毎月三日は大包三日の日【6/3】
3万字も書いてエッチしてない事実に愕然としている。
しろよ…エッチ…。
時間なくて雑校正がすぎるので誤字脱字見つけたらちょくちょく直していきます。ぴえん。
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大包平が本丸に励起された。
長くその存在を知られ、いかなる刀剣かと審神者の期待を受けて現れたその剣は、期待に違わぬ眉目秀麗さと不遜さで、本丸を沸かせた。
とはいえ、翌日も出陣が決まっている。歓迎の宴はまた別に設けることとなり、大包平は刀剣たちを前に挨拶をするにとどまった。
まずは本丸の生活に慣れるようにと審神者より言いつかった大包平に、同じ古備前の鶯丸が案内役を名乗り出た。
気心知れたとまでは言わないが、同じ刀派であれば気を遣う由もない。これ幸いと鶯丸の申し出を受け入れ、二振はそのまま、夜に沈む本丸を練り歩いた。
「随分と広いな」
この本丸は、起伏豊かな山の斜面に配置されていた。
平らかな場所には住居や厩舎、田畑が広がり、合間を縫うように清流が音を立てて流れる。
谷底目がけて勇壮な滝が落ち、峰に沿って回廊や石畳が張り巡らされ、絵に描かれた仙境がそのまま形をとったようだった。
いまは夜の闇が濃く、その景色は墨を流したようで判然としないが、明日になればさぞかし美しい眺めが望めることだろう。
美しいだけではなく移動の便も細々と考えられており、自身が属する本丸にふさわしいと、大包平は満足げに景色を眺めた。
とはいえ、いかんせん広い。どの回廊がどこにつながっているのか、覚えるだけでも数日を要しそうだった。
「初めはもう少し手狭だったのだがな、拡張を重ねた結果だ。刀剣の数も、随分と増えた……」
「童子切は!?」
「あれはまだ、刀剣男士として見出されていない」
鶯丸からの返答に、大包平は目に見えて落胆した。お前こそ、随分とこちらを待たせたんだぞと、鶯丸が文句の一つでも言おうとした時だった。
「おお、大包平か」
峰を走る回廊の薄闇から、一振の刀が姿を現した。布巾のかかった竹籠を下げ、ゆったりとした動作でこちらにやってくる。
青い狩衣を身に纏ったその刀が何者か、大包平は聞くまでもなく理解した。
「三日月宗近……」
「久方ぶりだな。改めて、よろしく頼む」
三日月宗近はそう言うと、頭についた金色の房飾りをしゃらりと揺らして頭を下げた。
先ほど大広間で大包平が挨拶をした際にも、この刀はそこにいた。
主に最も近い場所。共に座していた剣は、おそらくは大典太光世と数珠丸恒次。
相変わらず陰気な顔つきながら、ひりつくほどの霊力を溢れされている大典太と、清廉にして勤勉な様が滲み出ている数珠丸、掴みどころのない笑みを浮かべてゆるりと座す三日月は、大包平の脳裏にしっかりと焼きついている。
その美しさは、神の座にあった時から変わらない。
人々が美しいともてはやしているのだから当然だ。当然なのだが、こうして肉体の器を得て目の前にあると、確かに息を呑むような艶かしい美を有している。
「……こちらこそ、よろしく頼む」
「うむ。再びここでまみえることができ、嬉しいぞ」
三日月はふわりを表情を緩めた。歓迎を表しているのだろうが、不思議なことに大包平の勘にかちりと触る。
「余裕ぶれるのも今のうちだ。すぐに追い抜いて、俺の方が優れた剣であることを証明してやる」
「そうか、そうか。それは楽しみだが……さて、ここまで来たということは、案内はもうこれで終いか?」
大包平の大音声を受け流し、三日月が鶯丸に尋ねた。
「ああ、一通りは。まだ覚えきるには至っていないだろうが」
「仕方あるまい。本丸は広い。俺など、もはや古株であるがいまだに迷子になる」
そう言って声を立てて笑う三日月に、天下五剣としての威厳はない。その様にもまた、大包平は神経を逆撫でされた。
あからさまに機嫌を悪くする大包平に、三日月はしかし表情を変えないまま、「この後は暇なのだな?」と聞いてきた。
「ああ、予定はない」
大包平が答えるよりも先に、鶯丸が返答する。なんで貴様がと言いかけた大包平の腕に、三日月がごく自然な仕草で手をかけた。
「では付き合え」
「付き合えとはどういう……おい、貴様ッ」
さして力を入れているようにも見えない三日月の手は、しっかりと大包平を捕まえて離してくれない。
鶯丸はまるきり助ける気はないようで、早々に踵を返して去っていく。薄情者めと罵ったところで、戻ってきてくれるような刀ではない。
「おい、三日月宗近! どこに俺を……ええい、離せッ」
抗議も虚しく、大包平はずりずりと半ば引きずられるように連行された。
薄暗い回廊を抜けた先は住居となっており、三日月はいくつか並んだ部屋の一つを目指しているようだった。
「俺の部屋だ」
襖を開けた先は、青い畳の香りとほのかな白檀の香りが漂う、こざっぱりとした部屋だった。
いくつか続きの間があるようだがいまは閉ざされており、対面には開け放たれた障子と縁側が見える。
三日月がとんと襖を閉めると、空間がぴんと張り詰めた。
嫌な空気ではない。むしろ守られているという安心感を覚えた。
不思議そうに見回す大包平に、三日月は「結界だ」とさらりと言う。
「結界?」
「俺が張っているわけではなく、そういう仕組みになっている」
いわく、刀それぞれの私生活を守るために、この本丸では部屋の持ち主が戸を開け閉めするたび、簡易的な結界が張られるのだという。
あくまでも自動で発動する簡便なものであるので、他の刀が破ろうと思えば破れるし、音や振動を減らす程度の力しかないのだが、生活をする上ではなかなか便利にもちいられている。
「刀剣の趣味によっては、部屋で宴会を開いたり、歌ったり踊ったりもするだろうからな。周囲の迷惑を考えずに生活を送れるのは、こちらとしても助かっている」
まぁ座れと促され、大包平は敷かれた座布団の上に腰を下ろした。
住居の簡単な説明と、自分の部屋の案内はすでにされているが、他の刀の部屋に入るのはもちろん初めてになる。
大包平の部屋にはまだ布団と照明しかなく、まるで個性のないつまらぬ部屋だった。
自然、三日月の部屋を物珍しく感じる。行儀が悪いとわかりつつも、ついあちこちへ目が移った。
簡素な部屋なのだろうと思う。
丸い飾り棚が置かれ、茶器と花器が飾られている。いずれも良い趣味をした品物で、生けられている花も品がある。
腹の立つ剣ではあるが、美への感度はなかなかのものだ。隣に置かれた小箪笥も、古道具なのか使い込まれており味がある。
その上に置かれているものが、色とりどりのビー玉やおはじき、なんの変哲もない小石であることは少々気になるが、この本丸は短刀も多いゆえ、そのいずれかから貰ったのだろうと見当をつけた。
「目新しいだろう。大包平もいずれ、自分の好きなように部屋を作るといい」
「い、いや……。すまん、じろじろと」
「気にするな。つい先ほど来たばかりなのだから」
三日月はそう言って、部屋の片隅から小さな茶卓を持ち出した。
飴色のそれはつやつやとして、天井に吊られた照明の光をよく反射している。その上に、三日月はことんことんと猪口を二つ、徳利を一つ置いた。
「……む?」
「大包平を呼んだのは、これだ」
三日月はそう言うと、どこからか酒瓶を取り出した。きちんと冷やしてあったのか、表面に水滴が浮かんでいる。
「……えらく大きくないか?」
「これくらは飲めるだろう?」
そう言われると、無理だとは言えない。
三日月は小箪笥から小皿を何枚か取り出し、それも茶卓の上に置いた。箸も並べると、三日月は持ち歩いていた竹籠から布巾をとった。
「おお、見事な」
大包平がつい口にしたのも無理はない。籠の中には、小さな器が所狭しと並び、それぞれの中にはとりどりの酒菜がおさめられていた。
「これは木の芽の白和え、こちらは子持ち昆布、胡麻ダレで和えたマグロと、帆立の佃煮……」
いずれも、当然だが味わったことはない。
先ほど夕飯はいただいたが簡素なもので、一通りの膳にはなっていたしそれで十分だったが、このように華やかな酒菜は、それはそれで大変にそそる。
「一人で楽しもうとあれこれ用意したが、大包平がいたからな。せっかくだし、色々と味わってみるといい」
さにあれば、これは三日月なりの歓迎であったか。
いささか強引ではあったが、先ほど励起されたばかりの刀に、人の身の喜びの一つも教えてやろうとしているのであれば、それはありがたく受け取るべきだ。
「好みは刀それぞれにあるからな。口に合わないものもあるだろうが、それも含めて楽しんでくれ」
ころりとしたガラスの箸置きと、しっかりとした作りの男箸を渡される。
箸置きは透明な中に金が流れるように混じっており、飴色の茶卓の上に置くと、水滴のようにも、甘い菓子のようにも見えた。
三日月は一升瓶から徳利に酒を移し、そのまま大包平の手元の猪口にとくとくと注いだ。
「酒もあるいは苦手かもしれんが……これは飲みやすい部類だ。試すといい。少しずつな」
促された大包平は、おっかなびっくり口をつけた。
ふわりと香る。
どこか柑橘類を思わせる爽やかな香りだった。
口に含むと、まずはおそらく酒精だろう。初めての味わいに驚くが、すぐにそれは甘みへと変わった。
米を削って作っているのだから甘くて当然だが、広間で振る舞われた膳で口にした白米とは甘味の質が違う。
「……美味いな」
「そうか、そうか」
三日月は嬉しそうに笑うと、手酌で猪口に注ぐ。そのままぐいと飲む様はなかなかに豪快で、美麗さに気を取られていたが、これも男士であったなと大包平は思う。
「俺たちは神の部類だからな。米や酒は好ましいものだ」
「ああ、美味い。霊力が磨かれるような心持ちがする」
「わかるぞ、美味いものを口にするとそう思う」
三日月はにこにこと嬉しそうに笑いながら、こちらも試してみるといいと、酒菜を大包平にすすめてきた。
「この辺りが食べやすいと思う。鶏の西京焼だ」
「……ふむ、悪くないな」
ちまちまと酒菜をつまみながら、大包平は猪口を空にする。
競うわけではないが、水のようにどんどん飲んでいく三日月と自然と速度を合わせることになり、大包平は次第に身体を火照らせていった。
「これは……酩酊、というやつか」
「ああ、そうだな。酒を飲むとそうなる」
「明日に響くのではないか。そろそろここで……」
「案じるな。俺もお前も、明日は出陣の予定はない」
それにどうせ明日には抜けているさと、三日月は顔色を変えず猪口を傾けた。
「そう、なのか…?」
「俺たちは通常の人間よりも酒精に強い。まぁ万が一、大包平が二日酔いになっても、戦力は十分に確保されている」
「お前は?」
「うん?」
「お前はどの程度なんだ」
「俺はもう練度が上限に達してしまってなぁ」
三日月はからからと笑った。先ほどまでより、表情が緩んでいるように思う。顔色は変わっていないが、幾分か酔っているのかもしれない。
「もうしばらく出陣はしていないな。時折、遠征の任を与えられることもあるが……まぁ、隠居のようなものだ」
だからこうして、酒を楽しむこともできるのだがと、三日月は互いの猪口に酒を注いだ。
「大包平がやってきてくれて嬉しいぞ。天下五剣は全振り隠居だ。お前が強くなってくれたら、俺たちの楽しみも増える」
「今は強くないとでも!?」
「才能や素質の問題ではない。練度の差はなかなか覆らんよ」
「フン……そんなことを言うなら、明日俺と手合わせをしろ!」
「ああ、構わん。何事も挑戦だ」
大包平が負ける前提で話をする三日月に腹が立ったが、一方で、練度の差は確かにあるのだろうとも思った。
自分がまとう霊力は、決して軟弱なものではないが、未だ薄いと自覚している。
これをより濃密に、強固に、これから練り上げていかねばならない。
もちろん、最終的に優れているのは自分の方だという自負はある。さりとて、まだ肉体にも十分に馴染んでいない今、容易に勝てる相手ではないこともわかっていた。
「俺の好敵手だからな、お前たちは……もちろん、一番は童子切だが」
「俺では役者不足か?」
「阿保を抜かせ、そんな軟弱なことを言うな!」
「軟弱か」
「俺を差し置いて天下五剣に数えられたんだ、それに見合った実力がなければ許さん」
ぐいと酒を飲み干す。すかさず三日月が酒を注いだ。
「では、大包平の期待には応えなくてはな」
「だが俺はもっと強い。お前なんぞよりもよほど斬れる」
「ふむ、それはそうかもしれん。お前はきっと、よく斬れる刀なのだろう」
「そうだ。だからお前を持ち運ぶことだって簡単だ」
大包平の言葉に、三日月は一瞬「おや」という顔をしたが、大包平は気が付いていないようだった。
「……俺を運んでくれるか。お前が思っているよりも、俺はきっと重いぞ」
「そんなことはない。どうせ布や防具の重さだろう。お前は剣の姿の時からふわふわして……頼りがなくて……」
「大包平は剣の時から豪壮だった」
「そうだろう、そうだろう!」
声を大きくすると、大包平は自身の膝を打った。
「豪壮なだけではない、優美さも兼ね備えている。なにせ、美の結晶だからな」
「お前を見て、刀を打つ意味を見失った刀鍛冶もいたそうだな。ここにすでに完成があると……」
「ふん、よくわかっているじゃないか」
空になった猪口に、三日月がとくとくと酒を注いだ。徳利にも注ぎ足して、一升瓶はすでに半分が空になっている。
「それなのに俺は……どうしてお前は……」
「称号など気にするな。所詮は誰が言い出したかもわからないものだ」
「だがそれがお前を強くした!」
「さぁ、どうだろうな。全てを否定するわけではないが……往時の俺も、なかなかのものだったぞ?」
「あの……なんだったか、網ではない、阿弥陀でもなく……ああ、そうだ。五阿弥切の時の話か」
「ああ、お前とはまだ出会っていない時の話だ」
「月はあったか? 星はないな。お前が飼っているのは月だ。月だよな? あったのか?」
「いや、ない。この月は、研ぎ減って生まれたものだ。その時から……俺は月になった」
「月に?」
ふざけるなと大包平が言い放つ。
「お前は刀だ、三日月宗近だ。それ以外の何者でもない。……いや、三日月宗近であるなら、月でもあるのか…?」
首を傾げ始めた大包平を見て、三日月はいよいよ「おやおや」という顔をした。
「大包平、酔い初めているな」
「俺は酔っていない!」
「ふむ、いい反応だ」
えてして、酔客はそれを否定する。
大包平はふわふわと身体を揺らし、鋭い目つきをどこかとろんと溶かし始めていた。
「第一、神が酒に酔うはずかない。そうだ、確かに俺は社は持たないし、酒をささげられたことはないが……酔っぱらうなどあり得ない」
「そうだな、あり得ないなぁ」
三日月はそう言って、空になった大包平の猪口に酒を注いだ。
「ほら、こちらも美味いぞ。くりーむちーずという食べ物と、干し柿を合わせたものだ」
「栗むちーず?」
「くりーむ、ちーず。西洋の食べ物だ」
「西洋の食べ物……そうか、今のこの身ならば、西洋も恐ろしくはないな」
「別に、西洋と戦うわけではないがな」
「食べてしまえば勝ったも同然よ」
ふわふわしながらも箸はしっかりと使えるようで、大包平は三日月のすすめた酒菜をつまんで口に入れた。
「これは……また……甘いな」
「干し柿だからな」
「甘いより塩辛い方がいい」
「そうか。今回は自分用に選んでしまったから、次は大包平の舌に合わせよう。これはどうだ」
「む……美味い。塩辛くもなく、味わいが深い……ぷちぷちする。火花だな」
子持ち昆布を食べながら、大包平は何かに思いを馳せるような目つきをした。
「俺たちが生まれたときも、このような感じだったのだろうな」
「生まれた時?」
「火花が飛んで……ぷちぷちと……ぱちぱちと……真っ赤に燃えた鋼を水入れし……初めは黒いが磨かれると煌めき出す。この酒菜も磨けば光るか?」
「うぅん、昆布は磨いても光らんなぁ」
「光れば俺の子分にしてやったんだが、残念だ」
「昆布だけにか?……ふふふ、大包平は面白いことを言う」
大包平に何気ない一言がひどく面白かったのか、三日月はよそを向いて肩を震わせた。
「おい、こら。よそを向くな。この大包平がいるというのに」
「別にお前をないがしろにしたわけではなく……いやいや、ははは……なかなか最近はこういった場面に出食わすことがなかったから、どうにもこうにも」
振り返った三日月の顔に、大包平はぐいと顔を近付けた。
「見るものは俺で十分だろう」
「それはそうだが……あまりに近い」
「近い方がよく見える。お前の目の月が見える。お前はやはり月か、月だったんだな」
三日月の目を、大包平が深く覗き込んでくる。あまりの近さに三日月が思わずのけぞると、避けた分だけ大包平が追いかけてきた。
「月だな……どうしてお前は月なのか。研ぎ減って出てきただけならば、それはただ途切れただけだ。月ではない」
「だが人は俺に月を見出した。人の心が俺たちを形作る」
「五阿弥切はよく斬れたか」
「……うん?まぁ、そうだろうな」
「ならばそれで十分だった。どうしてお前は……月なんぞになったのか。そんなに美しくなってどうする」
「……うん?」
大包平の手が、無遠慮に三日月の顎を掴む。酔っぱらいの手加減なしの力はなかなかに強い。大包平は三日月の顔をしっかりと固定し、その顔面を鼻先が触れるほどの距離で覗き込む。
「まったく、つくづく腹が立つほどに美しい……人の身を得ればなんとすると思っていたが、どうしてそんなにまつ毛が長い。絡むだろう」
「いや……絡んだことはないが……」
たまに寝癖がつくことは黙っておくかと、三日月は目の前の酔客を眺める。
大包平はとろんとした目で三日月をためつすがめつし、ろれつの回らなくなってきた口であれこれと述べた。
「肌の手触りは地金と同じか?温かいのは人の血か……つるつるしている。鼻の形も申し分ない。俺とは違うがこれもまたよし」
「う、うむ……」
「困るな。喜べ。俺が褒めている」
「名誉ではあるが、しかし大包平……」
「しかしもカカシもない。喜べ。……しかし小さい頭だな。俺の手に収まる。形の良さはさすがだが……髪も絹糸のようではないか。不思議な色だ……」
大包平の大きな両手が三日月の頭を包み、髪ごとわさわさと撫で回す。
犬にでもするような動作だが、その手つきは存外に丁寧で、三日月の形と手触りを確かめていく。
「頬が赤い……酔ったか?弱いな」
「そ、それを大包平が言うか……」
「やはり目が印象深いな。不思議な色だ。俺の目は何色だ」
「え?」
「俺はまだ自分の顔貌をよくわかっていない。まぁ相当な美丈夫であることは間違いないが、目の色は魂の色、俺の魂は何色だ? 魂だからといって玉虫色ではあるまい。虫ならば蝶こそ俺にふさわしい」
輪をかけて支離滅裂になっていく大包平の物言いに目を白黒させながら、三日月は「お前の目は鋼の色だ」と答える。
「鋼……剣の色か」
「そうだ。ほのかに透き通っていて……よく肌の詰んだ地金のようだ」
「なるほど、俺の魂は刀剣そのものということか……ははは、刀剣故に鋼の色ならば、青に月を浮かべるお前は、確かに月だ。お前は刀剣ではなく月なのか」
「いや、そこまで存在を逆転されると、さしもの俺も戸惑う……」
大包平は三日月の言い分にはまるで耳を貸さず、まじまじと目を覗き込んでくる。
鼻先が触れ合うほどの距離、大包平の吐く吐息が三日月の唇にかかった。
「潤んだ水の向こうに月が揺れている……一服の絵のようだ。見事なものだ。これを人の子が生み出したのか」
「別にこの身を造形されたわけでは……」
「肌が心地よいな。柔らかいから鋼ではない。だが月も柔らかくはないはずだ。行ったことはないが、確かあれは硬いはず」
「まぁ、うむ……そのはずだ……」
「硬いのに柔らかいのか。水でも吸ってふやけたのか?確かに酒を飲んだが……酒を飲むとふやけるか」
「ふやけない、酔うだけだ」
お前のようにと三日月が言いかけた時だった。
「ここも柔らかい。色も美しいな。これは桜色と言うのだったか?」
大包平の親指が、三日月の唇を無遠慮に撫でた。
大きな指は三日月の控えめな唇を覆い隠し、そのままふにふにと感触を楽しむように小さく上下した。
無礼とも言える行為に三日月は呆気に取られ、大包平に対して怒ることも忘れる。
愛でられることには慣れているが、こんな風にいじくられたことはない。
だが大包平の大きな指先は、ほのかなむずがゆさと、無骨な暖かさを三日月に与える。
不愉快ではない。むしろ、身を任せたくなるような安心感があった。
戸惑う三日月を置いて、大包平は酒精に溺れた目で三日月の唇を見つめる。
「心地よいな。弾力があって美味そうだ」
「は?」
「これもつまみか? 甘いより塩辛い方が俺の好みだが、これは食べてやってもいい」
「いや、ちょっとま……」
待てと言う前に、何かが触れた。
濡れた何かが三日月の唇をなぞる。それが大包平の舌だとわかった時には、がっぷりと噛みつかれるように口付けをされていた。
「ん……む、ん……?」
予想だにしていなかった展開に、三日月は為す術もなく翻弄される。
硬直している間に大包平の唇は三日月のそれを覆い隠し、あろうことか、舌が唇を割って侵入してきた。
口内をねっとりと舐められてから、三日月はようやく「これはいかん」という目つきに変わる。
いささかのんびりしすぎている気もするが、なにせ気持ちいいのだ。ちょっと楽しんでもいいのではないかという、不埒な思いが頭を掠める。
大包平の舌は酒精に蕩かされて熱を帯びており、唇は肉厚で心地よい弾力をしていた。
何より頭に回された手がひどく優しく、口内の舌もゆったりと丁寧な動きで三日月を味わっている。
人の身を得て、ここまで自分以外の何者かの体温を鮮明に感じたことはなかった。
ぬくもりは心を満たし、三日月の理知がほろりと崩れる。
内奥の無垢な場所を剥き出しにされるような感覚は、本来であれば無遠慮で腹立たしいものなのだろう。
しかし、言葉を介することなく唐突に訪れたそれは、万事慎重な三日月すら絡めとる。
「ふぅ、ん……むぅ……んん……」
頭を抱えられ、気が付くと抱き寄せられていた。
大包平は覆いかぶさるように三日月にのしかかると、実に心地よさそうに唇を吸った。
大包平の酔いが移ったかのように、三日月の頭もふわふわと正気を失っていく。
「ん……ぅう……ふ、ぁ……」
息継ぎすらままならない口付けの中、胎の奥がずんと重くなり、全身に血が回って力が抜ける。
じわじわとたまらない熱が高まっていき、足の間のものが首をもたげるのがわかった。
思わずもじりと膝を擦り合わせると、大包平の指先が三日月の顎をそっとなぞった。
その感触に思わず甘い吐息が漏れる。足の間が、より濃密な熱を灯す。
――――いや、まずいだろう。
そこまできて、三日月はようやく気を取り直した。
これはいけない、まずい、さすがにうっかりの域を超えている。
「お、おかねひら……だめだ、これは……」
三日月は身をよじって大包平の腕から逃れようとし、なんとか両手でがっしりとした身体を押し返した。
きっとびくともすまい、その場合ははて、どのようにしたものかと思っていると。
「……お、おぉ、っと…!」
大包平の身体はいとも簡単にぐらりと傾いだ。
それどころか、そのまま後ろに倒れ込みそうになる。
三日月は慌てて腕を伸ばし、大包平の身体をどうにか支えた。
まるで姫君を抱き抱えるような姿勢になった三日月は、とりあえず励起早々、手入れ部屋に大包平を送る羽目にならなくてよかったと安堵する。
安堵した時だった。
「……ぐぅ」
「――――は?」
腕の中から聞こえた声に、三日月はいつにない声を発した。
「ぐぅ…………むぐぅ……」
「……おい、大包平。大包平よ」
「…………むぅ」
三日月の腕の中で、顔を真っ赤にした大包平が満足げな顔で眠っている。
さんざん人の唇を弄んでおいて、すんでのところで頭からぶっ倒れるところを助けさせておいて。
あまりに気持ちようさそうな熟睡ぶりに、さしもの三日月も天を仰ぐ。
いっそ目の前の庭に放り出してくれようかと、いささかの本気を交じえながら考えるが、人の身を得てすぐの刀に、酒を好きに食らわせた自分も悪いと思いとどまる。
が、それで全てを許せるかと言ったら話は別だ。
「…………おのれ」
滅多にない恨み言を一言吐くと、三日月は深々とため息をついた。
やむなし。
三日月は大包平の立派な体躯をなんとか背負う。
足先を引きずる形になっているが、まぁよいだろう。足首を持って引きずってやってもいいところを、頭を守っているだけ褒められたい。
寛容にして寛大で、果てなく親切な三日月は、こうして大包平を自室に放り込んでやったのだった。
*
励起した次の日の朝。
大包平は爽快な気持ちで起き上がった。
「……うん?」
しかし、自身の姿を見て首を傾げる。
防具一式は外してあるが、正装のまま布団に寝転がっている。
上掛けはないし、寝巻きでもない。こんなだらしのないことを自分がするだろうかと思ってから、そういえば、昨夜は三日月宗近の部屋に行ったのだったと思い出す。
起き上がって記憶をたぐるが、あれこれと歓待してもらったことだけが頭に残っていて、あとはすっかりとぼやけている。
「……どうやって……部屋に戻ったのだったか……」
その記憶が全くない。
これはひょっとして飲み過ぎたのだろうかと思い当たり、大包平の顔面から血の気が引いた。
何か粗相をしてしまったかもしれないという恐れはもちろん、もし痴態を晒したとして、その相手がよりにもよって、天下五剣の一振であるという事実。
「俺は……クソッ…!」
頭を抱えるが、懊悩したところで過去は変わらない。
それに、天下五剣の中ではまだ三日月宗近でよかったとも思い始めた。
尊敬する数珠丸恒次に見られたとあれば末代までの恥、大典太光世に見られていれば末代まで笑いものにされる。
その点、三日月宗近は大包平の失敗を特に隠すこともないだろうが、さりとて吹聴することもあるまい。
もっとも、その内心で何をどう思っているかはわからないところが、なんとも腹立たしく気分が悪いのだが。
「それに、本当に失態を晒したのかも……わからん」
記憶は確かに飛んでいるが、部屋に戻って布団に突っ伏したのは自分自身かもしれない。
人の場合も、ひどくしゃっきりとしているのに、寝て起きたらすっかり記憶を失っている酒飲みがいると知っている。
ひょっとしたら自分もそれかもしれない。いや、そうに違いない。
大包平は気を取り直すと、朝の身支度を整えた。
シワの寄ってしまった正装はどうにもならず、なんとも業腹だったが、顔を洗うついでに風呂場でざっと湯を浴びて頭と身体を洗えば、それだけで随分とすっきりした。
短い髪でよかったなと、わずかに湿り気を残しただけの頭で朝食の席に向かう。
この本丸では、朝だけは本丸にいる全振りでとるのだと、昨日鶯丸から聞いた。
昼は内番や出陣の兼ね合いで揃うことはないし、夜は夜で酒を飲みたい刀と、とにかく食べたい刀が入り交じるため、各自めいめい調達することになっているそうだ。
とはいえ、厨房には審神者が操る式神がいくらか詰めており、頼めば一通りのものは作ってもらえるらしい。
「おお、にぎやかだな」
大包平の歓迎をしてくれた広間には、長机が所狭しと並べられており、すでに何振かりの刀が朝食の膳を並べていた。
「おはよう。手伝うぞ、どうすればいい」
「あ、おはようございます、大包平さん!」
声をかけると、近くの脇差が振り向いた。確か堀川国広だったか。脇差らしい気さくさで、「お言葉に甘えさせてもらいます!」と、大包平に役を割り振る。
大包平は堀川の指示に従い、膳を机に手際よく並べていった。
白飯、香の物と味噌汁、筑前煮と鮭の粕漬けというメニューは、見るだにこちらの食欲を掻き立てる。
「朝ごはんは残り物や食材の端切れで作っているんですけど……なかなか豪華でしょう?」
顔に出ていたのか、堀川がにこやかに言ってきた。
「残り食材でこれだけのものを用意しているのか?大したものだ」
「昼や夜はめいめいが好きなものを注文するので、どうしても食材に偏りが出てきちゃうんですよね。日によるとお膳でおかずが違ったりしますから、大包平さんも気を付けておくといいですよ」
好物を食べ逃すと悲しいですからねと堀川は快活に言い残し、準備の続きに取り掛かる。
そうこうする内に、刀たちが一堂に会する。自分もそろそろ席につくかと思って見回すと、三日月宗近の姿が見えた。
近くに行って昨夜のことを聞こうかとも思ったが、付近に小狐丸や数珠丸の姿を認めて大包平は止まった。
とはいえ、何もなかった顔ができるほど狡猾な刀ではない。
三日月の姿が視界に収まる場所に腰を下ろし、あちらの挙動を見守りつつ朝食を摂った。
幸か不幸か、三日月はゆったりとした箸運びで食事を進め、大包平は特に焦ることもなく食事を終わらせた。
人間たちが食事を楽しんでいる姿はずっと見てきたが、実際に人の身をもって経験してみると、なるほどと思う。
心身が共に満たされる感覚は心地よく、特にこの戦下にあって、この愉しさは心の癒しとなるだろう。
しかしこの感覚、自分は既に知っているような気がするなと、大包平は膳を下げながら首を傾げた。
昨夜の食事も美味であったが、急ぎの支度であったために簡素なものだった。
思い起こすと、三日月の部屋で見目麗しい酒菜の数々を見せられた気がする。であれば、この実感はそこで感じたものか。
そう思うと、三日月は大包平に気を遣ってくれたのだなと思うし、それを十全に覚えていないことに対して、なんとも申し訳ないという気持ちになった。
「その……すまん。少し時間をもらえるか」
何振かの刀と共に広間を後にしようとする三日月に、大包平はやや居心地の悪い思いで声をかけた。
三日月はこれを予想していたようで、特に驚くこともなく「構わん」と答える。
連れ立っていた刀を先に行かせ、三日月は「よければ少し歩こう」と言って、近くにあった草履を引っ掛けて庭に降りた。
「俺は足袋じゃないんだが……」
「ここにつっかけがある」
三日月はそう言うと、軒下からひょいっと履き物を出した。
「ここの本丸は外に出ないと移動できないことも多いからな。靴を持ち歩くわけにもいかないし、履き物はあちこちに置いてある」
足りていない場所があったら、適宜用意してくれると助かると言い、共用の履き物が置いてある場所を教えてくれた。
そこからいくらか足を伸ばすと、草木の間に花々が咲き乱れる区画に出た。
「ここは西洋風なんだな」
「こうした花を好む刀もいるからな」
刀剣たちは自身が美術品であることもあって、美しいものをそのままに愛でる傾向にあった。
細々とした手入れまでしたがる刀はそう多くはなかったが、気まぐれに花の苗を植えたりなどする中で、自然とこうした庭が出来上がったらしい。
「だからこんなに豪勢なのか」
「自然と株が増えていってな。初めは寂しいばかりだったが、今は短刀たちの良い遊び場になっている」
確かに、ここで走り回れば気持ち良いだろう。咲く花は特に決まり事などなく好き好きで、それがかえって一定の秩序を持っているように見えた。
「季節の移ろいがそうさせているのだろう。命とは不思議なもので、まるきり見ないものと思っていた花が、季節になるとちゃんと芽吹いて花を咲かせる……」
足元に咲く花を眺めながら三日月が言う。
その実感が大包平にはまだ十分に理解できないが、ここで日々を重ねていけば、いつか感じられる日もくるのだろうか。
そんなことをぼんやり考えていると、三日月の方から水を向けられた。
「それはそうと……俺に何か言いたいことでもあったのではないか?」
「あ、ああ……言いたいことというか、なんというか……」
大包平は言い淀み、どう言葉にしたものかと目を泳がせた。
「言いづらいか。まぁそうだな……」
「え?」
そんな大包平を見て三日月がつぶやいた言葉に、大包平は動きを止めた。
「酔った上でのこと、酒の席でのこと。俺も忘れるから、お前も気にする必要は……」
「待て、待ってくれ。俺は何か……とんでもない粗相をしたのか?」
「……うん?」
続いた三日月の発言に仰天した大包平が慌てて聞くと、今度は三日月が動きを止めた。
空気がぴりりと鋭くなった気がする。失言でもしたのかと大包平が息をつめると、三日月の目が真っ直ぐに大包平を射抜いた。
「……よもや、覚えていないと…?」
特に変わりのない、落ち着いた声だった。しかしその奥に、静かな剣呑があるように感じる。
「す、すまん……。お前の部屋に行ったことと、酒と酒菜を振る舞われて……めっぽう美味かったことは覚えているんだが、それ以外の記憶が曖昧で……。何か粗相でもしたのではと、お前に確かめたかったんだが」
これは本当に何かしでかしたのだろうか。大包平が冷や汗をかきながら顔を白くすると、三日月はふと目を伏せて、数呼吸、何か考え込んでいる素振りをした。
「いや……さしたることではない。気にするな」
「そう言われると余計に気になるのだが……」
「……酔い潰れた大包平を、俺が抱えて部屋まで運んだだけさ」
「なッ…!」
それは十分すぎる失態だ。
酔い潰れただけでも恥で顔が燃えそうなのに、あろうことかこの刀に抱えられて運ばれたなど。
「ほ、他の刀には…!」
「見られていない。安心しろ。だから俺とお前が忘れたら、何もなかったことになる」
「そうか……」
胸を撫で下ろす大包平に、三日月はふわりと微笑んだ。
「だからこの話はこれでしまいだ。いいな」
「ああ、わかった。感謝する」
三日月に対してこのような言葉を言うことも、大包平にとってはいけすかないことではあるが、失態を晒した自分を不問とし、しかも水に流してくれたことには感謝しなくてはいけない。
胸のつかえがとれた大包平は、晴れ晴れとした顔で庭園を後にした。
その後、爽やかな気持ちのまま鍛錬場に向かった大包平は三日月と再会し、早速手合わせという運びになったのだが。
三日月によって大包平は、信じられないくらいボコボコにされた。
*
「珍しいですね、三日月殿があのような」
「……そうか」
小狐丸の言葉にそう返しはしたが、自分が大人気ないことをしていることはわかっている。
大人気ない、などと言えば、あの刀はますます腹を立てるのだろうが。
「確かに大包平殿は特に三日月殿を好敵手とみなしているようではありますが……それにしても、三日月殿もそれにあんなにも率直に応じるとは」
「率直、か」
そうであれば、まだよかったかもしれない。三日月は、今日の手合わせを思い返した。
大包平との手合わせは、かれこれ二十を超えた。
天下五剣は他にも数珠丸と大典太光世がいるが、大包平は最初に自分をこてんぱんにした三日月のことがどうしようもなく気になるようだった。
頻繁に申し込まれる手合わせだが、任務に支障がなければ断ることなく毎回受けて立っている。
時には三日月の方から申し込むこともあり、最近は日々の恒例行事のようになっている。
星はいつも三日月が取り、大包平が勝てた試しは未だ一度もない。
それどころか、大包平は三日月によって何度か手入れ部屋送りになっている。
平素は相手の能力を引き出すように立ち回る三日月だが、どういうわけか大包平に対してはそうした気遣いが一切ない。
もっとも、そのような手合わせをされたら大包平は怒るのだろうが、それにしてもそこまでやらなくても、と他の刀が思うくらい、三日月は大包平を毎度完膚なきまでに叩きのめしている。
しかもその上で、「俺の負けでもいいのだが……」とくる。
プライドの高い大包平が、これを受け流せるわけがない。
必定、頭に血の登った大包平が再戦を申し込むのだが、その度に三日月はきっちりしっかり叩きのめす。
そしてにっこり笑って言うのだ。
「まだまだだな」
確かに大包平はまだまだではある。出陣経験もまだ浅く、いかんせん経験がともなっていない。しかし、決して弱いわけではない。
もともと体格には恵まれているし、自己研鑽を怠ることもない。
他の刀たちと比べても目を見張る早さで成長をしているし、それは既に出陣先で遺憾無く発揮されている。
それなのに、三日月相手だとまるでいけない。
妙に力が入っているせいもあるのだろう。あるいは、今まで受けた屈辱のせいかもしれない。
本来の力を全く発揮できないまま、三日月の見事な剣技に翻弄され、気が付けば床に転がされている。
無様な己に大包平は明らかに苛立っているが、しかしなにせ相手はあの三日月だ。
大包平が何を吠えようがのらりくらりと受け流し……余計な一言を毎回ちくりと残していく。
「三日月殿らしくない物言いです。いつもは気にもかけますまいに、毎度ご丁寧に棘を含ませておいでだ」
「……そうかもしれないな」
刀剣とは言え、とりたてて争い事を好むわけではない。が、そうはいっても、出陣先や本丸内で、衝突が起こったことは一度や二度ではない。
そのたびに三日月はうまくその場をまとめ、落とし所を見つけてきた。
相手が大包平でなければ、確かに多少の嫌味も不遜も軽やかに受け流していただろう。
だが、それができない。
原因はしっかりわかっていた。
大包平が励起したその日の夜。こちらを好き放題しておきながらその全てを忘れていた大包平に対して、三日月はしっかりと腹を立てているのだ。
男同士なのだし、口付けくらい気にするなと自分に言い聞かせているが、どうにもうまくいかないのだ。
思い返すだに腹が立つ。
自分に手合わせを申し込んでくる男の、罪の一つも知らないと言う爽やかな顔を見るたび、お前は俺に酷いことをしたんだぞと言いたくなる。
言ったところで、何がどうするわけでもないのだが。
苦み走った顔をする三日月に、しかし小狐丸はにこりと笑った。
「私からすると、大包平殿がうらやましいですが」
「うらやましい?」
小狐丸の言葉に、三日月は小首を傾げた。
「大包平殿にいけずをしている時の三日月殿は、少し楽しそうです。もちろん貴方は、いつも機嫌が良く楽しそうではあるのですが……」
お行儀の悪い子供のような顔をしていますと、小狐丸が目を湾曲させて言う。
「そうか…?」
「ええ、そうですとも。いつもは上手に隠し通している部分を、大包平殿には見せている……私には、そんなふうに見えます」
「それは……どうだろうか」
自分が大包平に対して少々意地の悪い気持ちを抱えていることは自覚している。しかし、まさかそれをこんなふうに表されるとは思ってもいなかった。
いぶかしがる三日月を見て、小狐丸は微笑んだ。
「お気になさらず。ただ私はそう感じたというだけですから…」
「うむ……」
小狐丸の考えはいまいちよく理解できなかったが、とりあえず自分が大包平を嫌っているとは思われていないようでようで安堵した。
本丸に不和を生むのは本意ではないし、そもそも別に大包平のことを嫌っているわけではない。
むしろ、刀でいる時から素晴らしい存在だと思っていたし、同じ場所にいるよしみも感じている。
「まぁ……やりすぎないように心がけよう」
「そうですね。大包平殿は素直な方ですから」
小狐丸はまた、狐の目でにこりと笑った。
*
「くそ…!忌々しい!」
大包平は荒れていた。
三日月になかなか手合わせで勝てないことだけではない。いや、それもかなり忌々しいことではあるのだが、負けるたびにいらない一言がついてくることが許しがたい。
負けは己の力不足であるから、不本意ではあるが良い学びの場でもある。
三日月は確かに滅法強かったし、腹が立つことに大包平の弱いところを実に的確についてくる。
そのたびに地団駄を踏みたくなるのだが、その弱みを克服すると、いままで勝ちの取れなかった仲間から星を取れるようになった。
つまり、そういうことだ。
早くそんな余裕を三日月からはぎ取りたいと思いつつ、その出鼻を毎回その本人にくじかれる。
「俺の負けでもいいのだが……」
「まだまだだな」
「少しはましになった」
「この程度か」
「良い運動になった」
思い返すだに毛が逆立つ。
励起した初日には酒を馳走してくれたり、その後の大包平の泥酔を水に流してくれたりと、なかなかの人格をしていると思っていたのに。
「化けの皮をはがしたか……あのクソジジイ……」
あののらりくらりとした態度も気に食わない。言いたいことがあるならあんな嫌味な言い方ではなく率直に述べればいい。
なにが負けてもいいだ、戦場での負けは死に直結する。
ましてや失敗を許されぬ任務を自分たちは負っているのだ。例え手合わせといえど、そんな生半な気持ちで挑むべきではない。
そう考えながら、大包平は馬の世話に向かっていた。
本当は今日も鍛錬場にこもりたかったのだが、当番に任じられているからには、やるべきことはせねばならない。
それに、馬は好きだ。
馬は嘘をつかない。賢いがゆえに選り好みはするが、大包平は割合に好かれる方であったので、馬当番は愉快ですらあった。
だが。
「遅かったな」
馬小屋の前に立つ刀を見て、大包平は盛大に顔をしかめた。三日月宗近だった。
三日月はふざけたじじくさい格好をしたまま、小屋から顔を突き出している小雲雀の頭を撫でていた。
三日月も馬に好かれるたちではあったが、特にこの小雲雀は三日月によく懐いている。
心地よさそうな顔をしている実に馬は愛らしいのだが。
「……先に来ていたなら、掃除の一つもしておけ!」
「勝手にやると、細かい仕事が好きなお前のお気に召さないかもしれないと思ってな」
顔はにこやかだが、やはりどこか棘がある。
それなのに、じろりと睨めば素知らぬふりをされた。
大包平の眉が吊り上がる。
「貴様……またそんな減らず口を叩いて……」
毛を逆立たせながら、大包平は馬小屋の掃除の準備に取り掛かった。取り掛かったが、ふと胸にいたずら心が湧く。
言われてばかりは癪だと思ったし、ここまでちくちくされたのなら、少しはやり返してもいいだろうとも思った。
「お前という奴は、毎回こうも俺に突っかかって……」
考えがまとまるよりも先に言葉がまろび出た。
さて、どう言えば三日月は動揺するだろうか。さくりと痛いところをつけるだろうか。
嫌味や怒りをそのまま口にしたところで、この刀は適当にかわすに決まっている。それならば。
「そんなに俺に構われたいか。俺のことが……そんなに好きか、三日月宗近!」
どうだ、腹が立つだろうと、大包平は得意げに三日月の方を向く。
しかしこちらを見ていた三日月の顔を見て、大包平は動きを止めた。
「……そうだな、そうかもしれん」
三日月は口角を上げてそう言った。
たったの一言。棘も嫌味も含まぬ一言。
ただそれだけど良い置いて、三日月はくるりと大包平に背を向けた。そのまま馬房に備え付けられた飼桶を手にすると、洗い場へと立ち去っていく。
その背中に大包平は何度か声をかけようとしたが、言葉を選ぶうちに三日月は馬小屋から出ていってしまった。
「――――クソ…!」
頭をぐしゃぐしゃとかいた大包平は、諦めたように首を振ると、まだ馬房から出していない馬たちを、順番に外へと出していった。
その後、二振は必要最低限の言葉だけを交わして馬小屋の掃除を終わらせた。
午前中にすべきことを終えた大包平は、汗を流してから自室へと戻った。いつもであれば、そのまま鍛錬場へと向かうのだが。
気まずい。
もしも行った先に三日月がいたらと思うと、部屋から出る気になれなかった。
「なんなんだ、あの顔は……」
自分が言った言葉が、そう趣味の良いものではないことくらい、自覚している。
むしろ、それを自覚していたからこそ言い放った。
「アイツだって、相当に腹立つことを言ってきたくせに……」
だから同じことをしていいのか、と言われると、倫理観に照らし合わせればそれは否である。
しかし、言われっぱなしは大包平にとって不服極まりないものだったし、己の正義感のためにひたすら我慢だけを重ねるのは愚かしいとも思う。
「そもそも、自分が言われてあんな顔を……あんな顔をするなんて、ずるいぞ……三日月宗近……」
言い訳を重ねても、大包平の表情は晴れない。言葉と心が裏腹であることは明らかだった。
「……傷付いたのかな」
頭の片隅にあった思いを口に出してみると、急に罪悪感が込み上げてくる。
あんな顔をする刀だなんて、考えたこともなかった。
ここに来て日は浅いが、万事こだわることなく水のように受け流すのが三日月だと思っていた。
だからこそ、相当な趣味の悪さでないと歯牙にも掛けないだろうと思ったのだ。
「別に……本心で言ったわけではないことくらい……ああ、クソ…!」
何を言っても言い訳にしかならない。潔くないのは、大包平にとって最も憎むべきことの一つだった。
では謝りに行くのか。
なんと言って?
傷つけて悪かった、無神経なことを言った。
別に本当にお前のことが嫌いなわけではないし、お前がおかしな意味合いで自分に突っかかっているわけではないことくらい、承知している。
いやいや、言えるものか。
ただでさえこちらはいつもやり込められているのだ。それを自分ばかりが謝るというのは納得がいかない。
「だが……まぁ、うむ……」
俺は傷付いてはいないしなと、大包平は自分の顎を揉んだ。
三日月からの嫌味は腹が立ちはするが、大包平個人をとりたてて貶めるものではない。
余計な一言、言わなくてもいい一言。だが多くは事実であり、大包平が向き合わなくてはいけないことでもあった。
つまりは、図星なのである。
図星だから、言われると腹が立つ。それは半ば子供の癇癪にも似ている。
であれば、やはり分が悪いのはこちらだ。
「……何をさっきから不景気なため息をついているんですか」
部屋にいても腐るばかりだと、とりあえず回廊をうろうろしていた大包平は、背後から不意に声をかけられた。
「……宗三左文字か」
「また三日月宗近にいじめられでもしたんですか?懲りないですね、あなたも」
どうせ原因は大包平だろうとでも言いたげな口調だった。
大包平と三日月の間に起こった先ほどの出来事を知っているわけではあるまいが、あまりにも間が良すぎた。
常であればさして気にもかけず、軽口のひとつやふたつを返していた大包平だが、瞬間的に頭に血が上った。
その激情のまま、つい言葉が口をつく。
「貴様も三日月宗近の味方ということかッ」
思いがけず強い口調で返された宗三は、おや、と言いたげに目をわずかに見開いた。
宗三は顎に手をやり、大包平を値踏みするような目線をしばし寄越す。
なんとも無礼千万なことかと、大包平がますます血をたぎらせた時だった。
「――――貴方、つまらない男ですね」
宗三は柔らかな声音でそう言い放つと、物言いと同様のふわふわとした足取りで大包平の横を通り過ぎていった。
あまりの言いように大包平は唖然とし、言葉の咀嚼に数秒を要する。
咀嚼し切った時には手はわなわなと震え、こめかみには血管が浮き上がるほどだった。
とはいえ、追いかけてぶん殴るわけにもいかない。そんなことをしては自分の格が下がる。第一、怒りを解消するための暴力は、大包平の矜持が許さない。
それでも込み上げてくる感情は思うようにならず、ただ一声、大包平は獣のような猛り声を上げた。
回廊の天井をわななかせるほどの声を響かせた後、大包平はまっしぐらに畑へと駆け出していった。
なぜ畑か。
理由はいくつかあるが、一つは、ここであれば三日月宗近は絶対に来ないからだった。
どういうわけか、あの刀は畑仕事を好んでいないようだった。当番のときでさえ渋々といった様子がありありとしており、用もないのに来ることはない。
もう一つの理由は、大包平は畑仕事が嫌いではないからだった。
無心に手を動かす作業は得意だった。無心といったが、実際には無心ではない。
作業の効率的な手順や、野菜の様子や土の状態など、考えることは山のようにある。
山のようにあるが、手元は単純な作業を積み上げていくだけで、ほどよく集中ができて雑念が消える。
大包平は農耕具の入っている小屋を勢いよく開けると、道具を一通り外に出し、それらの手入れを猛烈な勢いで始めた。
泥汚れが十分に取れていないものは洗って乾かし、壊れているものは修繕し、置き場所が誤っているものは所定の場所に戻す。
言うは安いが、実際にやるとかなりの手間だ。
その手間のかかる作業を、大包平は黙々と一人でこなしていく。
途中一度、今日の畑当番に任じられていた小竜景光と物吉貞宗がやってきて、謝意を示すとともに必要な道具をいくつか持っていった。
それ以外には大包平に話しかけてくる刀はおらず、遠くに鳥の鳴き声を聞きながら、大包平はただひたすらに手を動かしていった。
落ち着く。
心地よい疲労を感じ始めたあたりで手を止めると、すでに昼を回っていた。
日の傾きを目で確かめた途端、現金なもので腹がぐうと鳴る。
そろそろ何か食べないと、今度は夕飯が入らなくなるなと、大包平は農工具を片付けて厨房に向かった。
メニューにあった五目中華丼を食べながら、大包平はようやく落ち着いた心持ちで今日のできごとを思い返した。
宗三への怒りも、三日月へのいたたまれない気持ちも、いまはもう鎮まっている。
まず、宗三の指摘は正しいと思った。
図星を指されて腹を立てた上に、敵か味方かという二元的な物言いで宗三を断じた。
むしろ無礼だったのは自分だろう。宗三があの程度の嫌味で留めてくれたのは、あの刀らしい手打ちだと思った。
「まぁ……反論はしたいが」
自分はつまらない男などではないと言いたい。
しかし、そう言いたいのであれば、指された図星、つまり三日月宗近との関係性の悪さを解消しなくてはなるまい。
「悪い……悪いのか?いや……まぁ、良くはないか……」
仲良しこよしでないことは確かだ。だが、少なくとも大包平が今日、余計なことを言うまでは、決してそう悪いものではなかった。
あれこれ言い合っているし、喧嘩のふっかけあいのようになっている自覚はある。
だが言うなれば猫と猫のじゃれあいのようなもので、爪は出すし牙も剥くが、決して本気で相手を傷つけようとしているものではない。
そう。三日月宗近を傷付けようと、本気で思っていたわけではないのだ。
「だがあれは……傷付いていた」
本人が認めるかどうかはわからないが、あの時、三日月は確かに傷付いていた。
あんな顔をされるなんて、思ってもいなかった。
お前は俺を好きなんだろうと揶揄したことが、どういうわけかわからないが、三日月にとってはひどく悲しいことのだったようだ。
悲しむ理由は何度考えてもよくわからないのだが、少なくとも、三日月を本当に傷付けてしまったことは確かだ。
「その事実については……やはり、謝るべきだろう」
三日月がきっかけを作ったにせよ、踏み越えてはいけない一線を踏み越えたのは自分の方だ。
そう結論づけた大包平は、丼の中の最後の一口を平らげた。
広間にはもうほとんど刀の姿はない。三日月はどこに行っただろうか。夕方の馬の世話が始まる前に、ことの決着をつけたい。
大包平は、三日月を探すために立ち上がった。
*
探していない時は会いたくなくてもばったり出会うというのに、探すとなると出会わない。
本丸の規模そのものが大きい上に、建物の中も外も広大であるから当然なのだが、大包平はひたすらに三日月を探して歩き回る羽目になった。
出会う刀、出会う刀に情報を求め、ようやく敷地のはずれにある沼地に辿り着く。
「やっと見つけた……」
方々を歩き回った大包平が思わずつぶやく。広い沼のほとり、三日月は何本かの菖蒲の花を抱えていた。
朝の当番が終わった後、着替えたのだろう。正装の青い狩衣には防具はつけられていない。それでも太刀は下げられているから、いつでも戦いに出るつもりはあるらしい。
そういうところは、好ましいと思っているのだが。
ぼんやりと考えていると、三日月がこちらに気がついて目を向けた。
菖蒲の茂る濃い緑。沼の深い暗色。遠くの杉林を背景にして、三日月の青藍の狩衣はいやに鮮やかだった。
なによりその美しいかんばせは、確かに天下五剣の中で最も美しいと言われるのに相応しい造形だった。
自分のことを大層美しいと思っている大包平だが、三日月には全く別種の美しさがある。
つるりとした卵型の輪郭。黒い髪は淡い青を含んでおり、風に煽られさらりと揺らぐ。頬に落ちた一房の髪先と、それと対を成す金色の房飾りは、素晴らしい均衡を保ち、ゆったりとした衣服はどこか天人を思わせた。
眉は凛々しい太さだが、大包平のそれとは異なり柔らかな印象で、長く影を落とすまつげと相まって、性別を超越した美を醸し出す。
三日月はその極めて整った顔のまま、ことりとわずかに首をかしげた。
頬に触れた髪がわずかに揺れる様を見て、大包平は急におかしな感情に支配される。
今すぐにでも飛んで行きたいような、このまま逃げ出してしまいたいような。
急に動きをぎこちなくした大包平は、二、三歩進んだかと思えば俯いて戻ってしまい、いやいや、何をしにここに来たんだと己を奮い立たせて三日月の方に向き直った。
三日月は、もうすぐ目の前に来ていた。
気配もなく近づいていた三日月に驚愕し固まっていると、花を持っていない方の手を伸ばされた。
黒い籠手に覆われた手が、大包平の腕にそっと添えられる。
「大包平」
優しい声音だった。
そんな声で呼ばれると思っていなかった大包平の視界に、夜明けの空のような色がいっぱいに広がる。
それが三日月の目だとわかったと同時に、なにかひどく柔らかいものが唇に触れた。
それはわずか一瞬で、触れたと思った矢先に離れていく。
「――――これであいこだ」
告げられた言葉につい顔を上げると、三日月はにんまりと口角を上げていた。
「俺よりも……お前の方が、よほど好きではないか」
からかうように言って、三日月は大包平に背を向け立ち去ろうとする。
不思議と、腹は立たなかった。
三日月がどこか嬉しそうだったからかもしれない。
あるいは、不意に与えられた口付けが心地よかったからかもしれない。
ただ、気が付くと三日月の腕を掴んでいた。
まさかそんなことをされるとは思っていなかったのか、三日月の目がゆっくりと大きく見開かれる。
そんなに大きく開くことがあるのかと思いながら、大包平は腕を伸ばして三日月を抱きとめていた。
二振の間で、菖蒲の花がくしゃりと押し潰される。
可哀想なことをしていると思いながら、大包平は動きを止めることはなかった。
そのまま三日月を抱き込むと、大包平は桜色の実に美味そうな肉にかぶりついていた。
先ほど触れた通りに柔らかい。
暖かくて、ほんのりと甘い気がする。
べろりと舌でなぞればそこは自然と解け、大包平は導かれるように舌を差し込んだ。
口の中はぬめりながら熱く、とろりと思考が溶けるような心持ちがした。
この味を、自分は知っている。
この感触も、この温度も。
いつか、どこかで味わった。ひどく気持ちがよくて、心満たされる味。
記憶を辿るように、大包平はじっくり目の前の柔らかいものを貪った。
いよいよ息が苦しくなったあたりで、惜しむように顔を離すと、目の前の三日月の頬は鮮やかに染まっていた。
上気した顔の華やかな色香に、大包平は一瞬息を呑む。
「……ひどい男だ、お前は」
三日月はそう言って、大包平の胸板をどんと突き飛ばし、踵を返して去っていく。
はっとした大包平が離れていく三日月に手を伸ばすと、三日月は一度だけくるりとこちらを振り向いた。
その顔は、意外にも晴れやかだった。
「大馬鹿者め」
どこか愉快そうに、更に言うなら機嫌良さそうに言い残して、三日月は菖蒲の花を抱いたまま屋敷に向かって颯爽と歩いて行ってしまった。
その背中を追いかけようと大包平は何度か足を踏み出したが、逡巡した後、結局やめてしまう。
追いかけてどうするのか、自分でもよくわからなかった。
いや、どうするのかはわかっている気がする。今追いかけて行ったら、自分はきっともう一度三日月に口付けをしてしまうだろう。
そうだ、あれは口付けだ。
本来であれば愛し合うもの同士で行うべきことを、三日月は自分にしたし、自分は三日月にやり返した。
どうしてそんなことをと思うのだが、困惑よりもむしろ心地よかった感覚の方が色濃く記憶に刻まれている。
自分はきっと、またしてしまうのだろうな。大包平はふと、そんなことを思った。
そしてきっと三日月も、自分の口付けを拒むことはないだろう。
根拠のない感慨を抱きながら、大包平は夕方の馬当番のために、屋敷に向かって歩き出した。
*
それから何か変わったことがあったかといえば、特に何も変わっていない。
三日月は相変わらず手合わせで大包平をボコボコにしてくる。
しかし最近は、ボコボコになるまでに随分と時間がかかるようになった。
三日月の手の内は実に多彩であるため読むのは難しく、しかし大包平の成長に伴い、力負けすることはもちろん、不意打ちによる敗北もほとんどなくなった。
今までは汗一つかかず大包平を床に沈めていた三日月も、最近は額に汗を滲ませるようになっている。
それどころか、先日は肩で息をさせることに成功した。自分の成長を噛み締めると共に、いつか自分が三日月を床に沈めてやるのだと、大包平は心の中で息巻いた。
今日も、二振は元気に鍛錬場で木刀を交えていた。
乾いた木の音が時に高らかに、時に小刻みに道場に響く。
大包平が動くたびに髪の先、顎の先から汗が飛び、三日月もまた、じんわりと額や鼻先に汗を滲ませていた。
三日月の動きには無駄がなく、最低限の動きで大包平からの攻撃を避けている。
その隙間にえぐるような剣戟を繰り出し、大包平の動きを封じてくる。
しかし大包平も大したもので、三日月の剣戟を巧みに避けながら、いささか大振りな動きではあるが堅実に反撃を仕掛けてくる。
それでも、わずかな動きの無駄が体力を奪う。じわじわと動きを鈍くする大包平の腕を三日月の木刀が叩き、そのまま止めを差すように胴に三発、なかなか重い打撃が打ち込まれた。
「うッ……ぐぅ…!」
思わず大包平が膝を突く。聞こえた音はかなりのもので、大丈夫だろうかと他の刀剣たちが心配を顔に浮かべた。
「お……のれぇ…!」
しかし続いた恨み言に、どうやら大丈夫そうだと安堵の表情になる。
「クソ……あと少しで…!」
「はは、思い上がるな」
三日月は相変わらず辛辣だ。
飄々とした態度を崩さないまま、三日月は大包平を置いて手にした木刀を戻しに行く。
大包平の分を片付けてやる、などという親切は一度たりとて見せたことがない。
自分がいつか三日月に勝ったら、その時は無様を笑わず実に紳士的な態度で木刀を返しに行ってやろうと、大包平は心に誓う。
「今日はこれでしまいだ。楽しかったぞ、大包平」
三日月は涼しげな顔でこう言い残し、鍛錬場を去った。
しばらく膝を突いて肩で息をしていた大包平は、やおら唸り声を上げると立ち上がった。
「失礼する!」
木刀を戻し、大きな声で言って一礼した大包平は、そのまま大股でずんずんと回廊を歩いていく。
行き先は風呂場だ。
ここは全員が利用できる大浴場と、個々で使用する小ぢんまりとした浴室が何箇所か用意されている。個別の風呂は居住用の家屋にしつらえられており、ここからは大浴場が近い。
とにかく汗みずくで気持ちが悪い。汗を流さないことには何もできんと、大包平は大浴場へと向かう。
タオルも洗面具も行けば用意されているので、手ぶらで行けるのが大浴場のいいところだ。
そして角を曲がると、見覚えのある背中が見えた。三日月だった。
そんな気はしていた。この刀は、特に用件がない時は実にゆっくりと歩く。いつも大股で闊歩している自分であれば、造作もなく追いつくと思っていた。
焦るつもりはないが、足はより早く前後して、大包平はあっという間に三日月の隣に立った。
「おお」
早いな、と同じく手ぶらの三日月は笑う。ちょうど、大浴場に向けて曲がる角だった。大包平の背後に他に刀はなく、曲がった先にもいなかった。
大包平は不意に三日月の肩を掴むと、曲がった先の壁に三日月を押し付けた。
狩衣がひるがえり、三日月はあっけなく壁を背にする。その顎先に指をかけて持ち上げると、三日月は素直に顔を上げた。
唇が重なる。
柔らかく、どこか甘く。鼻先には汗の匂いが漂う。
大包平は当然のように舌をねじ込むが、三日月はそれを面白半分に甘噛みするだけで抵抗しない。
あの日、沼のほとりで口付けを交わして以降、ふとした折に二振はこうして唇を重ねていた。
別に恋人同士というわけでもなく、さりとてこれの意味を知らないわけでもない。
しかしまるで麻薬のようにこの行為は大包平の心身をむしばんでいて、生真面目を通り越して堅苦しいとまで言われる大包平の倫理観も蹴散らかす。
顔を合わせなければ平気でいられるが、目を見交わして刀を交わせば、このえも言われぬ甘美な味が胎の底から蘇ってくる。
何より、鍛錬場ではやすはすと大包平の手をひねってくる三日月が、この時ばかりは信じられないくらい従順なのだ。
それどころか、三回に一回は三日月の方から仕掛けてくる。
三日月の舌は短いから、向こうからの口付けはいつも触れるばかりで、そのくせ誘うように肉厚な大包平の唇に噛みついてみたり、ちろちろと舌先で触れてきたりする。
仕方のないやつだと応えてやると、三日月はいつも満足そうに吐息を漏らす。
そのなまめかしい息の震えに、口付けの麻薬はより一層大包平の身に深く刻まれる。
どうかしている。そう思いながら、大包平は三日月の唇を夢中で吸った。
これが終わるのはいつも、息継ぎもろくにできなくなったあたりか、あるいは他の刀の気配がした時だった。
今回は前者だった。
どちらともなく顔を離し、乱れた呼吸で深々と息を吸って吐く。
それからまたどちらともなく身を離すと、浴場に向かって再び歩き出した。
大包平の方が数歩早い。ただ歩くのが早いだけではなく、三日月とこのまま並んで歩くことが気恥ずかしかった。どういう顔をすればいいのかわからない。
だが今日に限ってふと、では三日月はどういう顔をしているのだろうと気になった。
いつもは気恥ずかしさに任せてさっさと立ち去ってしまうのだが、今日は行く先も同じことだしと、三日月に気取られないようにさりげなく後方に目線をやった。
三日月は、頬を染めながら嬉しそうに口元を指でなぞっていた。
まつげを伏せて、目線は横に流れ、大包平に見られているとは気が付いていない。
いつもの小生意気で腹の立つ顔とはまるで違う、桜がほころぶような笑みに、大包平は一瞬で目を奪われる。
奪われるや、全身の血が沸騰するような思いに襲われた。
顔面が絵の具をぶちまけたように赤くなり、呼吸するのも忘れて全身をごうごうと巡る血流の熱さにめまいすら覚える。
それは時間にして一秒もなかっただろう。自分の異常を自覚した大包平は、走り出す勢いで三日月を置いて大浴場へと向かった。
いつもは大柄なわりに足音を立てることのない大包平だが、品なくどすどすと音を立ててしまう。
身につけていた防具を乱暴に外して床に落とし、脱いだ服は脱衣所のカゴに乱雑に突っ込んだ。
いつもであれば、シワを嫌って丁寧にたたむのだが、今はそんな余裕がなかった。
とにかく早々に全裸になって、風呂場でざっと湯を浴びる。いつもは頭も体も綺麗に洗うのだが、とにかく湯で流してしまいにする。
早くしないと、三日月が来てしまう。
目的地は大包平がいるここなのだから結局どこかで鉢合わせはするのだが、その時間を少しでも短くしたいし、ましてや風呂場で顔を合わせたくない。
なぜ。
脳裏に浮かぶ疑問の答えは、追求しなかった。無理くり気が付かないふりをして、大包平はものの数分で風呂を出る。
脱衣所に出ると、さすがにもう三日月は到着していて、狩衣を脱いで更には単衣の前もはだけているところだった。
籠手や首周りの装飾はそのままに、ばさりと開いた布の隙間から薄い胸板が見える。
うっすらと骨すら浮いて見える肢体は、大包平に比べると随分軟弱な造りではあるが、さすがというべきかどうか、しなやかで優美な線を描いており、匂い立つような色香を漂わせている。
大包平は一瞬にして茹で上がり、タオルをひっかぶると慌てた様子で三日月の単衣の前を合わせた。
「服を着ろ!」
「は?」
咄嗟に出た一言に、三日月が極めて珍しくあまり行儀の良くない声を出す。
「いや、俺も風呂に入りに来たんだが……」
言い返す余地のない正論である。だが大包平は返答することなく、大急ぎで頭と身体を拭くと、乱雑に衣服を身につけた。
いつも几帳面なくらいに姿を整える大包平らしからぬ行動に、三日月はぽかんと呆気にとられている。
「失礼する!」
うわずった声で言うと、大包平は逃げ出すように風呂場を後にした。
転がるように自室に戻った大包平は、激しい動悸に目を白黒させる。これが走って帰ってきた故だけではないことくらい、誰に言われるでもなくわかっていた。
「なん……な、なん……」
心臓が跳ね飛び狂い、赤面した顔に汗がにじむ。
脳裏をかすめるのは単衣姿の三日月の裸体で、薄い胸板を不調法に両断する黒い皮のベルトのなまめかしさも、ぽつんとならんだ控えめな乳首も、恐ろしいほど克明に浮かんでくれる。
だめだ、だめだと首を振るが、頭の中の三日月は事実とは異なる妖艶な笑みを浮かべ、脱がすか?とでも言いたげに単衣の裾を摘んで持ち上げてみせた。
「くそーッ!」
こんな状態でいいわけがない。かくなる上はと、大包平は瞬く間に内番服に着替えると、畑に向かって駆け出した。
*
数日後。
惑乱の極みにいた大包平だが、さりとてこのままでいいわけではないことくらい、とうに承知をしていた。
二、三日は三日月を避け、任務の合間はとにかく畑にこもって黙々と作業を重ねていた。
そうしているうちに、多少は気持ちも落ち着いてきたかと思えるようになった。
そして向かったのは、やはり鍛錬場だった。
三日月がいるかは確かめずに行ったが、運がいいのか悪いのか、三日月は既にそこにいて他の刀の指導を行なっていた。
大包平は大股で歩み寄ると、「手合わせを願いたい!」と申し出る。
「よいぞ」
三日月はいつもの調子で答えると、木刀を手にして手合わせの準備に入った。
間もなく二振りは向き合い、そして。
大包平は、信じられないくらいあっさりと三日月によって床に転がされた。
あまりにも早く、そしてあっけない顛末に、鍛錬場にいた他の刀たちも唖然としていた。
三日月すらも、ぽかんとながらどこかいぶかしげに大包平を見下ろしている。
しかし、一番仰天していたのは大包平だった。
「も、もう一度!」
そう言って立ちあがって再戦したが、今回も結果は変わりなかった。
このところの善戦がなんだったのかというくらい、大包平は簡単に負かされてしまう。
どういうことだと呆然としながら、「もう一戦だ!」と叫ぼうとすると、三日月がそれを無言のまま手で制した。
そして転がったままだった大包平の木刀を手に取ると、そのまま自分のものと一緒に片付ける。
「おい、三日月…!」
「大包平、ちょっと来い」
三日月は出口に足を向けながら、大包平を手招きした。
きっと無様に負けた自分に対して侮蔑の言葉ないしは顔を向けるだろうと思っていたのに、その態度は存外に平静だった。
焦りと恥で頭に血が昇っていた大包平だが、三日月の態度にふと覚めた。
そうだ、確かに自分は様子がおかしい。このまま戦いを重ねても意味がないし、ましてや出陣の命が下れば自分は愚か、隊員にも迷惑をかけるかもしれない。
大包平は「……わかった」と返すと立ち上がり、三日月の背中を追って鍛錬場を出た。
出しなに、出入り口近くに立っていた宗三がぽつりと、「……馬鹿な男ですね」とつぶやいたのが聞こえたが、大包平は聞こえない振りをした。ここでこの刀にかかずらっている暇はない。
行った先は、三日月の私室だった。
確かに、今回の話は他の誰かの耳に入れたくない。
だが以前はさして気にもせずに足を踏み入れられたそこに、大包平はどういうわけか一瞬躊躇してしまう。
「どうした?」
大包平の一抹のためらいを察知した三日月がわずかに眉を寄せた。
その顔は不審というよりむしろ気遣わしげで、三日月がどうやら自分の様子を真剣に案じてくれているのだということが伝わってきた。
その瞬間、どういうわけか憑き物が落ちたかのように、大包平の胸のつかえがすとんと消える。
「ああ、大丈夫だ」
その言葉通り、大包平は三日月の部屋に足を踏み入れる。
実は、最初の日の後も何度かここに来たことがある。一度はたまたま晩酌に酒と肴を下げた三日月に行き合った時、もう一度はあの戯れのような口付けをするため、部屋の前にいた三日月をもう一度部屋に押し込めて、ここで散々に三日月の口内を舐め回した。
その時を思い出すと、落ち着いた気持ちが再びざわつき始める。どうにか気持ちを押し込めて、三日月に促されるまま畳に座した。
「どうした、様子が随分とおかしかったが、どこか体調が悪かったりしないか?」
「いや……どうなのだろうか」
先ほどまで喉までつかえているような苦しさはなく、しかしこうして三日月と二振りで向き合うと、どうにも心臓が跳ねくり返る。
「ここ数日、俺のことを避けているようだったが、よもや俺が原因ではあるまいな?」
「それは……どうなのだろうか」
考え直してみなくても、自分がこうなったのはあの風呂場で三日月と行き合った時のこと。
自分の触れていた唇を愛おしげに触れていた三日月。その表情を思い出すと、抑えていたはずの感情が再び首をもたげ、自然と頬が赤く染まった。
「いや、無関係ではない。それはおそらく……確かだ」
渋々認めると、三日月は思案げに腕を組んだ。
「しかし……三日前は特にいつもと変わったことはなかったと思うが。いつも通りお前は俺に手合わせで負けて」
「うるさい」
「そのまま風呂場に向かって……ああ、そういえば、珍しく風呂場で焦っていたな。あの前は……」
記憶をたぐる三日月の顔を見ながら、嫌な展開になったと、大包平は拳を強く握った。
「廊下で口付けをしたが……それもいつものことではないか?」
「……そうだな」
今から考えてみると、なんであれをいつものこととして行えていたのかわからない。
目の前で小首を傾げる三日月を見れば見るほど、あの細い顎に手を添えて、かぶりつくように唇を……。
「おい、大丈夫か」
三日月が心配そうに大包平の膝を軽く叩いた。はっとすると、すぐ目の前に三日月の顔があった。
つい声を上げて飛び退ると、三日月は手を引いて顔を曇らせた。
「い、いやすまん、驚いただけだ! 別にお前にどうこうというわけではない!」
大包平は慌てて言い訳をした。それは単純に無礼な振る舞いへの謝罪だったのだが、三日月はまた、あの表情を顔に浮かべた。
かつて、馬小屋で見せた、あの表情。
傷付いたのか。
胸が、ぎゅっと引き絞られるような感覚がした。
咄嗟に手を伸ばして腕を掴むと、三日月は目を丸くする。
「その……いや、なんというか…!」
自分が先ほど口走った言葉を思い返す。
何が三日月を傷付けたのか。どの言葉がこの男の心を刺してしまったのか。
「驚いたのは突然触れられたからで、お前を嫌悪してのことではない。お前とどうこうというのは……どうこうと、いうのは……」
そこまで口にして、大包平は硬直してしまった。
どうこうというわけではない、というわけではない、とするべきだった。
では、自分は三日月に対してどうこうする感情やら理由やらがあるのか。
あるはずだ。自分の様子がおかしくなったのは、三日月の表情と仕草のせいなのだから。
では自分は三日月に対して、どうなっているのか、どうしたいというのか。
考えれば考えるほど、答えは一つしかない気がしてくる。
だが、それを口にしていいものだろうか。
大包平は三日月の腕を掴んだまま硬直し、その直視してはいけないものを、しかしもはや直視せざるを得ない状況に絡め取られた。
「――――俺と、どうこう……?」
気忙しい沈黙の中、三日月がぽつりと大包平に聞く。
思わず顔を上げて三日月を見ると、先ほどまでの落ち込みようはどこへやら、顔形は何一つ変わらないままま、光でも放っているかのように生き生きとしている。
自分のおかしな様子を面白がっているのかと一瞬思って頭に血がのぼりかけたが、三日月の目に愚弄はない。
むしろ期待に満ち溢れていて、まるで綺羅紙に包まれた贈り物を前にした子供のようだった。
この期待を裏切ったら、こいつはきっとあの顔をするんだろうな。
そう思うと「どうもこうもない」とは言えず、さりとて「どうこうなりたい」と言うことも難しい。
ただ三日月の腕を掴みながら顔を真っ赤にしてむぐむぐ唸るしかない。
「……大包平」
大包平の様子を見て、三日月はますます目を柔らかくする。
とろりと溶けるそれは、唇に負けず劣らず美味そうで、もしこんな状況でなければ、一も二もなくむしゃぶりついていただろうと思う。
三日月の黒い籠手に覆われた指先が、そっと自分の腕を掴む大包平の大きな手に触れた。
知らないうちに思い切り力をこめていたことに気が付いた大包平は、慌てて手を離すがその時、三日月の指がたわむれるように大包平の手の甲を撫でた。
掴まれて痛かったろうに、三日月の指先は「離れてしまうのか?」と残念そうだったように感じた。
畳の上で足を崩して見上げてくる三日月の甘えるような目つきに、大包平はその場凌ぎで「お、お前は!」と叫んだ。
「お前はどういうつもりでその……俺と、口付けをしていたんだ!」
あの触れ合いが自分をおかしくする。では三日月はあれをどう解釈しているのか。
その返しを聞けば、自分の考えもまとまるかもしれないと思ったのだが。
「口付けの意味など一つしかないだろう?」
三日月は心底驚いたという顔で、目をきょとんとさせた。
させてから、ふと眉を寄せ、二度三度と首を傾げ、「大包平、まさか貴殿……」とつぶやいてから絶句する。
「いや、まさか……だが、しかしな……」
ぶつぶつと独り言を言う三日月に、「なんだ、言いたいことがあるなら言え」と思わず口走ると、三日月は顔を上げていささか冷ややかな目をこちらに向けた。
そんな顔はされたことがなく思わず怯むと、三日月はつんとした顔で言う。
「小狐丸や宗三が言っていたことが本当だとわかっただけさ」
「何を、なんで」
どうしてその二振が。大包平が分かりやすく顔をしかめると、三日月はやれやれと言いたげに首を振った。
「貴殿は子供だからあまりからかうなと言われていた」
「なッ…! 俺は子供ではない!」
「口付けの意味もわからない男が、子供ではないと?」
「うぐ……」
返す言葉もない。
その通り、口付けの意味などひとつしかない。自分はそれを三日月にしたし、三日月もそれを受け入れた。
であれば、やはり自分が言うべき言葉は一つしかない。
それでもなかなか覚悟が決まらない大包平が、困り果てて三日月を見るが、三日月は先ほどの冷ややかな目線はもうしまい込み、やはりどこか浮かれた目でこちらを見ている。
表情そのものは、別に眉も頬も口元もさして変わらない。
だがこの刀、実に表情豊かだ。
傷付きもする。腹を立てもする。そして今は、自分に期待をしている。
うっすらと染まった頬は、あの時、風呂場に行く途中で見た三日月に似ている。
あれが素直な感情の思わぬ発露だと言うのであれば。
「……俺だって、口付けの意味くらい知っている」
大包平は、照れ隠しに少々ぶすくれたまま言った。三日月はいつものいささか意地の悪い目つきになって、「ほう?」と言ってくる。
お前のそういうところが腹が立つと思ってにらみつけつつ、大包平は三日月の小さな顔を両手で包んだ。
「知っているさ。だから……いま、お前に口付けたいと思っている」
額と額をこすり合わせると、三日月はくすぐったそうに笑った。
「ふふ……まぁよい。いいさ」
本当はもっと情熱的な言葉がくると思っていたがとつぶやきながら、三日月は「しかし、言葉よりもこちらの方が雄弁だ」と微笑む。
三日月の手が、大包平の手に重なった。
そして二振はどちらともなく瞼を下ろし、すでに幾度となく味わってきた感触を求め、顔を重ねた。