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    第Ⅲ章-揺れ動く人々 イーサンの移送中、空が強く光るのを見た。衛星から帰ってきたソルによると、暴走ウィルスを治療した後、制御を失った衛星が落下して地上に被害が出るのを防ぐために、キースが衛星を自爆させたとのことだった。
    「じゃあ、そのキースって野郎は」
     総合病院の病室、ベッドの上で左足を吊り下げられたブラッドは、隣のベッドで仰向けになっているソルに尋ねた。イーサンを逮捕した翌々日のことだ。
     ソルは苦笑しながら答えた。
    「……まだ見つかってない。識別信号は出しとけって言ってあるから、いつか、信号を受信したら迎えに行くけどな」
     キースが衛星を自爆させる前に、ケインを連れて脱出ポッドに乗り込んだソルだったが、結局のところ、帰還したのはソルだけだった。マニュアルを十分に確認する前に衛星が自爆・脱出ポッドが射出され、ほとんど不時着のような形だったのだ。ソルが生還しただけでも御の字、ケインはどこかで振り落とされたか逃走したか、行方不明になってしまった。
     そのソルも、不時着した脱出ポッドの中で全身打撲や擦過傷まみれになっており、今は見ての通り病院のお世話になっている。K.G.D業務への復帰は、ソルが早くて来週、ブラッドは、新しい義手の完成とリハビリの後になると言われていた。
     装着した医療義手を天井の照明にかざし、ブラッドは何度か白い手のひらを開閉した。新しい義手が出来上がるのはいつだろうか。そこから、しばらく慣らしのリハビリがあり、業務に戻れるのはその後だ。なおかつ、足も治っていないと医師が許可を出さない。……瓦礫に埋もれたDAはどうなるのだろう。
     病室まで様子を見に来たエンドーによると、街の瓦礫の撤去は既に始まっているらしい。ブラッドは、ソルとともに外出許可をもぎ取った週末、歩行補助ガジェットとソルの肩を借りて、崩落したビジョン跡へ立ち寄った。
     瓦礫はもう撤去されて、残っていたビルの根元のあたりが解体され始めている。全部解体してしまってから、新たに建て直すのだろう。ブラッドは、近くにいた作業員に声をかけて、瓦礫の下にアンドロイドがいなかったか訊ねてみる。
     作業着を少々着崩して髪を金に染めた若い作業員は、ブラッドが声をかけると記憶を手繰る仕草を挟んでから答えた。
    「俺たち、救助が終わってから作業に入ったからなー。引継ぎとしては一応、K.G.Dの男を一人掘り出した、ってのは聞いてるけど、アンドロイドは知らないなあ。でも、オイル跡は残ってたから、誰か先に回収したか、自力で抜け出したんじゃ?」
     まず民間から救急へ通報があり、そこから救急がセスを発掘・その後に金髪の作業員たち解体業者が入ったということだった。ならば、誰かしら通りすがりの人間かアンドロイドが、瓦礫の隙間からセスのジャケットでも見かけて通報したのだろうか。
     金髪の作業員が言うには、発掘された時点ではまだセスはかろうじて生きていて、だから自分たちの仕事場は事故物件ではないとのことだった。この電脳社会でまだ幽霊が怖いのか、とブラッドはおかしな気持ちになったが、人が死んでいないに越したことはない。ブラッドは作業員に礼を言ってその場を離れた。それから、時々ソルに支えてもらいながらひび割れた路面を歩き、それらしいオイル跡を見つけて遠目に眺める。
    「足がきついなら、俺が見て来ようか」
     何か行き先の手掛かりがあるかもしれない、と、ソルがそう言って見てきてくれたが、たいした手掛かりはなかった。かろうじてオイルが擦れた跡と方向は分かったが、その続きが残っていただろう瓦礫が既に撤去されているので、追いかけようがない。
     行方不明届を出すのはどうか、とソルに提案されたが、ブラッドはうまい返事ができなかった。
     重機もなしに瓦礫の下からDAを引きずり出す、あるいはDAが自力で這い出すのは、おそらくほぼ不可能だ。可能ならブラッドだってすぐに実行したし、DAも自分で出てきただろう。だから、考えられるとしたら、パーツごとにバラバラにして少しずつ持ち出されてしまったのではないだろうか。
     戦乱の直後だ。傷ついたアンドロイドも多い。DAは背の高い型でパーツが大きく、そして大は小を兼ねる。壊れた機体は宝の山だ。
     既に、別の誰かのパーツになっているか、あるいはスクラップにされてしまっているのか。ブラッドは、北部大規模テロの後にようやく回収できたときのダークの様子を思い浮かべながら、オイル跡に背を向けた。
     その後、市街地前まで自動バスに乗った二人は、その停留所で分かれて一旦それぞれ自宅へ寄ることにした。ブラッドは、イーサン逮捕の後、入院のための着替えや日用品を取りに寄ったきりなので、数日ぶりの帰宅だ。
     医療義手の無機質に白い手で窓を開け、短時間だが換気をする。誰もいない自宅は、なんだか他人の家のようだった。ブラッドは冷凍庫を開け、凍っているスープを要るだけ砕くとカップに入れて温めた。冷蔵にぽつんと残っていたホットサンドは、着替えを取りに来たときに食べた。
     開けた窓から風が通る家の中、キッチンダイニングのチェアで右足だけ胸元に抱えて座ったブラッドは、温めたスープをゆっくり口に含んで飲み込んだ。DAは普段、ポタージュスープをよく作っていたが、たまにブラッドがしばらく帰らない日があると、具だくさんのスープが出てくることがあった。
     その頃は、DAにも食事にも興味がなかったからあまり気にしていなかったが、今思うと、食材が痛む前に全部煮込んだんだろうなと察しがつく。今も、ホットサンドがなくなった冷蔵庫が調味料だけでがらんとしているのに対し、冷凍庫がみっしり詰まっているので、戦乱の前か中か、ブラッドがしばらく帰らないと踏んでDAが全部調理したのだろう。
     戦闘用義手ではあまり料理ができない上に、ブラッド本人も怪我や義手の都合で入院することになってしまったので、ほとんど調理済になっているのも冷凍になっているのもありがたい。だが、礼を言うべき相手はもうどこにもいなかった。
     DAは、前の義手と同じくK.G.Dからの支給品で、要するに長官であるイーサンからの支給品でもあった。生産工場もイーサンの肝煎りで、だから再稼働の見込みはない。GBを再生産するにも、今はあちこちが被害を受けて、部品や製造ラインの確保が難しいだろう。
     ブラッドは黙って目を伏せ、カップの中のスープを見つめた。また会おう、と互いに言ったものの、どうすれば叶うのか分からなかった。
     平和になれば。茫洋とした仮定がブラッドの頭に浮かぶ。平和になれば、どこかのラボに依頼して、造ってもらうことが可能だろうか。それは、DAとGB、どちらを造ってもらえばいいのだろうか。どちらなら造ってもらえるのか、あるいはどちらも難しいのか。ブラッドにとって『ダーク』とはGBのことだが、DAを切り捨てていいのかどうか、今のブラッドには分からない。
     そもそも、どうしてDAはブラッドを助けたのだろうか。身を挺してまで助けてくれるほど、ブラッドがDAに何かしただろうか。ろくなことをしていない、恨まれるようなことばかりだ、とブラッドは自分で分かっている。――それでも、愛していると言い切ったDAの声が忘れられない。
     偽物だ、と思い込んでいた。思い込むようにしていた。本物のダークに対して不義理になるような気を起こすまいと気を張るつもりだった。だが、実際には妙な気を起こすどころか、ダークとは似ても似つかない自信なさげな表情に苛立つばかりだったし、逐一ブラッドの機嫌を窺うような態度も気に障って仕方なかった。それでも、愛していると言った声の柔らかさと、その中の芯と、まだ欲しいときに限って背をさすってくれないところはダークと同じだった。
     ダークでは――GB‐190ではなかったのは確かだ。だが、そのデータを移植されたというDA‐190は、どこまでダークと同じだったのだろうか。
     いや、仮に、どこまでもダークとは別機だったとしても。ブラッドはスープのマグを両手で持って息をついた。ブラッドが、気まぐれで暴力を振るって良いわけがなかった。どんな相手であったとしても、ましてや、DAはずっとブラッドの世話をしてくれていたのに。
     ダークにもDAにも、今さら合わせる顔がない、と思いながら、ブラッドは再びスープを舌に乗せる。シンプルなコンソメの味と、一緒に煮込まれたベーコンの塩気と野菜の甘みとがブラッドの身体に染みた。何度か食卓に出ていたはずのスープは、しかし味わうのは初めてだった。視覚では覚えていたDAの料理を、こんな味だったんだな、と初めて知る。
     美味いとも不味いとも、伝える相手はやはりいない。
    「…………」
     ブラッドは黙ってスープを飲み切り、それから食器を洗って拭くと、換気していた窓を含めて戸締りをして、ソルとの合流場所にしているバス停へ向かって歩き出した。


     その後、イーサン逮捕から五日目の昼に、技師のアルマがブラッドの新しい義手を持ってやってきた。医療義手から新しい義手に付け替えて、細かい動作や力加減の調整に半日をかける。その調整データを本格的にシステムへ反映させるためアルマが義手を持ち帰ったその夜、ブラッドは医療義手を外して寝た。
     元々、義手は睡眠時には外すようになっている。戦闘用は特にそうだ。医療用は人体への負担を極限まで軽くしてあるから、着用したままでの睡眠も可能だが、連日連夜となると、義手より先に装着面の肌が負ける。この時代の義肢医療でもまだ残っている課題だった。
     そのため、昼間に戦闘用の義手、しかもまだ肌馴染みのしない真新しいものを使ったのであれば、睡眠時くらいは何も装着せずに肌を休ませてやるのが理想的だ。だが、ブラッドが幻肢痛に悩まされているのを知っている医師たちは、本当にその対処でいいのか、他にどういった処方や対応をすべきか悩んでいたようだ。しかし、当のブラッドは、病院の消灯時間になるとあっさり医療義手を外した。
     幻肢痛はあくまでも幻、無い腕が痛い気がするだけだ。ブラッドにとっては、実在する肌が擦れたり膿んだりするほうが困る。義手を外したときだけ酷く痛いのと、義手をつけても外してもじりじり痛いのとであれば、前者のほうがよほどマシだった。
     ただ、同室のソルには、夜中に迷惑をかけるかもしれない。どうにかならないかと相談したが、戦乱直後の病院は他に部屋の空きもない。ソルは気にするなと言うが、自分が幻肢痛でどれだけ喚いて暴れるか自覚しているブラッドとしては気が気ではない。かといって一時帰宅も許可が出ず、結局、あまり酷いようならソルが遠慮なくナースコールを鳴らし、ブラッドに薬を打つ約束でブラッドは病室に留まった。
     静かな夜に、ブラッドをじわじわと疼痛が苛む。シーツを噛んで堪えるうちに、痛みはどんどん酷くなった。両腕は既に存在していないはずなのに、灼けるような、引き裂かれるような、滅多刺しにされているような痛みが、絶え間なくブラッドを貫く。
    「…………、……ッ、ぅ゛…………」
     噛み締めたシーツをぎりぎり鳴らしながら、ブラッドはベッドの上で体を丸めた。最先端医療の甲斐あって左足はずいぶん回復したが、それでも、不用意に体重をかけると痛みが滲む。しかし、他に苦痛を逃がす方法がない。ブラッドはシーツに食いつき、ベッドの上で何度も身をよじった。痛い、痛い、痛い。チカチカと明滅する脳裏に、痛みとともに焼きついた光景が蘇る。壊れた工場、動かなくなったダーク、次々に湧いて出る真紅の目のアンドロイドたち。稼働限界を超えたガジェットが骨肉を喰らっても殴り続けた、だって自分の後ろにはダークがいたから。
     腕を捨てたことに後悔はない。それでも痛い。結局ダークの機体を守れなかったことが悔しい。奪っていった奴らが憎い。憎い、――悲しい、会いたい。
    「……ク、ダーク……」
     届かない名前がブラッドの口をつく。会いたい、会えない、どうすれば会えるのか分からない。ブラッドの呻き声に、ぐずぐずと涙声が混じった。痛い、苦しい、悲しい、いつかの喪失の日と混濁して訳も分からなくなった感情が、吐き出すことも呑み込むこともできないくらい腫れ上がって喉元に引っかかっている。
     そのせいかどうしても息苦しい。喘鳴のような呼吸を繰り返すうちに、誰かがそっとブラッドの背中に触れた。
    「ブラッ……」
     声量は抑えているがソルの声だ。しかし、そうと気づいたときには、ブラッドの身体は既に動いてしまっていた。
     誰にも触れられたくなくて、しかし腕がないものだから闇雲に脚を振り回す。片足が痛むなど些末なことだ。振り回した右足は、ブラッドのベッド脇に屈み込んでいたソルの胴体に当たった。
     生身の人間を蹴りつけた感触と、相手が尻もちをつく気配がして、ブラッドの血の気が一気に下がる。
    「ッ……」
     ソルもまた、眠るときは義手――ADAMの右腕を外す。だから今は隻腕のはずだ。その相手を蹴りつけた、加減などする余裕はなかった。K.G.Dでの訓練試合ならブラッドの一蹴りくらいお互いたいしたことではないが、今はソルも怪我人だ。ブラッドは慌てて身を起こした。消灯されているので何かの塊がもぞもぞ動いているくらいにしか見えないが、ブラッドは自分のベッドの端も見えていなかった。
    「ソルさ」
     ブラッドが身を乗り出した途端、必死でにじり寄った膝がベッドの端からずり落ちる。あ、と思う間もなく体が傾いで、ブラッドは反射的に床へ両手をつこうとした。
     ――そうして、ありもしない腕に脳が命令することで、なおのことその回路が灼ける。
    「っづああぁあ……⁉」
    「ブラッド!」
     切迫したソルの声がして、ブラッドはかろうじて床より柔らかいものの上に落ちた。ぜえぜえと呼吸を整えるうちに、それがソルの腕だと分かる。両腕のないブラッドが頭を打たないよう、ソルが腕を伸ばして必死で滑り込んでくれたらしかった。
    「ブラッド、悪い、驚かせたな……」
     暗がりの中にソルの静かな声がして、庇っていたブラッドの頭をくしゃくしゃと控えめに掻き回す。それから、ゆっくりブラッドの頭を床へ置いて、ソルはブラッドの傍らへ身を起こした。
    「コールボタン、押してくる。……片腕で上手く起こしてやれる自信がない」
    「……ッス……」
     小さく頷いたブラッドは、そのまま床の上で丸くなった。じっとりと汗を掻いた体を、冷たい床が冷やしていく。その一方で、ブラッドのベッドの上に身を乗り出して壁側へ手を伸ばしたソルは、コールボタンを押してから再びブラッドの傍らへ腰を下ろした。
    「…………」
     しかし、どちらも無言のまま、ブラッドの浅い呼吸音だけがいくつか続いた。ブラッドは呼吸を飲み込もうとしたが、しかし耐えきれなくなって声を絞り出す。
    「……ダメなんだ……」
    「ブラッド?」
     暗がりの中で、ソルがブラッドを覗き込んでくる。ブラッドは床に頬をつけて、顔を背けながら歯を食い縛った。
     相も変わらず、腕はじくじくと痛い。感情はその痛みと紐づいてしまっている。――ブラッドの憎悪は、両腕が失われる痛みとともに始まり、そして続いてきたのだ。片方が残るのに、片方を忘れることなどできない。
     ブラッドは、食い縛った歯の間からどうにか言葉を押し出した。
    「ダメだ……どうしたって、憎いんだ。忘れたくない、……許せねえ、あいつらがダークを殺したんだ……」
    「…………」
     ソルが身じろぎする衣擦れの音がして、しかしそれは、一瞬止まってからまた元の姿勢に戻ったようだった。ブラッドには、ソルが手を伸ばしかけたように見えたが、消灯された室内では判然としない。ブラッドは、つたなくも何度か酸素を取り込んでから言葉を継いだ。
    「それでも……この気持ちを、生き残ったアンドロイドには向けちゃいけねえ……。でも、それなら、この痛みは、この気持ちは、どうすればいい……?」
    「……、それは……」
     口ごもるソルの様子に、ブラッドは思わず小さく笑った。ソルなら、とうに答えを知っているものと思っていたのだ。
     ソルでさえ、まだ答えを見つけられていないのだろうか。ブラッドは瞼を落としながら言った。
    「……平和ってのは、思ったより心を殺すもんなんだな……」
     そんなことは、と、小さくソルの声がしたが、その後は足音でよく聞こえなかった。コールで呼ばれてやってきた看護師のペアが、ブラッドの体を持ち上げてベッドの上に寝かせ、薬を打って寝息を確かめる。
     その看護師の片方は人間で、もう片方はアンドロイドだ。一部始終を見つめていたソルは、看護師たちに尋ねた。
    「……幻肢痛を、起こさないための薬はないんでしょうか?」
     二人の看護師は顔を見合わせ、それから、人間の看護師のほうがソルに向き直って答える。
    「残念ながら、今の医療ではまだ。……これと同じ薬を、睡眠前に投与しておくことなら可能ですが……強い薬なので、あまりお勧めはできません」
     幻肢痛に鎮痛剤は効かない。無い腕には薬を打つこともできないし、無い腕に効く薬もないのだ。だから、ブラッドに使われているのは強い睡眠薬で、あまり暴れるなら鎮静剤になる。痛みより眠りが勝つようにしてやれば、一晩くらいはブラッドも静かに眠れるということだった。
     そして、ブラッドが強く希望するのであれば、消灯前にでもその睡眠薬を投与することで、夜中に痛みで中途覚醒するのを防げるという。だが、睡眠薬も依存性を抑えてはいるがゼロではないし、その日に幻肢痛が起こる可能性も百パーセントではない。薬の使用は最低限にしたい、というのは、医師とブラッドで話し合って決めた方針だった。
     看護師は続ける。
    「ただ、ブラッドさんではコールボタンを押すのが難しいかもしれないので……ソルさん側のコールボタンでも構わないので、可能であれば、すぐに我々を呼んで下さい。コールボタン自体は肩でも押せるシステムですが、押す余裕がないのかも。……薬を打つのなら、やはり早いほうがいいですから」
     痛みが酷くなる前のほうが効きやすいし、ブラッドさんも長く苦しまずに済みますから、と説明する看護師の前で、一瞬、視線を泳がせたソルだったが、やがて顔を上げて頷いた。
    「……分かりました。でも、俺が退院した後は……?」
     自分がブラッドに直接声をかけたのは、無知で無用なお節介だったのだ、と、ソルは自身の肝に銘じる。両腕が揃って完璧に介護してやれるならまだしも、片腕かつブラッドの容態にも詳しくない自分が出る幕ではなかった。結局はブラッドがベッドから落ちる羽目になったのがその証拠だ。これからはコールボタンと看護師たちに任せよう、と思ったとき、自分がコールボタンを押せなくなったら――退院したら、ブラッドがどうなるのか気にかかった。
     問われた看護師は、ブラッドのほうをちらりと見て答える。
    「ブラッドさんの希望や病室の状況次第ですが……夜間だけでも医療アンドロイドを手配するか、AIつきの病室が空けば、そちらへの移動になります。ブラッドさんがコールを押せなくても、医療アンドロイドやAIが投薬かコールをできる環境を整えることになりますね」
    「そうですか……」
     ソルもまたブラッドの寝顔を一瞥した。今は静かに眠っているように見えるが、その体の中には、まだ熾火が燻っているのだろう。それでも、その火が二度と燃え上がらないように、ブラッドは自分の身で蓋をしている。――医療用とはいえ、アンドロイドがごく身近に配備されることを、ブラッドはどうやって受け止めるだろうか。この病院には看護師の仕事をしているアンドロイドが何体もいるが、その中でさえ、ブラッドの顔や体が強張るのをソルは何回も見てきた。
     ソルの沈黙をよそに、看護師は静かだが毅然とした口ぶりで続けた。
    「早く回復して退院できるよう、病院一同、力を尽くします」
     その後、てきぱきとブラッドのベッドを整えた看護師たちは、すぐに病室を出て行った。ソルは、自分のベッドに腰かけてしばらくブラッドの規則的な寝息に耳を澄ませた後、自分も再び横になる。
     憎しみを堪えて平和の支えに徹する者は、きっとブラッドだけではない。平和を唱えただけでは憎しみは消えないのだ。その消えない憎しみを押し殺してくれる人々がいるから平和へ進むことができる。あるいは、誰しもが何かを我慢しなければ、平和を保つことはできない。
     それは張りぼての平和なのではないか、張りぼてでも懸命に作っていればそれで十分ではないか、ソルの頭の中を思考がぐるぐると回る。ソルは仰向けに寝て一つ深呼吸をすると、そこで考えを打ち切った。


     ――AI病室とは、その名の通り、AIが付属した病室だ。医療機器が多く設置されて操作が煩雑になる病室や、二十四時間体制での見守りが必要な患者の病室などにAIを配備し、医療機器の精密かつ迅速な操作・患者への手厚い見守りなどを可能にしている。
     そのAI病室の一つに運び込まれたセスは、ある日ふっと目を覚ました。しかし、自分がどこにいるのか分からずに、ゆらゆらと視線をさまよわせる。
     それに気づいたAIが、ベッドのそばに立体映像(ホログラム)を形成してセスの顔を覗き込んだ。
    『初めましてこんにちは、私は医療AIのリュウです! お加減はいかがですか?』
    「……」
     目を細め、じわじわと視界のピントを合わせていたセスは、ホログラムの姿がやっとはっきり見えるようになると驚いて目を見開いた。するとホログラムがぱっと立ち上がり、全身を見せるようにくるくる回りながら言う。
    『この姿はホログラムで、私の本体は病室そのものです。病室自体が一つの大型医療機器であり、私はその医療機器に搭載されたAIなのです。声の出ない日でもずっと側に居ますよ。これからよろしくお願いしますね!』
     ホログラムのその姿に、セスは何か声をかけようとして、しかし何も言葉にならずに人工呼吸器のマスクの中で唇をわななかせた。AI――リュウはそれを察知して、ホログラムで再びセスを覗き込む。
    『まずはワンブレス! ゆっくり呼吸をしてください……』
     リュウの言葉に従って、セスは静かに呼吸を整えた。それから、体を動かそうとして、下半身の感覚がないことに気づく。
     セスがリュウのホログラムに視線を向けると、リュウはゆっくりと言った。
    『……今は動きづらいと思いますが、少しずつリハビリを重ねていけば、いずれまた歩けるようになる、と診断されています。……空の速さより遅くたっていいんです、ゆっくり治療していきましょう』
    「…………」
     セスはベッドの中の下肢を一瞥して、それから何度か瞬いた。どうも眠気が去りきらない、どころか強くなってくる。まだ回復しきっていないからか、長時間は起きていられないらしい。眠気の波に身を任せたセスの耳に、そっと明日を祈る言葉が届く。
    『おやすみなさい……』
     微睡みながらもリュウの声を聞いたセスは、次は自分が「また明日」の約束をしよう、と、そう思いながら再び夢の中に落ちた。


     ソルが退院するまでの三日間、ブラッドは昼に戦闘用の義手を試着して、眠るときは義手を外す生活をしていた。そのうち、一晩だけは幻肢痛に苦しむことなく朝を迎えていたので、幻肢痛がいつもじゃないというのは一応嘘ではなかったんだな、とソルは内心で呟いた。
     残りの二晩は、ブラッドが自分でコールを鳴らしたのと、ソルが目を覚ましてコールを鳴らしたのが一回ずつだった。ブラッドの呻き声で目を覚ましたソルは、ブラッドに何か声をかけようかと考えたものの、結局は黙ってコールボタンを押すに留めた。元々、ブラッドは夜中にソルを起こしてしまうことを気にしていた。だから、わざわざ声をかけるよりは、二度寝でも寝たふりでもしているほうがブラッドも気が楽だろうと考え直したのだ。
     そうして退院したソルに遅れること一週間、ついにブラッドもK.G.Dへ復帰した。アルマが開発・調整した新しい義手とともに、ブラッドはしばらくぶりにK.G.Dの本部棟へ出勤する。
     行き交う同僚や先輩たちに挨拶しながら、ブラッドは長官室を目指した。長官だったイーサンが逮捕されてからは、エンドーがK.G.D長官を務めている。そのエンドーに呼ばれているブラッドは、何の用だろうかと思いながらドアを叩いた。
    「ブラッドか。いいぞ、入ってくれ」
     ドアの向こうからエンドーの声が返ってきて、ブラッドは長官室のドアを開けて室内へ踏み込む。そこには、長官のデスクの向こうにいるエンドーと、デスク越しにエンドーと向かい合う長身のアンドロイドがいた。
     そのアンドロイドの後ろ姿を見て、ブラッドの表情が一瞬だけ強張る。エンドーはその様子を見て苦笑したが、ブラッドを振り向いたアンドロイドは眉一つ動かさなかった。
     ブラッドが後ろ手にドアを閉めてその場に留まっていると、エンドーはブラッドを手招きしてアンドロイドの隣へ立たせる。ブラッドは黙ってエンドーを見上げ、エンドーは、満足げにブラッドとアンドロイドを見比べて頷いた。
    「ブラッド、アレックス! お前たちには今日からバディを組んでもらう。アレックスが研修生、ブラッドが研修官だ。これから一年、よろしく頼むぞ!」
     研修生、研修官。思わず反芻して、ブラッドは自分より高い位置にあるアンドロイドの顔を見上げる。すると、アンドロイドの蛍光グリーンの双眸が静かに見返してきた。見覚えのあるこいつが研修生、それでオレが、と自己にも言葉を当てはめて、ブラッドはようやくエンドーを振り仰ぐ。
    「……は⁉」
     研修、一年、言われてみればブラッドも、自警団から移籍してきた当初は先輩署員に研修官をしてもらっていた。が、しかし、そのときの研修官はそれなりに勤続年数のある中堅署員だった。だというのに早くも自分が、しかもアンドロイドの研修官になるなんて。
     ブラッドは慌ててエンドーに言った。
    「何でオレなんすか、せめてソルさんとか」
    「ん? ソルから聞いてないのか? ソルは、今期から解析課へ異動だぞ。アレックスは捜査課希望だし、ブラッドは、自警団時代にアンドロイドとのバディ経験もあるだろう? 適任じゃないか」
     ソルは解析課。そうだった、とブラッドはその場でしゃがみ込んで頭を抱えた。ソルの異動願の話は、一緒に入院していた頃に聞いたのだった。ADAMの腕をさらに研究してもっと広く役立てたい、続々と見つかっているイーサンの悪事の証拠をくまなく解析してすべての真相を確かめたい、――キースの識別信号や、ケインの行方を探したい。そうした希望と、ちょうどイーサンの不祥事に加え年度の中間で組織改編の時期だから、という事情が噛み合って、ソルは早くも解析課へ異動済みなのだ。
     ではやはり、アレックスの研修は自分にお鉢が回ってくるのか。ブラッドは頭を抱えて小さく唸り、K.G.Dの新長官はデスクから身を乗り出すと床にしゃがんだブラッドを覗き込んだ。そこへ、アンドロイドが静かに口を開く。
    「俺は、誰が研修官でも構わない」
    「…………」
    「とは言ってもなあ、アンドロイドの研修生なんてみんな初めてだから、せめて面識のある奴にしてやりたかったんだが……」
    「……………………」
     頭上で交わされる会話を聞きながら、ブラッドの内心で誰かが呆れ交じりにずるいなとこぼす。一方でまた別の誰かは、これも何かのきっかけになるかもしれない、と研修官の役割に乗り気だ。ブラッドはしゃがんだまま、疑わしげな顔でアンドロイドを見上げた。
    「お前、……オレなんかと仕事するんでいいのかよ」
    「言っただろう。誰が研修官でも構わない」
     淡々としたアンドロイドの表情からは、言葉以上の感情は窺えない。ブラッドは視線を逸らして、エンドーのデスクの側面にうっすら映った自分を一瞥すると、足元の感触を確かめながらゆっくり立ち上がってエンドーを見返した。
    「じゃあ……オレが、研修官、やるんで。今日一日は施設の案内と……ソルさんにも顔見せに行かせたほうがいいっすか」
    「そうだな、ソルと、捜査課の連中にも、会えるだけ顔合わせをしてやってくれ。総務がアレックスの制服とロッカーを手配してくれているから、その案内も頼む」
    「ウス」
     頷いたブラッドは、アンドロイドを引き連れて長官室を出ると、二人でエレベーターに乗った。長官室は最上階で、本部棟の総務窓口は一階だ。ブラッドはエレベーター内の階層表示を指差しながらアレックスに説明した。
    「総務と食堂が一階、ロッカーと仮眠室とジムが二階、捜査課のデスクは三階、四階が会議室と資料室、五階から上は解析課で最上階が長官室と機密資料庫。……食堂とか仮眠室は、お前は使うかわかんねーけど、誰か人探すときとかは覗いてみな」
    「了解した」
    「…………」
     淡々としたアンドロイドを見上げ、ブラッドはしばし言葉を探した。わざわざ親しくなろうとまでは思わないが、あえて険悪になろうとも思わない。要するに、エレベーターが一階へ着くまでの沈黙が気まずいのだ。ブラッドは視線をエレベーターのドアへ戻して、それから、やっと言葉を見つけて再度アンドロイドを見上げた。
    「なあ」
    「何だ」
    「オレぁブラッド。……まあ、とっくに知ってんだろうけど。お前は?」
    「……。アレックスだ。そちらこそ、俺の名前くらい既に知っているだろう」
     何を今さら、といった様子のアレックスだったが、ブラッドは静かに言う。
    「知ってるけど、でも本人の口からは聞いてねえと思ってよ。オレも名乗ってなかったし……少なくともこれから一年はバディになるんだ、お互い、名乗るくらいしといたっていいだろ」
    「そういうものか」
    「そういうものだ。……立場や所属が変わったんだ、情報の再確認は大事だろ」
    「なるほど」
     その理屈ならば納得できる、とアレックスが頷いて、ちょうどエレベーターも一階に着く。ブラッドは踏み出しながら言った。
    「そんじゃ、これからよろしくな」


     一階の総務でアレックスの制服とロッカーのパスコードを受け取り、二階のロッカールームでアレックスにパスコード等の操作を教えたブラッドは、じゃあと一人で踵を返した。
    「上で待ってる。三階な」
    「ああ」
     ブラッドの姿と足音が小さくなって、アレックスはマントを脱ぐとK.G.Dのエンブレムがついたジャケットに袖を通した。他の支給品・装備品も揃っている。試しに通信機の電源を入れると、少しのノイズの後にエンドーの声がした。
    『……おっ、装備は万全みたいだな。様子はどうだ?』
    「業務に支障はない。今のところ、穏当に施設案内を受けているだけだ」
     通信機の向こうで、そうか、とエンドーが息をついた。アレックスは続ける。
    「対象の観察を続行する」
    『ああ。ブラッドのこと、頼んだぞ』
     そこでアレックスは通信を切り、機器をジャケットの内側に入れてロッカーを後にした。ブラッドには言っていないが、アレックスは研修を受けるだけでなく、ブラッドの経過観察もエンドーに頼まれている。新しい義手との相性、治りたての足、夜ごとの幻肢痛から来る睡眠不足など、頑丈そうな見た目と裏腹に、病み上がりの懸案事項は意外と多い。
     K.G.D本部棟三階でブラッドと合流したアレックスは、班ごとにデスクが置かれたフロアで自分のデスクを案内された後、四階の会議室と資料室を一周してから五階でソルと顔を合わせた。解析課の白衣に身を包んだソルは、制服姿のアレックスを見て感嘆する。
    「よく似合ってるぜ、アレックス。ブラッドも、新しい義手が完成してよかったな」
    「うす。ソルさんも、もう解析課に馴染んでますね」
    「へへ、そうか? ……キースやケインさんのこと、絶対に見つけてみせるからさ、待っててくれよな」
     これでアレックスの顔見知りへの挨拶と、捜査課が主に使用するフロアの案内が済んだ。そろそろ昼なので、ブラッドは食堂が混雑する前に昼食を済ませるのがよさそうだと思案する。そこで、ブラッドはアレックスを見上げた。
    「オレは、そろそろ昼飯にするけど……。お前はどうする? 充電とかメンテとか、解析課か? 仮眠室に充電ユニット置いてもらったほうがいいか」
     アレックスは、K.G.D初のアンドロイド署員だ。つまり、今までのK.G.Dにはアンドロイド署員がおらず、従ってアンドロイド向けの設備もない。これから、アレックスの希望や使い勝手を参考に設備が整えられていくことになるが、研修初日の今はまだ人間用の設備だけだ。
     ブラッドがその懸念を口にすると、アレックスは一瞬だけ意外そうにブラッドを見て、それから答えた。
    「……人間の仮眠室に充電ユニットを置いたら、光や音が邪魔だろう。充電ユニットは解析課に用意がある」
    「それでいいなら、いいけどよ。エントランスから解析課って遠いだろ。一階か二階にも置いてもらおうぜ、もし充電が切れたとき、その重い体運ぶのは人間なんだし。……って考えると、やっぱ一階だな」
     後で長官にも言っとく、とブラッドは一人でまとめて、それから続けた。
    「どっか見たいとこあるなら一旦解散、特になけりゃ、……あー、食堂の見学でもしていくか?」


     アンドロイドに食堂の見学なんかさせてどうすんだ、と思わないでもなかったが、研修初日のアンドロイドを早々に一人で放り出すのも気が引ける。それだけの考えから出たその場凌ぎの提案だったが、アレックスは意外にもブラッドの昼食に付き合って食堂までついてきた。ブラッドが券売機でホットドッグを選ぶと、眺めていたアレックスが野菜を食えと言うので、ブラッドはサラダの券も追加した。
    「もっと食わなくていいのか。肉体労働者だろう。それと成人男性の適正量は」
    「そんなん口出ししてくるのか⁉ 誰かさんが手持ち無沙汰にならねーようにファストフード選んでんだよこっちは」
    「アンドロイドに合わせて不健康になる奴があるか」
     押し問答の末、結局ブラッドはミネストローネの券まで追加して、やけに豪華になったランチのトレーを持って食堂の窓際に座った。時間が早いので、食堂の利用者もまばらだ。アレックスがじろじろ見られる羽目にならなくて良い。
     席についたブラッドは、ホットドッグを手に取りながら言った。
    「……で、まあ、午後の予定な。外の施設……屯所いくつかと、開発ラボの見学に行く。……お前、マップデータとかもらってんのか?」
     尋ねながらブラッドはデスクから持ってきたタブレットにマップを表示し、アレックスにも見えるようにテーブルの中央へ置いた。それから、近隣の屯所にピンを立てて義手の指でラボ棟を差す。
    「K.G.Dのラボ棟は工業区にあるから、本部棟(ここ)からラボ棟までに寄れる屯所に寄ってからラボ棟見学。……オレの義手は、メンテ程度なら本部棟の解析課でやってもらえるけど、でけえアプデや修理ってなったら開発ラボだから、お前もうっかり壊れたりしたらラボ棟なんじゃねえか? 真面目に見学しとけよな」
    「俺は常に真面目だが?」
    「……そーかよ。それと、屯所には屯所勤務の班がいるから、邪魔になんねえようにな。基本、屯所は屯所の担当班で回ってるけど、たまに応援要請がある、お互いにな。だから、屯所勤務のマニュアルデータもらってんなら、暇なときにでも読んどくといいぜ。何かの都合で臨時に屯所勤務するかもしれねえし」
    「了解した。マップデータはダウンロード済、屯所のマニュアルも確認しておく」
    「あとは……開発ラボのマップと説明でも見とけ。正面で手持ち無沙汰にされてっと食いづれえから」
     そう言ってブラッドは端末に開発ラボのページを開くと、それをアレックスに押しやって自分はミネストローネのスープマグに手を伸ばした。トマトで煮込まれた根菜を頬張り、スープを飲んで小さく息をつく。それから、黙々とサラダやホットドッグをたいらげて、ミネストローネもしっかり飲み干してランチを終えた。その後、ブラッドが食器やトレーを返してきたあたりで昼休憩のチャイムが鳴り、ブラッドとアレックスは席を立った。
     解析課や総務課だろう白衣や制服の職員たちが食堂に集まってくるのと入れ替わりで食堂を出た一人と一機は、本部棟地下の駐車場へ向かった。何台か停まっている車の一台へ乗り込み、アレックスから返されたタブレットを車内の収納へ入れたブラッドだったが、シートベルトに手を伸ばしたところでその端末が着信音を鳴らしたので、結局ベルトを締める前に再度タブレットを手に取った。
     通話・チャットアプリのアイコンがついた通知を義手の指先で軽く触れると、チャット画面が起動して見慣れないユーザーアイコンが出てくる。一瞬眉を寄せたブラッドだったが、解析課になってアイコンが変わったソルだと分かるとすぐメッセージのほうに視線を移した。
     さほど長いメッセージではないのだが、読んでいるブラッドの顔はどんどん胡乱になる。
    「…………」
    「……任務か?」
     長いことタブレットを睨むブラッドの顔があまりに険しいからか、助手席のアレックスがまさかというようにぽつりと尋ねた。だが、ソルのチャットは、解析課の昼休みに気軽に送ってきた雑談に過ぎない。ブラッドは短く、いや、と返すと、タブレットを再び収納に放り込んでアレックスを見た。
    「アレックス」
    「……何だ」
    「あー……アレだ、ロイのランチャーのとき……」
    「ああ」
     ハッピー奪還のときか、と、アレックスは小さく呟いて、視線でブラッドの続きを促す。ブラッドはその後のことを思い返しながら考え考え言った。
    「助けて……いや手当てしてくれたのは先生たちだからな……わざわざ連れてって?持って帰って?くれて、……ありがとな」
    「……」
    「礼言っとけって、ソルさんがチャットしてきたからよ」
     とりあえず言うことは言ったので、ブラッドはそこで少し肩の力を抜いた。それからシートベルトの存在を思い出して、カチャカチャとシートベルトを締める。その手元を見ていたアレックスが、ブラッドの動作が終わるのを見計らって口を開いた。
    「……確かに、治療にまで俺は関わっていないからな。妥当な礼だ。……ハッピーが気にするから、スムーズな脱出のためには連れていくのが最善だった。俺にとってはそれだけのことで、お前を助けたかったのは、むしろハッピーのほうだろう。それに、実際に手当てをしたのはもちろん、助けるかどうか――治療してやるかどうかを決めたのも、ソルをはじめとする人間たちだ。『助ける』ための行為の中で、俺が関わったのはごく一部、それこそ運搬程度の範囲に過ぎない」
     だから俺への礼はそれでいい、と言って、アレックスは助手席で前を向いた。それから続ける。
    「……まあ、結果的に、助かっていてよかったな、とは思っている。 ……どういたしまして」
    「おう。頑丈だからよ、オレは」
     そこで会話を区切って、ブラッドは車のエンジンをかけてアクセルを踏んだ。ラボ棟までの経路と、その間に寄れる屯所を思い描きながらハンドルを握る。しばらく走って信号待ちをしているとき、アレックスが口を開いた。
    「ハッピーが、会って礼を言いたいと言っていた」
    「さっきも名前聞いたな……でもオレあんま話すことねえんだよな。顔もほとんど分かんねえしよ」
     ブラッドとハッピーの初対面は、初『対面』と言っていいのかすら少々怪しい。ケインを追って革命軍のアジトへ乗り込んで、そのときアレックスともう一機のアンドロイドが連れ立っていたのはかろうじて覚えているが、何せ夜中だったのと、ブラッドはすぐロイのランチャーの前に飛び出してしまったので、そのときのアンドロイドの顔などほとんど見ていなかった。
     だが、そのハッピーというアンドロイドは、ブラッドがアレックスとランチャーの間に飛び出したことをいたく心配し、かつ礼まで言いたいようだ。
     ブラッドが内心で首を傾げているのを察したのかどうか、アレックスが補足する。
    「お前はすぐ気絶したから知らんだろうが、俺が運転する後ろの席でお前を見ていたのはハッピーだ。向こうは顔を知っている」
    「あー……そりゃ、元気になりましたってツラは見せとかなきゃか」
    「そういうことだ」
     アレックスが頷き、その後に信号が変わる。ブラッドがアクセルを踏み、アレックスは口を閉じた。


     都心部にあるK.G.D本部棟とは別に、工業区の一画に建っているK.G.Dのラボ棟には、エンドーやリクの推薦で技師アルマが就職していた。人間とアンドロイドの軋轢や諍いに巻き込まれないようにフリーとして転々としていたアルマは、世の中が平和へと進み始めた今、ありがたくK.G.Dラボの一員として設備や職員寮を利用しているらしい。
     都心部や市街地にあるいくつかのK.G.D屯所に顔を出して軽く挨拶をしてから工業区までやってきたブラッドとアレックスは、そのアルマにしばらくラボ棟を案内してもらってから、再度K.G.D本部棟まで戻った。アルマに連れられて開発設備の合間を歩き回っていたアレックスは興味深そうな顔で時折アルマと話し込んでいたので、ブラッドは意外な気持ちでそれを眺めていた。アレックスが開発に興味を持つのも、人間のアルマと話し込んでいるのも、なんだか不思議な光景だった。
     駐車場へ車を戻し、K.G.D本部棟三階・捜査課デスクが並ぶフロアまで来たブラッドは、アレックスと一緒に自分の班のデスクまで戻る。
    「ソルさんが異動したり、他にも組織変更があったはずだから、近いうちに席替えになると思うけどな。オレとお前の席はしばらくここだ」
     デスクフロアは班ごとにデスクが固まっており、ブラッドはソルとケインと同じ班だった。二人のデスクは既に空で、ソルのデスクは異動に伴ってソルが自分で整頓したのだろうが、ケインのデスクは、革命軍が動き始めた頃に上層部が物品を根こそぎ持っていった。アレックスは、かつてソルのデスクだったスペースを引き継ぐことになる。そして、ケインのデスクだった場所は空席のままだ。
     アレックスは、宛がわれたデスクで支給端末の初期設定や同期をしながら言った。
    「ハッピーの話だが」
    「あ? おう」
    「ハッピーとエル様が、お前とソルとの快気祝いをしたいそうだ」
    「……はあ」
     アレックスの隣で、資料室から持ってきた未解決事件のファイルを読み返していたブラッドは、一応分かるエルの顔を思い出しながら生返事をした。人間というだけで避けられてもいいくらいだと思うが、あのアンドロイドたちは快気祝いがしたいのか。
     しばらく考えていたブラッドだったが、無下にしないほうがいいだろうと判断して答える。
    「まあ、断る理由もねえし……ソルさんが行くなら、オレも行く」
     一人でアンドロイドに囲まれるのはちょっと、とブラッドが小さく呟くと、アレックスは淡々と、伝えておく、と言って黙った。


     復帰初日のブラッドの業務は、研修初日のアレックスの施設案内と支給品および署内システムの説明・使用補助で終わった。だが、その次の日からは時間ごとにパトロールを担当したり市民からの通報に対応したり、その一方で未解決事件の捜査も諦めずに進めねばならない。加えて、イーサンの証拠データを解読中の解析課からは実地調査の依頼も来ている。戦いが終わっても、K.G.Dの業務は山積みだ。
     それらの仕事をこなすため、ブラッドがアレックスを引き連れて東奔西走した一週間の終わりに、ソルとブラッドの快気祝いとして小さなパーティーが催された。一晩貸し切りにしたタオズ・ダイナーで、ブラッドはハッピーが腕によりをかけたと言うローストチキンを何切れかトングで取り、薄切りのバゲットに載せる。
     今日のブラッドは終業時に戦闘用の義手を解析課に預け、生活用の義手に付け替えてカバーをかけてあるので、一見すると本物の両腕があるようだ。それでも、義手でのカトラリーの扱いが億劫なことには違いないので、ブラッドは内心でほっとしながらトングを元の場所に戻した。
     快気祝いのパーティーは、ダイナーのカウンターに所狭しと料理の大皿が並んで軽食バイキングになっている。その料理は串を打ったり、バゲットやクラッカーを用意してトングで乗せる・挟むようになっていたりと、カトラリーを使わなくても食べられるようになっていた。主賓の人間たちが義手だから、食事も気楽にできるようにと考えてくれたのだろう。
     一方で、食事をしないアンドロイド向けにいくつかのテーブルは遊戯仕様になっていて、チェスやダーツ、カードやボードのゲームが楽しめるようになっている。パーティーの始まりから数十分、挨拶や軽食が落ち着いた今は、エンドーとアレックスがチェスに興じる盤面が立体映像でダイナーの空中に再現されており、ダイナーの人間やアンドロイドは、それを観戦したり歓談したりして過ごしていた。
     そしてブラッドは、カイとレッカが競い合うようにして料理を平らげていく合間を縫って少しずつ料理を取って食べており、要するにずっとカウンターの近くにいた。アンドロイドが基本的に遊戯テーブルに集まる中、ハッピーがカウンターの向こうからブラッドに料理の説明やサーブをしてくれる。
    「何か食べたいものがあったら言ってくださいね! メニューになくても、今日はすぐ作っちゃいますよ!」
    「や……十分、だぜ。自信作っつってたっけ、ローストチキン、うめえな」
     ブラッドが褒めると、ハッピーが嬉しそうに笑う。それなら自分はちゃんとした受け答えができていたのだろう、とブラッドが安心してクラムチャウダーのカップに口をつけると、後ろ――遊戯テーブルのほうから足音がいくつか近づいてきて、ブラッドは緊張と折り合いをつけながらゆっくり振り向いた。
     振り向いた先にいたのは、笑顔のエルと、それぞれの様子を見比べるようなノリス、それから、視線の棘を隠しきれていないロイだった。
     まあ、ロイの視線は仕方のないことだろう、と、ブラッドは淡白な気持ちで彼らを眺めた。今の自分がロイと同じ目をしていないとも限らない。
     ただ、エルが臆面なくこちらへ来るので、ブラッドは飲みかけのカップを一旦手近なカウンターに置き、会話を受け入れる姿勢を示した。ハッピーがさりげなく離れてカイとレッカのほうへ空き皿を下げに行き、ロイとノリスはブラッドに近づきすぎない距離で立ち止まる。しかし、エルはブラッドのすぐ前まで歩を進めた。
    「ブラッドさん、退院おめでとうございます!」
    「おう。あー……あんたも、あんたらも? 無事そうで、よかった」
     社交辞令的に複数形を取り入れてロイやノリスまで視線を上げたブラッドは、とはいえすぐにエルまで視線を戻した。エルが近づいてきたということは、エルから話があるのだろう。
     しかしエルは、一歩後ろにいたロイの袖を引いて自分の横に立たせる。
    「その節は大変ご迷惑をおかけしました。……ほら、ロイもごめんなさいしましょう?」
    「……」
     エルに促されたロイだったが、それでもやはり抵抗があるのか、険のある顔で交互にブラッドとエルを見た。ブラッドはその様子を見ながら、こいつのランチャーが足に当たったんだよなと頭の片隅で思い返す。エルが謝罪を促しているのはそれだろう。
     だが、自分だけが、あるいは自分から謝るのは、誰にとっても難しいことだ。ブラッドはロイを見ながら先に口を開いた。
    「……お前らじゃなかったって聞いた」
    「なにが」
    「北部大規模テロの首謀者」
    「……」
     解析課がイーサンのデータを調査・解読する中で、過去のテロや暴走事件の大半が、イーサンによる故意のウィルス操作や悪性電波によるものだと判明し世間にも公表された。そしてブラッドの故郷で起こった惨劇もまた、アンドロイドではなくイーサンが首謀者だったと解明されたのだ。
     ブラッドの次の言葉を窺う様子のロイに、ブラッドは静かに続ける。
    「濡れ衣で恨んで、仲間を壊し回って悪かったな」
    「…………」
     ブラッドは一度頭を下げ、そしてまた顔を上げた。目を丸くして驚いた様子のエルと、じっとブラッドを見定めているかのようなロイとの視線がブラッドに注がれる。
     それらの視線を受け止めながら、さらにブラッドは続けた。
    「テロの首謀者はイーサンだった。オレもアンドロイドも、踊らされてただけだった。だから……オレが、アンドロイドを憎む理由は、もう無い。……テロで死んだ相棒の仇も、お前たちじゃなかったってことだしよ」
    「……それは」
     ずっと黙っていたロイが口を開く。エルが傍らのロイを見上げ、ブラッドは自分よりいくらか高い位置にあるロイの双眸を見上げた。ノリスは相変わらず、じっと彼らの後ろに控えている。
     ロイは冴え冴えとブラッドを見下ろして言った。
    「お前が真に憎んでいたのは、アンドロイドそのものではなく、『相棒の仇』『テロの首謀者』だったということか」
    「……そうだ」
    「その『相棒の仇』『テロの首謀者』がアンドロイドではないことを、この騒動で漸く知った、と?」
    「そうなるな」
    「それで、お前はアンドロイドを許せるのか? 二度と我々を傷つけないと誓えるか?」
    「…………」
     ロイのアイセンサが鋭く光る。他のアンドロイドを率いる指揮官型の個体として、仲間たちの安全に関わる事象・人物を見極めようとしているのだろう。それがプログラムなのか本物の感情なのかは、どちらでも良いことだ。
     ブラッドはロイを見上げて目を細め、それから、自分の義手へ目を落として答えた。
    「……許すも何も、元々、アンドロイドを憎むのが濡れ衣、筋違いだったんだ。本当の『相棒の仇』、『テロの首謀者』……イーサンのことは、きっと一生許せねえ。けど、アンドロイドは……相棒やテロとは無関係か、もしくは、同じテロの被災者だろ。アンドロイド犯罪を取り締まるK.G.Dとしても、テロが起こった当時の地域住民としても……罪のないアンドロイドを傷つけることは、もうしねえよ」
    「…………」
     顔を上げたブラッドの視線の先で、ロイのアイセンサが瞬く。ロイの納得するような回答だっただろうかとブラッドが自分の発言を思い返していると、ロイがようやく口を開いた。
    「……。足」
    「ああ」
    「悪かった」
    「治ったからいい」
     ブラッドは苦笑して肩の力を抜いた。謝罪があったということは、ブラッドの言うことにも納得してもらえたのだろう。ブラッドは、一旦カウンターに置いてあったクラムチャウダーのカップに手を伸ばしながら言った。
    「お互い、大変だったな」
    「……そうだな」
     これで手打ちにしたい、というブラッドの意図がどこまで正確に伝わったかは定かではないが、ロイはブラッドの言葉に小さく頷いた。とりあえずほっとしたブラッドは、飲みかけだったカップを空にして、ハッピーのほうへカップを下げに行く。誰にも呼び止められなかったのをいいことに、行った先のカウンターでブラッドが料理を見ていると、完食を目指すレッカに案の定絡まれた。
    「オイ、オマエ! そこの皿は全部オレ様のもんだぞ!」
    「そんなわけないだろ。ソルとブラッドの快気祝いなんだから、オマエがもっと遠慮しろ」
    「ハハ……いいっすよ、オレらは、全種類ちょっとずつハッピーが取り分けてくれたんで」
     でもあと少しおかわりが欲しい、とブラッドがトングに義手を伸ばすと、レッカが本当にちょっとだけ――スモークサーモンのサラダ、一口ぶんあるかどうか――を大皿に残して他を自分の皿へかっさらった。カイが呆れるのを横目に、ブラッドは一口分のサーモンサラダをクラッカーに乗せながら元いた場所を盗み見る。
     エルたちは三機揃って遊戯テーブルへ向かっていて、話はもう終わりと思って良いようだ。背すじの奥の緊張がやっと解けたブラッドは、遊戯テーブルに背を向け、サラダを乗せたクラッカーをゆっくり口の中に入れた。


     パーティーの中、ブラッドとロイが何事か話している様子を遠目に窺っていたソルは、何事もなく話が終わったようなのを見てほっと息をついた。それから自分の手元に視線を落とし、チェスを観ながら飲んでいたエスプレッソのグラスに口をつける。少し飲んでからソルが顔を上げると、そのチェスを終えたアレックスがソルの隣へ近づいてくるところだった。
     長く観客を楽しませていたエンドーとアレックスのチェスは、僅差でアレックスが勝利し、今はロイとノリスの対戦が始まろうとしている。アレックスはブラッドの背中を見やり、それからソルに視線を戻して言った。
    「……あの男、平時はこんなに静かなのか。予想外だ」
     ソルはアレックスを見上げ、そして彼の視線を追ってブラッドを見た。ブラッドの職務復帰から一週間、同じ捜査課所属だった頃よりは接点が減ったが、解析課に移ってからは、義手のメンテナンスや実地調査の依頼・報告で接点がある。ソルはそのときのブラッドの様子を思い出しながらアレックスに同意した。
    「うーん、それは確かに……。でも、俺が勝手に予想外だって思ってるだけで、よく考えたら俺は、争いがないときのブラッドを知らないんだよな。……お互い捜査官として出会ってから今まで、全然平時じゃなかったからさ。だから……もし、今の静かなブラッドのほうが、元々の性格なんだとしたら……」
     渋い顔でソルは続けた。
    「……俺たち、今すごくブラッドに失礼だよな」
    「確かに」
     アレックスは眉一つ動かさず、しかし素直に頷いた。長身のアンドロイドは、すい、と再びカウンター側のブラッドを一瞥してから、瞼を伏せて肩をすくめる。
    「……平常時の様子と比較できない以上、メンタル面の良し悪しはここにいる誰も判断できない、ということか。判断基準はバイタル値のみ……医療型でもないのに、責任重大だな」
    「悪い。でも、これからはアレックスが一番ブラッドの近くにいるからさ。頼むよ」
     ソルはそう言って笑い、軽くアレックスの背中を叩いた。アレックスは、ブラッドを研修官としてK.G.Dの新人研修を受ける傍ら、エンドーやソルの頼みでブラッドの経過観察をしているのだ。ブラッド本人に明かすと変に隠す可能性があるので黙っているが、根を詰めすぎていないか、負傷が後を引いていないか、ちゃんと食べているか等々、アレックスはブラッドを観察して、今のところは日々異状なしとエンドーに報告している。
     少々過保護かもしれないが、アレックスにとっても人間とのバディアップは初めてだ。相手のコンディションをこまめに確認しておいて損はない。淡々と経年劣化していくアンドロイドの機体と違って、人間の肉体は様々な要因で大なり小なり不調をきたす。
     アレックスが改めてブラッドのほうへ視線を向けると、同じくブラッドへ目を向けたソルが静かに言った。
    「……でも、素の性格がどうだとしても、元気がないのは気になるよな……。無理に元気出せ、とも言えないけどさ。ケインさんも、ブラッドの介助をしてくれてた……DAだっけ、彼も見つかってないから。彼らが見つかったら、もう少し元気になるのかな」
     あるいは、と、ソルはもう一つ可能性を追加する。
    「それか……今この時じゃなくて、もう少し前のこと……故郷のこととか、憎むことで蓋をしていたいろんな気持ちに、改めて向き合っている最中なのかも。もうしばらくは、そっとしておこうと思う」
     ブラッドの様子を眺めていたアレックスは、意外そうにソルへと視線を滑らせて言った。
    「案外、一歩引くんだな。もっとお節介なのかと思った」
    「……一緒に入院してた頃、そのお節介で、危うくケガさせるとこだったからな。自分にできることやすべきことを、もう少し見直すことにしたんだ」
     ソルは苦笑してダイナーを見回す。
    「これからやっと、平和に笑って過ごせるんだと思ってたけど……。いきなり変われるわけ、ないよな。悲しいことや苦しいことと向き合う時間だって、必要で大切なものだ」
     ソルはそう言って、手元のグラスを見下ろした。エスプレッソの濃い液面に映ったソルの顔が、じっとソルを見つめ返す。――ケインや、ブラッドや、ソル自身が、どうやったら笑えるようになるのだろうかとずっとずっと駆け抜けてきて、それでもまだ道の途中だ。いまだ戻らぬ笑顔があり、癒えぬ傷跡があり、埋まり切らぬ溝もある。
     それでも、やっと一つ進んだのだ。そう、信じるしかない。
     ソルはグラスの中に揺蕩うコーヒーを飲み干し、次の飲み物をもらうためにカウンターへ向かった。


     やがて、カウンターの料理はデザートに切り替わり始め、皿の上にはカップケーキにスコーンなどの焼き菓子やカットフルーツが並んだ。ブラッドが黙々とチョコチャンクスコーンを頬張っていると、その隣に紅茶のポットを持ったバリィが立つ。
    「一杯いかがかな? スコーンには紅茶だろう」
     口の中にスコーンが入っているブラッドが一拍置いて頷くと、バリィはカウンターからカップを取って紅茶を注ぎ、ブラッドの近くへ置いた。スコーンを飲み込んだブラッドは、その紅茶で一息ついて口を開く。
    「あんた、まだ動いてたのか」
    「思ったよりもやることが多くてね。まだしばらくは休めそうにない」
     バリィはおどけたように肩をすくめてからポットをハッピーに返し、ブラッドの隣でカウンターにもたれかかった。そこに、カットフルーツをカップに詰めたリクがやってくる。
     リクはブラッドにもカップとピックを渡しながら言った。
    「俺とバリィさんは、イーサンが造ったクローンたちの後見人になったんだ。エルの他にも、エルと同じ姿のクローンがいて……そいつらを、精一杯生きさせてやりたい」
    「へえ……。確かに、それならまだ忙しそうだな」
     リクに貰ったピックでカップの中の桃を一切れ口に入れたブラッドは、じゅわりと染み出す果汁を楽しんでからそれを飲み込んだ。次はどれを食べようか、とカップを覗き込んだブラッドの耳に、バリィの平然とした声が滑り込む。
    「まあ、起動済のイーサン型クローンは、既に逮捕・収監されているがね。もちろん別々の場所へ、だ」
    「そりゃ……同じ場所にいたら、さぞかしシュールだろうよ」
    「とはいえ、まだ培養槽で眠っているイーサンが何体もいるんだ」
    「想像しちまったじゃねえか」
     ブラッドが渋い顔で眉をひそめると、バリィがくつくつ笑う。イーサンに機械化されてからのバリィしか知らないブラッドにとっては不思議な光景だが、生前のバリィを知っているリクは、後輩をからかいすぎちゃダメっすよとこなれた様子で釘を刺した。
     そのリクは、一口大にカットされた林檎をシャクシャクかじって飲み込んでから口を開く。
    「起動済のクローン、培養中のクローン、イーサン型とエル型……元々、イーサンが秘密裏に稼働させてたラボだから、俺たちがすべての装置をちゃんと運用できるかはまだ分からないけどな。そのうち、何かプロテクトがかかるかもしれない。でも、今を生きてるクローンたちの面倒は見てやりたいし、培養中のエルたちのことも、どうにか……せめて、死なせないようにしたいんだ」
    「…………イーサンの型も、か?」
     ブラッドは思わず問いかけた。不用意な発言だったかとブラッドはすぐに目を泳がせたが、リクは一拍置いてからすぐに頷いた。
    「――イーサンの型も、だ。少なくとも、可能な範囲では死なせたくない。一人では償い切れないことをしたってことで、目覚めたんならクローンにも何か貢献してもらうさ」
     ブラッドは、フルーツのカップにピックを戻してリクを見据えた。
    「……お優しいんだな」
    「いや? 自信があるだけさ、もう何も悪事はさせてやらねえってな」
     リクもまた、バリィと同じようにおどけて肩をすくめてから、またカップのフルーツを口に入れた。ブラッドも手元のカップに視線を戻し、色とりどりのカットフルーツを見つめる。フォローのつもりか、バリィがすぐに口を開いた。
    「幸い、私たち二人は機械化されているから、その気になればクローンの最後の一体が老い果てるまででも見届けてやれるだろう。心配することはない」
    「あ? あー、いや、見張りとかそういう心配をしてたわけでは……」
     単に自分の狭量さを思い知って黙っただけのブラッドは、慌てて次の果物をピックで刺しながら曖昧に言葉を濁した。見もせずに口に入れたのは、どうやらメロンだったらしい。ブラッドはそれを噛んで飲み込みながらバリィの言葉を内心で反芻した。
     クローンは、後から機械化されることはあっても基本的には生体だ。だから生体程度の寿命があるし、その程度の期間であれば、機械化されたリクとバリィは、修復やバージョンアップを繰り返すなりで最後まで見届けられる見込みなのだろう。
     けれども、と、ブラッドは隣のバリィへ顔を向けた。
    「……でも、あんたは、親友のところへ行きたいんだろ」
    「そうだな……」
     戦いの中で本来の意志と記憶を取り戻したバリィからは、ソルとブラッドが入院中の見舞いのときに改めて自己紹介があった。バリィと親友・ケヴィンの話は、ADAM事件の真相とともに少しだけ聞いている。ブラッドはバリィに尋ねた。
    「親友のところに行くのが、遅れちまってもいいのか」
    「まあ……あいつなら許してくれるだろう。それに、今ここで放り出してしまったほうが怒られそうだ。放り出してしまったら、ろくな報告もできないしな」
    「…………」
     黙り込んだブラッドの様子から何か察したのか、バリィは一息おいてから静かに口を開いた。
    「たとえ、すべてのクローンを見届けてからになるとしても、その間に私がケヴィンを忘れることはないだろう。いつか、ケヴィンにちゃんと報告できるその日まで、恥じない働きをするつもりだ」
     バリィの言葉に、果たして彼もそうだろうか、とブラッドはDAのことを重ねた。彼もまたバリィのように、どこかで役割を持って、その日々の中で再会を待っているのだろうか。ブラッドは、路面に残っていたオイルの跡を思い出す。
     待っていれば戻ってくるのか、それとも既にデータもなくなっているのだろうか。見つからない、というのは残酷だ。せめて機体が残っていれば、パーツ修理でもデータ移植でも手を尽くして、駄目なら駄目と切り替えることができたのに、どこかで動いているのか、それとも既にどこにもいないのかすら分からないのでは、何をどうしたらいいのか分からない。待つか探すかしていればいつかどこかで会えるのか、それとも、新たに製造するしかないのか。
     ブラッドが黙り込むと、リクも黙って果物を口に入れ、バリィもまた静かに後輩二人を見守った。しばらくそのような休憩じみた無言があり、その後、バリィがブラッドの手元を指差す。
    「果物は我々が選んで持ってきたのをカットしてもらったんだ。糖度も折り紙つきだから、ゆっくり味わうといい。酸化したり乾いたりさせない程度にな」
    「……ん、ああ……そうだな、食ったやつどれも美味かったよ」
     声をかけられたブラッドは、瞬きをしてカップに目を落とし、ピックで果実を口に運んだ。さっきリクも食べていた林檎だ。爽やかな果汁と口当たりがブラッドの舌や喉を潤し、胸中の靄までもさっとすすいでいく。
     それから、一つ、また一つと黙々カップの中身を減らしていくブラッドの両側で、リクとバリィは目配せして静かに笑い合った。


     やがて夜も更けてパーティーがお開きになった後、ブラッドはソルと一緒に帰路を辿った。主賓に後片付けはさせられないから、と一足先に二人で帰されたのだ。
     持ち帰り用に包んでもらった焼き菓子の手提げを片手に、ソルは上機嫌で歩いている。
    「楽しかったなあ! みんなで集まって馬鹿騒ぎなんて、本当に久しぶりだよ」
    「オレも……こんな機会が来るなんて、考えたこともなかったっす」
     ソルと同じく、いい匂いがする焼き菓子の手提げを持ったブラッドは、やっと肩の力を抜いて頬を緩めた。アンドロイドがいる場でのパーティーでは結局ずっと気を張ってしまったが、気心も知れたソルと二人なら、まともに一息つける気がする。
     ブラッドはゆっくり歩きながら、パーティーのことを思い返した。バリィやリク、ロイ、ハッピー。普段ならばとても話しかけないだろう相手と、思いがけず話をする機会になった。会話は短い間だったり、他愛もないものだったりしたけれども、ブラッドが気を張るには十分な相手だ。だが、その感触は、思ったよりも平凡だった。
     危惧していたほど憎悪が噴き上がるわけでもなく、かといって、心からの友好を築けた気もしない。相手がほぼ初対面ならそんなものだろうという程度の、薄い膜を一枚隔てたような感触。こんなものだ、それでよかったんだとブラッドが自分に言い聞かせる一方で、憎悪ではない別の感情がじわりじわりと胸に広がる。
     アンドロイドと人間が、一緒になって馬鹿騒ぎをする、ブラッドはとっくにその温度を知っていた。お祭り好きの仲間たちと、故郷で何度繰り返しただろうか。――そのせいで、今ここにないものばかりが浮き彫りになってしまう。
     憎悪ではない、これは、郷愁とか寂寥とかその類いのものだ。パーティーならダークと一緒に楽しみたかった、キリオスの笑い話が聞きたかった、ランベルの料理が食べたかった。ブラッドの胸中に、故郷でのパーティーの様子が浮かんでは消えた。
     黙っているブラッドの表情を見たソルが、明るい調子で口を開く。
    「パーティーの後って、どうしてもちょっと寂しくなるよな。もう少し二人で飲んで帰るか?」
     ダイナーのパーティーでは、アルコール類は出されていなかった。ブラッドとレッカは今年で二十歳になったが、カイの成人まではあと少しあるのと、機械化されて外見の変化が止まったリクやエルがいたからかもしれない。
     とはいえブラッドもさほど酒に慣れているわけではないので、パーティーに酒がなくとも何も困っていなかったが、ソルが飲みたいなら付き合うのもやぶさかではない。ソルもまた、酒が飲みたいというよりは、賑やかなパーティーと静かな帰宅とのギャップを少々埋めたいだけだろう。
     そう思ったブラッドは笑ってソルの誘いに乗り、ネオン街まで足を向けた。


     真夜中、市街地で一つの玄関が開く。パシュン、と生体認証で玄関ゲートを開けて帰宅したブラッドは、センサーライトの明かりの下で焼き菓子の手提げをキッチンに置くと、そのままベッドに倒れ込んだ。
     明日は非番だ。困ることは何もない。ブラッドはベッドから手を伸ばし、伏せた写真立てのところに置いてあるアクセサリートレーから二つのペンダントを取った。
     盾と矛、二つのペンダントを胸元でゆるく握って、ブラッドは静かに目を閉じる。義手とカバーは外してから寝なければ、と、頭では分かっているが、今はただ、それを握っていたかった。
     気まぐれに見つけて入った小さなバーで、ソルと色々な話をした。ケインがダーツを得意にしていたこと、今日のパーティーでダーツの得点トップだったバリィとどっちが上手だろうかという予想、互いの故郷のことや、今の仕事の進み具合まで。
     当たり障りのない会話はそっとブラッドの内心を覆って、ブラッドにも中身を分からなくしていく。それでいい、そのまま忘れてしまえばいい、ブラッドはそう思いながら、思い出の中で相棒の面影を追った。
     恨みも憎しみも、忘れてしまえるならそのほうがいいに決まっている。今日のパーティーも我慢できた、だから、きっと明日もその次も、ずっと我慢していけるはずなのだ。
     表皮カバーに覆われた義手の手のひらの中で、二つのペンダントが擦れてちりりと鳴る。ブラッドはベッドの上で体を丸め、じっと眠気が来るのを待った。義手もカバーもつけたまま、幻肢痛が来ないことを祈りながら。


     ブラッドの幻肢痛は、同時に怒りも憎しみも呼び覚ます。反面、痛みさえなければ、それらはどうやら忘れていられるようだった。ブラッドは、その後もごく静かに日常をやり過ごした。
     アレックスに仕事を教えたり上達を確かめたりしながら日々の職務をこなし、退勤時には戦闘用の義手を解析課へ預ける代わりに汎用の義手を装着して帰る。仕事中に使う戦闘用の義手は、アルマの調整によってずいぶん身体負荷が軽くなったが、睡眠時にまで義手をつける余裕がないのは以前と変わらない。DAがいない代わりに、ブラッドが自分で汎用義手を使い、料理や掃除をするようになったからだ。だから毎日、寝る前には自分で義手を外し、睡眠薬も飲んでおく。
     そうしないと夜中に痛みで起きてしまうし、今はもう、暗闇で目を覚ましても誰も介助してくれないのだ。常用するには強い薬だと十分承知しているが、ブラッドが自分一人で自分の面倒を見るには、そうするほかなかった。
     それなら、と新たな家事・介助アンドロイドも勧める者もいたが、ブラッドが一度断ると、それ以上勧める者はいなかった。ブラッドは、DAのいない家には一人でいたかったし、周囲もまた、ブラッドの経緯のことを思うと、さほど強くは言えなかった。
     そうやってブラッドが淡々と過ごしていても、街にはしばしば諍いが起きる。アレックスの研修が始まってから数ヶ月、今日もまた、人間とアンドロイドのいざこざを仲裁したり行方不明のアンドロイドを捜索したりとアレックスもろとも街を駆けずり回っていたブラッドは、休む間もなく今度は本部の総務課へ呼び出された。
     研修生のアレックスを連れ、身に覚えのない呼び出しに首を傾げながらブラッドが本部棟まで戻ると、そこでは総務課の窓口職員と、青年と言うにはまだ少し幼い、けれども子どもと評するにはあまりに険しい眼差しをした少年がブラッドを待っていた。


     その少年は、彼もまたここに着いたばかりなのだろう、鼻と頬が冬の冷たい外気で赤くなっていて、そのあどけなさと険しい表情とがなんだか相反してちぐはぐな印象だった。彼は、K.G.D本部棟のエントランスでブラッドの姿を見つけると、隣の職員に頷いて見せる。
    「あの人だ。呼んでくれてありがとう」
     どうやら、少年のほうはブラッドを知っているらしい。ブラッドが職員と少年に近づくと、職員が小さく耳打ちしてくる。
    「イーサン逮捕のときの、貴方の演説を聞いて来たそうですが……」
     それで得心したブラッドは、ああと頷いてから職員に尋ねた。
    「二階のジム、人払いってできるか」
    「確認してきます」
     そう言って職員が二階へ向かい、ブラッドは少年を見て行った。
    「オレがいくらでも相手になる、って言ったもんな。それで来たんだろ?」
    「そうだ。……俺は、やり返さなきゃ気が済まない」
     少年の体の横で、小さな、しかし細かい傷だらけの拳が強く握られる。それを見たブラッドが目を細めていると、ジムの人払いを終えた職員が戻ってきて、ブラッドは少年を連れてジムへ向かう。そして、その二人には当然のようにアレックスもついてきた。
     ファルと名乗った少年は、人払いされたジムでブラッドが勧めた訓練用のグローブを断り、素手を握ってブラッドを見据える。ブラッドもまたその視線を受け、ジムの床に書いてある白線のコートに合わせて一歩前に出た。
     しかし、その隣にアレックスも歩み出る。
    「……んだよ」
     邪魔だとばかりにブラッドはアレックスを横目で睨んだが、当のアレックスは涼しい顔でファルとブラッドを見比べ、淡々と言った。
    「相手は人間の少年だろう。殴りたいのは、人間ではなくアンドロイドのほうではないのか。……ファルとやら、殴る相手は選べるが、どちらにする」
    「何勝手に進めてやがる、あれはオレの言葉で、オレの責任だ。お前には関係な……」
     拙いながらも拳を構えるファルに向け、アレックスが自分とブラッドとを交互に指差してみせる。しかし、発端である演説をしたのはブラッドで、アレックスは無関係だ。ブラッドは眉を寄せてアレックスの手を払いのけたが、ブラッドがアレックスを下がらせるよりも早く、当のファルが口を開いた。
    「……アンドロイド」
     その少年の声は静かだが、双眸はブラッドを前にしていたときよりも轟々と燃え、ブラッドにも覚えのある温度と質感でアレックスを射抜いている。アレックスが黙ったままブラッドに視線を寄越してきて、ブラッドは、そらみろ、と言わんばかりのその視線を遮るように義手でガシガシと頭を掻いた。
    「ったく……。……ファル、アンドロイドを殴るつもりなら保護グローブは必須だ。取ってくるから待ってろ。アレックスはそれまで殴られるな」
    「承知した」
    「いらない。この手でやらなきゃ意味なんてない」
     アレックスは素直に頷いたものの、ファルに反発されてブラッドはまた頭を掻く。アンドロイドは機械、要するに鉄の塊だ。それに比べれば、生身の人間の手はあまりに脆い。ブラッドだって、両腕が生身だった頃はガジェットを使って強化していた。
     それでも、ファルの目の中の炎には迷いがない。ブラッドはじっとファルを見て忠告した。
    「手ェ痛めるぞ」
    「それでもいい。生きてれば治るし」
    「……一発殴ったら終わりにしろよ」
    「分かった」
     ブラッドはそこまで譲歩して、それからコートの外に出て小さく息をついた。ファルがあの日の演説を頼りにここまでやってきたのは、何らかのけじめをつけに来た、気持ちを切り替えるために来た、おそらくそんなところだろう。素手にこだわるのもその一環だろうか。そう思うと、あまり強くは止められない。それにファルの言う通り、生きてさえいればいずれは治るだろうし、拳で生計を立てるような職業でもないなら、一発殴るくらいはさほど問題視しなくてもいいだろう。
     ブラッドが言い訳がましく自分の中でそう結論づけるうちに、コートの中ではファルとアレックスが改めて向かい合っている。ブラッドは、頭の上から一本芯が通っているかのようにまっすぐ立っているアレックスと、そのアレックスに慣れない様子でにじり寄るファルの様子を見守った。
    「…………」
    「…………」
    「…………」
     三者三様の沈黙が流れる。やがて、ファルがその沈黙を破った。
    「ああ、くそ、腹立つなあ、台ないのかよ台!」
     小柄なファルと長身のアレックスとでは、頭一つぶんかそれ以上の身長差がある。確かにやりにくいだろうが、殴り合いに台を使う発想がなかったブラッドは慌ててジム内を見回した。しかし、ブラッドが手頃なものを見つけるより先に、アレックスがジムの隅に置いてあったストレッチ用の踏み台を持ってきてファルに差し出す。
    「……………………」
     ファルは渋い顔でアレックスと彼に差し出された台を見比べ、数秒そうしてからようやく台を受け取った。コートの中、自分の足元に台を置いたファルは、台に上がってからアレックスを見上げる。ファルの背丈では台を使ってもまだアレックスと目線が揃わないが、それでもずいぶん近くなった。
     コートの外からブラッドが見ている先で、台の上からアレックスを見上げるファルが右拳を腰に溜め、一呼吸おいてからアレックスの頬まで突き上げる。がぃん、と重い金属音が少しだけ反響し、殴られたアレックスの顔が拳の勢いを受けて横を向いた。
     アレックスはそこで静止したまま、視線だけをファルに向ける。
    「…………」
     ファルもまた、上向きに拳を振り抜いたまま、目元を赤くしてアレックスを睨んでいた。ブラッドが少年に近づき、下りな、と促してやって初めて、ファルの拳が下がる。
     ファルは、赤くなり始めた拳を胸の前まで下ろしてもう一方の手で包み、真っ赤な目をしながら小さく乾いた笑い声をこぼした。
    「……はは」
     台を下り、その場にうずくまったファルは、顔をうつむけてくぐもった声で唸るように言った。
    「やっとアンドロイドに一発入れてやったってのに、こんな惨めなことあるかよ。殴ったって、何も変わらないんだ、こんなの」
     ブラッドとアレックスは一瞬だけ顔を見合わせ、それから、ブラッドは少年のそばに腰を下ろして脚を伸ばした。一方、アレックスは、ファルに使わせていた踏み台を回収して元の場所へ返しに行く。ファルの恨み言は続いた。
    「手は痛いし、手当てしてくれる兄貴はもういないしさ、どうしろって言うんだよ」「俺アンドロイドなんか嫌いだよ」「きっと一生嫌いなままだ」
     その様子はなんだか駄々っ子のようで、本部棟ロビーでの初対面でファルに感じた、あのちぐはぐな印象がようやく少年らしさに収束する。――戦乱と復興の中では、このような行き場のない感情は削ぎ落とすしかなかったのだろう。そして、その感情を削ぎ落とした痕跡が、ファルを少年らしさから遠ざけて印象をちぐはぐにしていた。ブラッドは、矢継ぎ早なファルの言葉を黙って聞きながら、自分がその言葉や感情の受け皿となれていることにほっとする。
     また、ブラッドは、ファルが使った台をジムの隅に戻したアレックスが用具倉庫のドアの奥へ消えるのを見送ってから、ゆっくりファルへ視線を移した。
     その気配を感じたのか、ずっとぐずぐず言っていたファルが少しだけ顔を上げて横目にブラッドを見た。
    「おまえ、それでもいいって言うのかよ」
    「構わねえさ。……、」
     即答した後、しかしブラッドは少し言葉を探して、ジムの天井を見上げながら言葉を組み立ててファルに話した。
    「誰が、何を嫌いでも、憎くてもいい。あんたが、その感情を、衝動を、わざわざオレたちに向けたこと、――道中や隣近所のアンドロイドには向けなかったこと。それだけで十分、戦いを終わらせたばかりのこの世界にとっては、大事な一歩だからよ」
    「…………」
    「ありがとな」
     黙り込んだファルのほうへブラッドが視線を戻すと、ファルはふいと目を背けてジムの床を睨んだ。それきり何秒かの沈黙の後、アレックスが用具倉庫から救急箱を持って戻ってきたので、ブラッドは渋るファルの拳に湿布を貼ってテーピングしてやってから、K.G.D本部棟のエントランスまで少年を見送って元の業務に戻った。


     まだヒリヒリする右手とともに、ファルは一人で家路を辿った。わざわざテーピングしてくれたK.G.D署員の、機械の指先を思い出す。
    『……それ』
     ファルが小さくこぼすと、K.G.D署員はファルの視線を追って義手に目をやり、それから、ファルの拳に貼る湿布へ目を戻して淡々と答えた。
    『昔、テロに遭ったとき無茶して動かなくなったから、機械に替えた』
    『テロって……アンドロイドの?』
     ファルが顔をしかめて訊くと、K.G.D署員は首を横に振った。
    『イーサンの、だ。アンドロイドは、イーサンに利用されていた。あいつらも被害者だ』
    『…………』
     K.G.D署員の機械の指が、ファルの手に湿布を貼ってテープを巻いていく。ファルはそれを目で追いながら声を押し出した。
    『……俺は、そんなふうには割り切れない』
    『それでもいい。実際、昔から人間に反感を持ってるアンドロイドだっているし、全員が全員イーサンの被害者だとはオレも思ってねえ。相手に悪意や敵意があるかどうかは、一機一機、ちゃんと様子を見て、話を聞いて判断しなきゃならねえし、あんたが警戒心を持つのも悪いことじゃねえよ』
     そこでK.G.D署員はテープを巻き終わり、しばらくは無茶すんなよとファルに釘を刺してから救急箱をアンドロイドに返した。ファルは、家路の途中にK.G.D本部でのやりとりを思い返しながら、その署員が警戒心と言い表したものを胸中で掬い上げてみる。
     警戒。そんなもので済ませられるものだろうか。兄を奪われた怨嗟、憤怒、そして悲嘆と恐怖が綯い交ぜになったどす黒い感情は、そんな真っ当な名前に収まっていいのだろうか。あの署員が、ただ『それでもいい』と言いたいがために、真っ当そうな名前を持ち出してきただけではないのか。
     ファルは険しい顔で考え込みながら、K.G.D本部棟のある大通りから小路に入ってしばらく歩き、二つ三つ角を曲がって、都心部のはずれの小さな住宅地まで辿り着いた。先日までの戦いの影響はまだ色濃く残っており、途中途中で崩れた塀や、帰る者がなくなって寂れた家屋などが荒れ放題になっているが、ここで暮らし続けている者や帰ってきた者などが協力し合って生活を続けている。
     ファルの家はこの先だ。ファルの家までもうこの後はまっすぐ、という、帰路の最後の角――よりも一つ手前の角に差し掛かったとき、ファルの耳にジャカジャカと喧しく何か鳴っているのが届いた。
    「…………何?」
     ファルが眉をひそめて角の向こうを見ると、少し先にある瓦礫置き場で、誰かが座り込んでいるのが見えた。無視して通り過ぎ、次の角を曲がってまっすぐ自宅へ帰ってもいいが、その音はどうにも不揃いで耳障りで、放っておくにはファルの心に引っ掛かりすぎる。ファルは足音をひそめて、そろそろと瓦礫置き場のほうへ近づいた。
     近づくにつれて、瓦礫置き場の人影が少年らしい形であること、何か音の鳴るものを抱えていて、それが喧しいのだというのが察せられるようになる。ファルは、瓦礫置き場から少し離れた塀の陰から、じっとそちらを観察した。
     瓦礫置き場に踏み込んでそのまま座り込んだような少年は、路地に背を向けて何かを抱えている。抱えた何かを掻き鳴らしながら、あー、あーと何度か発声していた少年は、ファルがしばらく眺めているうちに両手を天に突き上げてひっくり返った。
    「う~んうまく行かないっす~~!」
     その途端、ファルの背中が冷たくなって、じりりと足が一歩下がる。べしゃ、と瓦礫の上に転がった少年の胸からはコードが生え、抱えていたものと繋がっていた。……と、いうことは。
    「アンドロイドだ……」
     小さく呟いたファルの口元に、白い息がかすかに漂う。けれども、小さくない声で騒いでいる少年からは、寒い冬の屋外にも関わらず白い息が出ていなかった。
     その上、胸からコードの生えた奴が、生身の人間であるはずがない。ごくりと息を呑んだファルは、それきり根が生えたように動けなくなり、そのまま瓦礫置き場とアンドロイドとを凝視した。
     瓦礫置き場のアンドロイドは、抱えていたもの――ボロボロのエレキギターのコードを胸から抜いて、自分だけで少し発声をした。
    「あーあー……自分の声のチューニングなら切替一つで自動なのに……同じ機械でもやっぱり全然違うっすね……」
     アンドロイドは、胸ポケットくらいの位置についている操作キーを何度か自分で押して、そのたびに声色を変えた。そうしながらもアンドロイドは再び起き上がってボロボロのエレキギターを手に取り、何度か弦を爪弾いては、自分の声とギターの音とを合わせようとするかのように操作キーを細かく叩いて声を変える。
    「…………」
     チューニングできてないほうに合わせてどうするんだよ、と、ファルの眉が呆れの形に少し下がる。ギターはもう弾かなくなって久しいが、チューニングくらいはまだできるだろうか。
     ファルは、じり、と片足を動かした。いつの間にか、体はちゃんと動くようになっている。そのまま、特に足音はひそめずにファルは残りの距離を詰め、足音に気づいてアンドロイドが振り向くと言った。
    「……アンドロイドとエレキギターが同じなわけないだろ。それ、チューニングしたいの?」
    「……! そ、そうっす! ここに捨てられてて、可哀相で」
     ファルの言葉に目を輝かせたアンドロイドが、ボロボロのエレキギターを見せる。ファルはそれを受け取って、ギターがぶつからないように十分距離を取ってアンドロイドの横の瓦礫に腰かけると、服のポケットからピックを出してそれぞれの弦を弾いたり、順番にペグを回したりしてギターの様子を確かめた。
     少々古ぼけて汚れてはいるが、弦が切れていたりボディがどうにかなっていたりという明らかな破損はないようだ。もしかしたら、壊れてはいなくとも既に弾く人がいないから、という理由で捨てられたのかもしれない。それなら、確かにアンドロイドの言う通り可哀相だ。
     ファルがそうしてギターをいじっていると、アンドロイドがファルの前へ来て騒ぐ。
    「あのあのあの、オレ、フォーって言うっす! SD‐0412、歌唱型っす。お兄さんギター治せるっすか⁉」
     きゃんきゃん跳ね回る子犬のようなアンドロイドに、ファルは若干気圧されながら頷いた。
    「直すっていうか、たぶん元々壊れてはないし……チューニングさえできれば、ちゃんと弾けると思うよ」
    「よ、よかったー! オレ、楽器演奏のアプリは入ってないんすよぉ」
     安心したようにへにゃりと笑ったアンドロイドは、しかしすぐにパッと立ち上がって言った。
    「チューニング! 合わせる音が要るっすよね、オレそういうの得意な機種っすよ! 何の音出したらいいっすか⁉」
     ピポパポと胸のキーを叩くアンドロイドを見上げ、えーと、とファルはペグを回しながら言った。
    「六弦の音が欲しいんだけど……だからE、かな。楽器のアプリないならドレミで言ったほうがいいか……ミの音、低いやつ」
    「よっしゃー! 任せて!」
     寂れた宅地の瓦礫置き場に、アンドロイドの声とエレキギターの音が生まれて、それが少しずつ揃っていく。ファルは結局、アンドロイドにせがまれるまま、かつて兄から貰ったピックで夕方までギターを弾いた。


     街の復興に一段落ついて、それぞれが自分の心情と向き合い始める頃合いなのか、ファルのような来訪者はその後もしばしばK.G.Dへやってきた。ブラッドとの取っ組み合いや殴り合いを希望する人間、アレックスに一発入れて終わりにする人間、時々アンドロイドもやってきて、アレックスと殴り合ったりブラッドに一発だけ入れたりする。
     そうした来訪者がたまたま続いたある日の夜、シフト終わりのブラッドが解析課へ義手を預けに行くと、対応したソルがぎょっとして顔を引き攣らせた。
    「ブラッド、どうしたんだその顔‼」
    「……や、まあ、ちょっと……」
     腫れた片頬に大きく湿布を貼ったブラッドは、そういえばこの人はイーサン逮捕の瞬間は宇宙にいたから、地上のテレビ放送のことは知らないのだと思い起こした。どこから説明しようかと考えて黙っているうちにソルの顔がどんどん険しくなって、言えないようなことなのかと低い声が押し出される。
     ブラッドはすぐに苦笑して顔の前で手を振った。
    「言えないほどじゃねえっすけど、説明するってなるとちょっと長いですよ」
     それでもいいとソルが言うので、ブラッドは義手を交換した後、本部棟の食堂でラテを飲みながら経緯を語った。イーサンを逮捕するとき、エンドーに頼まれて演説をしたこと、その演説の内容のこと、その後、ファルの件から今日に至るまで、一部の人々がブラッドを頼ってくるようになったこと。
     たまたま今日はその相手が多かったのだとブラッドは苦笑し、頬の内側の傷に触れないようストローでラテを啜った。静かに話を聞いていたソルは、心配そうな、しかし険しい顔で言う。
    「経緯は把握したよ。でも……ブラッドが、そこまですることないんじゃないか。自分の気持ちに整理をつける方法は、他にもたくさんあるはずだ」
     その通りだと、ブラッドも分かっている。しかし、ブラッドは小さく口の端を上げて笑った。
    「それでも……自分で、自分の気持ちに整理をつけるだけじゃ、一人ぼっちのままじゃねえか」
     コーヒーカップを持ち上げたソルが瞬きをする。ブラッドは続けた。
    「……誰も彼もが、相手を許せるわけじゃねえ。許せねえ怒りを必死で飲み込んで、息を殺して歯ぁ食い縛って黙って平和を支えてる、そういうやつらが、……苦しくても、他の誰にも理解されなくても、少なくとも『間違い』なんかじゃねえんだって、誰かが言ってやらねえと、報われねえじゃねえか、なあ」
    「…………」
     ソルはぎゅっと目を細めたが、返答はない。ブラッドは、残っていたラテを黙って飲み干した。
     互いを許し合うべきだという世論は優しくあたたかで、そして抗い難い。許せないことや忘れられないことを悪とすべきではないが、そうした人々の居場所はどうしても狭く、息はしづらくなる。その苦しみを見落としたくない、とブラッドは思う。ただ、ソルには心配をかけてしまうことをブラッドは詫びた。
    「ソルさんには、心配かけてすまねえけど……でも、これがずっと続くわけでもねえと思うから、もうちょっと見守っててくれねえか。今はまだ、収まりがつかないような連中も……そのうち、どこか収まるところが見つかったら、オレのところに来る必要はなくなるだろうからよ。世の中が、本当に平和なら……そんな日も、たいして遠くないはずだろ」
    「それは……」
     ソルは何か言いかけて、しかしそのまま何か言葉を飲み込んだ。うーん、と考え込むソルをブラッドが眺めていると、ソルはしばらくして口を開いた。
    「ブラッドの、やりたいこととかは、なんとなく分かるけど……。無理や無茶は、しないでくれよ。……ブラッドまでいなくなるのは、俺は嫌だぜ」
    「……」
     ブラッドは何度か瞬きをして、それからじわじわと相好を崩し、うす、と小さく頷いた。


     その後、まだ解析課で仕事があるソルと別れてまっすぐ帰宅したブラッドは、買って帰ったパンと作り置きの簡単な料理で夕飯を済ませた。DAが冷凍に残してくれた料理はとっくに食べ切ってしまったが、それからもブラッドは、外食や市販の惣菜に頼りきりにならない程度に、また、故郷にいた頃――自分の腕があった頃にはいくらか料理もしていたことを思い出すように、生活用の義手でしばしば料理に取り組んでいた。
     その夕飯を済ませた後、シャワーを浴びて寝室に戻ったブラッドは、ベッド脇に置いたミネラルウォーターで睡眠薬を喉奥へ流し込んだ。それから、ベッドサイドに設置した円筒型の義手ケースに腕を突っ込み、ケース内のパネルを指先で操作して義手を外す。外した義手はケース内で軽いメンテを施され、翌朝起きてからはケースに肩を押しつければ義手の装着が可能だ。
     左右両方の義手を外したブラッドは、ベッドに潜り込もうとしてふと、サイドテーブルの隅に薄く埃が積もっていることに気がついた。出退勤ごとに義手を付け替えたり、毎日のように睡眠薬を飲む生活にはだいぶん慣れたが、なかなか掃除まで手が回っていない。次の休みには掃除をするか、と思いながらブラッドは寝室を見渡して、それから、ベッド脇に伏せた写真立てとその隣のアクセサリートレーにも、同じようにうっすら埃が積もっていると気づく。
     長い間触れていないのなら、自然なことだ。だが、ブラッドはこのアクセサリートレーに埃が積もっているのを、K.G.Dへの移籍とともにこちらへ越してきて初めて見た。
    「…………あいつ」
     ブラッドは、アクセサリートレーを見ながら泣き笑いのように顔を歪めた。義手ではうまく扱えなくて、今はもうほとんど身につけなくなってしまったけれども、自分と相棒の大切なものだ。偽者には一切触れさせたくなくて、最初に盾のペンダントに触れた奴をその日のうちにスクラップに変えて以来、次々入れ替わるアンドロイドはどれもペンダントには触れなかった。
     少なくとも、ブラッドの前ではそのはずだった。けれども、一度も埃が積もっていなかったということは、ブラッドが不在の間にでも彼が掃除していたのは明白で。
     彼がいたころにはまるで気づいていなかった自分の滑稽さと、それでも黙って掃除を欠かさなかったDAの心遣いが今になって身に染みて、ブラッドはベッドの中で体を丸めた。
     背中を撫でるアンドロイドの手の感触は、いつの間にか随分とおぼろげな記憶になっていた。


     ブラッドとダークは、自警団の同期ではあるが、自警団に来る前に都市警で働いていたダークのほうが経験は随分と上だった。それに、アンドロイドのダークは人間と違い、マニュアルデータを読み込んでプログラムを調整すれば、報告書など事務系の業務は一気に覚えられる。だから、加入時期の上では同期と言いつつも、ブラッドはしょっちゅうダークに仕事を教えてもらっていた。
     そのせいかどうか、隣に長身が立っているのは懐かしい気もするが、その長身に自分が何かを教えるのはどうにも慣れない。そのうち慣れるかと思っていたが、アレックスも高性能アンドロイドだけあって一度教えたことはすぐに覚えてしまうので、慣れる前に大方のことは教え終わってしまった。
     それでも、時々初めての業務が割り振られるので、ブラッドはそのたび研修官としてアレックスに指導をした。自分が研修生だった頃にどう教わったか思い出しながら、どうにかこなせた、と思う。
     そうして月日が経ち、年度が替わってしばらく――つまり、一年間の研修も折り返し地点を過ぎてアレックスの捜査官ぶりも板についてきた頃――ブラッドとアレックスは捜査任務として、西北の山間部を抜けた向こうにある地方都市へと向かっていた。


     西北、初夏の新緑が萌える山々に囲まれた地方都市のオフィスで、青年は時計を見上げて席を立った。立ち上がると長身であることが分かるが、ゆるく動きのついた軽やかな色の髪や、おっとりとした垂れ目のおかげで威圧感はない。ソーシャルワーカーとしてこの町で働く彼は、名前をウィンという。
     ウィンは、オフィスで向かいの席に座っている後輩にも声をかける。
    「マットくん、今の作業、もう終わりそう? K.G.Dの人たちがそろそろ着く時間だから、それが終わったら応接室に移動しようか」
    「……はい、大丈夫です。すぐ終わります」
     顔を上げた後輩――マットは、今年度から入ってきた新人だ。ウィンはその教育係をしている。ウィンは、緊張からか難しい顔で席を立ったマットを連れ、K.G.Dからの捜査官を迎えるためオフィスルームを出て応接室へ向かった。


     K.G.Dには、ウィンから情報提供をした。ふらりと町に現れた記憶喪失のアンドロイドのことを、町の人々はすぐにウィンへ紹介してくれた。ソーシャルワーカーとして信頼されている証だと思いながらも、そのアンドロイドの姿を見たウィンの心は複雑で、K.G.Dへ情報提供をするまでに少し時間がかかってしまった。ウィンは、K.G.Dからやってきた二人の捜査官を町はずれの広場へ案内する。
     そこは、最初から広場だった場所が整備されずに散らかっているのか、それとも元は広場ではなかった場所をどうにか片付けて広場にしたのか、今や判別はつきづらい。周囲の町並みは、半壊または全壊した建造物の残骸の合間に仮設住宅がぽつぽつと建った、いかにも復興途中という様相で、この町もまたテロや戦いの舞台になっていたことを如実に表している。
     しかし、そこには確かに人々の営みがあった。まだまだ瓦礫の残る広場ながら、露店、屋台、簡素だが賑わいのある店構えがあり、仕事があり、小規模ながらも経済が回っている。
     捜査官の片方、小柄で赤毛の、ブラッドという捜査官が広場の様子をじっと見ていたので、ウィンは簡単に説明をした。
    「自治体の重機の順番待ちをしているので、建物の復旧はまだ先になりますが……皆さん、逞しく過ごしておいでです。それから……あそこにいるのが、ウィルさんですね。名前が分からないということなので、オレたちでそう呼んでいます」
     そう言ってウィンが示した先には、工具を持った赤毛の男が、木箱に座ってアンドロイドを修理していた。隣に座っているアンドロイドの片腕が取れてしまったたらしく、工具の男が取れた腕をいじって装着面のパーツを組み直している。その手元を覗き込んでいる少女は、工具の男――ウィルが師事することになった整備士の一人娘だ。
     ウィンは言った。
    「ちょうど、整備士の女性が求人を出していたので、仕事としてウィルさんに紹介しました。アンドロイドの修理は、重たいアンドロイドをあちこち動かして具合を見たりしますからね。同じアンドロイドの腕力があれば、彼女の仕事もずいぶん楽になるでしょう。力仕事だけじゃなく、整備の仕事も教わっているようですよ」
    「そうか……」
     赤毛の捜査官は、じっと目を細めてその場からウィルのほうを見つめた。ウィンもまた、その捜査官を見て目を細める。
     アンドロイド革命軍を率いていたケインは、元はK.G.D捜査官だった。そのケインと同一人物かもしれないウィルの捜査をしに来た彼は、K.G.Dで何かケインと関わりがあったのだろうか。
     赤毛の捜査官に何か声をかけようかと思ったウィンだったが、かといってどう聞き出したものかと言葉を探しているうちに、赤毛の捜査官は隣にいた長身の捜査官と何事か話して、ウィルの仕事の合間を見つけて彼に声をかけに行く。雇い主である整備士には既にウィンから話を通してあるので、二人の捜査官は整備士の仕事の邪魔にならないよう、ウィルと連れ立って少し離れた場所に移動した。
     ウィルに懐いている様子の少女が、母である整備士に問いかける声が聞こえる。
    「ウィルおいちゃん、どうしたのー?」 
    「お巡りさんが、ウィルさんのことを調べに来てくれたんだよ。もしかしたら、これでおいちゃんの本当の名前とか、住んでた場所とかが分かるかもしれないねぇ……」
     穏やかな母子の会話だが、ずっとウィンの横に黙って控えていたマットは、ぐっと眉尻を吊り上げて怖い顔をした。ウィンは横目でその後輩の様子を見て、内心で小さくため息をつく。
     そうしているうちに捜査官二人が戻ってきて、ウィンが彼らに声をかけるより先に、マットが半ば噛みつくように口を開いた。
    「ケインですよね」
    「マットくん」
     ウィンは穏やかに諫めるが、マットは引き下がらずに続けた。
    「あいつがケインじゃなかったら、他の誰だって言うんですか」
    「ウィルさんが何者だとしても、捜査官さんたちがオレたちに漏らすわけないでしょ。……とはいえ、何か手掛かりは掴めそうですか? これから本部で検証なのでしょうか。ケインであろうとなかろうと、ウィルさんの素性は、分かるならそのほうがいいんですが……」
     ウィンが捜査官たちを振り向くと、赤毛の捜査官は、何度か言葉を探すように目を泳がせた。その傍らで、赤毛の捜査官よりも、さらにはウィンよりも背が高いほうの捜査官が淡々と口を開く。
    「ウィル機の記憶データをスキャンした。スキャン結果は、本部での検証・解析の後、ウィン氏宛に送信する。どうか、ウィル機の今後のサポートに役立ててほしい」
    「……承知しました。責任を持って、対応します」
     ウィンは、ゆったりと目を細めて微笑んだ。目を泳がせた赤毛の捜査官のほうが、ケインとは関わりが深いのだろうか? だが、それが良い関係だったのか悪い関係だったのかは分からない。それなら、感情の揺れ幅の小さそうなほうに尋ねたほうが安全か。
     ウィルや彼がいた広場の他にも、町の様子を見て回りたいという捜査官たちと一緒に遠回りでオフィスへ戻る道すがら、ウィンはさりげなく長身の捜査官に尋ねた。
    「あなた方は、ケインとは面識があったんですか? ウィルさんを見れば、ケインかどうか分かるくらい?」
     にこにこ笑って尋ねたウィンに、長身の捜査官は感情の読めない視線を向ける。それから、マットに道案内されながら少し前を歩く赤毛の捜査官を見て彼は言った。
    「……俺は、あまり。ただ、あいつは……かつて、K.G.D時代のケインの部下だった。それこそ、顔を見れば分かるつもりで、この捜査に臨んだのかもしれない。……あるいは、相手にも分かってもらえるつもりでいたか。ウィルにまるきり初対面の反応をされて、少々動揺しているようだ。曖昧な態度を取ってすまなかった」
    「いえ、それは大丈夫ですよ。スキャン結果の通達については、あなたから返答が貰えましたし。……そうですか、K.G.D時代の……」
     ウィンは、マットの隣を歩く赤毛の捜査官の背を見て、そっと目を細めた。勤務中は携帯している業務用端末とは別に、私物のタブレット端末も入れたトートバッグの肩紐を握りながら。


     しばらく町を見回っていたウィンとマット、それから二人の捜査官は、やがてウィンが常駐しているオフィス棟へと戻った。捜査官を応接室に待たせ、マットに飲み物の準備を任せているうちに資料を取って戻ってきたウィンは、カップをトレーに乗せたマットを通常業務へ戻らせる。
    「あとは資料の受け渡しだけだから、マットくんは先に帰って大丈夫だよ。すぐ終わるから、課長に報告をしておいてくれる?」
    「……? いいですけど……。それじゃあ、先に報告して、デスクで待ってますね」
     少し首を傾げたマットだったが、それだけで素直に踵を返した。そのマットをしばらく見送ったウィンは、一人で飲み物のトレーを持って応接室へ向かう。
     センサードアを抜け、捜査官二人と自分の前にも紅茶のカップを置いたウィンは、捜査官に資料のファイルを差し出して微笑んだ。
    「こちらが、これまでのウィルさんの記録です。町の人に保護され、オレたちソーシャルワーカーが支援し、今の仕事に就くまで。オレたちの仕事の記録なので、捜査のお役に立つかは分かりませんが……」
     ファイルを受け取った赤毛の捜査官が口を開く。しかし、彼が言葉を紡ぐより先に、ウィンは私物のタブレット端末をテーブルに置いた。
    「それと、もう一つ見てもらいたいデータがあります」
     ウィンがタブレット端末を操作して画面を表示させると、口を開きかけていた赤毛の捜査官は、大きく息を呑んでその画面を見つめた。


     二人のK.G.D捜査官が、ウィルのスキャンデータと各種資料を持って本部へ帰還してからというもの、マットの機嫌はすこぶる悪かった。仕事中は決してそれを出さないものの、ふとした瞬間に表情が険しくなる。ウィンは、もう三日は連続でそんな様子の後輩を見て、内心でうーんと考え込んだ。そして、定時も近づいた小休憩に、思い切って声をかけてみる。
    「……マットくんは、さ。ウィルさんが、ケインだったほうが良かった?」
    「…………」
     液晶画面から顔を上げたマットは、ウィンの内心を探るように眉をひそめた。
    「だったほうが、というより、十中八九、ケインでしょう。俺は、ケインが行方不明扱いのまま放置されてるのが嫌なんですよ。あれだけのことをやっておいて、罪がうやむやになるのが許せない。……記憶がないからとか、そんな理由で許せやしませんよ、俺は」
    「そう……そうだね。その気持ちも、分かるよ」
     ウィンは歯切れ悪く頷き、デスクの隅に置いてある写真立てを見た。そこには、ウィンと両親、兄弟の家族写真が飾られている。ウィンの視線の先を追ったマットは、数秒迷ってから声を押し出した。
    「逆に、どうして先輩は、そんなにウィルさんに親身になれるんですか。あいつはケインなんですよ。……先輩だって……ご家族のことが、あるじゃないですか。憎いと思わないんですか」
    「オレは……」
     ウィンは言いさして、じっと写真を見つめた。暴走アンドロイドに襲われた弟のことは、常にウィンの胸の中にある。その暴走の原因であるウィルスが、ケインによってばら撒かれたことも。
     だから、マットの言うようなケインを許せない気持ちは、ウィンにも身に覚えのあるものだ。けれども、ウィンにとってそれは、既に過ぎ去ってしまった感情だった。
    「……オレは、ケインのことは、あまり気にならないかな」
    「どうしてです⁉」
     ウィンの向かいの席で、マットが椅子を蹴立てて立ち上がり、声を荒らげる。ウィンは、デスクに置いていた缶コーヒーを開けて唇を湿してから答えた。
    「……ケインもまた、造られた存在だと思うから。なんていうか……こうして、人々の恨みや怒りを煽るためにイーサンが設計した、作り物の人格だったんじゃないかな。だから、作り物(ケイン)のことは気にならないし、ウィルさんはその犠牲者じゃないかと思ってる」
    「そんなの……何を、根拠に」
     マットの声がかすかに震える。まだ幼さの残る彼もまた、暴走アンドロイドによって大切なものを失った。それを知っているウィンは、思い出してしまった痛みを堪えるような表情でデスクからマットを見上げた。
    「……本当に知りたい? もし、今みたいにまっすぐ怒れなくなってもいいのなら、オレのアルバムを見せてあげる」


     定時後、休憩室のテーブルにマットを呼んだウィンは、私物のタブレットを操作して自身の幼い頃のアルバムを表示し、マットの前に置いた。
     そこには、実り豊かな果樹園の木漏れ日の下で肩を組んで笑う、二人の少年が映っている。その片方にはウィンの面影があるが、その隣に映るもう一人の少年を見て、マットはいつかの捜査官と同じように息を呑んだ。
    「……これ……」
    「似てるでしょ。昔、オレの祖父母の家の近くには大きな果樹園があってね。小さいオレと一緒に映ってるのは、その果樹園の息子さんだよ。ウィリアムくんって言って、子どもの頃はよく遊んでもらったんだ。……オレも、弟もね」
     ウィンが指先で示した、そのウィリアムという少年は、元気に跳ねた赤毛と大きく輝く瞳が特徴的な、見るだけで分かる腕白坊主という様相だ。しかし、その隣のはにかんだ少年にウィンの面影があるのと同じように、そこには確かに、――ウィルの、そしてケインの面影があった。
     愕然と画面を凝視するマットの前で、ウィンは静かに続ける。
    「――ウィリアムくんは、その写真より大きくなってからもずっと、頼れるお兄さんだった。だけど、オレより先に大人になって、都会に出てしまってからは、ウィリアムくんは果樹園のご両親とも音信不通だったんだ。……その頃、『ケイン』に改造されたのかもしれないって思うと、……オレは、もう、誰を憎んだらいいのか分からないんだよ。弟が目覚めないのは、元を辿ればケインのせいなのにね」
     ウィンは小さく苦笑して、タブレットをマットに預けたまま休憩室の自販機コーナーへ向かった。そして、夏を目前にして冷たいものが増え始めた自販機から、温かいほうのコーヒーとココアの缶を一つずつ購入する。その缶を取り上げたウィンは、マットと同じように言葉を失っていた、先日の捜査官のことを思い出す。
     ウィンのタブレットでしばらく画像を見つめていた捜査官は、やがてかすかに声を絞り出して項垂(うなだ)れた。
    『……『ケインさん』ですら、なかったのか、貴方は……』
     赤毛の捜査官がそれきり黙り込む一方で、その隣の捜査官が冷静に問うてくる。
    『その、果樹園のご家族は? ウィル機には生体パーツも多い。DNA鑑定が叶えば、ケインではなくとも『ウィリアムである』という確証は得られるかもしれない』
    『ウィリアムくんのご両親は健在ですので、オレもそれは考えました。しかし……現在のウィルさんは、自身をアンドロイドだと認識しておいでです。そんな方に、貴方は元々人間だった……と、安易に告げていいものでしょうか。ご両親にも、息子さんが記憶を失ってアンドロイドになった……とは、とても……』
    『…………。なるほど……』
     結局は同様に黙り込んだ二人の捜査官の前で、ウィンはぽつりとこぼした。
    『もしも、叶うなら……。ウィルさんの素性が分かって、それがケインでもウィリアムくんでもなければいい、と、思っています。誰とも無関係な別人であれば、オレがウィルさんを恨む理由も、悲しむ理由もありませんし……何より、ウィリアムくんが重荷を背負わなくて済む。……なんて、捜査官の人たちには、こんなこと言うべきじゃなかったですよね。事実を突き止めるのがお仕事なのに、すみません』
     苦笑して顔の前で手を振ったウィンに、赤毛の捜査官はゆっくり首を横に振って見せた。
    『いえ。……ウィルさん、に、親身になってくれる人がいてよかったです。オレたち捜査官には、なかなかできないことですから』
     それから、赤毛の捜査官はタブレット端末をウィンに返し、一言一言ゆっくり選ぶようにしながら言った。
    『たぶん、ですけど……オレの知ってるケインさんと、貴方の知ってるウィリアムさん、は、よく似ている……気がします。……オレも、貴方とウィリアムさんのように、ケインさんを慕っていたから。だから……もう苦しんでほしくない、重荷を背負ってほしくない、と、思うのも……たぶん、一緒です。オレも、ソルさん……今日は一緒に来てないけど、オレの先輩も。それで、その……同じように思う人、が、あの人のそばにいて、よかったです。安心しました』
     捜査官の無骨な義手が、かりかりと赤い生え際の端を掻く。
    『……オレこそ、捜査官としては、あんまり肩入れするようなことは言ったら駄目なんでしょうけど……。でも、貴方が……貴方だけが、そういうふうに思ってるんじゃないってことは、言っておきたくて。
     ……世の中、さっきの後輩さんみたいな剣幕の人のほうが、多いだろうけど……そんな中で、ウィルさんのこと、支援と情報提供、ありがとうございました。会えてよかったです。貴方にも、ウィルさんにも。
     ……ウィリアムさんのことも、知れてよかった』
     そう言って実直に頭を下げた捜査官の青年は、角砂糖を入れた紅茶を隣の捜査官の分も飲んで退室して行った。長身の捜査官がアンドロイドなのは分かっていたが、かといって赤毛の捜査官だけにお茶を出すのも変な絵面だ。お茶を出したはいいもののどうしようかと思いながらウィンが見ていると、赤毛の捜査官が話しているうちに長身の捜査官が自分のカップに角砂糖を溶いて赤毛の捜査官のカップと交換、またそちらにも角砂糖を溶いて、赤毛の捜査官が一杯飲み終わったタイミングで空のカップと角砂糖を溶いたカップを交換していた。赤毛の捜査官は飲んだはずの紅茶が復活していたので一瞬目を丸くしていたが、代わりに隣のカップが空になっていたのを見て察したのか、そのまま二杯目を飲んでいた。
     面白いコンビだったな、と思い出して口角を上げたウィンは、マットのいるテーブルに戻って彼にココアの缶を差し出す。
     視界にウィンの手と缶の影が差して顔を上げたマットに、ウィンは笑いかけてみせた。
    「……さっき、オレはケインのことを、『気にならない』って言ったけど……。あれは、正確じゃなかったね。『気になるけど、気にしないようにしてる』。こっちのほうが正確だと思う。オレにとっては、弟と……ウィリアムくんのほうが大事なんだから、ケインのことは気にするなって、自分に言い聞かせてる。だから……マットくんの気持ちも、分からないわけじゃないんだ。オレも、ウィルさんが発見されたときには、動揺したものだよ」
     そう言ってマットの向かいに座り直したウィンは、缶コーヒーのプルタブを上げてコーヒーを口に流し込んだ。ウィルが発見されたのは、晩冬のまだ寒い頃だ。新人としてマットが配属されるより前、雪融けが始まるよりも前。雪が融けてマットが配属される頃には、ウィルもいくらか陽気に身綺麗になって印象が変わっていたが、配属されたばかりのマットには、教育係の先輩であるウィンがあのケインの支援をしているように見えて、さぞかし落ち着かない心持ちだったのではないか。
     その後輩のケアをなかなかできないまま今日に至ってしまったのは、先輩としてのウィンの落ち度だ。少なくとも、ウィン自身はそう思っている。ソーシャルワーカーとして、ウィルとケインに対する自分の気持ちを御するのに精一杯で、先輩としての業務を疎かにしてしまった。しかし、ずっと一人で秘めていたウィリアムのことを捜査官に明かした今、ようやくマットとも向き合う余裕ができた気がする。
     ウィンが静かにコーヒーを飲んでいると、受け取ったココアの缶を開けもしないまま見つめていたマットが、ぽつりと口を開いた。
    「……あいつに人生めちゃくちゃにされた人は、どうすればいいんですか。俺は、ケインともウィリアムさんとも、同情できるような繋がりなんてない。先輩は、ウィリアムさんのほうが大事だって思えたからそれでいいんでしょうけど、俺は、俺はケインよりもウィリアムさんよりもシトラスのほうが大事だったし、今も、先輩の話を聞いても、あいつを許せるわけじゃない」
     うん、とウィンは一つ頷いた。シトラスとは、マットが愛用していた歌唱アンドロイドだと聞いている。マットが趣味で作曲したものにそのシトラスが歌唱をつけたという音楽を聴かせてもらったことがあるが、独特の揺らぎとかすれのある、一度聴いたら忘れられない声をしていた。そして、きっとその声だけでなく、自分の趣味を一緒に楽しんでくれたシトラスという個体そのものが、マットにとってかけがえのない存在だったのだろう。
     それでもウィンは、業務中のマットの姿勢を評価している。ウィンはウィルの担当で、そしてマットの教育係もウィンだから、二人で一緒にウィルと顔を合わせる機会はたくさんある。その中で、初対面のときこそ少々ぎこちなかったものの、マットはけしてウィルに不自然な態度を取らなかった。捜査官とウィルの対面が終わったときの、噛みつくような剣幕が珍しかったくらいだ。
     ウィンは、もう一口コーヒーを喉へ流し込んでから、ゆっくりと答えた。
    「その『あいつ』はもういない、……死んじゃったんだ、って、思うのがいいんじゃないかな。だって、覚えてない人を責めたって、反省も何もしてくれないじゃない? ……あるいは、ウィルさんなら、事情を知ったら誠心誠意ケインの贖罪に努めてくれるかもしれないけど。……それは、『ケイン』が反省したことにはならないでしょう。オレやマットくんの溜飲が下がるとは思えないよ」
    「…………」
    「溜飲が下がったところで、弟が戻ってくるわけでもないしね。……オレたちは、先へ進むことしかできないから」
     それきり、ウィンは缶コーヒーを空にして、一度席を立つと空き缶を休憩室のダストボックスに入れた。席まで戻ってきたウィンは、マットがまだココアの缶を開けていないのを見て、帰ろうか、と声をかける。開けていたら飲み終わるまで待とうかと思ったが、開けていないのなら、そのまま鞄に入れて持って帰ってしまったほうがいいだろう。はい、と小さく返事をしたマットを連れて、ウィンはテーブルとチェアを片付けるとオフィスを出て帰路についた。


     オフィスからの帰路の途中でウィンと別れたマットは、自室のパソコンの前でヘッドホンをつけて画面を見つめた。ヘッドホンから流れてくる音楽には、まだ歌唱は乗っていない。マットは、ぬるくなったココアの缶を通勤鞄から出してデスクの脇に置くと、いくつかキーボードを叩いて作曲ソフトに音階を打ち込んだ。
     シトラスが革命軍のウィルスで暴走する前から作っていたこの曲は、イーサンが逮捕されケインが行方不明になってから半年以上経過した今になってもまだ、曲の続きを打ち込んでは消し打ち込んでは消しして一向に完成しない。案の定、たった今打ち込んだメロディもなんだか浮いているような気がして、結局は全部消してしまう。
     無音になったヘッドホンを頭につけたまま、マットは交差点での別れ際のウィンの言葉を思い返した。
    『どうしても、ウィルさんの外見から色々思い出してしまって苦しい……ってことなら、配置換えをしてもらおうか。別の人と組めば、少なくともウィルさんとの接触は減らせるよ』
    「…………」
     それでいいのだろうか。マットは画面を睨みながら自分に問いかける。ケインは憎い。しかしウィルとケインは違うのかもしれない。それに、自分の感情に振り回されて支援を投げ出すような奴は、きっとこの仕事には向いていない。
     K.G.Dからウィルの検証・解析結果がウィンに送られてくるまでには、もう少し時間がかかるらしい。マットは一旦ヘッドホンを外して、すっかりぬるくなったココアの缶をようやく開けた。


     K.G.D捜査官がウィルの記憶データをスキャンし、解析・検証した結果、彼はケインではないと判断された。その連絡を受け取った後のある日の休日、ウィンは西北の山間の町を出て、都市部の総合病院へ来ていた。
     総合病院には、ウィンの弟が長く入院している。弟の転院に伴って、両親も病院の近くに移住した。今は、仕事のあるウィンが山間の町に残り、家族の家を守っている。そして、たまの休日に弟の顔を見に行くのだ。
     大きな一般病棟を素通りし、その奥にある二回りほど小さな病棟で面会の受付を済ませたウィンは、淡々とエレベーターに乗って目的の階を押した。ぐ、とエレベーターの箱ごと自分の体が浮き上がる感覚があって、しばらくしてその階に到達する。
     電子機器や配線が目立つ、病院というよりも何らかの研究所のようなこの病棟には、特に精密な医療機械が数多く格納されており、それらを必要とする患者が入院したり通院したりしている。そんな病棟の一画に、ウィンの弟はいた。
     ウィンは、廊下に面した透明なアクリルガラスの窓に手を添え、その窓から室内を見下ろす。
    「……久しぶり、パティ。お兄ちゃんだよ……」
     窓の外から囁くウィンの声は、室内に届くのかどうかも分からない。窓の向こうでは、大量の機械に囲まれた子ども用のベッドの上に、ミルクティー色の髪をした幼い少年が横たわって眠っていた。この少年こそが、ウィンの弟であるパティだ。
     そして、パティの体と機械を繋ぐたくさんの細いコードは、電極パッドなど器具越しに繋がっているのではなく、検査着の下でパティの体と直接端子で繋がっている。――パティは、延命のため、身体の七割を機械化した。
     しかし、その小さな身体の半分以上を機械に替えてさえも、パティは眠り続けたままだ。損壊した肢体や臓腑を機械で補完し、生命活動のほとんどを機械が肩代わりしても、パティの意識は戻らない。
     奇跡的に脳の損傷は酷くなく、いくらかの治療で回復したと聞く。本当に、あとはパティ自身が目を覚ますだけなのだが、それがなかなか叶わない。ウィンは、窓に添えていた手をぐっと握り締めた。
     ケインがいなければ、イーサンがいなければ。暴走ウィルスを振り撒く者さえいなければ、パティは今も元気にしているはずだったのに。
     拳を握ったウィンがじっとその場で下を向いていると、規則正しい足音がコツコツと近づいてきて、ウィンの少し遠くで止まった。
    「……ウィン君?」
     名前を呼ばれたウィンが顔を上げると、白衣を着た黒髪の医師が眼鏡の奥で瞬きをする。総合病院に勤務していて、パティの手術にも関わったフレイ医師だ。少し前は休職していたらしいが、イーサンの逮捕後しばらくして復帰したと聞く。パティの主治医はロードン医師のほうだが、手術に関わった医師として、フレイもよくパティやウィンたち家族のことを気にかけてくれていた。
     ウィンはふにゃりと笑って口を開いた。
    「ご無沙汰してます、フレイ先生。……パティは、変わりありませんか?」
    「……ああ。状態は安定している。あとは目覚めるのを待つだけだ」
     フレイは、何度も繰り返された質問の答えを今日もまた静かに告げて、ウィンと同じように窓からパティのベッドを見つめた。ウィンはその横顔を一瞬見つめた後、再び窓の向こうのパティへ視線を戻す。
     フレイは、革命軍を指揮する前の――おそらく、あの赤毛の捜査官がよく知っているほうのケインと、わずかながら面識があったらしい。そのケインと、ウィンの知るウィリアムが似ているのだとしたら、この医師は、どのような気持ちでパティをはじめとする革命軍の犠牲者たちを診ているのだろうか。その気持ちは、ウィリアムとケインの両方を知る自分と近いものではないだろうか。
     胸の片隅ではそう考えながら、ウィンはそれを口に出したことはない。今後、口にする機会があるかどうかも分からない。ウィンは、口を噤んだまま、じっと窓から弟を見ていた。


     ウィルのスキャンデータ解析が終わってから数ヶ月後、今度はソルが遠方への調査任務に就くこととなった。キースの識別信号らしき信号がK.G.Dの極北支部に届いたため、ソルが確かめに行くのだ。ウィルのデータ解析にも携わっていたソルは、ちゃんと一仕事終えてから出発できてよかった、と笑った。
     そして、アレックスもちょうどこの秋で研修が終わるということで、ハッピーの働くタオズ・ダイナーではアレックスの歓迎会とソルの送別会を兼ねたパーティーが開かれた。一週間前に行われたそれは、奇しくも一年前の快気祝いと同じメンバーが集っての歓迎会兼送別会だったが、同じメンバーが次に集まれるとしたら果たしていつになるだろうか、と、ハッピーはダイナーの壁にかかった液晶モニターを見上げた。
     画面の向こうでは、『和平会談実現』のテロップとともに、エルが各国の重鎮と並んで微笑んでいる。この一年の間に、エルはアンドロイドと人間だけでなく、国家間の和平にも乗り出した。元々、ロイやキースのような軍用アンドロイドの開発が進んだのは、国家間の戦争で兵器として利用するためだ。ならば、あらゆる戦争をなくしていかなければ、軍用アンドロイドの――兵器や道具として利用される、自由なきアンドロイドの開発は止まらない。ロイたちと約束した、誰も傷つかない世界にするという夢を叶えるために、エルは人間とアンドロイドの垣根に加えて国家間の垣根までもを軽々と飛び越えていったのだ。
     一方で、ロイとノリスは、過去にアンドロイドを煽動して反乱を起こした責任を取り、しばらく刑務所へ行くことになった。これまで、罪を犯したアンドロイドは基本的にスクラップとなっていたが、こうしてアンドロイドが刑務所で刑に服する前例ができたことで、今後のアンドロイド犯罪とその刑罰も、人間と同等の重さに調整されていくだろう。
     アンドロイドの自由を望むロイは服役に反発するかと思いきや、自由と無法は違うのだとその身で世間に示すことには肯定的で、正当な手続きを踏んだ公正な裁判によって裁定された順当な期間を刑務所で過ごすことについては異論がないようだった。ロイに異論がなければノリスももちろん追従するし、そもそも言い渡された服役期間も、K.G.Dが総力を挙げてイーサンの証拠データを暴いたおかげで予想よりずいぶん短くなった。証拠データを暴いたことで、一連の事件のうちどれほどがイーサンの責任でどれほどがロイたちの責任だったかという比重がイーサンに傾くようになったので、ロイやノリスの刑は相対的に軽めとなったのだ。
     かと言って、すぐに終わるほど軽いわけでもない。ロイとノリスが責任を取り終わるまでに世界を平和にするのだというエルも、しばらくは各国を飛び回りっぱなしだろう。ロイとノリス、そしてエルがまた揃ってタオズ・ダイナーに来てくれるのは何年後だろうかと、ハッピーは少し寂しい気持ちで眉尻を下げ、手元に視線を戻してトレーに皿の準備をした。
     ハッピーが二人分のトレーにサラダのカップを置いたところで、カウンターからエマージェンシーコールが鳴る。途端にそのカウンターで食事をしていたK.G.D署員がバタバタと立ち上がり、その中にいたカイがまとめて支払いをした。
    「ハッピー、今日も美味かった! 支払いはこれで頼む!」
    「また今度ゆっくり食べに来てくださいね! いってらっしゃい!」
     カイから食事代を受け取って署員たちの背を見送ったハッピーは、彼らが賑やかに街へ出ていくと、さっき準備をした二つのトレーへ向き直った。それから、片方にカレーライス、片方にオムライスの皿を載せ、ハッピーはカウンター席の端に並んで座る兄弟の前へトレーを並べる。
    「ご注文は以上でお揃いですか?」
    「はーい! ありがとうございます!」
     元気よく返事をした少年はカチューシャで髪を上げていて、にこにことカレーライスのトレーを受け取った。その弟らしいもう一人の少年がオムライスを受け取るのにも手を貸してやった少年は、目を輝かせてトレーの上のスプーンを手にする。
     しかし、そのカレーライスを一口、そして二口三口と食べ進めているうちに、カチューシャの少年はどんどん顔を歪めていく。それでも少年のスプーンは止まらないが、ハッピーは慌てて大きなジョッキにミルクを用意した。
    「すみません、辛かったですか⁉ 無理せず……」
     ハッピーがジョッキを差し出しても、カチューシャの少年はうつむいて首を横に振るだけで受け取ろうとしない。それでも少年の前にミルクのジョッキを置いてハッピーがおろおろしていると、もう片方の少年がカチューシャの少年を覗き込んだ。
    「兄ちゃん? どうしたんだよ、何で泣いてるんだ、兄ちゃん」
     カチューシャの少年より一回り小柄なこちらの少年は、左側の後頭部で一掴み髪を括っており、少年がカレーとミルクと兄を見比べるたびにその髪が小さく揺れる。カチューシャの少年はうつむいたまま、しばらく頬をもぐもぐ動かしていたが、やがて口の中のものを飲み込んで目元を拭った。
    「……おと、……お父さんの味だ……!」
     髪を括った少年が、えっ、と目を瞬かせ、ハッピーもまた、驚いて一瞬フリーズする。ジョッキのミルクを少し飲んだ少年は、カウンターに身を乗り出してハッピーに尋ねた。
    「これ、誰が作ったの⁉ レシピは、スパイスは⁉」
    「つ、作ったのは私ですが……レシピは、私の前のオーナーがカスタマイズしたものです。ええと、お父さん、というのは……」
     答えながら、ハッピーは必死で過去のログを検索した。キースたち高性能アンドロイドに少しでもついていくため、ハッピーは古いデータやアプリの多くを削除し、最低限のデータだけを圧縮して保持している。そのデータの解凍をどうにか進めながら、ハッピーはじっとカチューシャの少年を見つめた。
     前オーナーのレシピ。それを食べて父を思い出す少年。前オーナーの家族だろうか、自分はそのデータを破損せず保てているだろうか。
     データ解凍を終えたハッピーは、半ば茫然としながら人工声帯を震わせた。
    「…………ショーン坊ちゃん?」
     カウンター越しにハッピーを見上げていた少年は、元々大きな目をもっと丸くして瞬きをする。
    「そう、だけど……。じゃあ、もしかしてそっちは、ハッピーって名前だったりする?」
    「はい、はい……! 坊ちゃん、大きくなられて……」
     ハッピーは感激して胸の前で両手を組んだ。ハッピーに様々なレシピをカスタマイズしたオーナーには息子がいて、ハッピーが彼らを最後に見たときはもっと小さく幼かったが、過ぎ去った時間を加味すれば、ちょうど目の前の少年たちくらいの年頃になるはずだった。
     ハッピーは、カチューシャの少年――ショーンの隣の、髪を括った少年にも向き直って目元を緩めた。
    「では、そちらはもしや、ウォルフ坊ちゃん……」
    「……」
     しかし、ウォルフのほうはショーンと違って、眉を寄せてハッピーを睨むと兄の後ろに隠れてしまった。明らかな警戒の様子を見て、ショーンはハッピーと顔を見合わせて苦笑すると片手でウォルフの頭を撫でた。
    「ウォル、大丈夫だよ。昔はうちにもアンドロイドがいたって、聞いたことあるでしょ?」
    「……でも」
     ショーンの後ろから少しだけ顔を出したウォルフは、じとりとハッピーを見据えて小さく言った。
    「オレを、誘拐しようとしたって」
    「……」
     タオズ・ダイナーの一画に、しんと時間の止まったような沈黙が落ちる。しかし、ショーンがすぐにハッピーを振り向いて明るく言った。
    「たまたま、二人で迷子になっちゃっただけだよ。ハッピー、そうだよね?」
    「えっ……」
     ハッピーは驚いて言葉に詰まった。家事サポート用アンドロイドのハッピーは、ちょっとした不具合からオーナーに捨てられた。その不具合というのが、人間で言うところの方向音痴、アンドロイドのハッピーで言うところのルートマップ不具合だった。
     ただ方向音痴なだけだったら、ハッピーが一機で道に迷っていたのだったら、あの優しいオーナーは許してくれたのではないかと今でも思う。だが、その不具合が発覚したとき、ハッピーは幼いウォルフが乗ったベビーカーを押していた。
     まだおむつも取れない幼児を連れて一時行方不明になったハッピーを、オーナーは誘拐だと激しく糾弾して追い出した。そう思われても仕方がない、とハッピーはそのままオーナーの元を去り、その後、キースたちに拾われて今に至る。
     そして、ハッピーが自身のルートマップ機能不具合を知ったのは、オーナーに追い出された後、いくらか古びたハッピーのメンテを試みたキースたちがハッピーの機能チェックをしたときだった。
     ただの機能不具合だった、自分がウォルフを誘拐しようと考えたわけではないのだとハッピーは安堵したが、幼い子どもを連れ去られたオーナーにとっては、それがハッピーの故意だったか機能不具合のためだったかはけして重要ではないだろう。オーナーの不安も怒りも真っ当なものだ、そう思って、ハッピーはキースたちが不具合修復パッチを当ててくれた後も、オーナーの元に戻ろうとはしなかった。
     だが、そのオーナー一家もハッピーのルートマップ不具合のことを知っているのだろうか。だとしたら、いつから知っていたのだろうか。
     言葉に詰まっているハッピーの様子を見て、ショーンがゆっくり付け足した。
    「ハッピーがいなくなった後、メーカーから機能不具合のお詫びが来たんだって。メーカー側の不具合で、ハッピーの他にも、同時期の製品にいくつかルートマップ不具合があったみたい。不具合さえなければって、ママが言ってたよ」
     ふっと笑ったショーンは、今度はウォルフを見下ろして弟の頭を撫で、だからハッピーは怖くないよと続けた。ハッピーもまた、カウンターから出てウォルフと目線を合わせる。
    「その節は、大変ご迷惑とご心配をおかけしました。深くお詫び申し上げます。……ですが、今はもう心配ありませんよ。仲間たちにルートマップ機能を修復して頂きましたし、出歩くとき一緒に来てくれる同僚もいます。ここ数年は迷子になっておりません! ご旅行の方がいらしたときには、店から道案内もできるんですよ」
     兄にしがみついて緊張した面持ちのウォルフにふんわり笑いかけたハッピーは、カウンターから自分を呼ぶ声が聞こえるとすぐに立ち上がった。それから、ショーンとウォルフの両方に声をかけてダイナーの仕事に戻る。
    「それでは、名残惜しいですが私は仕事に戻りますね。どうぞごゆっくりお過ごしください!」
    「うん、お仕事頑張って!」
     ショーンはカウンターの奥へ向かうハッピーに軽く手を振り、それからウォルフも促して二人で席へ座り直した。おずおずと席に戻ったウォルフの隣でショーンが意気揚々と再びカレーを食べ始めると、ウォルフもスプーンを手に取ってオムライスの玉子を崩す。
     デミグラスソースのかかった卵とチキンライスをスプーンで口に運んだウォルフは、それを口に入れた途端、ぱっと目を輝かせた。
    「美味しい? ウォルフ」
     ショーンの言葉にこくこく頷いたウォルフは、最初にカレーを食べ始めたときの兄と同じように二口三口をすぐに食べ進めた。それを見て、ショーンもまた自分のカレーに向き直る。そのうち、ウォルフの緊張が忘れ去られるのを待って、ショーンはウォルフに声をかけた。
    「ねえウォルフ、僕のカレーちょっとあげるから、ウォルフのオムライスも一口くれない?」
    「えー、しょーがねーな! 一口だけな?」
     そうして、兄弟がきゃっきゃと楽しげに食べているのを仕事の合間に垣間見たハッピーは、終始幸せな気持ちで料理と給仕を続けた。


     やがて兄弟はカレーライスとオムライスを食べ終わり、ハッピーの仕事の切れ目を見計らって支払いを済ませる。ハッピーが会計をしてショーンに釣銭を渡すと、硬貨を受け取ったショーンは少し眉尻を下げて小首をかしげた。
    「……うちに、帰ってくる気はない? ハッピー」
     一瞬、ショーンを見つめたハッピーは、すぐに苦笑して肩をすくめて見せた。
    「機能不具合だったとはいえ、旦那さまに合わせる顔がありません」
     ハッピーがそう答えると、兄弟は少し顔を見合わせた。ややあって、ショーンが声を低めて告げる。
    「……あのね、その、パパのこと、なんだけど……」
     戦死した、とショーンから聞いて、ハッピーは茫然と声をこぼした。
    「そんな……」
    「アンドロイドとの戦いじゃないよ。パパは軍属だったし、国家間、人間どうしのほう。……それに、最近のことでもないんだ。ウォルフも、僕だって、パパのことたくさん覚えてるわけじゃないし……。だから、ここでパパのカレーが食べられて嬉しかったよ。毎日でも食べたいくらい」
    「……」
     ショーンは笑ってみせるが、ハッピーはうまく返すことができなかった。もし、家事サポート用アンドロイドとして存在意義を全うするのなら、家族が欠けてしまった家に戻って、残った家族のサポートをすべきだろう。ハッピーには、意地でも消さなかった家事アプリがあり、そしてその初期設定をしたのは、ショーンの家族だ。ハッピーにしかできないことがきっとある。
     けれども、自分の店を持つというのも、ハッピーの夢だった。今はその途中、タオズ・ダイナーで店舗経営の修業中だ。ここで投げ出してしまうのは、と、ハッピーに名残惜しい感情が生まれる。
     ハッピーがそうして迷っていると、ショーンが不意に店を見回して切り出した。
    「パパさ、料理、好きだったよね」
    「はい」
    「パパも、店を出すのが若い頃の夢だったみたいだよ。ママから聞いた。おじいちゃん……パパのパパには、許してもらえなかったみたいだけど。だから……パパがカスタマイズしたレシピでハッピーがお店をやってたら、きっとパパも喜ぶと思う」
     はっとしてショーンを見つめたハッピーに、彼は屈託のない笑顔を向けた。
    「だからさ、また食べに来てもいい? カレーも、他の料理も、いっぱい食べたいな」
    「はい、はい……! いつでもお待ちしております、ぜひお越しください!」
     感激したハッピーに店の外まで手を振られ、兄弟は昼下がりの街へ出た。ガヤガヤと賑やかな街中を抜けてダンススクールへ向かった二人は、それぞれのクラスでダンスレッスンを終えて一緒に夕方のバスへ乗る。
     そのバスを自宅の最寄りで降りた兄弟は、夕焼けと秋風に見守られて家路を辿りながら、どちらからともなく顔を見合わせた。
     ぱちっと無言で目が合って、それから、後頭部で一掴み髪を括ったウォルフのほうが口を開く。
    「あのさ……兄ちゃんは、ハッピーに帰ってきてほしかった?」
     反対意見が言いたいのか、それとも兄を励ます必要があるか探っているのか。物言いたげな弟の視線を受けて、ショーンはほのかに苦笑した。
    「……うん。パパの代わりをしてほしいって思っちゃった、かな。つい、考えなしに声かけてたや。……でも……」
     自分の発言を省みたショーンは、ウォルフの顔を見て目を細めた。
     ――それでもきっと、自分たちの家に帰ってくるのは、ハッピーにとってあまり幸せなことではない。
     何故なら、ウォルフの誘拐未遂事件は、この近所では語り草になってしまっているからだ。幼すぎて当時のことなんて覚えていないだろうウォルフにさえ、自分はアンドロイドに誘拐されかけたのだと刷り込みがされているくらい。
     そんな環境にハッピーを呼び戻しても、ハッピーの幸せには繋がるまい。それに、と、ショーンはまっすぐ前を向いて次の一歩を踏み出した。
    「……ハッピーはもう、あのお店の一員だもんね。僕たちが何回でも食べに行けばいいんだよ。今度は、ママも一緒に、みんなで行こう!」
     それじゃ家まで競走!と駆け出したショーンを追って、ウォルフも急いで走り始める。ずるいぞ兄ちゃんと言いながらも競走には乗ってきたウォルフが追いつくのを待って、ショーンは次の角から改めて駆け出した。


     タオズ・ダイナーの閉店後、店の掃除や片付けを一段落させたハッピーは、カウンターから店内を見渡して息をついた。
     カイたちK.G.D署員が座っていたカウンター席、エルが映っていたテレビ、ショーン・ウォルフ兄弟が座っていたカウンターの隅。昼間の様子を思い返しながら、ハッピーはそっと目を伏せた
     前オーナーが軍属なのは知っていたが、まさか世を去っていたなんて。それも、人間どうしの戦いで。
     やるせない気持ちを抑えられず、ハッピーはぎゅっと手のひらを握った。ハッピーのアプリの中にあるのは、オーナーがカスタマイズしたレシピだけではない。タオズ・ダイナーの客のリクエストに応えて増やしたメニューや、自分で調べて改良したメニューもある。自分の店を持って、たくさんの人に幸せになってほしかった、いつかオーナーにも、ハッピーオリジナルのレシピを食べてほしかった。
     それももう叶わないのかと思うと、ハッピーの機体が不意に脱力する。握っていた拳を解き、ハッピーは、人間の真似をして胸の前で指を組んだ。
    「エル様……」
     どこか遠く、他人事のように感じていたエルの活動や報道が、今日一日の出会いによって急速に実像を結んでいく。ハッピーは、祈りを捧げる人間のような格好で小さく囁いた。
    「早く、世界が平和になりますように」
     きっとそれが、オーナーやショーン、ウォルフの願いでもあるはずだから。


     ソルが極北支部へと旅立ってしばらく、ブラッドはカフェインの摂取量が増えた。業務は以前と変わらないか、むしろ大きな争いが減って肉体労働も減ったくらいなのに、疲れが取れないのか何なのか、眠気が振り払えないのだ。研修を終え、正規署員としてブラッドのバディになったアレックスにも、カフェイン過多だの覇気がないだのと指摘されている。だが、改善のための有効手段はいまだ見つからないままだった。
     普段、ちゃんと眠れていないわけではない、とブラッドは思う。睡眠薬を服用することで幻肢痛に起こされることはなくなっているから、しょっちゅう夜中に起きていた頃よりもしっかり眠っているはずだ。その上、仕事以外には特にやることもないから、このところは昼間の眠気を気にして、帰宅したら早々に眠るようにしている。
     それでも眠気は改善されない。一度病院にも行ってみたが、身体に異状はないらしい。結局、ブラッドは缶コーヒーにでも頼るほかなかった。しばらくはコーヒーが眠気を散らしてくれるから、ブラッドはそのカフェインに頼ってどうにか仕事をこなしていた。
     そうした日々の中で、あるとき署の車を運転して市街パトロールをしていたブラッドは、不意に気が遠くなって慌てて自動運転のレバーを押し込んだ。自動運転に切り替わった車は秩序を守って車道の流れに乗り、しばらく単調に走行する。
     パトロールの際は、急な事件にも臨機応変に動けるよう、自動運転機能はオフにしておくことが多い。助手席に座って街を見ていたアレックスがブラッドを振り向いた。
    「どうした?」
    「分かんね……とりあえずどっか停めるから、悪りぃけど運転替わってくれ。……このままじゃ運転中に寝ちまう……」
     車内のパネルを叩いて近くのスーパーマーケットに行き先を設定したブラッドは、自動運転の車が目的地に着くまで運転席側の窓を開けた。身を切るような真冬の空気が車内を掻き回すが、アンドロイドのアレックスは涼しい顔だ。ブラッドは風に目を細めながら、ボトルホルダーに備えておいた水を飲み干す。少しは眠気覚ましになるかと思ったが、実感はほとんど湧かなかった。
     やがて目的地のスーパーに着き、駐車場の隅に車を停めると、ブラッドたちは席を替わるために一旦外に出る。車の外で体を伸ばし、少し深呼吸したブラッドは、アレックスに一声かけてから一人でスーパーに入った。
     しばらくして、ブラッドは缶コーヒーと清涼菓子を買って車に戻った。アレックスが運転席からそれを見て言う。
    「お前の嫌いなやつだろう」
    「背に腹代えられねえよ」
     ブラッドは苦手な清涼菓子を何粒かまとめて口に入れ、がりごり噛み砕いて飲み込んだ。
     幸いにも、今日のシフトはこのパトロールでもう終わりだ。アレックスがパトロールの残りの経路を運転して本部棟に戻ると、ブラッドはすぐに退勤記録をして解析課へ向かった。
     義手を取り換えるだけだが、珍しくアレックスもついてきて、ブラッドはそれを追い払う理由もないので黙って彼の好きにさせる。それだけのつもりだったが、ブラッドは解析課のラボ階へ向かうエレベーターの中でさえ気がつくと座り込んで眠っていたので、結局はアレックスがいなければ解析課に辿り着くこともできなかった。
     どうにか解析課に着いて義手を汎用に付け替えてもらったブラッドは、エレベーターのパネルで一階ではなく二階を指定して壁に寄りかかった。ブラッドの手元を見ていたアレックスが口を開く。
    「寝てから帰るのか」
    「……おー……」
    「賢明な判断だ」
     アレックスは頷いて、それからブラッドの隣に立った。彼らのシフトは、パトロールが終わって今日はもう終業、そして明日一日の休みがあり、明後日が夜勤となっている。二階の仮眠室で少々寝て帰っても余裕のあるスケジュールだ。
     エレベーターが二階に着いて、ブラッドを仮眠室まで送り届けたアレックスは、ブラッドが二段ベッドの下側に転がると腰掛を引っ張ってきてブラッドの近くに座った。
     仮眠室には二段ベッドがいくつか並んでいて、ブラッドが潜り込んだのは出入口ドアに一番近いベッドだ。人が出入りする物音で目が覚めやすいので不人気な場所だが、ブラッドは少し眠ったらあとは帰宅するだけなので、わざわざ寝心地のいい場所を陣取る必要もない。しかし、出入口の近くにアレックスの図体があっては他の署員の邪魔になるやも、と危ぶんだブラッドは、アレックスへかすかに声をかけた。
    「付き添いはもういいぞ……」
    「信用に足らんな。仮眠程度で全快するならとっくに全快しているだろう」
    「…………」
     アレックスの返事を最後まで聞いたのかどうか、ブラッドは早くも寝息を立てている。アレックスは、人間における睡眠と気絶の違いは何だったかと考えながらブラッドを眺めた。
     一年間の研修は終わったが、エンドーに依頼されたブラッドの経過観察は終わっていない。アレックスは制服のジャケットから支給の業務用端末を取り出すと、画面に視線を落としてエンドーへメッセージを送った。
     パトロール、しかも運転中に睡魔が勝っていたことや、解析課へ行くのもやっとだったこと、あまりにも寝つきが早いことなどをまとめてエンドーに送信したアレックスが業務用端末をジャケットに戻すと、薄暗い仮眠室がより一層暗くなる。アレックスはアイセンサを暗視モードに切り替え、ブラッドの寝息が乱れればすぐに対応できるようスタンバイ状態で待機した。
     そうしてしばらく時間が経ったとき、アレックスの聴覚センサがコツコツと仮眠室へ向かってくる足音を捉える。エンドーではないな、とだけ察したアレックスは、黙って仮眠室のドアを見た。
     やがてそのドアが開いて、K.G.Dの制服を纏った二人組が入室してくる。
    「……うお! って、アレックスか。珍しいな、仮眠室にいるなんて」
    「寝てんのは……ブラッドか。こっちも珍しい顔だな」
     二人組の捜査官は、声を低めて仮眠室のドアを閉めると、物珍しげにブラッドのいる二段ベッドを覗き込んだ。彼らは他班の捜査官で、どちらもエンドーより年上だ。五十代手前の古参捜査官と三十代半ばの中堅捜査官のコンビは、うち中堅のほうが過去にブラッドの新人研修を担当していたため、アレックスの研修中にも時々ブラッドが助言を乞いに行っていた。
     彼らは、静かに眠るブラッドを見ると声を潜めて囁き合う。
    「こうして見ると、ブラッドも普通の若者だなあ」
    「荒れてた頃は、同じ捜査官ですらろくに近づかなかったですもんね」
    「そうなのか」
     当時のK.G.D捜査官など皆似たようなものだろうと思っていたアレックスが口を挟むと、古参のほうが顔を上げて頷いた。
    「おおよ。K.G.Dの中堅や古参は、案外穏健派なんだぜ? 元はと言えば、リクさんやエンドーのおやっさんについてきた連中だからな」
     なるほど、とアレックスは得心して人間たちを眺めた。K.G.Dの内部が思ったより温厚なのは、アレックスもこの一年で何度か感じていたことだ。組織初のアンドロイド捜査官には多くの逆風や反発があるかと思いきや、驚くほど素直に受け入れられている。単にイーサンの息のかかった者を一掃した結果かと思っていたが、組織の創設者はリクであると考えれば、この捜査官の言う通り、本来そうした気質だったのだろう。
     古参捜査官は続けた。
    「……だから、当時のブラッドのような過激な連中は、捜査官の中では本来一部に過ぎない。お前さんたちアンドロイドから見れば、過激な連中のほうが目立っていたかもしれんがね。
     まあ、一部が過激だからといって、捜査官同士でぶつかることは稀だったが……ブラッドたちは、特に遠巻きにされていたな」
     中堅捜査官も苦笑してブラッドに目をやった。
    「温度差こそあれ、仕事熱心には違いないから、研修中は大きな問題もなかったんだけどな。研修を終えて、同じような考えの奴と班になったら、相乗効果でエスカレートしちまうのか……。気がついたら組織の中でもえらく遠いところにいるから、びっくりしたよ」
    「……」
     その視線を追ってブラッドのほうを見たアレックスに、中堅捜査官の穏やかな声がかかる。
    「お前さんとブラッドは、うまくやっているようでよかった」
    「……そうか」
     うまくやれているのだろうか。思わず聞き返しそうになって返答の遅れたアレックスは、ちらりと仮眠室の奥を見やって言った。
    「仮眠を取りに来たのではないのか」
    「そうだった。じゃ、俺らは奥を使うぜ」
    「ああ」
    「すぐそばでけっこう喋ってたけど、ブラッドのやつ起きないな。そんなに熟睡してるのか」
    「……」
     中堅捜査官の言葉にアレックスが黙り込むと、古参の捜査官が眉を寄せる。
    「調子が悪いのか」
    「……分からん。起きたら検査を受けさせるようにと長官から言われている」
    「そうしてやってくれ」
     捜査官たちは頷き合って空いているベッドへ向かい、アレックスは、こいつも気にかけられているのだなとブラッドへ視線を向ける。――ただ、ブラッドとうまくやれているのかどうかは、アレックスには甚だ疑問だった。
     摩擦や衝突があるわけではない。だが、単に当たり障りなくやり過ごせるだけで、核心に触れられるわけでもない。現に、カフェイン過多を何度か注意しても響いている様子はなく、眠れないのかと率直に訊こうが日常生活に不便はないかと婉曲に訊こうが返答は曖昧で、アレックスはブラッドのそうした態度にいくらかの苛立ちを覚えていた。
     自分がアンドロイドだからか、と思ってエンドーからも訊かせてみたが結果は変わらず、それなら医者が訊けばさすがに答えるだろう、と、アレックスは支給の端末で検査の予約を入れながらブラッドが目覚めるのを待った。


     ゆらゆらと意識が浮上する。ブラッドは、ぼんやり瞼を上げて、薄暗い室内へ視線をさまよわせた。
     一瞬、自分がどこにいるのか分からなかったブラッドだったが、やがてK.G.D本部棟の仮眠室だと思い出してベッドの上で身を起こす。するとアレックスが身を屈めてベッドを覗き込んできた。
    「起きたか」
    「おー……」
     返事をしたブラッドは、自分の声が妙にかすれていることに気づいた。やけに腹が減っていることにも。とにもかくにも水が欲しくてベッドを出たブラッドは、自分を見るアレックスの顔が酷く険しいように見えてほんの少し眉を寄せた。
    「……何だよ。付き添いならいらねえって言ったろ」
     仮眠室に居座ったのはそっちの勝手だぞ、と言外に釘を刺したつもりのブラッドだったが、アレックスはなお顔をしかめる。
    「違う。お前、自分がどれだけ眠っていたか分かっているのか」
    「あ? あー……」
     そんなに眠っていただろうかとブラッドは仮眠室の時計を見上げた。デジタル表示の数字は十八時過ぎを示している。たかだか二、三時間でそこまで言うかよとブラッドが呆れ混じりにこぼすと、アレックスはまた否定した。
    「違う。『二十七時間』だ。二十七時間十二分三十六秒眠っていた」
    「……は?」
     何の冗談だろうか、とブラッドは再び時計を見直した。時刻表示の上、控えめに表示された日付に目を凝らす。
     ――確かに、丸一日以上が経過した日付になっていた。
    「……あ?」
     ぽかんと口を開けたブラッドの傍らで、アレックスは苦い顔をしながらエンドーに報告を入れた。


     十八時まで本部棟の仮眠室で寝て過ごしてしまったが、元々この日一日ブラッドは非番である。明日に改めて病院で検査を受けることになったブラッドは、夕闇の中で一旦帰宅した。飯は先に本部棟の食堂で済ませてきたから、帰宅したと言ってもシャワーを浴びて寝るだけだ。また、元々あったはずの明日の夜勤は無しにされてしまった。検査の結果次第では、その後の勤務も調整されるらしい。班や課の仲間に迷惑をかけてしまうな、と、ブラッドは義手を外してベッドに潜り込みながら嘆息した。十八時まで眠っておいてまた寝るのか、と思わなくもないが、かといって他にやることもないし、何より薬を飲む前から瞼が重い。自覚がないだけでよほど疲れているのか、本格的に体がどこか悪いのか。悪いとしたらどこだろうか、と、考えているうちに、ブラッドの意識は暗闇の中へ沈んでいった。


     翌朝、枕元から鳴り響くけたたましい電子音に叩き起こされたブラッドは、慌てて音声操作で端末の電子音を止めた。
    「ど、あ、なん、……こちらブラッド!」
    『こちらアレックス。モーニングコールだ、感謝しろ。病院まで送りつけるように言われているから、支度が済んだら出て来い』
    「か、過保護……」
    『違う。一人で行かせたら途中で寝落ちると思われているんだ、もっと自分の不調に危機感を持て。……検査の時間は昨日伝えただろう、なのに今起きたのか? そんなにルーズな男ではないと思っていたがな』
    「……そういえばそうだな……」
     端末越しに会話しながら起き上がって義手を取り付けたブラッドは、通話を繋げたまま端末の別ウィンドウを開いてアラームを確認した。昨夜確かに設定したはず、とブラッドが確認すると、アラーム自体は鳴っていたようだ。ただ、数分鳴ったら止まってしまうので、ブラッドがアラームに気づかず寝こけていたらしいことが浮き彫りになる。
    「……」
     それを確認したブラッドは、再度通話に戻って口を開いた。
    「あのよ」
    『何だ』
    「ありがとな。体調悪い自覚なかったからよ、助かったぜ」
    『……。人間の体調不良は、俺には分からん。エンドーの指示だ』
    「そうか」
     通話相手には見えないながらちょっと笑って、それからブラッドはアレックスに一旦断りを入れると、通話を切って支度をした。検査のため脱ぎ着しやすい服を着て、髪は仰向けでも邪魔にならないよう少しずらして一つに括る。朝食は摂らずに水だけ飲んでアパートメントを出ると、外の駐車場にアレックスがいたので車に乗せてもらった。
     助手席でシートベルトを締めながらブラッドは訊ねた。
    「この車って」
    「エンドーの私物だ。エンドーの体格に合わせたカスタムだから、俺には署用車より乗り心地がいいな」
    「ハハ」
     ブラッドがシートベルトを締めるとアレックスが車を発進させて、宅地を抜け幹線道路へ合流する。検査を受ける総合病院は都心部にあるので、ブラッドの自宅からは車で十五分ほどだ。その短時間を車で揺られながら、ブラッドは瞼が重くなるのを堪えて車道の先を眺めた。
     さすがにこれだけ眠いのは我ながらおかしい、とブラッドは少し不安になって、義手の付け根を何度かさする。眠気に耐えるか、痛みに耐えるか。睡眠薬を止めることになるのだろうかとうっすら考えながら、ブラッドは病院に到着するのを待った。
     到着後、しばしば壁やアレックスに寄りかかりながら向かった検査フロアで、ブラッドはまず義手をつけた状態での全体スキャンを受けた。機械と肉体の接続不良やアレルギー反応がないかをチェックするのだ。その後で義手を外して、肉体と機械とで別々に精密検査を受ける。義手が回収された後、看護用アンドロイドに補助してもらいながらいくつかの検査機を通ったブラッドは、義手を返してもらって検査着から私服に着替えながらその検査結果を待った。
     着替えた後で診察室へ呼び出されたブラッドに、ロードン医師が検査結果を伝える。
    「肉体、機械、どちらもおおよそ異状なし。身体的疾患は、ひとまず今回は見つかっていない。ただ、何故だか眠ってしまう……のだったか。体調が変化したのはいつ頃か分かるだろうか」
    「……」
     ブラッドはしばらく記憶を辿ってから答えた。
    「……ソルさんが、極北まで異動になって……その後から、だ。けど、最初の頃は、コーヒーなんかで、我慢できてた。仕事中、運転中に寝ちまうようなのは、今回が初めてだ」
    「……ふむ。ソル君の不在が負担に繋がったのだろうか? 業務が増えたなど?」
    「いや……ソルさんは、去年から課が違うから。ソルさんが異動しても、オレの仕事は変わんなくて……けど、」
     ブラッドはそこで言い淀んだ。実のところ、ソルだけがブラッドの支柱だった。ケインがいなくなり、ブラッドの昔からの仲間は、もうソルしか残っていなかったのだ。けれども、それをはっきり言葉にしてしまうと、アレックスの立場がないよなと頭の片隅で呟く。
     ケインが上司だった頃のこと、アンドロイドとバディになったのがいつまでも喉につかえていること、ダークをずっと待っていること。ソルとしか話せないことがたくさんあった。ソルがいなくなってからは、それらすべて一人で飲み込んできた。そのたび少しずつ体が重くなる気がしながら。
     ブラッドは言葉を選び選び続けた。
    「……元ケイン班が、オレだけになったから。それで、気疲れしてるだけだと思って、放ってあった」
    「そうか……」
     ロードンはブラッドに相槌を打ってカルテを見た。ロードンが人機同盟の協力者としてアル・サイバー社のラボに出入りしていた頃のことを思い返すに、エンドーが長官となった組織なら、元ケイン班だろうと冷遇されたりはしないはずだ。だが、ブラッドからしてみれば、居づらいという気持ちはあるのかもしれない。ロードンの頭を休職の文字が掠めた。
     ――しかし、そうするとなお孤立するか……。
     ロードンは、今ブラッドを仕事から切り離すのは尚早かもしれないと考え直して別のことを口にした。
    「……きみも、ソル君を追って異動するか?」
    「はは、まさか……」
     ブラッドは小さく笑ってから、ふっと目元を緩めた。
    「……でも……極北まで行かなくても、……故郷へ帰るのは……いいかもしれねえな。……夕べ、そんな夢を、見てた気がする」
     次の長期休暇にでもそうしてみる、とブラッドがほのかに笑うと、ロードンは眼鏡の奥で瞬いてから再びカルテに目を落とした。
    「では、きみが次の休暇を快活に過ごせるよう、我々も手を尽くそう。
    ……睡眠薬を減らすことはできるだろうか? 戦闘用義手の装着時間・日数を減らし、医療義手で眠る日を増やせば、幻肢痛を抑えながら睡眠薬の使用も減らせる見込みだ。あとは、業務が調整できるかだが……」


     検査が終わってブラッドを自宅へ送り届けた後、K.G.Dに戻って長官室へ報告に来たアレックスは、その長官が医師と映像通信していることに気づくと、入ってきたドアを音もなく閉めた。それから、エンドーに手招きされるまま彼の椅子の後ろに立って、デスクの上に展開された半透明のスクリーンを見る。
     ブラッドの検査を終えたロードン医師と通信していたエンドーは、その場にアレックスを交えると改めてスクリーン上のロードンを見た。
    「こちらがアレックスです。ブラッドの今のバディなので、話が聞けるかと思って。――それで、ブラッドのことですが」
     エンドーがアレックスを軽く紹介してから水を向けると、医師は小さく頷いて口を開いた。
    『うむ。診察中、少し気になることを言っていてな。本人には訊きづらかったのだが……ブラッド君は、職場で孤立しているのだろうか?』
     スクリーン越しのロードンに問われ、唐突な質問だな、とアレックスは内心で首を捻った。
    「いや……特に、誰とも軋轢はないだろう。業務の引継ぎ等で問題が起こったこともない。……かつては遠巻きにされていたと聞いたが、その頃と比べると取っつきやすくなった、という話だった」
     ブラッドが仮眠室で眠っていた時の古参捜査官と中堅捜査官の話を思い出しながら、アレックスはそう答えた。どの程度から孤立と呼ぶのかは知らないが、少なくとも業務に支障が出るようなことはなかったし、あからさまな態度や視線もなかったと記憶している。アレックスの返答を聞きながら、ロードンは顎に手をやった。
    『そうか……元ケイン班が自分一人になって、気疲れしている、とのことだったが。その様子であれば、周囲とうまくいっていないというより、付き合いの長い同僚が異動になって気落ちしている……という意味合いだったか』
    「…………」
     ロードンは何か納得した様子だったが、アレックスは胸中が波立つのを感じてスクリーンの端のほうへ視線を外した。そうしてアレックスが感情を鎮静化させているうちに、ロードンが改めてブラッドの状況を説明する。
    『ブラッド君の今回の検査結果において、身体的疾患は見受けられない。だが、彼は、元々幻肢痛に悩まされていたと聞く。睡眠負債が膨大であることは想像に難くない。従って、しばらくはゆっくり休むことを推奨する。睡眠薬の使用を減らす旨は、本人にも連絡済だ。職場においては、汎用義手で遂行可能な業務の振り分けと、夜勤シフトの抑制に協力して頂きたい。規則正しい生活、十分な食事と睡眠……過眠の治療・改善には概ねこれらが必須となる』
     長官であるエンドーに向けられたロードンの言葉に、エンドーはしっかりと頷いた。
    「分かりました。その他、日勤シフトについては、何かありますか?」
    『ブラッド君の希望や体調・業務状況次第だが、日勤は無理に抑制する必要はない。日勤の場合、出勤や昼休憩の時間が決まっていることにより、規則正しい生活に一役買うこともある。……しかし、激務により昼休憩が大幅にずれ込む、帰宅時間の都合で就寝が遅くなるなどの弊害が起こるなら無いほうが良い』
    「なるほど……調整してみます」
     そう言って業務用端末のほうに視線を落としたエンドーの傍らで、アレックスはスクリーンのロードンへようやく視線を戻して言った。
    「……それでも変わらなかったら?」
     一瞬、長官室がしんと静まる。ロードンはアレックスを見返してからゆっくりと答えた。
    『そのときは、改めて診察と検査入院が必要だ。先ほどは患者が起きている状態での各種スキャン検査だったが、次は睡眠時の様子を検査する。しかし、正確な検査と診断のためには、少なくとも検査の一週間以上前から睡眠不足を解消しておかなければならない。……要するに、夜勤と睡眠薬をやめて一週間以上十分な睡眠を取ってから、やっと検査と診断ができる、ということだ。その検査結果と診断により、ようやくブラッド君に合わせた治療法が提案できるようになる。実のところ、今はまだ診断や治療どころか、検査の準備段階なのだ』
    「……そうか。気が急いていた、すまない」
     アレックスは素直に頭を下げると、さりげなくエンドーの後ろを離れ、ロードンとの通信からフレームアウトした。長官室の片隅でスクリーンとエンドーを見ながら、明日からの業務のことを考える。
     夜勤はなし、汎用義手で、となると、ブラッドができるのは資料整理や未解決事件の見直しなどか。あいつに向かない業務ばかりだと考えながら、アレックスは小さくため息をついた。やはり研修が終わったら離れるべきだったのだろうか。
     元々は酷くアンドロイドを嫌って、憎んでいた男だ。アレックスの存在が不要なストレスをかけていた可能性は十分にある。ブラッドが何か言ってきたことはなかったが、それがこのような形で表出するのであれば、何かしら理由をつけて配置替えをしてもらうべきだった。
     人間とはかくも面倒な、とアレックスは眉を寄せる。こんな風になる前に何か言えばよかっただろうに。
     アレックスが珍しく苛立っていると、やがてエンドーとロードンの通信が終わる。エンドーはアレックスの前まで歩み寄ってきて言った。
    「来週末、またブラッドの検査をしてもらうことになった。そのときも送迎や準備の手伝いを頼めるか」
    「……俺でないほうが良くはないか」
    「そうか? 今のブラッドは、もう気にしていないと思うがな。それに、お前で駄目なら、他の誰に頼んでも駄目だろう。普段まるで関わりがないか、かつてあいつを遠巻きにしていた者ばかりだ」
    「………………」
     エンドーは苦笑し、アレックスは結局、エンドーの頼みを引き受けて検査の当日に備えた。


     夜勤と睡眠薬についてドクターストップが掛かったブラッドは、汎用義手で出勤してそのまま――解析課で戦闘用義手に換えることなく――本部棟の資料庫へ向かった。一階で合流したアレックスとともに資料庫へ籠もって、未解決事件の資料を漁る。
     口惜しいことだが、通報や被害届のあったすべての事件を解決できるわけではない。未解決の事件も多く存在する。それらの資料が部屋中のラック一杯に収められた資料庫には、資料閲覧のための簡素なデスクと折り畳み椅子がある。そのデスクに何本かの缶コーヒーを置いたブラッドは、支給のタブレットから資料閲覧のアプリを呼び出し、いくつかキーワードを入力した。
     すると、タブレットの画面上に表示された資料庫のマップと、実際の資料庫のラックについた表示灯が点滅する。ブラッドはそれらを目印に目当ての資料を見つけ、いくつかの資料ファイルをラックから抜き取りデスクに戻った。
     ブラッドが持ってきた資料が行方不明者の捜索資料ばかりだと目に留めたアレックスは、同じく支給のタブレットで行方不明者の資料をいくつか検索し、タブレット上とラックの表示灯とで示されたラックから資料を取ってブラッドの向かいに座った。資料はタブレット上で文章や画像・映像を見ることもできるが、パトロール中でもなし、無為に電力を消費することもないだろう。
     アレックスは、缶コーヒーのプルタブを引いたブラッドを見ながら言った。
    「こぼすなよ」
    「分かってるよ」
    「妙なタイミングで寝落ちて手が滑ったら終わりだぞ」
    「……ボトルにすりゃよかったぜ」
     飲む前に苦い顔をしたブラッドは、缶コーヒーを一気に呷って空にしてから資料と向き合った。空き缶は、缶コーヒーをまとめて持ってきたポリ袋に入れて椅子の背中に吊るす。
     アレックスは、今度は机の端に並べられた缶コーヒーを見て呟く。
    「カフェインにもドクターストップを掛けてもらえばよかったな」
    「だーもう、オレのことはいいから仕事しろって」
     こんなふうに、席について最初のうちはいくらかの軽口も叩かれていたが、そのうちどちらも資料に没頭して無言になる。ブラッドは、イーサンが引き起こした一連の事件の中で行方知れずとなったアンドロイドたちの資料と、彼らの捜索資料とを照らし合わせながら地図も広げた。
     戦乱の中で行方不明になったアンドロイドは、今もすべてが見つかったわけではない。彼だけが見つからないわけではないし、彼だけが行方不明になったわけでもない。戦いの混乱でオーナーとはぐれたアンドロイドや、ウィルスに操られてそのまま帰らないアンドロイドなど、行方不明のままのアンドロイドは届出が何枚も残っている。ブラッドは、資料庫に残っていた届出のうち、データベースと照合して捜索が終わっているもの数枚を見つけると、後で報告して処理をするためデスクの脇によけておいた。
     彼だけが見つからないわけではないが、見つかったアンドロイドがいないわけでもない。何機かは発見の後、修理や再起動で元の生活に戻っていった。いつか、彼ともそのように再会できるのではないかと、ブラッドはそう願っていた。しかし、他の届出にはいくつかの目撃情報や追加情報が別紙などで添付されているのに対し、DA‐190には、一件の目撃情報も寄せられていない。
     本当にもうこの世のどこにもいないのか、ただブラッドの近くにいないだけなのか。あるいは、見つからないように隠れて過ごしているのか。ブラッドは、自分で提出したDA‐190の行方不明届をファイルから抜き取り、支給端末で取り下げ申請を入力しながら言った。
    「もう……ダークは、探さない。再生産も望まねえ」
     その声に、確認し終わった資料をラックへ戻していたアレックスが振り返る。ブラッドは、ファイルから抜き出した届出用紙をくしゃりと握り潰しながら苦笑した。
    「……本当は、四年前、最初のダークが死んだときに、そうすべきだったんだ。そうしていれば、オレは……わざわざK.G.Dに入って、他のアンドロイドを壊して回ることもなかった」
     他のアンドロイドを一掃すれば、暴走しない新しい技術でダークを再生産できる、暴走するアンドロイドがいなければ安心してダークと過ごせる――そう思い込むことで悲しみに蓋をしていた、ダークの死から目を背けていたのだとブラッドは独白のように続けて、彼もまたラックに戻すべきファイルや資料を手に立ち上がった。もうすぐ昼になる。ブラッドはエンドーの提案で時短勤務になっており、昼のチャイムが鳴ったらそれで終業だ。睡眠時の検査をするまでは時短勤務で様子を見て、検査の結果が出たら、夜勤含む通常勤務に復帰するか休職して療養に専念するか、改めて考えることになる。
     アレックスに倣ってデスクに広げた資料を戻し始めたブラッドが彼の近くのラックへ寄ると、アレックスは小さく嘆息してから言った。
    「俺たちは人間とは違う。修理も移植も、何らおかしなことではない。その存在を望まれ、造り続けられることは、俺たちにとって喜びだ。……望まないなどと言ってやるな」
     ラックに戻す途中だった資料をしっかり棚に戻し、次のラックへ移動しながらアレックスはさらに続けた。
    「逆に言えば、俺たちは、望まれなければ存在できない。手入れどころか製造がされないのだからな。……お前が望みを捨ててしまえば、ダークとやらは本当に死ぬことになる」
     他に望む者がいなければの話だが、と、念のため程度に付け足したアレックスは、ラックの向こうからブラッドに言った。
    「データは残っていたんだろう。ソルが、生産工場の調査・解析で見つかったと」
    「……そいつは、直前のメンテまでのバックアップだ。オレが最後に会ったときのログまでは残ってなかった。――それに、」
     ブラッドは、ラックの合間からアレックスを見て再び苦笑した。
    「データが全部同じでも、同じものはできあがらねえ、だろう? それがお前らの個性なんだろ」
    「…………」
     ラック越しに見下ろしてくるアレックスの視線から逃げるようにブラッドはラックの列から出て、デスクまで戻って残りの資料をもう何冊かまとめて抱え、少し離れたラックと向き合った。資料を戻す作業を再開しながらブラッドは続ける。
    「……ダークもそうだった。同じGB型の別個体も見たことあるけど、ダークとは違う奴だったし、DAとしてダークに似せて造られた奴らも、誰一人……。……、オレは、それが許せなかったから、たぶんもう、どんなに似せて造られても、そいつをダークと同じようには思えないんだと思う。データや見た目が似てれば似てるほど、他の違いが目立つから」
    「…………」
     アレックスはしばらくブラッドのほうを眺めて、それから再び嘆息した。
    「……アンドロイドに個性に関する理解は間違っていないが。しかし、お前だって、去年や一昨年のお前とは違うだろう。もう、不必要にアンドロイドを殴ったりはしないはずだ」
     急に自分を引き合いに出されたブラッドが思わず顔を上げると、アレックスはじっとブラッドを見ていた。アレックスは続ける。
    「同じ型でも同じ者にはなり得ない、それは、置かれる環境に同じものがないからだ。各アンドロイドのAIは、置かれた環境ごとに学習し、その差異が個性と呼ばれるようになる。だが、その学習には終わるところがない。全く同じ毎日がないように、環境自体が変わり続けるのだからな。そして、変動する環境の中にいるという点は、人間もアンドロイドも同じだ。その変動する環境の中で、自身が変わっていく点も。――お前が、誰彼構わずアンドロイドを殴らなくなったのと同じように」
     ブラッドが黙って聞いていると、アレックスは不機嫌そうに顔をしかめて言った。
    「人間も、アンドロイドも、絶えず学習し、学習によって個性は少しずつ変わっていく。俺たちは変わり続ける。それのどこを見て同じだの違うだのと勝手を言っているんだ」
     勝手、と、ブラッドはその場で小さく呟いた。ピンと来ていないブラッドに、アレックスはほんの少し表情に呆れを滲ませて補足する。
    「……お前は、都市警のGBが自警団のGBとして学習していくうちの細かな変化を、長く見ていたのではないのか? 変化が許せない、と、自分で自分を決めつけるには早いと思うが」
    「……」
     抱えていた資料を戻し終わったアレックスが、カツカツとデスクへ戻っていく。ブラッドは、その背中を見ながら小さく言った。
    「……そうかな」
    「そうだ」
     間を置かずアレックスに肯定され、ブラッドは改めて過去のことを思い返した。確かに、ダークにも様々な変化があった。最初はなんだか淡々としていたし、自分だけが機械だからと、一歩引いたところがあった。冬の豪雪にも不慣れだった、休日にまでブラッドと出かけることもなかった。けれども、ブラッドをはじめとする自警団の仲間や、自警団が活動する町の人々との関わりの中で、少しずつ、自警団の一員となり、ブラッドの特別な相棒になったのだ。
     けれども、その環境が大きく変化したら。ブラッドは自分の両腕に目を落とした。GBがDAになった、だけでなく、思えばブラッド自身も大きく変化していたのだ。それならば、ブラッドという環境要素の変化に合わせ、ダークが変化するのも必然だったのかもしれない。ブラッドが大怪我をしていたら、GBのほうのダークだって、DAくらい慎重で心配性になったのかも。
     勝手なことを、というアレックスの言葉がようやく飲み込めて、ブラッドはその場にずるずると座り込んだ。
    「そうだな……」
     冷たい金属ラックで額を冷やすようにしながら蹲ったブラッドに、アレックスの足音が近づいてくる。アレックスはブラッドの脇に屈み込み、ブラッドの腕に残っていた資料を引き取りながら言った。
    「……疲れているんだ。体調不良から短絡的になっている。まずは療養して、その後に決めるといい。気力や体力が回復すれば、一転して探す気が湧いてくるかもしれん」
     行方不明届の取り下げ申請は送信前に削除した、と、ブラッドの端末を勝手に操作したことをさらりと白状したアレックスは、ブラッドから引き取った資料をラックの上に置き、ブラッドを支えながら立たせてデスクの席に座らせた。ブラッドが何か言う前に、新しく印刷し直されたDAの行方不明届が差し出される。
    「座っていろ。帰る準備をしておけ」
     ブラッドが握り潰してしまったほうの行方不明届を回収したアレックスは、そのままラックに戻って資料の返却を続ける。ブラッドは、手元の真新しい行方不明届と届出ファイルを見比べて小さく笑った。
    「ハハ」
     アレックスがラックの合間から振り返る。ブラッドはどうにか顔を上げて言った。
    「……、ありがとな」
    「…………」
     そのブラッドがよほど妙な顔をしていたのか、アレックスの表情が一瞬強張って、それから険しくなる。ブラッドは苦笑して手元のファイルに視線を落とし、DAの行方不明届をファイリングした。


     やがて昼のチャイムが鳴り、ブラッドは少し息をついて室内を見回す。資料の返却漏れや自分たちの忘れ物がないか確認して、何本も飲んだ缶コーヒーの空き缶を所定のボックスに捨てたブラッドは、退勤処理を済ませてから二階ロッカーで私服に着替え、本部棟一階のエントランスに下りる。エントランスでブラッドを待っていたアレックスは、食堂のほうが混み合っているのを横目に見ながら言った。
    「ちゃんと飯を食って帰れよ。……」
     言ってから、隣のブラッドを上から下まで見たアレックスは、眉を寄せてから再び口を開いた。
    「……最近、飯はちゃんと食えているのか?」
     義手を差し引いても軽かったのでは、と胡乱な顔をするアレックスに、ブラッドは渋い顔をして自白する。
    「食えるときは食ってる。時々……眠いほうが勝っちまって、抜かすときもあるけど」
    「………………」
     アレックスの蛍光色のアイセンサがゆらりと光る。ブラッドは観念して、食堂の人込みが空いてくるのを待った。そうして午後の勤務もある職員があらかた捌けた後、アレックスに監督されながら食堂で昼食を取って帰宅したブラッドは、早々にシャワーを浴びてから寝室のベッドに沈み込んだ。
     整髪料を洗い落として乾かしたばかりの柔らかい髪が、さらりとシーツの上を流れる。ブラッドは、汎用義手から付け替えたばかりの医療義手をベッドサイドのアクセサリートレーに伸ばして、カチャリと二つのペンダントを手に取った。
     ごく薄くだがまた埃を被ったペンダントを軽く払って、ブラッドはそれを胸元にゆるく握る。ベッドの上で体を丸め、小さく息を吐いたブラッドは、義手の中のペンダントを見つめて途切れ途切れに囁いた。
    「甘えてもいいのかなあ」「おまえ、許してくれるか?」「会いたい」「会いたい……」
     きっと大事にできないから、会うべきではないのだと思った。今までDAにしてきたことを思えば、それが罰なのだろう、とも。でも、もしも、また会おうとか愛しているとか、そういう言葉に甘えてもいいのなら。
     ブラッド、と、耳の奥で一番欲しい声がする。昼下がりの暖かな日差しが窓から入り込む中で、ブラッドの意識はぼんやりとまどろんでいった。
     生まれ育った北部の町も、長い冬を越えて春が来れば穏やかにぬくもる。ブラッドは、懐かしい夢だ、とうっすら自覚しながら、道の端に雪の残る町を一人で歩いていた。
     自分の体を見下ろすと、見覚えと思い入れのあるライダースを着ていて、今日は非番なのだと分かる。顔を上げて前を見ると、待ち合わせ場所の時計台があって、懐かしい気持ちがなお広がった。ブラッドが時計台へ近づいていくと、そこで待っていた揃いのライダースの男が文庫本から顔を上げてブラッドを見て、ほのかに甘く微笑んだ。
    『ブラッド』
     旧型アンドロイドの、スチールグレイの瞳がゆるく弧を描く。ブラッドは思わず駆け出して、彼へ向けて手を伸ばした。
    『ダーク……』


    「……ク…………」
     かさついた唇は、枯れかけた声で名前の欠片を押し出した。何度か瞬きしたブラッドは、視界にそびえる医療義手の右手と、背景の見知らぬ天井を認めて身じろぎする。
     どこかのベッドに寝かされているようだが、ブラッドの自宅ではない。身を起こそうとしたブラッドだったが、体重をかけたほうの義手がじくりと疼いて硬直する。
    「い゛っ……」
     呻いたブラッドは、おそるおそる自分の腕を見下ろして顔をしかめた。医療義手は通常通り装着されていて、特に不備があるとも見えない。それなのに、嫌というほど覚えのある幻肢痛に似た痛みが、ほんのわずかだがまとわりついて離れない。
     ブラッドが痛みをやり過ごしてベッドの上で固まっているうちに、物音を聞きつけたのかベッド脇のカーテンの向こうからアレックスが現れてベッドを見下ろす。
    「起きたか。ここは本部棟の医務室だ。お前は廊下で寝ていた」
    「えっ……?」
     そう言われて、ブラッドは見慣れた無表情のアレックスと見慣れない室内とをきょろきょろ見比べた。それから、自分の義手や体を見下ろして状態を確認し、自分がK.G.Dの制服を着ていることに気づくと眉尻を下げてアレックスに問いかける。
    「飯食って帰ったの、夢だったのか?」
     ブラッドの記憶では、資料整理の後は確かにロッカーで着替えて、私服で食堂を利用して帰宅した後、ちゃんとシャワーを浴びて寝間着に着替えてから自宅のベッドに入っている。それなのに、ジャケットが脱がされているだけで他は仕事着のままだし、髪もセットしたまま医務室のベッドに寝ていたせいでぐしゃぐしゃだ。どこからが夢だったのかと焦るブラッドに、アレックスから淡々と現実が告げられた。
    「夢ではないが、一昨日のことだな。資料整理の翌日、つまり昨日、お前が定刻に出勤して来ないと思ったら本部の廊下に落ちていた。ロッカーで着替えた後にデスクへ来ようとして力尽きたようだったが」
    「……は」
     夢よりももっと悪い――ブラッドは血の気が下がるのを感じながらアレックスの言葉を噛み砕いた。ならば自分の記憶が抜けていることになる、知らないうちに起きて、出勤して、そして本部内で寝落ちていたということか。しかも、それから丸一日眠り続けていたらしい。
     言葉を失ったブラッドは、一拍置いてから慌てて義手の手のひらの中や制服のポケットを探った。眠る前に、ダークのペンダントを握っていたはずだ。ちゃんと家に置いてきているのか、道中どこかで落としていないか、今のブラッドには確かめる術がない。少なくとも今はどこのポケットにも入っていないことを確かめると、ブラッドの顔はさあっと青くなった。
     見ていたアレックスが問うてくる。
    「どうした」
    「――ペンダントが」
     ない、とかすれ声で答えると、アレックスは少し記憶を手繰るようにしてからベッド脇の物入れを示した。
    「義手に巻いていたものなら、ジャケットと一緒に外した。それか?」
     ブラッドがすぐにベッドから物入れを覗き込むと、簡単に畳まれたジャケットがぴったり収まっている上に、盾と矛のペンダントが一つずつ置かれていた。ブラッドはそれを見るや手を伸ばし、しかし、その途端に腕へ走った疼痛で呻く。
    「う……」
    「痛むのか」
    「……」
     アレックスにどうにか頷いてみせたブラッドは、震える手で二つのペンダントを取って状態を確認した。目立つ傷も汚れもなく、それが無事であるのを認めて、ブラッドはペンダントを両手で包み込むと胸元へ寄せて長く息を吐いた。
     アレックスはその様子を黙って見届け、それから改めて声をかける。
    「義手をつけていれば、腕は痛まないのではなかったか」
     ブラッドはペンダントを握った手を膝へ下ろして答えた。
    「そう……そのはず、なんだけどな。今日が初めてだ、こんな風に痛えのは……」
     はふ、と息継ぎのように嘆息したブラッドに、水の入ったグラスが差し出される。ブラッドがありがたく受け取って、噎せないように少しずつ飲んでいると、アレックスが静かに口を開いた。
    「……その腕も含めて、早めに病院で診てもらえ。どちらにしろ、正午までに目覚めなければ病院へ連れていくつもりだったし、どうせあと三日もせずに検査だろう。病院には既に掛け合ってあるから、今日は帰って荷造りをしろ。俺はエンドーの車を借りてくる」
     そう言って退室したアレックスは、どうやらブラッドを車で送り迎えしてくれるつもりらしい。気遣われているのか一人歩きを信用できないのかその両方か、ブラッドは閉まったドアを眺めて苦笑した。それから壁の時計を見ると今は昼の十一時前で、自分はいったい何時間寝ていたんだろうかと少し恐ろしくなる。
     ただ、時計を見て昼前だと認識するとなんだか腹が減ってきて、ブラッドはまた苦笑した。丸一日寝ていたということは丸一日食べていないわけだから、確かに腹も減るだろう。アレックスが戻ってきたら食堂に行きたいと伝えよう。腕の痛みは、幸運にもすぐに収まったから、今なら自力で食べられそうだ。
     飯が食えるならまだ大丈夫。ブラッドは自分に言い聞かせて、物入れの中のジャケットを羽織るとダークのペンダントと自分のペンダントをポケットに収めた。


     その冬の終わり、本部棟の食堂で健康体そうな量とメニューを食べていたブラッドを思い出しながら、アレックスは壁際に立ってエンドーとブラッドの会話を聞いていた。
     エンドーのデスクの前に立ったブラッドは、そこに座る長官の前で、眉を歪めてくしゃりと笑う。
    「……相棒が死んで、相棒の思い出から逃げるみたいに、故郷を出てK.G.Dに移籍した。けど……今は、相棒の思い出が一番恋しい」
     アレックスが見ている先で、ブラッドの腰が綺麗に折れた。
    「帰りたいです。辞めさせてください」
     その向かいにいるエンドーは、ブラッドが持ってきた辞職願をじっと見つめている。数秒そうしていた彼は、やがて静かに目を伏せ、口元で組んでいた指をほどいて立ち上がった。
    「……そうか」
     エンドーが席を立ち、深く頭を下げていたブラッドも背すじを伸ばす。デスクの脇を回ってブラッドの前に立ったエンドーは、ブラッドに右手を差し出して言った。
    「今日まで、よく働いてくれた。これからは、故郷での活躍を祈っている」
     エンドーが差し出した手を、医療義手でゆっくり握り返したブラッドは、へへ、と照れたように笑った。
    「寒いし、遠いけど、美味いもんいっぱいあって良いところですよ。景色がいいからツーリングも人気だ。もし旅行に来たら、そのときは声かけてくださいよ。張り切って案内します」
    「ああ、いつか時季が巡ってきたら、必ず」
     エンドーとそう約束して、ブラッドは長官室を出ていく。アレックスはそのブラッドの背を追いながら、先日の検査結果を思い返した。検査終わりのブラッドを車で迎えに行った際、ブラッド本人だけでは不意に眠ってしまうかもしれないからと、アレックスもブラッドと一緒に検査結果を聞かされたのだ。
     一人と一機を診察室へ呼んで、ロードン医師は言った。
    『検査結果を鑑みるに、特発性の過眠症である可能性が高いが……。一般的な特発性過眠の様子とは違う点も見られる。廊下などで突然眠ってしまうのも危険だ。そのため、入院での慎重な経過観察と治療を提案したい。……というより、現在のブラッド君の状態では、独り暮らしは事故の危険性が高いので推奨できない。介護者など、誰かと同居できるのであれば、通院・自宅療養も選択肢だが……』
     ブラッド君の都合はどうだろうか、とロードンが問うと、ブラッドはまだ眠気の残っている様子で緩慢に口を開いた。
    『……。入院って、ここの病院でないとだめか。故郷の病院に紹介状書いてもらえたりは……』
     療養なら故郷でしたい、という要望は、アレックスには分からないが意外と多いのかもしれない。ロードンは腑に落ちた顔で頷いた。
    『なるほど。きみにとって、そのほうが良いならそうしよう。希望の病院を教えてもらえるだろうか?』
     それから、ブラッドは眠気を抑制する薬をしばらくぶん処方してもらい、どうにか引っ越しの準備やK.G.D退職の手続きを自力で進めている。アレックスが手伝っていると、時々腕が痛む様子を見せるが、結局これも幻肢痛と診断されたので、有効薬などもないままブラッドはひたすら耐えていた。
     義手を外しているときの痛みほど激しくもなく、長続きもしないから平気だとブラッドは言うが、長続きしようがしまいが痛い時点で不調であり不便だろう。それを平気だなどと、これだから人間の言うことは信用できない、とアレックスは内心で呆れていた。
     ブラッドが転出手続きの途中で寝ないよう、役所にも付き添っていたアレックスは、手続きを終えたブラッドのアパートメントまで運転しながら助手席の様子を窺った。アレックスが運転する隣で静かに眠っているブラッドは、起きているときよりもよほど穏やかな顔をしていて、アレックスはそのブラッドをいつ起こしたものか思案する。
     ブラッドが、既になくなって久しい腕につきまとう幻肢痛から解放されるのは、深く眠れているときだけだ。眠れるときに、眠れるだけ眠っていればいいと思わないでもない。だが、眠りすぎても支障が出るのは、人間の難しいところだ。
     結局、アパートメントに着くまでブラッドを寝かせたまま運転したアレックスは、駐車場に車を停めてからブラッドを起こした。
    「ブラッド。着いたぞ」
    「うう……」
     アレックスが数回肩を揺すると、ブラッドもようやく目を覚ます。持ち帰るものを確認して帰る支度を整えながらブラッドは苦笑した。
    「わりいな、アレックス。こんなことになっちまって」
     せっかく研修も終わって正規署員になったのに、と、ブラッドはすまなさげに眉を下げる。アレックスは淡々と答えた。
    「問題はない。誰ぞの研修のおかげで、基本的な業務はすべて遂行できるようになっている」
    「なんだ、頼もしいじゃねえか」
     ブラッドはくつくつと笑って、それから車を降りた。礼を言って車のドアを閉めようとするブラッドに、アレックスはふと問いかける。
    「俺が……」
     ん、とブラッドが手を止めてアレックスを見る。アレックスは少し言い直して続けた。
    「お前は、……自分が人間と組んでいたら、長続きしていたと思うか」
    「…………」
     ブラッドが目を丸くして、それから瞬きをした。その反応を見て、らしくない質問だったらしいとアレックスは内心で渋い顔をする。何故そんなことを訊いたのか、アレックス自身にも分からなかった。
     一方で、アレックスの内心など知る由もなく、ブラッドは車内を覗き込んでふっと笑う。
    「どうだろうなあ。……でも、たぶん、変わらなかったと思うぜ」
     バディが誰であれ、遅かれ早かれ自分は故郷に帰っただろう、とブラッドは続けた。
    「ダークが見つからねえのも、幻肢痛が収まらねえのも、そのせいで変な睡眠になってるのも……どれも、バディが変わったらどうにかなるって問題じゃねえしよ。それに……故郷のこと、本当にほっぽって来ちまってるから、何にしろいつかは帰って、ちゃんと整理をつけなきゃいけなかったんだ。……変なこと気にしてんじゃねえよ」
     ブラッドは顔をくしゃくしゃにして笑って、だからアレックスは、その奥に悲しみか何かがあるのを推察して目を伏せた。
    「……そうか」
     ブラッドの言葉はきっと嘘ではない。けれども、かつて悲惨なテロが起こった故郷に向き合うのはまだ少し悲しい、そんなところだろうか、とアレックスは考えて、機械パーツがしっかり詰まっているはずの胸に隙間風が吹くような感覚に眉を寄せた。しかし、それをブラッドに察されないうちに常の淡々とした顔を装って、運転席から彼を見上げる。
    「俺で問題ないなら、引っ越し当日は空港まで送ってやろう」
    「助かるぜ。ありがとな」
    「…………」
     アレックスが、いつかエルの言ったようにあっさりとはどういたしましてが言えないうちに、ブラッドが車のドアを閉める。そのブラッドが、ちゃんと自宅のロックを解除して帰宅したのを見届けて、アレックスは車を回しK.G.D本部へと戻った。
     その報告をしに長官室へ来たアレックスは、半ば苛立ちにも似た気持ちをエンドーにぶつける。
    「……俺たちは、奴を利用してばかりだった。奴も利用されてくれていた。人間とアンドロイドの架け橋になってほしいというのは、俺たちのエゴですらない、ただのプロパガンダの作戦だった。……よく働いてくれた、本当に、本当にその通りだ」
     それなのに、と、珍しく感情を吐露するアレックスの言葉を、エンドーはじっと聞いている。エンドーにも耳に痛い言葉だろうに、そういう言葉をわざと選んでいる自分にも嫌気が差しながら、アレックスは最後にぽつりと呟いた。
    「……俺たち、は」
     再び、アレックスの胸の中を隙間風が通り抜けていく。これは無力感というのだと、アレックスはもう自分で結論づけていた。
    「あいつに、何を返してやれたんだ」
     平和になった世界で、ブラッドばかりが摩耗し衰弱する様子を誰よりも近くで見ていたのはアレックスだ。それでも、アレックスには何もできることがない。アレックスは、他にもまだ違う温度や強さの風が胸中で暴れるのを飲み込んで、そのまま身を翻し長官室を後にした。


     その頃、帰宅したブラッドは、キッチンの片付けをしながらふうと息をついた。義手をつけていても、その腕すら不意に動かすと痛むようになってしまったので、荷造りの動作は慎重だ。時々失念して何の気なしにぱっと手を伸ばしたり、持ち上げたものが思ったより重かったりすると、痛みに呻いて突っ伏す羽目になる。
     そんな状態なので、ほとんどの梱包は引越し業者へ頼む手筈にしているが、そうは言ってもどれを梱包してどれを処分するかはブラッドが決めなければならないし、食品類は悩む前にとっとと食べ切ってしまうに限る。ブラッドは、キッチンでストッカーや戸棚の中身を確認しつつ、ついでに食器や調理道具を箱に詰めていた。
     ただ、結局は故郷でも入院するのだから、食器も調理道具も、わざわざ持ち帰ったところでしばらくは使わないだろう。それなら一旦はすべて処分して、退院してから新しく買い直したほうがいいかもしれない。最悪を想像するのであれば、再び独り暮らしができるかどうかすら分からないのだし。
     幻肢痛にしろ過眠症にしろ、自分はどこまで治るのだろうか、と思いながら、ブラッドはシンク下の収納からフライパンを出して梱包用の箱に入れた。調理器具は、ブラッドは数えるほどしか使っていないが、DAがちゃんと使い込んでいた形跡がある。彼がいなくなってから、ブラッドも何度かは自炊をしたが、やがて忙しさや眠気が勝つようになって長続きしなかった。今後も、もしも症状が長引いたり悪化したりということがあったら、自炊を再開することは難しい。腕が痛んで包丁でも取り落としたり、火を使っている途中で寝てしまったりしたら大変だ。そもそも医療義手は炊事を想定して造られていないので、せめて汎用義手で過ごせるくらいまでは回復しなければ。
     考え考え、他にも鍋やフライ返し、ボウルなどをシンク下から出しては箱に突っ込んでいたブラッドは、ふと収納の奥に何か小さな袋が置いてあるのに気づいて医療義手の腕を伸ばした。伸ばした腕にじわりと痛みが滲むのを堪えつつ袋を取り出し、明るいところで見てみると、袋にはパンケーキミックス、と印字があって、調理例の写真が大きく添えてある。ブラッドは、すぐに思い出して背中を丸めた。
    「……あいつ……」
     食べない、と言ったのに、材料は捨てられなかったのか。
     いつだったかDAがパンケーキを作っていた日のことを思い出して、ブラッドは長く息をついた。食べてやればよかった、という後悔と、あの頃はとても食べられなかった、という回顧が同時に訪れる。あるいは、今なら食べてやれるかもしれないが、DAはもうここにはいないし、パンケーキミックスは、既に期限が切れていた。
     ブラッドは期限切れのパンケーキミックスをダストボックスへ入れて、それから、荷造り途中のキッチンへ再び向き直る。ブラッドは、とりあえずで梱包用の箱へ雑多に入れた器具類を、できるだけ丁寧に詰め直した。


     病院で眠気を抑える薬を処方してもらったお陰か、居眠りが多発しがちな春先の暖かな気候の中でも、ブラッドは日中に寝落ちすることがなくなった。とはいえ一度眠り込むと長く眠ってしまうのだが、朝に起床すれば昼過ぎくらいまでは続けて起きていられる。その時間で地道に引っ越し準備を進めたブラッドはついにK.G.Dの最終出勤日を迎え、少ない私物を回収してデスクを引き払った。
     何人かの先輩や知人に退職の挨拶をして、K.G.D本部棟を去っていくブラッドの背中を、ロビーから二つの人影が眺める。
     人影の片方、植木を囲うサークルベンチの脇で休めの姿勢をしていた制帽の署員が口火を切った。
    「ブラッド先輩、退職されるんですね」
    「故郷に帰るんだってー。彼もだけど、ロイの反乱の後、怒りに任せて入ってきたような人が、ここ数年でどんどん辞めてる気がするなー」
     制帽の署員の言葉に、サークルベンチに腰かけていたほうの署員が答える。彼らは、制帽のほうがエリク、ベンチに座っているほうがキーンと言って、新人署員であるエリクの研修官をキーンが務めていた。エリクは、赤い前髪の下で翠の双眸を瞬かせて訊ねる。
    「……なるほど。そう言う先輩は、いつから、何故K.G.Dに?」
     後輩の質問に、キーンは手元のタブレット端末で報告書を確認しながら答える。
    「僕は、学校を出てすぐだから、来月からもう六年目かなー。学生の頃、犯罪心理学について触れる機会があってねー。そのときは人間の話だったけど、アンドロイドの心理はどうなんだろう、っていうのがきっかけで、アンドロイド犯罪を取締る組織に入ったんだー」
    「アンドロイドの心理……ですか」
     エリクは瞬きをしてキーンを見た。白と黒のツートンカラーになった前髪の下で、キーンの目がタブレットの画面を追っている。エリクは続けた。
    「……この仕事で、何か、先輩が知りたかったことは掴めましたか?」
    「うーん……どうだろう、これからじゃないかなー? アンドロイドにも心の動きがある、と認められてきたのは最近だしねー」
    「ああ、それは確かに……」
     素直に納得した様子のエリクだったが、一方でキーンは皮肉っぽく唇の片端を吊り上げる。
    「ま、そうやって期待できるのも、このままエンドー長官の天下が続けば……だけどねー。ほら、P.G.Dのお偉いさんがお出ましだー」
     くい、とキーンが顎で示した先をエリクが見ると、数人の取り巻きを引き連れた長身の男が、K.G.D本部棟ロビーに入ってくるところだった。砂色の長髪を翻して険しい顔で歩く彼を、ロビーまで出てきたエンドーが迎える。
     形式ばった挨拶を済ませた彼らが建物の奥へ向かうのを見送り、キーンは肩をすくめた。
    「さっきのが、P.G.Dのシーバート幹部だよー。幹部会談、エンドー長官には頑張ってほしいねー」
     タブレット画面での報告書確認を終えてベンチから立ち上がったキーンは、エリクを促して本部棟を出発した。署用車を飛ばして実地調査の現場に向かいながら、キーンはエリクに説明する。
    「一昨年だったか、イーサンが勝手にブラッドくんの指名手配を出してたんだけどー……。それでP.G.Dがご立腹なんだよねー。それができちゃうシステムや権限配分が間違いなんじゃないか、とか……。だから、少なくとも指名手配の発令システムまわりは変わるんじゃないかなー。あとは、もしかすると僕たちK.G.Dの権限や規模がいろいろと縮小されたり、最悪の場合はP.G.Dに吸収される……かも? イーサンがいろいろやらかしてくれたおかげで、お偉いさんの中ではK.G.Dが随分イメージダウンしてるからねー」
     肩身が狭いよー、とキーンはぼやいてみせたが、ハンドルを握っていたエリクは、それとは対照的に表情を引き締めた。
    「……それなら、K.G.Dの名誉回復のため、我々が励まなければなりませんね」
    「頼もしい後輩だなー。……僕も、ブラッドくんが信用してくれた分くらいは頑張らなくちゃねー」
     そのエリクにつられてか、キーンもまたしっかりと前を見る。人間とアンドロイドの争いが終わる直前、キーンはブラッドに頼まれて同僚たちを宥めて回った。アンドロイドの攻勢にいきり立つ署員を宥めたり言いくるめたりしながら人命優先の方針を広げ、他の署員と一緒に一般市民の避難誘導や救助に当たったのだ。
     当時のキーンは、ブラッドと特別親しかったわけではないが、かといってブラッドをあからさまに避けるタイプでもなかった。ブラッドもそれが印象に残っていて、何度か現場でケイン班とかち合っても臆さない、誰にも分け隔てする気のないところを見込んで、協力してもらうならキーンだと思ったらしい。
     キーンは、そのときのブラッドの様子を思い出して小さく笑った。
    「あおぐほど、炎を育てる芭蕉の葉ー。頼りがいのある先輩になりたいよねー」
    「…………」
     横目でキーンを見てしばらく黙ったエリクは、やがてぽつっと言った。
    「……『扇ぐ』と『仰ぐ』をかけていますか?」
    「ふふ、エリクくんも見上げるほど大きくなってねー。来月からは君も先輩だよー」
     キーンはまた笑って、それから、運転中の後輩のために次の現場での注意事項を読み上げた。


     ――一方、K.G.D本部のとある会議室。
     P.G.D幹部・シーバートは、机上の資料を集めながら言った。
    「……では、指名手配の発令システムについてはこちらの案で検討しましょう。今後、悪用されることのないように」
     シーバートはじろりとエンドーを睨んで、睨まれたエンドーは苦笑して口を噤んだ。イーサンがシステムや権限を悪用したのは揺るぎようのない事実なので、返す言葉がないのだ。
     P.G.D幹部であるシーバートとその取り巻き――補佐官、それからエンドーと現K.G.Dの重鎮数名で行われた会議は、その印象がK.G.Dの今後を左右する重要なものだ。K.G.Dは、イーサンを逮捕した功績の一方で、まんまとそのイーサンに乗っ取られていたという失態がある。警察組織であるP.G.Dが、良い顔をしないのも仕方のないことだった。
     しかし、そうやって仕方がないと諦めているわけにもいかない。エンドーはまだまだK.G.Dを存続させるつもりだった。
     資料を片付けたシーバートが、小さく嘆息してから再度エンドーを見据える。
    「――P.G.DとK.G.Dの統合が、時期尚早だというのは認めましょう。今はまだ、専門取締組織の存在が市民の安心を支えていることは否めない。……だが、我々P.G.Dとて、警察組織として遅れは取らぬつもりです。相手が人間だろうと、アンドロイドだろうと」
     はい、とエンドーは神妙に返事をしてシーバートを見返した。組織の規模としては、P.G.Dのほうが圧倒的に大きい。体面上、統合という言葉を使ってくれているが、実際には吸収と言ったほうが正確だろう。シーバートをはじめとしたP.G.D上層部を納得させられるだけの組織改革やその成果を見せなければ、K.G.Dの立場は危ういままだ。
     会議を終えて席を立ったシーバートは、厳しい表情を崩さずに続けた。
    「不正を防ぐシステムが考案・運用できないのであれば、P.G.Dへの統合もやむを得ないこと、お忘れなきよう。あの失態は、二度と繰り返してはならない」
    「勿論です。その気持ちは我々も変わらない」
     エンドーもまた、表情を引き締めて答える。ただP.G.Dを納得させるためだけではない、これからも平和を守れるように、K.G.Dは脆弱性を排除していかなければならない。
     人間とアンドロイドの対等が掲げられる今、取締組織が二つある意味などないのかもしれない。だが、エンドーは、リクと父とが設立したK.G.Dを譲る気もなかった。
     エンドーの眼差しを真っ向から受け止めたシーバートは、砂色の長髪を翻しながら目を細める。
    「――では、本日はこれで。期待していますよ、エンドー長官」
     K.G.Dも、まだまだ前途多難だ。


     最終出勤の日からさらに数日後、とうとう故郷へ帰るブラッドを空港まで車に乗せてきたアレックスは、小型のキャリーを引くブラッドの隣を歩いて出発ロビーまでやってきた。医療義手ではあまり重い荷物を引くことはできないので、キャリーには重くなりすぎない程度に着替えや日用品をまとめ、他の荷物は既に引っ越し業者へ配送を手配済みだった。
     ブラッドは、元々義手をK.G.Dへ返して帰宅し、その代わりにDAが支給されている生活だったから、自分で使うような私物はほとんどなかった。手がないのだから趣味の道具もあるわけがなく、また、いくつかの家具や道具は退院後に買い直すとして処分したから、ごく少ない箱が故郷のブラッドの実家へ送られるらしい。
     前に一人暮らししてた家は移籍と一緒に解約したからなあとブラッドは懐かしそうに目を細め、手があった頃の趣味の道具や思い出の品なども長らく実家で箱に入りっぱなしだと笑った。早く退院して、それらの箱を開けてやりたい、とも。
     アレックスは、そうしたブラッドの話を思い出しながら、ロビーの片隅のベンチで彼が搭乗チケットを出すのを待つ。あとはキャリーを預けて、本人が保安検査を通って、それが別れだ。
     ロビー内の時計を見て、時間に余裕があるのを確認したアレックスは、ジャケットからシンプルな柄のレター封筒を出してブラッドに差し出した。その封筒は、手紙と言うには入っている紙が厚く、そしていくらか枚数が入っている。きょとんとするブラッドにアレックスは言った。
    「写真だ。……エル様やソルから写真が来るのに時間がかかってな。渡すのがぎりぎりになってすまない」
     それは、エンドーをはじめとする有志からの餞別だった。写真にメッセージを添えたものが何枚も集まり、分厚い封筒になっている。
     ブラッドがそれを受け取ると、アレックスは少しブラッドから目を逸らして言った。
    「……俺たちのことが、お前にとって良い思い出かどうか分からないが。快気祝いのメンバーには、代筆含め全員協力してもらった。他にも何人かメッセージをくれている。……お前は、好きな写真だけ残しておけばいい」
     封をされていないレター封筒のフタをぱらりと開けて、中身も何枚かぱらぱら見ていたブラッドは、時々ブラッド自身が映っているのを見て呟く。
    「そういや、エンドーさんが写真撮ってたなぁ」
    「街の様子や、K.G.Dの活動の記録でもあるんだろうが、半分はただの趣味だろう。……無理に付き合う必要はない」
     ブラッドが顔を上げ、アレックスは目を逸らす。ブラッドは小さく吹き出して言った。
    「なんだよ、さっきから自信なさすぎだろ。……ちゃんと全部、いい思い出になるよ」
    「……」
     いい思い出。
     そんなもの、本当にブラッドがこの街へ持っているのだろうか。アレックスが疑わしく思いながら視線をブラッドに戻すと、ブラッドは写真を順番に眺めて小さく笑った。
    「苦しいことが多かったのは、その通りだけど……。それとこれとは、別の話だ。こんなふうに、オレのことを気にかけてくれる人たちがいるってのは、間違いなくいいことだし……苦しいことだけじゃなかったなって思える、いい写真ばっかりだぜ」
     ブラッドがアレックスに見せた写真は、厨房に立つハッピーができたてのローストチキンをカメラに向けて笑っているところだった。また、ハッピーの字で、元気になったら食べに来てくださいねとメッセージが添えてある。快気祝いのときに美味いって言ったの覚えててくれてんだな、と呟いて、ブラッドは写真を封筒へ戻した。それから、彼はアレックスを見上げて笑う。
    「ありがとな。写真のことも、バディになってからのことも。――アレックスがいてよかった。オレだけだったら、きっともっと早くに潰れてた」
    「まあ……だろうな。一人では病院にすら行っていまい」
    「ほんとにな」
     ブラッドがくつくつ笑うので、笑いごとではない、とアレックスは釘を刺した。それから、改めて姿勢を正すとまっすぐブラッドを見る。
    「こちらこそ、K.G.Dに加入してからこれまで、随分と世話になった。礼を言う。おかげで、アンドロイドの俺も組織や設備に不便なく馴染めている。……充電ユニットは一階に置いて正解だったな」
    「だろ。役に立ってるならよかったよ。どういたしまして」
     餞別の写真をジャケットの内ポケットに入れたブラッドは、さらりと言葉を返してから立ち上がった。搭乗前に、手荷物を預けに行くのだ。アレックスは念のためそれにも付き添って、耐荷重の小さい医療義手の手元を支えた。
     ――そして、別れのときがやってくる。
    「じゃあ、またな。旅行に来るのを待ってる」
    「お前の全快が先だろう。元気になったと聞いたら検討してやる」
    「気長に待っててくれよなあ」
     ブラッドは自信なさげに眉尻を下げて笑い、アレックスは呆れ顔を作って肩をすくめた。ブラッドは苦笑しながらそのアレックスの肩を軽く叩いて、ゆっくりした足取りで保安検査へ向かっていく。
     その背中をしばらく見ていたアレックスは、ブラッドがちゃんと検査場を抜けたのを見届けてから身を翻した。


     しばらくして、ブラッドの乗っただろう機体が飛行場から飛び立っていく。アレックスは、近場で見晴らしのいいパーキングに停めた車内からそれを見上げて目を細めた。行ってしまうな、と思いながら、小さくなる機体を黙って目で追う。やがて機体が見えなくなってから、ぽつりとアレックスはひとりごちた。
    「……平和の立役者に、今度こそ本当の幸福があらんことを」
     アレックスやソルが、ケインやロイたちを阻止した一方で、イーサンを逮捕し、街の人々にメッセージを伝えたのはブラッドだ。ブラッドもまた、平和に向けての大役を果たした。けれども、彼が何か報われていた様子は、アレックスには覚えがなかった。
     大切なものは失ったまま、幻肢痛や過眠に苛まれ、じりじりと摩耗していく姿ばかりがアレックスの記憶に残っている。せめて一度くらい元気な姿を見てみたかった、初対面のときから既にあいつは傷だらけだった、とアレックスは小さく溜め息をついた。
     この街ではブラッドの心身が休まらないのだと思うと、街の一員であるアレックスは少し悔しい気持ちになる。もう少し貢献してやれることは、報いてやれることはなかったかと考えるが、医療アンドロイドでもDAでもないアレックスがしてやれることなど多くない。こうして送り出してやることが精一杯なのだろう。
     そう思うと、無力感や不甲斐なさがせり上がってアレックスの眉間に小さくしわが寄る。アレックスは、その気持ちを振り払うつもりですぐに車のエンジンをかけると、速やかにパーキングを後にした。車はエンドーの私物だから、エンドーに返しに行くのだ。アレックスは、K.G.D本部棟職員用の駐車場に車を入れると、本部棟二階のロッカーで制服に着替えて長官室へ向かった。
     長官室のエンドーに車の鍵を返し、アレックスは報告する。
    「ブラッドは無事に旅立った。写真も渡した……あとは、俺たちにできるのは祈りだけだ」
    「そうか。報告ありがとう、アレックス」
     ふっと穏やかに微笑んだエンドーへ、アレックスはぶっきらぼうに言った。
    「前に、八つ当たりをして悪かった」
    「ん、気にしていないさ。無力感はよく分かる」
     エンドーはそう言って苦笑した。それから、椅子を立って長官席の後ろの窓から街を見下ろす。
    「街の平和は取り戻せても、体のことばかりは、どうにも、な……。……ブラッド以外にも、戦乱で負った傷の後遺症に苦しむ人は多いよ。病院の様子を見れば嫌でも分かる……たとえ街が平和になっても、ひとりひとりの幸福までの道のりは長いんだと実感する。――自分たちにできるのは、その病院や医療を守ること、ひいては街の、世界の平和を守ることだ。明日から、バディとしてよろしくな、アレックス」
    「ああ」
     窓から振り向いたエンドーが手を差し出してきて、アレックスは自然とその手を握り返した。すると、エンドーがにまりと笑ってアレックスを見上げる。
    「なあ、自分とお前の間にも、友情が生まれるかな?」
     前にも聞いたことのある言葉だったが、アレックスはそのときと変わらずに淡々と答えた。
    「……まさか、俺とブラッドが友人だと思っていたのか? あれは任務上のバディだ」
    「そうなのか? だとしても、やはり自分は友情も築いていきたいな」
    「…………」
     そういうことを言わないのがブラッドのいいところだった、と思い返しながらアレックスが半眼でエンドーをねめつけていると、彼は笑いながら手を解いてアレックスの背を叩く。
    「まずは、実地調査から行くか。少しきな臭い地域があるんだ」
    「長官御自ら動くのか」
    「こっそり、な。カイとレッカが、露払いはしてくれている」
     にやりと笑ったエンドーの横顔には、茶目っ気だけではない凄みがある。アレックスは、すいと目を細めて一歩踏み出した。
    「成程。そういうことなら、久々にフル稼働できそうだ」
    「うん、存分に活躍してくれ」
     アレックスの先に立ったエンドーが振り向いて言った。
    「ブラッドにも気軽に遊びに来てもらえるような、平和であたたかな街にしよう」
     そのエンドーの後についていたアレックスは、はたと瞬きをしてから大きく足を踏み出す。そうして新たなバディの隣に並んでから、長身のアンドロイドはしっかりと頷いた。
    「ああ」
     それを横目に見て、エンドーが破顔する。アレックスは、まっすぐ前を見ながら長官室のドアを開けて廊下に出た。
     再会の場所は、一つきりではないはずだ。


     離陸した飛行機の座席で、ブラッドは改めてレター封筒の中身を見つめた。落とさないように注意しながら、医療義手で慎重にめくっていく。
     キーンやカイたちK.G.Dの仲間やハッピーの写真とメッセージ、遠いところからはリクとバリィ、ソルやエルも写真を届けてくれている。ロイとノリスは、快気祝いのときの写真にアレックスがメッセージを代筆したようだった。とはいえ、メッセージを考えたのは本人たちではなくほとんどエルではなかろうか、と、らしくない文面を見ながらブラッドは小さく笑った。
     そのアレックスからも写真とメッセージが贈られている。エンドーと一緒に映った写真に二人分メッセージが添えられていて、アレックスのメッセージには、何か一つでも良い思い出が撮れていたならば嬉しい、とあった。てっきりエンドーばかりが撮ったのだと思っていたが、アレックスも撮影に携わったのだろうか。
     最後の一枚は、ケイン――ではなく、ウィルの写真だった。ウィルとウィンが、いつか見せてもらった少年期の写真のように肩を組んでいて、その横でマットが澄まし顔をしながらピースサインをしている。マットの澄まし顔とウィンの笑顔に挟まれたウィルは、きょとんとしながらもカメラに向かって笑顔を作っているようだ。
     映っている三人それぞれの様子がバラバラなのでなんだか笑えてきてしまうが、彼らがそれだけ自由に過ごせているのであれば、素直に良かったなと思う。また、エンドーかアレックスか分からないが、わざわざこの三人にも写真を頼んでくれたのだと思うと、心のうちがばれていたのかと気恥ずかしくなる。ウィルのことは、ブラッドもずっと気にしていた。あまり頻繁に会いに行くこともできないから、ほとんど言葉にはしなかったのだが。
     ウィルたちの写真にもメッセージがついていて、ウィンとマットの見舞いのメッセージの間に、ケインとよく似た懐かしい筆跡がある。そこには、丁寧だけれどもやはりどこか他人行儀な言葉が、ウィルのサインと一緒に綴られていた。

     ブラッドさんへ
       俺のことを気にかけてくれたと聞きました。ありがとうございます。おかげさまで元気にやっています。
       次は俺が貴方を元気にしたいです。もしよかったら、また今度この町に来てください。生まれ変わった町を案内します。
                              ウィル

    「……」
     親しい人に宛てるような言葉遣いではないけれども、言葉遣いが違うだけで気遣いは変わらない。ウィルのメッセージにケインの面影を思い出したブラッドは、泣き笑いのような顔で写真を封筒にしまって、大事に懐へ入れた。不意に眠って、座席の下にでもばらまいたら大変だ。封筒が落ちないのを確認して、ブラッドは窓の外を眺めた。
     どこまでも続く空に、遮るもののない太陽に照らされた鮮やかな雲が広がっている。その明るさは、今のブラッドには酷く眩しかった。
     ウィルに――ケインに、思い出してほしいわけではない。苦しむくらいなら、忘れていて構わないとさえ思う。それでも、ブラッドの胸の中には、ケインのいなくなった場所へ穴が空いたままだ。ダークがいなくなった場所にも、DAがいなくなった場所にも。
     その穴の埋め方が分からない。なくなったものはもう戻っては来ないだろうけれど、ウィルやアレックスに代わりを求めて、それで埋めることには抵抗がある。
     今までは、ずっと蓋をしていた。けれども、世界が平和を求めるに従って、憎悪というその蓋は捨てざるを得なかった。蓋を捨てたからといって、埋め方が分かるわけでもないのに。
     あるいは、そうやって蓋をして目を逸らしていたせいで、埋め方を学べないままここまで来てしまったのだろうか。ブラッドは自嘲気味に笑った。
     平和とは心を殺すものだ。少なくともブラッドは、そうすることでしか平和に貢献できなかった。本当は、アレックスもハッピーも、活動しているアンドロイドのことごとくが恨めしかった。どうしてダークではないのか、どうしてそこにダークがいないのか、叫び出して薙ぎ倒してやりたかった。けれども、それが八つ当たりだと自分でも理解できたから、そういう心を殺すことに躊躇いはなかった。ダークを奪ったテロの首謀者が、アンドロイドではなくイーサンだと判明してからはなおのことだ。
     欲しいのは憎悪でも戦乱でも平和でもなく、ただ失ったものを取り戻すことだけだった。だが、そんな方法は、最初からどこにもありはしない。だから、ブラッドにとっては平和などほとんど無意味で無価値だった。ただ、平和でなければ進められない議論や開発できない技術、維持できない医療があるから、K.G.Dとして公衆へ尽くしたに過ぎない。そういう演技をしていたに過ぎない。
     たとえブラッドには無価値でも、世界には平和が必要だ。だから自分の八つ当たりや我儘は黙殺して、ただ平和を支えることだけを考えた。そのためにはアレックスの淡々とした横顔が非常に参考になったし、ブラッドがそうしていても何も言ってこないアレックスの存在は有り難かった。アレックスがいたから、ブラッドは自分の振舞いを御することができた。
     だから、ブラッドにとってアレックスは良いバディだった。アレックスにとってどうだったかは分からないけれど。いや、結局こうして中途半端に役目を降りてしまったから、良いバディだとはとても言えないだろう。良いバディになれなくて申し訳なかったな、と思いながら、ブラッドは窓の外の雲を眺めて目を細めた。
     平和の支えに徹すると決めたのは自分だ。それでも息苦しかった。だからせめて、ファルたち市民は、今は楽に呼吸ができていることを願う。オレが相手になる、なんてテレビ放送で啖呵を切ったのだから、途中で投げ出さずに最後までK.G.Dにいるのが筋なのだろうけれど、体が思うように動かなくなってしまっては仕方がない。とはいえ、イーサン逮捕の日の演説を頼りにブラッドを尋ねる者はいつの間にか途切れていたから、あるいはブラッドの役目は完全に終わっているのかもしれない。ブラッドは、それならこの体も御役御免なのだろうか、と胸の奥で呟いた。
     腕の痛みは、今ではもうほとんど止まない。じくじくとした痛みは、離れることなくブラッドの体につきまとっている。薬がなければ起きてもいられないし、治るのかどうかもブラッドには疑わしい。ダークがいないなら世界にも平和にも意味なんてなかった、それでも体を動かし続けた、だからこうして限界が来た。それだけの話だ。
     ならばこのまま眠らせてほしい、埋もれさせてほしい、とブラッドはゆっくり目を閉じた。腕の痛みはダークを思い出す。奪われたこと、喪ったこと、怒りも悲しみも思い出す。けれどもそれらを向ける先がない。平和のためには、誰に向けるべきでもない。誰かへ向ける体力も、ブラッドにはもう残っていない。眠ってしまうのが一番楽なのだ。誰も傷つけないで済むし、傷つけないように気を張る必要もない。息をする必要がなければ、息苦しいと感じることはない。
    「…………」
     かさり、と内ポケットで封筒が鳴った。それでも、脳裏によぎる面影の数々がブラッドを繋ぎ留めている。いつかまた会えるのかもしれないし、もう夢の中でしか会えないのかもしれない。瞼の裏へ、懐かしい人々の顔が浮かんでは消え、ブラッドをうたた寝に誘った。ブラッドは、故郷へ向かう飛行機の中で、ほんの少し微睡んだ。


     その後、どうにか着陸時には目を覚ましたブラッドは、実家に顔を出して自分の荷物が届いているのを確認してから病院へ向かった。入院に関わる雑事を済ませ、その日から病室で寝泊まりする。
     ブラッドには、幻肢痛をやり過ごすための睡眠薬が必要だが、過眠症の改善のためには睡眠薬などないほうが良い。その折衷ラインを見つけるのが、病院のもっぱらの方針らしかった。医療義手をつけて寝たり外して寝たり、薬を飲んだり飲まなかったりしながらちょうどいい折衷ラインを探す。幻肢痛だけは、朝夕も義手の有無も問わず断続的にブラッドを苛むが、療養は少しずつ効果を発揮して、眠気を堪えずともブラッドがしっかり起きていられる時間はじわじわと長くなっていた。
     故郷での入院から二ヶ月ほど経ち、起きている時間の長さだけでなくリズムも安定してくると、ブラッドは外出許可を取って自警団に顔を出した。日中にちゃんと起きておくための薬を貰って、念のため非番の団員――クローザとキリオスだった――に迎えに来て付き添ってもらいながら、自分の足で自警団の詰所へ赴く。
     賑わう町を見物しながら詰所へ着くと、誰もがブラッドとの再会を待ちわびて喜んでくれて、ブラッドは久々に自然と口元が綻ぶのを感じる。
     そんな中で、ブラッドは自警団に新顔を見つけて瞬きをした。その視線を追ったギャレンが、新人の肩を叩いてブラッドに紹介する。
    「新人のレニだよ! 今は俺たちと一緒に研修中。ブラッドが退院したら、もしかしたら組むことになるかも」
    「初めまして。アンドロイドのレニと言います。お会いできて嬉しいです」
     さらりとした黒髪を肩口で揺らして、小柄なアンドロイドは頭を下げた。ブラッドはしばらくそれを見つめて言葉を探す。
     彼には何の非もないはずで、だけれどもブラッドの心のうちは、ざわざわと急に落ち着かなくなった。アレックスと一緒にいた頃と同じだ。何故、そこにいるのがダークではないのだろう、と、いくら問うても意味のない問いばかりがブラッドの胸の内側を引っ掻く。ブラッドの長い沈黙に周囲の視線が少し泳ぎ始めた頃、ブラッドはようやく口を開いた。
    「……アンドロイド団員、なんだな。オレは、あんたの身内を壊したか?」
     一瞬、詰所がしんと静まり返る。問われたレニは、まっすぐブラッドを見ながら答えた。
    「いいえ。わたしや、わたしと近しいアンドロイドは、みんな無事です。だから、少なくともわたしには、ことさらに貴方を敵視する理由はない。気負わず接して頂きたい」
     ブラッドよりも、自警団の仲間たちのほうが、安心して息をついたり胸を撫で下ろしたりする気配がある。レニは、そんな自警団の面々が見守る中で毅然として続けた。
    「また、わたしは……貴方が、過去にどれだけアンドロイドを壊していたとしても、今になってそれをとやかく言うつもりはありません。非常事態は、ヒトから正常な判断を奪います。イーサンが作り出した非常事態の中での、ヒトやアンドロイドの判断や行動を、わたしはもう糾弾しないと決めました。わたしは、誰かの過去を糾弾するためではなく、今日この町の平和を守るためにここにいます。ここで争いを起こすつもりも、誰かを傷つけるつもりもありません。貴方もそうである、と信じています」
    「……」
     ブラッドは思わずレニを見つめて、そのまっすぐ芯の通った眼差しが眩しく思えて目を細めた。そんなふうに信用してもらえる謂れは、今のブラッドには分からなかったが、いつか復帰して互いの人となりが分かったら、理由を訊くのもいいかもしれない。
     ブラッドは仄かに表情を緩めてみせる。
    「……そうか。ありがとな」
     今度はレニが瞬きをして、それから、ともに働ける日を心待ちにしていますと微笑んだ。ブラッドは、レニの他にも周囲の仲間を見回して笑う。
    「みんなも、ありがとな、仕事中なのに……。それでも、会えて嬉しいよ。元気そうで、良かった」
    「あはは、そんなこと! ブラッドも早く元気になってよ!」
     ユアンがブラッドの背中をぺちぺち叩き、それを皮切りに自警団の仲間たちがブラッドをもみくちゃにする。久しぶりにけらけら笑ってされるままになっていたブラッドは、やがて皆が落ち着いてお茶に手をつけた頃、そっと訊ねた。
    「……それでよ、ダークの機体は、今……」
     ブラッドが最後に見た限りでは、回収できた分の機体は自警団のラボに安置されていた。まだそこにあるのなら一目会いたい、と思ったブラッドだったが、それを聞いたプルームの顔が強張る。
    「えっ? ブラッド、聞いてないの……?」
     え、とブラッドが軽く目を瞠ると、湯呑を置いたクローザが静かに言った。
    「ブラッドさんがこの町を出てしばらく……K.G.Dを名乗る人たちが、ダークさんの機体や、我々が調査した違法電波のデータを回収して行ったのです。今にして思えば、K.G.Dでの調査に役立てるどころか、イーサンに揉み消されたのでしょうね」
     クローザは悔しげに柳眉を歪めた。K.G.Dが機体やデータを持っていく代わりに、自警団は余計なことをせず自分の町だけ守っているように、と釘を刺されたことまで顛末を聞いて、ブラッドは悄然と肩を落とした。
    「……そんなことが……」
    「K.G.Dと言うくらいだから、てっきりブラッドくんにも連絡が行ってると思ったんだけど……。イーサンのすることなら、行ってるわけがないよね。ごめんね、連絡してなくて」
     そう言ってロールは謝るが、元はと言えばイーサンが悪いのだし、当時のことを思い返せば、ブラッドにも非がある。ブラッドはロールに言った。
    「いや……先に連絡をサボってたのは、オレのほうだよな。すまねえ。何回か連絡くれてたのに、ろくな返事もできなくてよ」
     ブラッドが町を出てからK.G.Dに入ってすぐの頃くらいまでは、ロールやプルームから何度か連絡が来ていた。ブラッドの義手や体調、新しい職場のことを気遣うものであったり、ブラッドが去った町の復興具合であったり。
     だが、その頃のブラッドには余裕がなくて、返事どころか読みもしていないことまであった。そのうちに自警団の仲間たちから連絡が来ることはほとんどなくなり、ダークの機体が奪われたのも、きっとその時期のことなのだろうとブラッドは推測する。
     義手と同時期に与えられたDA機が、ダークのデータを元にして設計・製造されたことは聞かされていた。だが、せいぜい製造元からのデータや自警団のバックアップデータでも参照したのだろうと聞き流していたから、まさか機体ごと自警団から奪っていたとは思わなかった。やっぱり何発かイーサンを殴っておけばよかったな、と、物騒な冗談がブラッドの脳裏をかすめる。そうして一人でおどけてみながら、ブラッドは医療義手でマグカップを持ち直した。
     けれども、冗談を言ってみる頭の中とは反対に、ブラッドの胸の奥にはまた一つ鉛が沈む。
     ――ここにもダークはいないのか。
     カップの中を覗き込むと、ミルクコーヒーの液面に浮かない顔の自分が映った。無い腕がまたじわりと痛んでカップの中のブラッドが眉をしかめるが、その痛みを散らすように、ブラッドは急いで表情を作って顔を上げた。
    「……それで、みんなに怪我は? 何か……データ持ってくのに実力行使とかされなかったか」
    「避けられぬ争いだったが、それほど酷い怪我にはなっていない。皆、すぐに完治したから安心しろ」
     ランベルの返答にブラッドはほっとして、それからマグカップに口をつけた。暴力沙汰自体はあったのか、とイーサンに対する怒りがほのかに腹の底で蠢くが、奴は既に公判も終わって服役している。もはやブラッドの出る幕はなく、怒ったところで仕方のない過去のことだ。ブラッドは自分にそう言い聞かせて、カップの中のミルクコーヒーを半分まで飲んだ。
     そういえば昔、自警団によく差し入れを持ってきてくれるコーヒーショップの子どもたちがいた。彼らは無事だろうか。無事なら、今はもう随分青年らしくなっている年頃かもしれない。ぼんやり思い出しながらカップを眺めていたブラッドに、ランベルが自警団のジャケットを差し出した。
    「移籍の際、我が譲り受けた貴公のジャケットだ。今こそ反転と帰結の時……貴公が再びその装束に袖を通す姿、心待ちにしている。闘病の励みになるならば持ち帰るもよし、ロッカーの予約がてらハンガーにかけてゆくもよし、だ。己の心のままにせよ」
    「…………」
     ブラッドはマグカップを置くと、ランベルが差し出したジャケットを慎重に受け取った。綺麗に畳まれたジャケットは手入れが行き届いていて、ブラッドが再び袖を通すのを待っている。ブラッドは、そのジャケットを医療義手で抱えてくしゃりと笑った。
    「……ありがとな、ランベルさん。みんなも、待っててくれてありがとう」
    「何の何の、それが仲間というものでにゃんすから」
     キリオスが軽やかに笑って、それにつられて自警団の詰所に笑い声が弾ける。それからしばらく談笑した後、またキリオスとクローザがブラッドを病院まで送ってくれて、その二人が自警団詰所に戻ってくる頃、町には夕暮れの色が滲み始めた。
     詰所に戻ったキリオスとクローザを迎えたプルームが、詰所のデスクで小さく息をつく。
    「ブラッド、なんだか少し、痩せたね……。医療義手だからそう見えるだけなのかな……」
     プルームが見慣れた自警団ガジェットの籠手よりも、医療義手はずいぶんと簡素で軽量だ。そのせいで見た目の横幅が減って見えるだけなら、と、わずかな願望を含んだプルームの言葉は、しかし誰も肯定しない。その沈黙が何より雄弁だ。ブラッドの変化を、見間違いや気のせいだと言える者はこの場に一人もいなかった。
     その沈黙を、ユアンが破る。
    「また今度、ブラッドのお見舞いに行こうよ。みんなでは押し掛けられないから、ちょっとずつ、代わる代わるでさ。プロテインとか差し入れしちゃう?」
     茶目っ気たっぷりにユアンが首を傾げて笑って、それでやっと詰所の空気が緩んだ。ユアンの傍らにいたギャレンが、そのユアンの背へもたれかかりながらレニを見やる。
    「次の新人が入るのと、ブラッドが復帰するの、どっちが先かな? どっちか早いほうがレニのバディだね」
     今は初夏になったばかりで、レニの次の新人を迎えるにはまだ半年以上ある。それまでにブラッドの体調がどう変化するかは、まだ誰にも分からない。早く回復してほしい、けれどゆっくり療養もしてほしい、そんな二つの気持ちを抱えながら、団員たちはそれぞれ仕事に戻っていく。非番だったクローザとキリオスも家路についた。
     このとき、自警団の誰も、ブラッドの来訪がそれきりになるなどとは思っていなかった。


     その日、クローザとキリオスと一緒に病院まで戻ってきたブラッドは、病院ロビーで二人と分かれて自分の病室へ戻った。持ち帰ってきた自警団ジャケットをハンガーで壁にかけ、夜になるまではどうにか眠気をこらえて、ちゃんと消灯時間になってからベッドに潜り込む。だが、その夜、ブラッドは体調が急変して高熱を出した。
     腕だけでなく体中が痛んで、目が回り、途方もない吐き気がブラッドを苛む。看護師に支えられながら何度も吐いて、もはや胃液しか出なくなってさえ、ずっとえずいて真っ赤な目に涙が滲んだ。水すら戻してしまうので、熱冷ましも痛み止めも飲めない。ブラッドの体は、まるで世界そのものを拒絶しているようだった。
     だが、その苦しみも不意に終わる。もう吐くものがない、と、体がようやく理解したのかどうか。えずきの収まったブラッドは、浅い呼吸を何度か繰り返した後、看護師に支えられた体勢のままですこんと眠りに落ちた。急に全体重を預けられた看護師は踏鞴を踏むことになったものの、ブラッドの寝息は嘘のように健やかで、飲み薬以外で薬を準備して戻ってきた他の看護師らは半ば呆気に取られながらベッドや点滴の用意を整えた。
     ――それきりずっと、ブラッドは眠り続けている。
     翌朝には熱も下がり、いつ起き出してくるかと思っていた医療者たちだったが、朝が過ぎて昼になっても、果ては再び夜が来てもブラッドは目を覚まさなかった。ブラッドは元々過眠症の患者であったし、丸一日眠り続けるくらいは以前にもあったことだが、それが二日、三日と続いてくると、見舞い客の顔も明らかに曇ってくる。やがて、ブラッドの体には何本も管が取りつけられて、その先の機械が生命維持を行うようになっていた。
     そして、もしかしたらもう目覚めないかもしれない、と、ブラッドの病室を訪れる誰もが胸の底に恐れを抱き始める。ひとつふたつと季節が過ぎ、色褪せた髪が目に見えて伸びても、ブラッドは目を覚まさなかった。義手を外して眠っていても、かつてのように痛がったり苦しんだりという様子が見受けられないのは一安心だったが、一方で、痛がってでも目を覚ましてくれたら、と思う者も少なくない。そうした周囲の心配や思惑をよそに、病室のブラッドは、いつまでも静かな寝息を立てていた。
    浅瀬屋 Link Message Mute
    2024/01/14 16:06:46

    第Ⅲ章-揺れ動く人々

    『人機黎明闘争 Cybernetics Wars ブラッド異聞 DA-190』
    web版 第Ⅲ章です。

    紙版は2024/1/28 ミラフェス 東4ホール・コ44b 『浅瀬屋』で頒布予定です。
    (A5判2段組 244ページ(背幅14ミリ)しおり紐2本つき 会場頒布価格:3000円)

    #DA-190 #サイバネ2

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    • DA-190 SS集24/1/12 SS「Fluorescent Oil」追加しました。

      ミラフェス32内 一魂祭 (神速プチ)新刊
      『人機黎明闘争 Cybernetics Wars ブラッド異聞 DA-190』
      web版 SS集です。

      紙版は2024/1/28 ミラフェス 東4ホール・コ44b 『浅瀬屋』で頒布予定です。
      (A5判2段組 244ページ(背幅14ミリ)しおり紐2本つき 会場頒布価格:3000円)



      ※支部に投稿していたSSのまとめです。
      CP要素はほんのり。読んだ人が好きなふうに解釈してもらって大丈夫です。
      ただし全然幸せじゃない。しんどみが強い。

       サイバネ・ブラッドくんとアンドロイドの話。
       ブラッドくんの欠損・痛覚描写、アンドロイドの破壊描写有り。
       細かい設定の齟齬は気にしない方向で1つ。

      #サイバネ2  #DA-190
      浅瀬屋
    • DA-190 自警団編24/1/12
      『人機黎明闘争 Cybernetics Wars ブラッド異聞 DA-190』
      web版 自警団編です。

      紙版は2024/1/28 ミラフェス 東4ホール・コ44b 『浅瀬屋』で頒布予定です。
      (A5判2段組 244ページ(背幅14ミリ)しおり紐2本つき 会場頒布価格:3000円)

      DA-190短編集再録その2。過去編(自警団編)2本です。

      ・もしもその声に触れられたなら
       支部からの再録。ブラッドが相棒と両腕を失った日
       ※捏造自警団メンバー(彩パレW)あり。お察しの通りしんどい。

      ・ひとしずく甘く
       べったーからの再録。平和だったころのある日、ブラッドと相棒のバレンタイン。
       ※ほっこり系。恋愛色強めだけど左右までは言及なし。曖昧なままで大丈夫なら曖昧なまま、左右決めたいなら各自で自カプ変換して読んでください

      #DA-190 #サイバネ2
      浅瀬屋
    • あとがき/ノートあとがき、プラス裏話集。あそこのあれはどういう意図で選んだとか、このときこんなことがあって大変だったとか。
      2P以降の裏話はネタバレとか小ネタ解説とか浅瀬屋の解釈とかなので、読むならご自身の解釈の邪魔にならないタイミングが良いかも。

      #DA-190 #サイバネ2
      浅瀬屋
    • 人物一覧『人機黎明闘争 Cybernetics Wars ブラッド異聞 DA-190』
      web版 人物一覧です。

      紙版は2024/1/28 ミラフェス 東4ホール・コ44b 『浅瀬屋』で頒布予定です。
      (A5判2段組 244ページ(背幅14ミリ)しおり紐2本つき 会場頒布価格:3000円)

      #DA-190 #サイバネ2
      浅瀬屋
    • エピローグ『人機黎明闘争 Cybernetics Wars ブラッド異聞 DA-190』
      web版 エピローグです。

      紙版は2024/1/28 ミラフェス 東4ホール・コ44b 『浅瀬屋』で頒布予定です。
      (A5判2段組 244ページ(背幅14ミリ)しおり紐2本つき 会場頒布価格:3000円)

      #DA-190 #サイバネ2
      浅瀬屋
    • 幕間-ダーク編『人機黎明闘争 Cybernetics Wars ブラッド異聞 DA-190』
      web版 幕間(ダーク編)です。

      紙版は2024/1/28 ミラフェス 東4ホール・コ44b 『浅瀬屋』で頒布予定です。
      (A5判2段組 244ページ(背幅14ミリ)しおり紐2本つき 会場頒布価格:3000円)

      #DA-190 #サイバネ2
      浅瀬屋
    • 幕間-クローン編『人機黎明闘争 Cybernetics Wars ブラッド異聞 DA-190』
      web版 幕間(クローン編)です。

      紙版は2024/1/28 ミラフェス 東4ホール・コ44b 『浅瀬屋』で頒布予定です。
      (A5判2段組 244ページ(背幅14ミリ)しおり紐2本つき 会場頒布価格:3000円)

      #DA-190 #サイバネ2
      浅瀬屋
    • 第Ⅱ章-平和を掴むために『人機黎明闘争 Cybernetics Wars ブラッド異聞 DA-190』
      web版 第Ⅱ章です。

      紙版は2024/1/28 ミラフェス 東4ホール・コ44b 『浅瀬屋』で頒布予定です。
      (A5判2段組 244ページ(背幅14ミリ)しおり紐2本つき 会場頒布価格:3000円)

      #DA-190 #サイバネ2
      浅瀬屋
    • 第Ⅰ章-集いし者たち『人機黎明闘争 Cybernetics Wars ブラッド異聞 DA-190』
      web版 第Ⅰ章です。

      紙版は2024/1/28 ミラフェス 東4ホール・コ44b 『浅瀬屋』で頒布予定です。
      (A5判2段組 244ページ(背幅14ミリ)しおり紐2本つき 会場頒布価格:3000円)

      #DA-190 #サイバネ2
      浅瀬屋
    • プロローグミラフェス32内 一魂祭 (神速プチ)新刊
      『人機黎明闘争 Cybernetics Wars ブラッド異聞 DA-190』
      web版 前書き・プロローグです。

      製本版:A5判2段組 244ページ(背幅14ミリ)しおり紐2本つき
      通販→https://www.b2-online.jp/folio/19012500006/002/
      全文webにアップ済ですので、お手元に紙が欲しい方は上記FOLIOへどうぞ!


      #DA-190 #サイバネ2 #一魂祭 #MIRACLEFESTIV@L!!32
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