今更だと思っていたのに|好きな相手に他の男を勧められた話 西日になりかけたクリーム色の斜陽が、教室の窓から中に居る人間へ差し込んでいる。陽が当たる白い学生シャツは眩しく光り、彼の隣にある椅子には学ランが無造作に掛けられていた。
机に向かって居た男子学生が背伸びをし、後ろに反り返る。胸ポケットに付けられたネームプレートがカチャリ、と小さく音を立てた。そこには“竹谷”という丸みを帯びたフォント、隣には2という数字が書かれている。
「ああ~……」
少々を通り越し、かなりボサボサの髪を更に掻き毟り、竹谷が席を立った。
机の上にはプリントが数十枚と、ホチキスが2つ。用紙の頭には二年二組学級文集という、とてもシンプルかつ内容の分かりやすいタイトルが飾られていた。
竹谷が教室の窓を開け、風に当たりながら視線を下に下ろす。
「あ、
名前」
竹谷の視線の先には彼の友人の不破に頭を下げつつも、楽しげに言葉を交わしている様子の少女が一人。柔らかそうな髪が、サラサラと風に揺れているのが見えた。
「彼奴も男と話せるようになるとはなあ」
名前と呼ばれた少女は竹谷の幼馴染みだ。
幼い頃から臆病な性格で、怖がりで、ついでに男性恐怖症。
そのくせ子どもらしく有り余る程の好奇心は押さえられなかったのか、何故だか
名前は竹谷には泣きながらもよくくっ付いては、一緒に山や川へと探検したのは懐かしい。家も割と近かったことに加え、生まれる前から両親の付き合いがあったことも彼女に安心感を与えていたのかもしれない。
竹谷自身、自分が人間も動物も関係なく、生き物から懐かれやすいのは物心ついた頃には何となく解っていた。だから
名前を突き放すなんてことはしなかったし、——いやそもそもそんな事する気もないのだが——その性格が祟って男の子によく虐められるたび、男児たちを追い払うのは竹谷の日課のひとつだった程だ。
今思えばあれは子供特有の好きな子苛めだった訳で、それに気付いたのは高校生になってからだ。我ながら時差がすごいとは思うが、こちらとしては
名前を庇いつつ追いかけてくる級友と立ち向かうことに忙しかったので許してほしい。
毎日行われた小学生たちの攻防戦。実の所本当の敵は、自分だったのかと苦笑した。ついでに密かに呼ばれていたあだ名の意味もその時理解した。虫取り魔王って何だ、虫取り魔王って。
まぁ、それ程までに
名前は竹谷に取って身近な存在なのだ。取り合えず当時の友人達には胸中で詫びておいたので、恨まれる事はもう無かろう。なーむー。
そんな竹谷も竹谷で、小さく柔らかい彼女の手を引いては、よく山の中や川の虫を探しに連れ回したものだ。
「早えなあ、もう17年かよ」
指折り数えて、年月の過ぎ去る早さに一人驚く。
それもやはり近いうちになくなるのだろうと、ちょっとセンチメンタルにも考えてしまう。幼馴染みと言っても男同士の仲でもないし、年頃になれば男女なら離れてしまうのが普通だ。それこそ彼氏などが出来てしまえば、あっという間だろう。
あいつの隣に居るなら、優しくて彼奴を大切にしてくれる奴が良いな。
窓から離れ、席に戻りつつ一人勝手に考えてしまうのは、あれのことを最近可愛いと言う友人が出て来たからだろうか。
その友人と言うのも先ほど
名前と話していた雷蔵なのだから、強ち竹谷の妹を褒めているような感覚なのかもしれない。いや、それでも自分たちはもう17歳だ。彼とも
名前は付き合いが長いので、恋愛感情が芽生えないとも言い切れないか。
「まぁ、雷蔵なら有りか。いや、でもしっかりしてないのも困るな……」
まるで兄が妹の事を考えているような呟き。雷蔵は確かに優しく、紳士的で、迷い癖はあるがいざという時はまぁそれなりにやる男だ。結構絵になる二人なのかもしれない。
係の仕事であるプリントの纏め作業を進めつつ、竹谷の脳内では勝手に彼氏候補の選別に入っている。
「遅れてごめんね! もう終わっちゃった?」
「安心しろ、
名前の分は残しておいてやった」
「ええー……」
扉を勢いよく開け、慌てて入って来たのは、先ほどから竹谷の脳内で話題の
名前だ。陸上部で使っているシューズケースをバッグと共に自分の机に置き、手早くこちらへ歩いてくる。
「冗談だって。やってもやっても終わらねーんだよ、量多いし」
「本当に?」
「マジだっつの」
「ふうん? で、これを纏めれば良いの?」
竹谷の手の中で踊るプリント群に視線を下ろしながら、
名前が言う。
名前の頬に長いまつ毛が影を落とす。ただ下を見ているだけなのに十分に絵になるのだから、あの泣き虫がこうも綺麗になるものかと驚くばかりだ。
「そ。クラスの人数分、プラス担任と、校長と教頭と……まあ、そこら辺の分も入ってるんだと」
「配布係ってここまでするとは思わなかったよ……」
「上に同じ。さて、どっからやる?」
「取り合えず、八が効率の悪い方法でやってるのは解ったから、まずはやり方を変えよう。いくつか先に纏めて、そのあと一気にホチキスでバチンッと行こ!」
「うっわ、はっきり言うなー」
とは言え、気持ちの良い笑顔で言う
名前からは、嫌味は感じられない。
「でも流石に1つ作るごとに一冊ずつ纏めるのは逆に手間取るよ」
「やっぱそうかー。じゃ、流れ作業にするか?」
「うん」
名前が竹谷の向かいに机と椅子を適当に引き寄せる。すとん、と軽い音と共に彼女は座ると、手短にあったプリントをテキパキと纏め始めた。器用なのか、それとも慣れか。
名前の手は先程までの竹谷と比べて、数倍の早さで作業をこなしてゆく。
そんな要領よく作業を進める
名前の手を見て、感慨深そうに竹谷が呟いた。
「手、大きくなったな」
「へ? え、手?」
「そ。小せぇ時と比べて、やっぱ大きくなったな〜」
「そりゃ、手を繋いで歩いていた頃と比べたら、ね」
「こう、手え立ててくれるか?」
「ん? こう?」
差し出された華奢な
名前の手に、竹谷の男子高校生特有の骨張りながらも張りのある手が重ねられる。
「うわ、ほっせえ、指」
「そうかなあ?」
「いや、俺のと比べて見てみろって」
名前が自身の指と竹谷の指を見比べ、確かに彼と比べれば自分の指は細いかもしれないと感想を述べれば、竹谷は満足そうに微笑んだ。
その微笑みに、
名前もはにかみ返す。
「お前もいつかは嫁に行くんだろうなー」
「うわ、随分ぶっ飛んだ話になったなあ……」
「そんな事ないだろ? お前今いくつだよ」
「八と一緒だよ。この間17になったの祝ってくれたじゃん」
「ってことは、もう結婚も出来る訳だ」
「まだ早いよ」
「そーかあ?」
そんな事ないだろうと、竹谷が身近な男の名前を挙げてゆく。
「兵助だろ? 勘右衛門もあれで結構面白いし……あ、でも三郎は止めておけ。彼奴はお前の事絶対玩具にするぞ。まぁ皆良い奴だし……頑張ってみろよ!」
手元は休まず、しかし口は忙しくニコニコと話していた竹谷だったが、ふと彼女の手が動いていない事に気付く。
どうしたのかと顔を上げてみれば、そこには冷ややかな眼差しで自分を見ている幼馴染みの姿があった。
ぎょっとしている竹谷を気にした風でもなく、
名前は暫く無言で竹谷を見つめ続ける。怒っているというよりも、呆れている時の顔だ。でも、過去一で疲れているのもわかる。
「えっと……」
「好きな人くらい、自分で見つけるよ」
「……すいませんでした」
「ごめん、謝って欲しかった訳じゃないんだ。ただ、あんまりにも八が楽しそうに話すから、ちょっと……」
吃驚した。
何処か寂しそうに言う幼馴染みの顔の曇りは取れる事なく、更に申し訳ない気持ちに追い立てられる。
重ねて竹谷が詫びを入れれば、今度は
名前が申し訳なさそうに苦笑した。
「本当、別に怒ってないって。大丈夫、心配せずとも
一人称にだって好きな人くらい居るよ」
「お、おう! ……え? 嘘、好きな奴居たの!? マジで!? いつの間に? あ、もしかして雷蔵とか……?」
机から少し乗り出してそう言えば、キッと竹谷が
名前に睨まれた。
今まで見た事ないようなその気迫と眼差しに、流石の竹谷も蛇に見込まれた蛙の如く怯え、姿勢を正し頭を下げて反省の意を表した。
数秒の、間。
「……
名前?」
動きのない彼女が今度は心配になり、竹谷が顔を上げて
名前を見る。
「馬鹿ッ!!」
「な、うおう!?」
名前が竹谷の頭に何かを叩き付け、まるでタイミングを狙っていたかのようにそれは続けて竹谷の顔面にヒットした。
衝撃を受けた瞬間は一体何をぶつけられたのか解らなかったが、耳に入って来る軽い音からそれが纏めていたプリント類だと理解する。
カサカサと乾いた音を立てながら、何十枚ものプリントが床に散らばって行ったのが解った。
「こら、
名前。おま、え……」
流石にそれは投げるな、と言おうとした竹谷の口が開いた状態で固まった。
それもそうだろう。黒くて大きな瞳に、今にも零れ落ちそうな涙を溜めた少女が目の前に居れば、性別問わず誰でも驚き動きを止める。
「ちょ、な、悪い! 俺、やっぱ何か酷い事言った? いや、言ったってかしたからこんなになって……」
ころん、と林檎のような赤色に染まった
名前の頬を涙が転がってゆく。
とっさに竹谷がその涙を拭おうとして手を出すが、その手を
名前に弾かれてしまった。
一体なんなんだ。俺が何をしたって言うんだ。いや、何かしたんだけど!
ぽろぽろと涙を床へ落とす彼女に向かって困った顔を向ければ、
堰を切ったように
名前が珍しく大声を上げた。
「何で八が居ないのよ!」
「……は?」
「何で、何で名前上げる中に、八が居ないの!? ど、どう、して自分の事言わないの!? 何で、何でなんで……」
「え、おい、
名前……」
「わ、
一人称がどれだけ長い事八のこと見てたと思ってんの? 何で男の子、恐い
一人称が、八と居るんだろうとか考えないの? どうして自分だけとか、考えなかったの!?」
幼子が母親に向けて泣くような、胸が張り裂けんばかりの声が教室に
谺する。
「八の馬鹿、もう知らない!」
泣くだけ泣いて、叫ぶだけ叫んだ
名前は、竹谷を振り返る事なく教室を飛び出して行った。
遁走、という言葉が竹谷の脳裏に浮かぶ。いや、
名前が逃げたんじゃない。今逃げたいのは自分の方だ。
呆然と
名前が飛び出して行った扉を眺めていれば、声を聞きつけて来たのか、はたまた出歯亀していたのか雷蔵と三郎が教室に入って来た。
「ごめん、聞くつもりじゃなかったんだけど……」
「いつからだ?」
「えっと、好きな人くらい自分でっていう……」
「彼奴、いつからああやって俺の事見てた?」
力の入らない竹谷に、三郎がばっさりと真実を告げる。
「少なくとも、俺等がお前等と知り合った時からは」
ってことは小学生からかよ!
たまらず竹谷が文字通り頭を抱えて床に座り込む。
クソ恥ずい。何も知らずに彼氏を勧めた己が憎い。とは言え「なんで?」って尋ねられて怒られても、俺は「あ、はい。そうですね!」と正座で元気に脊髄で答えて、火種にガソリンを撒くことしかできない男だと言う自信がある。だって本当にわかってなかったのだから。
「気付いてなかったの?」
「気付かなかったっつーか、有り得ないっつーか」
「見たくなかった、だろ?」
三郎がニヤリと笑って言う。ああ、やめろやめろ。お前のその顔は腹が立つんだ。オリジナルの顔が横にいるけど、一度としてオリジナルはそんな腹立たしい顔を向けてきたことはないってのに。いつだって雷蔵は穏やかで、俺たちグループの中では大人で、しっかりと先を見てる。俺なんかよりもずっと。だから「どうだ?」なんて口に出してしまったのに、今回ばかりは悪手に悪手を重ねたらしい。
「お前さあ、過保護過ぎんだよ」
「というより、怖がりなのはお互い様って感じかな?」
「怖がりって……」
「じゃあ、あの子の隣……僕が居ても良い?」
竹谷が急に声色の変わった友人に目を向ける。
いつもの顔とは違う、知ってるけど知らない友の顔。まっすぐにこちらを見据えて、誠実に彼は俺に言う。
「僕は好きだよ、
名前の事。女の子として。竹谷がそれを許してくれるなら、僕は今すぐ
名前を追いかけたい」
どう? と雷蔵が問う。腹に、足に力が入る。竹谷は無言で席を立ち自分の荷物を持って歩いて行く。
そのまま扉に向かって歩いて行き、ふと足を止めて深呼吸をする。
「させるかよ、馬ああああッ鹿!!」
まるで獣の咆哮のような音量を教室に響かせ、扉脇の
名前の席から彼女の荷物を掴み、俺は教室を飛び出し走り出す。
教室には三郎と雷蔵の二人が残され、三郎が窓から校庭を見やれば美しいフォームで走る
名前と、彼女に向かって猛進する竹谷の姿が見えた。隣から雷蔵が校庭を覗き込み、小さく笑う。校庭を走る陸上部を易々と二人が追い抜いているのだ、笑わない方が無理な話だ。
幼い頃から野山を二人で駆け回ったとは聞いていたが、二人とも本当に足が速いものだと三郎が感心する。
「
名前、陸上部になってからはかなり足速くなったんだよねえ。八左ヱ門、追い付くかな?」
「そこは根性で何とかするだろ。それよりお前は行かなくて良いのかよ?」
「ん~?」
「
名前の所だ。お前結構本気だったろう?」
「まあ、そうなんだけど……」
名前が唸り声を上げながら走って来ている竹谷に気付いたのか、短い悲鳴をあげ速度アップする。あれは純粋に驚いていると見た。二人分の荷物を担いで追いかけてくる幼馴染は、さぞ勢いの良い野生動物にも見えるであろう。しかしその行動へ着火したのは、それぞれ自分なのだ。吹っ切れた竹谷は止まることはないだろう。
雷蔵が校庭から目を離し、三郎を見る。
「あれだけ一途に相談され続けたら、ね。笑ってくれた方が振られ甲斐があるってもんだよ」
「良く言うよ」
三郎が校庭の二人を見る。
竹谷が何とか追いついた所で、まだ少し言い合いをしているようだ。
二人の声が少しだけ聞こえてくるが、三郎は隣の雷蔵の腕を引いて帰り支度を済ませ教室を出た。
「三郎?」
「クレープ食って帰るぞ。バナナチョコを俺の胃袋がご所望だ」
「じゃあ、僕は苺が良いかなあ……」
廊下を歩く二人が優しげな西日に照らされ、2つの影を作る。
二匹の紋白蝶が、風に乗って空高く舞い上がって行った。