啓蟄 頬に滲んだ赤が椿の名残に見えた。雪と土とが混ざり合った地面の上に落ちた時には姿を止めていたはずの、幾つもの足、人であれば獣でもあるだろう、様々な足に踏み躙られた果てに萎びた花の名残。その横顔と真っ直ぐに背を伸ばしたまま机に向かう姿勢があまりにも不釣り合いであるために、久々知は思わず「似合わないな」と呟いた。もしくは、鉢屋と椿とを重ねあわせることが上手くできなかっためか。
鉢屋は静謐な水面で微かに弾ける泡のような声を聞きつけると、首だけを横へ向けた。「何か用でも?」
「雷蔵はいる?」開け放たれた扉の前に佇んでいた久々知は瞬きを二度繰り返し、それから片手を顔の前に上げた。「借りていた本を返しに来たんだけど」
「雷蔵なら委員会で夜まで戻らない」
「そっか。運が悪かったかな」
「机に置いておけばいい。私から伝えておく」
「助かるよ」久々知は入り口の側に立ったまま言った。天頂を過ぎた太陽が斜めに彼の背を照らし、人の形と言うには不自然な間延びを見せる影だけが部屋の中へ侵入する。
「入らないのか?」鉢屋は身動ぎもせず唇だけを動かした。「さっきから、突っ立ったまま」
「南蛮の妖怪には招かれないと入れないものがいるんだって」
「兵助は招かれなければ入れない?」
「招かれてもない部屋に入らないのは、礼儀として当然だと思うけれど」久々知が悪戯じみた笑みを浮かべた。「入っても?」
「さっきから、許可は出してるじゃないか」鉢屋が僅かに肩を竦め、それから身体を机から離した。腕を頭の裏で組みながら筋を伸ばすように背を逸らす。「ところで、」
部屋の対岸。二分された空間の反対側に据えられた机の前で久々知は静止した。本を置こうと腕を宙に突き出したまま、黒目だけが鉢屋へ向けられる。彼は組んだ腕を解きながら仰ぎ見るように首を曲げていた。天地を逆さにした視線で部屋の反対を見つめる。歪んだ視線が二つ重なった瞬間、鉢屋が僅かに笑みを浮かべた。
「何が似合わないんだ?」
「似合わない?」久々知が繰り返す。
「お前が言っただろう」
「いつの話だ」
「ついさっき。扉のところから私を見て」
鉢屋が姿勢を起こして扉の方向へ指を向けた。頭に血が上ったのか、首を回しながら反対の手を宙で二度上下させる。久々知は首を傾げながら二秒の間彼の動きを観察し、それが座るように促す仕草だと解釈した。近付くことを求める、或いは呆れの表現とも取れたが、彼は身体ごと己の方を向いている。少なからず対話を続ける意思があり、立って話すよりは座る方が良いという、やや希望に傾いた判断だった。
久々知は宙に浮いたままの本を丁寧に机へ下ろし、床へ腰を下ろした。鉢屋の顔を一瞥し、それから開いたままの扉へ目を向ける。陽光が洪水のように流れ込み、部屋を照らしていた。空中を漂う塵が無秩序に光を反射しては俄かに輝きを映し出す。その小波に似た運動を目で追いながら、目には見えない風が流れ込んでいることを知る。肌にも感じられないほど細やかに。微睡よりも柔らかな春の気配。その暖かな微風を。
「無意識だった」
一瞬。或いは永遠。正確に数えられない空白の後で、久々知が呟いた。
「でも、想像はできる」
「自分の思考をか」
「無意識でも俺は俺だから、自分を把握さえしていれば想像はできる」
「自分を把握することが一番難しい」
「そうかなあ」
「制御しきれない領分は誰にだってある」
「それがどこにあるのかを知っていれば良い。地図にある道を全て歩く必要はないよ」
「どこに繋がるかを理解していれば?」
眼前を横切った埃の光に目を惹かれ、久々知は問われた疑問符への反応を一瞬鈍らせた。軽妙な速度をうち崩した間隙を埋めようと慌てて口を開き、しかし、ゆっくりと口を閉ざす。言葉を返すことなく、宙へ伸ばされた指が渦を描いた。目に見えない模様に合わせて埃が不自然に舞った。
爪の先端を追い、鉢屋の黒目が微かに揺れ動く。
「似合わないね、」渦を三つ作り上げた後で、久々知が再び口を開いた。「三郎には、椿が」
「椿?」
「それ、」鉢屋の頬を指で示す。「椿みたいだって思って」
「どの辺が」鉢屋は自身の頬に触れ、眉を顰めた。
「赤と薄茶が混じって、濁って……落ちた後、冬の残骸みたいな色をしてる」
「兵助が言うと綺麗に聞こえるから不思議だ」
「あれはあれで綺麗じゃないか」
「美意識は人それぞれだから否定はしないでおこう」
「三郎の綺麗も時々分からないよ」久々知が鼻先で笑いを零す。「そうじゃなくて……それ、痛くないの?」
「私の顔は面だと忘れた?」
「俺がしているのは面の下にある傷の話」
「大したことはない。残念ながら兵助に特別心配されるほどじゃないって程度だな」
「それなのにわざわざ面に痣を描き足したのか」
「反省を表現しているんだ」
「三郎……今度は何をしたんだ」久々知が額に皺を寄せる。
「いや、なに、八左ヱ門に少々怒られただけだ」鉢屋が顎の下を掌で押さえた。「叱られた、と言った方が正しいかもしれない」
「珍しい。喧嘩したのか」
「八左ヱ門はよく喧嘩してるだろう」
「俺とはね」
「勘右衛門ともしょっちゅう」
「怒らなければいけない時にはっきり怒ることができるのは八左ヱ門の長所だよ」
「そうだな。その意味で私には叱られる理由が十二分にあったから、こうして反省を表しているわけだ」
「だから、一体、何をやらかしたんだ?」
幾重にも交わされた言葉は渦のように周縁を作り出す。同時にその先へ続く道、つまり、渦中をも。久々知は現れた渦へ躊躇うことなく切り込んだ。顔は真っ直ぐに鉢屋へ向けられている。僅かに眇められた視線は地上を滑空する鷹に似た鋭利を湛えていた。
「今朝、裏庭を歩いていた時のことだ。あまりに暖かくて良い天気なので空を見上げながら歩いていた。しばらくして、向こうから生物委員会の一団がやって来た。横並びになっているものだから邪魔にならないようにと草むらの方へ寄った」鉢屋は淡々と続けられる説明の途中で小さく息を吸い、すぐに話を続けた。「空にばかり気を取られていたのがよくなかった。生物委員会が近くにいた意味を考えられなかったことも。何にせよ、気が付いた時にはもう遅い。私の足の裏は指先ほどの虫を簡単に押し潰していた」
薄い氷を割るように砕けていく生命の感触を思い出したのか、軽く息を吐き、それから低い呻き声を響かせる。久々知は己の足裏を見やり、すぐに視線を元へと戻した。
「でも、八左ヱ門はそれで怒ったりはしないんじゃないのか」
「下級生もいたし、ひどく悲しそうな顔はしたが怒りはしないさ。少なくとも事故には違いない」
それでは何故、と問いかけた久々知を手で制し、鉢屋が再び溜息を落とす。己に否があることを予め伝えたがるような仕草だった。
「…………無意識に言ってしまったんだ」
「何を?」
「春だなぁ」鉢屋が微笑みを浮かべた。「そう言った」
室内に漂う空気の温もりが鮮明な気配を帯びた。空気の厳しい冷えはいつの間にか和らぎ、確かに、春の足音はすぐ側まで近寄っている。地中から現れた虫たち、冬を乗り越えて再び蠢き始めた小さな生き物たちにとっても季節は等しく訪れる。それらを見て春を知ることは、感覚としては当然と言える。尤も足元に虫の死骸を張り付けていなければという注釈が必要だろう。久々知はそう考え、曖昧に頷きを落とした。
「気が付かなかった。虫を殺したことじゃあない……自分の言葉に。ただ怒りを見せる八左ヱ門という結果だけが目の前にあって、次の瞬間には、もう、殴られていたよ」鉢屋は薄赤い絵の具を滲ませた頬へ視線を落とした。「驚いて何故と言ったら、生き物を殺すことがお前にとっては春なのかと問われた。間違いじゃないと思ったので、返事をしないでいたら、八左ヱ門はいつの間にか帰ってしまった。自分の言ったことを考えるのに、兵助の言葉を借りれば想像に時間がかかりすぎて謝る機会を逃したというわけだ」
久々知は黙ったまま、ただ鉢屋の頬を見据えていた。僅かな身動ぎさえ起こさない身体を暖かな空気が包み込んでいる。身体機能としての瞬きが一つ落とされる。瞬間、肌の上に広がる温もりに却って皮膚が泡立つのを感じ、彼は布の上から静かに足を擦った。
「春は生き物を殺す?」久々知が問いかけた。
「虫は鳥に食われ、鳥は蛇に食われ、蛇もまた他の大きな獣に食われる。季節がいつであれその営みは存在する。だけど、春が来れば冬眠から明けた獣たちがこぞって姿を見せる。腹を空かせて、或いは次の季節のために、より多くを食らうだろう」
「芽吹くものの影にはいつだって枯れるものがある。必要なのは均衡で、それを操る手は人間の形をしていないということ?」
「春の山道を歩いていて、小さな虫一匹さえも踏み付けずに道を終えられるとは思わないだろう。帰ってきて、草履の裏に付いた死骸を雑に払うことで得られる感傷があるとも。ただ今回は生物委員会で飼われていたというだけで、事象だけ見れば同じことだ」
「それだけなら、」久々知は彼の意図を探るような目つきで言った。「本当にそれだけなら、三郎に否はない」
鉢屋が的を射たと言わんばかりに大仰な頷きを見せる。腕を伸ばしても届かない距離、部屋の端と端で向かい合っている今は、囁くような声音よりも身体の動きによる表現の方が余程雄弁だと二人は理解していた。或いは言葉という表現方法の胡乱さを。
「八左ヱ門にこの理屈は通じない」
「そうだろうね。草履の裏に残る死骸にさえ憐れみを向ける人間がいるとすれば、それが八左ヱ門だから」
「あまりに空気が暖かいから思考が鈍っていたんだ。八左ヱ門が怒ったのはそこだ……口に出していい事と悪い事がある、無意識だとしても」鉢屋が口の先を尖らせる。「全く、その通りだ。だらしないにもほどがある」
「つまり、それを知っていてうっかり口にしてしまった自分への反省ってこと?」久々知が己の頬を指で軽く叩いた。
「その通り。今なら私と雷蔵とを一目で見分けられるだろう? その中で迂闊なことはできないから」
久々知は不意に立ち上がり、真っ直ぐに部屋を横切ると鉢屋の前で足を止めた。上体を屈めれば、背中に揺れていた黒髪が雪崩れていく。座ったままの男を己の影が包み、薄闇に覆われた双眸の奥で瞳孔が俄に収縮した。
「土の中から出てくる虫も獣も、春はみんな寝惚けているし」久々知は鉢屋を見下ろしながら言った。「それに、」
「それに?」
「三郎には春が似合う。冬の残骸よりも、よっぽど」
「無意識でもなしに、曖昧なことを言うな」
「励ましているんだ」
「分かりにくい」
「曖昧を好むのは三郎の方だと思っていたけれど」
「区別をつけるのが苦手なだけだ。その点、兵助とは正反対だな」
「区別をつけなければ何も出来ないだけだよ」
「冬は何もかもはっきりする。私に春が似合うとすれば、兵助は冬?」鉢屋は己を覆う暗幕の先に指を伸ばした。「確かに、椿が似合いそうだ」
「首を落としてしまうよ」久々知が喉奥で音を立てた。わざとらしさのない、心底から湧き上がるような笑い。「春が来る前に、きっと、」
「縁起でもないことを言うな」鉢屋もまた微笑みを浮かべ、触れたままの黒髪を指で梳いた。「何にせよ次の冬までは遠い」
風か、もしくは身動ぎのためか。揺れ動く毛先を追いかける指へ微笑みを一瞬向け、久々知はすぐに視線を戻した。表情は変わらず柔らかなまま。それだけは春めいているかもしれないと想像し、再び沸き起こる笑みを浅瀬で押し隠す。
「三郎、」ゆっくりと久々知は言った。「傷の具合は?」
「……痛い」鉢屋が自分の頬へ視線を落としながら答える。
「ちゃんと冷やして薬をもらった方がいい。八左ヱ門の一発は重いから」
「部屋の扉を開けたままで面を外すわけにはいかなくてな」
「……三郎らしい理由で安心したよ」
微笑みを浮かべたままで、久々知は器用にため息を落とした。鉢屋の顔を見下ろしたまま唇が結ばれる。沈黙が暗幕の内を満たし、鉢屋も自ずと口を閉ざす。久々知は脈拍に合わせて二回瞬きを繰り返し、やがて己の手を持ち上げた。
鉢屋の顔に触れる。
面の上に咲いた赤を包み、
その下に隠された皮膚へ。
「熱い」
「冷たい」
どちらからともなく、囁き声が響いた。
「今はこれで」
「この陽気の中でよくもこれだけ冷えていることだ。また豆腐を作っていたのか?」
「これから作るつもりだった」
軽口を交わす間にも掌から伝う熱が神経を通り、温もりを認識させる。重ね合わされた皮膚と面との隙間に潜む二つの熱はやがて生暖かいだけの温度へ変わり、久々知は静かに頬から手を離した。
「意味はなかったかも」掌を見つめながら呟きを一つ。「温くなっただけ」
「いいや」首を横に振りながら久々知の手首を掴み、座ったまま己の方へ引き寄せる。先まで己の頬に触れていた掌へ己の手を重ね、鉢屋は微笑んだ。「これが、春」
掌には二つの熱を混ぜた名残のように、微かな赤色が滲んでいた。