おねだり上手「バルバトスってばじゃんけん強すぎ」
バルバトスの一つ前の席の椅子を引き、後ろ向きに腰をかけた彼女が、不貞腐れたような声を上げて左頬をぺたりと机の天板につけている。その様子がどうにも微笑ましく思えて、バルバトスは彼女に気づかれないように小さく口角を上げた。
何のことはない。バルバトスはディアボロを、彼女はルシファーを待つ間の暇潰しだった。
突然始まった「じゃんけんしよう」に付き合って十回目。彼女にとっては大変残念な話であるが、悪魔の動体視力をもってすれば、人間とのじゃんけんに勝つことなど造作もない。朝飯前とはまさにこのこと。何なら負ける方が難しいくらいである。
だというのに、三連敗辺りから彼女がむきになったものだから、彼女の手の内はすべて表情に出てしまっていたのだった。バルバトスにとっては彼女の考えなど目を閉じていても読めてしまうほどにわかりやすく、結果こうして十連勝を決められたところで、彼女はようやく諦めるに至ったのである。
むにりと天板に押し付けられているにも関わらず、文句のひとつもなく形を変えている彼女のバター色の頬が、まるで非常に柔らかいものであるかのようにバルバトスの目に映る。
触れたらどんな感触がするのだろう。ふと知りたくなって、バルバトスは白手袋に包まれた左の人差し指を静かに伸ばした。
「心意気は認めます。ですが、私にじゃんけんで勝ちたいのなら、五百年は練習していただかないと」
「一生勝てないじゃん」
ふにり。
バルバトスの指が彼女の頬に僅かに沈む。離せばぷるんと押し返す弾力は、いつぞやディアボロのために用意したルナティックプリンのそれにもよく似ているように思われた。
あのときは好物のプリンを目の前にうっかりしていたディアボロが、彼女にプリンを与えてしまって大変なことになったのだった。巻き込まれたバルバトスも、とんだ醜態を晒してしまったことは記憶に新しい。できれば今すぐにでも記憶の海から抹消したい過去のひとつだ。
彼女はバルバトスにつつかれるまま、嫌がる素振りもなく唇をむっと横一文字に引き結んでいる。不貞腐れた顔ですら可愛らしいと思ってしまうのだから、自分はきっと重症なのだろう。バルバトスは随分と絆されている己を自覚して小さく苦笑した。
「………………のに」
「はい?」
ほとんど口を動かさないままぽつりと呟かれた彼女の言葉を聞き逃し、バルバトスは頬をつつく手を止める。小さく首を傾げて聞き返せば、二人の間に流れていた時間がしばしの間ぴたりと止まった。
「〜〜〜〜だからッ!」
バルバトスの手を振り払うようにして上半身を起こした彼女が、キッと鋭く目の前のバルバトスを睨みつける。けれど彼女の表情ならどんなものでも愛らしいと思ってしまうバルバトスにとって、それはまるで仔猫が精一杯の威嚇をしているようにしか見えなかった。
「だから『私が勝ったらキスさせて』って言いたかったのに、って言ったの!」
「は…………えっ?」
バルバトスは虚をつかれる。
彼女とのキスなら、それこそ数え切れないほどしてきた。自分から贈ることもあれば彼女からもらうことも多く、いわゆる恋仲になってからは拒まれる素振りすら見た記憶がない。それを今更『じゃんけんに勝ったら』だなんて理由をつけなくとも、と考えたところで、バルバトスの思考がはたと思い至る。
よくよく思い返してみれば、彼女からキスをしてくれるときというのは、即ち自分がキスをねだったときではなかっただろうか。
考えが至ればすべてが繋がる。突然「じゃんけんしよう」などと言い出したのも、三連敗から急に意地になり出したのも、不貞腐れて机に突っ伏してしまったのも。全部ぜんぶ、自分からキスをするための理由が欲しかったから。
そっぽを向いて、けれども耳まで真っ赤に染めた彼女の横顔が物語っている。自分からするのは恥ずかしいから理由がほしいだなんて、あまりにも可愛すぎやしないだろうか。
まるで息が詰まるような、心臓をきゅっと掴まれたような、心地の良い苦しさがバルバトスの胸の裡にじわりと広がった。けれど甘い痛みはバルバトスの笑みを深くするだけで、制止する効果はこれっぽっちもない。
何がそう思わせたのかは分からないが、とにかく彼女は自分からバルバトスにキスをしたいと思ったらしい。たったそれだけのことが、こんなにもバルバトスの心を踊らせている。
「では、もう一回だけじゃんけんしませんか?」
「しません。だってバルバトス、わざと負けるでしょう?」
「真剣にお相手いたしますよ」
嘘ではない。瞬時に相手の手を判断し、それに有利な手を選んで出すことには慣れていても、わざわざ負ける手を出す経験などそうそうあるものではない。真剣に、それこそ本気で臨まなければ、バルバトスはきっとまた彼女に勝ってしまうだろう。
「やだ」
「そう言わず、ね?」
つんと唇を尖らせたまま首を横に振る彼女に食い下がる。すっかり拗ねてしまった彼女の意思は固そうだったが、バルバトスとて伊達に長生きしているわけではない。悪魔の本気を甘く見てもらっては困る。
「ここに」
深碧を静かに閉じ、右の人差し指で自分の唇をトントンと軽く二回叩いてみせる。指で唇を押さえたたままゆっくりと瞼を持ち上げれば、そっぽを向いていた彼女の視線が、いつの間にかバルバトスの唇に釘付けになっていた。
こんな簡単な罠にまんまと引っかかってしまう彼女が愛らしくて愛おしくてたまらない。胸を満たすこの感情が余すことなく全部彼女に届けばいいのにと、バルバトスはゆっくり言葉を音にする。
「あなたのキスが、ほしいんです」
「〜〜〜〜もうッ!」
彼女の右手がバルバトスの胸元に伸びる。思うよりもずっと乱暴にネクタイを引かれて身を乗り出すバルバトスの脳裏を過ぎったのは「あぁまた今回も、結局おねだりさせられてしまいました」という、随分と甘ったるい愛だった。