悪魔と神父
「良い夜だね、クラウチ」
悪魔はおぞましいほどに美しいのだと聞いたことがある。知識として知っていた、そう、今の今までは。俺が振り返った先、教会の扉がいつの間にか開け放たれて、夜風を受けて榛色の髪が優しく揺らいでいた。そこに一対の青緑色の瞳が、ぼう、と発光するようにひかっている。
満月の夜だ。月明かりを背負ってなお男の背負う翼はただ黒く塗り潰され、まるで天使が空を覆うそれによく似ていた。
知れず、ロザリオを握り締める。人外とは思えないような穏やかな調子で、彼は並ぶ椅子の合間をゆっくりと歩いてくる。
その姿に俺の全身がゾワリ、と総毛だった。
悪魔は、招かれなければ敷居を跨げない。
だから、俺が応えてもいない教会内に入れる筈が無いんだ。
誰かが、教会の内側にこの男を招き入れた。…俺じゃない。
では、いつ?
誰が?
「ぼくが何なのか気づかれてしまったようだね。無理もないか。…そう警戒しないで。きみも子ども相手に楽しそうにしていたじゃないか。トリックオアトリート、と」
「あれは教会のただのイベントだ。悪魔や闇を歓迎するものじゃない。子ども達にもそう教えている」
「そう教えた神父様がまさか、こんな闇の中で悪魔をお話ししているとは思わないだろうね」
掌の内側に、汗が湧く。
カソックの詰襟の下で、こくり、と喉仏が大きく上下した。
「神の…名のもとに命じる、立ち去れ」
「…、くっ」
俺の専門は悪魔祓いではない。とは言え聖職者であることに誇りを持っている。祈りの言葉は目に見えぬ力となり、彼を一歩後ろへと追いやった。
でも、それだけだ。
彼は首を振ると、纏わりつく聖なる力を鬱陶しそうに振り払った。
「はぁ。いきなり悪魔祓いされるなんて思わなかったよ。ぼくはただ話をしようって言うのに、ひどいや」
拗ねたような響きで文句を言うと、教会の椅子の背凭れに腰を下ろした。バサ、と漆黒の翼が畳まれる。いつの間にか両眼の光が消えてしまうと、そこに居るのは本当にただの小綺麗な人間に見えた。
「ぼくと敵対したって、良いことなんてないんだ。きみも薄々分かってはいるんだろう?」
「……何をだ」
「ぼくがなんで、いま教会の中にいるか。きみに祓われずにおしゃべりが出来ているか。そして、なんできみの名を知っているか」
「!」
「可愛い子どもたちだ。ぼくの羽に触れて、無邪気に喜んでくれたよ。教会の優しい神父さまが、クラウチカズキ、という名前であることも教えてくれた」
「ッ」
卑怯な、と言いかけてそもそも目の前の相手は悪魔だと思い出す。
目を細め、彼を見つめた。
「……子どもたちには、危害を加えないでくれ。無論俺以外の全てに対しても、だ」
「話の早い人は好きだよ。きみの名のもとに、その条件で契約を結ぼう」
「お前の条件を聞いていない。それを聞かないと契約は結べないはずだ」
と、俺が必死の思いで言い募ると、彼は二度長い睫毛で瞬いて、面白そうに眉を持ち上げた。
「……きみはどうやら、本当にマジメなんだねえ」
悪魔との契約は、厳密なものだ。互いに条件を確認して初めて結ばれる。無論、どちらかが条件を破棄──限りなく制限のない状態で結ぶことは出来るが。
神と同じく契約を重視する、という点においてすら、悪魔はまるで神を冒涜している存在だと思う。
彼がト、と軽く床を蹴り、俺のすぐそばにやって来た。緊張を孕む俺の顔を下からゆっくりと覗き込み、まるで見透かすように瞳を閃かせた。喉仏が、また大きく上下する。
蠱惑的な美しい男が、天窓から落ちる月の淡い光の下、視線を合わせたまま微笑みを深める。
そうして、俺にゆっくりと跪いていった。
恭しく胸に手を当てて片膝を着くと、柔らかな黒い羽がしどけなく床に広がる。
演劇の一幕のみたいな、冗談のように美しい光景に一つも瞬き出来ず、俺は彼が言葉を発するのをただ、待つしかなかった。
悪魔に魅入られる、とは、こういうことを言うのだろう。
高揚する気持ちと裏腹に、背筋に冷たい汗が伝い落ちていった。
彼が顔を上げる。
「ぼくの条件はこうだ。ぼくを、きみの恋人にして、クラウチ。きみが寿命を迎えたならば、魂をいただくよ」
「…………は?」
「ぼくはね、恋をしてみたいんだ。そして、愛を知りたい。ときに悪魔よりも強く人を惑わせ縛るという、その恋を、ね」
「…………だったら、俺じゃなくてもいいだろう」
「ふふ、いいのかい?ぼくが年端も行かぬ子供を恋人にして、手籠めにしても」
ぼくが相手を虜にするなんて、息をするより簡単だからね。
悪魔は言った。
「今も、どうぼくと対等な契約を結べるのか考えている、そうだろう?」
図星だった。カソックの下の白いシャツにびっしりとかいた汗は全て、緊張からくるものだ、と俺は知っている。
「ぼくに堕ちず、ぼくを魅了してくれる人間をずっと探していたよ――クラウチ。ぼくの恋人になって?」
甘ったるく囁く男に抗う術を探したが、悪魔は嘘を口にしない。一度出した条件は翻さない。
俺がこの悪魔を恋人にするか、悪魔祓いの聖職者がこの辺境の街まで派遣されることを祈りながら死を待つか、気紛れに何もしないで立ち去る奇跡をただ祈るか。
俺の取れる選択肢はもはや、一つだけだった。
「おまえの、名を」
教えてくれ。干上がる喉で辛うじてそう言うと、悪魔は嬉しそうに笑った。
「オウジ。オウジ、カズアキ。きみとよく似た名前だろう?クラウチカズキさん」
ああ。
美しい男だ。
王子、そう呼ぶと彼――王子は立ち上がり、くるりと一回りして翼を消した。瞳はただ平凡な暗褐色に変わっている。
その王子が俺の腰を抱き、顔を寄せた。
唇が重なる。
俺はその日、背徳と禁断がこれほどまでに甘いことを、心の底から思い知った。
王子に堕ちず、王子を恋の奴隷に堕とす。生まれてこの方、禁欲を貫く己にとっては、あまりにも難しい試練だと思った。