なおさら嫌だね! アンドロイドと手を組むなんざ、想像したくもねえ。そんな未来に手を貸すなんて御免だぜ』
     メモリーとともに差し出されたエンドーの手を払いのけ、ブラッドは再びビルの出口へ身を翻す。しかし、今度のエンドーはブラッドの腕を掴んだ。
    『何だよ!』
     苛立つブラッドがエンドーを見上げて怒鳴ると、エンドーはブラッドを静かに見返して言葉を重ねた。
    『言葉なんて嘘でいい。心まで……魂まで作戦に捧げろとは言わない。だが……GB‐190、ダークに、会いたいんだろう、ブラッド。そのためには、人間とアンドロイドの共存が必要なんじゃないのか? 人間とアンドロイドの共存が不可能なままでは、旧型アンドロイドの再生産やモデルチェンジはできない』
    『…………っ』
     ぐ、と言葉を詰まらせたブラッドに、エンドーは淡々と畳み掛ける。
    『演技でいい、パフォーマンスでいい。真に迫っていなければ意味はないが、本当に真である必要はない。アンドロイドを、恨んだままでも憎んだままでもいい。……その感情はお前のものだ。自分も含めて、他人がどうこう言っていいものではない。ただ……その声を、姿を貸してくれ。この戦争を終わらせて、お前が相棒と再会するために』
    『……………………』
     ブラッドはぎりりと奥歯を噛んだ。アンドロイドは憎い。それでもダークに会いたい。ダークに会えないからアンドロイドが憎い。それなのに、アンドロイドに譲歩しなければダークに会えない。
     どうしてこんな、と、ブラッドは内心で唾を吐いた。しかし、エンドーはそのブラッドの内心を知ってか知らずか、証拠データのメモリーをまたもブラッドへ差し出してくる。
    『――『誰か』を喪ったのは、お前だけでも、人間だけでもないんだ、ブラッド。人間にもアンドロイドにも、良い奴も悪い奴もいる。……かつて、自警団でアンドロイドとバディを組んで、人間もアンドロイドも取り締まっていたお前は、それを知っているはずだ』
     静かな、しかし有無を言わさぬエンドーの言葉を思い出しながら、ブラッドは構えたマイクの前で息を吸った。察したカメラマンが機材を調整してくれて、モニター画面の中央にブラッドが映る。
     ブラッドは静かに口を開いた。
    「みんな聞いてくれ。オレは間違っていた。相棒をアンドロイドに殺されて、その悲しみを、アンドロイドを憎むことでごまかそうとしていたんだ」
     ブラッドは、努めてゆっくり言葉を紡いだ。エンドーは、言葉なんて嘘で良いと言ったが、ブラッドは慎重に言葉を選んでいた。
     しかし、その一番の目的は、エンドーに頼まれたようにただ平和を説くことではない。
     テレビカメラは、そうしたブラッドの内心までは映すことなく、ブラッドのほつれた髪や砂塵で汚れた顔、ぼろぼろのジャケットに傷だらけの義手など表層の情報をモニターへ映す。ブラッドはモニターに映る自分を見ながら続けた。
    「そして、オレだけじゃない、たくさんの人やアンドロイドが相手に憎しみを持つように、イーサンが世論や暴走ウィルスを操っていた。そのイーサンは逮捕された! もうアンドロイドは暴走しないし、暴走しないアンドロイドを殺す理由はないはずだ。……目の前の相手を傷つけるのは、もうやめてくれ」
     そのモニターと同じ映像が、音声が、テレビ局内だけでなく街中のビジョンへ映し出される。瓦礫に埋もれてスリープモードに入っていたDAはその声で目を覚まし、エルの演説でビジョン前に集まっていた人やアンドロイドは、ざわざわと互いに顔を見合わせた。
     本当に、もうアンドロイドは暴走しないのか、誰にも襲われずに平和に暮らせるのか。まだ確信には至らない市民たちがビジョンと周囲を見比べる。
     ブラッドは、その様子を想像しながら、また、戦う意思はないと必死で訴えていたアンドロイドたちを思い出しながら言葉を繋げた。
    「お互い、今までのことを水に流せなんて言わねえ。……でもよ、人間だって、良い奴もいれば悪い奴もいるだろ。それは、アンドロイドも同じなんじゃねえか?
     ――オレの相棒を殺したのはアンドロイドだ。それは今でも忘れられねえ。……けど、オレの相棒もアンドロイドだった! オレがK.G.Dに入る前、田舎の自警団でずっとオレを引っ張ってくれたのも、北部大規模テロで腕を失くしたオレをずっと支えてくれたのもアンドロイドだ。アンドロイドが、悪い奴ばっかじゃねえってのは、オレも本当はよくよく知ってたはずなんだ」
     瓦礫の下で、遠くから漏れ聞こえてくるブラッドの声を聞きながら、DAは小さく微笑んだ。ブラッドは先へ進んだのだ。ダークとともに、DAまでも、ともに。
     一度だけ、ブラッドが出て行った瓦礫の隙間を見上げてから、DAはそっと瞼を落として聴覚センサだけを澄ました。瓦礫の下の機体は酷いことになっていて、もうオイルも電力もほとんど残っていない。ブラッドの声を、最後まで聞いていられるかどうかも分からない。聴覚以外のセンサは全部オフにしたDAのところにも、近隣のビジョンからブラッドの声が響いてくる。
    「だから……人間とか、アンドロイドとか、それだけで傷つけ合うのは、もうやめよう。オレはやめる。――オレは今まで、数え切れないほどアンドロイドを殺してきた。それが、こんなことで帳消しになるとは思わねえけど、少なくともこれ以上の間違いは重ねたくねえ」
     そこで、ブラッドは密かに息をついた。ブラッドには、平和を説くよりも届けたい言葉があった。エンドーの意図からは外れるかもしれない。だが、ブラッドが届けたいと思った言葉は、エンドーの言葉の一つでもあった。
     ブラッドは再び前を見つめて、それからひとつひとつ言葉を噛み締めながら言った。
    「……恨んだままでも、憎んだままでもいい。許せる奴も、許せない奴もいるだろう。それが間違ってるなんて言わねえ。あんたの感情はあんたのものだ。どうしても、やり返さなきゃ気が済まねえってんなら、オレがいくらでも相手になる。だから、今は……今だけは、平和のために、力を合わせることが必要なんだ」
     もしもエンドーが、恨むなとか、憎しみを捨てろとか、そんなふうに言っていたら、ブラッドは彼の言葉に聞く耳を持たなかっただろう。ブラッドは、そこにある恨みや憎しみを、無いものとするなんてできなかった。戦乱の中で生まれた感情は、平和の中ではどこへ向かえばいいのだろうか。ブラッド自身、まだ答えは出ない。ただ、そういった感情の存在にもきちんと向き合う姿勢を見せたエンドーには誠実さを感じた。だから、街中で苦悩する誰かに対しても同じ誠実さで向き合いたい、そのためにならマイクを取ってやってもいい、そう考えて、ブラッドはカメラの前に立っていた。
    「無理に仲良くしろとは言わねえ。ただ、平和のために、街や世界を立て直すために力を貸してくれ。頼む」
     エルと同じように、ブラッドも深く頭を下げて、そしてモニターの映像が切り替わる。カメラはビジョン側にまで搭載されているのか、モニターに映るのはビジョンを見上げる人々だった。
     傷だらけの人間とアンドロイドが、ほうぼうからビジョンの前に集まって、互いの動向を窺っている。ちらちらと周囲を見ていた彼らのうち、やがて目の合った一機と一人が、互いに手を差し出した。
     その周囲で、画面の切り替わった別のビジョン前で、きっと街中のあちこちでも、人とアンドロイドが手を取り合っている。これで、イーサンの陰謀も、長い戦いも、そしてブラッドの役割も。
     ――終わった。
     街中を映すモニターを見ていたブラッドは、その場で糸が切れたように膝をついた。緊張の緩んだブラッドの意識を、左足の痛みがじわじわ侵蝕し始める。ブラッドはいくつか呼吸を置いてそれを堪え、どうにか再び立ち上がると、イーサンを連行していくK.G.D署員の後を追ってテレビ局を後にした。
    浅瀬屋 Link Message Mute
    2024/01/14 15:30:08

    第Ⅱ章-平和を掴むために

    『人機黎明闘争 Cybernetics Wars ブラッド異聞 DA-190』
    web版 第Ⅱ章です。

    紙版は2024/1/28 ミラフェス 東4ホール・コ44b 『浅瀬屋』で頒布予定です。
    (A5判2段組 244ページ(背幅14ミリ)しおり紐2本つき 会場頒布価格:3000円)

    #DA-190 #サイバネ2

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    • DA-190 SS集24/1/12 SS「Fluorescent Oil」追加しました。

      ミラフェス32内 一魂祭 (神速プチ)新刊
      『人機黎明闘争 Cybernetics Wars ブラッド異聞 DA-190』
      web版 SS集です。

      紙版は2024/1/28 ミラフェス 東4ホール・コ44b 『浅瀬屋』で頒布予定です。
      (A5判2段組 244ページ(背幅14ミリ)しおり紐2本つき 会場頒布価格:3000円)



      ※支部に投稿していたSSのまとめです。
      CP要素はほんのり。読んだ人が好きなふうに解釈してもらって大丈夫です。
      ただし全然幸せじゃない。しんどみが強い。

       サイバネ・ブラッドくんとアンドロイドの話。
       ブラッドくんの欠損・痛覚描写、アンドロイドの破壊描写有り。
       細かい設定の齟齬は気にしない方向で1つ。

      #サイバネ2  #DA-190
      浅瀬屋
    • DA-190 自警団編24/1/12
      『人機黎明闘争 Cybernetics Wars ブラッド異聞 DA-190』
      web版 自警団編です。

      紙版は2024/1/28 ミラフェス 東4ホール・コ44b 『浅瀬屋』で頒布予定です。
      (A5判2段組 244ページ(背幅14ミリ)しおり紐2本つき 会場頒布価格:3000円)

      DA-190短編集再録その2。過去編(自警団編)2本です。

      ・もしもその声に触れられたなら
       支部からの再録。ブラッドが相棒と両腕を失った日
       ※捏造自警団メンバー(彩パレW)あり。お察しの通りしんどい。

      ・ひとしずく甘く
       べったーからの再録。平和だったころのある日、ブラッドと相棒のバレンタイン。
       ※ほっこり系。恋愛色強めだけど左右までは言及なし。曖昧なままで大丈夫なら曖昧なまま、左右決めたいなら各自で自カプ変換して読んでください

      #DA-190 #サイバネ2
      浅瀬屋
    • あとがき/ノートあとがき、プラス裏話集。あそこのあれはどういう意図で選んだとか、このときこんなことがあって大変だったとか。
      2P以降の裏話はネタバレとか小ネタ解説とか浅瀬屋の解釈とかなので、読むならご自身の解釈の邪魔にならないタイミングが良いかも。

      #DA-190 #サイバネ2
      浅瀬屋
    • 人物一覧『人機黎明闘争 Cybernetics Wars ブラッド異聞 DA-190』
      web版 人物一覧です。

      紙版は2024/1/28 ミラフェス 東4ホール・コ44b 『浅瀬屋』で頒布予定です。
      (A5判2段組 244ページ(背幅14ミリ)しおり紐2本つき 会場頒布価格:3000円)

      #DA-190 #サイバネ2
      浅瀬屋
    • エピローグ『人機黎明闘争 Cybernetics Wars ブラッド異聞 DA-190』
      web版 エピローグです。

      紙版は2024/1/28 ミラフェス 東4ホール・コ44b 『浅瀬屋』で頒布予定です。
      (A5判2段組 244ページ(背幅14ミリ)しおり紐2本つき 会場頒布価格:3000円)

      #DA-190 #サイバネ2
      浅瀬屋
    • 幕間-ダーク編『人機黎明闘争 Cybernetics Wars ブラッド異聞 DA-190』
      web版 幕間(ダーク編)です。

      紙版は2024/1/28 ミラフェス 東4ホール・コ44b 『浅瀬屋』で頒布予定です。
      (A5判2段組 244ページ(背幅14ミリ)しおり紐2本つき 会場頒布価格:3000円)

      #DA-190 #サイバネ2
      浅瀬屋
    • 幕間-クローン編『人機黎明闘争 Cybernetics Wars ブラッド異聞 DA-190』
      web版 幕間(クローン編)です。

      紙版は2024/1/28 ミラフェス 東4ホール・コ44b 『浅瀬屋』で頒布予定です。
      (A5判2段組 244ページ(背幅14ミリ)しおり紐2本つき 会場頒布価格:3000円)

      #DA-190 #サイバネ2
      浅瀬屋
    • 第Ⅲ章-揺れ動く人々『人機黎明闘争 Cybernetics Wars ブラッド異聞 DA-190』
      web版 第Ⅲ章です。

      紙版は2024/1/28 ミラフェス 東4ホール・コ44b 『浅瀬屋』で頒布予定です。
      (A5判2段組 244ページ(背幅14ミリ)しおり紐2本つき 会場頒布価格:3000円)

      #DA-190 #サイバネ2
      浅瀬屋
    • 第Ⅰ章-集いし者たち『人機黎明闘争 Cybernetics Wars ブラッド異聞 DA-190』
      web版 第Ⅰ章です。

      紙版は2024/1/28 ミラフェス 東4ホール・コ44b 『浅瀬屋』で頒布予定です。
      (A5判2段組 244ページ(背幅14ミリ)しおり紐2本つき 会場頒布価格:3000円)

      #DA-190 #サイバネ2
      浅瀬屋
    • プロローグミラフェス32内 一魂祭 (神速プチ)新刊
      『人機黎明闘争 Cybernetics Wars ブラッド異聞 DA-190』
      web版 前書き・プロローグです。

      製本版:A5判2段組 244ページ(背幅14ミリ)しおり紐2本つき
      通販→https://www.b2-online.jp/folio/19012500006/002/
      全文webにアップ済ですので、お手元に紙が欲しい方は上記FOLIOへどうぞ!


      #DA-190 #サイバネ2 #一魂祭 #MIRACLEFESTIV@L!!32
      浅瀬屋
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