2024/08/25東京 『ひとさじの砂糖じゃ懐いてやらないよ』サンプル 手が止まっていると指摘され、カインははっとする。ごまかすように笑って、ボウルを混ぜる動きを再開した。
砂糖を投入した生クリームを、泡立て器でかき回す。最初は白い液体だったそれは、だんだん固さを帯びてきて、どろりと泡立て器にまとわりついてくる。
「オーエンに全部取られないようにしないといけませんね」
リケがそう言って、カインはどきりとした。
「ああ……」
気取られないようにと意識したのに、手の動きが荒くなってしまって生クリームが調理台に少し飛んだ。
「生クリームはそのくらいでいいよ。今度は焼くほう手伝ってもらえる?」
ネロがカインに言った。
角が立つくらいの固さになった生クリームをリケに預けて、カインはガス台へ向かった。
カインはリケとともに、ネロのパンケーキ作りを手伝っていた。今日は出かけようと思っていたが、それまで少し時間があったところをリケに誘われたのだった。カインとリケとネロの三人で、現在魔法舎にいる魔法使いたちの分を作っていく。
「あっ、ちょっと焦げたかも……」
カインがつぶやくと、ネロがカインの手元をのぞきこんで微笑んだ。
「大丈夫だって」
「そうかな。でもなんか悪いからこれは俺が食べる分にするよ」
カインは焼き上がったパンケーキを皿に移した。ネロが焼いたものと比べると、カインがいま焼いたものは少し色が濃かった。
パンケーキの生地をすべて焼き上げたあと、ネロとリケは盛り付け、カインは調理器具の片付け作業に移行した。
「あ! オーエン」
リケの声にカインは手を止めて振り返った。
キッチンに現れたオーエンが、調理台に並ぶパンケーキをじっと見ていた。
「いま盛り付けをしているんです。オーエンの分は……って、勝手に持っていかないでください!」
「ふん。生クリームももらってくから。生クリーム、これしか残ってないの?」
「ちょっと……!」
止める間もなく、オーエンはパンケーキと、生クリームをボウルごと強奪していった。
「もう、オーエンは……!」
「まあ、生クリームの盛り付けは大体終わってたし、被害は最小限だったろ」
怒るリケに、ネロがなだめるように言った。
カインは片付けを終えると、リケからパンケーキを受け取った。
「あれ。これ俺が取っておいたやつと違うかも。焦げてるやつはなかったか?」
「ええと……ああ、さっきオーエンが持っていったやつがそれだったかもしれません」
「あー……」
カインは後頭部を手でかいた。まずかったかなと思ったが、オーエンはパンケーキよりも生クリームのほうがメインだろうから、大丈夫かなとも思った。
カインは食事を終えたあと部屋に戻った。出かける準備を済ませて玄関へと向かう。
途中、廊下でばったりオーエンと会った。
互いの目が合い、カインが先に顔をそらした。
「なに、騎士様。やましいことでもあった?」
オーエンがいつもの調子で、嘲るように笑った。
カインはこのところ、オーエンに対する感情に変化があることを自分でも認めていた。目玉を奪い、カインが騎士団をやめる要因を作った憎き相手であるのに、カインにアドバイスをしてカインの進む道にヒントを与えてくれた相手でもある。
わだかまりが完全になくなったわけではない。依然オーエンはカインに嫌がらせをしてくるし、カインにアドバイスをくれたのだって、気まぐれの要素が大きかったのだとカインは思っている。
「やましくはないが……」
黙っているとオーエンの視線が刺さるので、カインは仕方なくなにかを話そうとする。でも、うまく言葉が出てこない。
オーエンのことを考えようとすると、カインの胸中はもやもやして、落ち着かなくなる。それがなんとなく嫌で、カインはオーエンのことを深く考えないようにしていた。なのに先ほど生クリームを作っている際にふとオーエンが頭に浮かんできて、思いがけず、カインは手が止まってしまったのだ。キッチンに現れたときだって、オーエンがカインに一切目をやらなかったことに
安堵したくらいだった。
「えっと……ああ、そうだ。さっき食べたパンケーキ、大丈夫だったか? ちょっと焦げてたろ。失敗したから俺が自分で食べようとしてたやつなんだ……」
この場を取り繕う口実が見つかって、カインは内心ほっとしていた。
オーエンは、にやりと口角を上げる。
「へえ。あれ、騎士様が作ったんだ。焦げてて、形が悪かった。ネロが作ったにしては不恰好だと思ったけど、なるほどね。騎士様って大ざっぱというか、繊細さが足りないよ」
「言いたい放題だな……」
焦がしてしまったのは事実だけれど食べられないほどではなかったし、なにより奪うように持ち去ったくせに文句を言うのがオーエンらしいなとカインは苦笑した。
「たまたま持っていったのが俺の作ったやつなんて、オーエンは運が悪かったな」
「……おまえの失敗作食べさせられたんだから、お詫び、してくれるよね」
「……ん?」
オーエンがカインの眼前に来て、カインのネクタイを引っ張った。カインは目をぱちぱちさせる。
「え、お詫びって……」
「街でさっき、クリームを詰め込んで水死体みたいに膨れたパイを食べてるやつがいた」
「クリームのパイ……?」
「前、食べたことあるだろ」
「! ああ、スフォリアテッラか?」
「そう。あれ、食べたい」
パンケーキと生クリームを食べたあとなのに、まだ甘いものを食べたくなるのかとカインは思った。
「まあ……ちょうど俺は出かけるところだったし。いいよ、行こう」
「ふん」
カインとオーエンは、連れ立って街へと向かうことになった。
ふたりでどこかに行くのは久しぶりだった。カインはオーエンのことを考えないようにしていたから、無意識に避けていたのかもしれない。——なんだか、これではオーエンから逃げているみたいだとカインは思った。自分らしくない。
きっと、ひとりでぐるぐる考えようとするからよくないのだとカインは推測した。オーエンと会って、話をして、少し一緒の時間を過ごせば、そんなに悩むほどでもないと気づくはずだ。カインは人と打ち解けたいときは、ぱーっと酒でも一緒に飲むのがいいと思っているし、実際それで大抵はうまくいく。ただ、それはオーエンには通用しない。せっかくの機会だから、今回の外出でオーエンへの印象を整理しようとカインは思った。
スフォリアテッラは、ザクザクのパイ生地の中にクリームがたっぷり詰まった菓子だ。以前、とある用事で出かけた帰りに、そのときいた賢者の魔法使いたちでスフォリアテッラを食べたことがあった。
「前に行った、コンクじいさんの店でいいか?」
「うん」
カインは見えない人混みをかき分け、店に向かう。目指していた店の屋台は大通りではなく、一本外れた通りにあった。
コンクじいさんの店のスフォリアテッラは、中にクリームが入ったもの以外に、チョコレートやジャムの入ったものなど、たくさんの味があった。オーエンに聞くと全部の味を食べたいと言うので、カインは袋いっぱいに買ってオーエンに渡した。
カインとオーエンは、近くのベンチにふたりで並んで腰掛ける。カインは先ほどパンケーキを食べたばかりなのでスフォリアテッラは遠慮し、カフェでテイクアウトしてきたコーヒーに口をつけた。
オーエンは紙袋からスフォリアテッラを取り出すと、ばくりと噛みついていた。クリームがたくさん詰めこまれたパイだから、案の定クリームが飛び出す。クリームが顔につくのをお構いなしに、オーエンは次々とスフォリアテッラを平らげていく。
カインは見ていられなくて、紙ナプキンをオーエンに差し出した。
「ほら、これでクリーム拭けよ。顔がべたべただ」
オーエンはカインの手元の紙ナプキンをじっと見つめたあと、カインに向かって顔を突き出してきた。
「ん」
「……え?」
カインは戸惑った。オーエンはカインから紙ナプキンを受け取る気はないようだった。
「……」
カインはためらいつつも、オーエンの顔についているクリームを拭いてやった。カインがためらったのは、前に似たようなことをしたときに、オーエンが「リケ扱いしただろ」と怒ったことがあったからだ。
オーエンは今回は怒らなかった。
カインは首を傾げた。オーエンはほんとうに気まぐれで、よく分からないやつだと思った。
そのままふたりでベンチに座って過ごしていると、聞き覚えのある声がカインの耳に入った。
「カイン騎士団長!」
「……ん?」
「こんなところでお目にかかれるなんて! お久しぶりです!」
「ああ、おまえは——」
カインが手を出すと、握手の手が重なる。目の前に、騎士の姿が現れた。
「はは! 会えて嬉しいぞ。でも、もう団長じゃないからな」
「はっ、申し訳ありません……!」
カインの騎士団長時代の部下だった。どうやら街の
警邏中だったらしい。
騎士はカインに会えた喜びからか破顔していた。だが、隣に座るオーエンに気づくと険しい表情になった。
「えっ、北の魔法使い、オーエン……⁉︎」
オーエンは騎士の反応を見て、嬉しそうに顔を歪めた。
「ふふ……。そうだよ」
オーエンは魔法でふわりと宙に浮かび、騎士を見下ろした。
「僕のこと知ってるんだ。もしかして、僕が騎士団を襲ったときにおまえもいたのかな。……ねえ、僕が怖い? 憎い?」
「っ、憎いに決まっている……! おまえは、騎士団を襲い、カイン騎士団長を傷つけ——」
「こら、落ち着け。すぐに頭に血を上らせるな。……変わらないな、そういうところ」
カインは、ベンチから立ち上がって騎士の肩に手を置いた。
「カイン騎士団長、でも——」
「元、騎士団長だ」
「す、すみません……」
カインは落ち着いた声で騎士に語りかける。
「オーエンは憎い相手だが、賢者様の魔法使いでもある。いまは、俺と一緒に厄災と戦う仲間だ」
「——っ」
騎士の顔がくしゃっとなった。
カインは騎士の背中をばしばしと叩いた。
「騎士団を追われた俺のことも気にかけてくれたんだよな。ありがとう。心配かけて、悪いな」
「いえ……」
「それに、オーエンはちゃんと賢者の魔法使いとして役目を果たしてる。ほら、騎士昇格試験での異変のこと、聞いてるんじゃないか?」
栄光の街に程近い会場で行われた、騎士見習いが騎士になるための昇格試験。その試合の真っ只中、厄災の影響による異変が起こり、会場は混沌に包まれた。観覧に訪れていたカインと賢者の魔法使いたちで異変を解決したが、その際オーエンもいたのだった。
「まあ、その話はもちろん伺ってますけど……」
騎士は疑わしげな目でオーエンをちらりと見た。オーエンは冷酷な表情でこちらを見下ろし続けている。
騎士は、いまいち信じられないという顔で首を
捻った。
「じゃあ、なんであんな態度なんですか……?」
「あー……なんというか、そういうやつなんだ……はは」
カインは困ったように笑った。
そのあと、カインと騎士は昔話に花を咲かせ、騎士は穏やかな顔で職務に戻っていった。
騎士が去ると、オーエンはベンチに座り直した。
カインはため息をついた。
「おまえも、誤解させるような態度を取るなよ。どうして嫌なやつみたいに振る舞うんだ」
「は? 僕は意地悪で怖くて嫌われ者の魔法使いだけど?」
「……」
カインはオーエンを嫌なやつだとか苦々しく思うことはたくさんあるが、それだけではないということも知っている。悪いことをしたら当然非難されるべきだが、そうでないときにわざわざ悪者のように振る舞うというのは、カインにとっては意味が分からなかった。
「嫌われてるより好感持たれてるほうが、賢者の魔法使いの任務でも色々とやりやすいだろ?」
「……そういうの、どうでもいいんだけど」
オーエンは苛立たしげに吐き捨てた。
カインはむっとして、オーエンに意見しようとした。だが、カインの正しいと思うことを言い聞かせようとしたところで、オーエンは耳を傾けないだろう。それに気づいて、カインは口をつぐんだ。
カインはオーエンのことが分からない。分からないから、「どうしてそういうことをするんだ」とつい言ってしまいたくなる。カインにはカインなりの考えがあるように、オーエンにもオーエンなりの考えがあって、きっとそこが違うからカインにはオーエンの行動が理解不能に思えるのだ。
「なあ、オーエン。試しにさ、今日は俺たち、仲良くしてみないか?」
「……なにそれ」
「いつもと逆のことをやるんだ」
「なんのために?」
「おまえのことを知るために」
オーエンの訝しげな視線が刺さる。カインは顎に指を当てた。
「あー、その……仲良くなったらオーエンのことが分かるかなと思ったけど、たぶん、俺たちが仲良くなるにはすごく時間がかかると思う。だから、形から入ろう、みたいな……」
カインがオーエンを窺うと、オーエンは嫌そうな顔をしていた。
「そんなことやるわけ——」
オーエンは途中まで言いかけてやめた。
オーエンの足元に、ボールが転がってきていた。道路脇で子どもたちが遊んでいて、そのボールがこちらに来てしまったようだった。
転がってきたボールが、オーエンの足に軽く当たって、止まった。
「……」
オーエンは黙ったまま足元を見つめていた。カインはオーエンが怒っているのでは、とはらはらして急いでボールを拾った。
軽い足音とともに子どもがふたり、カインたちのほうにやって来た。カインは顔を上げて、子どもたちに笑顔を向けた。
「これ、きみたちのだろ?」
「うん……」
「はい、返すよ」
カインはボールを子どもたちに渡した。
子どもたちはボールを受け取ってもすぐ去ろうとはせず、オーエンのことを見ていた。
「どうかしたか?」
「目の色が違う……」
子どもたちは、オーエンの左右の瞳の色が異なることが気になっているようだった。
「怖い?」
オーエンがおどかすように子どもたちに言った。
カインは子どもたちを安心させようと、自らの前髪をよけて左目を子どもたちに見せた。
「怖くないぞ! ほら、俺も左右で目の色が違うんだ」
「ほんとだ。でも、どうして? ふたりとも同じ目の色……」
「交換したからさ」
オーエンがにやにや笑いながら答えた。
子どもたちは不思議そうな顔をした。
「目を交換?」
「そうだよ」
子どもたちはカインとオーエンを交互に見て、ぽかんと口を開けた。
「それって——仲良しだから交換したの? おそろいってこと?」
「な……」
カインは思わぬ解釈に絶句した。
オーエンは一瞬目を見開いて、笑い出した。
「あはは! ……ねえ、騎士様。僕ら、今日は仲良しって設定なんだよね?」
「……」
カインは渋い顔になった。
「騎士様、答えてあげなよ」
オーエンはにこにこと笑みを浮かべ、カインが子どもたちの質問に答えるように促した。
「ええと、仲良しっていうか、これから仲良くなる予定、みたいな感じかな……」
カインはなんとかそう答えた。
子どもたちが向こうへ駆けていくと、カインはふうと息を吐いた。
「仲良しだから目を交換するって発想には驚いたな……」
「ふふ。無様だね、騎士様」
楽しげに歪んだ真紅と金の瞳が、カインを見る。
「僕に襲われて為す術なく目を奪われたのに、僕と仲良しだから目を交換したって言わされて、どんな気持ち?」
オーエンは心底嬉しそうにカインの顔に手を伸ばした。
「仲良くなるために形から——って言っても、目玉を交換するやつなんていないでしょう」
オーエンの指が、カインの左目付近をなでていく。
「目玉を奪った僕と仲良くなれると、本気でそう思ってるの?」
「仲良くなりたいと思っているよ、俺は」
強がりではなかった。例年よりも力を増す大いなる厄災に対抗するために、賢者の魔法使いたちは結束を強める必要がある。個人的な恨みでそれを乱すべきではない。だから、カインとオーエンが仲良くなることに合理性はある。それに、カインは個人的にも強くなりたいと思っている。オーエンは強い魔法使いで、カインがオーエンから学ぶことも多い。
オーエンは退屈そうにカインから手を離した。
「それならさ、おまえが僕から目玉を取り返したら、仲悪くなるの?」
「ん? そういうわけじゃないと思うが……」
カインはオーエンの横顔を見た。さらさらと流れる銀髪の合間から、瞳がのぞく。
「オーエンって、どうして俺の目を奪ったんだ?」
オーエンはちらりと視線だけカインに寄越して、また前を向いた。
「ふん、教えない」
「……」
そうだろうな、とカインは思って肩をすくめた。
カインはコーヒーを飲もうとして、もうなくなっていることに気がつく。
「あ。コーヒーおかわり買ってくるけど、オーエンもなにか飲み物いるか?」
「……ホットチョコレート」
「分かった」
カインは立ち上がって飲み物を買いに行った。
コーヒーとホットチョコレートを手にして戻ると、カインはオーエンの姿を見て安心した。オーエンはよく姿を消すから、いまのところ、まだカインといてくれるつもりらしい。
カインとオーエンは黙ったまま、ベンチで並んで飲み物をすすった。
「ねえ、騎士様」
「ん?」
オーエンは自らの手元に視線を落としながら口を開いた。
「もし、おまえが寝てる間に勝手に片目を交換させられてたら? それが、おまえのことが好きだからやったって言われたら? おまえはそいつを、どうする?」
よく分からない質問だな、とカインは思った。片目はすでにオーエンに交換させられている。目を交換してこようとする人物がオーエン以外にいたら、たまったものじゃないなとカインは思った。
「好きだからってなにやってもいいわけじゃないからな。まあ……やることが突飛すぎるだろって感じだけど、そんなに好きだったのか〜と思う。とにかく困惑するかな」
「は? 困惑してる場合じゃないだろ。怒れよ」
「ええ……おまえがそれを言うのか……?」
カインが呆れた声を出すと、オーエンは口を尖らせた。
「だって、目を盗まれて屈辱じゃないの」
「まあ……寝てる間にそんなことになってたら、確かに情けないかも。でも、俺を起こさずにやってのけるやつがいたら、なかなかの手練だな」
オーエンは首を傾げた。
「手練って……もしかして、感心してる? 目玉を盗んだやつに?」
「ん? ああ、俺は眠っていても物音や人の気配で起きられるからさ、その俺が気づかないなんて、俺よりすごく強いやつなんだなって感心するよ。一本取られたなって、ある意味強さに憧れるかも」
オーエンはカインを凝視した。そのまま固まって、黙ってしまった。
「……オーエン? あの、これってなんの話なんだ? 俺の目を勝手に交換したやつが、俺のことが好きなんだっけ?」
「……」
オーエンは決まりが悪そうに、カインから顔をそらした。
「おまえって変なやつ」
「っ、オーエンには言われたくないぞ……⁉︎」
オーエンは紙袋をがさごそし始めた。紙袋からスフォリアテッラを取り出し、またかじりついていた。
先ほどと同様、オーエンの口元がクリームまみれになっていく。顎の辺りについたクリームが、顔から落ちそうになった。
「! おっと」
カインは、落ちたクリームがオーエンの膝につく前に紙ナプキンで受け止めた。まったく気に留めていないオーエンに、カインは呆れた。
「オーエン、少しは気にしたほうがいいんじゃないか」
「うるさいな」
オーエンはそう言って、カインにまた顔を突き出してきた。じとりとした視線を寄越して、まるで、しょうがないから拭かせてやるとでも言っているみたいだった。
「……」
カインはオーエンの顔のクリームを拭っていく。
「そんなだから、弟みたいって言われるんだぞ」
「……は? なんの話?」
「えっと、ほら前に……ああ、あれは傷のおまえだったな」
厄災の傷の影響で、オーエンは幼い子どもような人格が出てくることがある。いつ出てくるか本人にはどうにもできないし、その間の記憶はないようだった。
以前、傷のオーエンが出てきたときに、瞳の色がカインと同じことからカインとオーエンはきょうだいだと思われたことがあった。
「目の色が一緒だからきょうだいなんだろって。兄なら、弟の面倒見てやれって言われたんだよ」
「……おまえが兄で、僕が弟? ありえないんだけど。それなら、赤ちゃんの騎士様が弟だろ」
「年齢は俺が下だけどさ。こうやって顔拭いてやってるのは兄っぽいだろ」
カインは少しむっとしていた。齢千二百ほどのオーエンは、カインをこうしてときどき赤ん坊扱いするからだ。
オーエンはベンチの背にふんぞり返る。
「おまえは、兄の僕にこき使われてる弟だよ」
「……」
カインは納得できず首をすくめた。ただ、こんなことで言い争うつもりもなかった。
「俺は一人っ子だから、きょうだいとか正直よく分からないんだよな。オーエンはきょうだいはいるのか?」
「……さあ、どうだろうね」
「いたとしたら、上かな。オーエンは末っ子ぽいよな」
「は?」
カインはオーエンににらまれた。
「そういう印象だって話だよ。別に末っ子だったら悪いとかないだろ」
「……騎士様の想像で話されるのが不快なんだよ」
「っ、悪かったな……。でも、憶測で話すしかないじゃないか。オーエンは自分のことを教えてくれないから……」
カインが言い訳のようにつぶやくと、オーエンがカインとの距離を詰めてきた。オーエンは目を細めてカインに問うた。
「騎士様は僕のことが知りたいんだっけ?」
「え、ああ」
オーエンがカインの服を引っ張りカインを引き寄せた。カインの耳元で、オーエンがささやく。
「じゃあ、教えてあげる。僕の昔の話をしようか」
「……!」
カインは耳をそばだてた。オーエンは気分屋だから、この機会を逃すと聞けないかもしれないとカインは思った。
オーエンは甘ったるい声で話し始めた。
「北の国の、寒くて、真っ白で、音のない場所——そこには湖があって、僕は死者の国への案内人をしていたんだ」
「死者の国への案内人……?」
カインの問いかけに、オーエンはにやりと口角を上げた。
「そう。湖の周辺で死んだ人間が出たら、僕がそいつを湖の中心に浮かぶ島に連れていくんだ」
「へえ……」
「その湖の名は、死の湖。僕は幽霊とか死神って呼ばれることもあって——」
「……ん? 死の湖?」
カインはオーエンの顔を見た。
至近距離で視線がぶつかると、オーエンはいたずらが成功した子どもみたいに満足げな顔をした。
「あはは。ぜんぶ嘘だよ」
「おまえ……!」
カインは肩を落とした。オーエンはその様子を見て笑う。
オーエンのことを知ろうとしても、オーエンは姿を消してしまうか、こうやってはぐらかすかなのだ。
「まあ、そういうやつだよな、オーエンは……」
「ふふ。おまえの間抜け顔、ほんとう面白い」
「ぐ……」
オーエンはカインの顔を掴んだ。カインは頬をぎゅうと掴まれて、口を開けない。
オーエンはカインの顔を揉んだり引っ張ったりして、しばらく遊んでいた。
それが終わると、オーエンは手元の紙袋を魔法でくしゃりと丸めた。カインが買ってやったスフォリアテッラは、すべてなくなってしまったようだった。
オーエンがカインと出かける目的は果たしてしまった。
カインは、今回オーエンのことを知り自分がオーエンに抱いている印象を改めて考え直そうとしていたのに、結局まだオーエンのことが分からないままだった。
カインがオーエンを見ると、オーエンは指をいじっていて、退屈そうに見えた。おそらく、特に用事がなければ帰ってしまうだろうとカインには思えた。
「あ、オーエン……もう少し、その」
カインはオーエンを引き留めようとした。カインが知っているオーエンが好きなものといえば甘いものだから、それを引き留める材料にしようと思った。だが、それだとさっきと同じだし、また進展が望めないと考えた。
「ええと——そうだ、クイズしないか? クイズに正解したらおごるとか、相手の言うことひとつ聞くってのはどうだ?」
オーエンは不可解そうな顔をした。
「……? クイズって?」
「お互いを知るために、お互いに関することをクイズにするんだ」
「なんか——それって、面白くなさそう」
「うっ……」
カインはうなだれた。
オーエンは自分の髪の毛を触りながら、カインにちらりと目をやった。
「……別にそんなことしなくても僕は——」
「俺に関するクイズを出してオーエンが答えられなかったら、確かに面白くないもんな……」
「……」
オーエンが座ったままカインの足を蹴った。
「えっ、痛……」
「へえ、そこまでいうならそのクイズとやら、出してみろよ。またおまえにおごらせてやる」
「お、おう……」
カインは蹴られたところをさすりながら、オーエンがカインの提案になぜか乗ってくれたことにほっとした。
オーエンは腕を組み、侮るような視線をカインに向けた。
「ふん。後悔するなよ」
「よし。じゃあ、第一問。——カイン・ナイトレイの出身地は?」
オーエンはため息をついた。
「は? 馬鹿にしてる? 中央の国、栄光の街」
「正解! まあ、まだ序の口さ」
カインはすかさず次の問題を出す。
「第二問。では年齢は?」
「くだらない……。二十二歳」
「正解!」
オーエンが即答するので、意外と乗ってくれているような様子にカインは少し嬉しくなった。
「第三問。カイン・ナイトレイの好きなものを二つ答えよ」
「……踊ること。あと、食べ物だとベーコン」
「お、正解」
少し難易度を上げたつもりだが、オーエンからするとそこまで難しくはないようだった。
「第四問。じゃあ次は、苦手なものを二つ答えよ」
「騎士様は敬語が苦手。ふふ、騎士のくせに紳士的に振る舞えないなんて。それと、苦手なものといえば蛇だよね。今度、蛇を千匹おまえの頭の上に降らせてやろうかな」
「正解。……苦手なもの話は
饒舌だな……」
「ていうか、全然張り合いがないんだけど。やる気あるの?」
オーエンは馬鹿にしたように言った。
ここまでオーエンは、迷う素振りもなく正解している。カインは、最初から難しい問題を出しても途中でオーエンが興味をなくすだろうと思い、あえて簡単にしていた。
「ここからはもう少し難しいぞ。じゃあ、第五問。カイン・ナイトレイの騎士団時代の相棒の馬の名前は? 次の選択肢から選べ」
一、エドワード。
二、ジョージ。
三、リチャード。
カインが三つの選択肢をあげると、オーエンは考えるように少し黙った。だが、そこまで時間を置かず答えた。
「……三番、リチャード?」
「え、正解だ。そこまで簡単じゃなかったはずなんだが……?」
「ふん」
オーエンは得意げな顔をした。
「次が最後の問題だ。これはオーエンにも難しいんじゃないかな」
「はっ、どうだか」
「最終問題。今日の俺のファッションでいつもと違うところが一つある。さあ、どこでしょう?」
カインはベンチから立ち上がった。
オーエンの前でくるりと回って、全身を見せる。
「……」
オーエンは、カインの頭の天辺から足の先までじっと見た。
「これは難問の自信があるぞ」
カインは胸を張った。オーエンの探るような視線に対峙しても余裕だった。
オーエンが口を開いた。
「……ブーツだろ」
「え! なんで分かったんだ⁉︎ 正解だ……」
カインは驚いた。今日履いていたのは、おろしたてのブーツだった。
「意外と足元って見ないだろ? 俺はブーツが好きだから見るけどさ。いやあ、オーエンには絶対分からないと思ったのに」
カインはベンチに座った。
隣のオーエンが視線だけカインに向けた。
「で、おまえが僕におごるんだろ。言うこと聞かせるでもいいんだっけ?」
「まあ、どっちでも……ちなみに、食べたいものとか行きたい店はあるか?」
「……」
オーエンは考えているようだった。
カインはその横顔を眺める。
嘲笑って嫌味を
紡ぐオーエンの口が、いまはきゅっと閉じられていて、こうしていると人形みたいだなとカインは思った。
オーエンがわずかに目を見開いた。集中するように、じっと前を見つめた。
「決めた」
オーエンはにやりと笑うと、ベンチから立ち上がって歩き始めた。
「え、どこに行くんだ?」
カインは慌ててオーエンを追う。カインはオーエンの後ろを歩きながら行き先を尋ねたが、オーエンは答えてはくれなかった。
オーエンは迷いなくすいすいと歩みを進める。
カインの見知った中央の国の街のはずなのに、知らない道だった。カインはオーエンについていけば人にぶつかることなく歩けるが、オーエンがどこに向かっているのか分からないのは不安だった。見知らぬ景色が流れていく。時折、ぐにゃりと視界がゆがんだような感覚に襲われて、カインは目を擦った。一瞬だったのでカインは自分の気のせいかとも思った。
人の声や気配が少なくなってきたのをカインは感じた。オーエンが歩くスピードを落として、カインのほうをちらりと見た。
「騎士様」
「ん?」
カインはオーエンの横に並んだ。
オーエンは前方を見ながら言った。
「まだ分からない?」
「え? なにがだ?」
「僕がなにを辿っているのか」
「……?」
オーエンは足を止めて、空中に視線を巡らせた。オーエンの瞳が太陽の光を受けてきらきらと輝いていた。
「いま歩いてきたのは、魔法使いしか通れない道。魔法使いの店に続いている」
オーエンが、カインの顔をオーエンのほうに向かせた。オーエンとカインの視線が交わる。
「ほら、目をこらして、耳をすまして。鼻をくすぐるにおいも、頬をなでる風も、おまえの身体で感じ取れるすべてを逃すな。そうしたら、僕がどこに行こうとしてるか分かる」
カインは、きょとんとした。だがオーエンの表情が真面目だったので、カインはオーエンに従うことにした。カインはみずからの感覚を研ぎ澄ませる。
「……」
街並みをよく見ると、窓がわずかにゆがんでいたり、扉のない家があったりして、奇妙だった。
周囲の音に耳を傾けると、不自然なくらいに無音だ。
味わうように空気を吸うと、甘い香りがした。
手袋を脱ぎ手をかざすと、少しくすぐったいような感触が肌に走った。
カインは唸った。
「うーん……? なんか変だな、みたいのは分かるけど……」
「おまえは魔法使いだろ。人間が感じ取れないものを感じ取れる。もっと集中しろ」
オーエンが目を閉じた。カインもそれに続き目を閉じる。
風に揺れる髪の毛が、カインの顔と耳、首筋に触れる。カインは深呼吸をした。息を吐き空気を吸うたびに一段階、また一段階というふうに意識を尖らせていく。
「……」
だが、なんだか肌がくすぐったくて、集中しきれなかった。
カインは一度、頭をぶんぶんと振った。集中、集中……と心の中で唱えながら、再度深呼吸する。
集中しようとすればするほど、肌をくすぐるような、さわさわとした感触が気になってしまう。カインは邪魔をされているような気分になった。よくない兆候だとカインは思う。風が意思を持ってカインの邪魔をするわけでもないのに、これでは八つ当たりのようで——
——風ではない……?
カインは、くすぐっているものが風ではなく別のもののようにも感じた。そして悪意ではなく、なんらかの意図を持ってそのような動きをしているような気がした。
「……誘ってるのか?」
カインが目を開くと、微笑するオーエンの顔があった。
「そう、精霊だよ。僕たちを招いているんだ」
カインの目には見えないが、この場にはたくさんの精霊がいるようだった。いや、この場だけではなく、この世界は精霊に満ちている。魔法使いは精霊を使役したり、力を借りたりして魔法を使うのだ。
魔法使いとして経験の浅いカインには、まだきちんと感じ取れなくとも、精霊がいると思うとなんだか世界が新鮮に輝いて見えてくる。
無音だと思っていたが、かすかに鈴の音のようなものが聞こえる。
先ほど嗅ぎ取った甘い香りのほかに、香ばしいにおいもした。
「あっちかな……」
カインは気配を辿って歩いていく。
すると、赤い壁の小さな家に着いた。
「ここって……」
「魔法使いの菓子店。店主がその気になったときだけ店が開く」
「オーエンは来たことがあるのか?」
「ううん。噂は聞いたことがあったけど、実際来たのは初めて」
オーエンが菓子店の扉を開ける。扉に取り付けられたベルが鳴った。