恋に焦がれて鳴く蝉よりも さざめきの中に鈴を転がすような声が聞こえた気がして、黒靴の動きがぴたりと止まった。
同時に規則正しく石床を蹴っていた、こつこつという硬質な靴音が止む。
瞬きひとつの間を置いて、靴音の主──バルバトスは背後の廊下を振り返った。一房伸びた色違いの横髪がふわりと揺れて、また頬の横へと戻ってくる。
声を拾ったと思った瞬間は無音だったバルバトスの世界に、魔界が誇る王立学園の喧騒が一気にどっと流れ込んだ。
靴音。
話し声。
ロッカーや教室の扉を開け閉めする音。
それらが石造りの校舎に反響して、バルバトスの周囲に満ち満ちる。バルバトスと同様に、移動教室の生徒が多いのだろう。RADの廊下は行き交う生徒たちで溢れていた。
その中にたったひとつの人影を求めて、バルバトスは人の波間をじっと見つめていたが、鈴音の声の持ち主は見つからなかった。気のせいだったかと残念に思う気持ちと、ついに幻聴まで聞くようになったかと自嘲する気持ちとがちょうど半分ずつ混ざり合って、それはバルバトスの心臓とそっくり同じ形になる。
同じ校舎で学ぶ身ではあるものの、残念ながらいつでも会えるわけではない。せめて一目見られたら良かったのにと、未練がましく喚く自分を心の裡から追い出して、前を歩く主を追いかけようとバルバトスは前を向いた。その視界の端が何かを捉える。
コの字型に並んだ校舎の向かい側。特別教室が集まる東棟の廊下に、バルバトスの探していた姿があった。
その隣を歩くのは──あれはマモンだろうか。まるで「めんどくせーし授業なんてフケちまおうぜ。別にちょっとくらい構いやしねぇって」と言わんばかりの様子でじゃれつきながら、それでもぴたりと隣に張り付いて離れない彼をいなしつつ、何事か返事をしているようにも見える。
さすがにこの距離で声が聞こえるはずもないが、あの距離ならば聞こえないはずはない。自分が存在しない姿を探している間に、彼は、マモンは、鈴のようなあの声にその名を呼ばれていたのかと思うと──。
「どうしたんだい、バルバトス」
名を呼ばれてはっとする。前を歩いていた主が立ち止まって振り返り、不思議そうな視線をバルバトスに向けていた。
「もしかしてどこか調子が悪いのかい?」
「いえ、そのようなことは決して」
小さく首を振って否定する。顔を覗かせた感情が胸に広がらないよう蓋をして、バルバトスは止めていた足を動かした。
こつり。黒靴が石床を蹴って硬質な音を立てる。
「急に立ち止まり失礼いたしました。さあ参りましょう、坊ちゃま」
狭い場所に押し込められた感情が、外へ出ようとぐるぐるに暴れて熱を持つ。こんなに熱くては顔に出ずとも温度でバレてしまいそうだと、冷たい足音で包み隠すようにして、バルバトスは廊下を後にした。