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    しおり
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    しおり
    冬が生まれてくる前に 酸漿を譲ってほしい。
     たった一言で告げられた言葉は店先で愛想笑いを湛えていた女の表情を一変させるには十分すぎるものだった。手桶や布、野菜を少々、そして酸漿。日常的に使う物たちを求めに来たのであろう男は朴訥として告げている。女の眉間に寄ったシワなど気にする必要がないと言わんばかりである。
    「悪いけどうちに酸漿は置いてないよ」
     棘を含んだ声色で女は返事をした。
    「なら構いません。先に頼んだものはいただけますか?」
     やはり眉一つ動かさず、男は懐から銭を入れた袋を取り出した。
    「そっちは用意があるからね……なんだいお前、ここらで見ない顔だが」
    「旅の者です。この乱世で住処を失いましてね、あっちをふらり、こっちをふらりと根無し草って具合で」
    「この辺りは皆んな貧しくてね、泊まる場所も泊めてやれる家もない。女連れなら尚更だ」
    「……なぜ、女だと?」
     男は初めて顔を上げて店前に立つ女と視線を合わせた。瞳は常よりも明るい色味をしているがその奥でどろりと黒目が揺らぐ。女はあからさまに目をそらして手桶を片手にかけてくる少年の方へ顔をやった。
    「酸漿なんか欲しがるもんじゃないよ」
    「何か誤解させてしまったようだ。酸漿は私の連れの一等好むものでして、里へ降りるなら一つ手土産にしてくれと頼まれたのですよ」
     薄い唇が三日月を描く。女は手桶に布と野菜を放り込むと無言で男に差し出した。空いた手に銭を乗せるよう突き出す。男は器用に指先だけで袋の口を開くと中を数えるわけでもなく掴んだ分だけをその手のひらに乗せた。
    「多すぎるよ」
    「この山の中腹にある空き小屋を借りてます。余った分はその宿代として受け取ってください」
     女が口を開くよりも早く一礼すると男は踵を返した。草履が砂を噛む音をたてる。秋の日差しを織り込んだ柔らかな髪が風に揺れた。次第に遠ざかる影の片手に下げられた手桶はどこか不釣り合いだ。女は店の戸をくぐると手のひらいっぱいに乗せられた銭を恐る恐る握りこんだ。

     秋の山は色鮮やかでただ歩くのにも飽きがこない。黄金を溶かした夕日に背を向けて男は歩いていた。枯葉一つ舞わせずに歩く姿はさながら幽鬼のようで、秋に似合いの色をした髪でなければ出会う人全てが泣いて逃げ出す不気味さを醸し出している。獣道と呼ぶにふさわしい道ではあるが里までの近道としては随分と便利なものである。男は普通の道であればゆうに一刻はかかる道程を半刻で行き来できるこの道を好んでいた。彼が待たせているものを考えれば移動時間は短いに越したことはない。
    「ただいま」
     きっちり半刻かけてたどり着いた山小屋は所々が風化の跡や腐り落ちた跡が残るものの雨風をしのぐには上等な部類に入るものであった。立て付けの悪い引き戸をこじ開けてから声をかけると部屋の奥から衣擦れの音が響いた。そちらに顔を向ければ黒い影が不安定にうごめいているのが見える。ゆらりと立ち上がった影は一歩一歩を確かめるように前に進むと、ちょうど板の隙間から日差しが差し込む場所でぴたりと止まった。
    「おかえり、三郎」
     腰の中ほどにまで丁寧に伸ばされた癖のある黒髪が夕陽を反射して艶やかに輝いた。簡素ではあるが小綺麗に整えられた藍色の着物に白皙の肌が映えている。しかしながら街にいたのであれば十人のうち十人が振り向く容貌の中で、ただ一箇所、瞳が包帯によって覆われていることがその美貌に不和を作り出していた。
    「ただいま。いい子で待ってたか、兵助」
     裸足を手ぬぐいで拭きながら三郎は板の間へと上がった。手桶は適当に放り出されている。ぺたりと間の抜けた足音をたてながら兵助と呼んだ男の元までくると包帯の下に隠れた目に手を添えた。
    「三郎、今日はどこへ?」
    「里まで下りて野菜と布をもらってきた」
    「そっか。カラスが鳴き始めたから心配したよ……帰ってきてくれてよかった」
     私がお前に黙って消えるわけがないだろうと三郎が耳元で囁けば兵助がわずかに頬を染めた。三郎の腕の中から抜け出すと着物の裾をはためかせ部屋の奥へと駆けて行く。閉ざされた視界にもかかわらず迷いなく進む兵助に続いて障子で仕切られた先に足を踏み入れた。
     奥の部屋は小さいながらも掃除が行き届いた畳が敷かれている。半端に開け放たれた襖から覗く月は神々しいまでの満月で、その先にある縁側と庭を煌々と照らしていた。
     三郎は指先だけで月光を遮ると行灯に灯を入れる。一気に部屋に熱が満ち溢れ、その中央で膳を用意する兵助を横目で見やった。膳の上には焼き魚と汁物、雑穀を合わせて炊いた椀並べられている。まだ温かいのか、暗闇に一筋の湯気が立ち上っていた。
    「三郎があんまりに遅いからこうして待っていたんだ。俺は食欲がなくて、だから、お前の分しかないけど」
    「兵助、目は」
    「……見えてない。まあ最初に来た時、お前が間取りを説明しておいてくれたし」
    「瞽のお前に火を焚けたと思えないのだが」
    「喜ばせたくて」と項垂れる頭を手で撫で回す三郎の指は細かに震えていた。兵助も分かっているのか、己の頭に乗せられた手のひらを包み込むと頬に当てて小さく呟いた。
    「雷蔵がね、来てたんだ」
     三郎の動きが止まる。わずかな呼吸法すら忘れたかのようで、皮膚の下を流れる血潮の音だけが彼が確かに生きていることを示していた。
    「雷蔵……?」
    「うん。お前に用があったようだけど、いないと分かったら俺と茶飲話をして帰って行ったよ。ちょうど三郎が帰ってくるすぐ前だった」
     夕飯を作ってやりたいと言ったら手伝ってくれたんだ、とも言った。三郎の手のひらから腕を通り、傷跡一つない指先が顔を撫でた。「三郎」と名を呼び、あからさまに唇で弧を描く。そしてそのまま顔を寄せた。
     三郎はわざと包帯に隠された瞼の上に唇を落とした。視界の端で己のものよりも紅い唇が歪む様が見える。年頃の少女が人形遊びをするようにゆっくりと黒髪に指を通す。丁寧な仕草と反対に白い布を見つめる瞳はひどく暗い色を浮かべていた。
    「ああ、そうだ」
     兵助が突然声を上げた。
    「雷蔵が、これを置いていった」
     懐からおもむろに小包を取り出した。「どうせ開けても見えないからお前に見てもらおうと思って」と微笑みを唇に浮かべた。三郎は包みを手ずから受け取る。見えないと分かっていながらも兵助の視界に入らないよう半端に開き、中を覗き込んだ。
     赤々と色付いた酸漿が一つ、わずかばかりの隙間から差し込む行灯に照らされていた。

    ***

     翌朝、三郎はたった一人で目を覚ました。隣の布団に指先を伸ばせばそこはすっかり冷め切って、人の温もりなどなかったような顔をしている。障子から差し込む光は弱々しく、また一つ冬に近づいた気配を肌に感じさせた。手足に血の巡るのを待ち布団から身をよじり出せば冷えた空気が刺さり肌を泡立たせる。身震いを抑えることもなく三郎は障子を開け放った。空では白月が紫の空をまとって山際に流れ込んでいる。反対側からは生娘の頬のように淡い赤に染まった空気が音もなく流れ込む。垂れ込めた紫を追いやり、まだ山の端に顔を見せたばかりの光の球は前の季節の激情を感じさせない柔らかな光を湛えていた。
     その黄金とも言うべき陽光の中に兵助は佇んでいた。指一本動かすことなく、ただ髪だけが風に流されてふわりと揺れている。よく見ればその足は素足のままである。
     三郎はその様にわずかばかり視線を奪われ、一際強い風が吹いた拍子に「兵助」と呼びかけた。
    「おや三郎、おはよう」
     ゆっくりと振り返った顔には変わらず包帯が瞳を覆い隠している。陽は兵助の背に回り、後光のように彼を照らした。三郎は腕を伸ばすのを躊躇い、一度唾をのんでから黒髪の先に指を絡めた。「随分と早いな」と言えば音もない微笑が返される。冷えてしまうといけないからと部屋に戻るよう三郎は促した。左手に絡められた指先は三郎のものよりもずっと冷たく、白い肌から青の筋が透けていた。
    「部屋に戻ろう兵助。包帯を新しいのに変えてやる」
    「いつも悪いな」
    「私がやりたくてやっているんだ」
     隙間風が抜けるといえど家の中は幾分か空気が柔らかい。まだ秋口ではあるがそろそろ火鉢も用意した方がよいかもしれないと三郎は手に入れる算段を巡らせた。少なくとも、また里に下りなければいけないだろう。冬になる前に手に入れられるようにしなくてはと心中で息を吐いた。外では一際強い風が吹いたのか、立て付けの悪い扉が音を立てて揺れる。秋は心地よい季節だが去るのはあっという間だ。山の北から吹き下ろす風はまごうことなき冬の足音であった。
     湯が沸き立つ音で三郎の意識は引き戻された。まだ新しい手桶に湯を注げば白い筋が幾重にも揺らめいて立ち上り、まだ指で触れるには熱すぎることがうかがえる。手持ち無沙汰に目前を陣取る兵助の背中へかかる黒髪を指で遊ばせれば、兵助はくすぐったいと言わんばかりに笑みをこぼした。
    「兵助、髪、伸びたなあ」
     こうして下ろしていればまるで女みたいじゃないか。喉元までせり上がった言葉は嘆息に紛れて音になることはなかった。
    「そうか? もう手入れも自分じゃ出来ないし気付かなかった」
    「綺麗だな」
     鬱陶しいなら切るか、とぼやく男の声を遮り三郎は呟いた。兵助が向き合うように振り返る。そっと目隠しを外せば暗澹と濁りきった瞳と目があった。そこに、かつてあった黒曜の煌めきは見られない。
    「…………」
     兵助は口を開けず、呻くように何かを呟いた。色を移すことを止めた瞳からは何も見とることはできない。それでも声音はは風に揺れる木の葉の泣き声を写しているような色をしていた。三郎は固く握られた手を手首ごと掴み身体を引き寄せる。片手で十分に握れるほど細かった。
     瞳だけでは、彼が失ったものは世界の色だけではないと突き付けられるようだ。兵助の唇に薄く赤色が滲んでいた。
    「そんな顔するなよ、兵助」
     三郎の鼻先が兵助の顔に触れた。次の瞬間には二つの唇が重ねられ、鮮やかな赤から黒へと変貌する前にその液体を舌先で絡め取った。そのまま呼吸ごと飲み込み深く唇を合わせる。息もつけず口内を蹂躙されるがままだ。じわり、と兵助の目尻に涙が浮かんだ。握り込まれた指先はすでに解け、三郎の指に絡められていた。

    「おや、昼間から仲が良いね」
     淡々とした調子でかけられた声でようやく三郎は兵助の唇を解放した。口の端に溢れた唾液を手の甲で乱雑に拭うと音のした方へ首を曲げる。
    「雷蔵」
     お邪魔するよ、と声をかけて縁側から室内に上がるその姿は三郎とよく似て、ただ一つ違う黒の衣が風になびいた。
    「やあ兵助、昨日ぶり。三郎、早く兵助の布を変えてやったらどうだい」
     それぞれの方を見てかけられる声は緩やかではあるが瞳は僅かにも笑ってはいない。三郎は雷蔵の目を数秒見つめてからふいに目を逸らした。使い込まれた手ぬぐいを手桶の中に浸した。沸かしたはずの湯は既に冷め、ぬるま湯とも呼べないものに変わっている。じっと待っている兵助の方を向き、丁寧な仕草で拭うと均衡のとれた顔が僅かに歪んだ。
    「三郎、冷たい」
    「仕方ないだろう。先にしなだれかかってきたのはお前だ」
     口を開けた兵助は少しだけ息を吸い、そのまま唇を閉ざした。淀むことなく顔を拭い終えると真新しい布で瞳を覆う。目を閉じるのを躊躇うようにゆっくりと落ちた瞬きは三郎に届くことなく、慣れた手つきで巻かれた布は隙間一つ見せずに大きな瞳を隠した。
    「お待たせ、雷蔵」
     兵助が虚空を見上げながら声をかける。雷蔵は足音を立てずにそちら側へ回ると見えぬ瞳に向かって微笑みを投げた。
    「兵助、悪いけど三郎と二人で話をさせてくれないか」
    「分かった」
     頷きながら答えると立ち上がる。持ち上がった裾から足が覗いた。青年真っ盛りと言うべき年頃にしてはあまりにも頼りない。隣の部屋にいるからと言い残して去っていく後ろ姿を同じように眺める顔は片や歪み、片や面のように何の色も浮かべてはいなかった。
    「兵助、変わったね」
    「仕方ない。あいつが視力を奪われてもう二年だ」
    「お前が兵助を腕の中に閉じ込めて二年、の間違いだよ。瞽をいいことに殆どここから出していないのだろう? 動いていないなら筋肉も落ちて当然だ」
     穏やかな声色のまま返された言葉に三郎は何も答えなかった。ただ足を組み替え「そんなことを話しに来たわけではないだろう」とだけ言った。雷蔵も一つ頷き、顔の色を鋭いものに変えた。二人の間にながれる空気は冬の雨の冷たさを湛えながらも、そこには雨音一つたつことはない。知らぬ人が見れば睨んでいるとも言われてしまうほどの眼力で三郎を見つめ、たっぷり時間をかけてから雷蔵は口を開いた。
    「忍務だ。明朝、僕と一緒に城へ」
     三郎は息を吐いた。横に放られていた外されたばかりの包帯を手桶の中に落とす。水面に波紋が走るものの、それはすぐに消え再び鏡面のように煤けた天井を映し出した。
    「分かっているとは思うけど、お前や兵助が不用意につけ狙われていないのはうちの領域内にいるからだ。お前がフリーの忍びとして食いつなぐだけの銭を得られているのも……」
    「分かっているさ。それと引き換えに必要とあらば私はお前と、再び双忍として城の要請に応じる」そういう話だっただろう、と三郎は続けた。
    「僕としても悪いとは思っている。だけど、今回はいい機会だ」
     雷蔵は一人で頷き、立ち上がった。座ったままの三郎に動く気配はない。必然、見下ろす形になりながら何か言葉をかけようと中途半端に開けられた口を、少しの逡巡を見せて躊躇いがちに閉ざした。
    「それじゃあ僕は帰るから、兵助によろしく言っておいて」
    「ああ、詳しいことは明日の朝に……それと、酸漿の礼もその時に」
     土間の砂が草鞋に挟まれて音を立てた。
    「お前たちは一体いつまでこんなことを続けるつもりだい?」
     板戸に手をかけた雷蔵は振り返らない。三郎も囲炉裏を見つめたままその言葉に答えることはなかった。

    ***

     久々知兵助という極めて優秀であった男が瞳から色を失ったのは二年前の冬のことだった。それは学園を巣立ってからちょうど五年目のことで、その頃には忍の世界にすっかり身が馴染んでいた。人を騙し、疑い、時には人を手にかけ情報を操ることに何の疑問も抱かない。そうしなければ生き延びられないのだから。そう言い聞かせる言葉は次第に当たり前になり、学園で過ごした光溢れる日々が冷えた心を温めようとか細い炎を灯していた。
     彼とともに卒業を果たした友人たちは誰も皆優秀と言うべき能力を持っていたのが幸いしたのか人目を忍んで度々顔をあわせることが出来ていた。誰もが避けて通る山桜の森、戦の爪痕を残す古戦場、戦火を逃れるため住人が消え果てた海沿いの村。人気のない場所で彼らは年に数回だけの邂逅を希望として闇を走り抜けていた。
     その冬はいつもより早く雪が降り始めた年であった。枯葉が落ちきる前に枝を白化粧で染め上げた森は外界の音を全て飲み込み沈黙を作り上げる。久々知兵助という一級の忍であっても雪に閉ざされた世界では氷を踏みつける音で足音は鳴り、足跡を残す。
     兵助は黒装束に身を包んだまま間の悪さにほぞを噛んだ。懐にはとある城下町で掴んだ戦の情報が眠っている。一ヶ月の間行商として町へ溶け込み、雪が降る前に霞のごとく姿を消すつもりであったのだ。しかし天は人間一人の都合など歯牙にもかけず、気まぐれに冬を連れてきてしまった。これでは安全に森を抜けられない。彼の勤める城に戻ることは容易だが万が一情勢を探っていたと知られればまごう事なき失態となる。
     兵助は口から零れかけたため息を飲み込んだ。「この山を越えた先にある町に潜んでいる者にコレを託して俺はそこからさらに迂回して戻るしかないな」と胸中で呟く。幸いにして森の先にある城は自分が属する城と友好関係にある。辿り着けさえすればどうにでもなるだろう。兵助は忍び装束を襤褸の旅装束へと変えようと荷を下ろした。
     その時だ。
     背中に悪意にも似た視線を感じ木の上へと飛び移り、身を隠す。息をひそめたまま下を眺めやれば見覚えのある忍び装束が立っていた。黒い布で覆われていても分かるガタイの良さに反して神経質な色を浮かべた目が光る。先ほどまで己がいた場所を白けた顔で見聞する様に思わず唾を飲み込んだ。自分が気配に聡い性質で良かったと安堵する一方で心臓は外に漏れるのではないかと思うほど強く脈打っている。風のない状態では木の葉の掠れる音を隠れ蓑に移動する事も出来ずただその場に蹲るばかりである。この城の忍びは外からの雇い人であると聞き及んではいたがまさか自分へ目星を付けていたとは思わず、兵助は唇を噛み締めた。臓腑の鈍い疼きが更に足元を落ち着かなくさせる。頬を張りたいのを堪えて足で木の枝を踏みしめる。雪を纏った葉が軋んだように低い音を立てた。
    「どこぞにいるのは分かっている。出てきたほうが身のためだぞ」
     事前調査で確認した声色とは全く異なる冷えた色が何もない雪原に響いた。自分の調査能力を過信したことへ吐き出したくなる感情を飲み込んで兵助は雪へと飛び出した。木漏れ日を受けて光る氷の粒の中に二点の黒い染みが浮かんだ。
    「若いな」
    「若いからどうした」
    「いや、お前を突き止めるのに私までが出てくることになったからな、もう少し老獪な者かと思っていたんだ。あまりにも隙を見せない動きはその歳で出来るものではない。どこの忍だ?」
    「お褒めに預かり光栄だが答えることはできないのでね」
    「若く優秀な忍というのは出自が決まっているものだ。生きていくために幼少時にこの道へ進まざるを得なくなった者か、自ら選び教育を受けた者だ」
     黒い男は自分は前者だと言った。口布に覆われた下で唇が歪むように影が動く。刀に小指がかけられた。
    「もし前者であれば同類として、後者であれば詠嘆をもって……どちらであっても一思いに仕留めてやろう」
     兵助は一歩後ずさる。手の内潜ませた愛器に汗が滲んだ。この度の調査で抜けがあったとはいえ学園を出て数年、まだ若輩と言える中で単独任務を仰せつかるほどに兵助は優秀であった。だからこそ、目の前の男が己より遥かに手練れであると分かるのである。
    「悪いが俺の仕事は終わったのでね」
     相手が動き出すよりも早く、兵助は雪で軋んだ枝に飛び上がった。すかさず、男も雪を蹴り上げた。枝から枝へ足を止めることなく進み続ける。恐らく戦闘の技量も場数も上を行く相手ではあるが、俊敏さに関しては間違いなく自分の方が上だという自信があった。まして地の上ではなく不安定な樹上である。相手の体格と自分の体格では有利なのは紛れもない事実だ。その上でわざと同じ道を通って追跡を続けるのは余裕故の慢心か、狩りを楽しむ心算か。
    「あいつならどうする……」
     一つの枝を踏み越え、心の中で呟いた。森も残り僅かである。行動にでなければ相手が先手を取ってくることは明白だ。この道を選ぶと見破られていた以上己の思考はある程度読まれていると考えるべきだろう。焦りが雫となって背筋を伝う。兵助の脳裏に旧友の顔が浮かんだ。
    「あの天才ならこの状況をどう弄する」
     森を抜ける前に男を撒けるか撒けないか。
     森を抜ける前にこちらを倒さなければならない筈がただ追うだけで何をしようともしない男の行動はまるで猟犬である。男は兵助を試しているのだ。そして、人を都合よく弄ぶ状況を楽しんでいる。
     人に弄ばれると見せかけていつの間にか自分が弄ぶ側に回っているというのはかつて肩を並べた天才の十八番であった。頭が硬いとからかい半分にしてやられたのはもう何年前のことであろうか。ふと蘇った懐かしさに蓋をし兵助は一段高い枝へと飛び上がった。息を吐く間もなしに枝をつよく踏み込み、また一段高く飛び上がる。
     突然の起伏に惑うことなく、背後で男が枝ごと雪を踏み付ける。枝が鈍い音を立てた。
    「…………!」
     重みに耐えきれなくなった枝がしなる様子が見えた。同時に突然足場を崩された男が雪原へと落ちていく。体格に恵まれた男の重みでは体勢を戻せないはずだ。二、三本先の樹上で兵助が振り返ればまさに落ちていく最中にある男と目があった。
    「油断大敵って……なっ?!」
     何かが飛んでくる。
     受け身と引き換えに男の手から放たれたそれは勢いよく回転しながら一直線に迫り来る。細い枝の上では下手に避けることも出来ない。
    「…………っ!」
     焼けるような熱さが肩を掠めた。
     同時に地面から大きな衝撃が響き、枝に積もった雪が一斉に落ちる。忍にとって忌避すべき騒音に目もくれず兵助は地面に降りるとゆっくりと歩き始めた。地面に落下した衝撃で、敵は立ち上がることも出来ないと分かりきっている。息を整えようと呼吸を繰り返すたびに肩から熱がはしり、先の手裏剣に毒が塗ってあったことを悟る。一刻も早くここを出なければ、と兵助は霞む視界で林を歩き続けた。幸いにして林の先、隣国との境にある村はもう目の前だ。己の腕を強く噛み意識を保ちながら進む。いつの間にか火照った肌に白い花が咲いていた。空を見上げれば再び降り出した雪が絶え間なく舞い込んでは吹き付ける。もはや指先で払いのける力もなく、茅葺屋根から立ち上る煙を最後に兵助の身体は雪原へと崩れ落ちた。

    ***

    「……すけは、もう」
    「ばかな……が……をなく……」
     炭の弾ける音に混ざり人の声が聞こえてくる。肌に触れる麻衣が擦れる感覚で兵助は身を勢いよく起こした。
    「っ……!」
     全身を覆う鈍い痛みに声にならない悲鳴が舌先から漏れた。鼻をくすぐる薬草の匂いに眉をひそめたまま横たわれば次第に痛みは引いていくが、肌の熱は思考を霞ませる。目を開くことが出来ないほど身体は熱に支配されていた。どうして此処にいるのか、そもそも此処は何処なのかも分からない。何より忍務はどうなっているのかが気にかかるがそれすらまともに考える力を残してはいなかった。
    「……兵助?」
     布団から身を起こし、再び倒れこんだだけのわずかな衣擦れの音に気が付いたのか倒れこむ兵助の枕元に足音が近づいた。歩幅から床板の軋ませ方まで全く同様な二つの音だ。熱で浮つく頭のまま口を開けば乾いた声が微かに響いた。
    「ら、いぞ……さぶ、ろ……」
    「身を起こさないで。まだ傷も塞がっていないし毒も抜けきっていないから」
    「安心しろ、ここは私と雷蔵の隠れ家の一つだよ。お前のことはうちの城にも伝えてあるしそこからお前の城にも伝わってる。忍務は別の忍に引き継がれるそうだから、気兼ねなく休んでおけ」
    「…………」
     兵助は再び意識を落としたのか返事はなく、先よりは落ち着いた、けれども浅い呼吸を繰り返した。傷跡の目立つ指で額に張り付いた前髪を掻き分ける。雷蔵は横に置かれた木桶に手ぬぐいを浸すと軽く絞り、三郎に渡した。
    「……どうするの」
    「うちと兵助の城は友好関係にある。傷がふさがるまで面倒みてやったって問題はない」
    「傷だけならね」
     そう言って雷蔵は立ち上がる。振り向きざまに「見つけたのはお前だからちゃんと考えておいてよ」と言い置いて部屋から立ち去った。
     黙ったまま、濡れた手ぬぐいでそっと兵助の額を拭う。不意に口の中に鉄の味が広がった。口の端に指をやればわずかに赤い色が付き、三郎は眉を顰めた。考えなくてはならないことは分かっている。しかし最悪の場合を想起しては何もしてやれない自分に腹がたつばかりで一向に考えは纏まらない。学園で共に過ごしたかけがえの無い仲間だというのに一度道を別にしてしまえば結局知り合い程度の力しか貸してやれない事実だけが俄然として立ちはだかっていた。閉まりの悪い襖から、いつの間にか高く昇っていた月明かりが差し込む。三郎は兵助の横に寝転がると静かに目を閉じた。

     次に兵助が目を覚ましたのは二日後のことであった。不意に響いた物音に気がつくと三郎と雷蔵は揃って城に出向くための仕度をしていた手を止め、奥の部屋を振り返った。
    「兵助……?!」
    「三郎、雷蔵……」
     二人の所にいることは認識出来ていたのか、掠れた喉で二人の名を呼ぶ。数日間食事はおろか水すらまともに飲めていなかったためか、柱に寄りかかる腕は一回りほど細く見える。二人が慌てて駆け寄り腕を伸ばす。兵助は震える手でそっと二人の腕を掴むとそのまま崩れ落ちた。
    「三郎、雷蔵……俺……」
     手だけでなく声すら震えている。
    「俺、目が」
     寄せられた眉の間に深い皺が寄っていた。
    「目が見えない、何も見えないんだ。どうしよう、俺」
     繰り返しどうしようと呟く唇は荒れ、血が滲んでいる。血管が青く浮き出た首筋を見やると三郎が兵助を抱き起こした。
    「落ち着け。まずは水、それから何でもいいから胃に入れろ。話はそれからだ」
     身を震わせる兵助から目を逸らさず、雷蔵の肩を叩いた。
    「……仕方ないな。三郎、頼めるかい?」
    「それは私の台詞だな」
    「どっちでもいいよ。じゃあ僕は予定通り向かうから」
     開いたままの風呂敷へ荷物を並べていく。口をしっかりと結ぶと肩へとかけた。「すまない」と呟く三郎に笑いかけて手を振ると草履に足を通した。山中に建てられたこの小屋は外に出てしまえばあっという間にその姿が草陰に消えた。
     その背が見えなくなると三郎はすぐに兵助を炉端に座らせた。手に直接水を入れた椀を渡す。兵助は椀に入れられた水を半分ほど一気に飲み干すと固く握りしめていた手のひらを開いた。三郎は囲炉裏の炭を熾すと鍋に穀類と水を入れて煮込み始める。お互いに口を閉ざしたままだ。三郎は鍋の中身全てががすっかり柔らかくなってから新しい椀に移した。乳白色に濁ったおかゆはお世辞にも美味しそうな見た目ではない。人が食べられる温度まで冷ましてから椀を手渡した。兵助はそれを受け取ると静かに口へ運ぶ。上手いとも不味いとも言わずただ黙って食事を続ける。目が見えない状態であっても日常の動作なら支障なく行えるらしい、と三郎が安堵の息をもらした。
    「……ごちそうさまでした」
    「上手いもんを出してやれなくてすまないな」
    「世話になっている身だからな、文句はないさ」
     空になった椀を受け取ると三郎は兵助に向き直った。気配を察したのか兵助もまた俯けていた顔を上げた。
    「それで、どういう事なんだ」
    「悪いが詳しくは話せないぞ」
    「当たり前だ。今はお前の状況が分かればそれでいい」
    「まあここの領地を通る許可をもらっているし、知っていたと思うが俺はとある忍務の一環としてこの先の城を調べていたんだ。事前の報告では向こうの忍は殆ど雇われの三流のはずだったんだがどういう訳か一人手練れがいてな……なんとか撒いて逃げたはいいが最後に一矢報いられたんだよ。それも毒を塗り込めたやつを」
     苦虫を嚙み潰したような、という言葉を体現するかのように兵助は吐き捨てた。
    「それでなんとかうちの領内まで逃げてきたのはいいが力尽きて倒れたところを偶々私が見つけたってわけか」
    「多分な。悪いがあれから何日経っている?」
    「私たちが兵助を保護してから四日目になる。傷がまだ新しかったから気を失ってすぐだろう……忍務の方はうちからそっちの城に連絡してあるから大丈夫だぞ」
    「ああ、意識が朦朧としてたが聞こえたよ。迷惑をかけてすまないが助かったよ。ただ問題は」
    「お前の目か」
     喉が震えた。焦点を定めることのない目は視線を返す事なく宙をさまよっている。見つめるほどにすれ違う視線に耐えられず、三郎は拳で音もなく膝を打った。
    「三郎?」
    「お前が熱で倒れている間、黒目に白濁が見られたんだ。雷蔵は万が一視力が失われるかもと言っていたが真逆本当に……」
     毒も分からない中で何もしてやれなかったと唇を噛む。兵助は声の聞こえる方へそっと手を伸ばした。
    「お前のせいじゃない」
     指先に髢の柔らかさが伝わる。手探りで頬を包み込むと肩へ抱き寄せた。胸の内から血の流れる音が三郎の耳へと届く。
    「俺はお前に助けられたんだよ」
     三郎の目尻から雫が流れ落ち一筋の跡を作る。麻衣と皮膚を隔てた先に、熱は確かに唸りを上げて存在していた。

    ***

     朝露に濡れた雑草が指先を冷やす。昨夜の雨で地面の緩んだ山道は足を運ぶたびに泥を跳ね上げる。まだ霞かかった森を足早に進めば、無遠慮な人の気配で木の陰に身を潜めていた兎が何処かへと消えていった。
     忍務を終えてなお気が休まらない。積もる苛立ちを隠しもせず三郎は土を踏みにじる。城から帰る道は街道からも外れた峠道で自分以外の人影は見えない。ふいに脳裏を過ぎったかつての記憶にますます進む足を速めた。
     早く帰ってやらなければ。
     雷蔵とは城近くにある彼の自宅で別れた。城を去ってからは領内ぎりぎりにある里を渡り歩いていた。幸いにもフリーとして活動を始めてからは政が絡むような仕事はとんとなく、むしろ商家の争いなど小さくも情報を高く買うような人々から贔屓を受ける事ができた。他所から受ける依頼も多く、であれば外へ繋がる街道沿いであれば利便性も高い。しかし街中では何処へ行っても男二人、さらに片方は瞽とあっては好奇の目に晒された。一年もあれば便利だからと街道沿いを選ぶよりは山の方がマシだと二人で話し合うには充分だった。そんな事情もありこの二年の中で三郎は人里で暮らすことを諦めていたが、この時ばかりはもっと近くに居を構えておけば良かったと歯噛みした。
     もちろんいくら家の構造を理解し、ある程度のことならば視覚に頼らずともこなせるとはいえ、七日も家を空けては兵助一人で生活が立ちいくわけもない。旧知で兵助の事情を知り、尚且つ彼らの家から比較的近い所に勤める尾浜勘右衛門に手紙を出し、面倒を頼んであった。それでも逸る気持ちは収まらない。差し掛かった別れ道にも足を止めず、右の道を駆けて行った。

    「よお、三郎」
     古びた小屋は枯れ木が目立つようになった山の中ではなお一層古ぼけて見える。手に茜色の風呂敷を持った青年が木戸の前で軽く手を上げた。
    「勘右衛門。久しいな」
    「随分早い戻りだな。雷蔵の話だと七日で終わる話ではなかったと思うが」
    「終わらせたんだよ。なにせ私はそれなりに腕が立つのでな」
    「お前が自分の優秀さをひけらかす時は大体照れ隠しだと相場が決まっている。大方兵助のために必死こいて終わらせたんだろ」
     三郎は冷えた鼻先を鳴らすと視線を逸らした。
    「まあいいや。兵助の様子を見に来たんだけどお前が来たなら俺は帰るよ。お土産の団子はやるからせいぜい二人で美味しく食べてくれ。昨日兵助のところに来た帰り道で八左ヱ門に会ってな、渡してくれと頼まれた」
     左手に提げていた茜色の風呂敷を目の前に差し出す。思わず受け取ると勘右衛門は用は終わったと言わんばかりに背を向けた。
    「ちょっと待て、お前昨日も来たのか?」
     三郎の言葉に疑問の色が滲む。勘右衛門は振り返らないまま足を止めた。
    「あー……まあ、来たよ」
    「毎日来るほど暇でもないだろう」
    「会えるうちに会っておきたくてな」
    「何の話だ」
     勘右衛門が首だけで振り向いた。背にした太陽が表情を隠す。
    「俺は兵助の友達だから何も言わなかったが、お前の友達でもあるからこれだけは言っておく。元に戻れなくなる覚悟もないまま、崖に突っ込むなよ」
     手遅れになるぞ、という呟きが三郎の耳に届く時にはすでに背を向けていた。振り返ることもなく一度だけ上げられた手に自分の手を上げ返した。渡された風呂敷がいやに重く、早く下ろそうと三郎は小屋の扉へと手をかけた。軋む音とともに埃が舞う。三郎が奥へ声をかけようと口を開いた途端、軽妙な足音が響いた。
    「三郎!」
    「危ないから走るなと言っただろう」
    「もう少しかかると思ってたから嬉しくてな。おかえり三郎」
    「ただいま、兵助」
     伸ばされた腕を掴み己の頬へ寄せる。兵助は三郎の顔を隈なく撫でると首から肩、腹、足と順に触れていく。全身を指で撫ぜてから満足げに口角を上げた。
    「無事でなによりだ」
    「当たり前だろう。それより土産があるから二人で食べよう」
     草履を脱いで泥にまみれた足を拭う。兵助の手をとって小屋へ上がると板の間は冷たく、裸足でいるのも辛い季節になったとため息を零した。囲炉裏の炭をおこし火にあたる。肌の下でじわりと血液が動き始める感覚に鳥肌を立てた。貰ってしまったものは仕方がないと風呂敷包を開く。中には黒塗りの箱が鎮座していた。
    「八左ヱ門のやつまた大層なものを……」
    「八左ヱ門が来てたのか?」
    「渡しに来たのは勘右衛門だったがな。私が来たからもういいとこれだけ渡して帰った」
    「そっか……中は何なんだ?」
    「団子だな。草餅なんて季節でもないのによく買えたものだな」
     黒の側面に緑の柔らかな色味が美しい。峠の茶屋などではとても手に入らない艶のある品に眉を顰めた。甘いものが苦手なわけではないがとても食べられる気分ではない。そもそも兵助に買ってきたものだからと箱を押しやった。
    「食わないのか?」
     目の前に差し出されていることには気が付いているはずだ。膝の上で手を組んだまま一向に動こうとしない兵助に首を傾げる。包帯の隙間から見える眉がわずかに歪んだ。
    「今はいい」
    「苦手だったか? 食わないならまた今度にすればいいが」
     昔は食べていただろうという言葉を飲み込んで三郎は箱の蓋を戻した。目の前の男は依然動きのないままである。さすがに様子がおかしいと近づいた瞬間、兵助が口を開いた。
    「三郎、お前はいつまで俺をこうしておく気だ?」
     三郎の足が止まる。外では風が強まったのか戸が大きな音を立てた。
    「いつまでって……」
    「俺が忍務をしくじって視力を失ってからお前は俺を引き取るために城を辞めると決めただろう。友好関係にあったとはいえ城付きの忍が別の城の忍を世話しているなんて許されるわけがない。あれほど望んでいた雷蔵との双忍すら半分ほど手放して……」
     兵助の目は包帯に遮られて見ることが叶わない。それでもかつての、理知の光を湛えた瞳が射抜く感覚に襲われ三郎は目を伏せた。
    「俺はお前が大事だから光を失ったお前を放ってはおけなかった。それだけだ」
    「嘘」
     間をおかずに言葉が飛ぶ。たった二文字だけの言葉へ何も言い返すことが出来ず三郎はおし黙ったままだ。
    「あの日、俺が調査した時とは明らかに違う忍がいた。自分の能力を過信しているわけではないが複数の、一定以上の能力が裏付けられている者たちで行った調査だ。あそこにあれほどの腕を持った忍が新たに雇われるには期間が短すぎる。おかしいんだよ」
     徐々に俯いていく顔に黒髪がかかる。兵助は一度言葉を切った。大きく息を吐き出して勢いよく顔を上げた。
    「お前だな」
     囲炉裏の炭が小さく爆ぜた。外では変わらず風が吹いているようで止めどなく小屋が軋む音を立てている。三郎は瞬きを二度繰り返すと諦めたように頬を緩めた。
    「前に言っていた敵の忍と私とでは体格が全然違うと思うが」
    「小さいものを大きくするのは簡単だし細いものを太くするのも簡単だ」
    「仮に実は体格が違う者だったとして、それならばお前の策に引っかかる道理はないだろう」
    「ああ、ないな。だからわざと引っかかったんだろう? 俺はお前が落ちるのを目で見るまで警戒心を解いていなかった、逆に言えばその時が好機だ」
     だから、わざと落ちた。そもそも木の上からバランスを崩してなお毒の塗られた手裏剣を正確に撃ち出せるほどの腕を持った者がそう簡単に相手の策に乗るはずがない。ならばそれすら策の内であったと考えるのが道理である。相手心中を巧みに利用してやり込める方法は学園時代から三郎の得意であった。変姿の術で姿を変えることはもちろん声色を操る技術も有している。この男なら全て可能なのである。
     何も答えない三郎から目を逸らし兵助は再び顔を俯けた。先ほどまで見せていた断罪の色はすでになく、着物を握る指は震えている。
    「お前はなんで、こんなことをしたんだ」
     学園時代から想い合っていた。天才と秀才として相反することもあったがそれ以上に根底が似ているからこそ惹かれあった。お互いに好きだと口に出したことはない。それでも唇を、身体を重ねることで通じ合っていた。少なくとも兵助はそう思っていた。
    「……学園を出るときお前を手放すと決めた。それでもいざ会えなくなるとだめだった。数年に一度会うたびにお前が変わっている、城や、新たに出会った人たちがお前を変えていると思うと私は嫉妬で狂いそうだったよ」
    「だから、取り戻すと決めた」
     兵助は瞬き一つ落とさずに続きを促した。
    「私たちは忍として生きていく以外に道を持たないから、ああするしかないと思ったんだ」
    「ばかだな、三郎は」
     呟かれた言葉に目を伏せる。
    「……そうだな。お前が毒への耐性を持ってる可能性も考えていなかった私がバカだったよ」
     そう言って包帯へ手を伸ばす。結び目を解き、あっという間に目隠しを取り払った。長い睫毛が揺れる。やや吊り上がった大きな瞳には白濁も見られず、毅然した色で三郎を射抜いた。
    「……言っておくが初めは本当に見えなかったんだからな。まあ毒が抜けて、数日もすれば元に戻ったわけだけど」
    「なぜ見えないふりをしていたのか聞いても?」
     頷きを落として口を開く。
    「だって、見えなければ三郎は側に居てくれるだろう?」
     兵助が頭を傾げると長い黒髪も同時にゆっくりと揺れた。青白い肌が浮き上がり、薄く引かれた赤い一筋が蠱惑を湛えた弧を描く。当たり前のように紡がれた言葉に疑いの色が滲む隙もなかった。
     三郎が兵助の目尻を指で撫ぜた。目を細める仕草がどことなく猫のようで喉奥で笑いを零す。そのまま肩へ腕を回すと己の胸へ抱き寄せた。
    「騙し騙され、お互い様、だな」
    「三郎が悪いんだぞ。俺は少しでもお前が迷惑そうな素振りを見せれば出て行くつもりだったのに、それどころかいつまでも手放さないんだから」
    「城の指示もなく敵城の忍に化けて、城から追い出され都合のいい時ばかり使われるまでに落ちぶれる事をしてまで手に入れたものを簡単に手放すわけがないだろう」
     互いの肩に顔を埋める。耳元で囁くように言葉を交わせばまるで睦言のようで、兵助は笑いを零した。すでに後戻り出来る道はなく、それとなく引き止めようとしてくれていた友人たちは呆れるだろうか、と自嘲する。
    「もう兵助がずっと側に居てくれなければ困るんだ……いっそ、やや子でも孕んでくれないか」
    「……お前は本当にバカだなあ」
     三郎の掌が下腹を撫ぜた。何処まで突き詰めても彼らを繋ぐものは恋情や愛情とは程遠い執着だ。お互いにそれを知っているから不安なのだと、言いかけた言葉を飲み込んだ。騙し、騙され決して選ぶべきではない方法で一度離した手を取り合った。世界から認められるはずもない異質な情であるからこそ、世間から受け入れられる形を望むのだ。互いに産まれるはずのない、赤子という夢想を孕む。それを狂気と呼ぶことを二人は知っていた。
     神棚に飾られた酸漿が風に揺られて床へ落ちていく。
     結局、どれほど堕ろそうとしても一度生まれてしまったものを元には戻せないのだ。
    「冬になる前に何処か遠くへいかないか?」
     表情の見えないまま三郎が呟いた。兵助は一瞬目を見開いて、それから首を振った。
    「いいよ。遠く、何処か二人だけの世界にいこう」
     吹き止まない北風はまもなく冬が訪れる兆しだ。軋む板戸の向こうでは木々にしがみ付いていた枯葉が次々に流されている。
     互いの顔も見えないまま、ただ伝わる温もりに身を委ねた。
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    2022/09/10 23:34:43

    冬が生まれてくる前に

    #鉢くく
    別サイトからの移転です。
    初出:2018年2月4日

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