キスも何も出来ませんので フー、と長い息を吐き出した肥前くんはその鋭い目を細めて私を睨みつける。まるで地獄の底から這い上がってくるような低い声はとてもピリついており、彼の機嫌が急降下していくことを知らせていた。けれどこればかりはどうしようもない。こちらにだって譲れないものがあるのだ。
「……おれは優しいからな。もう一回だけ聞いてやるよ」
「や、やだ…」
「やだじゃねぇんだよ、やだじゃ。おまえから誘ってきたんだろうが」
「それはそうなんだけど、無理な理由が出来たといいますかなんというか……」
「あァ⁉︎」
もごもごと言い訳する私の言葉に肥前くんのひどくオラついた声が被る。何もそんなに怒ることないじゃないかとは思うのだけど、明日は久しぶりに二人の非番が重なった日なのだ。最近は仕事も落ち着いているから睡眠もきちんと取れていて、そのおかげか体調もすこぶるいい。だからまぁ、そういうお誘いを私からしてしまって、それで今に至るのだけれど。
煮え切らない態度の私にガシガシと頭を掻いた肥前くんの口からは、これまた一段と低くて長いため息が吐き出されている。そんなに息を吐き出したら死んでしまうのでは、といらぬ心配をしてしまうほどに肥前くんの機嫌は悪くため息は長い。
「なんなんだよ、何が気にいらねぇってんだ、えぇ?」
「だ、だから謝ってるのに…」
「理由を言えっつってんだよ、理由を」
「理由、は…えっと……」
じりじりと、皺ひとつない布団の上で私は肥前くんに追い詰められていく。悪足掻きのように彷徨う目線は先ほどから彼を通り越して部屋の壁やら天井やらを滑っていくし、かち合わない視線は更に肥前くんを苛立たせたようで至極機嫌悪そうな舌打ちすら聞こえてくる始末。
それでも私が拒否している以上触れて来ないようにしてくれているのは彼の優しさであり愛情だ。けれどそれがわかっている分罪悪感は一入で、だから私は正座なんてして少しでも誠意が伝わるようにと努めている。まぁ全くもって伝わってはいないんだけれど。
「で?」
「えー…と、ですね……」
「言わねぇならこのままするぞ」
「そ、それは困る…!」
だから何が困るのだと、眉間に皺を寄せる肥前くんは焦れたように首元に巻かれた包帯に手をかけるものだから私は慌ててしまった。困る。本当に困る。何がなんでも今日は本当に出来ないのだ。
包帯にかかった彼の、見た目よりも温度の高い手に触れるときゅっと肥前くんの眉間に皺が寄るのがわかった。それは機嫌が悪いというよりもどこか拗ねたような表情で、私が何かを言うより先に肥前くんの大きな手がぐるりと体に回される。ぴたりとくっついた体もそのままに肥前くんが後ろに倒れるものだから、抱きしめられた私もそのまま一緒に布団に倒れ込む羽目になってしまった。
ほんの少しの浮遊感と肥前くんの体越しに感じる衝撃。呆れたような、それでいて諦めたような大きなため息が耳元で聞こえてきたかと思えば私の体に回された腕の力がぐっと強くなった。
「寝る」
「お、おやすみ…?」
「……覚えとけよおまえ」
ドスの利いた声で恐ろしいことを言いながら肥前くんはおもむろに目を閉じた。重いだろうに私を自身の上に抱き上げたままフン、と鼻を鳴らした彼の顔は相変わらず顰められている。私の体に回した腕も解く気はないようで、身動ぎしようとする度に咎めるようにぎゅっと力が強くなるから全てを諦めて身を委ねることにした。
「肥前くんごめんね」
「………いい」
いい、というにはあまりにも長い間があったけれど抱きしめる以上のことをする気はないようで、まるで寝かしつけるようにぽんぽんと私の体を叩く肥前くんはやっぱり優しい。
「次の非番が被った時は多分、大丈夫なので」
「当分先だけどな、次おまえと非番が被るの」
欠伸をしながら眠そうに返事をする肥前くんの体に合わせて私もそっと目を閉じる。呼吸に合わせて上下する胸元に頭を預けていると安心するから、自然と私の口からも同じように欠伸が漏れ出てしまった。おやすみ、と掠れた声が上から降ってきて同じようにそれに返す。肥前くんの胸元に頭と顔を擦り付ければ薄い笑い声と共に体を叩く手も優しくなった。
明日はせっかくの非番だけど仕方ない。肥前くんには悪いけれど、たまにはこうして二人で寝るだけの日もあっていいだろう。
「あのね、絶対次までには口内炎治しておくからね」
「おう。……は?」
「おやすみなさーい」
「いや待ておい、寝るな、おい口内炎ってなんだ、ふざけんなよおまえ」
ゆさゆさと体を揺さぶられているけれど私の頭は一足先に夢の中に旅立っている。なので返事を返すことはできないし、ましてや今から起きて肥前くんと何かをすることなんてとてもじゃないが出来やしない。申し訳ないけれど肥前くんには次の非番まで我慢してもらうしかないのだ。
口の中に出来た巨大な口内炎の痛みに顔を顰めつつ、肥前くんの苛立った声にも耳を傾けつつ、しかし私はそのまま眠ってしまったのだった。