春分 閃光。
轟音。
それらが順番に訪れる様を、久々知は窓から茫と眺めていた。遠く山向こうまで広がった雨雲は濃い灰色で空を包み、地上を薄闇で覆っている。雨は未だ降り出してはいなかったが、吹き付ける風は冷たく水気を感じさせた。今、この時、勢いよく降り出してもおかしくない空模様。きっと、先に光の落ちた場所では猛り狂うような雨に見舞われていることだろう。窓枠に切り取られた景色の最奥に霞む一体を見つけ、数秒の間そこだけを見つめる。あの雨が今にも自分たちの上に降りかかると想像すれば、反射的に内腑が重くなるような錯覚に見舞われた。
「雨になりそうだな」一列前の席に座る尾浜が、彼は今初めて窓の外を確認したところであったが、空を見上げて呟いた。
「さっき雷が落ちていたよ」
「嫌な天気だ」
嫌、というには軽い調子で尾浜が言う。雨という単語に付随する負の印象に対する義務に近く、彼は自身雨というものを嫌ってはいないのだろう。一般的な感性としての表現を一先ず口にしたがる。それが彼の特徴、或いは癖の一つだった。
「そうだね」
「俺は部屋に戻ろうかな」
「課題は?」
「部屋でもできる」
「教室に残るって言ったの、勘右衛門なのに」
「気が変わった、というより、雨が降る前に戻ったほうが賢明じゃない?」
学園という敷地内に収まっているとしても、校舎と長屋の間には幾らも距離がある。雨が降り出しては濡れずに帰ることも難しいだろう。開かれていた教科書を閉じ、尾浜が背を伸ばす。異論は聞き入れないと示すような仕草だった。
「じゃあ、勘右衛門は先に戻りなよ」久々知は窓へ視線を向けたまま言った。
「用もないのに教室に長居をする気か」
「別に、禁止されているわけじゃない」
「そうだけどさ、施錠の時間までもうあまり時間もないから、それなら長屋に戻っておくのが賢明だと思うけど」尾浜は腰を上げると窓へ近づき、開け放たれていた雨戸へ手をかけた。「教室の戸締りは学級委員長の仕事だからね」
「……横暴」
「何とでも。第一ここから見えるのなんて校庭くらいだし、兵助の見たいものは見えないんじゃないかなぁ」
「校庭横の道が見える」
「あそこまで見えるのか。目が良いな」尾浜は雨戸を下ろすと机の上に置かれた教科書を手に取り、反対側の手で久々知の腕を引いた。久々知は人形のように立ちあがった。無言のまま教室を出る。廊下を進み、階段を二階分下りたところで尾浜が足を止めた。
「俺は職員室に寄ってから戻るけど、兵助はどうする?」
「……先に戻っているよ」
「了解」一言に笑みを添えて尾浜は校舎の入り口と反対方向へつま先を向けた。二、三歩進んだところで足を止め、振り返る。「兵助、傘くらい持っていけよ」そう一方的に告げ、再び背を向ける。遠ざかる姿に軽く手を上げ、久々知は小さく溜息を吐いた。
雨は未だその姿を見せていない。鼻孔をくすぐる水の香りをめいいっぱいに吸い込み、肺の底に渦巻く生温い呼気を吐き出す。今にも崩れそうな天気のためだろう、校舎から長屋へ通じる道には人の姿はなく、代わりに小さな蛙が土の上をしきりにはい回っていた。冬眠から覚めたばかりのせいか、背に隆起した無数の瘤に反して細い手足が不均衡な印象を与えている。暫く眺めている内に、蛙は大きく飛び上がると藪の中へと消えて行った。何もいなくなった地面から視線を宙へと持ち上げる。灰色の雲は風に煽られ、いくつもの塊が波のように連動している。
この風に追いやられ、泣きだす前にこの場所を過ぎてはくれないか。頭の片隅に上がった思考に久々知は小さく苦笑を零した。人にとっては好ましくはない雨であったとして、春の雨は山や畑に恵みをもたらす。先の蛙も雨によって潤いと餌を得るだろう。それを無為に過ぎ去ってしまえと願う己が子供に思え、茫洋と流れていく思考をせき止めた。どうにもぼんやりとしているらしい。数日前にはまだ予兆と言うべきだった春の気配が、輪郭を明瞭にさせてきたせいか。暖かな空気は人の気分をどこか緩ませる。
冬の冷たさ、その名残を求めるように、久々知は吹き付ける風を再び深く吸い込んだ。全身を巡る血液が酸素と共に判然とした思考を運ぶ。長屋の方角から聞こえる誰かの、声の高さから下級生の遊びによる歓声だろう、賑やかな笑い声を避けるように、彼は顔の向きを変えた。長屋へ通じる道を逸れ、人気のない道を進む。一瞬振り返れば、僅かに柔らかくなった土の上に残る足跡は曲がり角で九十度、正確な軌跡を描いていた。彼は己の足跡を気にかける素振りもなく、真っ直ぐに歩いて行く。歩調はぶれることもなく、平静。結ばれた唇もまた、無意識の呼吸の他に酸素を求めることはなかった。
道は長くは続かず、やがて行き止まり、学園を囲う壁に突き当たる。すぐ側には大きな木製の門。久々知はその大きな扉から三間ほど離れた場所に生えた樹の影に背を凭せ掛けた。冬の間に落とした葉が蘇り始めた枝が頭上で揺れ、不規則に曇天を覗かせる。風は次第に勢いを増していた。雨が降り出せば、さながら春の嵐と呼ぶに相応しい天候となるだろう。どこか他人事のように予測をし、静かに瞼を閉じた。
風が耳元を掠める。
枝葉の摩擦。
土の香り。
肌を覆う水の気配。
とぐろを巻く重低音。
光は見えない。
山の中で雨に遭った時、大木の下に隠れてはいけない。いつの間にか当たり前にしていた知識を思い出し、薄く瞼を開けた。暗闇に隠れた黒目には曇り空さえも眩しく、久々知はそのまま二度、ゆっくりと瞬きを繰り返した。そのまま樹の頂へ焦点を合わせる。大木と呼ぶには身近な距離にあるそれは風に耐えるべく左右に身体をしならせている。黒目だけを周囲へ向ければ同じほどの高さをした木々が、やはり同じように風に煽られて木の葉を騒めかせている。森の大木とは言えず、身の危険を感じることは難しかった。
久々知は再び双眸を閉ざし、視界を遮った。薄い光を仰いでいたせいか、瞼の裏で小さな白い点が不規則に点滅を繰り返す。その明かりからも目を逸らすように、彼はただ全身を包む気配に意識を傾ける。
太陽のない午後は、どれだけ陽が進んだのかを測ることが難しい。夜になれば正しく暗闇は訪れるが、陽の中にもたらされる陽光の機微がないめに、時が止まっているかのような錯覚を引き起こす。彼はその蒙昧から逃れるように鼓動の数を数えた。心臓が動いた数だけ時は進む。確実な、現実として。
一際厚みのある雲が頭上を過ぎ行き、俄かに世界が明度を落とした。瞼の裏に透き通っていた薄闇がうち消え、一瞬、深い闇が視界を包む。彼は瞼を閉ざしたままで、顔を僅かに持ち上げた。
強い風が鼻先へ吹き付ける。
水の香り。
脈が一つ進む。
頬に小さな衝撃。
雫が落ち、
肌の上を滑る。
「あ……、」
彼は瞼を持ち上げた。枝の隙間を縫い、落下する雫。その一つが目玉のちょうど中央へ飛び込み、視界を淡く滲ませる。顔を正面に戻し、手の甲を左目に軽く押し当てた。その後で、雨水であれば害はないと頭の隅で判断する。
遥か上空で冷やされた水滴は驚くほどの冷たさで彼の内側へ浸み込んだ。鮮明な感覚を振り払うように瞬きを三度繰り返し、ようやく顔から手を離す。手の甲の内で皮膚が擦れ合ったせいだろう、長い睫毛が親指の付け根にこびりついていた。
唇を薄く開き、深く息を吸う。空気に混ざり水滴から生じた細かな粒子が口に入り、僅かに息苦しさを感じさせた。駆け出しにはらはらと落ちた水滴は、数秒の間に滝と呼ぶべき勢いへ変化した。片目に落ちた衝撃がなど些細なことであるというように、全身が雨に包まれ、制服の藍は色を深め、殆ど黒に近い色へ染め上げる。門は変わらず一遍も動かないまま、しかし水煙によって輪郭を曖昧にし、厳重さよりも老獪な雰囲気へと変貌した。木の葉が風に揺れる音は水音にかき消され、薄い膜の向こうにあるようにくぐもっている。同じ時刻、同じ場所にも関わらず、世界が急速に変化する。
或いは、永遠を一瞬と錯覚したのか。
過ぎ去った脈の数はどれほどか。
降りしきる雨は勢いを増していく。視界に映るのは背を預けた樹に覆われた僅かな空間。先の地面よりも僅かに明るさを残した円の中。そこから先にあるはずの建物や木々の姿は虚空に消え、何も見えない。
久々知は己の立っている場所の他に、世界など存在しないのではないかと妄想し、やがて、あまりに非現実的な連想ができる自分への呆れを内包した笑みを零した。誰に憚ることもなく、表情を露わにする。真実この場には彼自身の他にはおらず、その笑みの真意を問うものはない。唯一、上空に渦を巻く唸り声だけが、彼を現実に引き留めるつもりか、鈍く響き続けている。
雨の間隙を埋めるように響く音へ耳を傾けながら、彼は佇んでいた。右手の手首へ指を添えれば、ざわめきよりも深い振動が神経を伝う。水分を吸収した制服の裾が、肌の上に重く張り付いていた。
一つ、二つ…………九つ、十。
乱れることなく正確に時を刻む。
視界の端で、一筋の光が宙を走る。
遅れて間の抜けた反響が鼓膜を揺らす。
五十……六十…………九十。
再び、今度は別の方角に光が生まれた。
一瞬の閃きから立て続けに轟音が響く。
百。
久々知は見開いたままの双眸で真っ直ぐに正面を向いた。
雨音に紛れ、蝶番の軋む音が短く響く。
正門の横に取り付けられた小さな扉が開き。人影が一つ。雨に撃たれ、輪郭は淡く霞んでいる。
「……おかえり、三郎」
人影は扉を後ろ手で閉めると足を止め、久々知の方へ視線を向けた。「兵助?」
「びしょ濡れだな」久々知は木の下から動くことなく、首だけを僅かに傾けた。
「どうしてここに」
「……別に」
「びしょ濡れなのは兵助も同じだろう」鉢屋は樹の下へ近づき、丁度枝の傘との境で足を止めた。「まさか、私を待っていた?」
「そのまさかだよ」
「どうして?」鉢屋が疑問符を繰り返す。
「怪我をしたと聞いたから」
久々知の答えに、鉢屋は一瞬右足へ視線を落とし、すぐに微笑みを作り上げた。
「大したことじゃない。雷蔵にでも聞いたのか?」
「今朝ろ組が一斉に戻ってきた時に。なんでも怪我をしていたのに殿を引き受けて、皆を先に戻したらしいじゃないか」
「今回実際に潜入したのは五人。協力して追手を巻くよりも、各々で逃げるべきだが、分散するには追手の実力が未知数すぎた。ならば関心を得やすい人間が的になった方が安全だ」
「怪我をしている人間が抜ければ、その分逃げる算段も付きやすい」
「まあ、そういう利点を考えなかったわけじゃないが……」鉢屋は眉を顰めながら答えた。「それを心配して?」
「心配、というわけではなんだけど」久々知は素直な口調で言った。
「それなら、どういう心算で」
「三郎は絶対怪我も無茶も悟られないように帰ってくるだろうと思ったから」
「……つまり、」鉢屋が唇の端を片方だけつり上げた。「悪戯心?」
「そうかも」久々知もつられるように頬を緩ませる。
「珍しいことだな」
「最近妙に暖かくなったから、柄にもないことをしてみたくなったのかもしれない」
「兵助ともあろうに、随分曖昧な話し方をする」
「三郎だってあるだろう? 現実と自分自身が乖離したような、落ち着きのない衝動に駆られることくらい」
「私は私以外を生きていないから、生憎兵助の感覚を知っていると言うのは難しいな」
「想像はできる」
「共感し合えたとして、本当に同じものを見ていることを証明することはできない」
「同じことだと信じてみるのが優しさだと思うよ」
久々知は額に張り付いた前髪を指で払い、それからわざとらしく肩を竦めた。微笑みはそのまま、同意を求めるように鉢屋の顔を見やる。鉢屋は僅かに目を眇め、肯定とも否定ともつかない角度で首を曲げた。
「優しさと正直はまた別物だな」
「三郎は変装が上手い癖に、正直でいようとする」
「いつも嘘ばかりついていると信頼してもらえなくなるからな。そのあたりの分別くらい持っているさ」
冗談を言う時と同じ口調で鉢屋は言った。久々知から視線を逸らし、天を仰ぐ。既に濡れている面の上に水滴が落ち、顎先へと滴り落ちていく。肌へ密着しているのは面も同じなのだろう。不破の面でありながら、見慣れない凹凸の角度が晒されている。久々知は視線を樹の影へ投げ、微かに瞼を震わせた。
「用は済んだから、俺は戻るよ」
「私は職員室へ報告に行かないと」
「一度着替えてからじゃあダメなのか」
「傘を差したところで、多少は濡れてしまうから。いっそずぶ濡れのまま方が効率が良い」
「……風を引くぞ」
「兵助こそ、この雨の中ずっと立っていたんだろう?」
「そう長い間でもないよ。それに、春の雨は暖かい」
「春の嵐の間違いじゃないか?」鉢屋が呆れたように笑みを零した。「雷も落ちるかもしれないから、戻った方が良い」
久々知は素直に頷き、樹の幹から背を離した。世界を隔てるような、枝葉の傘によって生じた境界線を踏み越える。
雨の勢いが強くなり、
しかし、冷たさは感じない。
「兵助」鉢屋が隣に並びたち、囁いた。「今、私と兵助は同じ世界を見ている?」
顔を正面に向けたまま、久々知は小さく口を開いた。答えを返そうと息を吸った瞬間、目の前が眩む。
閃光。
熱はなく。
空気の震えが波のように押し寄せ。
轟音。
雷鳴。
雨垂れ。
煙の香り。
「春雷」
どちらともなく呟く。
見えたものを確認するように。
空間と現実を認識するように。
「近くに落ちたな」鉢屋が無感情な口調で言った。
「春だもの、雷くらい落ちるさ」
「大木の一本も折れたかもしれない」
「俺たちに落ちなくてよかったね」
「縁起でもないことを」
鉢屋の額に浮かぶ皺を一瞬見やり、久々知は宙を仰いだ。灰色の雲は未だ厚く、天蓋のように立ち込めている。それでも遠くの空には薄い日の明かりが見えている。
「三郎、明日、折れた大木を探しに行こう」
「焼け焦げた木の骸を?」
「俺たちの世界が同じかを、確かめに」久々知が微笑む。
雷鳴の名残が、遠くの山で反響していた。