燃える天秤 悪魔と行動を共にする一人の天使がいた。彼は悪魔によって捉えられたわけでも、また力を欲して神を裏切ったわけでもない。初めから悪魔のほうがそばにいただけの話だ。
その天使はナホビノと呼ばれる神が行った邪教の儀式によって世に現れた。
(暗い…… なぜ私はこのような場所に)
手にしている天秤に本。自身が自覚するとおりの存在であるかを疑って、素早く視界に証拠を求める。ゆったりとした白い衣。
彼は主天使らしく「私は、天使ドミニオン。今後とも、よろしく」と落ち着き払って挨拶をしてみせた。
以来、ドミニオンはナホビノの仲魔である悪魔たちと行動を共にしている。
ほかの天使はどのように初めての世界を受けとめたのだろう。その場所は眩いのか。暖かいのか。ここにあるのは悪魔の乱暴な動作、こもった息づかい。あるいは艶やかな所作。そうしたものにも、じきに慣れた。しかし初めて堕天使が隣に立ったときにはさすがに息を飲んだ。ドミニオンに刻まれた知識が、その豹の姿をした堕天使がかつて白く優美な姿をした天使であったことを記憶していたからだ。
ドミニオンがしばらく状況を観察していると、ナホビノは仲魔をこの儀式によって呼び出す場合と、既に街中で活動している悪魔と交渉して仲魔に引き入れている場合とがあることがわかってきた。邪教の儀式とは驚くべき力を秘めたものだと天使は感心した。どの悪魔も現れたときからナホビノに力を貸すつもりでいるのだ。ナホビノとしての力を得たばかりの、経験が浅く弱々しい、小さな神に。彼がナホビノであること自体の影響はあるだろうか。儀式の場には必要以上に口を開かない管理者が一人いるばかりで、比較する機会には恵まれなかった。
儀式について考えたところで、ドミニオンもまたその影響から逃れられはしない。逃れる必要があるか検討することもしなかった。
聞けば呼び出された天使はほかにもいたそうだが、今はいない。邪教の儀式は複数の悪魔から一体の新しい悪魔を生み出す。それだけで説明は十分だろう。
いつかは自分も儀式に捧げられる。短い役目だと思えば天使の中で自分だけが定命の種族にでもなったような気がした。
最初に自分以外の天使に出会うまで、そう長くはかからなかった。天使によって組織されるベテル本部の動きは活発になっている。しばしば天使の影が地面を走るのを目にする機会があった。街で出会う天使は皆ベテルに所属して任務にあたっている。
(ベテルの管理から外れている天使は私だけかもしれませんね)
正確にはナホビノもベテル日本支部に属していたが、だからといってその仲魔のドミニオンに対して個別に天使としての任務が与えられることはない。
自分と同じ姿の天使が指揮を取る姿を見たとき、彼はふと自分をそこに置く想像をしてみた。隊を構成する天使パワーたちへの指示、進路、戦略。彼が想像したとおりに隊は動いた。
ベテル側のドミニオンと指揮に関する思考パターンに差がない。
ドミニオンは自分が「正規の」天使と同じように機能することに満足した。
(天使は均質に造られているにしても、私の出自を考えれば、後天的な差が生じ得たというのに。悪魔と共に戦う経験は思考や行動を変容させてもおかしくありません)
被造物として神の御業が誇らしかった。自身が正確に造られていることを証明するように、ベテルの隊を見て自分ならどう動かすかと想像することが彼の習慣となった。それは人間が手元の時計の針が正確かどうかを確かめる行為に近かった。
ナホビノの方針によって、彼が天使を見る機会は、ほかのどの仲魔よりも多かった。方針への賛否はともかくとして、事例が多く集まるのは都合が良い。天使たちの任務を遂行する能力においては差がないものの、会話をしてみれば口ぶりにいくらかの個体差があるとわかってきた。
新しく崩れたらしい瓦礫の前にベテル所属の天使パワーが立っている。周囲に誰もいなくてもまっすぐに槍を立てている姿は彼ららしい。日頃悪魔に囲まれているドミニオンはこの生真面目さを好ましく思った。ゆっくりと近付いて声をかけると、パワーが姿勢をただす。
「状況を報告しなさい」
「ドミニオン様。ひどいものです……」
「私は感想が聞きたいのではありません」
「ハッ! 申し訳ありません」
パワーに天使側の損失とその理由となった悪魔の数、現れた位置などを細かく報告させながら、ドミニオンは別のことを考えていた。
(パワーは私たちドミニオンの指示を信頼する。秩序のためには必要なことです。しかし戦場で情報がうまく行き渡らないからといって、位階のみに頼るのは危うい。彼らはこの状況だからこそ我々を誰何しなければならないでしょう。……ナホビノから指示を受けている私のような者が紛れ込むのですから)
もういいと報告を遮り、ドミニオンたちはその場を通過した。パワーから十分に離れてから、ナホビノが傍らを行く悪魔と目配せをするのを見た。またうまくいったと思っているのだろう。悪魔が振り返っても天使は気付かないふりをした。
ナホビノはドミニオンを呼び出してまもなく、彼にくだらない頼み事をした。自分と天使の間に立ってほしいと言うのだ。ナホビノの口からベテル日本支部が本部と協力して任務に当たっていると説明するよりも、ドミニオンが同行している姿を見せた方が話が早いということだ。
ナホビノはベテル日本支部に所属しているものの、天使の態度は硬く、状況を一々説明するのにも辟易していた。天使にしてみれば彼は主が禁じた知恵を持つ神、ナホビノそのものなのだ。ドミニオンには天使側の対応が理解できる。天使は主の御使いであり、その秩序の維持に努めるのは当然だ。仕えるべき神が打ち破られて存在を消失しているとしても役目に変わりはない。彼自身、あくまで主の御使いである自覚のもと、ナホビノに力を貸しているにすぎない。間に立てと言われたときも本部の天使たちに嘘を吐くことは承諾しなかった。
「不精なナホビノよ。このような上の塞がった通路でどこからともなく天使が湧き出てくるとはあなたも思っていないでしょう。戦力の無駄が出ます。私を下げなさい」
返事はない。近くにいた悪魔がくすくすと笑っただけだった。
人の体ではなくなって痛みに鈍くなったのか、ナホビノはこうして面倒がって、属性相性ではなく力業で敵をねじ伏せようとするきらいがあった。負けはしなくとも、彼も仲魔も体が傷んでいく。天使の小隊の攻撃はともすれば単調になる。ドミニオンにとってナホビノが取りうる戦術の幅が魅力的であるがゆえに、余計に目についた。
ナホビノの内側には神の意思があるはずだが、この神は己の半身である少年に甘い。重要な局面であっても最終的な判断を少年に委ねてしまう。戦闘を重ね強くなるほどに、判断をためらう未熟な人間らしさが目立った。いかなる神かは知らないが、人の子の選択で事態がどのように転ぶのか楽しんでいるのではないかとすら疑った。
ドミニオンはベテルに所属して下位の天使を率いる方が自分に向いていると思った。
やがて一行は黄色い帽子を被った少年に出会った。
かわいそうに。人間など、ここでは悪魔の爪が掠めただけで息絶えてしまう。少年もそのくらいの気配はわかっているのだろう。彼は自分の帽子に隠れてしまいたいとでもいうかのように、すっかり怯えて体を強張らせていた。その傍らには三人の天使が付き添っていて、ドミニオンはその中にソロネの姿があることを認めた。
(なんと幸運な少年でしょう。いえ、あるいは不幸な少年かもしれません。ソロネ様がいらっしゃるのですから、あんなに震えることはないというのに。きっと自分が誰に守られているのかを誰にも教わらなかったのです)
天使には九つの位階がある。数字が小さいほど位は高く、ドミニオンは第四位、ソロネは第三位であった。本来ドミニオンより高位の天使は前線に出ない。
ドミニオンは初めて帽子の少年を見たとき、彼が無事天使により保護されて、家に帰るのだと思っていた。ところが少年はナホビノの知り合いらしく、気安く話しかけてくる。ナホビノの半身である人間の学友らしい。
この少年がベテル日本支部の一員として駆り出されていると知って驚いた。日本支部はそこまで深刻な状況なのか。彼が戦闘に適した人間だとは思えない。
(アブディエル様はなぜソロネ様ほどの力ある天使をこの少年に割かれたのか)
ドミニオンは推し量ることができなかった。
ソロネがドミニオンに声をかけなかったので、ドミニオンは下位の天使としてナホビノの後ろでじっと黙っていた。そのまま帽子の少年たちとは別れてしまったが、ドミニオンはソロネのことを時々思い返した。
彼らは魔王城に入った。この城の魔王とは、ある堕天使のことだと大天使アブディエルは言う。
淀んだ空気に出迎えられる。石柱がでたらめに空間を区切り、どこにも空が見えない。内部は篝火と壁を走る赤い光で照らされているだけだ。このような場所には天使でなくとも長居はしたくない。城の守りとして悪魔が配備されてはいたが、狭い檻に長く閉じ込められた獣のように持ち場を動き回っている。気が滅入る光景だった。
また、天使を阻むために作られたのか、あちこちに強風を起こす仕掛けがある。仲魔とはぐれることを防ぐため、飛翔できる者もみな床に足がかすめるほどに体を下ろすか、歩かなくてはならなかった。
通路は無秩序で、侵入者どころか城の中にいる悪魔ですら広間を移動することは難しいだろう。この城に満足しているのは魔王だけに違いない。広間のところどころには伝令の天使が立っていた。
(エンジェルが配備されるとは。天使は随分と数を減らしてしまったようですね)
エンジェルは天使の中で最も位が低い。戦闘能力も低く、数を集めるならともかく、このように一人立っていてはこの城の悪魔に対してはほぼ無力だ。何も通りかからないことを祈るしかない。
これを見てドミニオンは一つ諦めたことがあった。
城に入る前のことだ。周囲の敵が徐々に強くなる中、ドミニオンの戦闘能力は十分ではなくなりつつあった。そこでナホビノに戦力を優先し、今後は自力で天使と話すよう強く言ったのだが、あろうことか魔王城にこそ天使が大勢いるだろうからと突っぱねてきた。こうしてエンジェルが単独で行動しているようではドミニオンの主張はますます通らない。
「あなたは自身の力量を正確に把握していますか」
思わずエンジェルに声をかけた。
「ドミニオン様。私には目と耳と口があるばかりです」
「役目をよく理解しているようですね。ベテルに貢献しなさい」
なるべく長く、とは言わなかった。
彼を残して先へ進む。
進めども進めども忌々しい赤い石壁が続いていた。いつどこに仕掛けがあるかわからず、舞い上がることができないと視界が悪くて敵わない。積み木を無造作に積み上げたような通路の高低差に遮られて先が見えないのだ。
また階段だ。もう数えきれないほど階段を通過したが、これまでと違ったことが一つある。上がりきって角を曲がった先にパワーたちが倒れていた。いつも握りしめていた槍は手から離れて転がっている。まだ消滅していない。ついさっきまで彼らは生きていたのだ。
ドミニオンはナホビノの背の向こうに、先行していたベテル本部のドミニオンを見た。彼は丁度その命を失うところだった。敵の剣を受けた反動で体が揺れている。
チェルノボグの剣がそのドミニオンを仕留める中で、ドミニオンが怒りを覚えたのは黒衣に身を包んだ悪魔に対してではなかった。
(情けない。ドミニオンの名を冠しながら何をしているのですか。何のためにパワーたちを連れて潜ったのです。彼らの敗北から敵の戦力を推測することもできませんか。貴方の任務は何でしたか。魔王の居場所を探ることであり、その悪魔を倒すことではない。貴方はパワーを盾に、己の翼を敵の剣から逃れるために使い、何としても来た道を戻るべきだった。なぜ自分たちで解決しようとしたのです。組織に利する行動が取れていない。その姿から私が読み取れるのはそれだけです)
絶命し消滅したドミニオンに失望する。ドミニオンもパワーも斃れた今、何が起こったのかを知る術はない。
(あなたが報告に引き返しさえすれば、こうして何も知らず後続が無策で敵と対峙することもありませんでした!)
その戦闘でドミニオンは殺された。
チェルノボグが死神であることは知っていた。毒と剣ばかりの攻撃だが、これがすべてではあるまい。必ず呪殺を仕掛けてくる。しかし死神も天使の破魔の力を嫌がる以上、退く理由はなかった。本部のドミニオン隊と違い、ナホビノにはまだ手勢が控えている。
チェルノボグが全体への呪殺を試みる。
予想通り天使の体は耐えられなかった。
呪殺された体が崩れる中で、ドミニオンは先刻死んだもう一人のドミニオンを思った。彼に怒りを覚えたことがにわかに不安になった。自分が彼なら同じ作戦を取っただろうか。いつものように置き換えてみようとしたが、早くも体は地に溶け落ちて、彼はそれ以上考えることができず、思考もそのまま消えてしまった。
蘇生は瞬きをしたような感覚を伴った。目の前の景色が変わっているので状況が掴めない。
「チェルノボグは倒した」
ナホビノは短く説明する。仲魔の手当てをしているところらしかった。少し間があってひとこと付け足される。「やはり写せ身を」
「それは命令ですか」
「……違う。その翼は必ず呪殺の標的になる」
「ではあなたはまた同じ返事を聞くだけです。私にそれを使いたいのであれば強制なさい。ドミニオンの名を冠する天使でありながら、私は何も統べてはいない。性質が変わることに多少の抵抗は持ち合わせています」
以前ナホビノが不用意にマカープルの縄張りに踏み込んだとき、あろうことかナホビノは呪殺を弱点に抱えたままだった。耳元で半身の声を聞きながら、短い息を吐いて構える姿を見ればすぐにわかった。緊張しすぎている。マカープルも注視すれば気が付くだろう。
(まあ、誰かが倒せばいいでしょう)
ドミニオンはナホビノに向けるべき哀れみと慈悲をこめてマカープルを見つめた。相手は挑発に乗った。
これがドミニオンが初めて呪殺の成立により命を落とした戦闘である。
蘇生したドミニオンが瞼を上げるとナホビノが覗き込んでいた。また人の子のような顔をしている。
「写せ身を失うことよりも、為す術もなく敗北することを恐れなさい」
「何かしたのか」
「動揺しているのですか。敵はあなたの属性相性を知りません。この翼を見なさい。私を狙ったことになんの不思議がありますか。さあ、今ここで属性相性を変えなさい」
ナホビノはもう一言問いたげな様子をみせたあと、大人しく頷いた。
その後しばらく半身と会話をしてから二つ目の写せ身を差し出してきたので、先のように断ったのだ。本心だった。あのときも今も、ナホビノはドミニオンの返事を聞くとしばらくじっと目を見つめてきた。半身の声を聞いているのかどうかはわからない。やがて引き下がって「そうか」と言うところまで同じだった。
チェルノボグは強かった。殺された全員を蘇生させ仲魔の態勢を整えるのに手間取り、アブディエルたちに追いついたときには、もう随分と魔王城の奥深くまで来ていた。
またあの黄色い帽子の少年がいる。自分たちより先に進んでいたとは思わず、ドミニオンは驚いた。
(チェルノボグはソロネ様との戦闘を避けたのでしょうか)
座天使ともなると、戦場に出れば呪殺を無効にできるだけの耐性を獲得できると聞く。ソロネのほうではドミニオンなど視界の隅にも入らないらしく、ちらとも視線は合わなかった。
(迂回路はありませんでした。少年を連れている以上同じ通路を歩いたはず。やはりチェルノボグは彼らの通過を許したとしか考えられません。恥とも思わず強者の前には身を隠していたのでしょう。……だとしてもアブディエル様が先を行けば少年たちが追いつくはずがない。アブディエル様はずっと少年のそばに? いや、しかしなぜ)
アブディエルの動きは妙だった。あれだけ城の前で天使たちを鼓舞し、魔王討伐を悲願かのように語っていたにも関わらず、少年を魔王城の入口に送るためだけに戦線を離脱すると言うのだ。これだけの深奥部で強力な天使二人が離脱するとはドミニオンは想定していなかった。あっさりと禁じられたナホビノの力を頼むとは。
(魔王城以外にも動きがあるのでしょうか)
推測しようにも情報がない。ナホビノは帽子の少年が視界から見えなくなるまで動かなかった。戦力で言えばナホビノは自身の心配をすべきだとドミニオンは思った。
入り口から一体いくつの広間を抜けただろうか。ようやくまともな対称性のある広間に出た。奥の扉は静かに閉ざされている。ここまでの広間とは明らかに様子が違った。扉に近付くほどに嫌な気配が増した。ナホビノもそれを感じ取ったようだ。
扉が開いていく。
ああ、これは。冷たい石の床に転がる天使たちの骸。またほんの僅かな時間の差で失ってしまった。
既に消滅した天使がどれほどいたかはわからない。今の魔王の動きを考えれば時間稼ぎをする必要もなかったであろうに、気付かずこの広間に足を踏み入れたのか。それとも数で勝てる相手だと思ってしまったのか。誘いこまれたのかもしれない。エンジェル、アークエンジェル、プリンシパリティ。パワーよりも下位の天使たちがこれほど集まっているとは思わなかった。損失を無視してただひたすらに飛ばせたのか。
(あなたたちは、アブディエル様の到着を希望として戦ったのですか)
上官の到着を待つことができなかった死者たちをドミニオンは責めなかった。指揮官級はいなかったか、いても先に殺されてしまったのだ。今消滅しつつある下位の天使たちだけでは十分な連携もままならなかっただろう。
魔王、いや、堕天使アリオクが上機嫌で話していたが、ドミニオンはほとんど聞いていなかった。
ドミニオンは一刻も早くこんな翼が窮屈な思いをする城は出たかった。空の下に出ればまとまらないいくつもの思考もはっきりするだろうと思ったのだ。
残念ながら、その期待は外れてしまった。
魔王城を出るとアブディエルがそこでただ待っていたからだ。
結果的に、万魔会談を経てベテルとナホビノは敵対した。
ドミニオンはナホビノと共に、消えていく東京を見た。
これが秩序のための崩壊であれば彼は気にも留めなかった。世界の秩序が維持されるために排除される必要があるなら、主の御心のままに御使いとしてできることをしよう。創造主が捨て置けとの意思を示すのであれば何の関心も抱くまい。しかし目の前に広がる東京の姿は、主の奇跡が消えゆく姿そのものだった。
東京を見ながら、ドミニオンは創造主の消失が覆りようのない真実だと改めて認めた。
ドミニオンが仕えているのは創造主であり、新たに座を獲得する何者かではない。創造主の復活を信じる天使は、誰も座に就かせてはならない。ドミニオンはそう結論を出した。そのためには座に近付けるナホビノのそばにいることは都合がいい。ドミニオンは自身の境遇を偶然ではないと感じた。
魔界に戻り、台東区に入ってしばらくは、天使の姿をあまり目にしなかった。ナホビノはもう随分と神らしくなった。人の子のような表情も今ではほとんど見られない。強力な悪魔も従えることができるようになった。彼の前に天使が立つとすれば、圧倒的な戦闘能力を誇る一部の大天使だろうが、そのような大天使を前にしてはドミニオンは顔を上げることすらはばかられるだろう。
新しく仲魔になった悪魔の中にはドミニオンの存在を良く思わない者もいた。元より天使はベテルの行動が行動だけに良い印象を持たれていなかったし、ドミニオンは今やその脆弱さから戦闘で大きな活躍をすることもなく、街の天使との調整役という役割も形骸化していた。どう思われるかはどうでも良い。問題はそこではない。ナホビノの神としての成長ぶりを見るに、もうとっくに上位の天使も呼び出せるだろうに、未だドミニオンを仲魔に残していることが問題だった。
「ナホビノよ。なぜソロネ様を呼び出さないのです」
ナホビノは長く沈黙した。答える気がないのかと思い始めたころになって口を開く。
「太宰……あの帽子の少年、彼はアブディエルに心酔している。恐らく今もアブディエルが与えたソロネを頼っている。ナホビノである自分が同じソロネを従えていた時、どのような感情を抱くのか、今の自分には想像することが難しくなってしまった」
ナホビノにしては珍しくよく喋った。
「友人への遠慮。馬鹿げているとしか思えません。もう少しましな理由で私を縛り付けているのかと思いました」
「今のはソロネを呼び出さない理由だ」
「では私を残す理由は別におありだと仰るのですね」
「最近は天使の隊を見かけないな」
「お気づきでしたか。あれは習慣に過ぎません。何の変化もないのですから」
「そうか」
ナホビノが言葉を切ったとき、彼らの前に伸びる通りにはソロネたちがいた。
この通りを使うのは初めてではない。もう見慣れた光景だった。
ソロネたちが隊列を組んでいたならば、ベテルは上位の天使を集めて作戦を起こすつもりなのだと思うこともできただろうに、ソロネたちは周囲の悪魔を気にもせず、無秩序に通りをさまようばかりだ。ゆめうつつかと思えば、いまや格上となったナホビノたちのことは避けていくのだから、なにかしらの判断力はあるらしい。
ドミニオンの中には自身より上位の天使の情報は多くは与えられてはいない。必要がないからだ。第一位、第二位の天使、特別な役割を持つ大天使の情報もほぼ秘匿されている。さらに、創造主が倒れてより後のできごとはナホビノから情報を得たに過ぎない。それでもこれは明らかに、あってはならないことだった。
ソロネを仲魔に引き入れる気がないナホビノは、これまで一度もソロネと交渉をしたことがなかった。ドミニオンの手前、戦闘回数も極端に少ない。その全てにおいて、逃げ切ったか、腹を立てた仲魔がソロネを殺してしまって、手掛かりが得られることはなかった。
先ほどあんな話をしたからだろう。ドミニオンはかつて自分だけがベテルの管理から外れているのではないかと仮説を立てたことを思い出した。彼らもそうではないか。ソロネと自身を重ね、天使ならばと大きく判断を誤った。そっと仲魔の最後尾に回ると、できる限り低い位置を取り、おそれ多くも一番近くにいたソロネとの会話を試みる。
気付いたソロネが手を動かすのを見て、ドミニオンは控えろとの意味だと解釈して動きを止めた。
ジークフリートが叫んだ。
「何をしている。下がるんだ!」
ドミニオンが肩口にマントを引こうとするジークフリートの手を感じたとき、ソロネは挙げた手でフードを払いのけると、開けた視界の端から端へ、破魔の力をふるった。ジークフリートの呻き声がするほうを見れば、破魔の即死効果が成立したところを、一度だけ死を免れる彼の特性によってかろうじて生き残っている。剣を地面に突き立て体を支えているが、すぐには動けそうにない。ドミニオンはジークフリートをかばうように立つ。
(今のはジークフリートを狙っての攻撃ではありませんでした。私に、天使ドミニオンに破魔属性の攻撃を向けた? ソロネ様がそのような攻撃に意味がないとわからないはずはありません)
困惑して動けないドミニオンの翼の陰から、姿勢を低くしたジークフリートが躍り出て、ソロネに剣を突き立てた。不意を突かれたソロネは大きく体勢を崩し、ドミニオンが呆然としている間にもう一撃を撃ちこまれる。剣を受けた場所からソロネは崩れていった。
破魔の力に耐性を持つアモンは気分を害すほどのこともなく、腕組みをして静観していたが、同じく様子を見ていたナホビノに促された。この悪魔の力は強大だったが、興が乗らないことにはさして協力的でもなかった。
「アモン」
フクロウ頭の巨大な悪魔は重たげな尾を滑らせて前に出た。ドミニオンたちとは反対側、これから抜けようとする方向だ。ナホビノはその先のソロネだけを見つめたまま言った。
「焼け」
アモンは虚をつかれたようにナホビノを見た。それからあまりに大きな声で笑いだしたので、通りのソロネたちの注目はこの大きな悪魔に向けられた。
「ふふ、ははははははは! 素晴らしい。良かろう、良かろう。どなたさまもお集まりください、さあもっと前へ!」
芝居がかった仕草で両の腕を広げる。ソロネたちは狭い通りをこちらに向かってくる。自然と密集し、なにごとか苛立たしげに呟いている。アモンとの距離が十分に近付いた。
「さあ! ご覧あれ!」
悪魔は大音声と共に、赤い腕を広げたまま一際大きく胸を張った。頭上に轟音が響く。ソロネたちが見上げると、空に燃え盛る大岩が現れて落下を始めていた。アモンの鳥の瞳が炎を映して輝く。
ソロネたちはせせら笑いながら今やアモンを射程に捉えようとしていた。彼らこそが神の御座を運ぶ炎の車輪であり、火など何の意味もない、そう知っていたからだ。大岩だけを落とせば良いものを、火をまとわせれば岩も炎の属性を宿し、ソロネたちに何の痛痒も与え得ぬと理解してしまっていたからだ。
ソロネのローブを焦がす匂いが彼らに届いたかはわからない。
ドミニオンが立ち尽くしているうちに、一帯のソロネは全て焼き尽くされた。
「ご覧いただけましたかな。ふむ、先に眼球が焼けてしまったのであればお見逃しになったかもしれませんな」
炎への耐性など意味を成さない圧倒的な力を持つ火球。アモンは満足そうにした。
「何も残すな」
ナホビノがさらに指示を出した。大岩が崖一つ崩れるよりも大きな音を出したので、射程を外れた通りの奥からも、さらに曲がり角の向こうからも、新たなソロネたちが呼び寄せられてアモンを見ていた。アモンは背のほうから先端へと翼に震えを走らせ、歓喜の声をあげた。
「戦闘とはいつもこうであれば良いものを! 第二幕といたしましょう!」
ようやくドミニオンの足が動いた。「おやめなさい」と言いかけた背後から、アモンのしなった尾が風を切って、天使の翼を折れるがままに地面へと叩きつけた。衝撃に声が出ない。アモンの尾に並んだ蛇の目がきょろりと視線を動かし、その全てがドミニオンを見下ろしている。
「お静かに」
アモンは少し気分を害したように呟いた。
「賞賛、嘲笑、絶叫、さあ遠慮はいらぬ! 我が舞台に投げ入れよ!」
二発目の大岩、メギドフレイムが放たれようとしていた。ドミニオンの胴よりもずっと太い大蛇の尾は、押しのけようとしてもまるで動かない。左の潰れた翼には感覚がない。
おやめなさい、おやめなさい、と天使が呟く声も岩の落ちる音に書き消されていく。ソロネたちが再び消滅する。腹這いにさせられているドミニオンに地面を通じて激しい揺れが伝わる。押し寄せる砂と熱が喉に入って苦しい。ようやく回復することにまで頭が回る。
しかし、回復を感じ取れば、また蛇の尾はゆっくりと圧力を掛けてドミニオンの翼を折ってしまうのだった。
「座長よ、こうした大技は見せ場に限って繰り出してこその華」
アモンがしばらく虐殺を続けてから首を回した。ドミニオンは岩の数を数えていたが、これで確信を持った。
(ついにアモンの魔力が尽きようとしている。ソロネ様もこれ以上の辱しめを受けずに済みます。炎に焼かれて座天使が命を落とすなどあまりにむごい)
ナホビノがアモンを見上げた。
「こういうマガツヒの使い方がある」
魔界の根源ともいうべき力が流れる。
「っ!」
(三億百六十万の光……!)
ドミニオンにはナホビノがマガツヒを使って何をしようとしているかわかったが、既に発動してしまっている。アモンの魔力が大きく回復してしまった。それも、よりによってドミニオンたち天使族がナホビノに与えた護符の力によって。
「幕間は終わりだ」
「おお、座長に栄光を!」
また燃える岩が落ちていく。青く流れる髪が熱風に撫でつけられたとき、ナホビノには何の表情も浮かんでいなかった。
もう前方には誰もいない。
「アモン、ドミニオンを連れてついてこい」
「おやおや、我の指を食いちぎりそうな顔だ」
ナホビノの周囲を警戒していたジークフリートがドミニオンを見て気の毒そうな顔をする。真赤な腕が尾の下から天使を掴み上げる。かなわんと言いながら大きな指で無造作に押さえ込んだので、身が軋む音がした。
高台に上ると、ちょうど月が満ちる頃だった。
「崖下を見ていろ」
覗き込んだのは先ほどの岩で焦げてえぐれた地面が残るあの通りだった。月が満ちる。ドミニオンの青白い肌が一層白くなる中で、ソロネたちは一斉に大地に湧き出でた。
上から嬉しそうなアモンのからかいが落ちてくる。「在野の悪魔と変わりなし」
ナホビノが頷いた。
「先延ばしにしすぎた。実のところ、もう十分だった。はっきりさせよう。この地で創造主が討たれたとすればソロネがいるのもわからなくはない。しかし座は至高天にある。ソロネだけが、ここにいる理由はなんだ。彼らはベテルの天使とは違うのか」
ドミニオンはようやくのことで答えた。
「私が創造主なき後のベテルの知識を持たないことから考えて、通りのソロネ様もまた、今のベテルのことを知りません。ベテルはこの地区を警戒しているのでくまなく調べ上げているはず。対話が難しく、戦力として迎え入れることを諦めたのかもしれません。しかしなぜ……」
アモンはこうした動揺が好きで堪らなかった。
「知恵の本質とはなにか。知恵を奪われ、奪った当の創造主は消滅。天使への戒めが今や組織の規律、構造に過ぎないとすれば、綻びるのは上から順であって何の不思議もないぞ? おや、あの天使、確か第三位の天使だったか。ドミニオンは……さて第何位だったかな」
天使が知恵を奪われた理由については以前にも別の悪魔から指摘されたことがあった。恐らく、主の信頼を得られないのは天使が堕天するからだ。
主が求めたのは主が布いた秩序が守られる世界。では奪った「知恵」とはそれを脅かす力だ。主への疑念か。いや、それを奪うことができたなら主が破られることはない。世界を見通し、既存の秩序とは異なる世界のあり方を生み出す力。望みではなく能力としてのそれか。
この仮定だけでは下の通りにいる座天使の説明にはならない。ナホビノの禁が破れているように、主の定めた秩序そのものが天使から失われつつあるのではない限り。だとすれば時間がない。ドミニオンが望んできたように創造主の復活をいつまでも待つことは叶わない。ドミニオンは焦りを覚えた。復活を果たしたのち、創造主は新しい世界の法則の中でもう一度座を奪わなくてはならない。そのときにはバアルやラーがその扱いを受けたように、創造主は強く警戒され多くを奪われている。
御使いを従えることについてはどうか。堕天使アリオクも寄せ集めの悪魔を城に詰め込んではいたが、今の世界にベテルほどの規模の軍勢を持つ悪魔はいない。ベテルは解体される。天使の存在が許されても、天へ至らんと塔を建てた人の子のように、組織を作ることはできなくなるだろう。
(天使は秩序に最も近い。しかし天使が座を奪えば、それは創造主の座を間接的に天使が奪うということになってしまいます)
ドミニオンはその可能性を己の性質と主への忠誠のもとに捨てた。天使ドミニオンの望みは、あくまでも主の統治が宇宙に行き渡ることだった。
代わりに頭をよぎったのはあの黄色い帽子だった。
「帽子の少年に会わせなさい。ベテルに所属するソロネ様ならこの地のソロネ様について何かご存知のはず。確実にお会いする方法はそれしかありません」
ナホビノは冷ややかに問う。
「会ってどうする。下位の天使にこれまで正直に接したか。知る必要がないことを話したか」
ドミニオンは言葉に詰まった。
「そういうことだ」
天使はこのときほど人の子のように神の言葉を求めたことはなかった。
「では、私の位階を上げなさい。私がソロネであればソロネ様と話ができます」
「自我は引き継がれない。何か一つでも覚えていることがあるのか?」
アモンはこれを聞いて肩を揺らして笑いながら胸の羽毛を掻きむしった。
「いやはや笑うつもりはなかった! 黙って楽しんでいようとして、あまりに愉快でついに笑ってしまったのだ! 断言しよう。これまでに位階を上げろとナホビノにせがんだ天使は一人もいない。ああ、その望み、創造主が定めた位階よりも上位の存在になりたいという望み、けなげな動機から生まれながら、このような美しくも狂おしい傲慢を我は見たことがない。素晴らしい。我ですら思うとも、このドミニオンこそ堕天させるにふさわしい!」
「アモン!」
ジークフリートがアモンを遮ろうとしたが、無駄だった。アモンはすっかり興奮していた。
「答えよナホビノよ。これまでにそのような天使がいたか」
「いない」
ナホビノはアモンの揺れる尾の先を疎ましげに払いのけながら事実のみを答えた。ドミニオンは目を伏せた。一度何かを言おうとした口元が歪んだあと、苦しげな息がこぼれた。
「私は天使として変質していると認めなくてはなりません。ベテルの天使と私を比べる必要はとうにありませんでした。天使、ナホビノ、悪魔。初めはそれだけでした。今は、ジークフリートとアモンは私の目に同じようには映りません。アモンの言う通りです。創造主が消失していなければ、私は堕天していたことでしょう」
ナホビノがドミニオンに歩み寄り、まっすぐに見上げた。
「こちらも真実を話そう。先ほどの話の続きだ、既に答えの多くは述べられた。自我が引き継がれないからこそ、お前はいつまでもドミニオンとして仲魔でいなくてはならなかった」
金色の瞳は凪いでいた。
「この魔界に来てから、天使との接触機会は少なかった。天使は人間や悪魔に比べて無機質で均質に見えた。下位の天使を指揮するドミニオン、お前が仲魔になったことで天使に近付くことができた。均質であることを美徳のように言うが、真に均質であったなら、世界の創造においては何よりも天使を切り捨てただろう」
「あなたは本当に創世を……」
「最も重要だったのは一人のドミニオンが……言葉を借りるなら、変質するかどうかだった」
ドミニオンの翼が強張る。
アモンは面白そうにあごに手をやった。
「東京の状況が状況だ。長くは時間を取れなかった。それでもその口から述べられたように天使のものの見方は変容した。存在としてまったくの不変であるならば、創造主が消滅した今、いつ存在を失おうと大きな意味はないと考えていた。しかしこうなると創世の暁に天使を切り捨てることを単純に是とはできない」
そのときドミニオンが見た僅かな笑みが、このナホビノの人の子らしい最後の表情だった。
「わかるか。自我は連続していなければならず、目的を明かすことはできなかった」
ナホビノから再び表情が消えた。
彼が拓こうとしている道。ああまったく、確かにここで十分だったのだ。
ドミニオンは問う。
「目的が達成されたなら、私は自由に消滅することが叶うのですか」
「最後まで見届けないのか」
「お好きな結末をお選びなさい。私は暇をいただきたい。これ以上、主の御意思から外れることも、均衡を乱すことも本意ではありません」
ドミニオンはナホビノが次に何と言うか知っていた。
「そうか」
簡単なことだ。ドミニオンと仲魔としての繋がりを切り、そのまま殺めれば天使は消滅する。
「呪殺すればいいではないか」とアモンが名案のように言い出した。
「二度で十分です」ドミニオンは律儀に返事をした。
ジークフリートは悲しそうにした。手のひらに傷薬を伸ばすと、腕を伸ばしてドミニオンが治療せずにいた首元のアモンの爪痕に塗りこんだ。ドミニオンはそれを受け入れてじっと動かずにいた。
「優しき軍神よ、あなたはその勇ましき咆哮とともに、私たちを何度も守りました。だから私はドミニオンの体でも今まで戦うことができたのです」
ドミニオンがゆっくりと微笑んだとき、軍神の手は小さく震えていた。天使はそれに気がつかない素振りでジークフリートから離れた。足を地に付け、翼を手頃な立ち木に預ける。
ナホビノはその手から伸びる剣の先をドミニオンの胸の下に触れさせた。燐光は白い布地に反射して円形に衣を染める。
「まだやめられる。後悔はないか」
「満足しています。天使に可能性をひらくことができたのですから」
最後にドミニオンはちらりとアモンを見て、念のためナホビノに魔法攻撃を反射するマカラカーンをかけた。
ナホビノがしようとしていることは、仲魔ではなくなったとき、繋がりと共に記憶を失って飛び去ることのないようにとドミニオン自らが望んだことだ。天使はその目を閉じることをしなかった。
「さあ、ナホビノよ」
剣がひといきに突き入れられた。樹皮を割り、天使を深々と背後の幹に縫い止める。翼が本人の意思から逃れるかのようにもがいた。ナホビノが仲魔としての繋がりを切る。合図を受けたアモンはわざと一拍遅れてから腕を挙げた。アモンはこのとき自分のことを慈悲深いと思った。ナホビノの剣によってじわじわと絶命するか、みかねたジークフリートが手を下すところを見たい気分だったからだ。
既に仲魔ではないドミニオンには何の制約もなく業火が届く。単体攻撃である代わりに属性相性を貫通する最大の炎。
ナホビノはドミニオンの両腕が天秤と本をかき抱きながら消えていくのを見た。
彼らがこの高台へ上がってきた道に残るのは、ナホビノの足元へと続く小ぶりな足跡、大蛇の尾をのたくらせたアモンの通った跡、それから、少し歩幅の大きなジークフリートの力強い足跡。最も長くナホビノの隣を飛んだ天使の痕跡は何もない。
ナホビノはその後、いかなる天使も召喚することはなかった。