2026/5/31大阪「投票行こ!」サンプル 晴れた秋の日の夜だった。カインはポークステーキを切り分け、オーエンはサンドイッチを食べている。
二人は、ネロがシェフを務める小さなレストランで出会い、共に育った。こうして一緒にネロのレストランで夕食を取るのも、当たり前の風景になっている。
「オーエン、サンドイッチの中身はなんだ?」
カインが聞くと、オーエンは軽く顔を上げて答えた。
「苺と生クリーム、みかん、桃」
「フルーツサンドか。うまそうだ」
「やらないよ」
「はは。欲しいわけじゃないよ」
カインは笑いながら自分のポークステーキをつつく。偏食のオーエンがちゃんと食事をしているところを見ると、カインは安心する。
カウンターから、ネロが声をかけてきた。
「フルーツサンド、カインも欲しかったら作るけど」
「え……。じゃあ、お願いしてもいいか?」
「もちろん」
「ありがとう!」
カインは笑顔で礼を言った。
ネロには、カインが子どものときから世話になっている。ネロはレストランの傍ら、子ども食堂をボランティアでやっていた。小学生のとき片親だったカインは、親が仕事で夜遅くなる際、ネロのレストランに食事をしに来ていた。その後、親が再婚してからは、客として店で食事をしている。
「こんばんは」
「ファウスト! リケ!」
店に、ファウストとリケが入ってきた。ファウストはネロと同年代で、リケはまだ中学生だ。二人とも、カインの顔馴染みである。
ファウストがカインに言った。
「育ち盛りの時期だから、たくさん食べなさい」
「ああ! ネロの料理はおいしいから、いくらでも食べられるよ」
「先生、僕は?」
オーエンが、からかうようにファウストに言う。
「きみは、体が細いからたくさん食べなさい」
「はあい」
オーエンはふざけて返事をした。
ファウストは、ここでは先生と呼ばれている。学校の教師ではないが、子ども食堂で子どもに勉強を教えるボランティアをしているので、いつしか先生と呼ばれるようになった。
「そろそろ選挙の時期ですね」
カウンター席で料理を待つリケが言った。
ファウストがそれにうなずく。
「リケは選挙に興味があるのか。いいことだ。ちょうど、今日から選挙期間だな」
「カインは、もう十八歳になったんでしょう? 投票ができますね」
リケがカインに向かって言う。
カインは手で頭をかいた。
「ああ。でも、選挙ってよくわからないんだよな。どこに投票したらいいんだろう」
その言葉に、リケが目を輝かせた。
「じゃあ、僕のおすすめの——あれ、これって、選挙運動になりますか? 十八歳未満は、選挙運動をしてはいけないんです」
「一応、やめておいたほうがいいかもしれない」
ファウストがそう言って、リケは口をつぐんだ。オーエンは、「こんなところで言っても、誰も気にしないのにね」と小さく笑った。
「オーエンは、支持してる政党はあるのか?」
カインは、オーエンに質問した。
オーエンは薄笑いを浮かべながら答える。
「ふん。投票なんて、意味ないよ。一票でなにが変わるっていうのさ」
それを聞いたファウストが、怪訝な声を上げた。
「なっ、まさかオーエン、投票に行ったことがないとは言わないよな……?」
「うん? 行ってないよ。だって、馬鹿みたいだろ」
「投票には行きなさい!!!!」
ファウストが大きな声で言った。オーエンはびっくりして、手にしていたサンドイッチを皿の上に落とす。ファウストの声で空気がびりびりと震え、レストランの建物が微かに揺れたようにカインは感じた。
ファウストが、言い聞かせるように話し始める。
「いいか、投票権はな、昔は限られた人しか持っていなかったんだ。女性が参政権を得てから、まだ百年経ってない」
カインがファウストに聞く。
「え、それって、女性は投票できなかったってことか?」
「そうだ。政治に参加できないということは、自分の意見が政治に反映されないということだ。そうすると、どうなるか。政治に無視される。その人の生活が蔑ろにされて、苦しくなる。だから、投票というのは大事なんだ」
それを聞いて、カインは言った。
「なるほど。それなら、俺は絶対投票に行くよ。ファウスト、教えてくれて、ありがとう」
「ああ」
「ふん」
オーエンはファウストの話が退屈だったのか、機嫌を悪くしている。
カインはオーエンを見た。
「オーエンも、投票行かなきゃダメだぞ」
「は?」
「さっきのファウストの話、聞いてただろ。これまで行かなかったことを反省して、これからは行かなきゃ」
オーエンは顔を険しくした。
「知らない。僕には関係ない」
「関係ないって……」
ファウストが、ありえないという表情をする。怒り出しそうな気配を感じたので、カインはファウストを遮った。
「あ、じゃあオーエン、ゲームをしよう。投票に関係するゲーム。負けたら、勝ったほうの言うことを聞く、みたいなさ……」
カインがそう言うと、オーエンは興味深そうに微笑んだ。
「ふうん? 勝ったほうは負けたほうに言うことを聞かせられるの?」
「ああ! でも、投票することが条件だ。どうだ?」
オーエンはにやりと笑った。
「いいよ。僕が勝つから」
「よし!」
カインがちらりとファウストを見る。ファウストは、カインと目が合うとうなずいてくれた。カインは、ほっとする。
「ゲームって言っても、俺は選挙や投票については詳しくない。図書館に行って、調べてからゲームの内容を決めよう」
「ご苦労なことだね」
「オーエンも一緒に図書館、行こう」
「え? 僕も?」
「俺が有利な条件のゲームにするかもしれないだろ? ズルしないように、オーエンは見張ってたほうがいいんじゃないか」
「……別に、騎士様はそういうことしないでしょう。でも、まあ、いいよ。一緒に行ってあげる」
「やった」
カインがにこにこすると、オーエンはそっぽを向いた。髪の毛をいじりながら、視線を泳がせている。
ファウストが言った。
「困ったら、僕に聞いてくれていい」
「ファウスト、ありがとう!」
カインはファウストに礼を言って、食事を再開した。
カインとオーエンは、三つ歳が離れている。オーエンのほうが年上だ。
二人が出会ったのは、子ども食堂だった。
「ふん、おまえ、こんな簡単な問題も解けないの?」
カインが初めてオーエンにかけられた言葉は、それだ。当時、二人とも小学生だった。
「うん。わからない。教えて!」
そのときカインは、あっけらかんとオーエンに言った。
オーエンはぽかんとしたあと、にやりと笑った。
「へえ。僕に教えてほしいんだ。……おまえ、名前はなんていうの」
「カイン! あんたは?」
「オーエン」
子ども食堂は、学校帰りの子どもが過ごせる場所でもあった。カインは放課後にそこで宿題をやっていて、わからないところがあれば、年上のファウストやネロに教えてもらっていた。
その日は、ちょうどカインより年上の人間がオーエンしかいなかったから、カインはちょうどいいと思ってオーエンに教えてほしいと言ったのだった。それが、カインとオーエンの初めての出会いだった。
オーエンは、意地悪なやつだった。カインが子ども食堂で過ごしているとき、オーエンはわざわざカインに絡んでくる。
にやつきながら、オーエンがカインに言う。
「おまえ、宿題やらなくていいの」
「今日はもうやった! 自分の力だけで解いたんだ」
「へえ。じゃあ、きっと間違いだらけだね。先生に怒られる。かわいそう」
「見てもいないのに、そんなこと言うな!」
「じゃあ、見せてよ。見た上で、間違いを嘲笑ってあげる」
そうやって、オーエンはカインをいじめながら、なぜか度々カインに勉強を教えてくれるようになった。
子ども食堂での食事のときも、いつしかオーエンはカインの近くで食事をするようになった。
カインは、オーエンの皿を見て言う。
「オーエン、野菜残しちゃダメだぞ」
「だってこれ、苦いんだもん。おまえにあげる」
「こら、オーエン!」
「おまえ、大きくなりたいんだろ? じゃあ、食べなよ」
オーエンはくすくす笑いながら、自分の残したものをカインの皿に寄越してきた。カインは、食べ物の貴重さをよくわかっていたので、なんでもよく食べる。身長が大きくなりたいのはその通りだから、カインはオーエンの残したものを片付けるようになった。
カインは明るくて、誰とでも仲良くなれる性格だ。学校でも友達は多かった。でも、片親だったことで家が貧しくて、それが少し恥ずかしくもあった。友達の家に遊びに行って、自分の家より裕福なのを見ると、寂しい気持ちになる。
だが、子ども食堂にいるときは、そんな劣等感を覚えずに済んだ。カインはそこで、自分らしくいられた。
カインが一番心を開けたのは、なぜかオーエンだ。嫌なやつのはずなのに、オーエンの前では、飾らない自分でいられた。
オーエンはカインに詳しい家庭事情を言わなかったけれど、親との仲が悪いということはなんとなくわかっていた。
——オーエンが十八歳になったとき。
カインは、オーエンが親元から離れていってしまうのではないかと思っていた。オーエンは大学に進学するのかどうか、どこに行くのか、まったく語らなかった。
それで、カインは十五歳のとき、オーエンに言った。
「あの、オーエン、そろそろ進学とか就職の時期だよな?」
「さあ、どうだろうね?」
オーエンは、薄笑いを浮かべて言った。カインが二人きりになりたくて、オーエンを呼び出したときから、オーエンはにやにやと笑っていた。
カインは、オーエンの目をしっかり見て言う。
「俺、オーエンと離れたくない」
それを聞いたオーエンは、きょとんとした。カインは、続けて言う。
「どうしてそう思うんだろうって自分で考えたんだけど、俺はたぶん、オーエンのことが好きなんだと思う。ただの友達だったら、遠くに行くことを悲しんでも、止めようとは思わないから……」
カインは深呼吸して、言った。
「オーエン、俺と付き合ってほしい。遠くに行っても、連絡を取ったり、会ったりしたい」
カインは勇気を振り絞った。なにも言えずオーエンが遠くに行ってしまうほうが嫌だった。
カインがオーエンの顔を見ると、オーエンは珍しいくらいに柔らかく笑った。カインが思わず見惚れてしまうほどだった。
オーエンは笑みを浮かべたまま、言った。
「付き合う? おまえはまだ赤ちゃんじゃないか」
「あ……赤ちゃんではないだろ!? もう中学三年生だよ!」
「ふふ。十八歳の僕から見たら、赤ちゃんだよ。おまえがそういうことを言うのは、もっと大人になってからにしろよな」
カインは、オーエンに振られてしまったのだと思った。
だが——
オーエンは進学せず、地元で就職した。就職して少しすると、親元から離れて一人暮らしを始めたが、地元は離れなかった。そして、以前と変わらず夕食を食べに子ども食堂を訪れていた。カインは、オーエンと離れずに済んだ。
子ども食堂は、子どもだけが対象ではない。経済的事情にかかわらず、だれでも利用できる。もっとも、一人で生活費を賄わなければならないオーエンにとって、子ども食堂は助けになっているようだった。
カインはいま、十八歳の高校三年生だ。大学進学が目の前に見えている。
行く大学によっては、カインは地元を離れる可能性がある。オーエンと離れたくないカインは、オーエンにもう一度告白することを考えていた。
ただ……カインは、自分が大人かどうか、確信が持てなかった。年齢は成人したけれど、生活は親の世話になっている。収入を稼いで一人暮らししているオーエンと比べると、自分はまだ子どものように感じてしまう。だから、いま告白しても、また断られてしまうのではないかという不安があった。
「あ、オーエンに連絡しておかないと」
カインは、一緒に図書館に行く約束の日程を、スマートフォンのメッセージアプリでオーエンに送った。選挙について調べるために、オーエンを誘った件だ。
カインは、積極的にオーエンと一緒にいる時間を増やそうとしていた。今後、離れてしまうかもしれないから、たくさんの時間をオーエンと過ごそうと思っていた。図書館に誘ったのは、オーエンと一緒に過ごしたかったからでもある。
オーエンからの返信はすぐきて、さっそく日程が確定する。カインはスケジュールアプリに日程を入れた。
「……」
カインはスマートフォンを握ったまま、自室の机の前に立っていた。目の前の机には、大学の資料や願書が広がっていた。