楽園一つ瓶に詰めて今日の空も青い。刺すような日差しを反射する波間に白い泡が浮いては消えていった。穏やかに揺蕩うそれを眺めながら冷たい水に足を晒した。砂浜に目を移せばヤドカリが背負った貝に押しつぶされている。指先でそっと持ち上げてやれば忙しなく砂をかけていき、すぐに見えなくなった。裾が濡れないように上げておいた着物の裾を上げ直し、再び浅瀬を歩く。春最中の海は降り注ぐ日差しと反対に冷たさを湛えていた。
「三郎、ただいま」
海辺から少し離れた小さな丘とも言うべき高台にこじんまりとした家がある。建てつけの悪い戸を軋ませながら開けて声をかける。奥から足音をさせずに男が顔を出した。
「おかえり、兵助」
兵助は手に握っていた海藻を縁側の籠へ放り込む。塩で足がベタベタだ、と井戸から真水を汲み上げた。三郎は籠の中の海藻全体に日が当たるよう並べ直した。そのまま立ち上がり家の奥へと戻る。
「足洗ってやるからちょっと待ってろ」
暗がりの方から声がかかる。兵助はわずかに顔を綻ばせた。タライの中で白皙の足が水を蹴った。
手ぬぐいを持ってきた三郎に、ここじゃあ日差しが強すぎると言われ木陰に場所を移した。右足で水を遊ばせながら三郎の青白い手がもう片方の足を持ち上げて丹念に拭っていく様子を黙って眺めていた。
春だというのに強い日差しは夏の到来を感じさせる。網膜に焼きつく陽を避けるように手を額に当てた。
「もうすぐ二年になるのか」
唐突に三郎がこぼした。手の動きは止まらず、陶器を柔らかな布で磨き上げるかのような手つきで右足を拭っている。
「そうだなあ……未だに夢みたいだよ」
兵助は手の甲に隠された瞳を閉じた。
*****
「駆け落ちしないか」
そう言われたのは二人が最高学年に進級した春のことだった。暖かく優しい、この戦乱の世で泣けるほどの優しさを与えてくれた居場所は後一年で奪われてしまう。もちろん上級生になるにつれて課題は過酷になっていたが学園は生徒に変わらず絶対の安心を与えてくれた。けれどそれもこの一年で終わってしまう。学園を卒業した者は学園に関与してはならず、学園もまた卒業した者へ関与を認めない。それはまだ箱庭の中で羽ばたきを待つ卵たちの安全を守り、暗闇を歩く雛たちの精神の支柱を穢さないための不文律だった。卒業した者同士の交流までは禁じられていないが闇を生きる者である以上、不要な接触はできないことは明白であった。忍びとして生きる術を骨の髄まで叩き込んだ彼らにとって友情とは別の、自分を守るためのごく当たり前の選択だった。それが例え、愛を囁いた仲であっても。
「お前は、この学園を出たら死んでしまうだろう」
三郎の目はまっすぐに兵助を見つめた。
「そりゃ、忍びとして生きる以上は……」
「そうじゃない。お前はその名を、その身を捨てるのだろう」
静かに、けれど口を挟む隙を与えずに向けられた言葉。兵助は瞬きを一つ落とした。優秀な彼らにとって、返答はそれで十分だった。
「なぜ知っているのか聞いても?」
三郎の影を睨んで兵助は言った。
「お前宛の書状が間違って私の部屋へ届けられたんだ。名を確認しなかった私が悪かったが……すまない」
「別に見たことは怒らない。三郎は黙っていてくれるだろうからね……そうだよ、俺はここを出たら家に戻ってこの名を捨てる」
一呼吸置かれる。長い睫毛が小さく揺れた。
「三郎どころか勘ちゃんにも話したことはないんだけどね……双子なんだ。元々俺の家系は双子が生まれやすいんだけど、過去に何度も跡目争いが起こって、それでいつの間にか双子が生まれたら二人を一人として育てることが掟みたいになっていてね。俺の場合は弟が正式な長男だから、この名は学園を出る以上捨てることになる。元々俺のために与えられたものでもない」
兵助の黒目は揺らぐことなく影を見つめる。それが当たり前である、と分かっていたから。自分が生きていられるのはこの箱庭を去るまでだと。
「早い話が影武者か……双子を忌子とする家は多いが……」
三郎の瞳孔が無意識に開いた。
「聞いてくれ兵助。お前の弟のことも、家の事情も知らない私が言えることではないかもしれないが、お前が帰省するたびに青痣を抱えて学園に戻っているのは家の者の仕業なんだろう。そんな奴のためにここで培った技術を使ってやる義理はない」
俯いた兵助の髪を一房手に取ると撫でるように梳いた。兵助は動かずされるがままに任せている。
「俺はあの家の人形なんだよ。使われなくちゃ意味のない人形だ」
そうやって、育てられた。
春の風が吹き付けてかき消えそうなその声音が濡れている。三郎は髪から首筋へと手を伸ばした。
「私はお前に感情をもらった。鉢屋の家で忍びとしてしか育てて貰えなかった、心に刃を持つことすら知る前に心を殺してしまった私にお前は愛してると言ってくれた。そんなお前が人形などであるものか」
腕に抱き抱えて囁く。胸に閉じ込めたものへ少しでも心を与えてやれればと絞り出された声が空気を震わせた。
「私はもうあの家に戻らないと決めた。この一年でどうにかあの家から逃げられる技術を身に付ける。お前を守れる技術を手に入れる……だから逃げよう、兵助」
「そんなこと言うのは三郎くらいだよ……」
力が抜けた腕から抜け出すこともせず、身体を預けるように目の前の首に腕を回した。
「悪いけど、今すぐになんて決められない。必ず最後までに答えを出すから……待っていてほしい」
「そうだな……私だって昨年丸々悩んで出した答えだ。待つ。待ってるから、いつか答えをおくれ」
二人は顔を寄せ合って頷いた。
六年生になると突然のようにやることが増えた。昼間は学業に勤しみ、夜間はほぼ実戦に等しい実習。空いた時間は委員会を取りまとめ最上級生としての責務を果たし、同級生たちと残り少ない暖かな時を過ごすことも忘れなかった。
最後の一年を無駄にすることなど出来ない。どんな結末であれどこの一年がかけがえのないものであることを二人ともが分かっていた。
*****
三郎はすっかり拭い終えた兵助の足を指でそっとなぞる。くすぐったいのか、腰まで伸びた癖のある黒い髪が揺れた。絹糸のように細やかな風が二人の間をかけて行く。鼻腔にすっかり馴染みとなった潮の香りが届いた。兵助は縁側に腰を掛けたまま地面に届かないように足をぶらつかせた。先ほど三郎が並べた海藻を見やると腕を伸ばして籠を引き寄せた。
「それは何に使うんだ?」
タライを片付けながら三郎は尋ねた。
「他の薬草と混ぜて薬にする。簡単な酔い覚まし薬だよ」
二、三日干乾ししたら作り出すから、と続ける。三郎はその製薬方法に覚えがないのか気の抜けた相槌だけを返した。
「昔、善法寺先輩が教えてくれたんだ」
「おや、随分懐かしい名前だな……というか兵助と先輩って交流あったのか」
「委員会で火薬扱ってただろう? 火傷することも多くて、その度に保健室で薬もらうのも悪いからって薬草の調合教わったら他にも色々教えてくれてね。火薬の調合方法と引き換えだったけど」
三郎の目が丸く開かれた。
「全然知らなかった」
「そりゃあお互いに秘密にしようって約束してたから。本来委員会に属する人にしか与えられない知識を分け合ったんだ、おいそれと人には話せないさ」
それがこんなところで役に立ってるなんて先輩は思いもしないだろうな、と心中で付け足した。口元に添えられた手の陰で薄い唇がゆるく弧を描いた。
「優等生だったお前がそんなことしてるとは思わんだろう。というかここへ来てから色々作れてたのはそれのおかげか」
三郎の首が縦に揺れた。その様子が学園にいた頃彼が顔を借りてた友人の姿に重なり、兵助は目を細めた。
今日はどうも感傷に浸ってしまっていけない。
鳴り止まない潮騒はすっかり耳の奥にこびりついていた。
*****
一年は飛ぶように過ぎ、厳しい冬が終わり、木々の新芽が膨らみ始めた。それぞれが進む道を決め、あとわずかで学園を去るという日の夜だ。
「ねえ、最後にみんなで呑もうよ」
「おっいいねえ。じゃあ俺と鉢屋で酒持ってくるよ。学級委員長委員会のとっときがあるんだ」
雷蔵の提案にいち早く乗った勘右衛門が足音もなく廊下をかけていく。その後ろを三郎がゆるりと歩いて追いかけた。下級生は寝静まり、上級生の自主練の音が虫の声に紛れて聞こえてきた。
勘右衛門と三郎がそれぞれ腕に酒を抱えて戻って来ればすぐに酒盛りの場は開かれた。障子の薄い紙をすり抜けて月の光が淡く差し込む。灯りをつけずとも六年間の修行を終えた彼らの目には互いの顔がよく見えた。学園で過ごした思い出を肴にすれば酒は進む。
声を殺しながらもその顔は常に頬が緩んでいた。
「結局最後まで残ったのは俺たちだけだったな」
突然、八左ヱ門が猪口に注がれた酒をぐいと飲み干して呟いた。
「仕方ないさ、誰もが通れる道じゃあない」
雷蔵が彼の空の器に片手で酌をした。普段であれば酔ったのかとからかわれるような言動を誰も笑うことはできなかった。
「それでも俺たちは残った。それで充分だろう」
「勘右衛門がそういうこと言うなんて珍しいな。一人抜けていく度に暗い顔で委員会に来てたくせに」
「おいバラすなよ」
唇の隙間から漏れ出た息を吸い込むように猪口に残った酒を飲み下して勘右衛門は肩を揺らした。
いつもならば言い争いが起きてもおかしくない。けれど勘右衛門も三郎も互いにゆるりと笑みを交わすだけだった。
「そうだ、詳しく聞くつもりはないがお前たちはこの先どうするんだ」
そのまま勘右衛門が問う。どこかの森で野犬が遠吠えをあげた。
「そんなこと聞くなんて本当に勘右衛門らしくない……どことは言わないけど俺は城に勤めるよ」
八左ヱ門が初めに声を出した。続いて雷蔵が同じだと答える。勘右衛門も同じだ、とまた笑った。
「三郎と兵助は実家に戻るって言ってたし本当にみんなバラバラになっちゃうね」
そう呟いて傾けた徳利からはすでに軽く、一滴だけ流れ落ちて猪口を濡らした。春も目の前といえども日が暮れてしまえば肌に冷えは刺さる。張り詰めた空気が場を支配した。雲間から覗いた月の光は白く反射し、それぞれの顔を青白く照らす。無残にも転がされた徳利からはもはや一滴の雫も落ちることはない。裏山の方向から金属がぶつかる高い音が聞こえた。
「それでも、俺は勘ちゃんや八左ヱ門や雷蔵や……三郎に、また会いたいと思うよ」
こぼれた言葉は小さく、それでも静寂の満ちた部屋ではしっかりと聞き取れた。勘右衛門がそうだな、と頷き兵助の頭を撫でる。六年間同室として過ごしてきたからこそ分かり合えるものもある。どこまでも人のよいこの男がどんな思いで言葉を落としたのかなど、手に取るように理解していた。
「さて、酒も尽きたし今日はこれでお開きとしようじゃないか」
冬の終わりにふさわしい張り詰めた空気が緩む。障子の隙間から湿気を含んだ風が流れ込んだ。片付けを申し出た雷蔵と八左ヱ門はゆっくりと立ち上がり徳利を抱えて部屋を出て行く。勘右衛門とともに部屋へ戻ろうと立ち上がりふすまに手をかける。おやすみなさいという言葉を最後に襖が閉じられる間際、兵助は隙間から三郎の目を見据えた。酒を飲んでいながらも彼の鋭く理知をまとわせた視線は変わらない。わずか一瞬、音もなく閉じられた襖から気配は遠ざかる。三郎は板の間に寝転がると胸に溜まった空気を吐き出した。
「バカなやつ……」
腕の下に隠された瞳は月にすら見ることは出来なかった。
*****
夕食を作るのは二人で。それはこの島に来てから決めた数少ない約束の一つだった。
三郎の細いが節の目立つ手が握る包丁が魚の白い腹に差し込まれた。まな板に滲む赤い液体を気にすることもなく器用に内臓を取り除き、腹を切り開いていく。指先についた魚の血が乾いてこびりついていた。
「その魚、釣ったのか?」
横で葉物を切っていた兵助が手元から目を離さずに尋ねた。三郎は張り付いた血を剥がそうと爪で皮膚を引っ掻いた。
「もらったんだよ。近くまで寄ったからおすそ分けだってさ」
「ああなるほど……本当にお世話になりっぱなしだな」
葉を刻む手つきがゆるくなる。すぐ横にある鉄の鍋に刻み終えたものが投げ込まれていった。
「兵助の薬を分けてやってる部分もあるし、その辺は等価だろう」
赤くなった手のひらに目もくれず、白身をすり潰して丸めながら三郎は笑った。団子になった魚を崩さないように鍋に入れ火にかける。醤油をひとさじたらせばふわりと香りが広がる。
「今日もいい出来だな」
鍋に箸をつけてそう呟いた。三郎の横では兵助が豆腐を切り分けている。包丁を入れる度に滑らかな表面が光を帯びた。丁寧な作業で器へ盛り付けると兵助もまた三郎と同じように頷く。
「さあ、ご飯にしよう」
*****
日差しも風も柔らかくなればもう春は目前だ。桃が咲き乱れるその横で桜の蕾が膨らみ始めている。一年間の授業を終えた学園には生徒の声もなくただ花びらが舞い踊っていた。
まだ陽の高い昼。六年間袖を通した制服を黒い忍び装束を纏う大人たちへと手渡す。それぞれが私服を纏い、手には小さな荷物だけを抱えていた。
恩師とも呼ぶべき教師たちに一人ずつ頭を下げる。教師たちはおろか生徒の目にも涙はない。白髪を蓄えた学園長に見送られ五人は揃って裏門へと歩を進めた。
「最後まで仲の良い生徒たちであった」
学園長の言葉は彼らの背には届かず、その場にいた教師が目を閉じて同意を示すだけであった。
裏門には人の気配もない。ただ植えられた梅が三分咲きで彼らの来訪を待ち受けるかのように咲いていた。
「これで最後だな」
誰ともなく溢れた言葉に皆の頬が赤くなった。
「ねえ、約束しない?」
個人で蔵書していた書物のせいだろう、人一倍荷物の多い雷蔵が振り返らずに言った。そのすぐ後ろを歩いていた八左ヱ門と勘右衛門は少し顔を見合わせて口の端を揃って上げた。
「おいおい雷蔵、俺たちをなんだと思ってるんだよ」
「ああそうだ、約束なんぞ必要なものか……たとえ次会った時が敵であろうとも俺たちが俺たちであることは変わらないだろう」
雷蔵は数度瞬きを繰り返すと肩についた花びらを手で払う。二人と同じように、穏やかに頬を緩めた。
「そっか、僕たちにはそんなものなくても大丈夫だったね」
「当たり前だろう! ここでの六年間全てが俺たちを繋いでるんだ。言葉になんて今更する必要ないさ」
「そんなこと言って勘右衛門は恥ずかしいだけじゃねえのか?」
「その言葉お前にそっくり返すよ」
六年間で何度も繰り返された軽口の応酬をその日は誰も止める者がいなかった。これが本当に最後かもしれないという思いは誰しも心に抱えている。春の風が皆の髪を揺らす。
「よし、じゃあしばらくお別れだ」
学級委員長らしく言い切った勘右衛門が真っ先に裏門をくぐり抜けた。次に皆の肩を叩いてから八左ヱ門が。前を行く二人を見送ると雷蔵も門へと足をかけた。
「二人とも、元気でね」
三郎の目が見開かれた。
「雷蔵、お前知って……」
「さて、何のことだろう? じゃあ僕は行くよ」
正門よりも背の低い裏門を潜り抜ければもう振り返ることはない。雷蔵が、八左ヱ門が、勘右衛門が抜けていった場所は次の人を待ち構えるかのように口を開けていた。
「これが最後だ。兵助、私と来てはくれないだろうか」
三郎が問う。友が己の足で通り抜けた穴を見つめる顔は光に反射してよく見ることは叶わない。
木戸にかけられた三郎の手に白い指が重ねられた。六年の間に傷だらけになった指だ。
「行くよ。俺はお前と行く」
耳に寄せられた口から囁きが溢れる。泣いているのかと疑うほどか細い声。しかしそこには確かに決意を灯した響きがあった。
何も言わずに彼の手を握り返す。
二人は揃って裏門をくぐり抜けた。
*****
白身魚の団子と野菜の鍋が白い湯気を登らせる。冷奴の上には刻まれた生姜とネギが色味を添えていた。向かい合ってそれぞれ箸を伸ばす。お互いに食事の時に言葉が少なくなることはこの生活を始めて気がついたことであった。学園の食堂では誰かしら他の人がいたから分からなかったのだろう。
兵助の食べる所作は美しい、と三郎は上目でちらりと眺めると嘆息した。それは彼の出自を窺わせることでもあり、口に出して指摘することはない。絹ごし豆腐を崩さずに箸で摘んで口に運ぶとあからさまに頬に朱がさした。きっと満足のいく出来だったのだろう。
「あまりこっちを見るなよ」
「なんだ気づいてたのか」
自然と箸が止まる。三郎につられて兵助の箸も動かなくなる。箸先はきっちりと揃えられていた。
「そりゃまあチラチラと視線を寄越してれば気付くだろ……この数年で腑抜けたか?」
「バカを言え。何なら明日手合わせでもするか」
多少の行儀の悪さなど目の前の男は気にしないだろうと器に口をつけて一気に汁を飲み干した。酒があれば上等だなと呟けば贅沢を言うなと笑いを含んだ声で窘められる。
「手合わせね……確かに最近やってないしいいかもしれないな。使うのは?」
「もちろん自由だ。使えるものは何でも使えなくちゃあな」
忍びの道を蹴ってまでこの生活を選び、選ばせた口で何を言うのか。喉の奥で息を漏らす。そっと目の前を窺えば兵助が箸の先を揃えたまま味噌汁をわずかに音を立てて啜っている。その緩んだ口元を見て三郎は頬の内側を軽く噛んだ。
*****
横並びで門をくぐり抜けた二人は予め三郎が目を付けていた廃寺にひとまず身を落ち着けた。一日経っても二人が戻らなければ実家に気付かれるだれう。その前に逃げる算段を付けておく必要があった。
「私が町へ出て情報と入り用な物を揃えてくるからその間に兵助はこの辺りの警戒を頼めるか?」
旅の行商人の装いに化けながら三郎が尋ねた。
「ああ、ひとまずここの安全は確保できるようにしておくよ」
いつまで居れるかは分からないがとりあえずの安全は一番の課題である。兵助は袖に仕込んだ寸鉄の感触を確かめて強く頷いた。
「じゃあ私は行ってくる。夕方までに戻らなかったらその時は……」
「分かってる、三郎も気を付けて。俺の家はともかくお前の家は俺たちみたいな者のやり方に詳しいだろ」
油断はするな、という言葉を交わすと互いの小指を絡めた。
三郎の背中を見送ると兵助は数少ない道具で作れる罠を作り始めた。幸いにしてこの廃寺は山の中腹にあり周りからは様子を見られにくいが肝心の寺の周りは瓦礫や砂で溢れておりどんなに殺そうとしようが足音が聞こえる可能性が高い。敷地内に転がる手のひらに大きめの砂利を集めてはわざと間隔を散らして撒いた。大きさが違う石の中を歩くのは力の加減も難しく普通の相手であれば足音を立ててしまうだろう。一通りその作業を終えると今度は、持ち出した数少ない荷物の中から細い糸を取り出して塀の周りを一周させた。糸の端を崩れた塀の死角へ結ぶ。木札を数枚取り付けて音が鳴るように仕掛けを施した。
忍びが動くとすれば夜になる。日が高い内にやれることをやらなければいけない。兵助は手を休めることもなく寺の敷地内外に複数の罠を張った。ひとまず張れるだけの罠を張った兵助は寺の中で足を崩した。
木々が風に擦れる音が響く。御堂の高い天井は所々崩れ、日の光がまばらに差し込んでいた。鳥や虫の声は聞こえず、不自然なほど静かな空間である。
「………………」
兵助は荷物を背負い両の袖に隠していた寸鉄を指にはめた。足音を殺して裏口へと回る。黒く腐食した木戸の前に耳を付ければ気配を殺しながらも砂に足を取られザリと微かに音を立てる足音が聞こえてくる。それはゆっくりと進み、すぐ前で止まると指で五回拍子を付けて叩いた。
「三郎……」
閂を開け人が一人通れるだけの隙間を作れば行商人の姿のままの三郎がするりと内へ入り込んだ。三郎は何も言わずに兵助の様子を一瞥すると深くため息を吐いた。
「この馬鹿真面目が……! 警戒してくれとは頼んだがあんなに罠を張り巡らす馬鹿があるか」
「ごめん……まあ印はちゃんと置いてあっただろ」
壊さずに抜けるのがどれほど大変だったか、とボヤけば兵助が眉を下げて軽く笑った。
「三郎の方はどうだったんだ?」
「とりあえず当面必要なものは買えた。後はどこに向かうかだな」
喉を唸らせながらも手にいれたものの整理を始める。三郎の横に座り込むと兵助もそれを手伝い始めた。
「とりあえずどちらの勢力圏にも絶対に入らない方がいい。ひとまず向かうとすれば海の方かな」
「ああ、それならいっそ北のほうに向かう手立てもあるな」
「なんだ三郎、北に知り合いでもいるのか?」
「私が三年だった頃に目をかけてもらった人が北の方で仕事をしているんだよ。優秀な方ではあったが結局実家を継いで農家をしてるらしい」
「お前相変わらず顔広いな。俺はそっちはさっぱりダメだからお前に任せるよ」
そう決めると二人は荷物を手分けして背に結びつけた。異変に気付かれるのも時間だ。であれば一刻も早く遠い土地へ駆けるべきだった。向こうが闇に紛れて仕掛けてくる可能性も十分にあり得るが、幸いにして今夜の月は細く星々も薄雲に遮られて光を地にはもたらすことができない。闇を得意とするのは二人も同じだった。
道も見えぬ山を音を殺して走り抜けて行く。獣たちが寝静まった山は静謐な佇まいで来訪者を迎え入れる。
異変が起きたのは一晩走り続けて東の空が白み始めた頃だった。
「…………! さぶろうっ!」
前方で緩むことなく足を動かしていた兵助が突然後方を振り返る。それと同時に三郎が枝を揺らして木の上へ上がった。
「思ったより早いお出迎えだな」
梢に身を隠し音の暗号を飛ばす。三郎の位置を把握した兵助もまた木の幹を盾にしてそれに応えた。
「どうする?」
「おそらく私の家の者だろう……逃げるさ」
敵の人数も分からない現状では立ち向かうことはできない。二人が身を寄せる木をぐるりと囲うように人の気配が湧き上がる。あまりにも濃密なそれに兵助は乾いた唾を飲み込んだ。幾度となく実習を越えてきた。けれど、殺意でもない、ただそこにあるだけの人の気配がこれほど濃く、これほど恐ろしいなどと考えもしなかった。三郎はこの人間たちに触れて生きてきたのだ。そう思うと同時に心臓が唸りを上げた。
「山を抜ける方向に一点突破する」
いつもと同じ落ち着いた指示に手のひらを握りこんだ。口の中は乾いて、それでもない唾を飲み込んだ。冷や汗などは一つもかかない。それは六年間で学んだコントロールだった。手中を自在に動く得物の感触を確かめると三つ数えて木の陰から躍り出た。
向かいくる人影は暗く闇に溶け込んで顔はおろかその形が人であることしか分からない。前方の影を寸鉄で貫きながら後方から鏢刀が飛んで左右の影の動きを止めた。
左斜めから白い針が差し込み始めた。影たちは兵助を見ることもなく後ろへ苦無を投げると山の影の方へと消えていった。
山の終わりが見えていた。
人の気配が完全に消えたことを確認して三郎へ駆けよれば肩から血を流しながらも二本足で歩いている姿が目に入る。それでもなお右腕を庇うような動きに全身を巡る血潮が一気に心臓へと集まり音を立てた。
「三郎その肩大丈夫なのか」
「問題ない、とは言えないな。こっちが痺れて動かない」
右腕を指差して答える。避け損ねた苦無に毒が塗られていたと低い声で唸った。肩に触れれば冷えた指先には熱すぎるほどの熱が脈打っていた。
「あいつらが引いたのは、まあ、そういうことだろう」
器用に己の肩へ噛みつきながら言う。口の中へ広がる粘ついた血液が地へと吐き捨てられた。二、三度繰り返しながら足を動かし地の上へ砂をかける。兵助は自分の袖を破いた。抉れ、心なしか縁が盛り上がった傷口へ巻きつけ、キツく縛り上げた。
「ここだと危険だから一旦山を降りるぞ。歩けるか?」
「あ、あ……」
少し唇を震わせ、その一瞬後、三郎はあからさまに手足を震わせた。
「三郎……! とりあえずここを出るぞ。少し揺れるだろうが我慢しろ!」
背負っていた荷物を解くと代わりに三郎を背に乗せた。つい先ほどまではまっすぐ立っていた足は手のひらから伝わるほどに汗ばみ、小刻みに動いている。すまない、と途切れ途切れに息を吐く三郎が意識を失くさないよう声をかけながら山を一気に駆け下りた。速さを求めるなら三郎の荷物も捨てたいがそちらには解毒や消毒に必要なものが入っている。仕方がない、と岩を飛び越えた拍子にずり落ちた三郎を背負い直した。
背にかぶさる男の顔は見えないが首から胴へと垂らされた力のない腕が瞬くごとに白くなっていく。山を降りたものの怪我人を運び込めるような村は見当たらず、遠くにぽつねんと古びた小屋が建っているだけだった。遠くから潮騒がこだまのように響いた。人がいれば清潔に処置を行える場所を用意してもらえるかもしれないが、しかし、今は一刻も早く手当をしなければいけない。三郎が荒く息を吐いている様子に半ば安堵を覚えながら兵助は小屋までまっすぐに進んだ。小屋の先からは磯の香りが風に乗って吹いてくる。太陽が山影から姿を現し兵助の走る後ろに影を落とした。
小屋は掘建小屋と言うにふさわしい様相で二人を迎えた。それでも周りに生えた雑草などは小屋の入り口にはなく、人の手による仕事の跡が見える。裏手には底の抜けた木船が放置され、雑草の芽が出ていた。
「すみません誰かいませんか」
戸の前に立ち声を上げた。まだ朝も早いが漁村の人が使う小屋なのであれば人がいるかもしれない、もしいなければ心苦しいが勝手に上がらせてもらおうと決め戸に手をかけてもう一度向こう側へ問いを投げた。
「すみません、誰か、いませんか」
「………………」
ささくれた木戸の向こうからは沈黙の返事があるのみだ。そう思い仕方ないと力を入れる。
突然、指をそのままに兵助は突然振り返った。
彼らが来た反対側から人間が一人歩いてくる影が見える。足音を殺すこともなく朴訥と歩いてくる姿がやわらに小屋の方を見ると、慌てて走り出した。あっという間に小屋の前まで来ると息を切らすこともなく驚いたように声を上げた。
「どうされました……!」
「水軍の……! 怪我人がいるのです。すみませんがこの小屋を貸していただけませんか」
「ここは我々が時折使っている空き小屋ですからどうぞご自由にお使いください」
兵助は礼もそこそこに中へ入ると土間を一足飛びに抜け、板の間へ三郎を寝かせた。少しでも毒を抜いたことが幸いしたのか呼吸は荒いがまだ息はある。簡易的に縛った布を解くと内も外も黒く染まっていた。
「三郎、分かるか」
「なん、とか」
「この毒に心当たりは?」
人により差はあれど普遍な毒には耐性を得ているはずだ。それにも関わらず、すぐに効果が現れるということは間違いなく自分たちが六年間で目にすることのなかった毒物だ。
「た、ぶん、はちや、の……」
「解毒剤は?」
鉢屋の毒であれば三郎は知っているはずだ。追い立てるように回答をせかす兵助に反して口で大仰に息をしながら自分の荷物の中に小さな箱があり、その奥に深緑の丸薬があると言った。急いで荷物を解けば確かに奥へ隠すように包まれた小箱が出てきた。躊躇うことなく開けば中には三粒だけがひっそりと入っていた。
横になったままの三郎の背へ手を回して身体を起こすと三粒とも口に含ませる。喉が動き、飲まれるのを見届けた兵助は再び横へと倒してやった。
瞼が落ち、先ほどよりも穏やかな呼吸を繰り返す三郎の顔へそっと指を伸ばした兵助の後ろで、ガタリと扉が開く音がした。振り返れば静かに二人の様子を伺う男が一人立っていた。兵助は真っ直ぐ背を伸ばすとそのまま腰を曲げた。
「ご迷惑かと思いますが少しだけ三郎を休ませていただけませんか……舳丸さん」
潮に晒されて生きてきた証である赤茶けた髪を乱雑に束ねた頭は少しも動かない。
「何があったのか、きちんとお話しいただいてもよろしいですか?」
兵助は一度頷くと三郎の横へと腰を下ろした。舳丸もそれに向き合うように板の間に座り込んだ。
五年生の時に知り合ったものの一つ上の学年や四つ下の学年と異なりそこまで深い親交があるわけではない。さてどこまで明かしてよいのか、と眉一つ動かさずに思案を巡らせる。目の前の男は急かすでもなく兵助の準備が整うのを黙って待っていた。学園と親しく付き合っているが個人で親しいわけではない。彼の顔には一見下心など見受けられないが信じるに値するものも見られなかった。
だからと言って一時的にでも助けとなった相手だ。兵助は自分や三郎の家の事情は伏せて卒業してからの話を掻い摘みながら話し始めた。頭の回転の早い彼の話は分かりやすく整えられ、全てを話し終えるまでに多くの時間は必要としなかった。
「……これが、俺たちがここまで来た経緯です」
語り終える頃には三郎の呼吸もすっかり整い、顔に上る熱っぽさも引いていた。
「なるほど、理解しました」
やはり言葉少なに舳丸は返事をした。汗で額に張り付いた前髪を払ってやる兵助を一瞥し、思慮深さをうかがわせる瞳が瞬いた。
「つまりお二人は各々の家事情があり、そこから逃げてきた、と」
「助けていただいた身で詳しいことを話せずすみません。大体はその通りです」
「駆け落ちですか?」
先ほどと少しも変わらない声色で尋ねられた言葉に兵助の肩が大仰に跳ねた。舳丸は心の中で大きくため息を吐いた。
「やはりそうですか」
「……可笑しいですよね、こんな世の中で」
結局大して逃げることも出来ずにこのザマです、と白い顔が歪んだ。
「別におかしくはないですよ」
静かに舳丸は答えた。事情を詳しく聞くことはしないが、忍術学園卒業というのはその道において評価の一種になるはずだ。それを蹴ってまで逃げることを選んだ二人の決意は生半可ではないだろうと想像はついた。
「お二人はこれからどうするつもりですか」
兵助は指の腹で頬を掻くと特徴的な眉毛を八の字に曲げた。
「最初は北に向かおうと思っていたんですが……」
「北へ向かう道、それも海沿いに出るを張られてた以上、目論見はバレてるだろう」
兵助の後ろから布が擦れる音を立てて三郎が身を半分ほど起こしていた。
「三郎!」
慌てて腕を伸ばし丸まった背を支えた。着物越しに触れる体温はまだ暖かいが、十分日常のものといえる温度に戻っている。
「もう大丈夫なのか?」
「私が知ってるものを使ってくれたのが幸いだった。解毒薬を用意していないと思われたのか……まあ甘く見られたことは癪にさわるが」
力はまだ入らない拳は握りしめていてもあまりに緩く、兵助の指が簡単に解いてしまった。
「……思っていたより無謀なのですね」
目を細めて見ていた舳丸の声が二人を割くように響いた。
「そうかもしれませんね。まあ逃げ出してしまった以上、行けるところまで行くしかないでしょう」
舳丸への返事であれど三郎の視線は兵助を見つめて逸れることはない。兵助はまっすぐ伸ばした背を舳丸の方へと向けているが両の手でしっかりと三郎の手を包み込んでいた。
「三郎も大丈夫そうですし我々はここを出ます。いきなり迷惑を持ち込んでしまってすみませんでした。舳丸さんもお仕事があるでしょうし……」
開いたままの風呂敷を結び直して左手に持つと三郎に行けるか、と尋ねた。肩口の傷をもう一度、今度はきれいな布で縛り直すと軽く動かし、問題ないと頷いてみせる。手早く立ち退く支度を整える二人をじっと見つめると舳丸は瞬きを一つ落とした。
「ここを少し行くと瀬戸内海に面した浜に出ます」
「? ああ、潮の音が微かにしていますね」
「瀬戸内海には多く無人の小島が浮かんでいるんです。その内にはかつて人が住んだ跡がある物もあります」
「聞いたことがあります。沖に出すぎると似たような島も多く水軍の方々ですら迷い人を探すのは手間な程だと」
それがどうしたのか、と顔を見合わせる。
「我々の管轄にある島々にもその手の島が多くあって、わざわざ一つ一つに目を見張らせたりはしていません……貴方方が望むなら当面そちらに隠れてやり過ごしてはいかがですか」
すでに進路を見破られ、一日を過ぎて異変に気付いた兵助側の追っ手も来る可能性がある。いくら腕が立つとはいえたった二人で生き抜くのは、やはり無謀そのものだ。たまたま助けた旅人ならいざ知らず、知った顔、少なくも助けられたこともある二人である。ここで黙って見送るというのはつまり見捨てるということにも等しく、舳丸はわずかに顔を顰めながら手を差し伸べずにはいられなかった。
「……学園を卒業した我々はもはや水軍とは他人の関係です。場合によっては貴方方を敵にする同輩もいるでしょう。そんな我々を助けると?」
「数年前、怪我を負って浜で打ち伏していた我々を助けてくださったでしょう……こちらは忍ではありませんから損得じゃなくて情で動くこともあるんですよ」
自分より若い命が生き足掻くこともせず静かに寄り添うだけを望んでいるというのに、それを捨て置くのは寝覚めが悪いと心に吐き棄てると奥歯を噛み締めた。
「思っても見ないご提案ですが、兵庫水軍さんにも、舳丸さん個人にもご迷惑になってしまいますし……」
「ではほとぼりが冷めるまで、ではいかがてすか。それからでしたら北なりどこか知らない町に行くなり、ある程度自由に動けるでしょう。むしろ今そちらに向かうのは……」
「そちらに利益がありません」
舳丸の言葉を遮り首を横に振る。その横に立つ兵助もまた、動く気配がない。
「島のいくつかはまだ我々も奥まで調べていないのでそこの調査と……そうですね、もし有用なものが作れそうであればそれを分けていただくというのでどうでしょう、例えば薬などの」
とってつけたような理由を並べ立て、そこで一度息をついた。
「学園にはお世話になってますし、皆さん方にもお世話になりましたからね。これくらいしてもお頭は怒らないでしょうし……あとは我々の親切心だと思ってもらえませんか?」
舳丸は傷のある頬を不器用に上げる。彼の後輩が浮かべる満面の笑みなどではないが、凪いだ波のような柔らかな笑みだった。
三郎は黙って兵助を見やる。兵助もまた三郎の目を見る。一瞬の間、舳丸に向き直り深々と頭を下げた。兵助の長い黒髪が肩から前に落ちて不安定に揺れた。
*****
絶え間なく潮の蠢めく音とともに部屋へと月光が溶け込んだ。星の白い光はかき消され、月の黄金色が満ちている。海岸から離れた場所に広がる森からフクロウが鳴く声が聞こえてきた。
元より誰も住まない島である。学園にいた頃と比べて人の気配はあまりにもちっぽけだ。まして厚く織り込まれた夜の帳が降りてしまえば、島に根付いた自然たちが生み出す密度の濃い空気に混ざり、見えなくなってしまった。
「っん、ちょっと、さぶろ」
鼻に抜けた声が空気を揺らした。障子で遮られているとはいえ普段よりも部屋は明るく、闇になれた目ではお互いの姿は眩しいほどによく見えた。日の下では透き通るほどの白さを湛えた肌も今はぐるりぐるりと身体中をめぐる血が透けて赤く色付いている。口の端からこぼれた唾液が月明かりに反射して鈍く光った。舌先で掬いあげれば大仰に肩を揺らした。伸ばされた腕もまた白く、人並みについた筋肉が逆にアンバランスさを醸し出す。首に回し縋り付こうとする姿に、無意識なのか、己の下唇を先ほどと同じ舌でなぞった。
「本当、いい顔するようになったなあ」
喉を震わせて三郎は向かい合う顔の輪郭をなぞった。顎から耳に指を絡ませる。兵助よりも冷たいそれが触れた瞬間ぶわりと赤く染まった。花が咲いたように色付く様子にますます喉を震わせる。凹凸に指を這わしながら額、眉間、鼻筋をゆっくりと辿る。唇までくると動きを止めた。
「……三郎?」
返事はない。指の腹で感触を楽しむように何度も押される。何がしたいのか分からないがされるままに身を任せていると突然指が唇から離れ、手のひらが後頭部を包み込んだ。力を込められているわけではない。けれどしっかりと頭を固定され、兵助は思わず目を瞑った。
息を吐く暇もなく唇を合わせられる。二人分の呼吸がかすかに漏れた。唇を重ねるだけの幼稚な、その上で執拗な口づけが続く。兵助は前髪が崩れるのも構わずそれに応えていたが、呼吸もままならなくなると慌てて相手の胸板を叩いた。
「んっ……さぶろ、くるしっ……んっ」
ようやく唇が解放されると新しい空気を求めて口が大きく開く。音を立てて息をする兵助を眺めながら三郎は目を細めた。
「……なんだよ」
長い睫毛に涙を煌めかせながら兵助が眉間にしわを寄せる。背を丸めて上がった息を整える兵助の肩を掴み自分の胸へ寄せるとそのまま抱き込んだ。
「別に。見とれてただけだ」
兵助は大人しく腕の中に収まると右肩へ顔を寄せた。寝着の下に隠れてはいるが、あの時の傷は跡になって今でも残っている。見ずとも分かるその場所へそっと唇を落とす。頬は淡く色づき、口角はゆるく上がっている。三郎からは見ることのできない微笑みは、かつての廃寺で捨て置かれていた菩薩のようでもあった。
「さぶろう」
それが何よりも尊いものであるかのようにゆっくりと、兵助は名前を呼んだ。
「さぶろう、さぶろう……三郎」
二、三度繰り返される。呼ばれた声に返す音はなく、ただ、腕の力が強くなる。
「三郎、季節が巡っても、俺の横にいてくれるよな?」
こぼされた言葉に小さく息を飲んだ。艶やかに波打つ絹の如き黒髪が乱れるのも構わず、その身体をさらに抱き寄せた。
言葉で返さずとも、答えはそれで十分だった。
手に入ることのない望みを水に映る月というならば、それを手に入れるためには水へ身を捧げなければいけないのだろう。反対に、手に入れたいのであれば全てを捨ててそれだけを腕の中に抱え込んでしまえばよいのだ。全てを捨てて手に入れた月を再び手放す真似など、誰がするというのか。
本当にバカなやつだよ、と心の中で溢す。三郎はくしゃりと音を立てながら兵助の頭を撫でた。
潮騒は未だ止まない。