俺たちは賢者様の国だと結婚できないらしい なんとなく、酒が飲みたい気分だった。
カインは、賢者の魔法使いとしての任務を終えたあと、バーに向かうことにした。
賢者の魔法使いたちが生活している魔法舎には、バーがある。バーの主は、西の国で酒場を七百年経営しているシャイロックという魔法使いだ。
バーの扉を開けると、シャイロックの落ち着いた声がカインを迎えた。
「いらっしゃいませ」
「お疲れ様、シャイロック!」
カウンターへ向かいカインが片手を挙げると、シャイロックの手が重なる。カインの目の前に、上品に微笑むシャイロックの姿が現れた。
バーカウンターには、すでにグラスがひとつ置かれていた。
「ねえ、俺もいるよ!」
「その声はムルだな」
カインの手のひらに、ぱちんと勢いよく手が触れた。いたずらっぽく笑うムルが、逆さまになって宙に浮いていた。切り揃えられた紫色の髪が、さらさらと揺れている。
「どうして浮いているんだ?」
「座ってるのに飽きちゃった!」
無邪気に笑うムルに、シャイロックは「物は壊さないでくださいね」とたしなめていた。
カインが椅子に腰掛けようとすると、ムルが呪文を唱えた。
「エアニュー・ランブル!」
「えっ? ——うわあ!」
カインの身体が空中にふわりと浮かび、ぐるんと視界が上下逆さまになった。ムルの魔法によって、カインもムルと同様に逆さまになって宙に浮かんでいた。
シャイロックが小さくため息をついた。
「こら、ムル」
「だって、楽しいよ!」
「あはは!」
「ほら、カインも笑ってる!」
ムルのやることは突飛で愉快だとカインは思う。上下が反転した世界で、困ったように微笑むシャイロックと悪びれもなく楽しげにしているムルがいた。
逆さまになっていることによって、普段は顔の左側に垂らしている長い前髪がなくなって、カインの視界はいつもよりすっきりしていた。カインの顔を興味深げにのぞきこむ緑の瞳と目が合った。
「なんだ?」
「気になってたんだけど、カインの左目って——」
「ムル」
シャイロックが、ムルを諌めるようにその名を呼んだ。
カインは明るい声で言った。
「いや、俺は大丈夫だよ」
「……」
シャイロックが心配そうにカインを見た。カインはシャイロックが気遣ってくれたことに感謝し笑顔で応える。
ムルはシャイロックがそれ以上注意をしてこないことが分かると、再度口を開いた。
「カインの左目ってさ、オーエンの目だよね」
「そうだな」
カインは左右で目の色が違う。左目はオーエンという魔法使いに奪われ、代わりにオーエンの赤い瞳を埋め込まれたからだった。普段は長い前髪で隠れているから、赤い左目が他人の目に触れることはそう多くはない。
「なにか不具合ってあるの? 自分の目だったときより見えにくいとか」
「そういうのはないかな。たまに勝手にぎょろぎょろ動くのはびっくりするが。それ以外に、目としての機能に特に問題ない」
「じゃあさ——」
ムルが魔法でカインの体をぐるっと回転させた。カインの世界の天地が元通りになる。前髪がカインの左目を覆った。
「目の機能は果たしてるんだから、それでよくない?」
「え?」
「取り返す必要ってある? 自分の目玉ってそんなに大事?」
「……」
カインは奪われた瞳をオーエンから奪い返すと心に決めているし、たびたび口にもしていたから、ムルにそう言われて呆気に取られてしまった。
ムルはよく動く口でぺらぺらとしゃべり続ける。
「オーエンは強ーい北の魔法使いだよね。カインがオーエンから取り返すのって大変そう」
「そうだろうな」
カインは素直に同意した。以前にカインはオーエンに挑んだことがあったが、その際はまったく歯が立たなかった。
「奪われた目のことはもう放っておいて、気にせず生きていくって道もあるんじゃない? ——オーエンにはそっちのほうが効くかも。嫌がらせをした相手が気にせず幸せに過ごしているほうが、オーエンは気に食わなくてやきもきしそう!」
「なるほど?」
オーエンは嫌がらせをしたり人を不安にさせたりすることが好きな質だ。カインが苦い顔をしていると、オーエンは喜ぶ。だから、カインが幸せそうにしていると逆にオーエンは気に食わないだろうというのは、あり得る話だなとカインは思った。
宙に浮かんでいたカインを、ムルが魔法でゆっくりと椅子に座らせた。
「カインはオーエンを因縁の相手って思ってる。けどさ、それってオーエンに勝手につけられた因縁でしょ? 目玉を取り返すのなんて時間も労力もかかるよ。取られた目玉は取り返しましょうなんて規則はないし、目玉を取り返すのは、義務じゃない。——人生は自由だ。カインは、勝手に向こうから一方的につけられた因縁に人生を縛られる必要なんてないんだ」
カインは、今まで自分になかった視点に驚いた。
「そういう考えもあるのか……」
「ないだろ。馬鹿なの?」
急に背後から低い声が聞こえてきた。
カインは振り向いた。
「あれ、オーエン?」
カインの後ろに、白い外套に身を包んだオーエンがいつの間にか立っていた。
「わあ! 本人登場だ」
ムルがそう言うと、オーエンは鬱陶しそうにムルをにらんだ。
「ちっ」
苛ついたオーエンは、カインの座っていた椅子ごと乱暴に自分のほうへ向かせた。
「うわっ」
「あんな珍奇でイカれたやつの話を真に受けるなよ、騎士様」
オーエンの左右色違いの瞳がカインを見下ろしていた。オーエンの左の眼窩には、もとはカインのものだった琥珀色の瞳が嵌っている。
「奪われたものを取り返さずに逃げるなんて、騎士の誇りが廃るだろ」
オーエンはそう言って、人差し指でカインの胸を軽く小突いた。
「おまえが奪われたのは目玉だけじゃない。騎士としての名誉、騎士団長の立場、人々に感謝され尊敬されただろう輝かしい未来——。つまり、すべてだよ」
オーエンはいつもの薄笑いでなく、真剣な表情でカインを見ていた。
「立ち向かわずに逃げるなんて、騎士様らしくない」
まったくおかしなことだが——カインはオーエンの言葉を受けて、胸に火が灯ったような心地がした。目玉を奪った張本人に説かれてこんな気持ちになるのは、倒錯しているなと思う。だが、カインが自分自身を見失いそうになったときに、こんな風にオーエンによって自分が目指すべきものを示されたように思ったことが度々あった。
「ムルが言っていたことも一理あると思う。でも、俺は魔法使いとして、そして騎士として強くなりたい。それこそ、オーエンから目を取り返せるくらいに」
カインがまっすぐオーエンに向かって言うと、オーエンはにやりと笑った。
「ふうん、そう。やってみたら。騎士様には無理だろうけど」
オーエンは機嫌よさそうにいつもの嘲笑を浮かべた。
その顔を、恐れ知らずのムルがのぞきこむ。
「ねえねえ」
「……」
オーエンは遠慮のないムルの態度が気に障っているようだった。だがムルは意に介さない。
「オーエンが欲しかったのは、目玉じゃなくてほんとうはなに?」
「……?」
ムルの質問の意図が分からず、カインもシャイロックもオーエンも、ムルを見つめた。
「オーエンはさっきカインに『奪われたのは目玉だけじゃない』って言った! じゃあ、オーエンも単に目玉を奪っただけじゃないんじゃない?」
「……」
オーエンは少し黙ったあと、ぼそっとつぶやいた。
「僕が欲しかったのは目玉だよ。ああ、あと騎士様の絶望した顔は見ものだったな」
「ほんとうに、それだけ?」
「……」
ムルがさらにオーエンを追求する。
「じゃあ、なんで殺さなかったの? 目玉が欲しいんなら、殺して奪ったってよかったのに」
「……僕の勝手だろ。うるさいな」
「ねえ、やっぱり目玉のほかにも欲しいものがあったんだよね?」
ムルはオーエンのいらついた様子を一切気にせず、オーエンに問い続ける。
「カインの時間を、人生を縛りたかった? カインの心をオーエンでいっぱいにしたかった? カインの未来を支配したかった? ……執着は北の魔法使いにとって厭うべきものなのに、オーエンはカインにすごく——」
「……その減らず口、二度と開かないようにしてあげる」
オーエンの手元に、魔道具のトランクが現れた。オーエンは本気で殺意を抱いている。あのトランクが開けば、凶暴な三つ首頭のケルベロスが飛び出し、ムルの喉元を食いちぎるだろう。
「待って。俺が一番聞きたいことをまだ聞いてない! 怖いわんちゃんを出すのは、聞いてからでもいいんじゃない?」
「……。いいよ。死ぬ前の最後の言葉、聞いてあげる。後悔しないよう、ちゃんと考えて話すことだね」
オーエンは歪んだ笑顔でムルの言葉を待った。
カインははらはらしてシャイロックを見た。シャイロックはあきれた顔でムルたちを眺めていた。こうなる前に早くバーから追い出しておけばよかったかな、とでも言いたげな表情だった。
「俺が気になってたのはね、ずいぶんまわりくどいなってこと。カインを自分に引き留めたいなら——結婚で事足りるんじゃない?」
「結……婚……?」
いきなり出てきたその言葉に、カインとオーエンはぽかんとした。ムルはカインたちの顔を見て笑った。
「ああ、もちろんカインの同意を得た上で、だよ!」
「……何を言うかと思って期待してたのに。世紀の智者、イカれた天才の最後の言葉がそれ?」
オーエンは帽子を目深にかぶり直して、ため息をついた。
「全然面白くないんだけど」
「えー? ふたりは目玉を介して繋がってるわけでしょ。物理的にだけじゃなくて、『いつか目玉を取り返す』って決意がくっついてる。目玉を取り返す日までカインはオーエンのことが頭から離れないし、それまでにオーエンがほかの人に殺されたら嫌だよね。オーエンだってそう。カインが目玉を取り返しに来る前にカインが死ぬことは望んでない。カインが急に強くならない限り、目玉を取り返すのはずっと先のこと。その日まで、お互いがお互いのことをそうやって縛ったり無事を願うのって、結婚みたいじゃない?」
ムルは、困惑しているカインとオーエンが面白いらしかった。
「良いときも悪いときも、富めるときも貧しいときも、病めるときも健やかなるときも、死が二人を分かつまで——って誓うやつあるよね、ふたりはどんなときもそうやってお互いのことを考えてそう」
カインは、そうだろうかと首を傾げた。カインにとってオーエンは倒すべき大きな目標だ。だが、オーエンにとってカインとは?
オーエンは気まぐれだ。オーエンに目玉を奪われたことはカインの人生の転換点だが、オーエンからすれば、偶然見かけた魔法使いの目玉を奪うというのは、手遊びに道端の花の花弁をちぎるくらいの、気まぐれの範疇に収まるのではないか。カインには、オーエンの考えていることがいつもよく分からない。
気づけば、オーエンの殺意はすっかり消えていた。
「オーエンって——」
カインはオーエンに疑問を投げてみた。
「俺と結婚したかったのか?」
「……は?」
オーエンはまんまるに目を開いてカインを凝視した。
「なに言ってるの? 結婚? 僕がおまえと? ムルに引っ張られて騎士様もおかしくなっちゃった?」
オーエンは馬鹿にしたように早口でそう言うと、ふいと目をそらして、前髪をいじり始めた。
「……結婚って、一緒にいるために約束するやつだろ。約束がなきゃ一緒にいられないなんて、馬鹿みたいだよ」
オーエンは目を細め、ひとりごとを言うみたいにぼそぼそ喋った。
「まあ……おまえが毎日僕のために甘いものを用意して、僕が満足するまで生クリームを作って、それで時々、手に入れたマナ石の一番上等なやつを僕に献上するって言うなら、一緒にいることを許すくらいは、ほんのちょっとだけ、考えてやっても……」
「あ」
カインはふと、結婚にまつわるあることを思い出した。
「そういえば、賢者様のいた国だと俺たちは結婚できないらしいぞ」
「——……なんの話——」
「それってどういうこと? 賢者様の国には結婚の風習や制度がないの?」
ムルがカインの発言に食いついた。カインは賢者から聞いたことを思い出しながら答えた。
「いや……男女の組み合わせだと結婚できるが、それ以外の組み合わせは結婚できないんだってさ」
「変なのー!」
賢者とは、賢者の魔法使いたちを束ね、この世界を大いなる厄災から守る存在である。賢者は異界から召喚された人間が務める。現在の賢者は、こちらの世界に召喚される前は日本という国に住んでいたと聞いた。
ムルはくるんと宙で一回転した。
「誰と一緒に生きるのか、性別の組み合わせを指定する意味ってある?」
「さあ……?」
「生殖、つまり子ども? いや、それは関係なさそう。子どもがいなくても男女の組み合わせならよくて、子どもがいても女女の組み合わせだとダメってことだもんね」
「まあ、おそらく?」
「加齢などの理由で生殖能力がなくなっても、その男女の結婚が無効になるわけじゃないんだろ? じゃあ……」
賢者の国の結婚制度について考えを巡らすムルの横で、オーエンが不機嫌そうな顔をしていた。カインは慌ててオーエンに謝った。
「あ、オーエン。悪い、俺が話を遮っちまったんだよな。ええと、なんだっけ。一緒にいたかったら生クリームを作れって話だったか?」
「違うよ」
「あれ? 違った?」
「うん。違う」
オーエンはどうでもよさそうにそう言うと、魔法で姿を消しどこかへ行ってしまった。
「急に現れたと思ったら、いなくなった……」
「さっきのは、わざと話を逸らしたんですか?」
それまで傍観に徹していたシャイロックがカインに聞いた。
「え?」
「オーエンのこと。……その様子だと、違うようですね。少しだけ、オーエンが可哀想に思えてきました」
「ねえ、カインはどう思う?」
ムルの探究心あふれる瞳がカインの顔を至近距離で見ていた。
「えっと、オーエンが可哀想かどうかってことか……?」
「ううん、男女じゃないと結婚できないことについて!」
「ああ、そっちか」
カインが考え始めようとすると、シャイロックがカインの前にグラスを置いた。
「おしゃべりもいいですけど、喉が渇きませんか?」
グラスの中では、美しい青のグラデーションがゆらめいていた。以前にシャイロックに作ってもらって、カインが好きだなと思ったカクテルだった。
「ありがとう、シャイロック!」
飲みに来たのに、そういえばまだなにも口にしていなかったなとカインは思った。
シャイロックが、キセルを取り出し火をつけた。
「ムル。あなた、独身主義でしょう。それなのに結婚を提案したり、結婚のことを知りたがったりするのはなぜ?」
「分からないからこそだよ。なぜ人は結婚に憧れ、結婚に向かうのか。カインの考えは?」
「えっ。うーん……。結婚って人生のゴールというか、人が生きる上で幸せのかたちとされてるから、とか? あと、家族とか友人とか知り合いとかの周りの人に、この人が自分のパートナーだって示せる。なんかそれって、いいな、幸せだなと思う」
そう語るカインを、ムルとシャイロックが微笑みながら見ていて、カインはなんだか気恥ずかしくなった。年長の魔法使い——ムルとシャイロックは齢千五百を超えている——にそのような視線を向けられると、子ども扱いされているような、からかわれているような気分だった。
「っ、あと、公的にも認めてもらえたり、社会保障を受けられたりとか、そういう実利もあるよな。……あー、結婚とか恋愛とか、そういうのはシャイロック、あんたのほうが得意なんじゃないか?」
「ふふ、そうですか?」
「じゃあ、シャイロックの考えも聞こう。賢者様の国では男女の組み合わせでしか結婚できないことについて、どう思う?」
ムルに問われたシャイロックは、ゆっくりとキセルを吸った。吸い口から唇を離すと、ふうと煙を吐き出す。
「無粋ですよね。幸せのかたちを、権力者が決めて押し付けるなんて」
「わあ、手厳しいね!」
「幸せのかたちなんて、人それぞれです。ムル、あなただって、月に恋しているのが幸せなんでしょう?」
「そうだね! 俺は誰になんと言われようと、月を愛しているよ」
月は、この世界においては、ただ夜空に浮かんでいるだけの天体ではない。年に一度、この世界に接近し、この世界を襲う。月は大いなる厄災と呼ばれていて、賢者の魔法使いたちが戦う対象である。そんな忌避されるべきものに恋をしていると公言するのでムルは、イカれていると称される。
シャイロックが、猫をなでるみたいにムルの顎を指でくすぐった。
「あなたには、人の作った枠組みなんて小石程度——いや、小石以下の障害でしょうけど。ほかの方々にとってはそうではない……」
シャイロックとムルをぼうっと眺めていたカインは、微笑んだシャイロックと目が合った。カインは、シャイロックが無粋と評した意味を考えて、視線を宙へさまよわせた。
「ええと……賢者様の国では男女のペアで生涯を送るのが幸せのかたちであって、そうではないかたち、例えば男どうしとか女どうしとか、ひとりとか三人以上とか、そうやって暮らしてる人は幸せのかたちからズレてるって見られるのか」
「ええ。そういうことでしょうね。もちろん、個人の価値観はそれぞれあるでしょうけど」
ムルが再び宙を回転した。
「人の意識や価値観なんて、外からの影響を受けてすぐ左右されちゃう! それにさ——みんな、幸せがなんなのか、実はよく分かってないんじゃない? だから、男女で結婚するのは幸せだよって提示されたら、そうなんだなって思ってしまう。男女の結婚というかたちが幸せではない人からすると、それは、呪いだ」
呪い、と聞いてカインはどきっとした。ムルは少しだけ声のトーンを落とした。
「例えばさ、愛する人にとって、自分と一緒になることは幸せではないのかもしれない——なんて考えたら、愛を伝えるのに躊躇してしまう。『幸せになりたい』『幸せになってほしい』という思いと、自分の欲求が衝突するんだ」
シャイロックが息を吐いた。キセルの煙が空中をゆらゆら漂う。
「世間から繰り返し提示される幸せのかたちと、自分のありたい姿が相違していると、苦しいでしょうね。自分のありたい姿で生きることが幸せだと私は思いますけど、世間の圧力に耐えながらそれを追求するのは、苦労も多い」
シャイロックは目を伏せて、キセルの灰を落とした。
「……それに、不公平でしょう。世間の言っている幸せと自分の幸せが合致している人は、そんな苦労は負わなくていいわけですから」
「……」
カインは、シャイロックの言った「自分のありたい姿」という言葉が頭に残響していた。
カインは魔法使いだが、ずっと魔法使いであることを隠し、ある時期まで人間として生きていた。
カインが魔法使いであることを隠していたのは、親に隠すように言われていたからだった。絶対に外で魔法は使うな、この街で暮らせなくなる。友達もいなくなるぞ、と。
カインのことを思って親がそうしたのだと、カインも理解している。カインを苦しめるためではなく、カインの幸せを願ってのことだ。カインは隠しごとを好まないが、家族に迷惑をかけたくないという気持ちも強かった。
それに、カインの子どもの頃からの夢は、騎士になることだった。カインの生まれ育った国では、魔法使いは騎士になれない。その夢を叶えるためにも、カインはずっと人間のふりをして、騎士になるべく努力してきた。
カインは類稀なる剣の才能と鍛錬の成果で、若くして騎士団長の地位に就いた。そこに至るまでに、魔法で不正は一切していない。ほかの人間たちと同じ条件のもとで成し遂げたことだった。
だから、それまでカインの中には、人間のふりをして騎士として生きていくという生き方しか存在していなかった。
魔法使いとしての人生は、想像したことはあっても現実性は薄く、あくまで空想に限られた——魔法使いである限り騎士にはなれないわけだし、カインの周囲の誰もがカインに魔法使いであることを望んではいないのだろうと、カインはそう感じていた。
「賢者様の国の、男女以外の組み合わせでは結婚できないってやつ、『魔法使いは騎士になれない』って決まりと似てるかもな。そういう決まりがあるとさ、魔法使いとして騎士になるって選択肢がないんだ。そういう未来を描けないんだ」
カインが人間のふりをやめて現在魔法使いとして生きているのは、とある事件がきっかけで魔法使いであることが露呈し、騎士団長の地位を剥奪されたからだった。
事件直後は人生が奪われたような心地で、もちろんショックだった。だが、魔法使いである事実が知られるところになって、カインは自分が、ほんとうは嘘をつきたくなかったことに気がついた。
「オーエンのことは仇敵だと思っているが——正直、複雑な気持ちだ」
カインは、先ほどオーエンがいた辺りに目をやった。
カインが魔法使いだと露見した事件というのは、オーエンによる騎士団襲撃事件だ。カイン率いる騎士団を突如オーエンが攻撃し、反撃するもまったく敵わず、カインはそこで魔法を使った。だがカインは魔法の師がいたわけでもなく魔法の訓練もろくにしていなかったから、ひどいものだった。騎士団員を逃すことはなんとかできたが、カインはそのままオーエンに半殺しにされ片方の目玉を奪われた。
カインにとって、オーエンは憎い相手だ。
だが現在は、カインもオーエンも賢者の魔法使いである。世界を守るために協力し、共闘しなければならない間柄だ。
賢者の魔法使いたちは魔法舎で生活しているから、任務のときだけでなく、日常的に顔を合わせる。そうしているとなんだか、いろんな面も見えてきて、憎しみ以外の感情も抱くようになる。
「それで、結局のところどう思ってるんです?」
カインはシャイロックに聞かれて顔を上げた。
「……え?」
「オーエンのこと!」
ムルは宙に浮かぶのをやめて、カインの隣の椅子に座った。
カインは目を瞬かせた。
「えーっと……改めて言葉にするとなると難しいな」
ムルとシャイロックが期待に満ちた目でカインを見ていた。
「きれいな言葉でまとめなくてもいいんですよ。感じたままに、語ればいいんです」
「そう! 飾らない生身の言葉のほうがいいこともあるからね!」
「んー……」
カインは顎に指を当てながら考えた。
「あいつは最悪で、嫌なやつで、俺にひどいことをした。でも、なんだろうな……オーエンが俺の人生に関わってから、俺は俺が魔法使いであることを強く意識するようになったし、たまにオーエンのことを標みたいに感じることがある。あいつは俺の求めていることを知っているような、ヒントを持っていそうだな、みたいな。……あー、でも、オーエンとの出会いをそうやってプラスに考えるのも良くない気がして……だって、人を傷つけたり目玉を奪ったりするのは、ダメだろ。それを肯定するみたいにならないか?」
シャイロックはにこりと笑った。
「一般論はそうでしょうし、そうあるべきでしょうね。でも、先ほどあなたが言ったように人の気持ちは複雑です。倫理や正義よりも、あなたの感情があなたにとって正しいこともある」
「じゃあ俺って、オーエンのこと——」
「ちょっと、騎士様」
「うわあ! オーエン⁉︎」
「また急に出てきた!」
ムルは突然現れたオーエンを見て、はしゃぐようにそう言った。
オーエンはムルとシャイロックを一瞥すると、カインを強く引っ張った。
「な、なんだ?」
「首都で屋台が出てるみたいだった」
「あ、今日は祭りが開かれるって聞いたな」
「甘いものあると思う?」
「あるんじゃないか?」
「じゃあ、連れてけよ」
「ん? 俺が?」
「僕と話してるのはおまえだろ。ほら、行くよ」
その瞬間、カインはバーではなく暮れかけた空にいた。
「わっ……」
オーエンの魔法で移動させられたようだった。カインは慌てて箒を取り出した。オーエンは、無様だなという視線をカインに向けていた。
「おまえさあ——」
オーエンがカインに向かってなにか言葉を発した。でも声が遠くて、カインは聞き取るためにぶつからないくらいの、ぎりぎりまでオーエンに箒で近づいた。
「オーエン、なんだ?」
「あいつらにおもちゃにされてることに気づかなかったの?」
「え?」
「ムルとシャイロックだよ。……ああ、気づかなかったんだ。おめでたいね、おまえ」
「そうかな……?」
オーエンがカインをじとりとにらんだ。
「あいつらはおまえをたぶらかして、聞き出そうとしてた。そういう話が好物だから」
「そういう話って?」
「誰が、誰のことをどう思っているかって話」
「誰が誰の……ああ」
オーエンがバーに現れたのは、カインがオーエンのことをどう思っているかを話していたときだった。
「そういうのは、まず本人に言うべきなんじゃないの」
オーエンはむすっとした顔でそう言った。
カインは思わずオーエンの顔をじっと見た。
「オーエン、おまえ——」
カインは頬がゆるんだ。
「案外真面目だよな」
「は? 馬鹿にしてる? 殺すよ」
「ふっ、馬鹿にしてないってば。それに、これから屋台巡るのに殺そうとするなよ」
カインは箒のスピードを上げてオーエンの前に出た。くるりと振り返って、オーエンを真正面から見る。カインはそのまま後ろ向きで箒を飛ばした。
「分かったよ。俺がオーエンのことをどう思っているか、自分でもはっきり分かって言葉にできるようになったら、真っ先にオーエンに伝えに行くよ」
「……ふん」
オーエンはカインの視線から顔をそらした。帽子となびいた銀髪に隠れてしまって、その表情はカインからは窺えなかった。
カインは箒の向きをもとに戻して、オーエンの横に並んだ。
「なあ、オーエン。魔法を使える騎士って格好いいよな」
「……なに、いきなり。まあ……魔法使いであることを隠して、人間のふりをしている騎士よりはましかもね」
「はは……」
カインは苦笑した。
「俺は、この国でも魔法使いが騎士になれたらいいなと思う。俺がそうなりたかったのもあるけど、俺のほかにも魔法使いとして生まれて、騎士になりたいって思うやつがいるかもしれないだろ?」
「ふん。そんな日が来ると思う? 建国にあたって魔法使いが人間に力を貸したのに、のちに疑い深い人間が魔法使いを排斥したんだろ?」
「でも、いまの王子様は魔法使いだ。騎士の魔法使いだって夢じゃないかも。なにより、強くて格好いい!」
「はっ……」
オーエンが馬鹿にしたように笑った。でも、いつもの嘲笑よりは柔らかいものにカインには思えた。
空が暗くなるにつれて、頬にあたる風もひんやりしたものに変わってきていた。
「あと、もし騎士になれなくても——俺は、楽しそうに幸せに生きている魔法使いが身近にいてくれたらなって思ったときがあるから、それになりたいな」
「……なに、その漠然としたやつ」
「俺の出身の街にも魔法使いはいたけどさ、なんかこう、めちゃくちゃ嫌われてるわけではないけど、かといって街に完全に馴染めてるかっていうとそうでもなくて……」
「ふうん?」
「魔法使いが魔法使いであることを恥じずに堂々と生きてる姿を、幸せそうに生きている姿を間近で見られたなら、俺の親もわざわざ魔法使いであることを隠そうと思わなかったんじゃないかって。魔法使いとしてありのまま生きていいんだと、そう思えたんじゃないかって」
「……」
「魔法舎で暮らすのは楽しい。同年代の魔法使いも、すごく長生きな先輩の魔法使いもいて、一緒に魔法の訓練ができるのは嬉しいよ。それに、魔法使いにもいろいろいるんだなって知れた。こんなにたくさんの魔法使いと関わるなんてこと、俺の人生にはこれまでなかったからさ」
カインたちの眼下に、祭りの屋台が立ち並んでいるのが見えた。ふたりは箒の方向を変えて下降する。
「あ。俺は人混みの中だと役に立たないぞ?」
「仕方ないな。じゃあ、財布係に任命してあげる」
「おい、もとからそのつもりだったろ……」
「ふふ」
オーエンは機嫌よさそうに笑っていた。
こうやって、オーエンと軽いやり取りをしているのをカインは不思議に思う。目玉を奪った凶悪な魔法使いが、自分と肩を並べて楽しそうに笑っている。
オーエンとの関係について、奪われたとか縛られているとか、バーではそういう話をしたが、カインは少し違うことを考えていた。
たしかに、目玉を取り返すなんて目的を抱えることにはなったが、カインはそれに対して窮屈には感じていない。むしろ、目標を与えられたことで、やりたいことややるべきことがはっきりして、活力がわいてくる。奪われたはずなのに、逆に与えられているような気さえしてくる。
でも、それをオーエンに伝えるのは癪だ。目玉を奪ってくれてありがとう、なんておかしな話だし、なんだか卑屈にも思える。
「とにかく、まずは目玉を取り返してからだよな」
「なんか言った?」
「いや、ひとりごとだよ」
同じ瞳の色をしたふたりの魔法使いは、屋台の喧騒へと足を向けた。