或いは嘘と揺れる海の果て蝉の音がうるさくて、気が滅入る昼過ぎ。
ベランダで気だるげに、友達の紗和(さわ)と横に並んでアイスバーをかじる。
水を張った金盥(かなだらい)に足を浸けた紗和が、おもむろに口を開いた。
「そういや、ずっと言いそびれてたんだけどさ…私、人魚なんだよね…」
「……はぁ?」
或いは嘘と揺れる海の果て
なにを言ってるんだ?この子は…
暑さで頭がやられたか?
「ねぇ、亜希(あき)…声に出てるよ」
「ごめん…」
頬を膨らませて、すねる紗和。
こういう子供っぽいところが、微笑ましくて、思わず笑みが溢れる。
「……ふふっ」
「わーらーうーなぁっ!!」
いよいよ紗和が怒り始めたので、話の続きを促すことにする。
「ごめんって!……で、何?
紗和が人魚って、どういうことよ?」
「そのまんまの意味だよ。
私ね、海水に全身浸かると…なんと!人魚になっちゃうの!」
呆れてものが言えないとは、このことか…
深くため息をつく。
「ねぇ、紗和……嘘をつくにしても、雑すぎない?」
「……嘘じゃないよ!
亜希、よぉー……く、考えてみて?
私達、10年くらい友達やってるけどさ…
…一度だって、海に行ったことないよね?」
紗和の一言に、ハッとする。
確かに、私達は今まで、海には行ったことがない。
いや、まさか………本当に?いやいやいや…
「ねぇ、亜希……気になるでしょ?」
「まぁ……ね……」
歯切れ悪く返事をする私に、紗和はいたずらっぽく笑って。
「………確かめてみる?」
その一言が、とても良く響いて。
あれほど煩(うるさ)かったはずの蝉の声が、一瞬、聞こえなくなった。
***
車を走らせること、1時間強。
人気のない海岸に着く。
道路脇には、営業してるか分からない土産物屋が並んでいて、少しもの寂しくなった。
「うーみーだーーーー!」
私のもの寂しさを吹き飛ばすように、紗和がはしゃぐ。
紗和はそのまま裸足になり、一目散に海へ。
元気だなぁ…
……あ。転んだ。
「もう…砂まみれじゃん…大丈夫?」
「……うぇっ、砂が口の中に入っちゃった…」
「ぺっ!って、しなよ…」
顔面から転んだ紗和に、手を貸す。
苦々しい顔をしつつも、やっぱり紗和は楽しそうで。
どうしてもっと早く、2人で海に行かなかったのか、と悔やまれた。
砂を払い終わった紗和が、再び波打ち際に駆けていく。
今度は無事、波に足を浸けられたみたいだ。
「気ー持ちいぃー!亜希もおいでよ!」
「…今いくー!」
私も裸足になって、紗和の元へ駆ける。
砂に足を取られはするものの、何事もなく波に足をつけることが出来た。
「…亜希は転ばなかったんだね」
「……奇跡的に」
少しムスッとする紗和。
でも本当は、機嫌なんか損ねていないことを、長年の経験から知っている。
「こーいつぅ!」
ほら、やっぱり。
私に海水を掛けたいだけの、口実。
負けじと私もやり返す。
私が飛ばした水飛沫から逃げるように、どんどん沖のほうに逃げる紗和。
追いかける私。
海水の掛け合いは白熱して。
お互い、笑いあって。
海水が、紗和の太ももに届く高さになった所で、再び紗和が転ぶ。
助けようと紗和に近づいた所で、気づく。
………紗和が、起き上がって来ない。
「紗和!!!!」
急いで抱き起こし、肩を揺すって呼びかける。
紗和! 紗和!! 紗和!!!
目に涙が滲み始めた所で、紗和が激しく噎せる。ぐったりはしているが、姿はいつも通りで…
安堵と共に言葉が滑り落ちる。
「人魚だなんて、嘘じゃん……」
「………ばれちゃったか…」
力なく笑う紗和に、何も言えなくなった。
***
紗和を抱えて浜に戻ったあと、互いの服が乾くまで、海を眺める。
紗和の顔色もだいぶ良くなってきたので、改めて嘘を問い詰めることにした。
「ねぇ、紗和…どうして、嘘をついたの?」
「………どうしても、亜希と海に行きたかったの」
少し間を開けて、紗和は言葉を続ける。
「正直に海に誘っても良かったんだけどさ…私が泳げないって知ったら、亜希は心配するでしょ?」
「当たり前じゃん!」
「ごめんね。……でもこれで、心残りはなくなったよ。ありがと、亜希…」
紗和の「心残り」…
その言葉で再びハッとする。
そして、忘れたかった現実を思い出す。
…紗和は明日、海の向こうに居る恋人に嫁ぎ、日本を発つ。
……私の傍から、居なくなる。
今にも泣きたくなる感情を殺して、口角を上げ、紗和に問う。
「いい思い出になった?」
「溺れなかったら、ね。」
2人で苦笑いして、再び海を眺める。
太陽が、地平線に沈み始めている。
「………紗和の恋人が居るの、ドイツだったよね?」
「そう。ビールとソーセージで有名な、ドイツ!」
目を輝かせる紗和。口から少し涎が垂れてる。本当にビール好きだな、この子…
「飲んだくっちゃうよ!」
「程々にしときなよ、人妻…」
「……明日からは、そうだね。」
再び、しんみりした空気になる。
極度の高所恐怖症で、飛行機に乗れない自分じゃなかったら…いつでも紗和に会いにいけるのに。
「……ドイツに行っても、連絡するよ」
「ありがとう。私も連絡する。」
「亜希から国際通話料金、むしり取ってやるー」
冗談めかして紗和は言うけど、私が連絡しようとした時に、いつだって紗和から連絡をくれるのだ。
だから、多分…私が国際通話料金をむしり取られることはない…と思う。
「……ふふ」
「まーた、亜希は笑うんだからー」
2人で、くすくす笑いあう。
陽はだいぶと落ちてきていて、私達が一緒に入れるタイムリミットは、すぐそこで。
「……紗和、お幸せに」
「……ありがと、亜希」
紗和の身体は、人魚にならなかった。
けれど、愛する男のために、今までの環境を手放す、という意味では人魚…人魚姫と言っても嘘ではない…のかも?
だとすると今の私は、さしずめ人魚姫を見送る姉……か?
感慨深いような、寂しいような。
複雑な感情が、涙が滲んだ瞳が、波と共に揺れる。
「行かないで」
咄嗟に湧いた感情に蓋をして、私は紗和に一つだけ…嘘をつく。
「行ってらっしゃい」
そして、夕陽は地平線に沈んだ。
***
紗和が日本を発って、数年。
今でも、連絡を取り合っている。
お互い環境は変われど、一緒に過ごした思い出はそのままで。
今年もベランダでうるさい蝉の声を聞きながら、アイスバーをかじる。
今は隣に居ない、親友がいるドイツへーーー
海の果てへ、思いを馳せて…
終