秋分 空を覆う鱗の数を百数えたところで、彼は視線を水平へ戻した。
視界が角度を変え、見慣れた校庭の姿を認識する。教科の授業中に持て余した力を発散しようと駆けまわる下級生たちの影だけが蠢いて見える。影があれば実像も存在するはずである。遠目には、しかし、どちらが実像であるかを判別することはできなかった。正面に広がる斜陽の他には。
首の裏に柔く刺さった草の針を手で払い落とす。立ち上がった拍子に一瞬の目眩。足がたたらを踏み、倒れないよう均衡を保つ。最後の一足で身体の感覚は取り戻された。明確に土を踏みしめる。その後で何のために立ち上がったのか、彼は思い出そうとした。もしくは、意思の伴わない反射的な行動の理由を作り上げようとした、とも言えた。
「三郎」
かけられた声に、肩が跳ねる。首だけで背後を振り返れば一間ほど開いた位置で見知った顔が鉢屋の方を見据えていた。観察しているのか、向けられた視線が素早く鉢屋の輪郭を辿る。名前を呼んだ後に確認しようとするのか、と鉢屋は向けられた視線を厭うことなく考えた。それが目の前にいる人間の、ある種の癖であることを彼は知っていた。
「兵助」
「昼寝?」久々知は一歩近寄りながら首を傾けた。晒された首の横、耳の付け根を指で示す。「草、ついてるよ」
「雲を数えていた」指先で髪に絡んだ草を引き抜く。
「昼寝と変わらないじゃないか」
「変わるさ。雲を数える方が、ずっと、無意味だ」
悪戯気な笑みを浮かべながら鉢屋は久々知へ向き直り、それで、と目で伝えた。鉢屋三郎という人間は凡そにおいて不破雷蔵と同じ姿をしている。彼自身、並の状況では一目で見破られないであろうと評価を下している変装を前に、まず鉢屋の名前を呼ぶ者は少ない。その姿は不破のものであるという認識が、不破の名を確認させるのだろう。しかし時折、久々知は鉢屋が鉢屋であることを見抜いていないままに彼の名前を正確に呼んだ。そして決まって、その直後に鉢屋であることの証拠を眼前の人間から探そうとした。気紛れか、宇宙的直観か。鉢屋はその理由を知らず、訊ねたこともない。
「三郎を探していたんだ」
「私を、」驚いた素振りを見せながら、鉢屋は小さく頷いた。「何か用事が?」
「次の合同実習、同じ班になりそうだから。先に作戦を練っておきたくて」
「まだ班分けは発表されていないと思ったけれど」
「正式にはね。今日い組で事前に木下先生の部屋を調べたんだけど」
久々知が悪びれもせずに言った。事実を事実として伝える時の冷静な口調は、それが悪戯心や悪意によるものではなく、彼にとって当然の行動であることを感じさせる。
「職員室に忍び込んだのか」鉢屋は半ば呆れを隠さずに笑みを零した。
「出来る限りの事前準備はやって然るべきだ」
「い組らしい」
「……悪口?」
「まさか、褒め言葉だよ」
久々知がわざとらしく眉を顰め、それから小さく先払いを零した。空関の反動で、脱線した会話が本筋へと戻される。「まだ未確定だから幾つか案が分かれていたんだけどね、まあ、その殆どで俺と三郎が同じ割り振りだったから」
「偽物の可能性は?」
「囮で用意されていた案も聞く?」意味がないけれど、と久々知は笑いながら続ける。「木下先生、今回は偽物の案も作り込んでいて面白いよ」
「……カンニングといい、教師の裏をかくことの方が大事だと思っていないか?」
「先生方はそこらの忍より腕が立つ。実習に全力を出すよりも、よっぽど力試しになると思うけど」
「真っ当な論理のように聞こえるな」
「事実だよ」
「事実?」
「実体の伴わない影のこと」
「つまり、屁理屈じゃないか」
久々知がわざとらしく手を広げ、首を竦めて見せた。どこか芝居がかった仕草を取るのは、眼前の少年にしては珍しい。機嫌のよさを窺わせる笑みに苦笑を返しながら、鉢屋は無為に頭の裏を掻いた。
「それで、私たちの他には誰がいるんだ?」
「二人だけ」
「私と兵助の?」鉢屋が面の奥で目を眇めた。「それは、また……」
「珍しいだろう?」
「珍しいどころか、初めてだろう」
「今回は大体二、三人の組み合わせで分けられているみたい。内容はどこも大体同じで、城とか屋敷への潜入だね。俺たちはドクタケ領の端っこにある出城」
「近いな」
「でもあまり行くことがない方角だから、下見はしておきたいな」
「それは勿論」鉢屋が頷く。「潜入の目的は?」
「廊下に飾られた絵をすり替えること。俺は聞いたことがなかったけれど、有名な絵みたい」
「……私向きだな。すり替える絵も自分たちで用意しなきゃならないんだろう?」
「多分」久々知は一度言葉を切った。言い淀むように口を開閉し、それからゆっくりと続きを離し出す。「今回はどの行先も馴染みがない場所だった。課題の内容自体は普通なんだけど、ちょっと準備に手間取りそうなものも多くて……多分、時間がないなかで対応させる目的があるんだと思う」
「兵助の分析か?」
「勘右衛門も同じ意見」
「聞いた限りでは、私もそう思う」首の動きで軽く肯定を示しながら、鉢屋は久々知の顔を真っ直ぐに見据えた。「それで、どうする」
「え?」
「時間がない中で対応する訓練であれば、私たちにとっての最善は今知り得た情報を、正式に知らされるまで無視しておくことが一番だと思うが」
鉢屋の問いかけに、久々知は二度瞬きを繰り返し、首を傾げた。肯定ではなく、否定でもない。質問の意図さえ分からないと言うような仕草の中で、視線だけは直線的に鉢屋を射返している。形のない、しかし、鋭利な気配。首を滑らかに動かしながら、獲物から目を逸らすことのない姿に、猛禽類を連想する。狩るか、逃すか。選択は常に翼を持つものに委ねられている。逡巡も躊躇も、そこにはない。久々知は脈を三つ数える間鉢屋を見つめ、それから不意に口の端から吐息を漏らした。笑ったのか。赤光に映し出された陰影が、唇の形をいやに明瞭に描く。
「だから、準備をしたんじゃないか」
「……事前準備の、事前準備?」
「あらゆる事態を想定して動くのが忍だ」
「つまり、あらゆる事態が想定できない時には動かないのが正解」
「それが今回の実習の百点なら、」
「だからこそ、百二十点がほしい?」
「三郎は話が早くて助かるよ」久々知が表情を変えずに言った。「勘右衛門を筆頭に、い組はそういうつもりで動く」
「ろ組の協力次第ってことか」鉢屋が首裏に回していた腕を広げた。「なるほど、これは交渉か」
「こちらの手札はもう見せた。後は返事だよ。五年ろ組の学級委員長」
「……うちはい組と違って学級委員長だからといって組の方針になることはない。それに私たちは大抵、実際のところ授業の点数をさほど重要視していない。百点も百二十点も、零点も。どれも等しく他人の引いた線だ」
「三郎個人は?」久々知が訊ねる。
「私も点数には興味がないよ。だけど、」鉢屋が笑みを返す。「兵助の頼みなら」
返された言葉を一瞬吟味し、それから久々知は頬を緩めた。
「ありがとう」
「確約はできないから、い組でも手は回してくれ」
「もうやってる」
「……抜け目がない」
「誉め言葉として受け取っておくよ」
「そうしてくれ」鉢屋が呆れを含んだ息を吐いた。「実習自体の準備も進めておかないとな」
「雲を数える暇はなくなった?」
「暇があるから数えていたわけじゃないさ」
夕日の名残に照らされた顔が薄朱く微笑む。反対側に立った己の顔はどう映っているのだろうか。鉢屋は面の境目に人知れず触れた。
***
半月が雲に隠された夜。明かりのない森の中を二人は歩いていた。湿度を含んだ風が長い髪を揺らす。波は夜闇に溶け込み、しかし、目を凝らせば暗闇よりも黒々とうねる曲線が視界へ浮かび上がる。鉢屋は動くものへ手を出す飼い猫のように指先を伸ばし、その一房を掌へ掬った。感覚のない髪であれど気配を感じとったのか、久々知が首を傾げた。口あてに覆われた下から、くぐもった声が囁く。
「どうかした?」
「黒いな、と思って」
「なにが」
「お前の髪」
「……忍務中だぞ」剣を含んだ声で久々知が唸る。
「夜は暗いけれど、兵助の髪には及ばないんだな」
「夜は暗いだけであって、黒ではない。明暗と色彩は影響し合うけれど、同一ではない。三郎だって分かっているだろ」
「しかし黒だけは特別だ。明暗の極点であり、色彩の終点でもあるから」
鉢屋の指先から黒髪が流れ落ちる。
一瞬の滞空。
落下。
空気を滑る音は、人の耳には届かない。
「真似るのが難しい色なんだ」鉢屋が口布の下で笑みを浮かべた。久々知は正面を向いたまま、彼の方を見ようとはしなかった。
秋の夜は人ではないものの声でひどく賑わっている。マツムシ、スズムシといった小さなものたちの歌が四方で響き合い、或いは無秩序に喧噪を生み、大きな獣の足音を隠す。二人の囁き声もまた彼らの声に隠され、すぐに形を消していく。余韻のない会話は長続きせず、彼らは再び口を閉じると、沈黙の中を歩き始めた。指先だけが変わらず黒髪を徒にからめとったまま。久々知は一瞬だけ振り返り、しかし、何も言わなかった。
目的地は学園からさほど遠くない山の上に置かれていた。正確には山の一部を切り開いて作られた出城であり、近くに村もなく、木々の群れの中にぽつねんと瓦屋根が飛び出している。雲の篩を潜り抜けた月光に照らされた青白い瓦の反射を目にすると、彼らは一度足を止め、無言で目線を交わした。
裏門の見張り番が交代する隙に内側へ忍び込み、続けて巡回の兵士の背後からそっと建物へ侵入する。予め調べておいた造りとおおよそ一致している。極めて普遍的な、簡素な構造。忍術学園とドクタケ城の忍との間に因縁があるにせよ、学園の周辺にはドクタケ自体にとって積極的に敵となる城はない地域だ。領地の境界を示す意味で建てられた城に戦うための用意がされていないことは、筋の通った判断だろう。
廊下には灯もなく、単調な壁と暗闇が続いていた。時折部屋の向こうから寝息が聞こえる他に物音はない。粗悪な造りのために軋む廊下が却って足取りを慎重にさせる。尤も、それを聞き届ける者がいなければ問題にはならない。問題とは常にその程度のこと。
久々知が先に立ち廊下を進む。二人だけの隊列は示し合わせることもなく、自然に決まっていた。手にしている武器の種類を思えば久々知が前に立つことは合理的と言える。いつの間にか左右に備えられた寸鉄は音もなく手の内で回転を繰り返していた。おそらく無意識だろう。細く伸びた鉄の先が描く円弧を視界の隅に捉えながら、これも彼の癖だろうかと、鉢屋は思考した。
階段を上がった先は短い廊下が一つ。明り取りのためか、壁の上方から射し込む月明りが暗闇に慣れた瞳を俄かに眩ませる。一階と異なり人の気配はない。兵士が寝泊まりを行うのは全て一階であるのだろう。それでも慎重さを崩すことなく、久々知は壁に沿って廊下を進む。外観から計算した構造では二階の上は屋根裏にあたるため、絵があるとすればこの廊下以外にはない。尤も、前もって調べた時点で絵は二階にあるという証言を得ている。迷うことなく廊下の突き当りまで進み、彼らはそこで足を止めた。
漆喰に塗られた壁に掛け軸が一つ。
二人は一度顔を見合わせ、それから掛け軸の周囲を観察する。触れただけで音がでるような仕掛けはなく、特別しっかりと壁に貼り付けられているわけでもない。丁度張り出している柱に杭を打ち、引っ掛けているだけのようだった。
鉢屋が懐の内から巻物状になった絵を取り出し、宙に広げる。
かけられた絵と同じ大きさの紙に、描かれている山の絵図も殆ど同一。月光に閃く墨の反射が、鉢屋の手にあるものの方が新しいことを示す。陽の下で見ればより細やかな違いが浮き彫りにはなるが、それに気付くかどうかは見る者の眼次第だろう。
壁に掛けられた絵を取り、久々知が手際よく丸めていく。空になった居場所へ自らの絵を掛ける。久々知は巻き終えた掛け軸を紐で縛り終えると鉢屋の肩を叩き、それから巻物を鉢屋へ手渡した。先までに持っていた絵とは僅かに異なる重みを懐に感じながら、廊下を進む。扉の向こうに眠る者たちは、やはり二人の気配を覚ることはなく、間延びした寝言を響かせている。廊下の軋む音を鼠、正しく生物としての鼠と勘違いしたのか、一匹の猫が現れた他には何ものも姿を見せないまま、二人は無事に城の外へ出た。庭木の陰で見回りの兵士が行き過ぎるのを待ち、城壁を乗り越える。
その後ろ姿を、猫の黄色い双眸だけが見送っていた。
森の中を駆けて行く。誰にも見られてはいないという自負はあったが、油断も慢心も失敗の元だ。彼らが土を踏むたびに背の低い草がつま先に押しつぶされ、微かに音を立てる。それらも秋の音に覆われてしまえば人の耳には届かないが、獣の耳には十分なのか、時折藪の向こうで獣が慌てて引き返す気配があった。獣は人を恐れないが、人もまた獣を恐れない。出会えば双方に痛みを負うことになると知っているのだろう。野生の獣にもそう言った賢さは大抵備わっていると言ったのが教師であったか、同級生であったか。退屈を凌ぐように思考の一つが巡り始めた。
小川を一つ越えたところで、往路と道が異なることに鉢屋はようやく気が付いた。実習への準備を行う中で、鉢屋は殆どすり替えるための絵の作成にかかり切りだった。侵入に対する準備の殆どは久々知に任せきりにしていたために、鉢屋自身はこの森のことをよくは知らない。先導する久々知の足取りに迷いがない以上、彼が予め決めていた退路なのであろうと判断する。それから、別の人間が相手であれば同じようには信用しなかっただろうと、頬の裏を柔く噛んだ。
「三郎」
一年生が一組全員で手を結んでようやく囲えるほど太い幹に支えられた巨木の影で、久々知が足を止めた。口布を取り払いながら、鉢屋を振り返る。名前を呼ばれた後で、言葉が耳に触れたことに気付く。
「……言葉を忘れたかと思った」
「出城からも離れているし、念のため。用心していただけ」
「兵助じゃない。私が」
「この樹の向こうは街道へ続く野原になっている。身を隠す場所がないから、衣を変えた方が良い」
鉢屋の冗談に笑うことなく、久々知は己の着物を手早く裏返した。藍色の制服がうちに隠され、旅歩きの青年を思わせる風貌を装う。風に煽られた黒髪は所々解れ、却って長旅の途中を想像させた。髪を直すことなく、彼は鉢屋を横目に見た。先までの真剣な眼差しはない。旅歩きの疲労が目尻へ滲んでいる。変装を得意とする鉢屋と同じ学年にいるために目立つことはないが、纏う雰囲気によって己の印象を制御する術は久々知もまた当然に持っているのだろう。
「設定は?」鉢屋が己の衣を変えながら尋ねた。
「夜中に男二人が歩いていることに理由を?」
「盗賊だと思われそうだ」
「それでいいよ。誰にも見つからないことが肝要」
「盗賊は噂になるのでは?」
「物騒なものを見た時は大抵、恐れをなして口を噤む」
「言外に脅すと?」
「恐車の術の応用と言ってほしい」久々知が肩を竦めた。「三郎は、面はそのまま?」
「今日は予備を一つしか持ってきていないから、意味も無く顔を変えたりはしないさ」
「普段は意味がないの?」
「あるにはある。悪戯という意味が」
「徒は無駄という意味だよ」久々知が笑いながら言った。冗談として通じるという信頼を含めた笑み。
「無駄というなら、この道は?」
その隙に、言葉を一つ。
鋭利な刃物に代えて刺す。
「……行こう」
久々知が鉢屋の手首を掴んだ。珍しいことだ、と頭の片隅で悠長な声が呟く。少年ないしは青年に見えるであろう人間が二人、片方が手を引かれながら歩く様は果たして盗賊に見えるだろうか。それとも誰にも見られる恐れがないと、彼は知っているのか。一片の歪みもない鼻筋には、油断という言葉は不釣り合いに感じられ、鉢屋は口元を微かに綻ばせた。
大樹の反対側に回り、森を抜ける。枝葉に遮られていた月光が全身を覆う。白光。目眩。風に押し流された雲が光の波と遊びながら天上を往く。
目の奥を眩ませたまま。
瞼を閉じて、それから開く。
白光。
雲。
天は反転し、
地上に揺れる。
月影を受けて、
しかし、それらはどこへ行くことも無い。
白。
一面に波を立てる花の群。
「見事な……」鉢屋が呟く。
手はいつの間にか離されている。自由に草原へ歩み寄り、花の傍らに屈み込む。突き出された膝の中心を、蜘蛛の足に似た花弁が掠めた。
「彼岸花……?」
「白いけれど」久々知が同じように、鉢屋の隣へ膝をつく。
「初めて見た」
「俺も、ここで初めて見たよ」
「赤い姿もどこか不気味だけれど、白い姿も……」
「幽玄?」
「前向きな捉え方だ」
「でも、綺麗だろう?」久々知が花弁の輪郭をなぞりながら尋ねた。
「この世のものとは思えないほどだな」
花の髭に遊ばせている指を柔く掴む。そのまま指先を絡め、手を合わせる。久々知は抵抗せず、ただ鉢屋の横顔を見つめた。何かを観察するかのような、静かな目で。
「……曼珠沙華には毒がある」
「茎と根には、ね。だけど触れただけで毒が回るわけじゃない」
「触れられないからこそ、美しいものがあるだろう」
「幽霊のように?」
「夢幻というべきだ」
「三郎は幽霊を信じない?」
「見たことが無い。見ていないものは信じようがない」
「信じるってそういうことじゃないかな。いてほしい、存在の確証はないけれど在ってほしい。そう願うことが信仰。見たことがあって、存在を認識できる時には信じるという段階は過ぎて、あとはそれを自らの認識に許容するかの問題になる」
「兵助は、信じている?」
「信じている。いないよりはいた方がいい」
「どうして?」
「そう思うことで安らぐ人もいる」久々知が微笑んだ。「星と同じだ。触れられないし、俺たちはその存在を確かめられない」
「だけどそこに星があることを信じて座標として仰ぎ、手を伸ばす。触れられないから伸ばすのか? さもなくば、星が落ちてくるのを待って?」
掌の形を確かめるように、鉢屋の指に力が籠る。彼岸花の表層へ触れた皮膚が熱を灯す。乾いた風が火を吹き込むように、二人の間を流れていく。
白い花が無秩序に揺れる。
泡沫の連想。
波。
触れることのできないうねり。
指を伸ばしても、そこに在るのはただの水だ。
感情も同じこと。
起伏。
収縮。
運動のように繰り返し、
誰も、その形を言葉にできない。
触れられない。
「星は落ちてこない」鉢屋が言った。「幽霊もいない」
即ち、存在しない。
「無いということを、信じている?」
「今、信じているのは」鉢屋が花畑の彼岸へ遠く視線を送りながら言った。「久々知兵助という人間だな」
久々知が空いている手を、繋がれた手の上に重ねる。同じ身体から伸びているはずの掌は、しかし、ひどく冷たい。繋がれた手のぬくもりのせいだろうか、と思考する。
「私の認識する世界では兵助という存在を正しく形に出来ない。いてほしい、在ってほしい願うことは、つまり、信仰だろう?」
「俺は幻?」
「身体があっても、それが久々知兵助という人間の証明にはならない」
「誰だってそうだ」久々知が笑いながら言った。「それを言うなら三郎、お前の存在を正しく描くことは誰にもできない。素顔を含めてね」
「ならば、兵助は私を信じている?」
「信じているよ」
重ねていた手を離し、彼岸花の花弁をそっと指でたどる。細い花びらは指先の振動にさえ耐えられないのか、爪が過ぎるたびに微細に震え、月光を淡く跳ね返す。
「わざわざ回り道をして、この景色を見たいと思うくらいには。だけど……」
指が動きを止める。
一瞬の間。
茎が手折られ、
浮遊。
「綺麗だろう?」
白い花を月へ翳す。
雲よりも白く、
夜空の藍に浮き上がる。
「手を伸ばせば、案外、簡単に触れられるものもある」
指先で茎を回転させる。
月へ開いた花が絡繰り仕掛けのように連動する。
「綺麗だ」鉢屋が言った。繋がれていた手を離し、花を包み込む。
熱の名残が色を持つならば、きっと、花は赤く染まるだろう。