幕間-ダーク編 ――カチ、と、体の中で何かが嵌まる音がする。
「あ!」
ゆっくり目を開けると、眼鏡をかけた青年が自分を覗き込んでいた。声を上げた青年は、ぱっと顔を上げて周囲へ呼びかける。
「ノインさん、ダンくん! ダークくん起動しました!」
「おお、リーズ、ほんまか! 先生もこっちへ、はようはよう!」
視界の外からも元気な声がして、ダークはそちらに顔を向けながらゆっくり起き上がる。
「……ノイ、ン……?」
ダークが目を覚ましたのは、どこかの研究室にある開発ポッドの中であるようだった。そして、眼鏡の技師が呼んだその名前は、DAシリーズの整備を担当していた技師のものだ。ダークは、自分が寝かされていたポッドへ駆け寄ってくる技師の顔を見て瞬きをした。
開発ポッドのへりに手をついてダークの顔を見上げたノインは、長い前髪に隠れていないほうの片目をそっと細めて息をついた
「……ダークさん、久しぶりだな。おれが分かるだろうか?」
「ああ……整備士の、ノインアニさんだろう。貴方が、俺を直してくれたのか」
ダークの記憶では、最後のDAは倒壊するビルの瓦礫からブラッドを守って、右腕が折れたり瓦礫から飛び出した骨組が機体に刺さったりしていた。おかげで瓦礫の下から這い出せずにブラッドを見送るしかできなかったのだが、ノインが瓦礫からDAを掘り出して直したのだろうか。
ダークが訊ねると、それにはもう一人の技師が答えた。眼鏡の技師がダンと呼んでいた相手だ。
「直したというより、ほぼ移植じゃの。分解しながらやれるだけパーツを持ち出したんじゃが、使えるほど無事なパーツはあんまりなかった。ほとんどは新パーツじゃし、先生はお前さんを介護型設計にはしておらん」
その言葉に、ダークはハッとして腕を動かした。かすかなモーター音とともに動く腕は、介護型の軽量パーツではない。懐かしい感触は、かつてGBだった頃に近いものだ。
「これは……」
ダークが茫然として呟くと、その傍らでノインが微笑みながら頷く。
「GuardiAn……GA‐0722。あなたの新しい型番だ。おれたちが設計・開発した、新しいアンドロイド。それが、今のダークさんだ」
さあ、と、ノインはダークへ手を差し出した。
「……最後の仕上げだ。ソフトとハードの動作確認をしよう」
ラボ・マリーナというのが、この研究所の名前らしい。所長ノインと、外装担当リーズ・内部機構担当ダンの三人で運営しているそうだ。
「……元々、いつか整備工から独立して開発をしたいと思っていてね。いい機会だから、自分のラボを立ち上げて、新しいあなたの開発に注力したんだ」
ダークと一緒にラボの廊下を歩きながら説明するノインの一歩前で、ダンが目的の扉を開けて二人を招き入れる。
「動作確認はこの部屋じゃ! さあさあ、中に入ってくれ」
その部屋は、かつてブラッドも使っていたようなトレーニングマシンが壁際にずらりと並べられ、部屋の中央には広く空間が取られていた。ダンはその空きスペースの床へ、何か円筒状のガジェットを並べていく。
花瓶か水筒のようなその円筒ガジェットを並べてダンが床へ固定した後、ノインがタブレットを操作すると、その円筒からまっすぐ上へ光柱が生えた。光柱はノインのタブレットでダークの背丈と同じくらいの高さに調節され、ダークがそれを眺めているうちに、ダンが壁際から何か道具を取って戻ってくる。
そのダンが差し出してきた、センサーを寄せ集めて作られた平べったいスティック――木製でこそないものの、形や大きさはほぼ木刀である――を一本受け取り、ダークは瞬きをした。ダンもまた同じようなスティックを持っていて、彼はにかにかと笑って光柱へ目をやる。
「今から、瞬発力や精密動作のチェックをするぞ! まずはワシを見とってくれ!」
ダークが頷くと、ダンが光柱の前でセンサースティックを構える。それを確認したノインがタブレットを操作すると、光柱に次々と赤い線が閃き、そしてそれを追うように、ダンのスティックが光柱を斬り払った。
それからすぐに元の立ち位置と構えに戻る様子は、かつてクローザが挑戦していた居合に似ている。そう思ってダークがダンの構えを見ていると、ノインのタブレットがピピッと鳴ってスコアを示した。
その表示をダークにも見せながら、ノインが説明してくれる。
「……あの赤い線を正確になぞる精密性、複数の柱へランダムに表示される線に対応する瞬発力、単純な斬撃の速度……スポーツとして長年やっているダンの総合スコアがA++だから、ダークさんの目標値はAとしよう。練習と調整は三回まで、もしもそれまでにスコアが出なければ……申し訳ないが、あなたは未完成だ。再度改良とメンテナンスをさせてほしい」
「合点承知。よろしく頼むぜ、アニさんがた」
ノインから説明を受けると、ダークもまたスティックを構えて光柱に相対した。では、とノインがタブレットを操作して、その柱に赤く閃光が走る。
途端、認識と計算を瞬時に処理した電脳がダークの機体を駆った。線のすぐ後をダークのスティックが追い、しかし、まだ一回目だ。動きが機体に馴染んでいない。スコアはB、もう少しいける、とダークは電脳の片隅で呟いた。
これはあくまで動作確認であり、スポーツのようにルールや型にこだわる必要はない。もちろん、ダンにとっては居合の型でプレイするのが一番好成績なのだろうが、同様にダークにとっても、この型でなら好成績が出るだろうというプログラムがあった。
都市警の頃から世話になっていた警棒術プログラムが、改良アップデートを経て今のダークにも搭載されている。ダークは二度三度とアプリ・機体の試運転をしてから、ノインに申告して本試験に臨んだ。
――これで結果が出なければ、開発ポッドへ逆戻りだ。しかし、ダークには自信があった。
「……さあ、これが本試験だ。構えは良いか? 用意……スタート!」
ノインの静かな語尾に、タブレットで試験プログラムを操作する電子音が重なる。ほぼ同時に、ダークの機体は光柱へ鋭く踏み出した。
閃光の視認と計測がダークの電脳で瞬時に行われ、演算と結びついたプログラムで機体が駆動する。翻る四肢パーツの先、ダークの操るセンサースティックが光柱に走る赤い線を追い、否、すぐに追い越して、先行予測した軌道を薙いだ。
数秒の間に幾度かそれを繰り返すと、ノインのタブレットからはピピッと電子音が鳴って光柱がしばし点滅し、それから消える。これで動作試験は終了、ノインのタブレットにダークのスコアが表示された。
そのスコアを全員で覗き込むと、ほお、とダンが感嘆の声を上げる。ノインが顔を上げ、ダークを見上げて微笑んだ。
「……A+。期待以上だ、ダークさん。ダンも、素晴らしい機構設計をありがとう」
「ワシも、自分の設計でハイスコアが出て誇らしいわ! 先生のソフトと共同開発の成果じゃの」
にかにかと笑ったダンは、次に部屋中のトレーニングマシンを見渡してダークへ声をかける。
「他のトレーニングマシンも一通り使ってみるか? 全身動かしてみて、もし気になるところがあったら、ワシがちゃちゃっと直しちゃるぞ。本人の意見を聞きながら調整するのは初めてじゃからのう!」
工具セット片手に顔を輝かせるダンはそう言ってくれたが、さすがに全部使っていると日が暮れてしまうので、ダークはいくつかのマシンを選んで使わせてもらうことにした。その都度ダンに微調整をしてもらい、機構の調整を終える。
「ほんなら、次はリーズの仕事じゃの。これだけ動いて、そいで新品のパーツにどのくらい擦れ跡がついとるかをリーズが見れば、動きのクセとパーツの特性に合わせて外装の素材や強度を提案してくれる。交換用パーツもいっぱい持っとるぞ」
そう言って送り出してくれたダンの言葉通り、リーズは研究室でダークの機体をスキャンすると、そのスキャン画像を確認しながらいくつも交換パーツをデスクに並べてダークをカスタマイズした。
「うんうん、ここが擦れてるから、ちょっとパーツの形を変更しようか……そっちはたぶん、パーツの素材が動きのスピードに負けちゃうな。もっと強い素材にしておこう」
そうして何ヵ所かの外装パーツを取り換えたリーズは、次にダークへ鏡を見せる。
「外見はほぼ以前の通りにしたんだけど、これでいいかな?」
鏡の中には、見慣れた自分の顔がある。ダークは、自分の額をなぞって小さく呟いた。
「これは……」
普通、製造したての機体には傷跡なんてあるはずがないのに、今のダークには以前の通り傷跡がある。しばし呆然とするダークに、リーズがゆっくり声をかけた。
「……その傷は、ノインさんの希望でデザインしたんだ。初めて会ったときのあなたについていたものだから、って」
「……初めて会ったとき? 初めて会ったのは……DAだろう。DAに傷はなかったはず……」
ダークが壁際のノインを振り向くと、ノインは静かに微笑んだ。
「……いいや。おれは、GBの頃のあなたにも会っているよ。……それと……あなたも、おれのもうひとつの顔を知っていると思う。整備士の顔ではなく、もっとオフの……」
キャンプが趣味なんだ、とノインは笑う。残念ながら事故に遭ったことがある、とも。
「……ブラッドさんは、雪深い北の町で自警団をしていただろう? おれは……その町で、自警団のあなたとブラッドさんに助けて貰ったんだ。……ブラッドさんがおれを覚えているかは、分からないけれど」
「――あ」
GBの頃の古いログに、それらしき記録がヒットする。ダークが自警団として活動していた北の町では、冬になると急な天候不良などによる遭難事故がたびたび起こった。その記録の一件に、『遭難者:ノイン』の名前がある。
そこから、日付、状況、場所――紐付くデータが次々と鮮やかに思い出され、そのとき救助した青年の面差しが目の前の技師と重なった。ダークが計算するより早く即断即決で動いたブラッドを総出で後追い補佐・補助して、それでも救助はぎりぎりだった、ブラッドの行動力がなければ、ノインはここにいなかった。
ダークが改めてノインを見ると、彼はそっと目を細めた。
「あのときは、ありがとう。……やっと、恩返しができた。ずっと悔しかったんだ、整備しかできない、あなたたちを助けられない自分が」
それから、ノインは白衣の裾を捌いてリーズの研究室を出ると、廊下から室内を振り返る。
「外装も問題がないなら……これからの、あなたの話をしよう。休憩室にティータイムの準備がある」
ノインとリーズ、そしてダークが休憩室に着くと、ダンが丸テーブルに菓子盆を出してくれていた。それから缶コーヒーが全員に配られて、ダークは懐かしい銘柄に目を丸くする。
ダークの様子を見たノインがくすりと笑った。
「……救助されたあの雪山で貰ったコーヒーが、美味しくて忘れられなくてね。こちらでも買っているんだ。……それに、アンドロイドのあなたにも、当たり前のように渡されていたから……確かに、缶なら飲まなくても置いておけるし譲れるし、飲食をしないアンドロイドも忌憚なく受け取れるのだなと、感心した」
「炊金饌玉、お気遣い感謝するぜ、ノインアニさん。……それで、これからの俺の話、というのは」
ダークは両手で缶コーヒーを包みながら問いかけた。ウォーマーで温められた缶の温度が、じんわりとダークの手に伝わる。新しい機体の温度センサも良好なようだ。
問われたノインは、開けた缶コーヒーを少し飲んでから告げた。
「……あなたのことは、ブラッドさんには一切連絡していない。確実に直せる保証もなかったし、ブラッドさんには悪いが、おれは……DAのあなたを、何度も修理したから。あなたを、無理やりブラッドさんのところへ戻そうとは思っていないよ。あなたの意志が一番だ」
ノインの真摯な眼差しが、丸テーブルの向かい側からダークを見つめる。ノインとダークの間、テーブルの両サイドの席では、それぞれダンとリーズが口をつぐんでダークを見ていた。
少し間を置いてから、ノインは静かに続ける。
「つまり……もしもあなたが、彼のそばへ戻ることを望まないのなら、おれたちはその道も応援する。決まった道は、何もないんだ。ダークさん自身で進む道を選んでほしい」
ダークは驚いてノインを見た。ブラッドのところへ戻らず、彼と別の道を行くという選択肢があるのだと、初めて思い至る。
ノインは謡うように言った。
「新しい型になったあなたは、戦うこともできる、怒ることもできる。もちろん、今まで通り、誰かに寄り添い、助けることもできるだろう。……あなたは、どこに行きたい? 何が見たい? 体験したい?」
たくさんの道がある、と示した上で、ノインはダークに行き先を問うている。コンパスを握るのも、方角を決めるのもダークだ。製作者だからといってノインはダークに行き先を強制したりしないし、ダークもまた、道具として命令を乞う必要はない。
ダークはきっぱりと答えた。
「ブラッドのところへ行きたい。俺は、あいつの笑顔を見るために、また会おうと言ったから。それが、この世界の平和を体現することになると思うから」
ダークが答えると、ノインの目元がふっと微笑む。そして、ダンがテーブルに手をついてすぐに立ち上がった。
「よし。ほんならブラッドに会いに行こう! K.G.Dに聞けば居場所が分かるじゃろう」
そう言ってラボの固定電話へ向かったダンの声が、休憩室の外から漏れ聞こえてくる。やりとりは順調に進んでいるようだったが、ダンは不意に素っ頓狂な声を上げた。
「えっ? もうおらんのか⁉」
廊下から聞こえたその声に、テーブルへ残っていた二人と一機は顔を見合わせる。その後、電話口で二言三言あってから、ダンは休憩室まで戻ってきた。肩を落とすダンに、ノインが思わず声をかける。
「……? ブラッドさんは、K.G.Dにいるんじゃないのか」
「それがのお……。ワシもてっきり、K.G.Dに行けば会える……と思っとったんじゃが、今はもう、在籍しとらんみたいなんじゃ」
ダンが難しい顔で答えると、リーズは頭を抱えて髪を掻き回した。
「そ、そんなあ……ここに来て手詰まりだなんて……」
「……いや、まだ手詰まりと決まったわけじゃねえさ」
ダークはリーズたちの声を遮り、自信ありげに微笑んでみせる。
「また会おう、と約束したからな。俺が探せないような場所には行かねえだろう」
考え込んで黙っていたノインもはっとして顔を上げる。
「となると……故郷へ帰ったのだろうか?」
「胡馬北風、きっとそうだ。念のため聞き込みでもして、裏付けを取るか他の候補を調べるかしたら、俺も北の町へ帰ろうと思う。自警団の皆にも会いてえしな」
「……そうか。では……明朝までに準備をしよう」
そうしてダンとリーズが予備バッテリーなど旅の準備をしてくれているうちに、ダークはノインの研究室で、自己メンテナンスや自警団でのメンテナンス、新旧の機能についてのガイダンスを受ける。今の、GA型のダークには、警察補助型と介護型の両方の機能が搭載されているとのことだった。
「……どちらの機能も捨てがたくて、欲張ってしまった。その反面、整備は少し複雑かもしれないが……自警団の、あの研究員殿であれば、難しいことはないだろう」
「ランベルアニさんか。確かに、才気煥発なあの人なら、軽々やってのけるだろうな」
ダークは自警団の頃のことを懐かしく思い出しながら笑って、それからふっと瞼を伏せた。
「……あいつが間違った道に進むのを、俺は止めてやれなかった。どころか、GBはそのきっかけだったし、すぐそばにいたDAは、介護こそすれ、止めてやれるシステムじゃなかった」
DAが嫌われた理由の一つだろうな、とダークは少し寂しげに笑った。そして、今度はノインを見つめて問う。
「ノインアニさん、今の俺は、その償いをできるだろうか」
長い間、ブラッドを一人きりにした。それでも生き延びてくれたのだから、GBやDAの最後の判断を後悔することはない。けれども、その判断で守れたのは、体や命だけだった。心は守ってやれなかった、DAは、それをひしひしと感じていた。
ダークに問われたノインは、デスクの設計書をなぞりながら答える。
「……Manners maketh man、親しき仲にも礼儀あり……どちらも、誰かと寄り添い合うための言葉だ。おれが、整備士として再会したときのあなたたちには……特にブラッドさんには、そういった部分が欠けているように思えた。おれは、それが信じられなくて……新しいあなたを、自分の手で造った、とも言える。おれの知っているあなたならば……と」
ノインはダークを見上げ、そして再び設計書へ目を落とした。
「……K.G.Dへ移籍してからのブラッドさんの振舞いや功績については、おれは門外漢だから口にしないけれど……おれは、自警団の頃のブラッドさんこそが、彼の本質だと信じている。……あなたが、GB・DAのバージョンを経た『あなた』が、ブラッドさんのその一面を取り戻してくれる、ことも。これは……信じている、というよりも……ただ、アンドロイド設計者としての、身勝手な祈りかもしれないけれど」
それでも、ノインはGAの開発をやめなかった。身勝手な祈りだとしても、それでも見たい世界があったから、とノインは言う。
償いができるだろうか――どのような意図で新しいダークを設計したのかと問うたダークに、ノインは真摯に向き合って答える。
「どの型のあなたも、その過ごした時間や抱いた心は、けして偽物ではないはずだ。あなたたちが、これまで想いを重ねてきたことの意味を……どうか、おれたちにも示してほしい。あなたというアンドロイドの心が、人を……ブラッドさんを救う世界を」
きっと、最初にアンドロイドへ心を持たせた人も、そう願っていた。
ずっと緊張していたダークの表情が、安堵で穏やかにほどける。
「……そうか。俺は、そのために生まれたんだな」
機体のコンディションを整え、旅支度も万全な出発の朝、ラボ・マリーナの門扉を開けてノインは静かに言った。
「……希望という言葉を言い換えるなら、あなたのことだと信じている。……良い旅を」
清々しい朝日に照らされ、ノインは眩しげに目を細める。ダークはラボを振り仰いで言った。
「本当に、何から何まで世話になった。いくら礼を言っても足りねえ」
「なに、お前さんに限らん! もしも願いがあるなら、ラボ・マリーナが背中を押すぞ、いつだって・誰だってのう!」
見送りに来ていたダンが闊達に笑い、リーズもまた自信の乗った微笑みでダークを見上げる。
「そう。そして僕たちも、叶えたいことをあなたに託すね。
今このラボから翔け出すあなたが、人間とアンドロイドが笑顔を分かち合う世界の、新たな一歩になりますように」
「――ああ」
ダークはほのかに笑って目を細めた。ブラッドに会いに行くと決めた、コンパスは既にこの手の中だ。ダークは青空とラボ・マリーナの屋根を改めて見上げ、それから、技術者の面々に視線を戻す。
「きっと叶えてみせる。待っていてくれ」
ダークの言葉に、ラボ・マリーナの三人は揃って笑顔で頷いて、そうしてダークは一歩を踏み出した。まずは、以前ブラッドとDAが住んでいたアパートメントが目的地だ。空を、ラボを照らした朝日は、やがて市街地にも射し込んで新しい日を照らし出す。
GBでもDAでもない、真新しいGA型のダークを、ブラッドが受け入れてくれるかどうかは、会ってみなければ分からない。ブラッドの考える『ダークらしさ』とは何だろうか、今の自分はそれを備えているだろうかと少し不安になるけれども、考えるのは後回しだ。
「……まずはまっすぐ、だな……」
眩しくも優しい朝日の下で、ダークは呟いた。ラボ・マリーナの構える工業区から、ダークの向かう市街地まで、整備された道がまっすぐに伸びている。戦いの跡は、既にない。
北の町で、今日のような平和な日の中で笑い合っていた記憶が、ダークの心の中で太陽のように輝いている。大なり小なり旅には不安が付きものだけれど、その太陽があるから、ダークは晴れ渡るような気持ちで歩いていくことができる。望むものはきっと見つかるだろう。
今日はいい日だ。
「あの子、全然起きなくなっちゃったわね」
「えっ? 以前は、起きていることがあったんですか?」
「新人さんは知らないわよね。そうなのよ、最初のうちは着々と回復して、起きていられる時間も長くなっていってたのよ」
「あら、東棟の彼の話? 挨拶とかお礼とか、こまめに言ってくれる子だったから、ずいぶん寂しくなっちゃったわ」
「そうそう、前は自警団にいた子よ。うちの子と同級生だったんだけど……ここ数年、いろいろあったから。早く、元気な声が聞きたいわ」
案内された病室のドアをそっと叩く。眠っているのか、応答はない。ダークは、ドアのセンサに手をかざして音もなくドアを開けた。
白い病室のベッドの上に、何本ものチューブやコードでいくつもの機械に繋がれたブラッドが眠っている。ダークは静かにベッドのそばまで近寄って、置いてあった丸椅子に腰かけた。
DAの覚えている限りでは、ブラッドがこんなふうに静かに眠っているのは稀だった。腕の痛みでしょっちゅう目を覚まして、暴れて、DAの記憶データは何度もそこで途切れた。だから、静かな寝息が規則正しく続いている様子に、まずは安心してしまう。
「ブラッド」
ダークは小さく呼びかけて、それから慎重に手を伸ばし、ブラッドの色褪せた髪に触れた。覚えているより長い髪は、それだけの時間が経っていることを嫌でもダークに突きつける。何度か、ブラッドの髪を梳くように撫でたダークは、ブラッドに繋がれたチューブ類の長さに余裕があるのを確認してから、そっとブラッドを抱き起こした。
「ブラッド」
眠っているブラッドの肩の下に腕を通し、上半身を起こして自分の胸元へ寄せる。ダークは、眠り続けるブラッドの肩をじわじわと抱き締めた。
「ブラッド……!」
返事はなく、ただ寝息だけがダークの聴覚センサで記録されていく。それでも、センサで感じるその寝息や心拍や体温が、これは覚めない眠りではない、いつかは応えてくれるはずだとダークに伝える。
そこでふと、ダークは案内窓口の青年のことを思い出した。話しかけてあげてと言われたのを思い出し、ダークは静かに口を開く。
「……ブラッド」
何から話そうか、言葉が喉元で絡まって出てこない。話したいことがたくさんありすぎて選べないのだ。ではブラッドの欲しい言葉は何だろうか、とダークは少し考えて、それから、やっとひとつ言葉を選んで声を絞り出した。
「よく頑張ったな……」
あの瓦礫の下から這い出て今日に至るまで、ダークの知らないうちに、どんな出来事があったのだろうか、ひとりで過ごした時間はどれほどだっただろうか。ダークの知らない時間の話を聞きたいけれど、それは、いつか来る穏やかな夜でいい。
ダークがここへ来るまでに見た平和な世界、それを築くためにブラッドもまた奔走したはずだ。だから今は疲れ切って眠っているのだと思って、それならまずは労りたかった。
ブラッドのぱさついた長髪を指先で梳いて、ダークは続ける。
「……ゆっくり休んで、元気になったら……まずは、髪を整えに行くか。そのほうが気も引き締まるだろう。それから、服も……お前の好きな店は、今も同じ場所にあったぜ」
髪も服もビシッと決めて、そうしたら次はどこに行こうか。久々に遠出をするのもいい、懐かしい場所を巡るのでもいい。書店、時計台、大通り。
GBの最後の記憶では壊れてしまっていた町の建物も、今は既に復旧して、懐かしくも新しい町並みの一部になっている。ブラッドはそうした町の一面を知っているだろうか、楽しむ暇はあっただろうか。ダークは、今しがた自分が歩いてきた町並みと、かつてブラッドと一緒に歩いた町並みとを思い出しながら呟いた。
「懐かしいな。一緒に町を歩くなんて、いつぶりだろうな……」
ブラッドの寝顔を見ながら、ダークはブラッドの髪を撫でる。そうしてどれほどの時が経っただろうか、病室も窓の外も薄暗くなってきた頃、ブラッドの瞼がかすかに震えた。
「!」
薄闇にも対応した最新式アイセンサでそれを捉えたダークは、思わずブラッドを抱え直して顔を近づけた。ダークが見つめる先でブラッドの瞼が薄く開けられ、瞬きをしながらぼんやりとダークや自分の身の回りを見て、それから再び閉じていく。その後、ブラッドは寝返りを打つようにして、自分からダークの胸元へ額を擦りつけた。
そこは、機械だから心音はしないけれども、かすかながら絶えず駆動音がする場所だ。 その音に交じって、またブラッドの寝息が聞こえ始める。ダークは、今度は抱え込むようにぎゅっとブラッドを抱き締めて囁いた。
「……ゆっくりおやすみ。また明日」
目を覚ましたとも言えないような、ほんのわずかなひととき。それでも、自らダークに身を預けてくれたことが嬉しい。ブラッドが次に目を覚ましたとき、ここにいるダークが夢でないと知ったら、どんな顔をするだろうか。
ダークはまたブラッドの髪を撫でながら、来たばかりの夜が更けて次に朝が来るのを待ち続けた。