白銀のなかの春 ソビの匂いがする。ソビの温かさ、ソビの、脈を打つ音……それらをすべて合わせた、気配そのもの。包むようにぽかぽかして、しがみついている、硬く厚みのある存在感を確かめた。暗闇で何も見えないが、確かに五感すべてでソビを感じる。こもった熱は意識をゆりかごの中に落とし込んだように、うつらうつらと曖昧にさせる……ような、気がする。
――あ、そうか、朝なのか。
「……ん……」
ようやく俺自身が深い眠りから浮かび上がっていたのだと自覚して、そうしたら意図せずに声が漏れた。ソビに抱き込まれた身体が、もぞもぞとむず痒く感じる。
……寝息から察するに、ソビはまだ夢の中だ。意識がはっきりしていない俺も、それはほとんど変わらない。擦り寄るように足を絡めなおして、気持ちのいいくるくると癖の強い髪の毛を無意識に梳いていた。目を瞑ったまま呼吸をすると、ソビの匂いを一際強く感じる。ひどく安心する。俺はまた、ソビと朝を迎えることができたことに。
この土地では、冬の夜は明けない。ソビが公務で家を空けている間ももちろん、それは変わらず日々を進めるが、俺はそんな夜々をやり過ごすのに毎日必死になっていた。手の届くところにいてくれないソビは、俺に対する興味が薄くなっているんじゃないか。もしくは、他に有能な同志を見つけて夢中になっているんじゃないか。そんな答えのないものにぐるぐると追い立てられて、どうしようもなく不安になってしまう。……だからだろう、ソビがこの家に帰ると自分を抑えられない。俺を見る目が変わる瞬間のソビに、心底安らいで高揚してしまうのだ。そうしてソビが家にいる間、耐えられなかった毎夜を埋めるように、毎朝隣で寝息を立てているソビを実感しては、よかった、まだ俺は大丈夫だと確かめるのだ。……自分でも質が悪いのはわかっている。わかっているが、どうしようもない。こんな感情は愛情でも慕情でもなんでもなく、単なる醜い依存だとも自覚しているから、余計にやるせなくなるときもあるほどだ。俺にはソビが必要だからと割り切ったところで、なんの気休めにもならない。
……とにかく、今日もまだ大丈夫だということがわかった。抱えられる温もりにみっともなく安堵して、呼吸が自然と深くなる。瞼が重くなり、取り巻くすべてのことを忘れて、またこのまま二人だけの世界に落ちていきたい。明けない夜がそんなことも許してくれるような気がした。
まるで俺がソビを連れ込むように、いっそう力を強めて抱きしめてしまった。ぎゅう、と返る厚みのある弾力がこんなにも俺を慰める。
「……んん……」
は、と意識が鮮明になる。不意に力強く縋り過ぎていたらしく、ソビの穏やかな寝息に唸りが混ざった。慌てて顔を上げると、
「ふふ、おはよう……」
うっすらと開いた瞼の間から、出し惜しむような瞳が覗いた。暗闇の中では、せっかく綺麗な夜明け前のような色を持つこいつの瞳も、灯りを閉ざして見えないまま、また瞼が降りる。俺を見て綻ぶ口元がなんとも言えない。むず痒くて、視線を逸らさずにはいられなかった。そ、そうだ、今起きたふりをしよう……言い訳じみた心緒のせいで、そう浮かんでいた。
「――今、何時だ……」
ソビの匂いに顔を埋めたまま、何食わぬ顔で尋ねる。目覚まし時計はソビのほうのサイドテーブルに置いてあるから、俺が確認するにはソビの腕を振りほどいて、さらに上体を起こさないと見えない。だから、ソビを促す意味も含まれていた。
しかも、寝起きでもちゃんとそれを察していたらしいソビは、
「知らない、真っ暗だもの……」
未だに寝起きの鼻声で寝言のように返した。しらばっくれる気かと一時は疑ったが、そういえばと閃きが降る。
こいつは普段からここで夜を明かすわけではない。むしろこいつが多くの時間を過ごすモスクワやレニングラードには極夜は存在せず、きっと寝ぼけた頭では『明けていない』とはつまり『まだ夜』だと思っているに違いない。
「そうか……でも、時間見ねえと……ここじゃ夜は明けねえからよ」
わざとらしくならないように諭してやったが、
「……うん、覚えてるよ……まったく、君は相変わらずせっかちだね……」
めんどくさいことをこれっぽっちでも隠す気を持たない調子で返された。
ぐる、と俺を包んでいたソビの匂いが大きな動きと共に離れ、心もとなくなったのも束の間だった。身体を反転させただけでしばらく時計を見ていたらしいソビが、
「って、あれ、オストっ、」
何の前触れもなくベッドから起き上がった。弾けだしたソビの声を追えば、窓の前に立ち、外を見ながら目を輝かせているようだった。背中しか見えないので、声色からそう察しただけだ。
だが、一気に布団の間に流れ込んだ冷気に体温が奪われていた俺には、それどころではなく、
「ん、どうした……ラトビアでも外を飛んでたか……?」
布団と毛布を引き上げながらごちった。まだこの匂いに包まれて夢見心地でいたかったというのに、一人だけさっさと切り替えられてしまい、惜しむ気持ちが次から次へと溢れてくる。
「もうっ、違うよ! ほら、起きて! 見て!」
未だに元気よく跳ねるソビの声と、追って、実際に布団を剥ぎ取られるという不当な扱いを受ける。防寒肌着はもちろん着用しているが、それでもいくらも寒くなり、これではベッドに横になっている意味はないと渋々体勢を整えた。身体のあちこちがぎしぎしと軋むように痛い。この痛みは既に慣れてはいるが、それでも痛いものは痛い。
「あーも……昨日の無理な体勢のせいで、身体中痛えんだけど……」
文句を垂れたところで、ソビは素知らぬ顔だ。何のことを言っているのかわかっていないわけがないのに、まるでそのように振る舞って、「ほら、早く早く」と俺を窓辺から手招きしている。
……その仕草と表情は、まあ、嫌いじゃない。だがちょろいやつと思われるのも癪なので、わざと寝起きのだるさを演じ続けた。
「……あー、なんだいったい」
「ほら! 雪! 止んでる! それに、昨日より少し明るい気がしない!?」
「そうかあ?」
ソビが身体を半歩だけ向こう側にずらし、窓の前に空いたスペースを作ってくれた。そこに上手に身体を入れ込んで見上げれば、空は星がちらほら見える程度の暗夜だ。確かに雪は止み、少し白んでいるだろうか……とは思うものの、しばらく眺めても昨日との違いはよくわからない。
「ねえねえ、ちょっと外に行ってみようよ!」
「は!?」
何の前触れも容赦もなく、ぐい、と腕を引っ張られた。まだ意識していなかったが、俺が着ているのは薄手の寝間着だ。どう見てもこんな場所で外をうろつくような厚着ではない。
「いいでしょ! 執務まであと二時間はあるよ! ね、きっとあるから、探しに行こう!」
引かれて部屋から連行されている中で時計を盗み見ると、言われた通り午前の執務まであと二時間もあった。こんな寒い中どこに行くんだと問い詰めたい気持ちと、あと二時間もあれば断れないではないかという気持ちが、二つ同時に吹き上がる。
「探しに行くったって、いったいなにっ、を、っとと……ソビっ」
それからもソビにずるずると俺の腕を引っ張られて、強引に長い廊下を連れ回された。
ついに出てしまった。夜も明けぬ極寒のいずこかの地で、吹き荒れる風にさらされていた。いくら明けぬ夜とは言っても、既に屋敷の中ではいくつかの部屋に光は灯っていて、そこから漏れる明かりがほどよく積雪を照らしていた。遠くまでは見えないが、足元を見るには十分だ。
雪こそ降ってはいないものの、吐く息すらも凍りそうな冷気のお陰で、首まで縮こまって震えてしまう。今だけ亀になりたい。一応は寝間着の上にコートを羽織るくらいはさせてくれたが、それでもこんな土地での防寒としては、不十分だろう。マフラーと手袋もしているが、ああ、そうだ、不十分にもほどがある。
だが、何がおかしいかと聞かれたら、俺は真っ先にソビを見るだろう。連れ出した本人であるソビもまた、俺と同じようにコートを身体に巻きつけて、
「……ううっ、寒い……」
震える喉でそうごちった。頬も鼻頭も真っ赤にして、ぶるぶると震えている。
「ったりめーだ……ここをどこの何月だと思ってやがんだまったく」
「だって……春の気配が、したんだもの……」
さっきから、ソビは俺の隣を歩きながらずっとこれを主張していた。
「だから、探せばもしかして見つかるかなあって」
そのわけのわからない『春の気配』とやらのせいで、俺は今ここで、凍え死にそうな心地になっている。どこからどう見ても、その『春の気配』だか『春の陽気』だかは見当たらない。見当たるはずもないと、ソビもわかっているはずなのに。それでもソビはぴったりと俺の隣にくっついて、ひたむきに雪を踏み潰していく。ずぼずぼと膝下までいちいち埋もれる足は重く、指先はかじかんで感覚が鈍い。髪の毛の先が既に凍り始めているから、これは早いところ諦めてもらわないと困る。呼吸すら、肺を痛めてしまうほど冷え切っているにも関わらず、ソビはまっすぐに視線を上げ続け、その謎の捜し物をしていた。
よく見れば、ソビの長いまつ毛の先すらも凍り始めている。
「ああ、そうだ、だから俺様たちはいったい何を探しているんだ?」
尋ねると、ソビは俺を打見して、ふふ、と頬を綻ばせた。
「それはね、新芽だよ」
ぴったりと俺の隣で揺れていた身体は本当に肩を触れさせて、するりと手袋越しにソビの手のひらを感じた。
「……芽え?」
「うん、雪も止んで、こんなに暖かくて、春の気配がしてるんだもの、」
その間もソビの凍らない瞳を見ていた俺は、眼下に積もった雪が照らし返す微かな光が、そこに揺らめいていることを知った。きらきらきらきらと、まるでスノードームのようだ。
「どこかに一つくらいは雪をかき分けて双葉が出てるんじゃないかと思って」
「そ・れ・で、俺たちはあてもなくこの極寒の中を彷徨ってるってわけか」
「うん、そうなるね」
近くにぼんやりと浮かび上がっていた、骨組みだけになっている木の根本のほうに、ソビの足は向かっているようだった。しっかりと握られた手のひらと、離れないように寄せ合っている肩は、それでもそのままだった。こんなにたくさんの防寒の上からソビの温もりもなにもあるわけがないのに、都合も心地もいい錯覚にふらふらと連れられていく。
目指した木の根本に立つと、ソビは足を止めてそこから幹を見上げた。身体が右へ左へと動いているのは、少しでも芽が出そうなところをとそこから探しているらしい。
「……嫌だった?」
不意に、ソビはふり返った。ぽつりと、また屋敷のほうから灯りが一つ増え、赤くかじかんだ顔で俺を捉えるソビの視線が少し鮮明になる。手を握りあったままだから、必然的に互いの視線は近いところにあった。……ただ俺を見ているだけの瞳から、それ以上のものを勝手に見出して、どくりと心臓が波打った。
「嫌なわけねえけどよ……」
耐えられずに視線を外したのは、その動悸のせいだった。見つめられたと勝手に勘違いしただけなのに、こんなに動揺してばかみたいだ。いや、この動揺そのものが、なにかの間違いのはずだ。
「ふふ、そうだよね。なんてったって君は、我らが誇る優秀な同志、東ドイツくんだものね」
俺の動揺まで見透かしているのか、ソビはわざとらしく茶化してくれた。そう、こんな動悸はあり得る道理がないのだから、かき消してくれるのはありがたい。俺もそれに便乗して、ようやくまたソビの視線と合わせることができた。
「まあ、そういうこった。お前には俺様がいなきゃ張り合いねえだろ?」
「ふふ」
とんでもなくたくさんの意味を含んでそうな笑みを浮かべられて、さっきまでのおかしな気持ちは完全にどこかへ吹き飛んだ。お前笑って誤魔化したな、とつっかかってやろうかと思ったが、それはなんとか堪える。思ったことを一つも言わずに俺に笑みを聞かせることを選んだのだから、俺はその笑みで満足してやる。
「――ねえオスト、この雪景色は、なんだか新鮮だね」
「……ん?」
辺りを見渡したソビの笑顔は、最後には俺のところに戻ってくる。先ほどよりもまっすぐに灯りを吸い込む瞳は、より純(すなお)に俺を見ていた。まるでなにかを訴えているように揺れる虹彩から目が離せなくなる。今度は予感を得ていた。
「この雪景色は、ぼくに春の高揚をくれた、初めての雪景色だよ」
言葉と一緒に吐き出される真っ白の息が、少しだけ白んだ空へ吸い込まれていく。
「そうか、そりゃ、よかったな」
どくどくと高鳴る鼓動を感じないふりをして、けれどこうなる予感はあったと諦めたくなる。
手袋越しに触れている手のひらから、この鼓動が伝わってしまわないだろうか。俺のことだけを見ているソビの眼差しが、嬉しくて、幸福で、そして、
「オスト、」
名前を呼ばれただけで、ソビに触れたい欲求が溢れた。手がつけられないほどに内側をかき乱されて、今すぐ、ソビの名前を呼びたかった。静かに反応を待つソビの表情が、まさか俺と同じようになにかを言うのをためらっているようにも見えて、すべてを思い知る。
そう、ちがう。ここでキスしたいと思うのは、おかしいことだ。おかしいとは、不自然という意味だ。だって、俺がソビに抱く感情はソビの側にいないと生きていけないという依存からの情であって……これじゃまるで、俺は本当にこいつを……?
……いいや、そんなわけがない。
すべてを有耶無耶にするように、思考をそこで止めた。
結局ソビに言葉は返さないままだったが、ソビはそれを咎めることもなく、ただ笑顔は保ったままで光の届かない雪景色のほうを眺めていた。
自分から思慮することを諦めたはずなのに、この胸の締めつけはいったい何だろう。ちくちくと胸の辺りが痛んで、ただ一言「ソビ」と紡げない現実がもどかしかった。履き違えないようにと意識を尖らせていた依存も愛情も、ひょっといて既に一緒くたになってしまっているのではないかと、身体に絡みつく閉塞感が警鐘を鳴らしているようだった。
おしまい