食前デザート
そこまで思い悩んでいるつもりもなければ、本当にただ何となくといったそんな気持ちで、安吾がキッチンに立っていた時のこと。
甘い匂いは発していなかったにも拘わらず、気付けば隣には弦心の姿があった。
それも、まるで猫のように肩口へ頬を擦り寄せてきながら。(彼はどちらかと言えば犬に近い筈だというのに)
何かあったのだろうか。
滅多に甘えてくる姿は見せない、むしろそんな考えなど頭に無いのだと決め付けていた彼に、安吾が目を丸くしてしまったのは言うまでもない。
同時に、早く向き合ってやらねばと。
もう頃合いであろう鍋の火を止めた、その時。
「ん、」
「…!し、みず…?」
己の頬を掠めた柔い温もりと、耳に届いた可愛らしいリップノイズに安吾は思わず動きを止めた。
驚いただけではない。
不覚にも、胸が高鳴ってしまったのだ。
そんな自分に構わず、弦心は頬を上気させながらも、頬にだけ何度も口付けを繰り返してくるのだが。
(擽ったい)
それは頬か、胸の奥深くか、どちらが先かは分からない。
ただ与えられてばかりという状況に、安吾はあまり馴染めないでいた。
否、自分も与えなければというよりは、されるがままであることに対して納得がいかなかったのかも知れない。
相手が与える口付けに幸福を感じない訳ではないというのに。
わざわざやめさせなくとも良かったとは思いつつ、安吾は弦心の細い腰へ腕を回し、まるで真似をするかのように、何度もその淡い赤が差す頬へ何度も唇を寄せた。
彼が気持ち良くて堪らないと言わんばかりの幸せそうな表情を浮かべ、目をゆっくりと閉じるまで。
瞼を縁取る、長く美しい睫毛がふわりと揺れる様子に、頬を緩ませながら。
気が付けば向かい合わせとなりながら、安吾は閉じられたままの瞼にそっと口付けた。
多少背伸びをしなければならないことには、今日だけ目を瞑って。
ついでとばかりに頭を撫でれば、弦心の口元はふにゃふにゃと綻ぶのだ。
そんな可愛らしい顔をされてしまえば、己のプライドなど二の次となるだろう。
「ん、清水は狡いな」
「え?」
「ほら、まだ目は開けない」
「わ、分かった」
「素直だな」
いつもなら、案外恥ずかしがり屋である彼は、言うことなど聞いてはくれないというのに。
余程触れ合うだけの口付けが心地良かったのだろうか。
形の良い、薄い桃色の唇を親指で撫でようとも、弦心は肩を一瞬跳ねさせただけで身動ぎ一つ見せなかった。
むしろ、少し熱を帯び始めた体を隙間無く寄せてくる始末だ。
つまるところ、これはお誘いの合図だろうか。
「どっちの部屋が良い?」
「香坂の部屋が良い」
「分かった。夕食が終わったら、すぐに行く。それまでは、」
「ここに、触れるだけで良いから…欲しい」
「…あまり煽るな」
甘く掠れた声でおねだりだなんて、そんな高等テクニックを一体どこで覚えてきたのだろう。
安吾は湯気が漂う鍋に素早く蓋をすると、弦心の震える唇に噛み付いた。
千紘くんもびっくり。
ご飯も、安吾ママの料理も、安吾ママを堪能しちゃう弦心ちゃんはウルトラ食いしん坊。