合鍵温めました「今日きみの家に行ってもいいかい?」
「ダメや言うてもいっつも突撃してくる奴が、何考えとるんや、言え」
「誕生日って知ってる?」
「おん、今日やな、お前の誕生日」
「えっ」
知ってたの、と言うはずの声が喉で引っ掛かって止まった。
一月十一日。
休み明けにクラスで祝われて、隊の皆にも祝われて、さておめでとうの一言すら寄越さない水上に文句の一つ彼の机に落書きしてやろう、そう未練がましく3Cの教室まで行ったら、水上が一人、居残りのようにしてそこに座っていた。
長い脚を行儀悪く組んで、机に肘をついている様が妙に絵になっているのすら憎らしい。
王子の口元がほんの一瞬悔しそうに歪んで、それからわざとらしいまでの綺麗な笑みを浮かべるので、(コイツはほんまに顔のええやっちゃな…)と水上は思った。
「それで。きみは何をくれるつもりかな。期待させておいて何もなし、は…流石に、ないよね」
「何でも好きなだけ持って行ったらええねん、どうせ強奪してくつもりやろ?」
「つまり、きみの家に招いてくれる気になった、ってことだ」
頭の良い男はこれだから嫌いだ。水上は舌打ちした。
水上のことを王子は特別気に入っていた。
構って構って構い倒し、やっと連絡先を得たと思えばメッセージは素っ気ないにも程がある。
基本は既読スルー。
ほんのごくたまに返信がある。
はたして水上がつめたいのか、王子の送るメッセージが毎度謎解きや難解かつ面倒なメッセージばかりであるせいなのかは審議が必要だが。
ともあれ、毎日のようにマメにメッセージを送る王子に対して、水上はところどころ『そこ間違ってんで』のような指摘かツッコミがあるときだけの返信であった。
いつだったか、一人暮らしの水上の家に行ってもいいか、と問うた王子にたまさか面倒になったのか、ええで、と言ったのが運の尽き。
水上が非番の日に、ちょうど夕飯の買い出しを終えて帰宅する頃を見計らったかのように、時々王子が現れるようになった。
王子を家に入れてくれるのは、家の前でモメたくないから。その場面を見られたくないから。面倒くさい。
そんなところだろう、と王子は自覚している。
だからこそ荷物が重くてゴチャゴチャ喋るよりも早く部屋に入りたいタイミングで声をかけ、夕飯を食べ終えた後に帰る、と自然に切り出せるその時間しか滞在したことがなかった。
本部で、あるいは時々学校で。
冗談めかして「きみの家に行きたいな」と言うと、ほぼ必ず「はあ? 誰が呼ぶか」と断られるばかりである。
ええで、と言われたのはあの最初の一回だけだった。
家に呼んで欲しいとまでは言わないから、せめて家に来てもいいと言って欲しい。
(人ならざるものって、確か、招かれないと家に入れないんだっけ)
家に入れて、いいよ、のやり取りが契約だと聞いたことがある。
(それならぼくは…)
同様に、気に入って名前をつける行為も、人ならざるものが、気に入った人間を自分の領域に引き込もうとするときに使う。
(彼にとって、ぼくは人外――つまり、恋愛対象外ってことか)
分かってはいるけれど、改めて言葉にすると辛いものがある。
だから、誕生日、にかこつけて家に招いてくれと強請ったが、誕生日ですら家に招いてくれる気は無いらしい。
連絡先を交換し、まめまめしく連絡を取り合おうとして断念。
じゃあ、とせめてあちこち顔を出して会話を試みると、先回りして避けられるようになった。
読み合いだ。
この時間にはこの用事でここを通るだろう、それを避けてこの道を通るだろう、その裏、その裏、エトセトラ。
王子の読みが外れ声を掛けられないほど遠くですれ違うと、水上は上機嫌に笑いながら王子に手を振る。
すると悔しそうな顔で水上を見てくるのが、水上はお気に入りだった。
反対に王子の読みが当たりばったり出くわすと、水上はあからさまに顔をしかめて舌打ちをしてくる。
(傷つくなあ)
思っていても言わない王子だ。
少し前のことだ。
夕飯も昨日買い出しにいったばかりの日だった。
だから王子は来ないだろう、そう思っていたら偶々、校門のところでばったり王子と出会った。
いつになく弱ったような、あるいは疲れたような顔で「途中まで一緒に帰っていいかい?」と聞くので、水上は気圧されたように生返事に頷いた。
憂いを帯びた横顔が、どことなくドキッとするような艶を孕んで、いやいや何考えとるんや俺は、と振り払う。
並んで歩き出す。
通学路を、珍しくあまり喋らず黙々と王子が歩いているので、水上はどうしても隣が気になってしまう。
体調でも悪いんか? と聞くのもまあ違うだろう。
話題を振ろうにもこの男が好きそうな話題に心当たりはない。
ふと、水上は、今まで沢山話しているようでいて、お互いのことはほとんど何も知らないでいるのだ、と気がついた。
(食の好み、趣味、休みの日何しとるか。……何一つ、分からへん)
今まではそれで良かったのだ。
時々突然やって来ては、水上の作った適当な夕飯を食べていく。
その、床に正座して優雅にもぐもぐ食べる王子の姿を脳内に描く。
思い返しても嫌いなもの、箸の進みが悪いもの、いいもの、何一つ心当たりがない。全て平等に、美味しい美味しいと言って食べていた記憶しか、ない。
そこで初めて、水上は言いようのない焦りを覚えた。
(なん、…なんやねん、コイツ)
そこからは坂を転がり落ちるように、水上は落ちていった。
つまり、恋に落ちた。
そう、水上は王子に恋をした。
そう認めたくないのに、頭や感情の片隅を王子一彰という男がちらついて引っ掻いていく。
だから、水上は王子の誕生日も当然知っていた。
メッセージが来るたびに気持ちは沸き立ったが、同性の男相手に気持ちを沸き立たせている自分が気持ち悪くて、何も返さずに放置した。
そのうち飽きるやろ。こんな気持ち悪い思いなんて出さへん方がええねん。物珍しいものが好きなだけや、じき飽きて忘れるやろ。
そうなったら自分もじわじわ忘れていけばええねん。
誕生日だから、という口実で、今日は元気な王子が一緒に帰路を歩いている。
クラスでは話題に上らないマイナーなサスペンスドラマのトリックの話。
それをランク戦に応用したらこうなる、ああなる、という話。
とりとめのない話ばかりだ。だいたいが王子が一方的に喋り、水上が相槌とときどきツッコミをする。
安心するような、あまりにも拍子抜けするあっけない会話がだらだらと続いている。
陽が傾いて、王子の吐く息が白くなっていた。
どうでもいいような水上のダウンジャケットに対して、王子は上品なロングコートを着て寒色のスヌードを巻いている。
相変わらず洒落とんな、と横目で見やると、王子と視線があった。微笑まれる。
(ほんまに、ちょっとは自分の顔がええこと自覚せえ)
心臓に悪い。
その、ダウンジャケットのポケットの中で握りしめた掌は、こんなに冷え切った外気に反してじっとりと汗を掻いていた。
握った拳の中には、銀色の真新しい鍵がある。
最近作ったばかり、というそれで、キーホルダーひとつ付いていない。
ああ、ほんま、なんでこんなんしてもうたんや。
「…みずかみんぐ。聞いてる?」
「っ」
「今日は買い出し行かないんだ?」
気づくとスーパーに寄る曲がり角を過ぎて、真っ直ぐ自宅に向かっていた。
一気に喉が干上がる心地がしつつ、何でもない風を装って水上は答えた。
「まだ冷凍庫になんやあったし、そろそろ使い切らなあかんやろ。それともどっか買うてくか食い行きたいんか?」
「おや、食事のお誘いをしてくれるなんて、珍しい風の吹き回しじゃないか」
「揶揄うんやったら行かへんで」
「いいよ、行かなくて」
「はあ?」
「ぼくきみの家のうどんが食べたい。寒いし」
「話聞いとったか? 冷凍うどんしかあれへんで」
「それを食べたいって言ったんだよ」
物好きなやっちゃなあ、と言う辺りで、自宅に着いた。着いてしまった。
元々ポケットに入れていた手と反対の手を、反対側のポケットに突っ込む。
鍵を取り出して、シリンダーを回した。
王子がその様子を見て、眉を上げた。
未だポケットの中にある片腕にそっと手を添える。
長くすらっとした、だが水上のそれよりもやや無骨な指の感触は、分厚いダウンジャケットに阻まれて何も分からなかった。
「なんや」
「きみ、さっきからずっと左手、ポケットに入れっぱなしだよね」
「おん、寒いしな」
「でも右手は外に出てた」
本当に勘弁して欲しい。ドアノブから手を離して、面倒くさそうに水上は振り返る。
「それがどないしてん」
「怪我したの? いつ?」
王子の目が険しくなって、剣呑な雰囲気を醸し出す。
この美しい男が怒りを滲ませると、一気に人外じみた怜悧な印象になる、と水上は思った。
答えない水上に苛立ったのか、王子が水上の手を見下ろして、あろうことかそのままポケットに突っ込んできた。
「おまっ! 何を、…もう満員やねんそこ」
そうして、水上の握りしめた拳を冷え切った指が捉えた。
硬く握り込まれた拳を撫で回すように指が這って、ぞわぞわと水上の背筋がよくない欲望で震える。
やがて、指と指の間に王子の指が捻じ込まれて、手が開かれた。
気まずそうに水上がため息を吐く。
「手え繋いどるみたいに見えるやろ、やめえ。…」
おずおずと出て行った王子の手を追いかけるように、水上の手が外気に触れた。
もう片手で王子の掌を捕まえて、温まりきった拳をぽんと乗せる。
鍵が、王子の手の内側に落ちた。
「誕生日なんやろ。…冬に外で時間潰すのやめえや、入って待っとれ、他意は無い」
それが合鍵、と気づいた瞬間。
王子の顔が真っ赤に染まった。