沈む白
アローラの住民はよそ者に厳しい。観光客への対応が宜しくないというわけではない。他の地方とは海で隔てられた狭い島、住民同士の結びつきが強すぎるがゆえに、平穏を乱されるのを極端に拒む節があるというだけの話。
移植された臓器に拒否反応を起こし、紛れ込んだ異物を排除しようと躍起になる人体のように、アローラの人々は「自分たちと違う」とみなした者に対して恐ろしいまで冷酷になる。そこに、人としての温かさや思いやりは一切存在しない。
今のアローラで一番の異物はスカル団だった。解散したとはいえ、島の平穏を乱した過去は消えない烙印となって残る。有名であればあるほどに。
ひそひそと囁かれる罵詈雑言、突き刺さる冷たい視線。大人だけでなく子供までもが顔を顰めて道を譲り、物陰に隠れて何事かを言い交わす。嘲笑う声がくすくすと神経を逆撫でる。元スカル団のボスであるグズマはその中を、黒いパーカーのフードを目深にかぶって足早に歩き抜けていく。根も葉もない噂や心ない悪口にギリギリと奥歯を食いしばりつつ、ズボンのポケットの中できつく拳を握りしめた。主を心配してか、上着の内側でモンスターボールがカタカタと揺れ動く。
だが出来ない。
ここで以前のように乱暴に怒鳴りつけたり、暴れたりすれば、今までの全てが水の泡だ。スカル団を解散してから、あちこちに散った部下たちは皆それぞれに真っ当な道に戻ろうと必死に努力している。自分の些細な言動がそれらを容易く壊してしまうのをグズマは痛いほど知っていた。だから何も出来ない。何も言い返せない。ただひたすら耐え忍び、我慢するしかない。まるで針山の上を彷徨うような日々。いくらグズマとはいえ、この地獄のような状況にいつまでも耐えられはしない。狭い島の中には逃げ場など無いに等しく、グズマの心は悲鳴を上げつつあった。
* * *
気づけばいつからか、暇さえあれば海を見るようになっていた。檻の中の動物が鉄格子の外を眺めるのにも似て、外の世界とアローラを隔てる水平線を眺めるのは、人々の視線や声から逃れるのに最適だった。
キチキチキチ…と、カッターの刃を繰り出す音にそっくりな、聞き慣れた鳴き声が頭上から降ってくる。
勝手にボールから出てきた相棒を咎める気にもなれず、グズマは無言のまま沈みかけた太陽の下端を舐めるアローラの海を見ていた。主の無反応に次に何をするべきか分からなくなったのか、背後でガサゴソと落ち着かない様子の相棒に苦笑して、グズマは自分の座っている場所の隣を手で軽く叩き、座るよう促した。いそいそと腰を下ろした相棒は、主の横顔とその視線の先を数回交互に見つめ、やがて大人しくオレンジに染まった海に視線を向けた。
「なぁグソクムシャ、」
ぽつりとグズマの洩らした呟きに、グソクムシャは首を傾げてグズマの顔を覗き込み、続く言葉を待った。
「お前の故郷はどの辺だ?」
キュイ? と鳴いて紫の触角をぴこぴこと動かす相棒。少しの沈黙の後、グズマは耐え切れず噴き出した。
「っはは、知るわけないよな」
野生のグソクムシャは暗い深海に生息するが、コソクムシは海から少し離れた砂浜や岩場に生息する。だから、まだコソクムシだった頃にグズマと出会ったこの相棒は、生まれてこの方一度も深海へ行ったことなどないだろう。海の彼方を指差して故郷の場所を問うたとて、彼には答えようがない。
揶揄われたことに気づいたグソクムシャがシャッシャッ! と不機嫌そうな鳴き声を上げるのを悪ィ悪ィ、と宥めながらグズマは笑った。
グズマには行くべき場所が無い。帰るべき場所も無い。勿論、島キングのハラやハウ、ポータウンの交番にいるクチナシ、研究所のククイたちはグズマが訪れても温かく迎え入れてはくれる。だがそれだけだ。あそこは俺の帰るべき場所じゃない。帰っていい場所じゃない筈だ。スカル団を立ち上げたのも、もしかしたら居場所が欲しかっただけなのかもしれない。もう失ってしまったけれど。
「ムシャ……シャ?」
主の様子が変わったのに目敏く気付いたグソクムシャが心配そうに目を瞬かせる。白い十字の瞳。
今のままではいけないと頭では分かっている。理解しているつもりだ。でも、いざこの状況を打開しようと思ったところで、自分には何ができるのだろうか。これではまるで一匹では何も出来ないヨワシのようではないか。
「…どうすりゃいいんだろうな」
グソクムシャに凭れ掛かる。大きな頼れる相棒は、グズマの体重など物ともせずに受け止め、キチキチと鳴く。ひんやりとした装甲に頬で触れながら、グズマは太陽を飲み込んでいく海をぼんやりと眺めていた。
* * *
バトルツリーに挑戦してみたり、プルメリの手伝いに駆り出されたり、グズマはするべき事を見つけられないまま日々を過ごしていた。相変わらず周囲の反応は変わらず、誰も気付かぬうちにじわじわとグズマの精神を蝕んでいた。当の本人でさえ分からないほど少しずつ、しかし確実に磨り減っていた心は、ある日突然に呆気なく折れた。
「シャ、シャ、…キチキチキチ……」
いつものようにグソクムシャと海を見ていた時だった。太陽は中天にあり、燦々と降り注ぐ光が海面に反射して目を射抜く。
「なぁグソクムシャ、」
十字の瞳がこちらをじっと見つめる。深海での生活を想定したその両眼は退化していて、明るい昼間には何も見えない。きっと俺の姿も輪郭ぐらいしか分かっていないのではないだろうか。グズマのグソクムシャが夜行性に近い生活サイクルなのもそこに原因があるのかもしれない。
「キチキチ…チチ、キチキチキチ…」
すり寄ってきた相棒は、グズマの存在を確かめるように何本もの複腕で頬に、首に、頭に触れる。彼にはグズマが見えていないのだ。
「俺を、どこかに連れてってくれよ」
ほろり、ほろりと頬を伝う水滴。止めどなく溢れてしまう涙を子供のように両手で拭いながらグズマは言った。もう限界だった。粉々に砕けて砂粒になってしまった心は、どれだけ手を尽くしても元には戻りそうにない。
「シャ? …ムシャッ、シャ……」
グズマの言葉をどこまで理解しているのか、グソクムシャは悲しげな鳴き声をあげながら零れ落ちる雫を口で舐めとっていく。取りこぼした涙がぽたぽたと足元の砂に吸い込まれて消える。
「連れてってくれよ……どこでもいいから…ここじゃない、どこかによォ…」
ただ、逃げたい一心だった。追い詰められ、どこへも行くあてがないグズマが頼れるのは、グソクムシャだけだったから。
主を慕うポケモンは、その望みをどう受け取ったのか。
「……チチチ…」
「お前の故郷とか、いいかもな…なんてよ」
「ヂヂ…キチチチ…」
グソクムシャの手を引いて、グズマが波打ち際へと一歩踏み出す。生温い波が白いスニーカーに砂を載せる。
太陽が、あまりにも眩しすぎた。
「チィチィ、ヂチチ…」
沖へ進んでいく主を引き留めるように、グソクムシャは少しだけ波打ち際で踏ん張ってみせたが、振り向いて笑うグズマに鳴き返し、海水へ踏み出していく。着の身着のまま、グズマは真っ直ぐに進んでいく。ズボンの生地が海水を吸って重くなり、徐々にその歩みは遅くなっていく。
「チッチッチッ、チチチィ…キチキチキチ…」
まだ戻れる、とでも言うようにグソクムシャが浜辺を振り返って鳴いた。
「…行こうぜ、グソクムシャ」
憑きものが落ちたように清々しい笑みを浮かべた主が、目が覚めるほどの青を背にして言う。その胸元にまで海面が迫っていた。
「連れてってくれよ」
もうこれ以上は自力で進めない。水の重さが脚に圧し掛かる。浮力が、波が、今にもグズマの体勢を崩そうと揺さぶる。黒い上着の裾が広がり、海面でゆらゆらと揺れている。
「キィ…チチ…」
笑うグズマの目からはボロボロと涙が零れ落ちていた。けれどグソクムシャにはそれが見えない。退化した目に、アローラの日差しは眩すぎる。グソクムシャの前のめりの首にグズマの手が回される。
一歩、踏み出す。
グズマの手は離れない。グソクムシャは大きな両腕でその身体を包むように抱いて、また沖へと歩を進める。
一人と一匹を飲み込んで、水平線は何事もなかったかのように陽光を受けて輝いていた。
深みへとグソクムシャが泳いでいく。きらきらと真珠のような泡が口端から連なって遥かな水面へと浮かび上がっていく。こんな俺からでも随分と綺麗なものが生まれるものだ、なんて思った。水温が下がっていく。
もう息が続かない。
不思議と恐怖は無かった。こいつと一緒ならどこに連れていかれてもいいと思えた。
「……、………!」
暗い深海でなら、グソクムシャにしか自分の姿は見えないだろう。それでいい。それがいい。俺を見るのは一対の白十字の目だけでいい。最後の空気を吐き出して、深く口づけた。