水底から人気のないプールを、仰向けの長い腕がゆるやかに円を描き掻いていく。
キリストの磔にも似た、真っ直ぐな姿勢だ。背泳ぎで泳ぐ蔵内の周りに、一定間隔に水音が立つ。
白く泡がこぼれて、長い脚は優雅に水面を掻く。息の音と水の音しか聞こえない、完全なる自分との対話だけが、そこには存在していた。
蔵内は週に二、三日のペースでこのジムに通っている。
トレーニング機器で筋肉を鍛え、走り、その身体の衰えを許さないとばかり。
よく整備されたジム併設のプールの水底は、鮮やかなターコイズブルーが広がっている。
白い天井を見て泳ぐ蔵内は、プールの端を知る手掛かりに薄い。
十五メートルのフラッグを通過すると、ちらとコースロープの赤色を横目で確かめ、蔵内は半回転してうつ伏せになった。
水をひと掻きして、水中に潜る。
ぐるりとターンをすると視界は全て碧に塗りつぶされて、壁面を蹴り浮上するまでの僅かな間、優しい青緑色のゆらめきと泡音だけが蔵内の世界の全てになる。
その色を見るたびに、蔵内は王子の瞳を思い出す。
十五年前に別れて行方の知れぬ、同僚であり仲間であり、唯一の存在が持っていたその色を。
たった二十五メートルの往復は、泳ぎ続けてもどこにも辿り着けない、ただの反復だ。
泳ぐうち次第に苦しさが増すが、限界まで苦しくなって、ある地点を越えるとふっと呼吸が楽になる。
永遠に泳いで行けるような気持ちになる。
毎週金曜日の夜、蔵内は決まってこのジムに通い、長い時間を掛けて泳ぐ。
鍛えられていてなお、その身体には加齢の兆しが見えていた。蔵内は、今年、三十五になる。
「お疲れ様です、蔵内先輩。…あれ、また泳いでたんですか」
「ああ、研究室にこもりきりだと体が鈍ってしまうからな」
三十を超えたあたりから、蔵内は体力の衰えを実感するようになった。
開発室に就職してから現在に至るまで、十一年。
蔵内は、未だ現役で防衛任務にあたり続けているごく一握りの隊員のうちの一人だ。
金曜のルーティンを終えて、蔵内はボーダー本部に戻って来ていた。濡れた髪とジム用のバッグの中から、塩素の匂いが僅かに漂っている。
夜も遅い時間だからと髪もセットせずにそのまま歩いていると、向こうからやって来た部下たちとすれ違った。
「いやぁ、ホントすごいなぁ。俺も蔵内先輩を見習ってジム通い始めたんですけど……」
「こいつ、本当に三日坊主で」
「一応あの後もちゃんと続いてるって。…月2だけど」
「多少でも、続けられるのは大したことじゃないか」
「でも蔵内先輩、ジム通い週2ぐらいじゃないですか? 毎週泳いでますよね、確か」
「よく知ってるな」
「有名ですしね。そういうの、何かモチベ保つコツとかあるんです? だって、ただでさえ現役で戦闘員やれるくらいトリオン体鍛えてる上に、生身までしっかりなんて」
蔵内の長身を見上げ、凄すぎますよ、と部下が言う。
その憧れめいた眼差しに苦笑して、蔵内は目を細める。
「モチベーション、か」
「俺も知りたい」
重なる二人の声に、蔵内は首を振った。ぱらりと濡れ髪が乱れ、心持ち草臥れた頬にかかる。
「単なる習慣化だよ。コツさえ掴めば誰でもできる。それに、……来るべきときの為にも、備えは必要だろう」
「か〜。蔵内先輩はこれだよ……」
項垂れる二人の部下に、蔵内の笑い声が柔らかく重なった。
つられて笑う部下の一人が、十五年前よりも遥かに増強された、本部の防衛設備を何気なく見渡して言う。
ゲートの誘導装置の改良。事前のトリオン攻撃検知システム。自動防衛システム。
最近は襲撃らしい襲撃もなく、あのイレギュラーゲートが開く警告音すら聞かなくなって久しい。
だから、こんな言葉が出るのもまあ頷けた。
「でも、そんなとき、来ますかね?」
───そんなときが、来てしまった。
バクバクと心臓が早鐘を打つ最中も、ボーダー内には割れんばかりにアラートとサイレンが鳴り響いていた。大丈夫だ。いつも通りに。
強制で月に二回実施されていた避難訓練のありがたさを噛み締めながら、俺は強張った顔で、ボーダーの基地内を早足に移動していた。
走らないで、悲鳴、爆発音、そして息を殺し無言で走る呼吸音。
生命の危険が差し迫る、ということを本当の意味で初めて実感していた。
俺───開発部の新入社員である俺にとって、第一次大規模侵攻はまだ幼稚園のときの話だ。
大きくなるにつれ三門市は安全になったのだ。
こんな、危険なんて、映像の向こうでしか知らない。
ただただ急きたてられるように、でも走らないように廊下を歩く、その背後から怒号が空気を切り裂いた。
「気をつけろ! そっちに行ったぞ!」
と、同時に爆発音が弾け、廊下が震える。
ビリビリと鼓膜を震わせる音、その死の予感に、ギュッと心臓が握り潰され足が震え、立ち止まりそうになる。
「大丈夫だ、止まるな!」
先輩が隣で俺の肩を抱く、その先輩もびっしょりと汗をかき、腕が細かく震えていた。
ズン、ズン、と明らかに重たい何かが近付いてきている気配がする。
でももう肺も足も限界で、よたよたと進むしかない。
何でだよ、なんだよ、何だよ……!
アラートと同時に開発室のチーフに誘導され、俺たちはただちに避難を開始した。
でも、こんな本部内に敵が出ていて、どこに逃げたら助かるって言うんだ!
その絶望を、恐怖を、向こうから凄い勢いで駆け抜けてくる、黒い人影が塗り替えていった。
「───蔵内先輩!」
「走れ! こっちは食い止める!」
「っ……はい」
あっという間に俺たちとすれ違った蔵内先輩が、開発部の唯一の戦闘員が、床を蹴りぐんと加速した。思わずその姿を振り返ってしまう。
キィン、とキューブが開く独特の音がする。
あっという間に分割されたキューブが、まるで弄ぶように、トリオン兵の動きを先読みして食い止める。
振りかぶられたトリオン兵の爪が空間を切り裂くのを、舞うようにひらりと黒の、学生服に似たその隊服の身が躱す。
どこからかキューブがうねり収束して、トリオン兵の脚のうちの一つを落とした。
すごい。
心の底から浮かぶ高揚で、俺はぼんやりとその光景を眺めてしまう。その肩をぐい、と先輩が引き寄せた。
「行くぞ! 蔵内先輩のためにも、早く向こうに」
「ッ、分かりました!」
蔵内先輩のポジションは射手だ。
でも、俺らのためにわざと敵と距離を詰めたのだとはっと気付いた俺は、血の味のする肺を駆り立て、シェルタールームへ走った。
(……あらかた、逃がせた、か)
全身からトリオンの細く漏れている。
蔵内はあの後、避難誘導しつつ殿も努め、一般職員たちが避難できるよう交戦を繰り返していた。
フロアの最後の部屋も念のため回り、人影が無いことを確かめる。
未だ本部内には爆発音とアラートが続いていた。
走る蔵内の後ろにも、二体のトリオン兵が迫って来ていた。せめてもと自ら囮となり、シェルタールームと逆方向へと引き付けながら、最低限の攻撃だけに留め反撃をする。
長引く戦闘で、トリオンの残量はかなり減っていた。
射手にとって、トリオン量こそ全てだ。次第に不利に傾きゆく状況に、蔵内の顔に焦りが浮かぶ。───と、そこに来て、新手のトリオン兵が角から飛び出して来た。
咄嗟のことで避け切れなかった蔵内の腕から胸にかけて、鋭い爪が深く抉る。
「───ッしまっ……!」
ざくり、と銀色の釦が並ぶ隊服が裂けた。
辛うじて致命傷は避けたものの、深手でトリオンの煙がもうもうと漏れる。
すぐに飛び退る蔵内のほんの少し後に、強化されたモールモッドの爪が閃く。
床を蹴り逃げる蔵内の、今はここにない心臓が、だんだんと速くなっていく。
死が、足音を立てて近付いてきていた。
(迅さんの予知が通達されていなかった、ということは……開発室の被害は軽微か、もしくは切り捨てざるを得ない状況になることが分かっていた、ということか)
敵に背を向け距離をとる蔵内の頬には、パキパキとヒビが入り始めた。
間もなく戦闘体は限界を迎えるだろう。そして、
(俺のトリガーには、緊急脱出の機能はない───)
緊急脱出をトリガーセットするだけで、トリオンはかなり削られる。
射手として、少しでも戦えるようにと、蔵内は意図的に上に掛け合い、その機能を外していた。
もう自分は若くないからと。
それは、トリオン総量が少ないという意味でもあり、自分はいつ命を落としても構わないという覚悟でもある。
渾身のアステロイドがモノアイを貫いたのと引き換えに、光が散り、蔵内の換装が解ける。
攻撃手段を喪った今、最早、逃げる以外の選択肢はなくなった。
でも、どこに?
シェルタールームに避難した開発部の面々から引き離すために、蔵内はトリオン兵二体を引き連れて建物の反対側まで来ていた。生身で爪を掻い潜りながら逃げ続け、無傷でシェルタールームに滑り込むのが相当難しいことは、流石に理解している。
命の危機に、蔵内の背に冷たい汗が伝い下りていった。
最早ここまでかと、覚悟を決める。
この日のために鍛えた身体が、走って逃げる蔵内の身を多少なりとも軽くしている。
とにかく、走るしかなかった。
狭まる視界に本部の変わり映えしない廊下を映しながら、走馬灯のように色々なことが浮かんで、消えてゆく。
一歩、また一歩と足を踏み出すたびに、蔵内はこれまで過ごして来た日々を思う。
王子。
(おまえも、同じ気持ちだったのか、王子?)
十五年前。
第三次大規模侵攻と呼ばれる侵攻が、三門市を襲った。とはいえ被害は部分的で、一般市民よりはボーダーに被害の大きかったそれ。
王子隊は同じように避難誘導を行い、その途中で捕獲用トリオン兵に遭遇した。
敵は隊の中で最もトリオン量の多い蔵内を狙った。
距離を取れ、と指示を出し、ひとり敵を引き付けた王子は───そこで捕まり、そのままトリオン兵ごとゲートの向こう側へと消えてしまった。
何度も思い出した光景を、また頭の中に思い描く。忘れてしまっていた声が、蔵内の脳内に蘇る。なんでおまえだけ、と呪いのようにこびりついた気持ちが、今ふと王子の気持ちがようやく理解されて、笑い出したくなった。
蔵内の表情が好戦的なそれに変わる。
たとえ命が尽きるとしても、最期の瞬間まで王子に恥じない己でいたい。
足掻けるだけ足掻いて、そして。
空を切る爪の音が、先程よりも近くなってきていた。
ジグザグに走る蔵内が、再びルートを変えて、皆が避難したシェルタールームから遠い方へと向かい直す。
爪が壁を抉った破片が飛び、蔵内の頬をちいさく裂いた。血が肌を伝う。
距離が縮まる。
敵の位置を確かめるべく振り返る蔵内の頭上を目掛け、爪の片方が天から振って来ていた。身体を捻り避けたところで───気づく。
真横、蔵内の死角からもう一つの爪が、首を刈り取らんと迫っていることに。
凶刃が閃く、そのコンマ何秒が引き伸ばされる。
一瞬後に死が、首が飛ぶ瞬間が、分かる。
と。
ガキン! と耳障りな高い音を立てて、何か───目に見えない盾にその爪が弾かれた。
見たことのない文字が浮かぶそれが未知のトリガーであることは、開発室の蔵内ならすぐに分かった。
爪から逃れようと無茶に身体を投げ出した勢いで、視界がぐるりと回る。
目の前が不意に、全て碧に塗りつぶされた。
音が消える。まるで、ジムで泳いでいるときのように。
青緑色のゆらめきが世界の全てになる。
マントがはためく音。衣擦れ。床に転がる蔵内を見下ろすなつかしいまなざし。
肩口で跳ねた、淡い髪色。
仄かに持ち上がる、上機嫌そうな口元。
一瞬が永遠に感じた。
忘れる訳がない。忘れられようがない。
王子だ、と、蔵内には分かった。
視線が合ったのはごく僅かな間だけで、すぐトリオン兵に向き直る背中からマントが消えると、流れるように戦闘が始まった。
そこには見慣れぬ異国の軍服に身を包んだ王子がいた。十五年の時を圧縮したように、器用に左手で軍刀を扱い敵の攻撃を捌いている。
いつも見ていたように、ハウンドが王子の身体を円に取り巻く。
その一つずつが綺麗にトリオン兵をかき乱し、やがて脚の一本を駆け上がった王子があっさりとそのモノアイを貫き、返す刀にもう一体を仕留めた。
王子が納刀する。
静寂が落ちる。
王子が、振り返った。
「ごめんね、待たせちゃったかな?」
いたずらっぽく問いかける王子の声に、十五年ぶりに聞くそのやさしい声色に、蔵内の両目に熱がこみ上げる。
「いや、あっという間だったさ」
答えるのとほぼ同時、蔵内は駆け出した。
光が散り、温かな生身の王子もまた駆け出す。
音を立てて、二人の身体ががっちりと折り重なった。
しっかりと抱擁するその背中で、王子もまた唇を震わせ、一筋の涙を零していた。
それは、水面から散る雫のようでもあった。