黒スーツエージェント蔵王「ッ逃げたぞ!」
「追え!誰か…!」
パリン、とグラスの割れる音がする。荷物のぶつかるのに似たドサッという音、押しやられるご婦人のキャッ、という小さな悲鳴。その人の波を全速力で駆け抜ける男のすぐ後から、長躯でやたらと顔の良い二人組が同じくものすごい速度で会場を駆け抜けていった。非常ベルがけたたましく鳴り響く煌びやかな建物の窓を豪快に割って、外に飛び出す不審な人影は一つ。それを追う二人は躊躇いなく割れた窓を綺麗に飛び越えて、美しい青色の裏地を覗かせるジャケットをはためかせると真っ暗な駐車場に着地した。
キーレスエントリーのランプが一度付き、エンジン音と共に一台の車が急発進して、駐車場を慌ただしく出て行く。
それに続く形でもう一台、三つ隣の黒塗りの車がバタン、バタンとドアの開閉音を立てたと思えば、タイヤの鳴く音も高らかに飛び出して行った。
夜で交通量はいつもより少ない。パトカーのサイレンが遠くに聞こえてくる。
黒塗りの車に乗った二人のフロントガラス越しには、不自然な程無茶な割り込みを繰り返し、次第に遠ざかっていく車が見えている。
「離されてる。もっと速くできないの?」
助手席に座る男は、榛色の乱れた髪を撫で付け、ハンドルを握る男に問う。
「馬鹿言うな」
低く落ち着いた声で短く返した男が、黒の革手袋でステアリングホイールを強く握り込む。革がギュ、と鳴いた。と次の瞬間、男は革靴でアクセルペダルを底付きする程強く踏み込んで、一気に車を急加速させた。助手席の男が勢いよくシートに押し付けられる。ヒュウ、と愉しげな口笛が飛んだ。
『王子くん、蔵内くん、今周辺のマップを送ったわ。蔵内くんは運転でしょうから、必要になったら声をかけて。タグは付けられないけど、大体のルートは示してあるから、参考にしてね』
『ありがと、羽矢さん』
その遠く離れかけた車のテールランプを追って、まるで冗談のように車と車の合間を縫い、ドリフトをしながら交差点を曲がってゆく。幸いにしてシートは高級車らしく快適だ。王子は、積んであったタブレットをダッシュボードから取り出す。
「あの車を追ってくれ、って、一度やってみたかったんだよね」
甲高いエグゾーストノートを響かせ、やがて流線型の黒塗りの車は湾岸線から首都高へと入っていった。煌めく夜景が車窓を文字通り飛ぶように流れていく。黒手袋を外した王子は助手席でタブレットを操作して、ロボットのように性格無比に無茶苦茶な運転をする蔵内の横顔を眺める。
「そうか。俺は二度とゴメンだぞ」
「きみはボーダーをクビになったら、きっとスタントマンとしてやっていけるよ、ぼくが保証する」
「隣でもっと飛ばせって無茶を言う奴が居なければ、こんな運転もしないさ」
その言葉ににこにこと上機嫌に笑う王子を横目で見やり、呆れたように蔵内は溜息をついた。
「さて、追いついたね。どうする?映画みたいに横から追突でもするかい?」
「冗談はよせ。俺はこれでもペーパードライバーなんだぞ」
「そう言えば初心者マークってつけた?」
「まさか」
「後で降りたらつけようか。貼ってあげる」
と、言いながらも行き先を狭めるように、蔵内の運転する車は真横からじわじわと距離を詰めていく。追い付かれたと知った車は唐突にインターで折れて埠頭へと向かうルートを取った。と、そこへ内部通話が入る。
『よくやった、王子、蔵内。東だ。こちらは配置についたぞ、後は所定の位置まで追い込んでくれ』
『王子了解』
『蔵内了解』
『羽矢さん、ポイントまでのルートを指示してください』
『分かったわ。今…表示されてるかしら?』
『ありがとう』
さて。
相手は逃げたのか、袋の鼠に追い込まれたのか。それを相手が知る頃にはきっと、チェックメイトだ。
蔵内の口角は緩やかに持ち上がっている。その、存外に好戦的なところを、王子はことさらに好んでいた。
好きだなぁ、と思いながらタブレットをしまい込み、王子は黒手袋をはめる。
「さて、王手をかけにいこう。ビショップの射線を通してあげなくちゃ」
「くれぐれも無茶をするなよ、王子」
「ぼくが無茶をするのは、隣に副官がいるときだけだよ」
クラウチ。
そう甘やかに微笑む顔が、今だけは見られないことを、蔵内はとても惜しく思った。