愛と狂気のタイムトライアル人のいない道を跳ねるように、滑るように車体が駆け抜けてゆく。
悪路をサスペンションが吸収してゆく。
明かりのない道を、ヘッドライトが頼りなく少しだけ照らし出す。
エンジンの唸りが、静かな夜の林道に荒々しく響く。
ラリーという競技は、国内では多く、夜中に人の住んでいないような道を使って走る。
街灯なんて当然ない。
曲がりくねった道、知らない道を走ってタイムを競う。
視界なんて当然、無い。ガードレールすらない道もある。
一歩間違えれば崖から車は転落してしまうだろう。
そんな道を、まるで狂気のようなスピードでドライバーはアクセルを踏む。
ただ、隣にいる己のコドライバーだけを信じて。
何メートル進み、どちらにどう曲がるのか。
視界がほぼ頼れない中で、全力でアクセルを踏めるのはひとえに、そのコドライバーのナビゲートによるものだ。
王子一彰は、そんなラリーのドライバーをしていた。
華やかな容姿に柔らかな受け答え。
インタビューでのどちらかと言えば穏やかな印象とは裏腹に、ハンドルを握ると人格が変わったように狂気じみた運転を見せる。
ファンも多く、スポンサーもついていた。
その、コドライバーを長く勤めているのが蔵内和紀だった。
優秀なコドライバーというのは、引っ張りだこだ。
精密で正確なペースノートの読み上げ。適格なナビゲート。トラブル対応にも優れ事務作業も得意、加えてどんな運転にも動じない胆力を備えていると来れば、毎シーズン蔵内をコドライバーに指名したいドライバーが列をなして殺到する。
それをやんわりと躱し、いつも王子のシーズン予定に合わせ、蔵内はレースを組んでいた。
──まさに、阿吽の呼吸と言える。
王子の狂気のドライビングを支え、むしろ狂気に向かわせているのは蔵内の方かもしれない。
助手席、暗い道でペースノートを読み上げて、次のコーナーとその先の道路状況を王子にイメージさせる。
ドライバーが欲するタイミングで、欲しい情報をきちんと伝えてあげること。
焦り、ささくれ立つ気持ちをさりげなく宥め、運転に集中させてやること。
ハイスピードで走っている車は、急なコーナーにそのまま突入するとコースアウトやクラッシュの危険がある。
アクセル、ブレーキ、ハンドリング。
それを判断できるだけの情報をきちんと正確に伝えるという意味において、コドライバーは嘘偽りなく、ドライバーのまさに命綱であった。
ラリー競技は、車に乗って、スペシャルステージ(SS)と呼ばれるタイムトライアル区間での速さを競う競技である。
一度のラリーに複数のSSが存在し、その総距離は数十㎞から数百㎞にまで及ぶこともある。
選手は事前にコースを走行し(これをレッキと呼ぶ)、選手はレッキで初めて、走るコースがどのようなコースかを知るのだ。
どこでどう曲がるか、どう走ったら速いか。
何に注意してコース取りをしなければならないか。
そうしたコースの全体像をノートに記録するのは、コドライバーである蔵内の役目だ。
コーナーのキツさや直線の距離、路面状況などを記録したペースノートと呼ばれるそれに従って走ることで、ドライバーは先の見えない道であっても全開で走行できる。
まさに、ドライバーの目であり千里眼である。
「……80(エイティー)、2(ツー)ライト、30(サーティ)(直線80m、右2度コーナー、直線30m)。4ライトショート、イントゥー4レフトオープン(右4度ショートコーナーすぐ左4度出口ゆるいコーナー)。キンクス130(うねった直線130m)。8ライトベリーロングフラット(右8度とても長い全開コーナー)、40、コーションバンプ、キープライト(直線40m、凸凹注意、右側キープ)……」
ヘルメットの内側の無線で、蔵内の落ち着いたテノールがペースノートを読み上げる。短く急なコーナーで蔵内の身体が傾き、時折マシンが跳ねる。
視界は、たかだか十数メートルを照らすだけのヘッドライトのみ。
星だけが輝く夜道である。
その他、何も頼れるものは無い。
快適なBGMも、いい景色も、心地よいシートも、そこには何ひとつない。
そこにあるのはただ、先の見えない道だけだ。
ペースノートを慌ただしく捲る音。読み上げる平滑な蔵内の声。息づかい。
ステアリングホイールを握る革のグローブが鳴く音。
唸るエンジンの回転音。
それが、蔵内と王子のドライブのすべてだった。
スポンサードされた車内のカメラは、二人の空間を公共の電波に乗せて、それを見る無数の目に届けてゆく。
二人きりの空間は、その場にいない誰かに常に見られている。見守られている。ジャッジされている。
だから蔵内が助手席から眺める、触れれば切れそうな思い詰めた表情でハンドルを握る王子の横顔だって、蔵内だけのものではないのだ。
「5レフトアンド6ライト、オーバークレスト、50、2ライトカット、20オーバーブリッジ。5レフトタイトゥン4……」
それでもこの瞬間、王子はただ蔵内の声だけを頼りにマシンを走らせている。
王子が全力でアクセルを踏めるのも、きちんとブレーキを掛けられるのも、蔵内のペースノート無しになしえないことだ。
身を、心を、委ねている。
それは、蔵内をおいて、電波を通じこの場を見ている他の誰にもできないことであった。
王子一彰、という男の名を、ラリー業界に身を置いて知らぬ人はいない。
昔、ひどく利己的で刹那的なドライビングばかりする男だった。
天国に一番近い男、という二つ名がついたこともある。
命を投げ出し、死と隣り合わせるスリルを味わわせるような危険な運転と、その犠牲の上に成り立つ切り詰められたタイム。
全てを顧みない運転と、荒い気性。
レースで勝てないと苛立つ青い精神性と、コドライバーのミスを理詰めで追い詰められるだけの鋭い頭のキレと舌鋒。
助手席に誰も座りたがらないのも道理だった。
座ってくれたのは唯一、ラリースクールの同期である蔵内だけだ。
その蔵内を乗せて、王子は三年目の最終戦で重大事故を起こした。
助手席側の崖に転落する形での、クラッシュ。
ドライバーとしての蔵内の未来を断ち切ったのは、他でもない、王子の傲慢な運転だった。
夜が明ける頃、ゴールの看板が見えてきた。
フィニッシュ予告、フィニッシュ、ストップ、と示された看板に従い、マシンが停車する。
通常、コントロールゾーンと呼ばれるエリアを通過したのち、オフィシャル(スタッフ)とやり取りをするのは全てコドライバーの役割だ。
ドライバーがマシンを降りることはまず、無い。
だが、王子は迷いなくマシンを降りて回り込み、蔵内の乗る助手席のドアを開けて手を差し出した。蔵内がその手を握り、マシンから降りる。
ファンの間でこの仕草が王子様めいている、と話題になったのはいつからだったか。
今では通常映されることのない、SSの後のどこかオフめいたシーンにもカメラが回るのが普通になった。
「お疲れさま、クラウチ。今回もいいタイムだった」
「他のチームのタイムが出るまで油断は出来ないぞ」
「まあね。…でも、大きなミスはなかった。きみのおかげさ」
「ああ、お前も。いいドライビングだった」
お互いがそう労い合えるようになるまで、長く掛かった。今では、王子にとって蔵内は無くてはならない相棒であり、命を預ける相手でもある。
王子は蔵内の命を一度、この手で握り潰しかけた。
誰にも心を開かなかった王子に、最初に信頼と命を預けたのは蔵内だ。
その感謝を、王子は一生忘れることは無いだろう。
優勝したときのその優勝カップを、王子は必ず蔵内に最初に受け取らせる。
まるで、きみがそれを受け取るはずだったんだと言わんばかりに。
自分には蔵内が必要なのだと、自分のドライビングは蔵内なくては成り立たないのだと、ことあるごとに答える王子に蔵内はくすぐったそうに笑うだけだ。
その、心のうちなど、誰にも分らない。
「王子さん、今日もキレのある走行でしたね!」
インタビュアーが向けるマイクに、ヘルメットを脱いだ王子があでやかに笑う。
「はい。全ては、ぼくのコドライバーである、クラウチのおかげです」
ペースノートを読み上げる声。
息遣い。
サスペンションの音。
唸るエンジン。
時折鋭く響く、王子の舌打ち。
そして、上手くコーナリング出来たときだけに見せる、ヘルメットの奥のきらきらと輝く碧い瞳。
二人にとってのドライブデートは、ただそれだけだ。プライベートで出かけることも、勿論ある。
だが、他の誰も入ることのかなわない、ただ二人だけの空間を、二人で同じゴールを目指し先の見えない暗闇を走る時間を、蔵内は愛している。
それは限りなく、王子に対する愛に似ていた。