紫煙の行先 大学構内の喫煙所に近づく人間はそう多くない。煙草の害が叫ばれるご時世の中では吸わない人が訪れることはまず無く、校舎から離れた裏手にあることも相まって吸う人もそう頻繁に利用はしていない。
それは今日も変わらないようだ。
鉢屋三郎はカバンから少しよれた紙パックを出すとそっと咥えて火をつけた。煙草独特の苦味が広がると同時にメンソールが鼻に抜けていく。火のついた煙草を咥えたままペンキが剥がれかけている古いベンチに腰を下ろす。そして本を一冊取り出して読み始めた。
煙草と活字と静寂。
大学構内とは思えないほど人の気配を感じさせないこの空間は三郎の気に入りだった。日陰のためやや肌寒く、捲っていたグレーのカーディガンの裾を戻す。その間も目は活字を追い続けた。自分の専門とは全く関係がない私小説だが図書館でなんとなく目に入り手に取った作品だった。
中身はよくある私小説で自分の人生をただ訥々と語っていくものだ。しかし語り口の柔らかさと巧みな文章に引き込まれていたのか気がつくとすでに半分ほど読み進めていた。
右手に付けた腕時計を確認すると次の授業が始まるまでまだ少しある。三郎はすっかり短くなってしまった煙草を灰皿に押し付け再び本に目を落とそうとした。
しかしその目は喫煙所の入り口方向へと向けられた。
控えめな足音で喫煙所へ入ってきたのは小柄な男だった。背筋を真っ直ぐに伸ばしたままこちらに歩いてくる。白いシャツに黒のスラックスをまとい、短めの黒髪が無造作にはねていた。一見してあまり喫煙所に来るような風貌ではない。三郎は怪訝に思いながらも一つしかないベンチの横からカバンをどかした。
男は少し戸惑うように開けられたベンチを見ると音もなく腰をかけた。カバンを下ろすと外側のポケットから煙草を取り出して咥える。再びポケットに手を入れると小さく声をもらした。そのまま眉を寄せてカバンの中を漁り出す。
「……ライター、使います?」
三郎は手元に置いたままだったライターを差し出した。男は少し戸惑ったように手を止めたがおずおずと差し出されたそれを手に取った。流れるように火をつけて一口吸うと三郎の目を見てから頭を下げた。
「ありがとう、助かった」
「あ、いやそんなお礼言われることでもないんで」
「でも貸してもらえなかったら俺はコレ吸えなかったし、お礼はちゃんと言わないと」
煙草が似合わない仕草と言葉に三郎は目を丸くした。そして思わず笑いだした。
男は顔を上げて不思議そうに首を傾げた。三郎は決まりが悪そうに目をそらす。
「すみません。ちょっと行動と言動がちぐはぐな気がしてつい」
「煙草のこと? よく言われる、吸うタイプには見えないって……鉢屋が吸ってるのも意外だったけど」
名前を呼ばれた。今度は三郎が首をひねる番だった。
「どっかでお会いしましたっけ?」
三郎の交友関係は決して狭くないため友人の友人、ということだろうか。見覚えがないのに名前を知られているということはいささか不気味だ。
「必修のクラスで一応同じ授業を受けてるし勘右衛門からよく話聞いてるから。ごめん、知らない人からいきなり名前呼ばれたら気持ち悪いよな」
これが噂の鉢屋三郎かと思ってつい、とこぼしながら目線を下げた。再び頭を下げようとするのを三郎は慌てて止めた。
「少し驚いただけだから……ちょっと待て、勘の知り合い?」
「勘右衛門とは幼馴染でね、高校の頃からしょっちゅう名前を聞かされてた」
「幼馴染……じゃあお前がヘースケか?」
高校時代からの友人が頻繁に出す名前を呼んだ。そういえば奴は彼と同じ大学だと話していたかもしれないと三郎は今更のように思い出した。
目の前の男は煙草の煙を燻らせながら目尻を下げた。
「勘右衛門ってば俺のこと話してたんだな。そう、俺が久々知兵助です」
「久々知、だな。鉢屋三郎だ、よろしく」
「兵助でいいよ、みんなそう呼ぶから」
「私も三郎で構わない」
兵助はよろしくな、と笑うと短くなった煙草をもみ消すと吸い殻入れに落とした。
「じゃあ俺授業あるしそろそろ戻るから、ライターありがとう三郎」
兵助はヒラリと手を振ると来た時のように背筋をまっすぐに伸ばして歩いていく。後ろ姿を眺めながら、読みかけだった本をしまうと三郎も立ち上がり喫煙所を後にした。
それから二人は度々喫煙所で遭遇した。お互いにこの人気のない場所を好んでいるようだった。出会っても黙って煙を吐き出していることもあれば雑談に興じることもある。必修の授業もあるがほとんどかぶっていないため三郎にとって兵助は喫煙所でしか会わない人間のようなものだった。
それでも沈黙が気にならない相手というのはいいものだ、と今日も二人で黙って煙草を燻らせながら三郎は内心で呟いた。隣から漂う煙はわずかに甘い香りをまとっている。兵助は煙草を吸うペースが早かった。今もまた一本吸い終わった先から二本目に火をつけるか迷っているようだ。
反対に三郎はゆっくりと煙草をふかしながら手持ち無沙汰にその様子を眺めていた。
長い睫毛が揺れ動いた。
「何見てるんだ」
大きな瞳が三郎を見据えた。
「綺麗な顔してると思って観察してた」
素直に答えると兵助が不審そうに首をひねる。三郎はその様子にくつり、と笑った。思ったことがすぐに表に出る兵助の様子は見ていて飽きない。久しぶりに良い人間と出会えたという嬉しさを煙に乗せて吐き出した。
「勘右衛門から聞いてたけど三郎って本当に変な奴だな」
兵助は呆れたような声色とは裏腹に笑みを浮かべて言う。そのまま二本目を吸うことに決めてポケットからライターを取り出した。再び横から甘い香りが燻り始めた。
「私もヘースケ、については勘から色々聞いていたが実物は思ったよりも変なやつだったぞ」
「勘右衛門は俺のこと、なんて?」
鈍く赤い光を灯す煙草の先を眺めながら兵助は尋ねた。
「頭がいいし優等生だけど天然が振り切ってる秀才、って感じだな。勘は兵助がやらかした天然っぷりの方を話してばっかだったけど、いい奴だっていつも言ってた」
「勘右衛門はそういう風に言ってたのか」
「高校の頃散々聞かされた話をまとめるとってだけだ。まあ、どんな真面目ちゃんかと思ってたからこんなところで会うとは思わなかったけどな」
三郎が素直な感想を述べると兵助が苦笑いをこぼした。
「俺に煙草を教えてくれたの勘右衛門なんだけどなあ……」
困ったように、けれども嬉しそうに眉を下げる。その横顔に三郎はわけもなく舌打ちをしたくなるのを堪えた。代わりにまだ長さのある煙草を灰皿で揉み消すと音もなく立ち上がった。兵助は三郎を見上げる。
「悪い、そろそろ私は行く」
一方的に告げると振り返りもせずに喫煙所から立ち去った。
メンソールとバニラの香りの混ざり合ったものが鼻にこびりついて離れなかった。
それから兵助とあの喫煙所では会うことがなかった。正確には三郎がそこへ行くことを避けていたのだ。なぜあの時平常心を保てないほど胸がざわついたのか、解けない疑問が絡みついてあの場所へ行く足を重くしていた。
「それで逃げ回ってるわけだ」
「逃げてるわけじゃない。ただちょっと吸うのを控えてるだけだ」
「目の前で吸いながら言われても説得力はないなあ」
「確かに最近やけに吸いに行ってたもんな、俺が移ったのかと思った」
大学からほど近いファミリーレストランの喫煙席。昼時ではあったが昨今喫煙席に座る人間は多くなく、まして大学の近くとなれば客のほとんどが禁煙席に流れるため隔離された空間にはほとんど人はいない。三郎の目の前には山ほど砂糖を入れたコーヒーを啜る濃い茶髪の男が座っている。その横に三郎とよく似た顔の男がティーバッグの紐を指でいじっていた。
「勘は面白がってるだけだろう」
「当たり前じゃん。三郎がそんなに悩んでるところ見たことないし」
「確かに三郎がそんなに弱気になるなんて珍しいよね」
「雷蔵までそういうことを言うか……」
三郎の高校時代の友人である二人、尾浜勘右衛門と不破雷蔵は顔を見合わせて笑いをこぼした。
コーヒーを啜りながら勘右衛門はニヤニヤと笑いながら大きな目で三郎を見る。雷蔵はそろそろ引き上げるべきかまだ浸けておくべきか迷っていた。そのうちに携帯を取り出すと何やらいじり始めた。
「それで天下の三郎様が気になってる子はどんな子なんだ」
「だからそんなんじゃない……どんな子かって言われても喫煙所で会ってたまに話をするくらいだよ」
「でも同じクラスの授業もあるんだろ? 話しかけてみればいいじゃないか」
さも簡単そうに言う勘右衛門を睨みつける。
「だって三郎、高校の時は女子と普通に付き合ったりしてただろ」
「今回とは状況が違う。普通の女子に私が奥手になると思ってるのか」
「その自信がムカつくんだよなあ」
軽口をたたき合うと勘右衛門は頑張れ、と言葉を残して席を立った。
「おい待て勘、コーヒー代置いてけ」
慌てて声をかける三郎に勘右衛門は「相談料ってことでよろしく」と口の端を吊り上げるとあっという間に店を出て行った。
席に残されて盛大にため息をつく。行儀が悪いと思いつつ頬杖をつくと窓の向こうに小走りに大学へと戻る勘右衛門の背中が見えた。忙しいところを呼び出したのは分かっていたがそれでも付き合ってくれる悪友に心の中で感謝を述べる。なんだかんだ言い合っても心の広い奴なのだ。それでも、件の相手が久々知兵助という男だと分かったらアイツがどんな顔をするのかを想像はしたくなかった。三郎は妙に勘のいい男だからこそ薄々感付いているのかもしれないという不安は見て見ぬ振りをすることにして机に伏した。
勘右衛門の言う通り、誰かと付き合った経験もあるしそれこそ高校の時は誰を泣かせたと噂を作ってしまったことも一度や二度ではない。けれどその全ては三郎に好意を持ってくれた女の子からのアプローチの結果だった。
三郎の様子を雷蔵は黙って見ていた。ティーバッグをようやく引き上げて紅茶を一口飲む。そしてそっと微笑んだ。
「お前、本気で人を好きになるのは初めてなんだね」
「自分でもわけがわからないんだよ。本当どうしてくれるんだ……」
勘右衛門が残していったコーヒーへ手を伸ばすと一気に煽る。砂糖の甘みが広がった。口の中に残るそれに思わず顔をしかめるとカップをソーサーに戻す。
「僕は三郎が彼に惹かれるのなんとなくわかるけどね。よく似てるよ、お前たち」
目を細めて三郎を見据える。三郎は目をそらすとあからさまにため息をついてみせた。
「君のその顔は苦手だ……私の知らないところまで見透かされてる気分になる」
「そりゃ僕はお前をよく知ってるからね。伊達に幼馴染してないさ」
「というか雷蔵はアイツのこと知ってるのか?」
「同じゼミだからねえ」
何事でもないように言い放つ。三郎の目が大きく開かれる。
「え、ちょっと何それ。私初めて聞いたんですけど雷蔵さん?」
「言ってないからね。まさか三郎が彼に興味を持つとは思わなかったし。そう言えば八は兵助と同じ高校だったみたいだよ」
なんかごめんね、といたずらっぽく笑うと雷蔵は最後に残った紅茶を飲み干した。
「兵助もお前のこと嫌いじゃないみたいだし頑張ってごらん」
そう残すと慌てる三郎を横目に立ち上がった。きっちりと自分の紅茶代をテーブルに置いてそのまま喫煙席から出て行った。
三郎はその背を見送りつつ新しい煙草を取り出すと火を点けた。
大学構内で喫煙ができる場所というものはひどく限られている。だからこそ喫煙所にいることの多い人間を探すことは比較的容易だ。しかし今日に至っては数カ所備えられている喫煙所全てを回っても目当ての人物を捕まえられず、竹谷八左ヱ門は首をひねった。
「兵助どこ行ったんだ……」
人気のない校舎裏でため息とともに呟きが零れる。慌てて誰にも聞かれてないか周りを見渡した。すると後ろの方からザリ、という足音を伴って人影が現れた。
「あれ、八左ヱ門だ。こんなところ来るなんて珍しいね」
「あーやっと見つけたぞ兵助」
灰がかった髪が無造作に跳ねる頭をガシガシとかきながらため息をついた。高校の時からだから慣れてしまったがこの風変わりな友人のペースはひどく独特だ。
八左ヱ門は三郎や雷蔵の幼馴染であり、兵助とは高校以来の親友だ。雷蔵から送られてきたメールを受けてすぐに彼を探しに来たのもそのためだった。
「あ、もしかして俺を探してたの? 連絡くれればよかったのに」
「数十分前に連絡入れてるぞ……どうせまた電源切りっぱなしだったりするんだろ」
この真面目な友人は授業中に携帯を使うどころか電源から切ってしまう癖がある。
兵助はすぐにカバンから携帯を取り出すと本当に電源は切ったままになっていた。こちらにすまなそうな視線をよこす彼を見てバレないようにため息を再びこぼした。
「ごめんね。八左ヱ門、煙草の匂い苦手なのに」
「まあ外だしある程度薄れてるから平気だよ」
そう言ってベンチへと勢いよく腰を下ろした。その横に兵助もそっと座る。
「で、俺に何か用でもあったの?」
「俺は特にないけどさ……兵助が何かあるんじゃないのか」
空を仰ぎながら八左ヱ門は言った。少し不審そうに八左ヱ門を見つめてから目をそらす。兵助の喉が上下に動いた。
「……八左ヱ門って三郎と仲いいんだよね。最近全然会ってないんだけど、元気?」
兵助は手に持ったままの煙草のパッケージを見ていた。お互いにわざと相手を見ずに言葉をかわす。何の話をするためにいるのか無言のうちに察していた。
「三郎は最近イライラしてる。もちろん煙草が吸えないからではないけどな、というか兵助は三郎と仲良かったのか?」
「知り合ったのは最近だよ……でも今はほとんどここにも来ないみたいだし……」
電話番号もアドレスも知らない。知っているのは顔と名前と学部だけだ、と兵助は歯切れ悪く呟いた。
「俺は少し意外だったけどな。三郎と兵助は性格が反対に思えたし」
八左ヱ門がそう言うと兵助は喉の奥で笑う。そんな様子の兵助を横目で見ると八左ヱ門は立ち上がった。
「まあいいけど三郎は多分お前のこと嫌で避けてるわけじゃないだろうからさ、仲良くしてやってくれ。あいつ知り合いは多くても友達って呼ぶ奴はすごく少ないんだ」
そのままカラリと快活な笑みを浮かべて彼は言った。そして片手を上げて兵助に背を向ける。兵助はその様子を黙って見送る。その背が完全に校舎の陰に消えたのを見届けると煙草を一本取り出して咥えた。そのまま流れで火をつける。細くたなびく煙は風に流されてあっという間に空気に溶けた。
兵助は先ほど八左ヱ門から告げられた言葉を反芻した。三郎はどうやら自分のことを友達、と評していたらしいと気づくと言葉に変えて煙を吐き出した。鼻にはバニラの香りが広がる。普段から好んで吸っているものだがこの時ばかりは甘ったるい味に顔をしかめた。
それから一週間、兵助と三郎が出会うことはなかった。二人がとっている授業に三郎の姿はなく、兵助もまた特に彼のことを口には出さなかった。いつものように授業を受けて、その隙間で喫煙所に行く。その回数が普段より増えていたことには気付いていなかった。
今日も喫煙所へと向かう人気のない道を歩いていると数メートル前の曲がり角から見覚えのある髪型が現れた。
「あ、勘右……」
手を上げて声をかけようとした動きが止まる。特徴的なヘアスタイルの勘右衛門の後に続いて曲がってきたのは茶髪の男で、兵助にもひどく見覚えのある男だった。
「それで教授が俺のレジュメ見るなり全部書き直せって怒鳴ってさあ」
ニコニコと愛嬌のある笑みを浮かべて勘右衛門は喋っている。その片手には彼がよく吸っている煙草のパッケージが握られていた。後ろにいる兵助に気づかないまま明るい声で話す勘右衛門に対して三郎はひどく適当な相槌を打ちながらどこか上の空といった空気をまとっていた。
瞬間、三郎が振り返った。
彼をじっと見つめていた兵助と必然に目があう。
「あ……」
お互いに何か言おうとするがそれが言葉になることはなく、沈黙が場を制した。
たった数秒のうちに兵助の肌にじわりと汗が浮いた。
「あれ、兵助じゃん」
三郎につられて振り返った勘右衛門がそのままの笑顔で手を振った。三郎もそれにならって黙って手を上げようとする。しかし、兵助はサッと向きを変えると足早に元来た道を戻り始めた。
「ちょ、兵助?」
戸惑う勘右衛門の声が背中越しに届く。彼が元々丸い目をさらに丸くしていることは容易に想像がついたが止まることなく走り抜ける。
その顔がひどく歪んでいることに気付くことはできなかった。
表通りに戻る頃にはすっかり小走りになっていた。少しきれた息を整えようと大きく空気を吸い込む。そこで煙草を吸いそびれたことに気が付いて小さく舌打ちをした。仕方がなく近くに設置されている喫煙所に向かおうと再び歩き始める。そちらは図書館の横に設置されていることもあり人通りも使用者も多く校舎の裏手のものより喧騒が目立つため避けていた。
しかし今はあの甘い香りがほしい。そうでもしなければ頭を落ち着けられそうになかった。
兵助は自分の中の天秤にかけてため息をつく。放課後であればわざわざ学校で煙草を吸う人も少ないはずだ、と考えながら歩くと喫煙所には予想通り人影はない。
利用者が比較的多いからか妙に小綺麗に保たれているそこを見渡して一番端のベンチに座るとカバンから煙草を取り出してサッと吸い始めた。
過ぎて行く人たちを何とは無しに眺めているといつの間にか指の間の煙草は半分ほど減っていた。
ゆらゆらと空へと消えていく煙を横目にぼんやりとしていると自然と思考は先ほどの事へと流れていった。
何故逃げ出してしまったのか、兵助自身にも分からない。ただ勘右衛門と二人で煙草を手にしていたところを見て思わず走り出していた。なんとなく、あの空間は自分と三郎と二人だけの特別なものだと思っていたのにそれが三郎にとっては友人同士の他愛ない空間だと突きつけられた気がしたのだ。
「特別な空間、って……俺はあいつの友人だから特別もなにもないだろう」
そこまで考えて思わず言葉が漏れた。どうしてそんなことを考えてしまったのかと自嘲する。燻る煙が自分に纏わりついていた。
あまり長居はしたくないしさっさと吸ってしまおうと思っていると見知った顔が道を通った。向こうも兵助に気付いたようで小走りにこちらへやってきた。茶色の髪がふわりと揺れる。先ほど出会った人の髪とよく似た色合いに思わず目を背けた。
「兵助がこっちにいるなんて珍しいね」
「向こうに人がいたし放課後ならあんまり人もいないかなって、雷蔵は図書館の帰り?」
「返却期限は先だけど読み終わった本があるから返してきたんだ」
雷蔵は兵助の横に空いていた空間にさりげなく腰を下ろす。
「さっき三郎が喫煙所行くって言ってたからてっきり兵助に会いに行くのかと思ってたけど入れ違いかな……残念だろうなあ」
人好きのする笑みのまま言われたセリフに兵助は思わず眉を寄せた。
「三郎なら勘右衛門といるところを見かけたよ」
無感情な声色に雷蔵は訝しそうに兵助の顔を覗いた。
「え? じゃあ兵助はなんでこっちに?」
「勘右衛門と一緒だったからジャマするかなって」
「別に三郎と勘右衛門と友達だから構わないと思うけど……そっか、三郎もバカなことするねえ……」
雷蔵はそう呟くと一人で云々と頷き始めた。その様を不思議そうに眺めながら吸い殻入れに煙草を落とす。
「雷蔵どうかした?」
煙草も吸えたしそろそろ行こうと兵助が立ち上がると雷蔵がその腕を掴んだ。
「え、ちょっと?」
「兵助は三郎のこと好き?」
戸惑う兵助のことを三郎とよく似た丸い目で見据えて雷蔵は言った。その唇は緩く弧を描いているが瞳は真剣そのものだ。
「はあ? 雷蔵なにいきなり……」
「それとも勘右衛門かな?」
「ちょっと待てって……勘右衛門も三郎も友達だよ。三郎は友達って思ってるか知らないけど」
「少なくともアイツは兵助のことすごく気に入ってたよ……兵助ならなんで二人が一緒にいるところを見て避けちゃったのか、理由に気づけてないわけじゃないだろ」
そう言われると兵助は口をきつく結んで顔を俯けた。
高校の時から勘右衛門にその人となりは聞いていた。実際に出会って話してからよりその性質に気付かされた。多分彼にはどこか自分と良く似ているところがある、と。当たり障りなく誰とでも付き合って、それでもある一線だけは決して超えさせない。自分から極力他人と距離をとる兵助とは正反対だ。けれど彼は三郎が心のうちに抱えているものをなんとなく理解していた。
「三郎には迷惑だろうから」
避けられてるのがいい証拠だ、と心の中でつぶやいた。
雷蔵は大きくため息をついた。この男は優しいが大雑把なところがあるため細やかな気配りは性に合わないのだった。
「ああもう……特別に教えてあげるよ。三郎って本当は滅多に煙草吸わないんだ。なのに最近妙によく喫煙所に行くから僕も八左ヱ門も変に思ってさ……アイツ兵助に会う口実のためにわざわざ量を増やしてたんだよ」
そう告げると目尻を下げて微笑んだ。本当に人との距離の取り方が下手だよねえ、と続ける。
兵助は大きな目をさらに大きく広げた。雷蔵の顔をまじまじと見つめると何も言わずにカバンを掴むとさっき逃げてきた道を再び走り始めた。
雷蔵は走り去る彼を見送りながらさっきまで兵助が座っていたベンチに残されたライターを手に取った。ズボンのポケットに突っ込まれて寄れた煙草の箱を取り出すと一本咥えて火をつける。その先から煙が燻る頃には兵助の背は消えていた。
「上手くいくといいんだけど……手を出すべきじゃなかったかなあ」
そう言いながら携帯に何かを打ち込むとそっと灰を落とした。
慌てたように去って行く姿に、三郎は中途半端に上げられた手を所在なさげにゆっくりと下ろした。横に立つ勘右衛門は口を開けたままだった。
「三郎、兵助に何かしたのか」
「どうして私になるんだ……何もしてないさ」
「兵助が俺を見てあんな顔して逃げ出すわけないだろ」
あんな顔、と言われて三郎は兵助の表情を思い起こした。
彼の眉は下がり目は側められて、唇はきつく結ばれていた。顔中の筋肉が強張ってしまったかのようにピクリともせず、そのままの顔を後ろに向けていなくなってしまった。その様子は誰が見てもおかしいと言えるものだっただろう。兵助の親友である勘右衛門に向ける顔ではない、ならば、原因は私か、と三郎はカバンを持つ手に力を入れた。
「まあいいや、どうせそのこと話そうとしてたんだし早く行くぞ」
勘右衛門は無遠慮に三郎の手首を掴むとそのまま引っ張って歩いた。喫煙所は目の前だ。
「待てよ勘そのことって……」
三郎は引き摺られるようにして歩く。喫煙所でようやく止まった勘右衛門に尋ねると彼はベンチを指差して座るように言った。三郎が大人しく座るとその横に勘右衛門も腰を下ろす。手にはいつの間にか火を付けたのか、先を鈍く光らせる煙草が握られていた。
三郎は煙草を取り出さなかった。
「それで今日はそもそも何のために私を呼び出したんだ」
勘右衛門と三郎は高校時代の友人である。大学に進んでも遊ぶことがある程度には仲が良いがここへ一緒に煙草を吸いに来たことはなかった。そもそも三郎は常習ではなくストレスが溜まった時に稀に吸う程度の喫煙者だった。煙草自体の匂いも特に好きなわけではない。軽いメンソールのものを選ぶのもそのためだった。三郎からすれば煙草という害ばかり騒がれるものを好んで常習しようとは思えなかった。
その点勘右衛門は正反対で二十歳を超えてすぐに煙草に手を出していた。その理由が本人曰く「カッコいいから」というのだからこの男はよく分からなくて苦手なんだ、と心の中でぼやいた。
「で、三郎君は兵助のことどう思ってるのさ」
煙草の先からココアのような香りを纏わせながら勘右衛門は三郎を見据えた。茶化すような口ぶりに反してその眼光はするどい。
「はあ? どうもこうも……」
この男はやっぱり勘がいい、と内心歯嚙みした。
「見てて分かったと思うけど兵助って友人とか知人とか多いタイプじゃないの、初対面の人間を友達なんてまず呼ばない。なのに三郎に初めて会った後噂の鉢屋三郎と友達になった、って俺に言ったんだよ」
びっくりしたなあ、と言いながら煙を吐き出した。
「友達、ね。そうだよ私と兵助はここでたまたま会えたら話すくらいの友達さ」
だから自分がまたここへ来る回数を減らせば会う回数も減るのは当然で彼に対して何もしてないと嘯いた。
「三郎もそんなに人のことを簡単に友達とか言わないだろう。俺は結構兵助と似てると思ってたから二人が知り合ったって聞いて嬉しかったけどなあ」
大げさにため息を吐きながら空を仰ぐ。仲は良いしこの面倒なものを抱えた二人の友人の根底にある何かを受け入れてやることくらいは出来る。しかし真反対とも言える性質の勘右衛門には彼らの持つソレを理解してやることはできない。二人なら理解し合えるのでは、と薄々思っていたからこそ彼らがすれ違っていることがひどくもどかしい。
「まあ三郎は分かってて見ないふりしてるだけか」
まだ長い煙草の先を指先で揉み消して吸い殻入れへと投げ入れる。カバンの中では携帯のライトが点滅していた。
「……なんのことだ」
「ま、俺は部外者だからね。勘ちゃんは好きにすればいいと思いますよお……選ぶのは三郎だけじゃないからな」
そう言うとさっさと立ち上がる。三郎もそれに続こうとするが勘右衛門はそれを手で制した。そこで少し考えろ、と口の端を吊り上げるとそのまま校舎へと戻る道を颯爽と戻っていった。
一人残された三郎はだらりと両腕を垂らしたまま空を仰いだ。厚い雲に覆われながらもその切れ間から所々青空が覗いている。うっかりと太陽を直視して仕舞えば、眩しさに強く目を閉じた。
三郎自身も分かっているのだ。それでも立ち竦んでしまうのは怖いからなのか。無意識のうちにきつく結んでいた指を開くと細い煙草を絡め取った。
ザリ、とコンクリートを擦るような音が耳に届く。心なしか瞼の裏が暗くなったように感じた。
「ああもう……おせっかい達め」
頬の内側を緩く噛んだ。
音もなく瞼をあげるとベンチに座った三郎の顔に影がかかっていた。覗き込むように立っているのはもちろん知っている顔だが肌には薄く汗が伝い、無造作に跳ねた髪はさらに自由度を増していた。形の整った唇は歪み長い睫毛は小刻みに震えている。
何かを堪えるかのような顔をして三郎を見据える兵助に、三郎は言うべき言葉を探したが少しだけ開いた唇からは空気の他に溢れるものはない。
「久しぶりだな」
兵助の口ぶりはひどく棒読みだ。
「……そうだな」
真っ直ぐに向けられる瞳を避けるように目を逸らした。
「三郎はさ、なんで俺に合わせて煙草なんて吸ってたわけ?」
「…………」
三郎は答えない。
「俺は一緒にここで過ごすのが楽しかったよ。無理に話さなくても心地いい空間なんて今まで中々なかったから」
訥々と語られる言葉。三郎の指が火の点いていない煙草を少し歪めた。その視線は掴み所なくただ空を見つめている。
「せっかく友達になれたんだ、三郎が許してくれるなら仲直りしたいな」
兵助の指握りしめていた指がそっと緩められる。二人にだけしか聞こえない大きさで囁かれた声は少し震えていた。
「私は違うよ」
三郎は視線を逸らしたまま言った。
「私は違う。ここで一緒に居るのは悪くないが、それ以上に怖くなる。兵助がいないか空きコマの度に覗いたり煙草が好きなわけでもないのに量を増やしたりして……挙げ句の果てには勘右衛門にまで苛ついて。私はこんな感情に振り回される人間でないと思っていたのに」
気味が悪いだろ、と鼻で笑いながらこぼした。
兵助はその言葉を聞くと一瞬ピタリと動きを止めるとクスクスと笑い始めた。顔には少し赤みがさしている。
「なら三郎は俺のことも気味が悪いと思うわけだ」
「はあ? なんでそうなる……」
「俺もだからだよ、三郎に会いたくてしょっちゅう此処にいないか見に来てた。それに……勘右衛門と二人で此処に来てるのを見て俺が過剰に喜んでただけで三郎にとっては誰かと此処にいることは普通のことなんだって気付いたら思わず逃げてた」
頬をかきながら困ったように兵助は告げる。三郎の横に空けられた空間に腰を下ろすと俯けた顔にはにかかった髪の隙間から真っ赤に染まった耳が見えた。
「……妬いたんだよ、俺も。三郎が友達って呼ぶ人たちに。だから三郎も俺のこと気味が悪いって思って当然だ」
その言葉を聞くと三郎の揺れていた足がピタリと止まった。兵助からは見えないその顔がフッと緩むと唇が弧を描く。
「そんな言い方すると……勘違いするぞ」
「すればいいよ。お前の好きなように」
兵助もまた相手には届かない顔をそっと綻ばせた。
三郎は手にしていた寄れた煙草を捨てると真っ直ぐなものを取り出してライターで火を灯す。隣で兵助も同じように煙草を咥えたところで、同じことをしていたことに気付くと二人で声を立てて笑った。
「あ、ライター向こうに置いてきた……」
カバンを漁っていた兵助が呟く。三郎の手にしているライターを少し見つめると彼はそれを差し出した。
「ああ、平気」
こともなくそう言うと兵助は煙草を咥えたまま三郎の顔に自分の顔を近づけた。
「…………!」
三郎が肩をビクリと揺らした。
煙草の先が三郎の咥えた煙草の先にそっと触れた。しばらくの内にジュ……と小さな音とともに火が移る。
満足気に煙草を吸い込む兵助はすっかり固まってしまった三郎を見て悪戯に成功した子供のように笑みを浮かべた。
「メンソは不能になるらしいぞ」
ニヤリという音が聞こえそうな笑みのまま挑発する。三郎はおよそ彼らしからぬ台詞に瞬き一つ落とす。そして直ぐに口の端を吊り上げた。
兵助が不思議そうに首を傾げて三郎の顔を見つめる。
その隙を縫うように三郎は口から煙草を離す。そのまま顔を寄せると煙草の先に触れないようにそっと唇を合わせた。
「ちょ……!」
慌てたように落としかけた煙草を指で挟み直す。顔は隠しようがないほどに真っ赤だ。
慌てている様子を見てお返しだと言うように喉奥で笑いながら兵助の指から煙草を奪う。そのまま口を付けると見開かれた黒い目を見据えた。わざとらしく煙草を一口吸ってみせる。
「試してみるか?」
吐き出された煙はバニラとミントの混ざり合った香りを纏い細く揺れながら秋晴れの空へと溶けていった。