机上に咲く バレンタインが近付いている。あちこちでチョコレートが前面に売り出され、街はそれ一色に染まっていた。玄弥がよく利用する近所のスーパーも、入り口付近に大々的にチョコ菓子と製菓材料のコーナーを設けていた。例年は他人事に思っていたそんな光景も、今年は違って見える。
今年は恋人がいるのだ。
玄弥が通う高校の教師。その上血を分けた実の兄なので、二人だけが知る秘密の恋人である。
恋人になって初めてのバレンタインだ。当然贈り物をしたい。やはり手作りか、しかしプロが趣向を凝らした既製品も魅力的だ。そんなことを思いながら日々を過ごしていた。
「玄弥、触っていいかァ……」
二人の寝室。草臥れた声に頷くと、伸びてきた腕にぎゅうと抱きしめられる。首筋に白い髪が擦れて擽ったい。
二月。世間はバレンタインに浮足立つが、教員にとっては非常に忙しい時期であった。学年末の締めくくりに加え次年度の準備に追われ、更に今年はトラブルが多くとにかく目が回る忙しさらしい。理事長と校長が教員に負担がかかりすぎないよう手を尽くしているそうだが、それでも多忙なことに変わりない。頑健を絵に描いたような実弥といえど、疲労の色を乗せて帰宅してくることが多くなった。
「お疲れ、兄ちゃん」
肩口に押し付けられた白い頭を撫でる。
恋人になってから少しずつこうして触れ合うことが増えているのは嬉しいが、普段は頼れる兄でいようとする実弥がこんなふうに甘えてくるのだから相当疲れている。
「後で肩とか揉もうか?」
「ん、頼む……」
頭を撫でているうちに穏やかになってきた声に一安心する。
もうすぐ十四日だ。甘いものは疲労回復に良いという。チョコレートは贈るとして、もっと何かできないだろうか。忙しい兄の負担にならず、かつその疲労を軽減できるものを用意したい。
翌日。何か良いものが見つからないかと、放課後に駅前の商業施設を歩いていた。どの店もバレンタイン向けの贈り物を前面に押し出し、玄弥はそれを眺めてはああでもないこうでもないと頭を悩ませていた。
普通の贈り物ならともかく、疲れた人間にそれを癒すものを……となると難しい。直球でマッサージ器具などどうだろう、と思い付いたものの、兄はおそらく使わない。その暇があったら仕事や雑用を片付ける時間にする。
「うーん……いい枕、とか……?」
うろうろと歩き回る玄弥の鼻先に、ふわりと快い香りが漂ってくる。
花の香りだ。見れば、フラワーショップがとりどりの色彩を飾ってそこにあった。
「花……」
玄弥は植物が好きだ。特に盆栽が好きで、家のベランダには玄弥が世話する小ぶりな鉢がいくつかある。
美しい植物はそこにあるだけで人を癒す。花を贈るのはどうか、と頭を過ったがすぐに首を振る。自分は植物の世話が好きだが、実弥は特にそうではない。切り花なら水替えの手間、鉢植えなら世話がある。忙しい人間に更に作業を増やしてどうする。
巡らせた視界に、目を引く華やかな鉢植えが映った。生花ではない、長期間飾れるように加工されたプリザーブドフラワーであった。
「……これか?」
これなら置いておくだけでいい。手間もかからず、長く美しい花を楽しめる。職員室の、すっきりと整頓された兄の机を思い浮かべる。手のひらに収まる程度の小さい鉢なら邪魔にもならないだろう。忙しく働く中、卓上に飾られた鮮やかな花は心の潤いになってくれるはずだ。
「……よしっ」
これにしよう。兄はあまり華美なものは好まないから、シンプルですっきりとした鉢がいい。ずらりと並ぶ華やかな寄せ植えを、背を屈めて吟味し始めた。
「これ、兄貴に」
手作りのチョコと一緒に差し出した品物に、実弥は目を丸くする。
「……花?」
「加工してるやつだから、手入れとかは要らない。置いとくだけで大丈夫。その、仕事机にでも置いてくれたらなって……」
髪と同じ白い花をベースに緑の花を添え、アクセントに瞳の色の紫を散らした小さな寄せ植えだ。実弥のイメージにぴったりのそれを一目で気に入った。
兄の反応を窺う。鋭い目が細められ、じっと花を見る。やがて穏やかに微笑んだ。
「綺麗なもんだ。ありがとうなァ……大事にする」
良かった。なかなかに喜んでくれたようだ。大きな手のひらが大切そうに鉢を包む様子に、ほっと安堵の息を吐いた。
「やっぱシナセンのあれ彼女だって!」
聞こえてきた言葉に玄弥は足を止めた。シナセン。言わずもがな、不死川実弥先生の略称にして愛称である。玄弥の恋人であるはずのその人の名に「彼女」という単語がくっついていたのが聞き捨てならず、悪いとは思いつつ身を潜めて耳をそばだてた。話しているのは上級生の女子グループだ。
「こないだバレンタインだったし、絶対彼女からのプレゼントじゃん。だってニッコニコでお花撫でてんだよ、あのシナセンが!」
「あたしも見た!机の上の花でしょ、あの人表情筋あんな緩むの?って顔してたよマジで」
「シナセンが仕事中にそんな顔するくらいデレデレってこと?やっばぁラブラブじゃんか」
「や、一瞬デレたと思ったら次の瞬間には仕事モードの修羅顔に戻んだよね。切り替え早すぎて怖い」
──え。玄弥の思考が止まる。机の上の花、といったら先日玄弥が贈ったものではないだろうか。
それを、多忙で気が緩んでいるとはいえ、生徒に目撃されるくらい頻繁に、ニッコニコでデレデレの様子で愛でていると。
かあっと顔に血が集まる。思わず両手で抑えても、どんどん頬は熱くなっていく。
「いやー、でもアレよ?あのマイホーム教師よ?妹ちゃんのプレゼントじゃないの」
「えー、妹ちゃんまだ中学生と小学生でしょ、あの大人っぽい花は子供が選ぶやつじゃないって」
「じゃあさ、弟くん見かけたら聞いてみよ!妹のだったら知ってるでしょ」
話題の矛先が玄弥に向いた。慌ててひっそりとその場から離れる。
足はあてもなく校内を彷徨う。とにかく真っ赤になった顔を落ち着けたかった。
「だ、大事にしてくれてんのは嬉しいけどさぁ……っ」
思わず出た声はふにゃふにゃに蕩けていた。嬉しいと照れくさいが混ざり合って、なんとも情けない声になっていた。
忙しい中の癒しになればと花を贈った。その役割は見事に果たされているようで、それは良かった。だが、若い教師の恋愛事情は生徒の格好の噂の種だ。この先もしばらく、花を愛でる数学教師の姿は生徒の口に上るだろう。その度にこんなに顔を赤くしてはいられない。一体どうしてくれるのだ。
「兄ちゃんのバカタレぇ……」
弱々しい罵倒は、変わらず情けなく蕩けていた。
ぴんと張り詰めた隣の空気が、時折ふと緩む。何度目かのそれを感じて、伊黒は隣に座る男を見た。
武骨な指が、卓上の小さな鉢植えを撫でる。まるで生まれたばかりの乳児の頬を撫でるような手つきだった。その横顔に浮かぶのは溢れんばかりの愛おしさだ。
先日、具体的にはバレンタインの翌日からずっとこれだ。日付がそれだったものだから、すわ恋人か、と思ったがすぐに違うと分かった。この友人がこういう顔をするときは、ひとつ下の弟絡みと決まっていた。
いわゆるブラコンというやつなのだろうと伊黒は思う。一人っ子ゆえに弟妹の可愛さというものはわからないが、伊黒の周囲の兄姉はとにかく下の子が可愛くて仕方ないという者がほとんどだった。特にこの不死川実弥という友は、とりわけ下の弟に対して並々ならぬ愛情を抱いていた。父のいない家庭で幼いころから二人で弟妹を守ってきたというから、その絆は強いのだろう。
「綺麗な色だろォ」
伊黒の視線に気付いたのか、それでも藤色の目を花に向けたまま実弥が呟く。その指は、紫の小花に添えられていた。
いい鉢植えだと思う。実弥好みのシンプルで上品な仕上がりだ。さすが弟というべきか、兄の好みをよくわかっている。
「いじらしいよなァ……あいつの目の色だ」
いや、どう見てもお前をイメージした色合いではないのか。可愛くて仕方がない、といった声音で零れた言葉に思わず指摘しそうになるが、本人がそれで幸せならいいか、とすんでのところで飲み込んだ。この時期は多忙だ。疲れていて余計な労力は使いたくなかった。どちらにしろあの兄弟は同じ目の色をしているのだから変わるまい、とも。
ふふ、と普段の姿からは想像できないほど柔らかく笑うと、実弥はパソコンに向き直り仕事に戻る。その表情はいつもの厳しい数学教師のものだった。キーボードを叩く指はてきぱきと力強い。この花を机に置いてから、実弥の仕事効率は幾分上がっている。
やる気が出ているなら、些細な勘違いはやはり放置で。山積みの仕事にうんざりしながら、伊黒もまた自分の作業に戻るのだった。
end