幸せの音
秋も終わりの11月、風が冷たく感じる街中を抜けて、コートの襟をかき合せるようにして自宅へ帰った。急に冷え込むようになって慌てて引っ張り出したコートは昨年より大きく感じられて虚しくなる。また新しいの買わなきゃと思いつつ、けれど着れないわけでもないのでずるずると先延ばしにしている。
玄関から廊下へ踏み込めば、足裏がひたりと冷たい。今夜は毛布を出さなきゃいけないな、と心の中で思いながらだだっ広いリビングの照明をつけた。
「っ、けほっけほっ…」
ほっと一息付く間もなく慌ててシンクに駆け寄る。口内いっぱいに鉄錆の臭いが広がって粘度の高い液体がこみ上げる、もう馴染みの感覚。収まりきらなくて溢れるのを左手で受け止めながらシンクの上へ背を屈めた。
「ぅえ"っ、げほっ…」
ぼたぼたと喧しい音をたてながら落ちた血液が冷たい銀色の排水口の周りで歪な円をいくつも描いていくのを、なんの感慨もなく見つめる。ごぽごぽと喉が痙攣する度に、やけに熱い液体が指の間をすり抜けて落ちていく。
ひとしきり吐き出して、うんざりしながら蛇口を捻った。皮膚を切り裂くように冷たい流水で、手やシンクにこびり付いた赤を洗い流して溜息をつく。
「…寒いなぁ…」
何もかも面倒になって、ぐったりとソファーへ腰を下ろした。手近に毛布も何も無く、コートも着たままだったけれど、起き上がろうとは思えなくてそのまま目を閉じた。
***
いくらメールや着信を入れても一向に返事が返ってこないのを不審に思い、彼の自宅へ足を向ける。手ぶらで連絡も無しに訪れるのもアレなので、途中で立ち寄ったスーパーで買った食材を片手に彼の住むマンションへ辿り着く。相変わらずデカい家に住んでるな、と思いながら上階へ向かうべくエレベーターのボタンを押した。
ベルを鳴らしても何の物音もしない。とりあえずいるかどうか確認して帰っていないのならきっとヒーロー活動でもしているのだろうと、合鍵を使って上がり込む。揃えて脱いである大きな靴に、あぁ居たのかと安堵し、けれど返事が無いことに不安を覚えた。
「…オールマイトさん?」
嫌な予感がして、脱いだ自分の靴が乱雑に散らかるのを尻目にリビングへと足を早めた。 室内に僅かに漂う血の匂いと、力無くソファーに寝転ぶ姿に心臓が竦む。スーパーの袋が落ちるのも構わず、彼のもとへ駆け寄り枯れ枝のような手を握る。氷のように冷たいその温度に驚きながら恐る恐る胸元に耳を当てると、小さいが確かに規則正しい脈を打っていて、知らず知らず強ばっていた身体からガクッと力が抜けた。
「ん…?」
ふるりと震えた瞼から、夏空の様に澄んだ青が覗く。
「あ、れ…相澤くん…?」
ぱちぱちと瞬きを繰り返す様子に、とりあえず倒れて気を失っていたわけでは無さそうだと胸をなで下ろした。
「なんで…今日来るって言ってたっけ?」
「いえ、何度連絡しても返事が無かったので…その…」
「返事…? うわ!? ごめん! 気付かなかった…!!」
俺からのメールやら電話やらの通知に画面を埋め尽くされた自分のスマホを覗き込んで目を丸くして謝る彼の指先は有り得ないほどに冷え切っていて、思わず両手で握りこんでしまった。
「相澤くん?」
きょとんと不思議そうな顔をして、はっと目を逸らすその仕草に溜息をつく。
「また、吐いたんですか」
薄々感づいてはいたが、改めて訊ねるとバツが悪そうに視線が逸らされた。
「この季節にそんな格好で寝てたら風邪ひきますよ」
肺炎なんかでポックリ死なれては困ります、と言えば申し訳なさそうに俯く頭。普段とは打って変わって弱々しい姿と、一向に温度の上がらない指先にそれ以上は言えなかった。
「材料買ってきたんで、何か温かいもの作りましょう」
冷たい彼の手を擦りながら俯いた顔を下から見上げる。
「温かいもの食って、風呂入って寝ましょう」
ほんの少しだけ温もりが戻ってきた指に力が込められた。
「…うん」
小さく小さく頷いた頭を撫でて立ち上がり、落下したままの状態で置き去りにされているスーパーの袋を拾い上げる。卵割れてねーかな、と思いながら袋の中を確かめていると背中に凭れてくる細っこい体。
「相澤くん」
「はい?」
「晩ご飯なに?」
「…鍋ですかね」
すき焼きでも良かったが、残念ながら安売りだった卵たちはご臨終の様子だ。
「食べきれるかな」
「食えるだけ食ってください。身体が持ちませんよ。食べきれない分は俺が食べます」
「…うん」
ぐりぐりと額を背中に押しつけてくるのが愛らしくて、つい頬がゆるむ。
「コート脱いで、暖房つけましょう」
「うん」
「作るの手伝ってくださいね」
「うん、もちろん」
背中から離れて行った温もりに名残惜しさを感じつつ、キッチンへ向かう。グシャグシャになってしまった可哀想な卵たちは卵焼きにでもするか、と考えながら手を洗っていると、コートを脱いだオールマイトさんが二人分のエプロンを抱えて戻ってきた。 暖房がきき始めたのか、空調の微かな音と共に室温が少しずつ上がっていく。
「…あったかいね」
嬉しそうに笑うオールマイトさんにつられて俺も口元を緩めた。
「そうですね」
コトコトと具材の煮える音が酷く嬉しく幸せな音のように聞こえたのは気のせいだろうか。