シンデレラには程遠い 満月の夜は気分がいい。それも酔いが回っているなら尚更。足の裏がぺたりと金属でコーティングされた階段を踏む。所々メッキが剥がれた寂れた歩道橋は、深夜なこともあってか誰もいない。
温い風がさわりと体を撫でていくのに身を任せながらタンタン、とリズム良く階段を駆け上がっていく。酔いで火照った体に初夏の風は心地良い。そういえば夜は冷えるかもしれないからと羽織っていた上着はどこにやったんだっけ。考えてみたけれど、たくさん飲んでしまったお酒のせいでなんだか思考が覚束ない。
そんなことを考えながらも鼻歌混じりに階段を上がっていく。メッキは剥がれ、至る所に落書きが施された深夜の歩道橋を裸足で上がっていく女って傍から見るとやばいかもしれないな、なんてことも考えたけれど今は誰もいない訳だし気にしないことにする。
ざらりとした感触が足の裏を刺激するのがなんだかくすぐったくて、一人で笑っていると下から呆れたような声が飛んできた。
「おいシンデレラ、全部落としてってんぞ」
ぺたり、と階段を上がり切った先で下を見下ろせば、私の上着やら靴やら鞄やらを両手に抱え込んだ肥前が仏頂面で立っていた。さも不機嫌そうに顰められたいつも通りの顔は私と違ってちっとも赤くなっていない。
目元は鋭く細められ眉も寄ってはいるけれど、私が一つひとつ落としていったものを律儀に全部回収してきてくれている辺り脇差の習性なのか何なのか、世話焼きだよなぁなんてまるで他人事みたいに思う。冷たい欄干に体を預けて身を乗り出せば、これまた嫌そうに唇が折れ曲がるのが可笑しい。
「えー?何、もう一回言って」
「聞こえてんだろうが、おい」
嫌そうに顔を顰めながら一段一段階段を上がってくる肥前は当然靴を履いている。けれどスニーカーの後ろを潰しているから、一段上がる度にぺたぺたと間の抜けた可愛らしい音が聞こえてくるのだ。
火照った体には欄干の冷たさくらいがちょうどいい。彼がゆっくりと階段を上がってくるのを見下ろしながら、眠るように瞼を閉じてひやりと冷たい金属に頭を預ける。温い風が髪の毛を巻き込んで駆け抜けていく感触、肥前が足を動かす度に重みで揺れる足場、人の声も車の音も聞こえない静かな空間。
なんだか楽しくなってしまって口から忍び笑いを漏らせば、階段を上がり切ったらしい肥前の低くざらついた声が耳に届いた。
「何笑ってやがんだ、この酔っ払い」
「肥前も飲めばよかったのに」
「おれはただの迎えなんだよ」
「えー」
ぺたぺたと間の抜けた音を立てながら近づいて来た肥前は私が途中で脱ぎ捨てた靴を足元に置く。滅多に履かない九㎝のヒールは、本当はずっと足が痛かった。こんなに気分がいいのに今からまたこれに足を通すのかと思うと気が重くなる。裸足で歩く楽しさを知ってしまった後なら尚更だ。
「……どうしても履かなきゃ駄目?」
「あ?」
私の上着や鞄を抱え直していた肥前から返ってくる言葉は短く、そしてなんとも柄が悪い。逃げるように一歩引いた足の裏が歩道橋のざらついた地面の上を滑る。
「おい、」
くるりと背を向け、ぺたりぺたりと肥前と同様間の抜けた音を立てながら歩道橋の上を歩き出す。いつもより視界が高くて、空が近い。綺麗な満月に見下ろされながら好き勝手歩いていく私の後ろをため息を吐いた肥前が追ってくるのがわかる。靴どころかストッキングも途中で脱ぎ捨てた足の何と軽いことか。
「ねぇ、さっきのもう一回言って」
「あ?どれだよ、ていうか靴履け」
怪我しても知らねぇぞ、なんてぶっきらぼうな言い方の割には優しい言葉をかけてくれるからつい甘えたくなってしまうのだ。くるりと振り向いた私の体を一際強い風が撫でていく。スカートの裾がふわりと揺れて、肥前を見る私の顔はきっとにんまりと笑っているに違いない。
「私のことシンデレラって呼んで」
まぁ酔っ払いの戯言だ。うふふ、と口から漏れ出る笑いもそのままに肥前を見つめれば呆れたように一度口を開けた後、これまた大きなため息をつかれてしまった。はぁ、と吐き出されたため息が示すのは呆れなのか煩わしさなのか。はたまたそのどちらもなのかはわからないけれど。
五歩分開いていた距離をゆったりとした速度で詰めた肥前はもう一度大きなため息をついたかと思うと、急に目の前で片膝をついた。彼の膝がざり、と音を立てるのを見つめながら目を丸くした私を見上げた肥前の顔は少しだけ意地悪そうに笑っている。
「こんなじゃじゃ馬なシンデレラがいるかよ」
「わっ」
柄にもなく恭しく差し出された手に手を重ねれば、存外強い力で腕を引かれて私の体は呆気なくバランスを崩しまう。目を瞑って衝撃に備えても痛みは一向にやって来なくて、それどころか感じるのは浮遊感だ。さっきまで肌に当たっていた気持ちのいい風もない。代わりに熱くて固い感触が私の体を包み込んでいる。
「……ちょっと、何するんですか」
「おまえが靴履きたくないとか我が儘言うからだろうが。落ちないように捕まっとけ」
ハッと息を吐き出すように笑った肥前の顔が近い。所謂お姫様抱っこをされているらしい、とようやく脳が理解した所で先手を打つように暴れるなと釘を刺されてしまった。私を抱き上げたまま器用に上着や鞄、靴を持った彼は寂れた歩道橋を殊更ゆったりと進んでいく。ぺたぺたと間の抜けた音は相変わらずで、重さを少しも感じさせない澄ました顔がほんのちょっとだけ腹立たしい。
「…こんな凶悪な顔した王子様嫌なんだけど」
「あぁ?」
だからわざと拗ねたような顔を作って口を尖らせれば、途端に柄の悪い返事が返ってくる。
「おまえだってシンデレラって柄じゃねぇだろ」
それはそうかもしれないけど何て失礼な奴だ、と言い返そうとして、けれどくつくつと笑う肥前の顔が思っていたよりも穏やかなものだったから私は何も言えなくなってしまった。
今夜はとても月が綺麗だ。酔っているせいもある。だから高鳴ってしまった胸の鼓動も何もかも、全部肥前が悪いことにした。