ノクターンの行方
亜蘭は驚愕のあまり、己の目をこれでもかと見開いた。
その顔は、随分冷静さを欠いていたと、後に語られることとなるのだが。
無理もない。
自分は今、見たことのない真剣さをワインレッドの瞳に熱情を孕ませた想い人の長い腕に、強い力で抱き寄せられているのだから。
(何でだ…?だって、この人は、)
自分は、彼が恋慕の情を抱いているであろうあの人に近い存在となることさえ、不可能であるにも拘わらず。
優しく、見た目も麗しい、誰もが憧れる、自らも強く尊敬している先輩の代わりになど。
男はよく自分に対しては反応に困る発言を繰り返すが、それにしても今回はよほど酷いお巫山戯ではないだろうか。
「ねぇ、俺の目を見て、亜蘭」
「…っ」
だが今、相手は冗談や揶揄いの類でも無ければ、戯れるつもりでもないのだろう。
亜蘭は知っていた。
思わず見てしまった相手の瞳に映る色が、己と同じかそれ以上の濃さを放つ熱情であるということを。
虚飾では、その様な熱い眼差しを注ぐことなど出来やしない。
そう、だからこそ亜蘭は、何とか立っていた両足が震えそうになりながらも、これまで以上の困惑に息を呑むことしか出来なかった。
そもそも、何故この様な事態が招かれてしまったのか。
それは遡ること5分前か、10分前か。
否、寧ろこれは亜蘭とこの男が出会った頃から、始まっていたことなのかも知れない。
眺めているだけで良かった筈だというのに。
焦がれるような憧れが恋へと移り変わったことを、気付いた時にはと亜蘭は漠然に思っている。
何故、崇拝している存在ではなく、彼だったのか。
いつからだったのかは覚えておらず、それが嘘や勘違いであって欲しいだなんて、星に願いながら過ごした夜も数えきれない、とも。
だがそれでも、幸か不幸か何を考えているのか理解し難い彼には、変わることのない確かな想いが、他の眩い輝きに向けられていた。
そう思っていたのは、どうやら亜蘭だけだったらしいが。
「全く、どうして忘れ物の確認をいつも怠るの?」
「まぁまぁ、しーちゃん。俺は探検してるみたいで楽しいよ~」
「もう、リーダーったら、肝試しみたいでドキドキするって言っておくれよ」
「確かに暗いですね。あ、着きましたよ」
どっぷりと闇に沈んだ、学園の廊下にて。
時刻は夜の9時にも拘わらず、真ん丸の月が照らす光と端末のライトのみが頼りという中で、亜蘭は音楽室の扉を指差した。
つい数時間前、其処は自分が作り上げた曲を聴いて貰おうと、皆で集まっていた場所だ。
だが今回、見慣れている筈の、防音の為に重たい仕様となっているその無機質な扉を開けるのは、自分の役目ではない。
生徒会長と風紀委員長の特権で入手した音楽室の鍵は今、忘れ物をしてしまったとおよそ20分前に呟いた生徒会長…誉の手にあった。
「もう着いちゃったねぇ。これなら、亜蘭と二人きりで行っても良いじゃないか」
「ダメ」
「んふふ、相変わらず雫は厳しいんだから」
「亜蘭を目的外の所に連れ込むって、目に見えているからね」
「おや、バレたか」
「この変態」
ついてきて正解だと、亜蘭の前に立つ麗しい男…雫は苛立ちを隠すことなく腕を組む。
その様子さえも楽しいのだろう、誉は満面の笑みを崩すことはないのだが。
彼に対しては女王の苛立ちも脅威とはならないらしい。
怒れる美人の迫力は物凄いというのに。
自分はどうだろうかと、亜蘭は雫をちらりと一瞥した。
彼は普段自分にそのような圧力などを向けたりはしない。
むしろ、実の弟への態度よりは遥かに甘いだろう。
亜蘭はそのことに甘んじるつもりは決して無いのだが。
己へ触れようと伸ばしてきた誉の手を容赦なく横から叩く様子は、完全な保護者か…或いはボディーガードのようで、結局は守られてしまっていることに変わりはなかった。
「亜蘭に触らないで」
「そこに亜蘭が居たら触りたくなるじゃないか」
「そこに山があるからみたいに言わないで」
「はぁ…」
「ほら、亜蘭も呆れてるでしょ。とにかく、亜蘭に何かしたら許さないから」
何かって、何だろう。
自分の目の前で行われる先輩二人のやり取りに、亜蘭は首を傾げることしか出来ない。
恐らく、自分が知ってはいけないことなのだろうが。
そう亜蘭は、無理矢理ながらも納得することしか出来なかった。
今回もまた、二人だけが理解し合える言葉に、一抹の寂しさを感じながら。
亜蘭は思う。
それだけ、互いに強く想い合っているのだろう、と。
或いはあまり他人にベタベタするなという約束を、自分が知らぬ間に交わしているだけなのかも知れない。
好きな人が他人に触れていたら、いくら気心の知れる相手であろうとも、あまり気持ち良くは思えないだろう。
少なくとも、亜蘭自身がそう感じていた時期はあった。
時期があったというのは、そんなことをいちいち気にしていては『キリがない』と感じたせいだ。
「だって、亜蘭は誰かさんと違って無防備だから。ねぇ、リーダー」
「え?それってしーちゃんのこと?」
「要のことでしょ。ほら、さっさと探すよ」
「もう、相変わらずつれない態度なんだから」
構われることが好きなのであろう、誉は特定の人物とよく戯れつく癖がある。
触れずにはいられないと、言わんばかりに。
勿論、興味のない相手に触れることはないのだが、彼は躊躇なく、時にお構いなしに、毎日体のどこかへ手を伸ばしては、雫の逆鱗に触れるのだ。
その細長い指に、自分の顎も何度掬われたことか、亜蘭は分からない。
人肌を恋しがるような性格の持ち主であれば、まだ可愛げもあったのだが。
誉は相手の反応を、否、雫の反応を楽しみたいだけだった。
飽きもせず、めげることもなく。
亜蘭の淡い想いにも気付かぬまま、彼なりの挨拶という名のスキンシップ劇場は、常に目の前で繰り返されて。(気付かせないよう努めていたこともある)
今だって、彼は自分の崇拝するグループのリーダー…要の肩を抱くように腕を回していたかと思えば、すぐに雫の元へ足を運んでいってしまった。
だからこそ、そんな彼にいちいち胸をチクチク痛めていれば、心臓は穴だらけとなってしまうだろう。
むしろ、そのままぼろぼろになって、無くなってしまえば良いとも思っているのだが。
否、雫へぴたりと寄り添う誉の姿を何度も見てきていれば、自然と諦めに似た感情も湧き出るものだ。
自分へ触れてくる時は、流石に心臓がきゅうと締まり、まだ彼が好きだと自覚させられてしまうこともあるけれど。
勝ち目がないどころか、尊敬する先輩達を亜蘭は応援したいとも思っている。
大好きな、大切な二人が、幸せならば。
亜蘭は、己の気持ちは決して届かないと、ならば押し殺してしまえと、そう思った。
未だ完全に殺しきれていないであろう心を、いつか忘れてしまえるその時まで。
その為に、亜蘭は今日も、胸と目頭の熱を誤魔化すために下を向いて俯く。
これを人は、現実逃避と呼ぶのかも知れない。
甘んじているのは自分であって、亜蘭はそれでも構わないと思っているのだが。
「雫さん、俺、ピアノの周辺を探しますね」
「うん、分かった。でも、暗いから気を付けてね」
「はい」
雫はとても優しい。
亜蘭の頬が思わずほわりと緩んでしまう程に。
冷淡に見えて、温かい人格を持っていることが、彼の魅力だ。
こんな優しい人だからこそ惹かれてもおかしくないと、嫉妬というよりは羨望に近い感情を抱きたくなるのも無理はない。
亜蘭は思う。
早く誉の忘れ物を探さなければ、雫を困らせてしまうことは自分が取り除かなければ、と。
逸る気持ちを抑え、端末のライトを最大限に明るくしながら、雫の横を通ってピアノに近付こうとした。
しかしその時、前を向いていなかったのが悪かったのだろうか。
「あ、こんなところにあった」
「え、」
「うん?…っと!」
「いッ…たっ」
まさか、いつの間にか目の前に佇んでいた誉の、案外逞しい肩口に鼻をぶつけてしまうとは。
完全に自分の不注意であったものの、亜蘭は鼻に走った鈍痛に思わず顔を押さえながら、ふらふらとしゃがみこんだ。
大した怪我をしたわけではなさそうだが、いかんせん鼻骨は柔らかく、悶絶する程の痛みも感じやすい。
鼻血が出ていないだけでも幸いだろう。
「亜蘭!」
「らんちゃん、大丈夫!?凄い音が…」
「ストップ!要はそこから動かないで」
「でもっ、」
「すいませ…っ、俺は大丈夫です。誉さんは?」
「俺は平気だけど…、ちょっと見せて」
自覚が無いだけで、実際には腫れていたりしたら大ごとだ、と。
眉を寄せ、心なしか不安げな表情を浮かべた誉は、亜蘭の顔を覗き込む為にその大きな体を縮こまらせた。
真剣に、赤くなっているであろう箇所をじっと見つめつつ。
亜蘭の鼻を覆っていたその手を退かそうと、そっと壊れ物を扱うように握って。
刹那、伝わったのは、男にしては滑らかな肌を持つ、誉のひんやりとした手のひらの感触だった。
あまりの冷たさに、びくりと亜蘭の肩が跳ねてしまったのは言うまでもないだろう。
そんな彼の、普段の様子から一段と気を配っている誉からしたら、今の動作でさえ不安を煽らせることも露知らぬまま。
「亜蘭、大丈夫!?痛かった?」
「あ、えっと、誉さんの手が…、冷たかっただけで、」
「本当?…腫れては無いかな?いやぁ、良かった…」
緊張していた体から力が抜けたことでのため息なのか、誉ははぁと大きく息づくのと共に、亜蘭の手を強く握り、吐露した。
「君に何かあったら、それも自分のせいであるというのならば、堪ったものじゃない」と。
安堵の色を見せてはいるものの、どこか浮かない顔で。
それは、亜蘭の胸を締め付けるには十分な程に。
雫のような優しさを、彼もまた持っているからこそなのだろう。
恋慕う相手ならば、尚更だ。
亜蘭は慌てて誉の手を握り返した。
何故握り返したのか、自分でも理解することは出来ず。
必死、そんな言葉に尽きてしまうのは仕方のないことだ。
「あ、亜蘭?」
「俺が余所見していただけなので…。誉さん、お願いですから、そんな顔しないで下さい」
「え?そんな顔って…」
「あきちゃん、凄く悲しそうな顔してるよ?」
「必死なのは分かったから、亜蘭の鼻を冷やすついでに鏡でも見てくれば?」
「参ったな…、そうするよ。おいで、亜蘭」
早くこの場から去りたいと、そう急かしているのか、立ち上がった誉の余りにも強い力に、握られたままの手を引き寄せられた亜蘭もまた、慌てて立ち上がる羽目となった。
苦笑を浮かべている、気付けば自分へと寄り添ってくれていた雫や、背後から困ったように笑っている要に見守られながら。
その時だ。
(あれ、もしかして…)
亜蘭は気付く。
今から、自分は想い人と二人きりになってしまうということに。
それは、拙いことではないのだろうか。
雫のことを考えてか、誉への想いに後ろめたさがあるからかは分からないが。
だが慌てたところで、時既に遅し。
残念ながら、未だジンジンと痛む鼻と、繋がれてしまった手が徐々に温まっていく感覚に、思わず胸が高鳴ったことで、亜蘭の口から音が発せられることはなかった。
「亜蘭、大丈夫?」
「…っ」
「鼻の他にどこか痛む?」
「い、いいえ…っ」
おかしい。
いくら好きな人と二人きりとはいえ、そんなシチュエーションは前にもあった筈だと。
にも拘わらず、何故こんなにも緊張してしまうのか、亜蘭は自身の心に自問自答しては、出ることのない解答に困り果て、混乱した。
呼吸を忘れた感覚にさえ、陥っていたのではないかと勘違いしてしまう程に。
実際は、そんな様子に気付いているのか、いないのか。
保健室の鍵をこれまた拝借しようと職員室へ向かう道すがらと、そして辿り着いた保健室に入る直前でさえも、誉が足を止めてはこちらを伺ってくれたおかげで、意識が遠のくこともなかったのだが。
もどかしいとも、亜蘭は思った。
早く保健室に辿り着いてしまえば、音楽室からずっと握られたままだったこの手を、離して貰えるというのに。
ただ同時に、今は熱いとさえ感じる温まった彼の大きな手に、自分の手を握っていて欲しいとも、思ってしまう自分も居て。
(今、だけ)
また、足取りが重くなっていくような感覚に俯きつつも、繋いでいた手にそっと力を込め、亜蘭は願う。
自分の浅ましさに、泣いてしまいたくなりながら。
この際、手を振り払ってくれたらどんなに良かったか。
優しい彼が、そんなことをする筈もないのだが。
月明かりだけが頼りの、暗い保健室で。
互いが遂に足を止めてもなお、離されることのない手に、亜蘭は息を呑む。
ただ、どうすることも出来なかった。
手を離そうとする勇気さえも、溢れぬまま。
「亜蘭?」
「…っ」
「どうして、震えているんだい?」
「え…?」
ずっと、ひたすら床に縫い付けられたように着く己の足を、見つめることしか叶わなかったからだろうか。
誉が気付けばこちらを向いていたことや、ましてやいつの間にか縮こまってしまっていた己の震える肩へと、向こうから手を伸ばそうとしてくれていたことに、亜蘭は漸く気付くことが出来た。
反射的に、半歩後ずさりながら。
それはほぼ、無意識とも呼べるだろう。
本当は、飛び退いてしまいたかったのだが。
繋がれた手が、それを許してはくれなかった。
「あの、これは、その…」
「亜蘭は、俺と二人きりになるのが、本当に嫌なのかな?嫌なら、もう無理は言わないし、」
「ッ、いえ!絶対に、そんなことはないです!」
「本当?さっきから、悲しそうだったから…。心配で、ますます手を離せなくなっちゃったよ」
「…え?」
慌てふためく寸前だった亜蘭は硬直する。
誉の思いもよらぬ言葉を、その意味を、上手く受け止められないまま。
彼は、何か重要なことを暴露した筈だというのに。
まるで魂が抜けたように、亜蘭は呆然と立ち尽くしてしまった。
頭の中では、必死に想い人の言葉を思い返して。
「おいで」
「え、…あっ」
だが、まるで追い討ちをかけると言わんばかりに、誉の元へと繋いだ手を気付けば強い力で引き寄せられ、亜蘭の視界は大きく揺れた。
なんとも、呆気なく。
それ程、気が抜けてしまっていたということなのだろうか。
否、普段は決して使われることのない急な力に亜蘭が抗えないことを、男は見通していたに違いない。
軽くない筈の体が、後は倒れこむことしか出来ないことも、含めて。
だからこそ、亜蘭は肩を強張らせ、ぎゅっと目を瞑った。
また鼻を強打するかも知れない、そんな恐怖にも襲われながら。
そもそも、自分をそちらへ引き寄せる行為自体に、心の中で狡いと呟いて。
「捕まえた」
「あ…」
だが亜蘭を実際に襲ったのは、痛みでも、大きな衝撃でもなく、想い人による優し過ぎる腕の温かさだった。
さり気なく、逃げることはもう出来ない強さで、抱き留められつつ。
流石にすっぽり収まったとまでは言わないものの。
まるで、こうなることが当たり前とでも言いたいのか、相手の十分長い腕で掻き抱かれていることを、亜蘭は自覚せざるを得なかった。
自分がバランスを崩したままのせいなのだろう、いつもより開いた身長差にはつい目を見張ってしまったのだが。
そのまま亜蘭は、誉の腕の中で益々体を強張らせた。
無理もない。
好きになってしまった彼の腕の中に居て、動揺しない訳がないのだ。
今度こそ、呼吸を忘れてしまう程に。
男の満足げな、低く甘い囁きに脳髄を痺れさせている余裕など、亜蘭にはなかった。
そうして、冒頭に至ろうとも。
想い人によって齎された驚愕と混乱に戸惑った亜蘭は、零れ落ちてしまいそうな程に大きく見開いた瞳へ目の前の男を映すだけでも、精一杯で。
「んふふ、やっとこっちを見たね。亜蘭の体も視線も見事ゲットだ」
「ほ、まれさ…っ」
「あは、亜蘭ったら見たこともないくらい真っ赤だね。それに、凄くドキドキしてる」
「あ、当たり前です!だって、」
顔が、体が、胸の奥が、熱くて堪らなくなる、そんな理由など一つしかない。
いつもより弁舌だと、冷静な時ならば思ったであろう誉を、亜蘭は胸に燻りだした切なさに悔しさを抱きながら、睨みあげた。
鋭さなど持たない、まるで初めて出会う人間に手を差し伸べられた瞬間、警戒心を剥き出しにする子猫の様に、勇ましくもどこか弱々しく。
その姿がどれ程、庇護欲を掻き立てられてしまうかさえも自覚せずに。
頬を紅潮させ、震える唇を今にも噛み締めそうになっていれば、尚更だ。
案の定、腰を抱く腕をそのままに、亜蘭の滑らかな顎は誉の長い指先に掬われた挙句、親指で下唇を撫でられたのは言うまでもないだろう。
それは、亜蘭が自らの唇に傷を付けてしまうことを阻止しただけの行動でもないのだろうが。
「待って。お願い亜蘭、少しだけで良いから、その可愛い口を噛まない程度に閉ざしてくれないかい?」
すぐ、解いてあげるから、どうか少しだけ、と。
腰が砕けてしまいそうな程に甘ったるく、低い囁きは、耳へ寄せられた唇によって紡がれて。
いつ甘噛みされてもおかしくはない距離に、亜蘭は喉の奥を引攣らせた。
否、そうならなければ漏れていたのだろう。
自分にとっては吐き気を催す程、甘く、熱い吐息が。
如何わしく囁いてくる彼など、日常茶飯事であるにも拘わらず。
(だめ、だ…このままじゃ、)
体中を巡る血液が沸騰しそうな感覚に陥りながら、亜蘭は自分へ言い聞かせた。
こんなシチュエーションを迎える度に、浅ましく喘いでしまいそうになる声を、何度も飲み込んできたではないか、と。
熱くなってしまった頭では、誉の美しく整った顔が何故鼻の触れ合う距離にあるのか、その理由へと意識を向けられないまま。
目をキツく瞑った、その瞬間。
「ん、…っ?」
ツキリと走る、忘れていた鼻の痛みと。
己の唇へそっと押し当てられた柔い温もりに、亜蘭は肩を跳ねさせ、身動いだ。
目を瞑っていたのが仇となったか、次第に唇を淡く吸われる感覚へ全神経を注がせながら。
そんなことをすれば、腰へゾワゾワと痺れがせり上がっていくにも拘わらず。
腰を抱いてくる長い腕によってゼロ距離となった為か、互いの服が擦れ合う音は亜蘭の耳へやけに大きく残った。
今、自分と彼、そのたった二人が、静寂を許していないと言わんばかりに。
(え、俺…、何で…キス、されてる…?)
漸く事態を把握しようとしたところで、現状の打破など出来るわけもなく。
亜蘭は、自らの唇を啄ばまれてしまっていることによって、可愛らしく鳴り続けるリップノイズに体を震わせながら、滲んできた涙が溜まる瞼をゆるゆると上げた。
どうして、否、そもそも何故こんなことになってしまったのか。
再び混乱し始めた頭をそのままに。
「ん、んっ…ぅ、ん」
「んん…、ふ、可愛い声」
「ゃっ、ん…ぅッ」
決して激しい口付けではない。
触れ合うような、どこか戯れ合うような優しいキス。
だというのに、亜蘭はまるで激しい運動をしているかの様に荒くなる呼吸を繰り返しては、何度も小さく喘いだ。
腰から背中へと支える様に抱いてくる逞しい腕と、後頭部へ添えられた掌に逃げることも許されないまま。
否、ここで逃げれば、全てが無かったことになるだろう。
そんな予感に亜蘭は唯一抱いてはならない、恐怖という名の感情を覚えた。
浅ましくも焦がれ続けた、夢のような現実を目の当たりにして。
それを体感したことで込み上げる、忘れられなくなるような恋しさを、愛しい思い出に変えれば良いだけだというのに。
尊敬する男を想っている筈の、愛しき人からの温もりが、もう一生己の為だけに与えられない、そう考えるだけで、すくみ上がりたくなる恐怖が亜蘭を支配した。
(俺、最低だ…。雫さんに、どんな顔して会えば…)
これが彼の代わりだと予め伝えられていれば、まだ良かったのだろうか。
あの人に嫌われれば、拒まれれば、自分はどうしたら良い。
やっと見つけた、自分の愛する場所と、人。
それが今、奪われようとしているのかも知れなくて。
恐怖が、やがて後ろめたさへと変わることで生んだ悲しみが滲ませた涙の粒を、亜蘭は次々と音もなく零し続けた。
己に蕩けるような甘い口付けを与える男を、もう一度滲む視界へ捉えながら。
一生向けられることはなかったであろう、未だに熱を孕んだ男の眼差しに見つめ返されようとも。
もう、怖がることは許されないのだ。
「ん…、亜蘭?」
「なん…で、ですか」
「何で?亜蘭は、これが本当に分からないの?」
「分かりたく、ないんで」
例え、嘘を吐こうとも。
真実の愛以外は受け入れたくないと、そんな恥ずかしい台詞でも本当は言えれば良かったのだろうが。
これが戯れであろうとなかろうとも、大切にしようとしてきた日々へ戻れなくなるよりは、ずっとマシだと。
目の前でどこか呆けた男の隣に居るべき存在は、自分ではないのだから。
今こそ、密着する胸板を押し返そうと、震える両手に亜蘭は力を込めた。
瞬間。
「俺の言うこと、信じてくれる気持ちも無い?」
「…誉、さん?」
「今言ったら、ちゃんと聞いてくれるの?」
疑いは持たず、決め付けもせずに。
その悲しげな音を。
「あ…、そんな、何で…」
拒まれてしまえば、それでもう全てが終いだと言いたげな表情を浮かべるなんて。
亜蘭は両手の力を抜くと、目の前で初めて見る顔を曝け出した男が、毎日のように可愛いと褒め称えてくれていた顔をくしゃりと歪めた。
噛み締めてしまいたい唇を、わなわなと震わせながら。
「ずるい」
「それが俺だよ、亜蘭」
「ずるいです、そんな顔…見たら、」
「見せるよ、亜蘭には」
なんて、酷く、甘美な言葉だろうか。
堪らず亜蘭は目と鼻の先にあった肩口へ、頬を擦り付けるようにして、顔を埋めた。
広い背中へ、そろそろと腕を回しつつ。
罪悪感と背徳感、その全てを込み上げた愛おしさで胸の内に抑え込んで。
無理もない、亜蘭は負けたのだ。
衝動に抗うことも、ろくに許されぬまま。
「亜蘭は俺の、愛おしい子だから」
「…し、雫さんは?」
「ふふ、確かに雫のことは親友として、仲間として、俺がこの先もずっと手放したくないと思えるかけがえのない人だよ」
その言葉に、嘘偽りはないのだろう。
穏やかな声で語られた誉の気持ちに、亜蘭の様々な感情がせめぎ合った胸がきゅうと締め付けられた。
もう、どうすることも出来ないのだが。
「要のことも、同じくらい想っている大事な人だということは否定しない。だけどね」
止まらない、止められない。
抑えきれない、感情。
それが、今にも爆発してしまいそうだと、訴える心臓を鎮めることさえ叶わずに。
亜蘭は、聞かずにはいられなかった。
「だけど…?」
「好きが溢れてしまうのは、君だけなんだ、亜蘭」
雫でも、要でもない。
たった一つの、特別な想い。
きっと触れてしまえば脆く、儚く、だが何に代えても尊い、そんな気持ちが向く先…その答えを。
それもまた、嘘偽りもない言葉で。
「好きだよ、亜蘭」
告げられた言葉に、亜蘭は顔を熱くした。
いつのまにか後頭部を優しく撫で付けられていた手のひらが、徐々に頬へと移動していくのと同時に、赤くなっているのであろう耳を冷たい指先に摘まれながら。
「こんなに可愛くて、一生懸命で、優しくて、…だけどいつも傷付けられて。
それでも諦めない、強くて弱いからこそ、俺も…いや、俺が守ってあげたい。
そう思える子が、亜蘭なんだ」
今日は体も心も、傷付けてしまったけれども。
その傷を塞ぎ、痛みを和らげてあげられるのは、自分がいい。
全ては、溢れて止まらないからこそ。
「亜蘭、俺にいーっぱい、愛される覚悟はあるか、聞かせて」
「…今、ですか?」
「うん。だって、俺…キスしたくて、もう限界だから」
何度も唇を啄ばんできたくせに。
抱き締めてくれる腕にこめられてきた力は、確かに亜蘭へ訴えていた。
男ならばきっと分かるであろう、腕の中に愛しい人を収めている時の感情…貪り、食べ尽くしてしまいたくなる愛情を。
誉は、抱いているのだと。
張り詰められた切れる寸前の糸が、理性という名の働きを保ってくれているが、それも時間の問題だ。
「決まったら、顔を上げてね」
そうすれば、始まるのだろう。
愛し、愛され。
触れては、触れられる。
自分と、彼だけが織り成し、慈しむ新たな日々が。
顔を上げ、熱を帯びた唇同士を、重ね合わせることで。
足から、腰から、力が抜けてしまおうとも。
男の愛され方に、亜蘭の心臓が甘く啼き続けるまで。
END
ある程度溜まってしまったネタをのんびり消化しながら、後日談のお話書く予定です。
ぶった切った感が凄い…時間かかった割にこんなクオリティだなんて…でも楽しかった!