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    いつか星になる第一章

     星の落ちる影が見えた。
     青々と塗られた空を仰いだ黒目の中に一筋の光が流れていく。それが己の目に見えている物だと気が付き、竹谷は無意識に喉を震わせた。
     風に煽られ、光をたなびかせながら落ちていく影はたちまちに地上へ近付いた。空高くにあれば距離を掴むことは難しく、されど近付けば近付くほどに、物の位置を測ることは容易になる。すぐ側の森へ向かっているのだと分かるまでに時間はかからなかった。
     明るい昼の中に落ちる光の球は不思議なほど眩さを持ちながら、竹谷の他にそれを眺める者の姿はない。ただ立ち竦み、落ちる星を見つめる少年を笑う者の姿もまた。星が木立の頭に届くまでに数秒の間もかからなかった。短い非現実の景色に心臓の脈が薄く、小刻みなものに変わっている。間も無く星が落ちる。そのような時に出会したことが、初めてだったからだろう。竹谷は奇妙な心臓の騒めきにそう結論付けた。
     森の中へと落ちていく、木立と星が交わる一点の間。その瞬きほどにも満たない微かな時、急激に星の姿がはっきりと映った。
    「鳥だ」
     燃え盛る炎の内で微かにもがく翼を目に捉えるが早いか、竹谷は石を蹴り上げた。肩が風を切り裂く。少しでも多くを進もうと、半ば飛ぶように。少年はただひたすらに地を走る。
     落ちていたのは星ではない。一羽の鳥が炎に包まれ、宙から落とされていた。遠くから岩のように見えた物は羽ばたくこともままならない翼であった。
     肺が軋むように収縮を繰り返す。痛みさえ伴う内腑の悲鳴に耳を傾けず、竹谷は森の浅瀬を駆ける。目的の物を見つけたのは、肺の痛みに足が止まる前だった。
     幸いにも鳥は森の入り口から程遠くには落下していなかった。風に煽られたせいであろう、炎は弱まりながらも鳥を包み、木の根に燃え移らんとしている。懐に持っていた水筒の蓋を開け、鳥の身体へとかけた。衝撃を与えないよう静かに、けれど素早く。その傍らで地を這う炎へ足を伸ばし、踏み消した。
     地に伏した鳥は枯れ木色の翼をもがくように動かしていた。まだ宙にいるのだと思い込んでいるのかもしれない。竹谷は鳥を胸へ抱き上げた。詳しく見ずとも火傷が全身を覆っていることは明らかで、傷へ響かせないように慎重に足を踏み出す。一歩、二歩、調子を確かめながら進み、三歩目にして強く地を蹴る。腕は依然と動かず、ただ空に晒された髪だけが大きく揺れた。

     一人部屋で良かったと思うことは多い。竹谷は誰とも顔を合わせることなく自室の扉を閉めてから、不意にそう思った。
     胸に抱いた鳥を片手に抱き直し、空いた右手で机の上に布を敷く。動物の餌を用意する際に机を汚さないよう使っているもので、清潔とは呼べないが、何もないよりは良いだろう。心の内で言い訳をしながら、端に寄った皺を伸ばした。
     片手にある鳥はお世辞にも身綺麗とは呼べず、むしろ一種の嫌悪感さえ催すかもしれなかった。動物の死骸、或いはまだ生きていたとしても、それを連想させるものは見た者の心に一匙の不安を差し込む。慌てて目を逸せども瞼に焼き付き離れない。不安を拭いたければ時が過ぎるのを待つか、見せられた物へ理不尽な嫌悪を差し向けることになるだろう。
     一人であれば誰に憚ることもなくこの鳥を見てやれる。それが鳥の為か、人の為かについては、考えることはしなかった。吹き消されようとしている生命を繋ぎ止めることが何よりも重要だと、彼は知っている。
     竹谷は布の上に鳥の身体を下ろした。鳥は身動ぎ一つなく、ただ嘴を僅かに上げた。
     生きている。
     その事実が竹谷の心臓を強く打つ。速まる脈と反比例に手付きは慎重な物へと変わる。繊細な儀式でもこなしているかのような素振りで、鳥の羽へ触れた。焼け焦げた羽毛の下を覗き込めば、赤く爛れた肌が前面に広がっていた。座ったまま、手を伸ばした先に置かれた棚の下段を開け、薬壺を取り出す。火傷や切り傷であれば、ある程度は自分で対処できるように薬の一つも持っている。先日補充したばかりの塗り薬はまだ重く、鳥の身体であれば充分に事足りると息を吐いた。蓋を外せば青臭い香りが鼻を刺す。人差し指と中指を壺の中へ入れ、指の腹いっぱいに軟膏を掬い取った。
     羽の下、火に焦された皮へ届くように塗り込めていく。羽はやがて生えなおすが、まずはその下地となる皮が戻らねばならない。
     薬壺の半分ほどを塗り終えた時、鳥は軟膏で覆い尽くされていた。
     一先ず打てる手は打った。手拭いで指にこびりついた薬を拭き取りながら、自ずと肩が緩んでいく。
    「さてと、後は」
     一人部屋では奇妙なほどに独り言が増える。誰にともなく声を上げながら再び棚を開けた。薬壺をしまい、代わりに草臥た布を一枚取り出す。手拭いよりも細く短いそれを、さらに人差し指ほどの大きさに断ち切る。屑ごみのような見た目になった布の端を摘み上げ、鳥の足へ近付けた。
    「戦場にでも行ったのか」
     不自然な方向へ曲がった足を、元の向きへ向かわせる。その上から形が崩れない程度に、一方で強く巻きすぎないように、裂いた布を巻いていく。
    「それとも、」
     燃え落ちる身体は、夜であればより流れ星に見えただろう。
    「星にでもなろうとしたのか」
     誰にも知られず、鳥は星になるはずだった。昼の中で、竹谷が気付いたからこそ鳥は鳥のまま、身を焼く苦痛に身を預けている。
    「まあでも仕方ない。関わっちまったのだから、俺は俺の理屈でお前を責任持って森へ返すよ」
     竹谷が鳥の嘴を撫でる。酸素を求めているのか、開いたままの嘴から微かにキョ、キョと声が漏れた。
    「ああ、お前、夜鷹だったのか」
     夜鷹はたったそれだけを音にしたきり、力尽きたのか、開いた嘴から漏れ出す息がそれ以上に空を震わせることはない。
     竹谷は立ち上がり、部屋の隅に積み上げた籠から一つを手に取った。虫を入れる物よりも大きな木の籠に、布ごと夜鷹を移し替える。扉を閉め、机の横へ籠を置いた。人に見られてたとして、手当てがされていれば大きな問題もないだろう。詰めていた息を吐き出しながら、閉じ切ったままの扉を開く。陽の光は遠く過ぎ去り、濃い藍色が部屋の中へと流れ込む。
     空ではとうに星たちが瞬いていた。
    第二章

     友人の部屋に見慣れない住人が増えている。課題も委員会もない休日の午後を消化しようと気紛れで訪れた部屋の片隅に蹲る鳥を眺め、尾浜は間の抜けた感嘆を漏らした。竹谷八左ヱ門といえばそう親しくはない者でさえ、虫や生き物といった言葉を当たり前に連想できるほど、生物に纏わる噂に事欠かない男だ。生物委員会の委員長代理という肩書きを差し置いても生き物に馴染み深い彼の部屋からは、常に虫の羽音や獣の爪音が聞こえてくる。故に大きな驚きはなく、ただその惨たらしい見た目だけが妙に目を引いた。
    「今度は鳥か」呆れを含む声色で尾浜は言った。「というかこれ、生きてるのか」
     尾浜の目の前にいる鳥は身体を包帯で固定され、布を重ねた巣の中に横たえられていた。巻き付けられた布の隙間から見える羽でさえ、その殆どが焼け焦げている。胸のあたりが時折膨らむものの、その動きさえ微小なものだった。
    「ああ、そいつ。ちょっと前に見つけたんだ。手当てしたばかりの時は瀕死だったから、まだ油断はできないな」部屋の片隅に積み上がる虫かごの一つを手にしたまま竹谷が答えた。「一見持ち直したようでも、二日後くらいにだめになっちまうこともある」
     よくも当たり前のように残酷なことを言えるものだと、尾浜は再び声のない嘆息を漏らした。吐き出された息が波となって届いたのか、かごの中で伏しているばかりの鳥が俄かに頭を動かし始めた。ゆっくりと嘴を開き、風の音にかき消されそうなほど弱い声を上げる。
     途端に竹谷は手にしていたかごを置き、鳥の方へ身体を向けた。
    「八左ヱ門、よく聞こえたな」
     すぐ横に座り込んでいた尾浜の耳でさえ意識を向けなければ流されてしまうであろう、小さな呼び声。それを確かに聞き届けた友人へ感心を伝える。彼は曖昧な笑みを返すだけに留め、かごの扉を開けた。
     扉の中へ片手を入れ、無用な振動を与えないように外へ出す。羽の付け根や身体を覆う火傷の具合を確かめる竹谷の目は至極真剣な色を帯び、尾浜は半端に開いたままになっていた口を閉ざした。
    「薬は今朝塗った」「羽はまだ生えないだろうし」「折れた骨が痛むのか」「打ち身の薬、火傷の薬と一緒に塗っても効果あるのか?」一人呟いたまま手早く鳥の様子を探る。やがて足に目をやると、ようやく忙しない問答を止めた。
    「固定が緩んで、痛んだのか」
     すまないなと話しかけながら足に引っかかっていた布を解き、再び巻き直す。取れかけていた布が整えられるまでにそう時間はかからない。手早く包帯を巻き終えた竹谷はもう一度鳥を抱え、かごへと戻した。
    「その鳥、何でそんなボロボロなんだ」息を吐いた竹谷の背が丸くなっていくのをながめながら、尾浜は尋ねた。「どう見ても野生動物が負う怪我じゃないだろう」
    「珍しい。勘右衛門が俺の保護した動物に興味を持つなんて」
    「……退屈凌ぎだよ」
     竹谷はもう一度積まれた虫かごの山に向き直った。お互いに自分たちの性分が承知された友人だ。尾浜には、竹谷はこれくらいの物言いで怒る人間ではないという確信があり、竹谷もまた尾浜が傷を負った生き物を軽んじる人間ではないと断言するに足る付き合いがある。だからこそ、尾浜は顔を背けた男が何も態と背を向けているわけではないと知っていた。
    「言いたくないなら言わなくてもいいけど」「言いたくないわけじゃあないんだが、中々に突飛な話なんだ」「退屈凌ぎだってば」「特別面白い話じゃあないぞ」
     竹谷はそう念を押すと、虫かごを選り分けながら一人頷いてみせた。
    「そいつさ、落ちてきたんだよ」
    「落ちて?」
    「何もない宙から。全身炎に包まれて、流れ星かと思うくらいに。見て分かるだろう? 羽が焼け焦げてる」
    「鳥の骨って脆いよな。高い所から落ちて無事なもんなのか」
    「生きてるだけで無事って言うな。あちこち折れてたよ。はじめは火傷が酷すぎて包帯さえ巻けなかったけど、今は何とか」
     よく知っていたなと竹谷が言う。悪意の滲まない言い方に、実習中の野営で獲った時に観察したという事実を飲み込んだ。
    「この足も?」
     変わりに別の言葉で彼の話を他所へ誘う。竹谷はお世辞にも手入れされているとは言えない髪を無造作に揺らした。結えられた髪で尾浜の座る場所からは見えないが、首を横に振ったのだろう。
    「その足は別。もっと古い傷……爪痕に見えたから、多分他の獣にやられたんだろう」
     竹谷は虫かごの山から目当てのかごを選び出したようで、三つほど抱えると立ち上がった。
    「俺はこいつらを返しに裏山まで行くけど、勘右衛門はどうする」
     暇なら付いてくるかという誘いだ。尾浜は動く気配をなくした鳥を横目に眺め、それから首を横に振った。
    「そういえばこの鳥、なんて言う鳥なんだ」
    「夜鷹だよ」
    「そっか」立ち上がり扉を滑らせる。「邪魔したな」
     廊下へ顔を向けたまま告げる。背後から響く意味のない相槌が曖昧に鼓膜を揺らした。

     どこかで見たことがある。そう思い出したのはその日、夜も頂を過ぎ頃だった。
     暗闇の中では細やかな物音が却って大きな波を立てる。声の大きな物たちが皆、寝静まっているからだ。虫の羽。梢枝の摩擦。獣の呼吸。全身の血脈。昼中ではかき消えてしまう小さな声の群は布団に身体を横たえた途端に床を伝い、鼓膜を通ることなく皮膚の内から骨へと響きわたる。囁き声はそのうちに身体の中へ溜まり、まとまりのない合唱へと変わる。人はその大波から身を躱そうと寝返りをうつ。丁度そのような時だった。
     夜鷹の惨憺たる姿が脳裏に明滅した。
     火傷に覆われてはいない。
     翼も広げられ、その両腕で懸命にもがいている。
     そして、夜鷹の足に噛み付く獣が一匹。
     尾浜は身体を起こした。晩春の夜風はまだ芯に冷え残し、布団の温もりから離れた背を静かに冷ましていく。隣で眠る友人が寝返りをうったのだろう、布の擦れる音に隠して息を吐く。
    「あの時の鳥だったのかもしれない」尾浜は脳内に巡り始めた情景を抑え込むように額を掌で覆った。
     頭の中に埋もれた、遠い記憶が不意に鮮明さを持って蘇る。通りがかった山道で獣に襲われていた鳥。獣の陰に覆われて全容は見えていなかったが、四つ足の隙間から覗く片側の翼がはっきりと鳥だと告げていた。人が通るために敷かれた道と、獣の行き交う道の交錯点だったのだろう。大きいものが小さいものを食うことは当たり前のことであり、尾浜は偶然にもその場に出会しただけのことだ。そして、獣にとっては己よりも大きな生物がその場に現れたというだけのこと。尾浜の影を目に映した途端に獣は藪の中へと走り去った。前にも後にもそれで終いの話である。
     輪郭を持たない記憶は最近のことであったのか、随分と昔のことであったのかさえも朧ながら、その場面だけをいやにはっきりと映し出す。確かには見えなかったはずの鳥の姿が、かごの中で鳴いた夜鷹の姿として映る。眠れない夜には思考や記憶の一端が巡るものだ。傷付いた鳥の横を歩き去る度に、己の背が黄金で彩られた円に見つめられているような気がした。
    「同じわけ、ないだろうに」
     吐息と共に溢れた言葉へ苦い笑いを混ぜる。自分はあの時の鳥がどれほどの大きさであったのかさえ覚えていないのだ。ただ昼間に見た夜鷹の、あまりにも薄い生命の色を脳が忘れられていない。それだけのこと。
     それだけのことに、無性に息苦しさを覚え、布団から足を出した。床板を軋ませないように爪先を浮かせて扉まで歩く。立て付けが良いとは言えない扉は気を利かせたのか、木の擦れ合う音一つ上げずに口を開けた。身体を滑らして外へ出る。中庭に面した廊下からは星がよく見えた。
     室内に溜まった空気よりも幾らか冷えた酸素で肺を満たす。新緑の中を通ってきたのであろう風は、雲一つない夜空の中でもどこか水気を含んでいる。
     尾浜とて生物の死と対峙したのは初めてではない。観察と称して捕まえた蝶が死んだのはまだ学園に入る前のことであったし、この世の中を生き抜くには人の死に関わらねばならないこともある。死は生きているものが思っているよりも傍を歩いている。だからこそ尾浜はあの時獣に齧られた鳥の横を黙って通り過ぎたのだ。
    「別に、それを後悔しているわけじゃない」頭の奥深くで己の声が響く。「だけど、あの夜鷹は確かに痛みを訴えていたんだ」
     己が助けなかった鳥も同じだったのだろうか。
     今更そのような思考が頭に浮かぶ。
     それとも、彼は生を諦めたのだろうか。
    「なんてさ、」堂々巡りとなった思考を断ち切ろうと、尾浜は態と笑い声を零した。結局のところあの鳥が、或いはあの夜鷹が何を思っていたのかを知ることは不可能だ。確かに知ることができるのは、いつだって自分の心だけなのだから。
    「諦めたく、ないよなあ」
     誰もが寝静まる廊下に落とした呟きは、囁き声の群れにかき消されていく。
    「でもそうやって生きた先で、星のように何かを照らせたのなら」尾浜は屋根を支える柱に肩を預け、星を見上げた。「その死はきっと、悪いものじゃない」
     今日あったものが明日も続くとは限らない。それは戦ばかりの世であろうと、守られた学園の中であろうと同じことだ。そうであれば今は自分を休めなければならない。明日も精々、できる限りを駆けるために。
     一度大きく背を伸ばす。そして、出てきた時と同じように部屋へと戻った。扉を閉めて空気が揺れたからか、久々知の肩が僅かに縮められている。
    「こいつらとなら、そうやって生きれそうだ」
     心の中で湧き上がった言葉に自ずと頬を緩ませた。音を立てないように布団へ包まり、瞼を閉ざす。
     細やかな合唱に合わせて、脳裏に残る星が瞬いていた。
    第三章

     扉を二度叩く。
     返答はない。
     脈を三つ数えてからもう二度、同じことを繰り返す。それでも返るもののないことを確かめ、不破は爪先で軽く床を突いた。
    「八左ヱ門、入るよ」
     部屋の主が不在であることは彼にとって大きな意味を持たなかった。左手に抱えた荷物を部屋に届けることこそが大事であり、理由がある以上は仕方がないと、彼は悩む間もなく結論を出す。尤も、相手が親交のない者であれば、待つべきか引き返すべきかで迷い続けていただろう。馴染みのある相手であればこそ、無人の部屋に上がることへ一つの疑問も浮かべずに扉へ手をかけた。声をかけたのは、何も悪事を働きにしたのではないと示すためだった。或いは最低限の礼儀のつもりであったのかもしれない。
     板戸の向こうで、人ではない何かが蠢く音が滲み出している。仮に侵入者が現れたとしても、この部屋には入りたくないだろうなどと他愛のないことを考えながら迷いなく扉を滑らせる。板一枚で隔てられていた音の洪水が耳に届く。日の角度が悪いのだろう。薄闇に彩られた部屋の中で、赤く浮き上がる目玉が幾つか瞬いた。
    「えっと、八左ヱ門の机に置いておけば良いんだよね」人と馴染んだ様子のない獣や虫の気配に臆することなく部屋を見渡す。「いくら一人部屋だからって、散らかりすぎてないかなあ……でも一人部屋なんだから僕が注意することでもないし」
     言うべきか、言わないべきか。そうぼやきながら板を打ち付けただけの簡素な机を見下ろした。学園で画一的に作られている物だ。不破が利用している物と大凡違わないそれは、持ち主が違うと言うだけで随分と異なる印象を受ける。不破の使う机には常に書物が積まれていながら、それ以上には何も置かれてはいない。手のかかる課題が続いた時に筆や墨が出されたままになる程度が精々だ。一方で目の前にある机には課題に使う道具の他に、何に使うのかも分からない布や小さなすり鉢、植物の花や実が無差別に広げられている。既に使った物とこれから使う物が区別なく並び、時をも巻き込んで机上へ不整然さを写し出す。
     やはり少しは片付けるよう伝えるべきだと嘆息を決意に変え、不破は抱えていた物を下ろした。散乱した机上へ三冊の書物が新たに加わり、雑然とした雰囲気を助長させた。
     本を三冊抱えていただけの肩を大仰に伸ばし、深く息を吸う。頼まれごとさえ終わってしまえば他には用事のない放課後だ。薄暗い室内に居座るより外へ散歩に出た方が余程建設的だろうと身体を出口に向ける。
     そして直ぐに背後へ向き直った。
    「今鳴いたのはお前?」
     机の横、虫かごたちに囲まれたかごがある。虫かごの群と比べれば一際大きな形をしているが、同じような形の中に溶け込み、暗がりで気付くことは難しい。鼓膜を揺らした音を視線で辿り、不破は一度目を瞬いた。扉を越えていた片足を差し戻し、かごの前へと屈み込む。内を覗けば一羽の鳥が頭をもたげていた。
    「この前八左ヱ門が助けたっていう夜鷹かなあ」
     竹谷が鳥を拾ったと聞いたのはいつの事であったか。珍しいことではないとその時は流してしまったが、さほど日は経っていないだろう。二週間か、少なくともそこに二、三日の減算を行えばこと足りる。
     薄い日の中で身体に巻き付けられた包帯が鈍く光を跳ね返した。
    「どうしたものか」不破は幾つもの疑問から一番簡潔な物を取り上げて首を捻った。竹谷がいればすぐに夜鷹の様子を見てやれるのだろう。しかし不破の目を通したところで鳥の意図を汲むことはできない。
     具体的な策も浮かばず、不破は鳥の顔を見つめたまま立ち上がった。自分ではどうすることもできないのだから本人を探す他ない。一声鳴いたきり嘴を開かないところを見れば、命に関わることでもないのだろうと判断を付けた。泥沼へ足を取られる前に思考を断ち切ると夜鷹へ背を向ける。
    「キョ、キョ」
     再び夜鷹が鳴く。
     その場で回るように向きを変え、鳥の横たわるかごを見下ろす。自身へ顔が向けられている間、夜鷹は押し黙っている。徒らに背を向ければ鳥の声が縋るように背筋へと迫った。
    「お前もしかして、そこにいたくないのかい?」
     虫かごの中では、当たり前に虫たちが羽や顎を鳴らしている。部屋の中には四つ足を持つ獣の姿もあるが、鳥の姿は夜鷹の他にはない。一人、見知らぬ物たちに囲まれているのはさぞ心地が悪いだろう。不破に向けて鳴いたのは、人間の姿を竹谷と間違えているからかもしれない。ふと、そのような思考が頭を過った。
     鳥のかごを持ち上げて中を覗き込む。枯れ木のような羽が僅かに動いて見えた。
     不破はかごを抱えたまま机の前に立った。取り留めのない物たちの中から筆と紙を拾い上げる。傍に置かれていた硯には未だ墨が満ちていた。十分に墨を含んだ筆の先を紙の上ではしらせる。間も無く必要な言葉を書き終えれば、紙を机に広げ、風によって飛ばされないようにすり鉢を上に乗せる。これでよしと呟きながら鳥かごを抱えて立ち上がり、今度こそ部屋の敷居を跨いだ。
    『夜鷹は預かった! 迎えに来る前に部屋を片付けるように!』

     夕陽には早く、それでも確かに傾いた日差しの中を歩いていく。校庭の方から流れくる下級生たちの甲高い笑い声につられ、不破は自ずと笑みをこぼした。賑やかな気配は好ましい。散歩と称して横を通れば、歳の小さな者たちは耳を掠めていくものと同じ声音で挨拶をするだろう。新緑が深みを帯びる季節によく似合う温かな一幕想像すれば胸の内にそっと光が灯る。
     しかし、同行者はそれを望まないだろう。伺いを立てるように手にした鳥を目の前に持ち上げる。黄金の円はかごの外を受動的に眺めている。それでも先ほど不破を呼び止めた懸命さが浮かんでいないことに気が付き、深く息を吸った。
     鳥かごを持ち歩いていることが不自然でない人物もいるが、不破は己がその類に含まれないと知っている。相手が誰であれ、何故かと聞かれるであろうことは明らかだ。賑やかな場所では級友の部屋と変わりがない。不破は校庭の方へ向けていた身体を捻り、反対側へと歩き始めた。
     中庭を横切り、長屋の裏手に回る。窓のない壁と公孫樹が一本生えているだけのそこには人の気配もなく、代わりに風が緩やかに行き過ぎている。
    「ここなら静かだし、傷にも触らないかなあ」
     鳥の怪我がどのように治るのかを不破は知らない。かつて怪我をした級友を見舞った時に校医から怒られた記憶が、怪我人は静かな場所にいるものだと思わせていた。
     静寂と日陰と微風。三つが揃ったこの場所を不破は好んでいるが、建物の裏手には陰気な風を想像させる力があるのだろう、日頃からこの場所を己以外の者が訪れている姿を見たことはない。辺りを見渡し今日も昨日までと変わらない静寂を有していることを確かめ、公孫樹の根元へ歩み寄った。両手で持っていた鳥かごを小脇に抱え、立ったままでも触れることのできる枝に手を伸ばす。
    「ちょっと揺れるよ」
     一息に、地を蹴り上げた。
     束の間の浮遊感から遅れて全身の重みが右手へ集まり、掌が木肌に擦れる。押し付けられた皮膚に薄い赤が広がっている。
     幹から分かれた枝は大きく揺れることもなく不破の身体を受け止めた。
     地上から離れたそこで腰を下ろし、枝に沿って足を投げ出す。背を預ける幹は不規則に細かな歪みを骨に伝えている。座り心地が良いとは言えない椅子の中で、不破は風を待った。
     南の方から、やがて波が押し寄せる。一番端に付いた葉の先から次第に枝へ伝い、幹を抜けて、根の先にまで染み込んでいく。枝と葉で組まれた網目の内を全て埋め尽くし、やがて消える南風。わずかな瞬きの間。その間に全てが始まり、過ぎて行く。
     滑らかな風に葉を躍らせる公孫樹にならい、不破も髪を揺らした。夜鷹もまた、新たに生え始めた羽を揺らしている。
     心地よい。
     胸の底から湧き上がる感情につられ、緑の幕を仰ぐ。葉から成された織目より降り注ぐ光は、細やかな姿に分けられている。その内の一つと黒目を重ね合わせれば、白く鋭い一線が目を刺した。慌てて地面に顔を向ける。地へ向かうほどに淡く広がる光は周りの線と境界を混ぜ合わせ、陽に近い枝の上よりも、明るさを増して見せた。
    「星みたい」
     不破が徐に夜鷹のかごを覗いた。外へ出た時と変わらず、茫とした目は何を見ているのか、何を見ていないのかを他者へと伝えることはない。傷が快方に向かっているにも関わらず、無機質な静寂が満ちている。一人何かを写し続ける夜鷹から目を逸らし、再び青葉で出来た星を仰ぐ。
    「小さな光が無数に集まっているから、星の夜は眩いんだろうね。それは、僕たちにはあまり好ましくないんだろうけれど」
     本来であれば星は、満ち欠けを繰り返す月よりも確かに夜を照らす光だ。暗闇の中を行かねばならない者にとってその光がどれほど有難いものなのか、不破にはもう、実感することは叶わない。それでも一寸先が見えない中を歩き続ける誰かを照らすことの、その美しさを想像することのできる心は持っている。
    「星は一つじゃ何もできない。側で共に燃えてくれるものがいないと、その光はあまりに頼りない」不破は夜鷹がどのような経緯で拾われたのか知らない。竹谷がただ、燃えながら落ちてきたのだとだけ端的に話をまとめたからだ。だからこそ、不破は夜空を落ちる夜鷹を脳裏に浮かべた。「お前もそうだったのかい?」
     同じ光を持つものと、暗闇を照らしたかったのか。
     三度瞬きをする間に不破はかごを膝に預けた。頭を幹に凭せ掛ける。その拍子に、柔い髪が幾らか木肌に絡めとられた。
     かけた言葉に返事はない。相手は鳥なのだから当然だ。夜鷹は人の言葉を解さず、不破もまた夜鷹が鳴いた意味を知りはしない。当たり前のことに頬を緩ませ、目を閉じる。瞼の隙から入り込む陽光が黒目の上で明滅し、より星のように振る舞っていた。
     穏やかな空気が意識を溶かしていく。身体が深い水底に落ちていく時とよく似た感覚。意識は身体のように重いのだろう。或いは意識を持ち続けているから、身体が重いのか。思考の糸が端から解け、己の手ではまとめられなくなっていく。確かなことは、これらは眠りへ落ちる瞬間にだけ訪れるということだ。
     不破は夕刻まで眠ろうと決め、幹へ深く頭を預けた。
     次の瞬間、全てが溶け切る前に水底から引き上げられる。
    「雷蔵!」
     不意にかけられた声に辺りを見渡し、慌てて枝の下へと顔を向けた。「八左ヱ門?」馴染みのある顔が二つ、地上から己を見上げている。「それに三郎も」
    「本届けてくれてありがとうな」竹谷が口元に手を当てて叫んだ。「ついでに机の上も片したんで、うちの子返してくれないか!」
     続けられた言葉に、不破よりも早く鉢屋が笑い始める。揶揄いを多分に含んだ笑いによって震え始めた肩を、竹谷が肘で小突く。樹上よりも明るい光で彩られた二人を見下ろし、不破は鳥かごを抱えた。
    「ね、やっぱり誰かと一緒の方がずっと明るく光るだろう」
     眼下で言い合いを始めた二人に気付かれないよう、夜鷹にだけ囁く。胸の前で抱えたかごから顔を前に向けながら立ち上がり、緩く枝を蹴る。
     浮遊。
     重力。
     遅れて全身を包んだ風は樹上で吹き抜けた風よりも暖かかった。
    第四章

     鳥を一晩お前のところへ置いてもらえないか。そう言われると同時に瞼が一人でに瞬き、そう頼んできた男の顔が一度視界から消えた。日頃は意識などされない身体の行動を明瞭に自覚する。つまり、驚いたのだろう。予測しない行動に出会うと思考が回路を落とそうとする時がある。物事の繋がりが分からず、逃げようとするのだ。大凡の場合一瞬で終わる逃避は、この時もすぐに思考の線を繋ぎ直した。
    「どうして、また」久々知は食堂の喧騒を気にせず、普段と変わらない声音で言った。
    「普通の様子なら良いんだが」竹谷が少しばかり声を張りながら答える。困っているという雰囲気がうち崩され、久々知は相手に見つからないよう小さく笑った。
    「ちょっと、心配で」
    「まだ怪我が治ってない? でも八左ヱ門が鳥を拾ったのって二週間くらい前の話じゃあなかったか」
    「怪我の方はもう殆ど良くなっているんだが、俺の部屋、他の生き物も多いだろう? 雷蔵から聞いた話だけど、一人でいると外に出たがるらしくてなあ。昼はまだ活動時間じゃないから鳴くくらいで済むみたいなんだ。が、夜に一人で置いておいてかごから出ようとされたら、さすがに、」
    「ろ組は今夜、実習があるんだっけ」
    「日が沈んでから指定された物を見つけに出て、夜明けまでに帰らにゃならん」
    「俺たちもこの前やった」
    「本当か。どうだった?」
     秘密。そう笑いながら味噌汁を啜る。目の前に座る男は箸を咥えたまま低く唸って見せた。
    「まあ兵助が難しいなら他を当たるから、無理にとは言わないけれど」
    「構わないよ」同室の男は今夜、鍛練と称して他所の組で行われる実習を覗き見するのだと意気込んでいた。部屋に一人しかいないのであれば気兼ねすることもないと、躊躇う素振りも見せずに答えを返す。目の前に座る男の方が却って呆気なく了承を得たことに目を見開いた。
    「本当か」
    「でも俺、鳥の世話なんてしたことないけど」
    「犬と違って散歩やら何やらが必要なわけじゃないし。一緒に餌も渡すからそれだけ……一応、日が沈んでからかごに放ってやってくれれば大丈夫だから」
     竹谷が顔の前で手を合わせる。放課後に鳥かごを持って行くと言われ、久々知は首を縦に動かした。口の中に米を放り込んだばかりでは言葉を返すことができない。それでも十分に意図を伝えることはできたのだろう、手を再び箸に伸ばした竹谷が「恩に着る」と言った。口に入れられた物を慌てて飲み込む必要もなく、久々知は丁寧に咀嚼を繰り返した。噛み砕かれた米が自然と喉へ下った後で、続けて茶を飲み下す。持ち上げていた湯呑みを空になった皿の傍らに置き、軽く息を吐く。
    「かごから出ようとするくらいに元気なのに、森へ返してやらないのか」
     竹谷も最後に残した肉の一欠片を放り込んだところで、黙って口を動かしている。賑やかな空気に反して降り注ぐ奇妙な沈黙。返事を焦る話題ではないと相手から目を逸らし、手持ち無沙汰に湯呑みの模様を指でなぞる。
    「羽がまだどうにも短いからなあ」漸く口を開いた竹谷が言う。「飛べるようになるまでは返してやれないんだ」
    「大変だな」
    「関わったら最後まで面倒見るのが筋だろう。何せ勝手に助けたのはこちらなんだから、それを適当な都合で手放すのはあまりに残酷がすぎる」
    「でも出て行きたがるのも鳥の勝手じゃないか?」
    「じゃあ意地の張り合いだな」声色を変えることなく言う。続けて軽く笑い声をあげ、席を立った。「そろそろ出よう。まだ混んでるし」
     昼休みも半ばを過ぎているにも関わらず、食堂の入り口には空席を探す人の影が見える。久々知も頷いて立ち上がった。
     廊下へ出れば途端に喧騒が遠くなる。実習の前に生物小屋の様子を見に行くと言う男の背を見送り、教室へ戻る方へと足を向けた。

     斜陽の残り香が空を赤く染める。空を全て焼き尽くそうとする強さはなく、茫洋と淡い赤が漂っている。水鏡に映った炎にも似た曖昧な色。春の空は夕刻に限らずどこか遠い、別の場所の空を映しているかのように霞んだ色をしている。当たり前のように浮かぶ空は、それでも夏になれば濃く明瞭な姿を見せるだろう。秋には秋。冬には冬の色へと変えていく。変わらない空は夜空だけだ。或いは季節を問わず毎日のように姿を変えているせいで同じように見えてしまうのか。どちらであれど浮かぶ表情が変わらないのであれば、春の夜は過ごしやすいという意味で好ましい。早い春であればまだ冷えも残るが、新緑も過ぎた早月の今であればその心配も不要だろう。
    「八左ヱ門たち、うまくやってるかな」
     久々知は傍らに置かれた客へと話しかけた。宣言通り放課後に連れて来られた彼は、鳥かごの中で羽を休めたまま動き出す様子もない。机に向かう久々知の意識を遮ることもせず、大人しく蹲っていた。
     春の夜間実習が行われたのは先週のことだった。一人一枚渡された紙に書かれた物を夜の間に探し出し、持ち帰る。それだけの課題ではあるが、五学年に上がってまで行われる実習ともなれば一筋縄でいかないことは想像に難くない。当日の夜、久々知は教師から渡された紙を広げた瞬間に、己の予測は正しかったと悟った。
     皺の寄った紙の上には裏山から町を一つ越えた先にある団子屋の名前、その横に「串、一本」と書かれていた。それを盗み出してこいという意味だ。手に入れるべき物の正体を確かめた時、久々知の胸に迫り上がったのは幸運を嘆く声だった。「解決策が手の届く場所にある」その事に気が付いてしまった己へ向けた溜息が一つ落とされた。
     件の団子屋は町から出た先、商人も農民も含め、多くの人が通る道に面している。森もなく開けた野原が続く中に描かれた屋根はよく目立ちながらも、城などと比べて近付くことが難しい場所ではない。それらは、しかし、全て昼日中の話であった。既に日の沈んだ後から向かうとなれば目的の場所へ着く頃には真夜中と呼べる時刻になる。草木も眠る中、隠れる場所もない道に立つ店へ忍び込むことは容易ではない。人通りは少なくなるが、万が一を考えれば前準備の一つもなしに潜入を試みることは確実さを欠く行為であった。
     久々知は方々へ向かう級友たちと同じように学園から離れ、裏山へ向かった。彼らへ与えられた紙面にも同じような物が書かれていたのだろう。つまり皆、過剰に難しい課題を引き当てたわけではない。誰もいない裏山を半分ほど進んだところで足を止める。久々知の頭には二つの選択肢が浮かんでいた。一つは真っ当に団子屋まで向かい、串を手に入れること。人が通らず、家主にも見つからずに事を成し遂げるには幾らかの賭けが必要だ。そしてもう一つ。別の団子屋から持ち帰られた包みが手近にあることを、久々知は偶然にも知っていた。実習へ出る前、同じ部屋に寝起きする男が棚へ置いたところを見ていたのだ。日が沈む直前のことであったのだから、彼が既にそれを食べていることはないだろう。紙に書かれた内容は「串」の一言で、それが新しい物である必要はなく、まして何処の団子屋の物であるかをどうして区別できよう。問題となるのは、人の物を勝手に持ち出すことが許されるのかという点だけであった。
     久々知は三度瞬きを繰り返す内に、学園の裏手に回る獣道へと足を向けた。自室へ戻り、団子を串から抜く。何も団子そのものを奪うつもりはない。白く柔らかな球体が汚れないように包みの外から押さえ、そのまま結び口を閉じ直す。串さえ手にしてしまえば、彼の実習は終了する。それでもあまりに早く教師の元へ戻れば本当に指示された物であるのか疑われることは明らかだった。さらに店へ行って帰ったことを騙るには、夜明け前の方が都合が良い。制服がきれいなままでは意味がないと裏山で適当に時間を潰し、頃合いを見て教師へ串を渡した。そうして久々知は無事に実習を終えた。
    「そうか、勘右衛門それであいつらの実習冷やかしてやるなんて」
     実習の後で食べようとしていた団子の串を抜かれたことで声を荒げていた男の顔を思い浮かべ、久々知は記憶の底から思考を戻した。
     実習の鍵が如何に仕事を達成させたという外観を作れるかにあったことは、尾浜も当然気付いていただろう。そうでなければ、あれ程曖昧な指示など出されるはずもない。後から聞けば彼が要求されたものは裏山から東へ歩いた先にある町の長、その次女が持つ簪であったそうだ。いくら教師が事前に準備を行なっていたとしても、実習一つの為に他人の持ち物を数え上げるとは考え難い。つまり、指示された物と殆ど同じ何かを、如何に信じさせるかが問われていたのであろう。そして見知らぬ団子屋であれ、既知の相手であれ、盗み出すという行為の本質に変わりはない。だからこそ尾浜は「食べ物の恨みは深いからな」という恨み言と、他所の組を冷やかすことで久々知を許したのだ。
    「蓬莱の玉の枝も用いようってことなんだろうけど、八左ヱ門は素直だからなあ」
     昼間、実習について伏せたことを少しばかり後悔する。課題は決して手に入らない物ではないが、本物を証明する手間も偽物を証明する手間も同じこと。無駄な苦労を省けるのは前者の方である。
     お前の恩人は少し苦戦するかもしれないと夜鷹へ笑いかける。思考に没入していればいつの間にか夕陽の名残も絶え、部屋の中に薄闇が滲んでいた。かごの中で身を起こした鳥は、それでも大人しく羽を震わせるばかりだ。久々知は筆を置くと徐に首を回した。
     鳥かごの横に置かれた袋を手に取り、縛られた口を解く。中を覗けば鈍い艶を持った虫が数匹、袋の中に詰められていた。一匹を摘み上げ、鳥かごに放り込む。
     夜鷹は顔を上げ、それから羽で虫を弾き飛ばした。もう一匹虫をかごへ落とす。空気を押しやる音と共に、再び虫がかごから押し出される。
    「ええ……」無意識に転がりでた言葉が一人きりの部屋に響き渡る。はっきりと見開かれた鳥の目が、久々知を見返している。「死んだ虫は食いたくないのか?」
     夜鷹は本来、飛びながら虫を捕らえるという。生きていなければ食べないのであれば仕方がない。しかし生き物への責任を語る男が餌として食べない物を渡すとも思えず、三匹目をかごへ摘み入れた。
     羽音が一つ。
     鳥かごの隙間から容易に虫の死骸が押し出される。
    「もしかしてお前、いつもこうなのか」
     昼間、竹谷が餌のことを伝える時に僅かばかり言い淀んだことを思い出す。彼が夜鷹の様子を知らないはずはない。つまり知っていて尚久々知には伝えなかったということだ。
     久々知はかごの外に散らばった虫を見つめた。摘み上げた一匹はまだ息が合ったようで、ひしゃげた身体を持ち上げて板戸へ歩き始めている。捕らえられ、袋に詰められていたにも関わらず生きていた生命に心臓が大きく脈打った。床を這う虫を掌で掬い上げ、扉の外へ放つ。弱り、長くは生きられないとしても、己が原因で命を落とす様を見たいとは思わなかった。
    「お前も、そうなのか」
     鳥かごの扉を開け、短い羽で覆われた身体を持ち上げる。柔い感触が掌を包み、触れた指先が血脈の流れる音を伝えていく。
     食べ物の恨みは深い。
     不意に友人から告げられた言葉が重みを持って蘇る。友人の言葉に含まれた真意は異なれど、食べ物として扱ったあの虫はきっと己を恨んだのだろうと、背筋に震えを走らせた。
     虫が植物を食い、鳥が虫を食う。そうして育った鳥が、人間の手によって命を落とす。生きている物は全て、何かを食らい、食われた物の恨みを背負って生きている。そう思えば生は恐ろしく、食の重さは計り知れない業となる。
    「それでも俺は他の命を食べて、生きて、」大人しく膝に収まる鳥の嘴を撫でる。膝に伝わる温もりは確かに夜鷹が生きている証だ。「生きた先で何かの命を救えることもあると思うんだ」
     戦が起これば散り行くのは人の命だけではない。森が燃えれば獣も危機に晒され、草原が踏み荒らされればそこに住う虫たちも踏みにじられていく。忍の仕事は戦場に立つことではなく、表舞台に上がらないからこそ、むしろ直接的な暴力を避けるために働くこともできるだろう。
    「そうして生きて何かを為せたら、それはきっと夜を照らす星と同じくらい確かな物になると信じたい」
     季節が変われば、見える星も変わり行く。それでも無数の星たちが夜空を照らしていることには変わりがない。満ちては欠ける月よりも確かな光で、星は天上に瞬いている。
     争いの絶えない世を生きなければならないのだから。それくらいの夢を持つことは構わないだろうと久々知は一人、ぎこちない微笑を浮かべた。
     床に散らばった虫の一匹を摘み上げ、膝上の温もりへ差し出す。大きく裂けた嘴が薄く開かれ、一息遅れて虫の外殻を噛み砕く音が判然と響いた。虫一匹分の重みに引きずられたのだろう、奇妙に騒めいた心を押さえつけるように壁の向こうで瞬いている星を脳裏に描く。
     星は一人で夜空を背負いはしない。そうであれば人も獣も、一人で歩む必要などないだろう。
    「……勘右衛門への詫びも兼ねて、明日は団子でも買いに行くか」実習で草臥れているであろう竹谷にも差し入れてやろう。不破には日頃から世話になっている。仲間の顔を次々に浮かべれば、自ずと頬が緩んでいく。「三郎は……皆のついでだな」
     己が豆腐以外の食べ物を差し出した日には、彼らはきっと驚くだろう。そう考えると俄かに心の重みが晴れていく。生きる重みは日頃から受け止めるには少しばかり重過ぎる。
    「お前も早く森へ戻れるといいなあ」
     未だ指を覆うこともない羽を撫でる。
     その声に応えるように、夜鷹は小さく声を上げた。
    第五章

     廊下を歩いていると、一羽の鳥に出会した。雨の吹き込む廊下を、床板と爪が触れ合い軽やかな音を立てながら進んでいる。迷子と呼ぶには乾いた羽の、呼吸に合わせ膨らんでは萎む様が繰り返される。梅雨を前にした雨は人を憂鬱にさせるが、鳥はその限りでもないのだろう。時折り揺れる頭が奇妙に機嫌の良い素振りに思え、鉢屋は重苦しい空気を一つ、深々と吸い込んだ。
     鳥の歩幅に自らの足を合わせながら、床板を踏む。湿った板が微かな悲鳴を上げる。鉢屋は手持ち無沙汰と戯れるように、鳥の後へ続いた。
     雨の放課後は日頃の賑わいが嘘のように人の気配を沈ませ、空から散り落ちる霞が流し込む茫とした景色の中では中庭を突き抜けた先の景色も覚束ない。代わりに耳へと意識が集められているのか、閉ざされた板戸の向こうから紙を捲る微かな音が鼓膜を震わせた。
     人と比べて短い足では長屋の廊下を進むにも一仕事となるようだ。鳥は懸命に足を動かしながら、ようやく一つの廊下を渡り終えた。続け様に、曲がり角へ従い身体の向きを変える。
     突如、鳥の影が視界から消えた。
    「またお前、勝手に出歩いたな」
     鳥を追うために俯けられていた顔が正面に向けられるよりも早く、聞き馴染みのある声が耳に届く。
    「八左ヱ門の所にいるやつだったのか」
     呟きながら一足に角を曲がれば、鳥を抱えた男の姿が目に映る。聞こえた声は記憶にある声の持ち主と正しく重なり、曲がり角を超えた先にいた者が級友に他ならないことを明かした。
     彼は鉢屋の姿を捉えると、瞬きを二度落とした。
    「三郎。何してんだ」
    「暇つぶし。変な鳥を見かけたのでね」
    「夜鷹って鳥だ。夜に動く鳥だから、確かに陽の下で見るのは珍しいかもな」
     変という表現は濡れてもない羽を使わずに歩き回っていたことを指した言葉であり、見慣れぬという意味ではない。しかし学園内で保護されていた生物であれば不思議もないと、鉢屋は敢えて訂正の言葉をのみ込んだ。不要なことはやたらと言うべきではない。会話に深い意味がないのであれば、尚のこと。
     竹谷の片腕に収まる鳥が散歩を妨げられたことに不満を申し立てようとするのか、低く呻き声を上げた。枯れ木模様に似た羽がその度に逆立ち、微風に毛先を揺らしている。
    「そいつ夜行性なんだろう?」
    「そうなんだけど、妙に元気なやつでなあ。時折りかごから抜け出して廊下を歩き回るんだよ。本当はそろそろ森へ返した方がいいんだが」
    「何か問題でもあるのか」鉢屋は鳥から竹谷へ視線を移した。「お前が保護した動物に苦戦するとは珍しい」
     竹谷の眉が歪む。困惑と苦笑の入り混じった表情を浮かべたまま、彼は鳥の頭を撫でた。
    「飛ばないんだ」
     可能ではなく意思。竹谷は、思考はおろか言葉も通じない物を相手にそう言い切って見せた。折れた骨も燃え尽きた羽も元に戻った以上、飛ばないのは鳥の心に原因があると信じているのだろう。曖昧に歪めた頬を見咎められぬよう顎先へ指を当て、鉢屋は気のない相槌を一つ打った。
    「なあ八左ヱ門、」妙案を思い付いたと言わんばかりに、面の下から覗いた片眉が上がる。「その鳥を少し、貸してくれはしないか」
    「場合による」
     竹谷は態とらしく身体を傾け、鳥を遠ざけた。複雑な色を浮かべた額が苦笑一色に変わっていく。鉢屋に悪戯を好む側面があることを、あからさまに揶揄った仕草だ。誰にも心良い素振りを見せることの多い竹谷は、時折りこうして、鉢屋へ遊びを持ちかけた。多少の悪巫山戯をぶつけ合う程度には時と交友を重ねた相手だという信頼を垣間見る。投げられた球をどう返してやろうかと、鉢屋も芝居掛かった仕草で腕を広げて見せた。
    「なあに悪いようにはしない」
    「……本当だろうなあ」竹谷が眉を寄せ、眉間にしわを作る。疑いの表情を演出した矢先に己の顔を想像して面白くなってしまったのだろう、直ぐに唇を上げると夜鷹を差し出した。「ほい、変な持ち方したら容赦なく噛んでくるから気を付けてな」
    「随分とあっさり貸してくれる」
    「そりゃ三郎が無意味にうちの子を傷つけたりはしないことくらい知ってるし」
    「意味があるとは思わんのか」
    「雷蔵がいるのに虐めたりしないだろう」
    「信じているのは私じゃなくて雷蔵か」
     声を低くすれば雨雲には似合わない乾いた笑いが響く。唇を尖らせれば、竹谷が尚も笑い声を上げながら「可愛くないぞ」と言った。
    「余計なお世話だ。鳥のことは、ありがたいが」
    「はいはいどうぞ」伸ばされた手に夜鷹を預け、空いた左手を補うように腕を組む。「どれくらいの期間をご希望で?」
    「そんなに長くは借りないさ。夕飯前には返す」
    「はいよ。じゃあまた後で」
     竹谷が背を向け、廊下を戻っていく。耳を澄まさずとも聞こえくる雨音に包まれながら、遠ざかる背を見送る。腕の中に収まる生き物から鈍い温度が伝わり、鉢屋は晩春の雨は冷たいということを意味もなく思い出していた。

    「ただいま」
     部屋の扉を引きながら声をかける。人影のない部屋からは当然返る物もない。陽射しのない空は薄暗く、靄のような光が隙間から淡く入り込むばかりだ。同室の男は何処へか出ているようで、廊下を歩く最中に考えた言い訳を、全て思考の外へと捨てた。些細な心配事ほど徒労に終わるのだと息を吐き、机の前に置かれたままにされた座布団へ腰を下ろす。胡座に組まれた足の窪みに鳥を置けば、腕に残る温かさと同質の温もりが足元に広がった。
     鳥は一度鉢屋の足の上を踏み付けると、すぐに床へと飛び降りた。制服の下に隠れた皮膚ごと鋭い爪に掴まれる。同時に驚きと痛みが声を上げさせた。
     僅かな間だけ飛んで見せた鳥は、見慣れない部屋の中を軽妙な音を立てて歩き回る。一度だけ開かれた翼はとうに畳まれていた。
    「本当に飛ばないのか」
     そう呟きながら、夜鷹を目で追う。竹谷の部屋よりも片付いているものの、不破と二人で使っているために、机も何も彼の部屋の二倍置かれている。忙しなく歩き回る鳥の様から目を離さずに、鉢屋は不意に口を開いた。
    「キョキョキョ」
     先に聞いた低い声を真似る。徒らに続けていれば、次第に夜鷹が奇妙な物を見るように毛を逆立て始める。怒らせては堪らないと、鉢屋は声を止めた。
    「すまない、真似をしてみたくてね」
     夜の森で真似をできれば追手を撒くのに使えるかもしれないだろう。威嚇を繰り返す夜鷹へ告げようとした言葉を胸へしまい、鳥の動揺を沈めるように黙って呼吸を繰り返す。鳥がどれほど人を区別するのか。鉢屋の頭を過ぎる疑問に答える者はいない。それでも今し方不安を掻き立てた者から見つめられては警戒も解けまいと、静かに鳥から目を逸らす。
     暫くの内に黄金色を判然とさせた目の鋭い光が潜められ、奇妙な行進が再開される。
     鳥の声音を学ぶあてが外れたと、鉢屋は座布団の上に腰を下ろしたまま床へと背を付けた。鳥の歩き回る軽妙な音が鼓膜よりも早く骨を震わせる。視界を閉ざせば音の波が全身を包み、壁の向こうで降り頻る雨の音さえかき消した。
     不意に、言葉よりも不鮮明な音が脳裏に蘇る。夜の森に響く、葉擦れから漏れ聞こえる鳥の歌。星の輝きと同じほどに高い響き。不連続に続く声を写しとることは難しく、偽りの音に警戒を見せるのは当然のことだ。悪いことをした。何もかもを映せると過信した己の不遜を嗤う声が胸に広がり、首の裏を乱雑に掻く。胃の底が騒めき、奇妙なほどに落ち着きをなくしている。鉢屋は己の感覚から目を逸らそうと耳を澄ました。
     無音。
     少し遅れて雨垂れが響く。
     地を叩く重い響き。
     先ほどまで聞こえていた足音が息を潜めている。そう気が付いた途端に身体が自ずと起き上がる。勢いよく部屋を見渡せば、夜鷹は机の上で足を止めていた。鉢屋が座るには少し低さを感じるほどの机であれど、人よりも小さな鳥が足だけを用いて上ることは難しいだろう。徐に横を見れば、机の脇に積まれた本の一部が崩されている。本を伝い机に上がったは良いが飛び上がった拍子に山が崩れ、帰る道を失ったのだ。翼も使わずに飛び降りるには少々勇気のいる高さが眼前に広がっている。夜鷹は困り果てたと訴えるつもりか、毛並みを懸命に膨らげた。
    「翼を使え」鉢屋は夜鷹に話しかけた。「本当は飛べるんだろう?」
     夜鷹は変わらず羽を膨らませたまま、鉢屋の方を見上げている。
     夜鷹は空から落ちてきたのだと言う。不破から伝え聞いた話が脳裏に翻る。暫しの間収縮する羽見据え、それから落下の恐怖が拭えないのかと仕方なしに夜鷹へ手を伸ばす。
     震えるばかりの毛並みが一斉に逆立った。
    「…………」
     鉢屋は膝を床に擦らせながら、机の側から僅かに距離を取った。床に手をつき、ただ鳥の姿を見据える。夜鷹は羽の流れを正し、黄金色の円を縮めた。黒の広がる双眸が静かに机の下を見据えている。
     雨音だけが部屋を埋める。規則もなしに響く音は脈の流れを曖昧にし、時の感覚を忘れさせる。深慮と呼ぶには長く、葛藤と呼ぶには短すぎる間。捉えようのない時が茫洋と漂う。
     突然、夜鷹の爪が机を蹴り上げた。
     続けて羽音が一つ。
     風景に溶け込んだ鳥の輪郭が俄かに浮き上がる。
     影が伸びる。
     空白。
     やがて夜鷹の嘴が傾いだ。翼の波が止まる。宙に留まる身体は、瞬きの間に床へと落下した。
     衝突。
     鈍い音を立てながらも、さほど高く飛んではいなかったことが幸いしたのだろう。夜鷹はすぐに身を起こし、毛並みを整えるように大きく身体を震わせた。地に足を付けたまま翼が広げられる。動きに支障がないと理解したのか、再び羽ばたかせることもなく翼は閉じられた。
     鳥の挙動が止まった隙を見計らうように、鉢屋が枯れ木色の身体を持ち上げた。夜鷹は混乱を見せる素振りもなく、大人しく捕まえられる。夜鷹を掲げるように宙へ突き出せば辺りを窺うべく、人よりも柔軟な仕草で首が動き回る。人の首とは作りが異なるのだろう、絡繰にも似た機敏さで左右を幾度も見渡す。不意に何を理解しているのかさえ窺わせないまま、夜鷹の目が床に浮かぶ影を捉えた。
    「うわ!」
     暖かな生き物を抱えていた指に痛みが走る。衝撃を口に出しながらも、落とさないように夜鷹を胸に抱え込む。左手の人差し指を見やれば幾らかの切り傷に混ざり、薄く嘴の痕が残っていた。
     痛みを頭から遠ざけるように夜鷹の羽に指を埋める。目の裏では夜鷹が嘴を開けた瞬間が幾度も繰り広げられていた。瞬きを重ねても消えない影を見つめながら、鉢屋は自ずと嘆息を漏らした。
    「お前が恐れているのは影か」
     夜鷹は人の言葉を理解しない。腕の中に大人しく収まったまま、ただ生きていることを示すように心臓を鳴らすばかりだ。
     鉢屋は腕のかごを覆うように頭を俯けた。大きくはない身体が人の影に覆い尽くされる。夜鷹の瞳の中で黄金の縁が忽ちに広がった。
     言葉で伝えられることのない揺らぎ。それにも関わらず奇妙な確信があった。
     この鳥は影を恐れている。
     急に込み上げた笑いを隠すことなく吐き出す。どうしておかしいと思うのだろうと、頭の隅で誰かが言う。
     ただおかしさが頭をいっぱいに埋める。
     笑っているは誰だ。
     何に笑っている。
     問いかけ続ける己の言葉が、また笑いを引き起こす。
    「私も、影が恐ろしい」
     燃え落ちる寸前に夜鷹が見たのはきっと、己の姿から遠くかけ離れた、燃え盛る魂の影だろう。火に包まれ、羽の形はなく、ただ揺らめく塊。慣れ親しんだ影とは全く異なる姿。それはどれほど恐ろしいものであるかを鉢屋は知っていた。
     薄暗い部屋に淡く伸びた己の影を見つめる。少し癖のある髪、直線よりも少し緩められた背筋。今そこにある姿が正しく写しとられている。しかしそれが真実の姿ではないと、誰よりも理解しているのは自分自身だ。他人そっくりに作られた髪から背筋の曲げ具合、歩き方まで、誰かを真似ているに過ぎず、一方で演じていることを意識するには馴染みすぎた姿。
    「影は光を遮って生まれる現象だけれども、時に真実の姿を映し出す鏡だと思う人間もいる」お前はどちらだと思う。鉢屋は一人、宙へ投げかけた。「魂などというものを信じているわけじゃあない。それでも影を振り返って、私の知らぬ私の姿があったらと、時折背筋が寒くなる」
     他人への変装を重ねすぎれば己の顔を見失う。幾度も経験した感覚は染みのよう根深く、落ちることはない。振り返って己の姿が映し出された時、それが本当に自分自身だとどうして言えよう。他人の影を借りながら過ごしてきたことに悔いはなく、むしろ技量としては誇りすら持っている。それでも尚、深い穴の底へと落ちるように不安の影は背後に立つ。
    「まあ、だからと言って自分自身をどこまでも見失ってしまうことはないのだけど」
     呟いた言葉が部屋の中を渦巻いて消える。はっきりと響いた言葉に、雨音が消えていたのだと気が付いた。耳を澄ませばようやく、壁の向こうから葉擦れの囁きを捕らえることができる。風が吹き始めたのだろう。日が沈み、風が勢いを増せば雨雲はやがて千々に消える。今夜は雨の代わりに星が歌う夜が訪れるかもしれないと、俄かに頬が緩んだ。忍にとって歓迎される物ではないが、数多の星が連なって作る光は月のそれよりも暖かい。
    「例え私がどんな姿でいても、名を呼んでくれる者たちがいるからなあ……見失う隙もない」
     星は隣り合った星と線を繋ぎ一つの形をなす。
     人もまた、人との間を繋ぎ合わせて人間となる。
    「お前も飛んで行くといい。どんな影であっても、お前の声に応えてくれる物はあるのだから」
     鉢屋三郎という人間の形は、容姿一つで出来上がるものではない。
     夜鷹を抱えたまま、鉢屋は部屋の扉を開けた。廊下の先から近付く足音にそっと唇を三日月型に曲げる。戸の前に立ったまま振り返り、大きく声を上げた。
    「雷蔵、これから八左ヱ門のところに行くが、君も来るか?」
     廊下の奥より緩やかに進められていた歩幅が急に広くなる。相手が駆け寄るまでの間に空を見上げれば、薄く切れた雲間から一番星が覗いていた。
    終章

     森の中を五人の少年が歩いている。先頭を行く少年の手には鳥かごが抱えられ、彼に続く八本の腕は空いたまま。首の裏で組まれる腕もあれば、規則正しく前後に振られている腕もある。誰もが足音を殺し歩く夜の森では、目を白く光らせた双眸が見慣れぬ通行人を定めようと、時折藪の影に浮き上がる。五人は密やかに伝わる獣たちの呼吸に怯える素振りも見せず、堂々と獣道を進んで行った。
    「で、どうしてお前らがついてくるわけ?」先頭に立つ竹谷が振り返り尋ねた。「それも四人揃って」
     細やかな音だけを立てる足とは対照的に、日頃と変わらない声音が夜の静寂へ波紋を広げていく。急な生き物の気配に驚いたのだろう、一匹の鼠が足元をすり抜けて大木の陰へと消えた。
    「たまには一緒に行こうかって勘右衛門が。ほら、八左ヱ門はよく俺たちに付き合ってくれるから」久々知はそう話しながら、小石を避けて尾浜の肩へ一足分身体を寄せた。同時に、竹谷が口を開くよりも早く、尾浜が小さく声を上げる。
    「ああもう、ばらすなよ兵助!」
     尾浜は早口にそう言いながら、傍にあるのを幸と暗闇に溶け込んだ久々知の髪を引いた。
    「勘右衛門が、ねえ」
    「勘右衛門って意外と義理堅いんだ」
     髪の毛を離さない尾浜と闇雲に頭を振る久々知を他所に、鉢屋と不破が揃って笑い声を上げる。尾浜は級友の髪を堅く掴み「じゃあお前たちは何だってついて来たんだよ」と眉間にしわを寄せた。
    「歩いてばかりだった鳥が飛ぶところを見てやろうと思ってな」
    「皆が行くって言うから、一緒に行きたいなって」
     二人は表情を変えることなく言ってのける。尾浜は彼らの顔を見やり、何かを振り払う、或いは諦めを示すように首を横に振った。
    「まあ親切心を隠したい気持ちは分かるぞ、勘右衛門」
     鉢屋が態とらしく尾浜の肩を叩いた途端、大仰な仕草で拳が振り上げられる。髪を掴んでいた人間が身体を後ろへ捻ったことで解放された久々知は、直ぐに一足前へと歩幅を広げた。同時に学級委員長って何でああ素直じゃないんだろうな、と睨み合う二人を眺めながら呟きを溢す。
    「三郎も?」
     横に並んだ竹谷には聞こえたのだろう、後ろを向いていた視線が真横へと投げられた。
    「こいつが本当に飛べるのか心配で付いて来たって、言えば良いのに」
     先よりも判然とした声色で答えれば、竹谷が歯を見せて頷いた。彼らに並んだ不破も同じように幾度か首を縦に振る。三人の背に同じ色が浮かんでいたのだろう。繰り広げられていた攻防は急速に萎み、やがて枝葉の摩擦よりも細やかな気配へと姿を変えた。
     巫山戯ながら歩くには、夜の森は人ではない生物たちの脈動が満ちている。一度訪れた沈黙はそれらの気配を濃く流し込み、彼らに唇を結ばせた。
     五人は黙したまま森を進んだ。大岩の隙間。小川に架かる一本橋。二度の分かれ道を越え、やがて木立の切れ目、夜空を覗く野原が視界に入る。
    森の出口も後僅かとなった場所で、徐に竹谷が足を止めた。
    「到着だ」長く守られた沈黙を破る。「あそこで、こいつを返す」
     木々の中から夜空へ身を晒す。息をする間もなく一面の星明かりが降り注ぎ、誰かが小さく「眩しい」と呟いた。暗がりを進み続けた双眸には捉えきれないほどの光が頭上に広がり、目の中に潜む水晶を輝かせる。
    「ここより森の中の方が良いんじゃないか?」いつの間に機嫌を直したのか、尾浜が鳥かごの戸へ手をかける男に尋ねた。「何もない野原なのに」
    「向こう側の木立を越えた先にある森へ、別の夜鷹が何匹か来ているんだ。うまくいけば馴染めるかもしれないから」
     竹谷の指が、躊躇うことなく戸を開ける。
     一閃。刀が翻る動きに似た鋭さで、夜鷹の羽が開く。土埃が捲き上がり、空気はしきりに波を打つ。
     瞬きをする間に夜鷹は星へ向かい翼を広げていた。枯れ木色の羽が、力強く宙を切る。
     誰もが、息を止めた。
    「綺麗だ」久々知が呟いた。目の前にある景色を確かめるように、言葉を零す。「星の降る夜にも、負けてない」
     久々知の言葉に、尾浜が小さく頷いた。その横では不破が手を額に掲げ、一心に空を仰いでいる。鉢屋も口を閉ざしたまま、ただ鳥の羽ばたきを見つめていた。
     夜鷹の背は次第に遠ざかっていく。天上へ近付くほど明瞭に、星灯りが輪郭を浮かび上がらせる。
     一瞬、若しくは水面に落ちた葉が川底へ沈むほどの間。時と数えれば短く、見守るには長い間をかけて、夜鷹は遥か彼方へと飛び去った。
     星の拍動の中には一点の影も残らず、五人は茫漠とした光を見上げた。誰もが何かを言おうと口を蠢かしながら、徒らに喉を震わせている。嵐の後に訪れる静けさを真似た静寂が彼らを包む。
     やがて沈黙を破ることを憚ったのか、竹谷が囁くように言葉を紡ぎはじめた。
    「あいつを助けた後で、本当は少し悩んだ。あの時の姿はまるで、自分で空へと上がり、力尽きて落ちて来たように見えたから。何があったのか、どうしてそうなったのかも分からないけれど。あの鳥はもしかしたらもう、痛みに襲われることを望まないかもしれないと思った。どんな生き物であっても生きる中で苦痛は訪れる……だから、助けるべきだったのかって」竹谷の視線が、鳥が落ちた日のことを再現するように地へと流れた。暫くの間地を見つめ、それから再び星へと向かう。「でも今はあんなにも生きて、輝いている。星明かりにも負けないほどに」
    「お前自身がそう思えたのなら、助けたことは無意味じゃない」後に残る星を見上げたまま、鉢屋は竹谷の肩へ手を置いた。「翼の躍動が美しく映ったのは生きたいと願っているからだろうさ」
    「誰が?」
    「僕たち。それからあの夜鷹も」不破が反対の肩へ手を預ける。「ここにいる全てが生きたいと思うから、その輝きを美しいと思えるんだろうね」
    「星は暗闇を照らし、方角を示す指標だしねぇ。確かに、生きる輝きと呼べるかも」
     少し青くさいけれど。尾浜がそう続けながら顔を綻ばせて見せた。久々知はその横に立ったまま、黙って星の瞬きを数えている。
    「なんて、少し飾ったことを言ってみたところで。どこまでいっても星は星で鳥は鳥だ。あの溢れんばかりの星空もただそこにあるだけだし、夜鷹もこの先の森へ向かい飛び去った、それだけのこと」尾浜が表情を変えないままに言う。「それでも、皆といるこの瞬間なら。そこに何かを見出すことも悪くないって思える」
     夜空一面に広がる星空は彼らのことなど知りもせずに明明と燃え盛る。人が何を見ようと、星には何一つ意味を齎さない。夜鷹も同じこと。彼もまた一時の間、隣で生きていただけ過ぎない。そこに何かを見出したのは、他でもない己の心だ。
     尾浜の言葉に皆が星から視線を外す。互いに顔を見合わせ、揃って笑い声を上げた。
    「確かに、悪くない」
     遠く星の狭間で、鳥の羽ばたく音がした。
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    2022/09/10 23:42:44

    いつか星になる

    #rkrn
    別サイトからの移転です。
    初出:2020年6月27日

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