英雄の難事 フィン・マックールは暇ではなかった。
どうにも近頃、魔界では天使も悪魔も浮き足立っている。英雄フィンは魔界を歩く者の中でも人間に好意的な部類に入ったから、魔界の不安定さに気持ちが張り詰めていた。
それなのに、この妖精の里のゆるやかな時間の流れときたらどうだ。妖精たちは今、王も女王も揃って野に身をかがめている。フィンが里の入り口から遠くの丘にいる妖精たちを見たとき、自分は妖精の儀式に呼ばれたのだろうかと思った。
女王ティターニアがフィンに気が付いて手を挙げる。
彼を案内してきた半身の馬ケルピーは、焦れったくなったのか鼻を鳴らしてフィンのことを置いて駆けていってしまった。
「急ぎの用だと聞いてきましたよ」
妖精の輪の中央にあったのは丸みのある葉をつけた小さなたよりない植物だった。どう見ても重大ごととは思えない。
王が立ち上がると白いズボンの片膝に土が付いていた。
「間に合いましたね、フィン。ケルピーを迎えにやって正解でした」
「これは?」
「あの欠けた葉のあたりです。見えますか」
フィンがかがみこむと、そのあたりは葉が軸だけを残していて、茎に蛹が一つ付いていた。王は隣で少年の微笑を浮かべた。
「私はずっと、この里を飛ぶ黄色い蝶たちはティターニアが飛ばせているものと思っていました。しかしどうやら本物らしいのです。私たちが気付かないうちに、こうして繁殖を」
「ひどいでしょう。私の魔法ではありませんと何度もお伝えしましたのに」
口調だけで怒りながら嬉しそうに蛹を見つめているティターニアに対し、オベロン王は気まずそうに謝ってしばらくの時間を割いた。
「虫の営みがあるこの里を私は誇らしく思いました。もうすっかり、悪魔ばかりになりましたから。そこで宴をと思い、あなたを呼んだのです」
「王よ。貴重な瞬間に立ち会う機会を与えてくださったことを光栄に思います。しかし俺は……」
「忙しいと言うのでしょう。どうやらあなたは長く自分の顔を見ていないようですね。いたずら心を引っ込めている妖精なら、誰でもあなたを柔らかい草の上に休ませます。さあ、イズンから宴にと林檎を一つ贈られました。あなたにはとりわけ大きく切り分けさせましょう」
オベロン王が視線をやるとシルキーという妖精はすぐに立ち上がり、小川にひたした、草のつるを編んだ籠から、てきぱきと林檎を取り出して皮を剥き始めた。こうした仕事は彼女の得意とするところで、皮は薄く向こうが透けていて、ひとすじに林檎の下で揺れている。フィンは諦めて腰を下ろす場所を探すことにした。
里の全ての妖精が集まっていた上に、体の大きいフィンがいたので、林檎は妖精の体の大きさに応じて細かく切り分けられた。ピクシーの林檎はフィンの爪に二つ乗るほどしかなかったが、シルキーはどのピクシーの林檎の大きさもまったく同じになるように切ったので、丘のどこでも揉め事は起こらなかった。
フィンは自分の林檎が王や女王のものよりも大きいことに恐縮しながら食べた。川の水にひたされていた林檎は、シルキーの手際の良さによっていまだ冷たく、フィンの口の中を心地良く冷やした。
ピクシーが輪になって踊っている。誰かの脚がもつれてきゃあきゃあと騒いでいる。
ジャックランタンは蛹がよく見えるように近くに焚き火を作ろうとしてハイピクシーに叱られている。
ジャックフロストはシルキーからもらった林檎の皮を凍らせてかじっている。
フィンはこの丘で横になりたくなった。自分の下に蛹や、あるいは蝶の死骸がないか少し気にしてから、ごろりと寝そべった。妖精の歓声に目を開けると、背中が割れた蛹のそばで、蝶の脚が茎を離れるところだった。どうやらよく眠っていたらしい。
妖精たちがそれぞれお気に入りの場所に散っていく頃、川の水で顔を洗って帰り支度をするフィンにオベロン王が声を掛けた。
「さてフィン、あなたに頼み事があるのです」
「そういうことは先に言ってください。俺はてっきり宴に呼ばれて来たんだと思って帰るところでしたよ」
「ええ、呼びました。これは本題というほどのことではないのです。あなたが神経を尖らせているのと同じ緊張から、私は街に暮らす妖精の身を案じています。私は里を離れられません。あなたの行くところに妖精がいれば、気に掛けてやってはくれませんか。妖精というのは時々、無茶をするものですから」
「それは本題でしょうが。無茶、ねえ。かまいませんよ。どうせ街々を回るつもりなんだ。引き受けましょう」
「フィン・マックール、何かあればこの里はいつでもあなたに協力を惜しまないでしょう」
「そいつはありがたい」
以前からフィンは妖精たちの様子をしばしば見に行っていた。王に頼まれてみると最近は疎かになっていたと気付く。
フィンは具体的な目的ができると、落ちつける先のなかった焦りが引いていくのを感じた。里をあとにしながらオベロン王にはかなわないと苦笑する。
まずは一番心配な妖精たちのもとを訪ねることにした。
倉庫街のジャックフロストたちだ。
里ではオベロン王とティターニア女王の目があったから妖精たちは行儀良くしていた。
倉庫に棲みついたジャックフロストたちときたら、皆で楽しく暮らすのは結構だったが、思い付くままに互いに賛同し合って、ときに困ったことになった。
フィンは歩きながら以前の勲章騒動を思い出していた。あれは人間が作った偽物の獣の皮が次々に寿命を迎えて駄目になって、ポルターガイストたちがビルのロビーで朽ちていくソファを撫でては寂しげにしていた頃のことだ。
ジャックフロストたちは倉庫から出ていて、一体は木の枝にぶら下がっていた。
「よう。オバリヨンの真似かい」
フィンが下から声を掛けると木の枝をゆすりながらジャックフロストが苦しそうな声で返事をした。
「だれのことだホ、オイラ、もう限界が近いんだから話しかけるなホ。ヒホ!」
突然木の枝が音を立てて斜めに割れて、細くつながったところで一度こらえた後、最後まで裂けた。枝に両手でつかまったままジャックフロストは尻から落ちて、しばらく呆然としていた。
わらわらとほかのジャックフロストたちが集まってくる。
「ちょっと大きすぎるホ。欲張りだホー」
「ヒホヒホ。キミのお尻、まっ平らになってるホ」
落ちたジャックフロストは立ち上がって自分の尻を撫でて悲しそうにした。フィンはため息をついて魔石を一つ取り出した。
「お前さんたち、これはなんだい。俺は高いところにぶら下がるのが好きなオバリヨンて悪魔を知っててね。その真似かと思ったんだが」
「オイラたち、そんな悪魔知らないホ。これからフィンの真似をして遊ぶんだホ」
「俺だって?」
ジャックフロストは枝から葉と小枝を折り取っては後ろに放る。
もう準備ができていた二体のジャックフロストたちが走っていく。倉庫から持ち出してきたのは自分たちの腕より長い枝だった。彼等は向かい合うと、片手に掴んで後ろに引きずっていた枝を両手に持ち直して、頭の横から枝先を下げて構えた。
(もしかして俺の構えのつもりかい)
妖精たちが目を吊り上げて真剣な顔をしているので、フィンは笑いを噛み殺しながら様子を見守ることにした。
目の前の戦いはどちらかと言えば剣の重みとの戦いだった。ぶんと振り回せばそのまま体まで回ってしまいそうになる。その隙に前に振りおろせばさっきまで相手がいたあたりに空振りをして一、二歩前によろけてしまう。
それでも順番待ちのジャックフロストたちは夢中になって、好き放題に野次を飛ばしたり、物知りの解説者ぶったりした。
もう少し手頃な枝を折り取ってやろうとフィンが目を離したときのことだった。
「ヒホーッ!」
ジャックフロストの叫び声がした。
フィンが振り返ると、叫んだジャックフロストの手には剣はなく、もう一体のジャックフロストの雪でできた胸に突き刺さっていた。
枝が刺さったほうのジャックフロストは剣を手に持ったまま驚いて何も言わない。
フィンの耳は何の音も拾わなくなった。刺さった枝がずり落ちようとするのを見てようやく駆け寄ると枝をつかむ。枝の重みで傷口は縦に広がっている。
「おい! 大丈夫か」
幸い枝は後ろに突き抜けてはいない。
「抜くぞ。動くなよ」
傷口が広がらないように角度を変えずにゆっくりと抜き取ると、雪でできた体にぽっかりと空洞ができてしまった。中を覗くと雪洞を思わせて薄青い。背中近くまで刺さったために、奥はぼんやりと明るかった。赤い光が見えないことにフィンは胸をなでおろした。悪魔が消滅するときには傷を受けたところから赤く崩れていく。
フィンが手持ちの魔石を取り出そうとしたとき、放心していたジャックフロストは胸の穴を手で隠した。穴空きの胴体を見下ろす。ぽつりと話す声が小さいので、一同は身を乗り出した。
「オイラ平気だホ。このくらい自分でなんとかできるホ」
「馬鹿言うな。お前さんは正面から見てないからそんな気がしてるんだろうが」
フィンがジャックフロストの手をどけようとすると、ひどく冷気がもれているので驚いた。あまりの冷たさにかえって熱いような錯覚があって思わず手を引っこめる。
ジャックフロストが手をずらすと、胸に空いた穴に氷がぴったりと詰まってきらきらと光った。自分の傷口を撫でて確かめた妖精は、いつもの生意気さを取り戻す。
「ヒホヒホ、心配性だホ」
ほかのジャックフロストが彼の胸に走る細長い氷を覗き込んで羨ましがった。
「それってあれだホ、傷は戦士の勲章ってやつだホ。前にあるとえらいんだホ」
「なんだかかっこいいホー」
かっこいい、と言ったジャックフロストが、フィンが持っている枝を見た。
フィンは全ての剣を没収すると宣言した。
ごっこ遊びを禁止したと言っても、枝はいくらでも手に入る。向こう見ずな妖精たちの口約束を信用しなかったフィンは、月が半分欠けたころに倉庫街の様子を見に行った。
彼を見たジャックフロストたちは倉庫の奥に一目散に走っていった。
(こうも怪しい反応があるかい)
後に付いて入ってみれば今度はどのジャックフロストもやけにきびきびとして、元気にやっているから大丈夫だとフィンを追い返そうとする。
フィンの目が倉庫の暗がりに慣れると、彼らの胸の雪がいくつもボタンを付けたように膨れていることに気が付いた。中には少しはげ落ちて光っているものもあった。
「そこ、雪が取れてるぜ、ほら」
そう言ってみると全員が自分の丸い胴を見下ろした。
観念したジャックフロストたちの雪を払い落としてフィンはため息をついた。感心したのではない。どう説教をしたものかと思ってのため息でもあり、何を言っても聞かないだろうというため息でもあった。
全員が胸に三つは円い氷を詰めていて、またその氷ときたら紫や橙や緑と色とりどりに染まっているのだった。
「説明してくれ」
「そんなに知りたいホ?」
ジャックフロストたちは怒られるのは嫌だったが、自分たちの思い付きの素晴らしさについては話したくてうずうずしていた。倉庫のコンテナの奥に隠していた、蓋のあいた缶ジュースを何本もフィンの前に並べてみせる。中身はどれも減っていた。
倉庫の脇に自動販売機があったから、缶ジュースの入手は難しくない。ただ誰も用がないまま放置されていて、相当に古いものだ。
「ヒホヒホ。危なくないからフィンはしばらくそこで静かに見ているといいホー」
不穏な言葉だった。危なく見えることをするわけだ、とフィンはいつでも手を出せる位置まで近寄った。興味があって近くにきたと解釈した彼らははりきった。
紫が二つと焦げ茶が一つのジャックフロストが缶ジュースの隣に寝そべる。別のジャックフロストが胸の穴とよく似た太さの木切れを取り出してきて、やっぱりまた枝を取ってきたなと思うフィンをよそに、厳かな様子で掲げた。
寝そべったジャックフロストは少し迷ったあと、焦げ茶色の氷の左下を指差した。木切れの位置が調整され、強く押し当てられる。体を構成する雪が押し潰されて、胸に、おそらくフィンの人差し指がすっぽり埋まるほどの深さの穴が開いた。
フィンはまだ怒り出さずに辛抱していた。
助手役が缶を一本差し出すと、木切れを下に置いたジャックフロストがそれを受け取った。寝そべったほうのジャックフロストが両手で穴を囲み、ジュースが慎重に注がれる。自前の氷をいくらか混ぜているのだろう。穴はすぐに薄緑の氷で塞がった。起き上がったジャックフロストは得意げだ。生き生きとして腰に手を当てると胴をフィンの前に突き出す。
「ヒホヒホ、これがオイラたちの勲章だホー。色と場所のかっこよさで偉さを決めるんだホ」
「痛くはないのか」
「フィンはおこさまだホ。氷で埋めればどうってことなくなるホ!」
「痛いってことか? やめとけよ」
「でもこれは飽きたら色を変えられるんだホ」
「なにが、でも、だ。話が繋がってないぜ。いま自慢したいことを好き勝手に話すのは妖精の悪いくせだよ、まったく」
「ヒホ―! 妖精へのサベツハツゲンだホ! 許されることではないホ!」
別のジャックフロストも詰め寄ってくる。
フィンは彼らの勲章に興味がないと態度で示すことに徹した。いっときはてんとう虫のようになっていたジャックフロストたちも、月がふためぐりするころには熱が冷めて、真っ白な体に戻っていった。フィンは甘ったるい匂いを漂わせたままの缶ジュースを少し離れた溝の砂に吸わせた。ジャックフロストたちはフィンが何をしているのかにも無関心で道を走り回って遊んでいる。混ざりあった匂いに遠くでイヌガミが鼻をひくつかせ、嫌そうに鼻すじにしわを寄せた。
缶ジュースがなくなったと騒ぐジャックフロストは誰もいなかった。
(さて。どうしていることやら)
通いなれた倉庫を覗き込むと、ジャックフロストはフィンを大げさに歓迎した。コンテナの上に腰掛けると良いと言って手を引かれ、マッスルドリンコとアムリタソーダのカクテルだという飲み物が差し出された。どちらの飲み物もジャックフロストたちの力では手に入れることは難しい。とんだ高級カクテルを作ってしまったものだ。もう混ぜ合わせてしまったものを元に戻すこともできないので、過保護などこかの王様と女王様が彼らに与えたものでないことを祈りながら口をつけた。フィンは危ないものなら一口含んでわかる自信があったからで、決して妖精たちを信頼していたのではない。
驚いたことに本物だった。せいぜい花でそれらしい色と甘みを着けた妖精好みの清水だと思っていた。マッスルドリンコの幻惑によってくらりときたところをアムリタソーダが打ち消して、醒めてしまった酔いを名残惜しく思う。疲れが取れていく。
「……うまいな。どうしたんだよこんな良いもの」
「リッチな悪魔にもらったんだホー」
ジャックフロストたちは威張った。
「リッチ? それにしたっていきなりもらわないだろ? 怪しいやつと変な取り引きはしないでくれよ?」
「いきなりくれるのがリッチなんだホ。飲んだからにはオイラたちの要求も飲んでもらうホ!」
「お前さんたちは俺にリッチに飲ませてはくれないのかい? まあいいさ、そういうことだとは思ってたよ。聞こうじゃないか。なんだい一体」
「サケって魚を探すからフィンはそれを手伝うんだホ」
「なんだって。東京にはいやしない。あれはもっと寒い国の魚なんだ」
「見ればわかるからついてこいホー」
鮭、と言い出したのはフィンが触った知恵の鮭から来ていることはおおよそ想像がつく。しかしそんなことは前々から彼らは知っていたはずで、どうしていきなり探そうなどと言い出したのかがわからない。
考える間もなくフィンは肩から掛けて鎧を覆っていた白布を引かれ、コンテナから下りなくてはいけなかった。
ジャックフロストたちに静かに歩けというのは無理な話だ。彼らの能天気な遠足は気が立った悪魔の目につくことがあって、フィンは道中で多少の殺生をしなくてはならなかった。ベリルなどは馬を駆り、長い槍の先を地に滑らせるように迫ってきたものだから、見当違いな方向へ逃げまどう雪だるまたちが引っ掛けられないようにするのに苦労した。
「ここだホー」
フィンは連なった倉庫の一つに案内された。
開け放された倉庫から冷気が漏れている。ジャックフロストたちがねぐらにしている倉庫も、例えば崖の北側の洞窟程度には冷えていた。目の前の倉庫ときたら段違いだ。入り口の前に立つだけでも吸った息が胸の奥を冷やした。
「待ってくれ。なんだよここは、お前さんたちには快適かもしれんが俺はそうじゃない」
近くにいたジャックフロストがやれやれと首を振る。
「情けないホー。英雄なんだからちょっとは我慢しろホ、修行不足だからそういうことになるんだホー」
仕方なく倉庫に入るとコンテナが天井近くまで高く積み上がっていて、その向こう側から悪魔の気配がする。フィンは剣を構えたところ、ジャックフロストから一発背中を叩かれた。失礼にあたるそうだ。フィンは相手をいたずらに刺激するまいと、警戒しながらも構えを解いた。
「フィン・マックールを連れてきたホー」
簡単に正体を明かされてフィンは早くも少し不利になった。
ゆっくりとコンテナの裏に回ると、金色の丸い壁があった。太い南京錠を下ろした頑丈そうな扉が付いている。よく見るとそれは小山のような悪魔の胴体で、見上げていくとジャックフロストそっくりの顔と目が合った。豊かな巻き髪が顔の横を飾っている。フィンはジャックフロストたちの話していたリッチな悪魔のことを思い出した。キングフロストだ。カクテルの出どころはここか。
「ホーウホーウ! 本当に連れてくるとは大したやつらだホー。約束通りこの倉庫の捜索を許すホー」
フィンが覗いたコンテナの中には同じ大きさに作られた平たい箱が積まれていた。箱に空いた籠目からまた別の箱が覗いていて、覗き窓からは曲がったまま凍り付いた魚の尾や、白くなった目玉が見える。何か走り書きのある箱、紙片を貼り付けた箱もあったが、フィンはこの国の文字が読めなかったから、手掛かりにはならない。あまり長い間見ていると寒さに目が痛んだ。
もしも彼が倉庫の隅の温度計を見つけてそれがまだ壊れていなかったなら、倉庫の中がキングフロストによって零下四十度に保たれていることがわかっただろう。
キングフロストは昔、倉庫番の人間と過ごしたことがあった。そのときの温度を体で覚えて丁寧に再現しているのだった。魚が当時の鮮度を保っているのはキングが一度もその管理を怠ったことがない証拠だ。なかなかできることではない。過去には一体の小さなジャックフロストだった彼も、今は妖精以上の存在だった。
オベロン王とティターニア女王は彼の存在を把握しているだろうか。キングフロストに登り詰めたことを知らなかったなら、きっと雪の妖精が果たしたたゆまぬ努力を称賛する。報告すべきだろうとフィンは考えた。しかしとにかく寒すぎた。
「キングフロスト、アンタのご厚意には応えたいんだが、一度外に出てもいいだろうか」
「ホーウホーウ! 時間を無駄にするとはリッチだホー。好きにするといいホー」
「助かるよ。ほら、お前さんたちも来てくれ」
言葉と引きかえに喉に冷気が流れこんで咳が出そうだった。
外に出るとこれまで暖かいとも寒いとも思わなかった魔界の空気が痺れた手足を温めた。剣は冷たく、刀身に触れれば指が張り付きそうだった。鞘に収めてもまだ、フィンの太腿を冷やした。
「どうして出てきちゃうんだホ! 早くサケを探すんだホ」
「無理だ、修行不足は認めるさ。俺には冷たすぎる。そもそもなんでまた急に鮭なんだい」
「オイラたち、キングに出会ったあの瞬間からキングになりたくて堪らないんだホー。キングになるには賢くないと駄目だホ。ヒホ、勘違いするなホ、知恵のサケが倉庫にあるなんて思ってないホ。でもサケがどんな魚か知らなかったら目の前にあっても素通りだホー」
危ないから遠出はするなと忠告したはずだとむなしくなりながら、フィンはしゃがんでジャックフロストと目線を合わせた。
「知恵ってのは、お前さんたちがほしがってるものとは限らんぜ。多分、これから先、知恵の鮭が目の前に現れるなんてことはない。キングになるにもいらんだろう。それでも鮭が見たいかい」
ジャックフロストたちは顔を見合わせた。
「ヒホ……でもオイラ、もうサケがわかる気で来たホー」
「オイラもどんな魚か気になるホー」
「どうしても寒いホ?」
フィンの陰のある調子に、彼らもさすがにおずおずと様子をうかがうようにした。
そりゃ寒いさ、と思いながらフィンは妖精たちを見回した。彼らの好奇心は底なしだ。はりきっていただろうし、道中の楽しげで落ち着かない様子を見ていると、強く制止しがたい。いつ現れるかわからないフィンを待ちながら期待を膨らませていたのだろう。特に今回はフィンはいつもより長いあいだ倉庫を訪れなかった。ようやく始まるところだった魚探しだ。
(妖精って種族は本当に、困ったもんだ)
フィンは尖った石ころを拾った。
「こうしよう。俺はこの中で魚探しは無理だってことはわかってくれよ? 少しここを離れるが、そのあいだにお前さんたちはこのくらいの大きさの魚が入った箱全部になんでもいいから目印を付けてくれ」
フィンは石ころで地面に細長く楕円を描いた。
ジャックフロストたちは進展がありそうだと見ると嬉しそうな顔で作戦を承諾した。楕円の両端に手を置いて、腕の開きを保ったまま一体ずつ倉庫に走っていく。フィンは石ころを楕円のそばに放って歩き出した。
フィンが倉庫に帰ってきたとき、腕には三人の、コロポックルという老いた小人を抱えていた。一人のコロポックルは大事なフキを片手に持って、もう片方の手で狐の姿をした小さな悪魔の左足を掴んでいた。チロンヌプだ。チロンヌプはフィンの腕を右足で踏みつけて、なんとか脱出しようと精一杯力を込めている。フィンの腕にはチロンヌプの小さな足跡がいくつも付いて赤くなった。
「離せよじいちゃん! オイラ寒さは苦手じゃないってだけで、じいちゃんみたいにへっちゃらじゃないんだ」
きちんと同意を得たはずだが、ひょっとしてフィンのことが怖かっただけなのか、コロポックルたちはつぶらな瞳を潤ませて口もきかずに震えている。
「あー。悪かったなじいさん、あとで礼はするよ」
倉庫の中は騒がしい。意を決して冷気の中に踏み込んでいくと、チロンヌプが体をぶるんと震わせた。コロポックルたちは頭の上に被せるように低く握っていたフキの葉を傾けて、極寒の倉庫を珍しそうに見回し始めた。確かに寒さは何ともないらしい。屋根があるこの場所は外よりも随分落ち着くようだ。
「こりゃどうしたことぢゃ。ホッカイドウでもなかなか記憶にない寒さぢゃわい」
フィンは腕から出て辺りを見て回ろうとする小人たちを押し留めて、キングフロストとの謁見を先に済ませた。彼らにすればあまりに大きな悪魔だ。案の定彼らはまたフキの葉の下に引っ込んでしまって、キングからは三枚の葉っぱと小さなキツネしか見えなかった。
キングフロストとジャックフロストたちは近しい存在であったから、ジャックフロストの要求をあれこれ叶えてやったらしく、魚はどのコンテナに入っていたか分かるようにはしたままで、コンテナの外に積み上げられていた。
「さすがキングだホー。オイラたち、とっくに全部の魚の大きさを確かめ終わったホー」
「じゃあお前さんたち」フィンはここまで話して冷気に咳き込む。「コロポックルのじいさんたちを目印を付けた魚のところに連れていってやってくれ。じいさん、さっき話したとおりだ。鮭はあるか見てくれよ」
フィンは倉庫から退散した。
コロポックルはジャックフロストの帽子の上に腰を下ろして順々に魚を見て回っている。点検すべき箱には氷のこぶが付いていた。足を掴まれたままだったチロンヌプはようやく解放されて、ずっと握りしめられていた左足を撫でた。足首が凹んでしまったような気がした。
「キミもサケを探してくれるホ?」
背後から冷たい雪の妖精の手に掴まれたチロンヌプは泣きっ面に蜂だった。ぎゃんと一声鳴いて倉庫の外に飛び出した。フィンは倉庫前でかわいそうな小さな悪魔をなだめて過ごした。
「フィンー! 見に来るホー!」
チロンヌプも少しためらってから、フィンと共に倉庫に入った。
コロポックルたちが一つの箱を囲んでいる。囁くような声が「カムイチェプ」と繰り返している。きっと彼らの言葉では鮭は「カムイチェプ」なのだ。中には口元が曲がった大きな魚が収まっていた。
「フィンが触った知恵のサケもこんな魚だったホ?」
「ああ、そうだ。あって良かったよ」
フィンはキングフロストにお礼を述べて、近くにいた二体のジャックフロストの頭を帽子の上から無造作に撫でた。他のジャックフロストも寄ってきたので同じようにしてやる。コロポックルはその様子を見て嬉しそうにしていた。
フィンたちにとって、鮭が多く棲むホッカイドウで生きてきたコロポックルが倉庫近くで暮らしていたのは幸いだった。フィンはホッカイドウという地名は知らなかったものの、彼らが北の方の出身だと思い出したのだった。チロンヌプは同郷のコロポックルと世間話をしに山から下りてきていたのでとんだとばっちりだ。
「お前さんたち、せっかく見せてもらったんだ。ちゃんと特徴を覚えろよ」
「その必要はないホー。キングがリッチに一匹くれるんだホ!」
フィンは体がすっかり冷えていたが、これはひとこと言わなければならなかった。
「おいおい。気持ちだけ受け取って鮭は返せよ。ずっと冷やしてないと魚は駄目になるんだぞ。みんなが表で遊んでいても誰かはこの先ずっと魚の番をしなきゃならん。これだけの冷気を作ろうとしたら、お前さんたちの魔力じゃすぐにへばる。これはキングだからできるんだぜ」
「ヒホホ……」
ジャックフロストたちは言い返す言葉が出てこなかった。
成り行きを見守っていたキングが錫杖をつく。
「ホーウホーウ! キングを目指す者がうなだれるなホ! そういうことならオイラはここでキミたちのサケをずっと預かっておいてやるホ!」
ジャックフロストは口々にキングのリッチな提案を賞賛して、彼への憧れを強めた。本当はキングはこれまでと同じ数の魚を冷やすだけだったが、ジャックフロストの中にこれを気にしたものはいなかった。
記憶だけは持って帰ろうと、ジャックフロストたちは鮭の形を覚えることにした。フィンたちを外に待たせておいて、何度も首をひねりながら空中に鮭を描いた。
彼らが倉庫を後にするとき、フィンはコンテナの向こうで錫杖がごつと床をつく音を聞いた。悪魔の気配がどんどん増えるのを感じて剣の柄を握ったが、倉庫からは何も出てこない。散らかった箱が引きずられる音が漏れてくる。あのキングフロストは魚の王かと思ったが、どうやらそれだけではないらしい。
礼金をたっぷり持たせたコロポックルたちと別れた帰り道、ジャックフロストたちはフィンの前を歩いたり、後ろを歩いたりしながら、おかしな形をした魚の話を楽しんでいた。フィンは勲章事件のことを思い出して、ジャックフロストたちの背中に尋ねた。
「お前さんたち」前を歩いていたジャックフロストはフィンのほうを振り向いたまま後ろ向きに歩く。「最近はどうして偉くなりたいんだい。前はそんなこと言ってなかったろ」
一番近くにいたジャックフロストが立てた指を口元に当て、上を向きながら考える。
「オイラたち、とけてみたんだホ」
「それ言うのかホ? 怒られるホー」
「もう言っちゃったホ」
フィンは思わぬおおごとに咄嗟に言葉も出なかった。怒られなかったのでジャックフロストは続ける。
「オイラたちは本当は春になったらとけてたんだホー。こんな世界になったからずっととけないだけだホー。だからとけてみたくてジャックランタンに腕を炙ってもらったホ。ずっと良い調子だったんだホ。でも最後の一回はうっかり火加減を間違ったんだホー。倉庫の床に染み込んで、それきりだホ」
「待てよ。おい、いつの話だ。勲章で遊んだときは」
一体のジャックフロストが首を傾げる。
「そのちょっと前だホー」
フィンはジャックフロストが一体入れ替わっていると気が付かなかったことに、頭の奥底が冷えるような心地がした。倉庫にいるあいだには決して彼らはそんな怒られそうな遊びをしなかっただろうが、それでも長く倉庫に来なかったことを後悔した。
「フィンはすぐ話の腰を折るホ!」
別のジャックフロストが話を引き継ぐ。
「オイラたち、もともとは一番命が短い妖精なんだホー。とけるってとっても自然な感じがしたホ。でも春が来ないせいで、誰かがとけても別の誰かが出てきてキリがないんだホー」
三体目のジャックフロストがフィンにまとわりついて話し始める。
「オイラたち、とけるのはやめて、時間をユウコウカツヨウしてビッグになることにしたんだホー!」
「フィンは英雄だホ? 英雄にはかっこいいデンセツがつきものホ。これはビッグだホ。外せないホー。だから修行して冒険に出掛けたホ」フィンはその冒険で入れ替わったジャックフロストがいるのか、どうしても訊けなかった。「ヒホヒホ、いつか冒険の話をしてやるホ。そのときにキングに出会ったんだホー。キングはすごくリッチで偉そうな感じがして、ビッグだったんだホー。よく考えたら英雄のフィンだってオベロンとティターニアには頭が上がらないホ。ヒホ? オベロンも本当はリッチなのかホ?」
「つまり一番ビッグなのはデンセツのあるキングだホ。おかざりのキングはごめんだホ。オイラたちまずは冒険してデンセツになるんだホ!」
熱弁を終えたジャックフロストは満足げに額をぬぐった。フィンは黙っていた。なんて簡単に、命を落としかねないことに手を出すのか。
フィンはフィン・マックールという一人の英雄としての自我を持っている。ジャックフロストたちはどうにも個の境界があいまいだ。フィンがかつて活躍した国は、キングフロストの倉庫ほど寒くはなかったが、冬になれば山が雪で白くなった。山のどこから一抱えの雪を持ち上げたとしても、腕の中にあるのは同じ空から降った雪だ。たったひと冬だけで、冬の終わりが来ればみなで命を終える彼らの死生観を、フィンはこれまで考えてやらなかった。
「なあ」
フィンは口を開いた。ジャックフロストたちは言いたいことを言い終えて、意気揚々と歩き出そうとしていた。
「命は大事にしろよ」
「フィンはおかしなこと言うホー。フィンの方がたくさんぶっころしてるホー」
ジャックフロストが立っているのはさっきベリルたちがいた場所だった。
「それはそうだ」フィンは苦笑いを浮かべた。「じゃあたくさんぶっころした俺が、お前さんたちに英雄への第一歩として一つ作戦をやろう。聞くかい?」
ジャックフロストたちは目の色を変えて催促した。
「もったいぶらずに教えろホー!」
「……ジャックランタンを通じて情報を流すんだ。冒険に出た八体のジャックフロストたちが小人とともに宝物を見つけて、それがとても価値があるもんだからキングの宝物庫に納められた。こんなところだな。宝物が何かは言うなよ」
「それってサケのことだホ。それで英雄になれるホ?」
「伝説を作るんだろ? どんな強い敵を倒したって、相手かお前さんたちのどっちかが注目されてなきゃ駄目さ。尾ひれも使いようでね。お宝の価値は噂と想像の中でどんどん上がっていくんだ」
フィンはここで人差し指を立てて声を低めた。
「ただし、もし宝物を狙うやつが現れたら、お前さんたちはキングの前に立って戦うんだぜ。お宝の価値が上がるほど、強い奴もそのお宝がほしくなる。難しいのはしょうがないさ。英雄って呼ばれるには難しいことに成功しなきゃならん」ジャックフロストのうちの誰かがごくりと喉を鳴らした。「宝物の話、王を守って戦った話。英雄譚はできたろ。あとは修行でもしてキングになるんだな」
フィンは彼らには英雄になろうとしたことは忘れて倉庫前で遊んでいてほしかった。英雄になるのは難しくて楽しくない。そう思ってくれればいい。ジャックフロストたちに帰ろうと促しながら、フィンは心配が増えて付け足した。
「ああ、剣は使わなくていいぜ。俺のときはそういう時代だったってだけさ」
フィンは作戦をどうするかゆっくり悩むよう言いおいた。心ここにあらずといったふうで手を振るジャックフロストたちに見送られながら、フィンは倉庫を後にする。
(いやはや、英雄、ときた。さて、一番手のかかる奴らからと思って来たが、こいつはどっと疲れたよ)
フィンは予定を改めて、セタンタのところに行くことにした。妖精にしては珍しいほど話の通じる相手だ。この妖精の関心ごとも武勲を上げることで、おそらくフィンが顔を出せば、修行の成果を見せようとするだろう。手合わせとくるか、竜退治に誘われるか。丁度いい。フィンは芯から温まるまで体を動かしたい気分だった。