兄ちゃん専属耳かき屋さん「痛って」
長閑な昼下がり、庭で盆栽の世話をする玄弥の耳に小さな声が届いた。
この家に住んでいるのは玄弥と兄の実弥だけで、今日は客人もいない。玄弥は声を出していないのだから、つまりこの声は実弥のものだ。わかっていても言葉の意味を理解するのに数秒の時間がかかった。「痛い」と言ったのか。不死川実弥が。鬼殺隊の柱として勇猛果敢に刃を振るい、鬼の鋭い爪や牙に肌を裂かれても眉一つ動かさなかったあの兄が。
もう戦いは終わったというのに、戦場での張り詰めた姿と素朴に呟かれた「痛い」がうまく結びつかない。何か刃物でも扱っていて怪我をしたのだろうか。あるいは火か。玄弥は慌てて振り返った。
「兄貴……っ」
振り返った先、縁側に面した部屋に実弥はいた。背を向けて座布団に座り、何やら耳元に手をやっている。縁側に乗り上げてよく見れば、傷だらけの手に握られているのは耳かき棒だった。
「あ、なんだ……」
ほっと息を吐く。よかった、と口の中で呟いた。
鬼と戦っているときは、痛みなど気にしていられなかった。玄弥だってそうだった。腹に穴が開いても止まるわけにはいかなかった。
けれど今は、鬼の牙よりもずっと細く脆い棒で感じた痛みに声を上げてもいいのだ。そういう世界を自分たちは勝ち取ったのだと──感傷に浸っている場合ではなかった。
先の戦いで実弥は指を数本失っている。その手で生活することにも随分慣れてきたが、耳掃除のような細かい作業はまだ難しいのだろう。であれば自分の出番である。
「兄貴、俺がやるよ」
「ん?」
近寄って手を差し出す玄弥に実弥は首を傾げた。
「やるって何をだ」
「耳掃除。さっき痛がってたろ、俺がするよ」
「あァ?馬鹿おまえ、いい年した男が弟にそんな……、っ、う」
言いかけて、実弥が不愉快そうに耳たぶを触る。きっと痒みや異物感があるのだろう。早く解消してやりたくて、玄弥はいつになく強気で迫った。
「その手でちゃんとできるようになるまででいいからさ、俺にやらせてくれよ。ほら、痒いんだろ、早く」
ぽんぽんと正座した膝を叩く。すると兄は目を丸くし、視線を何度か膝と玄弥の顔で往復させた。
「は、なん、膝?」
「膝枕が一番やりやすいだろ。兄貴だってそうしてたじゃん」
幼いころは、忙しい母を手伝えることはなんでもした。弟妹の身繕いもその一つだ。小さい身体を抱きかかえて爪を切ってやったり、膝に寝かせて耳掃除をしてやったり。幼い日の兄も当然、玄弥を含む弟たちを膝枕して掃除してくれた。短い時間ではあったが、兄を独り占めできる貴重な時間だった。
「あ、膝枕が嫌だったら座布団畳んで……」
とはいえ立派な体格に育った玄弥である。筋肉質な膝を枕にするのは寝心地が悪いかもしれない。戸惑っている様子の兄を見てそう思い提案すると、何かを耐えるような表情で眉間を押さえて、やがて深く息を吐いた。
「……いい。膝貸せ」
「や、嫌だったら別に……」
「嫌じゃねェ」
食い気味に否定された。じゃあさっきの反応何なんだよ、と思いつつ本題はそこではない。
玄弥の腹に後頭部を付ける形で白い頭が膝の上に収まったのを確認すると、柔らかな耳たぶをそっと摘んで耳かき棒を構える。
「じゃあ、始めるな」
「おう」
耳の中に目を凝らす。決戦後、蝶屋敷を出てから耳を掃除できていなかったためかそれなりに汚れがあった。
匙を入口に当て、カリカリと軽く動かす。
「力加減このくらいでいい?」
「あー……もうちょっと強く頼む」
「わかった」
まずは手前からだ。耳壁と垢の隙間に匙を差し込んで、少しずつ位置をずらしながら掻き剥がしていく。作業に集中しつつも実弥の様子を窺うのを忘れない。痛みを感じても我慢してしまう人だ。今のところ、不快な思いはしていない様子で一安心する。
垢をひとつ剥がしてはちり紙に落とす。剥がれた後の皮膚をこしょこしょと柔く掻くと、実弥の唇からほぅ、と気の抜けた吐息が零れた。
「上手いなァ、玄弥」
「そう?ならよかった。人にするのなんか小さいころ以来だからさ」
最初は遠慮気味だった膝に乗った頭が、少しずつ重たくなる。力を抜いて身体を預けてきてくれている。それが嬉しくて、温かい達成感が胸を満たした。
匙の先端は少し奥へ。先程よりも力加減に注意を払いつつ、繊細な皮膚を掻いていく。垢のない場所でも刺激されると気持ちがいいものだ。垢を剥がす合間に何もない部分もこりこりと撫でて、少しでも兄に気持ちよくなってもらおうとする。その努力が功を奏したのか、膝の上の兄は瞼を閉じて深い呼吸をしていた。時々伏せた瞼が震えるのは、特に気持ちいい所を匙が掻き上げた時だ。
耳穴の深い所に行くにつれ、少々手ごわく張り付いた垢がちらほらと現れる。何かしらの理由で耳に長く残った年季の入ったものだ。焦って強く剝がしては痛いだけ。根気強く、壁と垢の僅かな隙間に匙を潜り込ませては慎重に隙間を拡げていく。
「はぁ……」
実弥の口から甘い溜息が漏れる。長いこと垢がこびりついていた皮膚が適度に固い匙で掻きむしられているのだ、それは気持ちいいだろう。
しっかり者の兄を自分の手で緩ませている喜びに胸を弾ませながら、より一層の集中をもって垢に挑む。
硬い垢がぺり、と剥がれた瞬間は伏せた睫毛がひときわ強く震える。剥がれた後の淡い桃色の皮膚をゆるく掻いて痒みを宥めながら、玄弥の視線は一番の大物を捉えた。
やや奥まった場所に鎮座した大きな垢。色も濃く、おそらく一番頑固に皮膚にへばりついている。
「兄ちゃん。ちょっと奥の大きいやつやるから、動かないでな」
「……ん?ああ、おう……」
実弥の声はぼんやりしていて、相当に力が抜けているのだと分かる。せっかくここまで緩ませたのだから、最後まで心地よく終わらせてあげたい。
深呼吸。耳たぶを摘まみなおして、匙を大物へ向かわせた。
やることは同じだ。少しずつ時間をかけて剥がしていく。ただ一際硬いせいか、時折狙いを外して垢の表面を擦ってしまう。垢越しに下の皮膚を刺激される痒み交じりの快楽に、兄の口から「あ」だの「ん」だのもどかしそうな声が漏れた。
「ごめん、痒いよな」
「や……痒い、けど、嫌な感じじゃねぇから気にすんな……」
「うん。時間かかるけど、絶対痛くしないから頑張って」
「頑張ってんのはおまえだろォ……」
話す間にも匙を動かす。かり、かり、こり、こり。兄の耳の中で響いているだろう音が、玄弥の耳にも届くような気がした。
垢は半分ほど剥がれてきている。久々に外気に触れてむず痒いだろうと、合間合間に剥がれた後の皮膚を甘く掻くと実弥が蕩けた声で喜んだ。
「ぅ、あ……それ、いいな……」
こうもいい反応をくれると、自分はなかなか耳掃除が上手いのでは?という気持ちになってくる。大切な兄を喜ばせる手段が増えるのは誇らしかった。
「こんなにいい腕なら店やってもいいかもなァ…………いや、やっぱなしだ」
「なんでだよ。別に俺は兄ちゃん以外にする気ないけどさ」
「……ああ、そうしとけや」
数秒で意見を変える妙な言動を不思議に思いつつ手を動かす。兄以外に耳掃除をする気はないとは言ったが、師や炭治郎たち友人の顔を思い浮かべ、彼らにならいいかな、と頭の隅で思うのだった。
コツコツと作業しているうちに垢はほとんど剥がれかけていた。あと一息だ。
「あとちょっと、だから……」
カリ、カリ、……ペリッ。
頑固な垢だったが、剥がれるときはあっけない。耳の奥に落としてしまわないように慎重に引き上げて、やり残しがないか確認する。綺麗になった耳の穴に満足して、兄に声を掛けた。
「兄ちゃん、終わったから反対向いて」
「ん……」
ごろん、と向きを反転させる実弥。先程と反対向きになるので、つまりは玄弥の腹に顔を向ける形になる。腰に腕を回してぎゅっと顔を寄せ、腹部に鼻先を埋めてくる兄に困惑する。
「それ苦しくない?」
「平気だァ。いいから続けてくれ」
「兄貴がいいならいいけど……」
最初は膝枕に思うところがあった様子だったが、この分には受け入れてくれたのだろう。
それに応えるためにも、反対の耳も丁寧に掃除して楽しんでもらおう。耳かき棒をすちゃりと構え、玄弥は再び小さな穴に集中した。
end