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    しおり
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    しおり
    バナナ・ブレッドにうってつけの日「未だ目覚めぬ友人へ捧ぐ。
     彼を忘れないでいてくれて、ありがとう。 R・F」


     彼は黒いケースを膝に抱えたまま座り込んでいた。短く、四方に跳ねた黒髪が一房顔にかかり影を落としている。整った鼻筋に通った亀裂が腹立たしく、鉢屋は「笛を吹いてくれよ」と言った。「吹いてくれたら、好きなもの一つ作ってやるから」
     青年の顔が上げられる。目にかかった髪は指で払いのけられた。
    「なんでも?」
    「なんでも」鉢屋は答えた。久々知は瞼を伏せ宙を仰ぐ。それから目を開き真っ直ぐ鉢屋を見つめると薄い唇を開いた。
    「バナナ・ブレッドがいい」
     鉢屋はわずかに眉をひそめた。目の前に座る男は放っておけば朝昼晩と豆腐を食べ、八つ時と称し豆腐をつまみ、挙句少しでも興味を持つ素振りを見せた途端机いっぱいに豆腐料理を並べてみせる。ついたあだ名は豆腐小僧。彼と仲間内では当たり前の認識であり、鉢屋はこの場でも当然豆腐料理の名が上がると考えていた。
    「前に作ってくれただろう」久々知が言った。「あの日もこんな雨のひどい日だったから」
     窓の外は灰色の雲が垂れ込め、雨の粒が不規則な音色を奏でている。あちらこちらに干された洗濯物がシャボンの匂いを部屋いっぱいに広げ、酸素を奪うようだ。鉢屋は口で呼吸を繰り返した。久々知はそれを見ると魚みたいだと微笑んでみせ、楽器ケースの留め金に指をかけた。「こんな日はバナナブレッドにうってつけなんだよ」
    「J・D・サリンジャ?」
    「残念、大島弓子だ」
    「明日が来る保証はないから、安心して今を過ごせばいい」
     金属の外れる小気味好い音が響く。「三郎らしい」という呟きに混ぜられた乾いた笑い声とは似つかない柔らかな動きで、光を弾き返す銀色の筒を手に取った。肩へ沿うように、右側へ飛び出した銀の笛へ一度、二度と息だけを吹き入れる。右手を離し、顔の横へかかった髪を耳の後ろへ追いやると再び、神経質な顔で光を浴びている細身の身体に指を沿わせた。わずかに持ち上がった胸の内に溜められた空気を下唇へ向けて吐き出す。指が動きはじめ、ぼやけた呼吸音が色彩をまとった音楽へと姿を変えた。
     演奏へ意識を集中させたままの久々知を横目に、鉢屋は立ち上がり部屋の隅まで歩いた。人一人が立てば埋まってしまう水道と、コンロが二口。足元に設えられた引き出しの取っ手は油の染み一つ見られない。引き出しの中からボウルを取り出し、冷蔵庫へ向かう。白さと曲線を帯びた一人暮らし用の冷蔵庫には二人分の食材がパズルのように詰め込まれていた。小麦粉、卵、ミルク、バター、そしてバナナ。必要なものを取り出し、音を立てないよう静かに扉を戻した。砂糖壺は所在なさげに電子レンジの上で座っていた。
     部屋には石鹸の匂いに負けじとフルートの音色が溢れている。今が雨の降る休日の午後でなければ、数分後に部屋の扉を叩かれていただろう。フルートへ息を吹き込み続けている久々知の頭が時折揺れている。生き物と見紛うほど感情で色付けられた音を生み出すその仕草は人工呼吸のようだ。鼓膜が揺さぶられる心地よさに意識を預けながらボウルへ小麦粉をふるい入れる。レシピを広げることもないまま迷いなく手が動く。黄色く色付いた皮を向けば瑞々しさを感じさせない重い香りが鼻先をくすぐった。
     甘い香りに誘われ久々知は顔を上げた。軽やかな旋律は止み、再び無分別な雨音が部屋を覆い始める。完成されたメロディと合わされば打楽器として華を添えるそれらも、ただ空から落ち行くだけでは少しばかり息苦しい。「何か、リクエスト」喘ぎにも似た短い言葉で求められ、鉢屋はしばし目線を宙へ彷徨わせた。バナナをスライスしていた手は止まっている。
    「えっと、アルルの女……のメヌエット」
     久々知は了承を示す代わりに睫毛を震わせると呼吸を求めるように吹き込み口へ下唇を触れさせた。フルートという楽器はその色と形、音色にいたるまで、どことなく繊細な女性を思わせる。彼の恋人が女であれば同じ表情で肌を触れあわせたのだろうかという想像が脳裏に浮かび、鉢屋は思い切り卵の殻をボウルへ打ち付けた。小気味好い音が響くと同時に指の先へとろみのある粘液がまとわりつく。艶めいた球体は崩れ、鮮やかな橙色でボウルの中を染めていく。蛇口をひねり汚れたままの指先を洗い流す。布巾で水気を払ってからミキサを手に生地を混ぜ始めた。小麦粉の塊を作らないように素早く、そして丁寧な腕さばきを、笛を吹く男が静かに見つめている。
    「器用だろう」鉢屋が笑った。
     雨音とメヌエット、それからボウルとミキサが触れ合う金属音。三者の異なる色合いは自然と混ざり合い、二人の耳に馴染んでいく。牧場の風を感じさせる旋律に身体を預けながら鉢屋は薄切りにしたバナナを半分ほど混ぜ入れた。形が残らないほど乱雑に混ぜ合わせミキサから手を離すと、固まった筋肉をほぐすように腕を空中で振った。演奏はとっくに一周しており、繰り返しが始まっている。好きに吹いてくれれば構わないのに、と律儀な男を思い頬が緩む。隠すようにオーブンの方へ顔を向け、ボタンをいくつかいじると中に何も入れないままスイッチを押した。そのまま棚の底から直方体の型を手に流し台へ戻る。薄く埃を被ったそれを洗剤で洗い、手近に吊り下げられていた布巾で丁寧に吹く。そこまでしてようやくボウルを手に取ると薄橙色の生地を一、二度かき回し、型の中へ流し込んだ。水気の少なく粘度の高い生地は重みを持って折り重なり、やがて型の中で混ざり合い、一つにまとまっていく。ステンレスの淵にこびりついた生地はゴムベラで削ぎ落とす。無駄にしないように念を入れながら、指についた生地を舐めとると数歩先の距離にいた男が静かに声を上げた。それと同時に、美しいフランス女の歌声が高らかに歌い上げる最中で打ち切られた。
    「焼く前の生地食べると腹を壊すぞ」
    「初めて聞いた」鉢屋は片方の眉だけ器用に上げてみせた。
    「昔読んだ本に書いてあった。つまみ食いした娘に、お母さんが。『大きな森の小さな家』みたいな。多分きっと、そういうの」
    「『赤毛のアン』とか」
    「『やかまし村の子どもたち』だったかもしれない」
     鉢屋は「それは知らないなあ」と言った。空気を抜いた生地の上に残ったバナナを並べていく。肩の横から久々知が覗き込むように顔を出した。「もう吹かなくていいの?」
    「後は焼くだけだからな。兵助、オーブンの具合を見てくれないか」
     フルートを抱えたままキッチンの奥へと進んだ。そう広くないキッチンではすれ違いざまに肩がぶつかり合う。肩先を触れ合わせたままタイマへ目をやり「後少し」と言った。鉢屋の応、という言葉を背に隙間を縫うようにキッチンから抜け出すとソファへ腰掛ける。和らいでいた目尻を引き締め、慣れた手つきで足の方から楽器を解体し始めた。ばらばらに崩された銀の筒を一つずつ手に取り細長い棒へガーゼを包ませる。キィに触れる指は音を奏でている時よりもずっと繊細だ。布と金属が摩擦音を立てていく。丁寧に掃除を終えると楽器ケースへ収め、次の部品を手に取る。そうして全ての掃除を終えると金属の留め具を下ろした。同時にオーブンの方から間の抜けた電子音が鳴り響いた。キッチンでは鉢屋がミトンを手にかぶせ、オーブンの蓋を開けている。密室が十分に熱くなっていることを確認すると、生地を収めた型へ手を伸ばし、素早く中へ入れた。再び扉を閉めれば先ほどと同じ電子音が鳴り、タイマが動き始めた。
    「後は待つだけだな」そう呟いた鉢屋が流しに転がされたボウルやベラを、洗剤のついたスポンジで次々に洗っていく。一人暮らし用の水切りかごいっぱいには柑橘類の香りと少しの消毒くささを残した食器が整然と積み上がった。側に掛けられたタオルで手を拭くと背後に立ちつくしたまま鉢屋をじっと見つめていた男と向かい合う。
    「出掛けよう」
    「オーブン、様子見てなくていいの」久々知が首を傾げた。
    「まだ三十分以上はかかるから。それに、コーヒーがない」壁のフックに吊り下げられているジャンパを羽織る。すぐ横に掛けられていたパーカーもハンガから外され、放物線を描き投げ渡される。
    「それはぞっとする事態だ」
     わざとらしく肩をすくめながら、久々知は手の中に飛び込んだパーカーへ腕を通した。

     二
     駅前の繁華街から歩いて十五分。築三十年を超えた木造建ての一室が鉢屋三郎の城である。程良く空いた距離は住宅地の静けさを十分に維持し、窓からは高架線を走る電車を臨むアパートは干渉を受け付けない男が暮らすには申し分のない空間だ。
     その道のプロがやって来れば五分とかからず開いてしまうであろう鍵を閉め、一度ノブを回す。扉が開かないことを確認し、道路へ身体を向ければ久々知はすでにビニール傘の下、車道に立っていた。コンクリートに溜まった水を蹴り飛ばしながら走り寄る。鉢屋が同じ傘の中へ身を寄せ、互いの肩が傘の下からわずかにはみ出たことに眉をしかめた。
    「なんで傘が一本しかないんだ」
    「昨日から兵助が泊まっていて、昨日はまだ雨が降っていなかったからだな」
     嫌なら待っていてくれて構わないという言葉を歩き出すことで否定した。傘から飛び出した肩は、時間を追うごとに冷えていく。
    「本当に最低限しかない部屋」角を二つ曲がり、靴の先が重くなりはじめた頃、久々知が不意に言った。鉢屋は部屋の隅に転がしたままの花束があることを思い起こし、あれは最低限だろうかと首を傾げた。テレビの影に放り投げてあった為に、久々知には見えなかったのかもしれない。「ね、帰りにビデオ屋に寄って何か借りて帰ろう」
    「映画は晴れの日にって言ったのは誰だっけ」
    「昨日観られなかったからその代わりに。美しい街と、女優と、音楽以外取り柄のない洋画を借りよう」
    「つまり、古典的名作」鉢屋が笑った。「バナナブレッドをお供に」
    「バナナブレッドのお供に」
     鉢屋は財布の中にビデオショップの会員証があったかどうかを思い出そうとし、二つめのポケットに入れたカードの正体を暴いたところで思考を止めた。繁華街の中にある古いビデオショップに雇われているのは彼らの知人である。会員証を忘れたところで困りはしない。悪知恵はきくが気のいい友人だ、いつか酒の一つでも差し入れれば快く貸出の手続きを行ってくれるだろう。
     不意に自分と彼を引き合わせたのも彼の男だったな、と思い至り横へ並ぶ人へ視線を流した。灰色のパーカーが雨に濡れ黒く滲んでいた。パーカーの背面にはアルファベットが三文字と数字とが丸くデザインされた文字で踊っている。彼の所属する学科の、更に細分化されたクラスで催し物へ参加した際宣伝と所属の明示のために作られたものであるそうだ。尤も既に過去の話ではであり、現在その文字を背負う必要はない。ビデオ屋の友人も彼と同じクラスであるのだから当然持っているはずだが、彼が洒落ているとは言い難いそれを纏う姿はついぞ見なかった。
     鉢屋自身も当事者であったならば着なかっただろう。脳の片隅で評価付けると、静かに灰色の布から目を逸らす。視線の先にある道路はいつのまにか車線を増やし、色とりどりの車が雨水を跳ね散らかしながら行き交っている。一際大きなトラックが通り去った後、歩道の反対側でスーツ姿の男性が傘を斜めに構え、空に向かい何かを叫んでいた。その脇を長靴を履いた少年たちが駆けていく。肩に背負うランドセルがないからだろう、いつもより身軽なことが楽しいと言うような笑い声がうち響いた。
     喧騒を取り戻した町に立ち、心臓が一際大きく波打った。同じ傘の中に立つ男が顔を向ける。鉢屋は肺に淀んだ息を押し出すと傘を持つ手に己の手を重ねた。人よりも力強さを見せる眉をひそめ久々知が何か言おうと口を開いた。
    「顳顬を撃ち抜かれたかと思った」
     彼の舌が動くよりも早く話そうと、鉢屋は出し抜けにそう言った。勢いをつけ過ぎたのだろう、歯がぶつかり合い苦い色を目に浮かべながら。久々知の唇はか細く震えている。「撃ち抜かれても、化粧で隠せるだろう」
     かろうじて上げられた語尾から問い掛けだと知る。鉢屋は口の端を歪に吊り上げて見せた。
    「隠せるね。何度も隠した。知っているか? 空想の中では死んだ者も生き返るんだ。私はもう両手と足の指で足りないくらい撃たれたよ」人形を離さない幼子に言い聞かせる教師のような優しさを含んだ声色で鉢屋は言った。「コーヒーを買おう。一つずつパック詰めされたやつじゃなくて、ファミリ用のやつが必要だ」
     指を向けた先では赤い看板が雨の中にくすみながら二人を見下ろしている。駐車場に並んだ自動車の隙間を抜け、屋根の下まで歩く。店名を全面にプリントしたガラス扉が自ら口を開けた。傘を閉じると久々知はそれを携えて半歩先を歩いた。自動ドアのすぐ横に積まれた灰色のかごを腕にかけ、鉢屋はそれを追いかける。店の中は様々な匂いで溢れかえっていた。青臭さと土の香りを仄かに残したままの青果品。パックの隙間から昇り立つ生臭さの正体は生肉と生魚だ。店内のあちらこちらで唸り声を上げるクーラーからは水臭い風が流れ出し埃を揺らしている。鉢屋は壁沿いの通路から離れ中央に整列した棚の一つへ足を向けた。赤や緑、瓶や紙箱、色々な形をした品が通路に面し並べられている。その中から適当なものを一つ手に取り、迷路のような棚の間を縫い歩く。気にしているのは量だけで、種類には興味がないようだ。久々知は傘を持ったままその後ろをついて歩いていた。
     レジの前に人はおらず、店員が二人、背中合わせに談笑を交わしている。鉢屋の姿へ気がつくと親しい者へ向ける笑みのまま「いらっしゃいませ」と言った。居心地の悪さに顔を背ければ、視線の先にキャスタ付きの台が一つ置かれている。「急な雨に」と書かれた値札とその下に吊り下がったビニール製の棒を見なかったことにするように、顔を背けたまま手にしたコーヒーの粉を差し出した。来客者宛の笑みへとすっかり装いを変えた店員がよそ行きの声で値段を読み上げた。財布からちょうどになるように小銭を払い、差し出されたレシートを捨てる。ビニール袋に入れられた品物を腕にかけ、先回りしたのだろう、入り口の前で手を上げた久々知の元へ歩み寄る。彼の横には傘をかけたワゴンが息を潜めて立っている。
    「買えたの」
    「もちろん」
     ささやかな確認を終えると久々知は外へ足を向けた。鉢屋もそれに続く。一向に止む気配のない雨へ向けて傘を開くと、左側半分を空けて鉢屋を手招いた。ビニルを叩く粒は心なしか力強さを増している。
     十数分前に繊細なメロディを生み出した手が、今は傘の柄を握り指を濡らしている。鉢屋は白い手に己の手を重ね「行こう」と言った。

     三
     レンタルビデオショップは駅前に広がる大通りから一本小道に入った場所にある。ビラと煙草がコンクリートに張り付いた路地の両脇には錆びた自転車が列を成し、道幅を半分ほどまで狭めている。雨に打たれたアルミ缶はひしゃげたドラムのような音を立てている。二人は触れ合っていた肩を半ば縺れさせるかのように縮こめた。窓枠や路地の前に飛び出した看板はどれもくすんだ色合いで、どれも光を灯している様子はない。繁華街の一角にも関わらず静けさに満ちた路地は不自然な不気味ささえ感じさせる。
    「ここももう終わりだね」久々知が言った。「もう、というほど長い歴史があったわけではなさそうだけど」
    「スナックとビデオ屋くらいか。まあ、町なんて気が付かないうちに終わってるものだからなあ」
    「気がつける人はとっくに出て行っているよ。船に住む鼠と同じだ。気が付かない人間だけがいつまでも残って、沈んでいく」
    「むしろ、沈みたがってるのかも。こういう路地裏で遊ぶ奴らってのは始まりと同じくらい終わりを知りたがるんだ」
     久々知は感傷的だし、嫌いじゃないと笑った。「原色とポップ体で作られた、色褪せた看板と同じくらい好きだな」
     目の前に掛けられたビデオショップの看板は久々知の言葉と同じ風貌だ。軒下に入り、傘を閉じて扉を開く。ドアベルの音に気付いていない店員が一人、入り口から直線上にあるカウンタへ伏せているのが見えた。
    「じゃあ俺、何か探してくるね」
     早々に店の奥へ進んでいく。蛍光灯の切れた店内は薄暗く、一方で小まめに掃除されているのか古い見た目に反して埃が積もっている気配はない。「羊画」と書かれたプレートが貼られた棚の前で、黒髪が小さく屈み込んだ。
    「やあ、いらっしゃい」いつの間にか顔を上げた店員が言った。「お二人さん、いつも一緒で、随分仲が良いねえ」
    「お前こそ、いつも寝ていて、雇い主に怒られないのか」
    「雇い主、だって」
     そんな些細なことを気にするのかと言いたげに掌で机を叩いてみせる。古い事務机が悲鳴をあげた。
    「ああ、そうだ。今日会員証忘れたんだが」
    「会員証? いいよ、別に。こんな店に借りにくるのお前らと、スナック帰りに不躾なピンク色したビデオ借りてくおっさんだけだし」頬杖をついた姿勢で男は言った。「つまり、真っ当な映画の貸出先はもう一つしかないってわけ。それとも、お前たちもとうとうピンク色の映画を借りるかい」
     店の一番奥、薄茶色のカーテンが揺れる一角を指で示す。鉢屋はわざとらしく細めた瞳の色を鼻で笑った。後ろから聞こえる足音が徐々に近づく。濡れた靴がゴムタイルに擦れ、鼠取りにかかった悲哀に似た甲高い音を立てている。すぐ後ろまで近寄り、やがて足音は止まった。振り向いた先では久々知が手にしたプラスチックケースを額の前に翳している。ケースには見たことのない女優が微笑む上に青色で彩られた筆記体が踊っていた。見せるべき一番の顔が覆われたデザインはシンプルと呼べば聞こえはいいが、どこか物寂しさを誘う。
    「古典的名作はどこへいったんだ」
    「この店にそんなものないだろう」
     唇を尖らせ店員の男が何かを言う。口の中で呟かれた言葉は外へ飛び出す前に換気扇の音にかき消され机の対岸に立つ二人の耳には届くことがない。パッケージの裏にあるバーコードを読み取ると男は不平を零したものと同じ舌で表示された値段を読み上げた。貸出期間や料金制度などが書かれた、読み上げるべきマニュアルを読む気はないようで、男はディスクをしまう棚から銀の円盤を取り出すとケースの内側にある窪みへはめ込んだ。「いつもと変わらないから」
     鉢屋は頷き、財布から紙幣を取り出すと男へ手渡した。レジに入れられ、代わりに数枚の小銭が返ってくる。同時に渡された品は雨に濡れても大丈夫なようにビニール製のカバーに収められていた。それをスーパーのロゴが大きく印刷された袋に押し込めると小さく礼を告げた。
    「じゃあね。もう来んなよ」店員が笑った。「こんなところ、早く終わるのが正しいんだ」
    「俺はまだ終わってほしくないけど」
    「兵助のそれは感傷だよ。傷があれば存在を証明できるつもりかもしれないけれど、いつか直さなきゃ。それが正しいってこと」
     久々知はしきりに黒目を彷徨わせた。彼に何か言葉をかけようと口を開き、そこで鉢屋は初めて舌が乾いて声が出ないことを知った。口の中に薄く広がる唾液を飲み込む。仰々しく喉仏が上下し、誰にともなく言い訳したい気分が迫り上がる。ようやく動いた舌で、鉢屋は「帰ろう」と言った。
     突然、店内にかけられた時計が三時を告げた。おもちゃの鳩が飛び出して狂ったように鳴きわめく。不意を突かれた拍子に久々知の背が伸びた。
    「傘、もう一本貸そうか」
     カウンタから遠ざかる背中へ声がかけられた。呆れと優しさが綯交ぜになった色を含んだそれは換気扇はおろか鳩にさえ邪魔されることなく鼓膜を揺らす。鉢屋はドアを片手で押し開けながら、首だけでカウンタを振り返った。
    「いらないよ」
     雨の中で広げられた傘の下、彼らは再び肩を並べた。

     四
     アパートまでの十数分、二人は沈黙を守ったまま歩き続けた。行きと全く同じ道を辿り、大通りから住宅街へ抜ける。雨の午後に出歩く人間はそう多くはなく、すれ違う人は皆傘の下で唇を歪めていた。トタン屋根を貼り付けた一際古い民家の角を曲がる。降りしきる銀の糸で霞む先に見慣れたアパートが鎮座する姿が見える。後数分もなく、濡れたジャンパを脱げると思えば急かすように肩が震えた。それと同時に水を含んだ靴先の重みが鮮明なまでにのし掛かる。隣の男を見やれば同じように肩を覆うパーカーが濡れて変色している。見ただけでは分からないが靴先もきっと同じだろう。風に乗って吹き込む雨が傘を持つ手を濡らしている。水の透明さに侵食された肌がいつもよりも白く見え、鉢屋は思わず空いている手を伸ばした。触れた途端に雨水の冷たさが肌を刺す。久々知が眉を寄せたまま一度視線を向け、すぐに前を向いた。皮膚の重なる場所だけが微量の熱を持っているようだ。熱を乗せた血液がやがて心臓まで巡り、不自然なほど大きく脈を打つ。唇を薄く開き、吸っては吐いてを繰り返す。靴底から足の裏へコンクリートを叩く感触が伝わる度に、脊髄から脳へ鈍い痺れが響く。暖かなコーヒーを求め急く心と裏腹に足取りは縺れ、速度を落とした。何事もなく足を進める久々知が半歩先を行く。傘を覆う手が指先からすり抜けた。
    「あっ……」
     小さく息が漏れる。
    「帰りたくないの」
     教科書に載っていた仏像によく似た、角のない笑みが浮かんでいる。傘から外れた背は天から恵む水を受け、温度を失っていく。十数センチにも満たない隔絶だ。足を伸ばせばすぐに届くはずの距離を踏み越えるだけで骨が軋む感覚に襲われる。
     不意に降り注ぐ針の感触が消えた。時間にして数秒にすら届かない、一瞬の間はしかし、確かに鉢屋の呼吸を止めていた。差し出された傘の下で喘ぐように胸を抑える。顔を上げれば雨を受けてなお仏像の笑みを湛えた久々知が立っている。
    「どこか、遠くに行ってしまったかと思った」
    「帰ろう」久々知は濡れた髪をかき上げて言った。
     アパートの階段は目の前にある。二人とも雨に晒され、もはや傘は意味を成していない。透明なビニールの幕を閉じ、腕にかけると久々知は手を差し伸べた。鉢屋は空いている方の手を重ねる。爪の先には白い線が幾筋も浮き上がっていた。
     赤錆色の階段を上がり、屋根の下に入る。全身に降り注ぐ飛沫が遮られるだけで安堵が肺から迫り上がり、どちらともなく溜息を零した。鍵を回し、扉を開ける横で久々知が鼻を震わせている。室内に入れば閉じ切られたままの生温い空気が全身を包んだ。ジャンパを脱ぎ洗濯機に放り投げると、その横に積まれているタオルを一枚取り、玄関に立ち尽くすの男の頭を覆った。そのまま力を込めずに髪をかき回す。タオルと髪の隙から垣間見える瞳は勢いよく閉じられたせいか、幾筋も皺を寄せている。鉢屋はかき混ぜる手を止め顔を覗き込んだ。
    「すっかり冷えてる。シャワーを浴びた方がいい」
     パーカーも全部、洗濯機に入れていいと告げ、キッチンへ向かう。久々知は「三郎は」と部屋の奥へ声を放った。
    「私は着替えれば十分」
     薬缶を片手に廊下へ顔を出し、すぐに元へ戻す。「それよりもカフェインが必要なんだ」
     水道水で中を満たし火にかける。そのまま、真っ直ぐ背後を振り返り、濡れた前髪を額に張り付けたまま沈黙を決め込んだように静止したオーブンの戸を開く。小さな部屋の中はまだ素手で触れられないほど熱く、動きを止めて間もないことが窺える。赤い格子柄のミトンで手を覆ってもなお熱を伝えるそれを静かに取り出した。熱を加えられ、甘さを増したバナナの香りが鼻腔に広がる。飾られたバナナの隙間から覗く深い茶色をした表面は艶めき、盛んに蛍光灯を反射させている。爪楊枝をちょうど真ん中にあたる場所へ一刺しすれば、水分のない生地が埃のように散らばった。
     浴室の方からタイルを水が叩く音が響く。鉢屋は焼き上がったばかりの菓子をそのままに部屋の隅へと歩み寄った。角の一つを潰すように置かれた箪笥の一段を開け、折り重なった衣類を取り出す。下着と無地のティーシャツ、スウェットの一式を片手に、閉じきられている洗面所の扉を開けた。タオルの積み上げられた上に衣類を乗せ、扉をきっちりと閉め直す。同時に薬缶がけたたましく声を上げた。早足で戻り火を止めると机の上に放り出されていたスーパーの袋へ手を伸ばす。既に粉にされているコーヒーを開ければ嗅ぎ慣れた焦げ臭さがキッチンいっぱいに広がった。菓子の香りと混ざり合い、甘さと香ばしさとが冷えた気管を温めるようだ。フィルタに一度湯を通してからメジャスプーンで粉を掬い入れ、一回りだけ湯を注ぐ。一分ほど粉を蒸らした後にゆっくりと湯を注ぎ直す。フィルタから雨のように溢れ落ちるコーヒーの音を聞きながら、鉢屋は濡れたシャツをようやく脱ぎ捨てた。肌は冷え切り赤みがさしている。乾いたシャツとスウェットが仄かな温かみをもって皮膚を包んだ。
    「三郎、服ありがとう。」
     リビングの扉が開き、久々知が顔を出した。艶を纏う黒髪は先ほどまでと変わらず雫を落としている。肩にかけたタオルで拭いながら部屋の奥へ向かい、テレビの前に並んだコントローラの一つを手に取ると電源を入れる。部屋の中を映していたテレビ画面が瞬き華やかな人々を映し出す。笑い声を十全に響かせるそれを一瞥することもなく、久々知は別のコントローラをエアコンへ向けた。小さな機械音を携えた羽の動きに従って乾いた風が部屋へと送り込まれた。部屋の中に吊り下げられた衣類が風に煽られ心細げに揺れた。
    「おまたせ」キッチンから同じ色をしたマグカップが運ばれた。鉢屋が手にする盆の上には他に真白なだけの、飾り気のない皿に乗せられた渋茶色のケーキが乗せられている。テレビの前に設えられたローテーブルに並べられ、マグカップだけ「ブラックでいいんだよな」と手渡される。
    「ありがとう」まるで気取った気配のない空気に久々知の頬が自ずと緩む。片手で差し出されたマグカップを受け取り黒い表面を吐息で揺らす。一口喉へ流し、慌てたように唇をすぼめた。厚い陶器を経てなお伝わる熱が指先を赤く染めている。先ほどまでの冷えが嘘のようだ。
    「借りてきたやつ観るか」ビニールのカバーからケースを取り出し鉢屋が尋ねた。熱に焼かれたように痛む舌を歯の裏に押し付けながら、久々知は頷いた。再生機のトレーを開け、ディスクをはめ込む。機械の中へ取り込まれた円盤が回転する音が束の間静寂を支配し、やがて暗転していた画面が動き始めた。鉢屋が立ち上がり電灯の紐を引く。部屋ごと暗がりに落とされる映画のオープニングだけが明々と光を灯していた。
     名を知らぬ女優が川辺を歩くシーンから映画は始まった。ひと昔、もしくはそれ以上前の流行りを体現した女優はどこかの令嬢のようだ。丈の長いスカートと絹の手袋に反して色濃く塗られた口紅が画面の中でただ一つ浮き上がっている。野道を進むうちに、やがて男が現れた。男はこの映画の主人公であるらしい。場面を変える毎に女優と共に微笑み合い、顔を寄せていた。
     何の変哲も無いラブストーリだ。鉢屋はローテーブルへ手を伸ばしフォークを摘むとバナナブレッドを一口分切り取り、器用に口へ運ぶ。口へ入れた途端舌先をバナナの甘みが包み込む。味覚にとどまらず、嗅覚さえ覆うほどの香りをコーヒーで喉奥へ流し込んだ。まるでこの映画と同じだと波打つ黒い水面を見つめ、再びカップへ口をつけた。しばらくそれを繰り返す。いつの間にか男の暮らす場所が田舎町から街へと変わっていた。
     再生機の端で無機質に動いている時間は再生時間の半分をとうに超えている。二時間に満たない短い映画だ。前半分の退屈な恋愛劇はすっかり形を潜め、主人公が細い眉を精一杯に歪めながら何かを叫んでいる。ヒロイン役の女優はもう数十分前から姿を消していた。男はやがて始めの川辺へと戻って来た。背筋は丸く、足を引きずるように雑草の中を進む。確かに二本足で歩いているにも関わらず地面を這っているかのような疲労感が滲み出している。一度休もうとしたのだろう、男が水際に座り込んだ。水鳥が飛び立ち、波立つ水面には口紅だけが目を引くヒロインの笑顔が揺れている。重い声を上げ、水面を搔き抱く。男の背が水に呑まれ、再び静寂に満ちた水面の上をエンドロールが流れ始めた。
    「結局、ヒロインは全部男の妄想だったのか」
     冷めたコーヒーを一口啜り、久々知が呟いた。ローテーブルに投げ出されたパッケージには水面に揺れていたものと同じ微笑みを湛えた女優が切り取られている。顔の上にタイトルを被せてあるのは作為的だったのかと、その一点において湧き上がる嘆息を飲み込んだ。
    「悲しい話だな」
    「そうかな、俺は案外幸せだったんじゃないかと思うけど。ヒロインが死んでることを周りはかなり強く示していたし、破滅に向かうことは分かっていたんじゃないかな。その上で空想を選んだのならきっと、それが彼の幸せだよ」
    「意志を貫くことが幸せ?」
    「本人以外には分からないだろうけれど。少なくとも周りはそう思わないとやってられないだろう。自分で望んだんだって」
     鉢屋は冷めたコーヒーをレンジにかけようと立ち上がった。
    「現実なんて不安定で、何が本当かなんて自分以外分からないんだ。人は、自分の都合で真実を選ぶ生き物だから」久々知はそう言って己の傍に置いてあるカップを差し出した。光源のない部屋で、黒目だけが浮いて見える。鉢屋は一先ず両手を埋めるマグカップを片付けようと静かにレンジの中へ置いた。戸を閉め「スタート」書かれたボタンを押す。橙色の光が部屋の中にぼんやりと浮かび上がった。
    「きっと彼はさ」久々知は光に誘われるようにレンジの方へ首を傾けた。「どこか遠くへ行くべきだったんだよ。彼は彼女の地図を持っていたんだから」
    「地図って」
    「人は、思想や感性に従って記憶を町のように並べているんだと思う。それが、地図。個人によって町並みも、道も、環境さえ何もかも変わるからそれは決して同一ではありえない。相手の町を除くためには自分の町から離れなくちゃいけないから、簡単なこともない」
    「つまり、一つとして同じ地図を持った人間はいないってこと」鉢屋が頷いた。「それが人と人が理解し合えない理由?」
    「究極的にはね。町の外観だけ見て、中身を想像することはできるから、そうやって何とか誤魔化しているんだ」
    「それで、彼は彼女の地図を持っていたってのは?」
    「言葉通りだよ。主人公は多分、人の町を想像するのが得意だったんだ。つまり感受性が豊かってことだけど、だから彼女の町を想像することができた。そして彼女もまた自分の町を彼に覗かせた。例外的にね。その結果彼は彼女を根本的に理解したし、だからこそ本物の彼女を空想で補えた」一度言葉を切り、皿に置かれたままのフォークを指で挟み込む。半分ほど残っていたバナナブレッドを一口含み、嚥下してから再び口を開いた。「だから空想で十分だったんだ。死んで彼女に会えることは彼にとって幸せだけど、彼が心に彼女を住まわせていることを誰も知らない町に行ってしまえば、水面の向こうへ彼女を求めに行かなかっただろうに」
     ため息を拒むに電子レンジが間の抜けた声を上げた。湯気の立つコーヒーを二つ手にしたまま鉢屋がソファに戻る。結局のところ、久々知が映画の主人公を本当に幸せと思っているのかは言うつもりがないようだった。
    「兵助は」鉢屋は隣に腰掛けながら言った。白い湯気の内に表情は覆い隠されている。「もし遠くへ行きたいと言ったら、付いてきてくれるか」
     久々知は大きな目を丸く見開き、ゆっくりと瞬いた。
    「行けないよ」暗がりの中で言葉だけが鮮明に響き渡る。
    「だってまだ、洗濯物干したままだし」
     今度は鉢屋の目が大きな丸を描いた。
    「何を不安がっているのか知らないけど、俺は結構感傷的なんだ。だから、どこにも行かないさ」
     逃げるのを見送り続けた鼠だと肩を竦める。
    「不安なんてさ、シャボンの匂いさえ覆い尽くすほど甘たるいケーキと一緒に飲み込んでしまえばいいんだ」
    「バナナブレッドみたいな?」
    「そう、でも俺たちは甘たるいだけじゃ側にいれないから、熱いコーヒーがないと」
     口をつけるのを躊躇うほど白い湯気を立てるマグカップを両手で覆い、目の前に掲げてみせる。鉢屋は皿に残ったままのバナナブレッドを一口に放り込むと、熱さばかりが際立つコーヒーと共に飲み下した。
    「強いな、お前は」その呟きに久々知は鼻を鳴らす。鈍角に上がった顎は幼い誇らしさと自嘲的な色を混ぜ合わせ、奇妙な角度で止まっていた。
     鉢屋は頭を撫でようとした手を伸ばし、さらに身体を捻るとテレビの影に投げ捨てられていた花束を指先に引っ掛けた。そのまま床を擦るように引き寄せる。得意げな顔のまま目線だけを寄越す久々知の腕の中に押し込んだ。
    「それやるよ」
    「何これ、花束? しかもバラって」
    「熱心なファンからもらったんだ」伏し目がちにほくそ笑む。「ちょっとばかり中に忘れ物が残されているけれど」
     花束の中央へ手を差し込む。指先に触れたものをそのまま掴み出せば、一振りのナイフが姿を現した。久々知は左手の花束と右手のナイフを交互に見やり、やがて頬を綻ばせた。「映画の見過ぎじゃない」
    「かもなぁ」鉢屋はそう言いながら肩を寄せた。首筋をお互いの髪の毛がくすぐり、どちらからともなく笑い声が漏れ出す。菓子とコーヒーに負け、洗剤の香りをおし隠した洗濯物が賑やかしのように揺れた。いつの間にか地上波へと切り替わっていたテレビでは細い棒を持った女性がスクリーンを指しながら「この先も雨が続くでしょう」と繰り返す。
     明日もこの部屋は、きっとシャボンの香りで満たされているだろう。

     六
     消毒液の香りが部屋に満ちていた。水の中のように隙間なく漂う人工的な香りが鼻腔を刺す。その度、静けさに包まれた室内を不自然なまで清涼に保っていることを感じさせた。
     部屋には三人の男がベッドを囲うように立っていた。入り口側に立った二人は見舞客用のパイプ椅子に腰を下ろし、手元には紙束が握られている。窓際に立つ青年はガラス戸に反射したベッドを見つめ、時折耐えかねるように息を吐く。ベッドの上には一人の青年が横たえられていた。堅く瞼を閉ざしたまま、わずかに上下する胸だけが辛うじて生命を紡いでいることを周りへ伝える。時計もない部屋では小さな呼吸が時を告げるように、奇妙なほど鮮明に響き渡っている。
     紙束を捲っていた二人の青年が顔を上げる。言葉もないまま、窓際の彼もまた鏡像から目を背けた。
    「それで、これって結局雷蔵の想像なんだよね」
    「この三郎って奴、兵助がたまに呼んでいた奴だろう? まだ意識が安定しない時に」二人の青年が紙束を手渡しながら口々に言う。ベッドの向こうから戻されたコピー用紙の表紙を指で捲り、青年は頷いた。
    「なんか、三郎って奴がいるから、兵助が戻って来ないみたいだな」ベッドの中で呼吸を繰り返すばかりの青年へ視線を移す。「この小説通りの世界で兵助が生きているなら、だけど」
    「……戻って来ないのは兵助の意志だってお医者様も言ってただろう。脳が目覚めるのを拒んでいるんだって」
    「なんで雷蔵はこんな物を書いたんだ? 俺たちは三郎なんて知らないし、小説の中の三郎は妙にリアルだ」
    「でも、何というかこの三郎、雷蔵に似てる気がするんだよなあ。化粧だなんだってあるし。深く聞く気はないけど、雷蔵いつも化粧とカツラでその顔にしてるし」
     窓際に立つ青年は唇の端を吊り上げた。その三日月のような歪んだ笑みとは反対に黒目は細められている。「三郎が僕に似ているなんてことはないよ。あいつは僕よりずっと欲張りで、ずっと人間が好きなんだ」
    「まるで、知っているかのような口ぶり」
     無言で微笑みだけを返し、青年は再び窓の外を向いた。表に立ち並ぶ街路樹の葉は色を失い、すでに半分ほど枝を露わにしている。曇りなく磨かれたガラスを、突如吹き付けた乾風が揺らした。青年は眉ひとつ動かすことなく、肺に溜まる重い空気を吐き出すように小さく唇を動かした。
     レールと窓がぶつかり合う音にかき消され、その言葉は誰の鼓膜も揺らすことはない。彼は空想を並べた紙の束から指を離しガラスをなぞる。北向きの窓は水面のように波打ち鏡像を乱した。
     やがて、再び窓が静けさを取り戻す。鏡の向こうに眠る青年の唇は、心なしか吊り上がっているように見えた。
    「気が済んだら、二人一緒に戻っておいで」
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    2022/09/10 23:36:26

    バナナ・ブレッドにうってつけの日

    #鉢くく
    別サイトからの移転です。
    初出:2018年11月22日

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