夢の通ひ路
やぁ少年、と朗々とした声に呼ばれて目を開ける。柔らかく、陽光でほんのりと温かな芝生が体に触れている。声の方向へ視線を動かせば、雲ひとつない抜けるような青空を背負ったカプローニさんが僕を見下ろしていた。
「お久しぶりです、カプローニさん」
地面に寝転がったままそう言えば、随分と甲高い音でその挨拶は再生された。まるで幼い頃に戻ったような。
「随分と無沙汰だったじゃないか、日本の少年。ゆっくり夢も見れないほどに忙しない日々だったのかな?」
体を起こすために芝生についた手も、そうして見下ろした自分の下半身も、寸尺が縮んで子どものそれになっていた。不思議なこともあるものだ、と思いながら手を結んで開いて、頬を優しく撫でるように吹き抜けた風に誘われて顔を上げる。
傍らに立っていたカプローニさんは僕をちらりと見て笑った。
「懐かしい姿だ。出会ったばかりの頃のようだな」
「はい。ここが夢の中だからでしょうか」
「さあ分からないが、私か君のどちらかの深層心理が影響したのかもしれない」
なにせ此処は夢の中なのだから、と彼は悪戯っぽく目を細めてみせた。
「飛行機に乗るという夢の中だからこそ出来ることをするのも良いが、今日は趣向を変えてみようか」
立ち上がろうとする僕をやんわり押し留めるように、カプローニさんが隣へ腰を下ろす。空を見ていなさい、とだけ言った彼はまるで親しい友人がいるかの如く肩越しに背後を振り返り、招くように手を振った。
数秒の後、視界が俄かに翳ったかと思うと、大きな機体が音もなく僕たちの頭上を通過していった。まるで上昇気流にうまく乗って羽ばたきもせず舞い上がる鳥のように、機体の腹がみるみる遠ざかり、白い雲のすじだけを残して空の彼方へ消えていく。
「美しいだろう」
「はい、とても」
キラリと白い光の粒になって去った飛行機を見つめたまま、感嘆の息を細く吐いた。また影が落ちる。
五機の小型飛行機が編隊を組んで飛んでいく。それを皮切りに形も色も年代も様々な飛行機たちが次から次へと二人の頭上を越えていく。エンジン音も風をきる音もたてないで無音で通過していく飛行機たちは渡り鳥の大群のようだった。
中には決して飛べるような形をしていない飛行機もあった。あんな動きをしたら空中でバラバラに壊れてしまうと断言できるような曲芸飛行をする機体もあった。骨組みだけで飛んでいるもの、設計図からそのまま抜け出してきたような線と数字から成り立っているもの、まだ組み立て途中のものや、半分にスッパリ切断されたような姿のものまで飛んでいた。
「あれは何ですか?」
カプローニさんは何処か遠くに目を凝らすようにしていたけれど、僕の目をひたりと見据えて答えた。
「まだ届かぬ夢さ」
一際強い風が吹いて、カプローニさんが帽子を手で押さえる。僕たちの頭上すれすれを巨大な旅客機が重たそうに、しかし優雅に飛んでいった。その姿はたった今水面から飛び立ったばかりの白鳥のようで、幾重にも重なる長く大きな翼がこの上なく美しかった。
立ち上がって手を伸ばせば触れられそうな近さだというのに、機体の軋む音も、翼の間を風が通過する音も、エンジン音も何もしない。はっきりとこの目に見えているのに、まるで現実味のない幻みたいだ。
確かにすぐそばに在って、しかし届かない。今はただ見送るしかない飛行機たち。
「君にもあるだろう、飛ばそうとしている夢が」
後ろを振り返る。果てなく続く草原と空の交わる遥か向こうから、よく知った何かがこちらへやって来る予感があった。色も輪郭もない透明なそれは僕たちの頭上を通過する瞬間、俄かに形を得る。
眩しいくらいに輝く銀色の機体。曲線がどこか愛嬌のある小型機を、後から逆ガル翼の凛とした飛行機が恐ろしい速さで追い抜いていく。
「やはり君の夢は美しいな、日本の少年」
「…美しさだけを追求できれば良いのですが」
打ち寄せる波のように、一波二波と機体が空を駆けていく。金属の輝きを放つ群れに混じって、時折目に染みるほど真っ白な紙飛行機の群れがあった。
カプローニさんの大きな瞳に、白いそれが映り込んでいる。瞬きすらも惜しいとばかりに飛んでいく飛行機たちを見送って、カプローニさんはブラボーと溜息のように呟いて手を叩いた。
「君の飛行機たちは恐ろしいくらいに美しい。残酷な夢そのものだ」
性能を追求するあまりに他のものを削って削って、研ぎ澄ました鋭さを宿す機体たちは、人類には手の届かぬ高みを飛んでいるべきものなのかもしれない。きっといずれあの夢は兵器として多くの命を奪うのだろう。
「君の好きにしたまえ、日本の少年」
カプローニさんは真剣な瞳に微笑を浮かべていた。この草原では飛行機は落ちない。銃火器が硝煙をたなびかせることも、操縦席から白い落下傘がふわふわと零れ落ちることもない。僕とカプローニさん二人っきりの世界で、二人の夢が命を奪うことはない。なぜならこの世界は夢であり、夢でしかないからだ。
「安心するといい。どうあろうと君の夢は美しいのだから」
その言葉に目の前に立ち込めていた霧が晴れたような気がした。一陣の風が吹く。飛びそうになった帽子を押さえて、カプローニさんはひょいと立ち上がる。
「さて行こうか少年」
「はい」
差し伸べられた手を取る。足取りは軽く、喉から出る声は普段通りの聞きなれた自分の声に戻っていた。
「まだ目覚めまで時間はあるだろう? 久しぶりだから話したいことも見せたいものも沢山ある」
「僕もです」
さくさくと若草を踏みしめて丘を下る。見上げれば空はどこまでも高く、吸い込まれるような青さだった。
ふと気がつくと草原に立っていた。いつもの、夢だろう。
ああ、と溜め息交じりの声が漏れた。
空は燃えているかのように赤く、重たく立ちこめた黒雲の間から大地へ向かって差し込む光はまるで火柱のようだ。あの震災の日を思い出す、不吉で胸がざわめくような景色だった。
遠い雲間から何かが落ちてくる。火の粉と煙を尾に曳いて、音もなく。
虫だろうか? 否。
それでは、鳥だろうか? 否。
あの日のように風で舞い上がった家屋の破片だろうか? 否、否。
眼鏡越しにじっと目を凝らす。
飛行機だ。無数の飛行機が墜ちていく。くるくると痛みに身を捩るようにして燃えながら、赤い空に黒煙と燃料の筋を残して墜ちていく。
青々と風にそよいでいた下草は枯れ果て、ところどころが黒焦げになっていた。鉄屑の転がるそこをザクザクと踏みつけて歩いた。風が強くて、向かい風なのか追い風なのかも分からない。
ここはあの草原で、しかし違う場所だ。あちらが夢が飛び立っていく始まりの場所であるならば、いま僕がいるこちらは夢の行き着く終わりの場所。無限の可能性を孕むゼロからぐるりと一周回った、全てが無に帰す最果てのゼロ。
空と大地の間を埋め尽くすように、飛行機たちは際限なく降り注ぐ。瞬きをすれば次の瞬間には夢は醒めているのかもしれない。ただ、きっかけもなく気づいたらここに居たから、ここから抜け出すきっかけが分からない。
歩きながらぼんやりと思った。思ってしまった。ここにはやはり、彼は居ないのだろうかと。
「やあ、日本の少年」
突如として傍らから湧いた敬愛するひとの声に、考えるより先に口が動く。
「カプローニさん」
偶然か、それとも己の思考がきっかけで繋がってしまったのか、とにかく彼はそこに居た。まるで最初からずっとそばを歩いていたかのように。
「貴方はいらっしゃらないものかと」
「おや? 存外薄情だな、君は」
ここは二郎の夢のはずだった。そこへ不意に現れた彼は異物のように浮いて見えたが、それはほんの刹那でしかなかった。次の瞬間にはその明るさが、軽やかさが、そこに彼がいるのが当たり前であるかのごとくしっくりくるものだから不思議だ。世界がカプローニさんを主役として創り変えられてしまったようだった。
「そんな。会えて嬉しいです、カプローニさん」
「なに、私も君に会いたいと思っていた」
相変わらず世界は赤黒い。かつて彼と共にここから見送った飛行機たちが墜ち続けている。この世の終わりそのものの風景に響くカプローニさんと僕の明るい声は、場違いにもほどがあった。
「……もう少しだけお付き合いいただけますか」
「ああ勿論だとも! 君の国では旅は道連れ、と言うのだろう?」
いつ醒めるか分からない夢の旅路だ、せめて楽しくいこうじゃないか。彼はいつものように悪戯っぽく笑って僕の半歩先を行く。欠けていたピースがぴったりはまる様にも似て、彼がいてようやくこの世界は完成するのだと、何故かふとそんなことを思った。