目が合わせられない|好きな人の前で挙動不審になる食満留三郎の話「食満くん、居る?」
「
苗字さんですか? 居ますよ、どうぞ」
「良かったあ、まだ居て。ここに居なかったら長屋に行かなきゃ駄目かと思って、心配してたの。下級生の皆はもう帰っちゃったのね」
「今日はアヒルさんの修理が長引きそうだったんで、俺一人ここに……所でどうしたんですか?」
用具室に笑顔で入って来たのは、淡い薄紫色の小袖を着た
苗字さん。
彼女はまだ学園に来て間もない事務職員だ。今は小松田さんの手伝いを中心に、彼のミスを無くすべく学園内をよく走り回っている。色々と訳あってここに来たそうで、忍というもの自体ここに来るまで全く知らなかったという。ここの人間としては少々珍しい境遇ながら、明るく憎めない性格で、今ではもう立派な学園の一員だ。
「食満くんって、手先器用よね?」
「あー……まあ、用具委員、ですし……」
俺の隣に座って向けられる、期待に満ちたその眼差しと笑顔が夕方の部屋にはいやに眩しい。
その笑顔と期待に耐えられず、思わず目が合わせられずに泳ぐ。
「あ、ごめんなさい。その、何かを直して欲しくて来たんじゃないの!」
「いや、大丈夫ですよ」
俺が仕事を頼まれるのを嫌がっていると思ったのか、
苗字さんが慌てた声でその白くて華奢な手をぱたぱたと振る。
見る度に思うのだが、握ったら折れてしまいそうな、本当に小さくて細い手だ。もし彼女に触れるのならば、指の背で撫でれば大丈夫だろうか、なんてつい考えてしまう。
「食満君の時間が空いている時で良いのだけど、もし良かったら私に印籠の作り方を教えて貰えないかと思って」
「印籠?」
「ええ。実は私がここに来てから、小松田さんが印鑑を事務のおばさまさから預けられていたのだけど……」
「なくされたんですね、印鑑……」
「か、完璧になくした事はまだないのよ! そりゃ、ちょいちょい行方不明になったりするけど、ちゃんと探し出せる所にあるし、ただ……」
やっぱり大事な物だから、そろそろ入れ物でも作ってあげた方が良いと思って。
そう言って困ったような、でも優しく笑うその顔は、まるで母親が子どもにお使いを頼む時に心配するような表情。ああ、この人はこんな顔も出来るのかと目が奪われる。
「今すぐに欲しい訳ではないから、ゆっくりで良いの。私、手先は器用だから作る分には困らないし。ただ作り方は知らなくて……それに印鑑を失くしにくいように、ちょっと細工をした方が良いかと思って」
「確かに。町で売っている印籠じゃ、小松田さんには合わないですね」
「そうなの」
何せあの小松田さんだ。多分、落とさないように紐をつけたり、ちょっとした衝撃で開いてしまわないように細工するだけじゃあ駄目だろう。
「それじゃあ、俺が近いうちに設計図を考えておきますよ。流石に一から作るとなると、いくら
苗字さんが器用でも難しいでしょうから」
「でも、そこまで頼んじゃって大丈夫? 確か明後日から6年生は学外実習があるでしょう? 基本の形になる図を貸してもらえれば……」
「大丈夫ですよ。印籠くらいなら、そんなに大したこ……」
「……食満くん?」
「あ、いえ。何でもありません」
隣で小首を傾げる
苗字さんの目が、俺を見ているのが解ってまた目を逸らしてしまう。
夕方の部屋に、二人きり。それだけでも正直緊張しているのに、潤んだ瞳や甘味の香りとは異なる甘く馨しい匂いに、心が揺らぐ。
抱きしめたい。いや、駄目だ。それはならない。
苗字さんのことを好きだと自覚してから、頭の中で2つの感情がせめぎ合い、彼女を目の前にするたび葛藤ばかりしている。
毎日休み時間に無邪気に彼女に飛びついて、抱きついている下級生たちが羨ましくて仕方ない。
「大丈夫? 具合、悪い?」
「い、いえ! そんな!」
今度は覗き込まれて、後ろに反り返ってしまう。これじゃあただの挙動不審だ。こんな事なら、しんべヱたちを長屋に帰すんじゃなかった。しかしながら、今となってはもう時は遅い。
好きな女性と一緒にいるだけでここまで動揺する自分に情けなくなりつつ、俺は必死にどうすれば上手く接せられるか悩むばかりだ。