第六話 テンカイ・サブズィエ
ざ、ざ、と歩く音がする。アスファルトをしっかりと踏みしめて、ぼくはもう何回めかにもなる道のりを歩いていた。徒歩15分くらい、きっと自転車があったら5分くらいだと思う。それくらい、ギルベルトくんの家と会社は近かった。
まずはマンションを出て三歩進んだところで、一回。それから、マンションの玄関を出たところで一回。それから、歩いていたら見えてくる公園の入り口に差し掛かったところで、一回。ぼくは立ち止まって、ふり返ってしまった。さっきまでこの腕の中にあった大きくて暖かい存在感が名残惜しくてたまらなかった。……でも、こんな歳にもなってそんな駄々をこねるようなこと、きっとギルベルトくんに幻滅されてしまうから……ぼくは何とか気を強く持ち、それ以降はただ前だけを見据えた。
ギルベルトくんの家から会社の間には、二つほど、住宅街の中によくある小さな公園を横切る。もうお昼ごろだから、そこかしかこからいい匂いが漂い、それらに気が留まる。と言っても、ぼくはお腹が空いているかと聞かれればそうでもない……正直、今はそれどころじゃなかった。
こんなにも、胸がいっぱいなんだ。……一度と言わず、何度か諦めようとしていた彼が……ようやく、自分に素直になってくれた。多少強引だったのは自覚しているから、手放しでは喜べないけど、あんなに求めてもらえて、素直にうれしい。玄関の前までぼくをお見送りに来てくれたギルベルトくんを思い出す。この心の中に未だに残っている不安感の正体がよくわからないけど、でも、本当にうれしい。嬉しくてたまらない。
また、足を止めそうになる。今すぐ引き返して、またこの腕の中で温もりを感じたかった。……高校生のときとは少し身体の匂いが変わっていた。あのころはもっと、弾けるような汗の匂いがしていて、けど、今は、落ち着いた石鹸の匂いだ。……そんなことまで気づいたと伝えたら、引かれるだろうか。けど仕方がない、ぼくは彼と触れ合えたことが嬉しくて、少しでも多く彼を迎え入れることに無我夢中だったから。
この喜びを噛み締めている間に、ぼくは早々に会社に到着した。一応メールではもう、ギルベルトくんを病院に連れて行っていたという旨の報告はしてあるので、そこに何も後ろめたさはないような顔つきでやり過ごせばいい。
靴箱がある玄関に繋がる社員通用口に入り、玄関に着くや否やそそくさと上履きに履き替える。ほとんど上履きがそこに収納されているのを見て、そうか、もうお昼どきだからみんな出払っているんだと理解した。……ということは、今は営業部のフロアには部長とぼく……あと、いても二人くらいだろう。少し肩の力が抜けて、そのまま廊下に上がった。
迷う必要など一つもなく、営業部のフロアに入る。そこで気づいたけど、部長は荷物はあるのもの、本人はそこに座ってはいなかった。同時に、珍しく誰もフロアにいない。肩の力を抜くというより、これはもう拍子抜けだった。……まだぼくは部長ではないのだから、ギルベルトくんの斜め前の席に腰を下ろし、ふう、と空気を吐き出した。目の前に垂れ下がる『祝・業務達成』の横断幕が、やたらと目につく。
「……イヴァンくん、来てたの」
一番に覚えたのは違和感だった。いつも元気な声の印象しかないこの声が、今日は少し静かに響いたからだ。フロアの入り口のほうを見れば、やはり思っていた通り、社長がゆっくりと歩み寄ってくる。手ぶらではなく、何かの書類やらを持っているので、おそらくはどこかの部署に行くついでに立ち寄ったのだろう。ぼくの元へ近づいてくるのだから、きっとギルベルトくんの様子が気になっているに違いないとぼくは思った。
「社長、お疲れさまです」
「ああ、お疲れさま、どうだった?」
ぼくの思ったことは間違いなかったらしく、社長は一旦書類をギルベルトくんの机の上に置き、そのまま自分もそこに腰かけていた。その様子を見ながらぼくは、医者に診てもらった旨と、今日一日は安静にしておいたほうがいいと言われた旨を伝えた。……明日には出勤できるだろうという旨も。社長はそれをふむふむと聞いていて、ぼくが一通り言い終わるのを待っているようだった。
――何を待っているんだろう。何かを伺うようにぼくを見ているのはわかっていたし、何か察してほしそうな空気なのも感じていた。だけど、あいにくぼくはそれが何なのかわからず、最終的には社長に向けて「何かありました?」と首を傾げていた。
その挙動にようやく社長の中にあったらしいもわもわとしたものが凝結して、意を決したように口を開いた。
「イヴァンくん。忘れていたようだけど、今朝会議だったんだよね……」
それを耳にするなり、ぼくは焦りのせいでドッと冷や汗を噴出させていた。え、うそ、と思い返している間に、社長がぼくの肩を叩きながら話している光景が蘇る。ああ、そうだった。確か、一昨日……引き継ぎも兼ねて出席してほしいと言われていた……完全に忘れていた……。本当に病院に行っていたならまだ割り切れていたかもしれないけど、その実、本当のところはそうではないのだから、過度な罪悪感が湧く。
「引き継ぎも兼ねて、君に出席してってちゃんと言ったよね?」
「す、すみません……」
「未来の部下が気になるのはわかるけどねえ。そこはちゃんとしてくれなきゃ」
「……すみません……」
言い返す言葉もない。この社長の強引な思惑がどうとかよりも、社会人として会議をすっぽかしてしまったのは情けない……。お休みを連絡するときに、『会議もあるのに』と一言でも付け加えていたら印象は違っていたんだろうけど……無理だった、あのときぼくは、目の前にある、ずっと探し続けていた温もりを抱きしめていたんだ……それで精一杯だった。
「……その会議で、ギルベルトの異動が決まった」
「……え?」
唐突に切り出された話題に引かれて、すぐさま社長に注目した。捉えて一瞬は真面目そうな顔をしていたけど、すぐにそれは「あっ、まあ、」と少し和らいだ。
「異動と言うか、肩書が変わる」
「えっと……?」
「新年度からギルベルトは『営業部の教育担当』に変わってもらうから、よろしく」
「……教育担当、ですか?」
営業の法人班班長から、新設される『教育担当』? 長年班長としてやってきたのに、部長の座をぼくに先を越され、この上、教育担当……? その役職が今後どういう位置づけになっていくのか見当もつかないけど、明らかに管理職ではないことだけはわかる。
「ああ、なんていうか、新人が入ったときは優先についてもらうし、難しい案件のアドバイザーみたいな感じかなあ。あとは、クレームになった案件とかの指導・処理とか。そうそう、営業部にいる人材に、技術的なところの理解を深めてもらうためのセミナーやってもらったり……そういう方向で考えている」
「ああ……そうなんですね……」
職務内容を聞いている限りでは、それなりにやりがいはありそうな感じだとは思うけど……ぼくは知っている、ギルベルトくんは、お客さんのところに出て『営業』をやりたいと思っている。これじゃ、また一段とお客さんから遠ざかってしまう……というか、言い方を変えれば、営業の第一線から完全に外れちゃうってこと……になる。
この肩書き変更の話を聞いたときのギルベルトくんを想像してみて、何かがもや、と膨れて胸のあたりが苦しくなった。それでも彼は『やってやらあ』って意気込むんだろうなと思うと、ひどく切なくなる。あんなに営業に出たいって言ってるギルベルトくんのことを、よもや本当に〝冗談で〟そう言ってると思ってるわけじゃないだろうし……どうしてこんな配置換えをするんだろうかと疑問が浮かぶほどだ。ぼくが甘いんだろうか。
「……ねえ、イヴァンくん」
「はい?」
思わずじっと考え込んでしまって、不意を突かれた。
「君、もしかして、ギルベルトに私情でもあるの?」
「え?」
さっきとは比べものにならないほどの冷や汗をかいた。今度はばくばくと心臓までうるさくしている。……べ、別に隠してしまうことではないけど、これが知れてしまうことで、今後どちらかが不利になったりしないだろうか。
何も答えぬ内から社長は笑い声をあげて、
「イヴァンくん、わかりやすいねえ」
ぼくの肩を叩いて大変に満悦そうだ。
「素直なことはとてもいいと思うよ。でも、あんまり私情を持ち込まないでくれ」
表情はあくまで笑顔だけど、これは簡単にわかる。この笑顔は寛容に見せるためのものだ。本当はもっとぐつぐつしたものを腹の中に隠している。一気に決まりが悪くなった。
未だに腑に落ちないところはあるけど、ぼくもまだ『辞める』とははっきり言っていないわけだから、承諾したも同然だ。そこで大事な会議をすっぽかしたんだから、嫌味の一つで済むほうがありがたいくらいだとは理解している。
立ち上がりながら、来たときに持っていた書類を持ち上げて、社長は移動を始めた。促されるように「……はい……」と静かに返事を絞り出してやるのが、ぼくの今の精一杯だった。フロアから出て行く直前には「あ、君はまだギルベルトの上司じゃないし、この異動の件は私から話しておくから、気にしなくていいよ」と残して立ち去っていった。今の短い会話で、少なくとも二回は嫌味を言われたことはわかった。社長も今回ばかりは見過ごせなかった……まあ、納得はできる。
小さな唸り声をあげながら、ぼくはフロアに一人しかいないことをいいことに、そのまま机に突っ伏した。情けないことを言っても許されるなら、ぼくは最高にだらしのない声で言いたい。……もうぜんぶどうでもいいから、ギルベルトくんに会いたい……。
今日、ギルベルトくんからしてくれたキス、彼からぎゅっと掴んでくれた抱擁の感触。忘れることなく意識を逸らしていたそれらは、簡単に熱をまた呼び起こせる。身体がすぐに熱くなる。……会いたい……。
それとなく携帯電話端末を鞄の中から取り出して画面を点灯した。そこに、メールの受信を確認する。骨抜きされたようなだらしのなさのまま、ゆっくりとそれを操作して、新規メールを画面に呼び出した。え、と小さく声を漏らしてしまう。
だって、そこに表示されたのはギルベルトくんからのメールだったから。『いつ帰る? やっぱり元気だし、今からでも出勤する』と、それも、もう十分も前に。歩いて来ていたとして、もうそろそろ着いちゃう時間じゃない。
ぼくは慌てて『無理はよくないよ、大丈夫?』と返そうとした。脳裏に浮かべていたのは、ギルベルトくんの異動のこととか、社長に勘ぐられていること。今日は家に居てくれたほうがいいんじゃないかなと、それは言い出せずにメールの文面を打ち込んでいく。
だけど、そのメールを書き終えることなく、パッ、とまた携帯電話端末の画面が切り替わる。
今度は電話を着信したときの画面で、そこにはデカデカと『フランシスくん』と表示されていた。……一刻も早くギルベルトくんにお返事を送ってしまいたかったぼくは、もどかしくて仕方がなくて、それでも律儀に通話ボタンを押した。……だって、おととい、
『ボンジューイヴァン〜! 好きな人とは何か進展あったか〜い?』
電話の向こうで、おそらく楽しげに笑っているのが声色からわかる。
そう、結局おととい、ぼくはフランシスくんに少しだけ、ぼくの置かれた状況のお話をして、少しだけ、後押しをしてもらっていた。もちろん相手の名前とかは言っていないんだけど、とても親身になってくれて……そのとき、フランシスくんは言ってくれたんだ。『いいかいイヴァン。人の考えてることはなかなかわからない。そんな中で〝この人、もしかして自分のこと〟って思うってことは、それはもうほぼ確定だよ。がんばっても大丈夫』……だからぼくは今朝、強引過ぎるのをわかっていて、ギルベルトくんにキスを迫ったのだし。
それについてのお礼も兼ねて、話はむしろ聞いてほしいくらいだったんだけど、今は少しでも早く返事を出したかったこともあり、
「ごめんね、とっても聞いてほしいんだけど、ちょっと掛け直していい?」
なんて、雑な返しをしてしまった。雑さのせいか、声も少しだけいつもより大きかった気がする。
『お、その声色はうまくいったね? じゃあ、夜でいい? このあと会議なんだよね』
夜は……あわよくば、ギルベルトくんと過ごしていたい。淡い希望に過ぎなかったけど、フランシスくんのその一言でそんな期待を持ってしまった。申し訳ないけど、端末を持ち直して口元に当てる。
「会議があるんだね。ごめんね、じゃ、またメールするよ」
『あら、そう? うい〜、待ってるからね! 忘れないでね!』
元気よく通話は途切れて、画面が一瞬の内に切り替わった。ぼくが途中まで打っていたメールが出てきたので、そうだった、と焦った手つきで改めて編集を開始する。
そしてそこで、またしても人の気配を察した。見上げるのと声が聞こえるの、どっちが早かっただろうか。
「お、イヴァンくん、これから空いてる? 引き継ぎやってしまいたいんだけど」
まだまだ若い男性だけど、ぼくよりは一回りは年上だろう、前任の営業部部長がフロアに入ってきた。付け加えるなら、実はまだ数えるくらいしか会話をしたことがない。だって法人班の班員は、ギルベルトくんと会話ができれば、それで事足りていたから。
「部長、今朝はすみませんでした。これから大丈夫です」
「そうか、よかった。じゃ、私のデスクのところに来てくれるかい」
「はい」
あとは文面を見直して、送信ボタンを押すだけなのに、そのタイミングがつかめない。ぼくの行動を静観している部長を無視できず、その場で立ち上がった。がらがらとオフィスチェアが床の上を転がる音が響き、机の中の整理がすでに進められている、書類だらけのデスクに向かう。この営業部のフロアが見渡せる位置に、部長のデスクは配置されている。
「あれ、ギルベルト?」
廊下から響いた言葉に、ぎょっとした。
「社長、すみません。医者には今日くらい安静にって言われてたんすけど、なんか三日も休むと落ち着かなかくて」
まさしく彼の声だ。廊下から会話が響き込んで、ああ、遅かったかあと気が抜ける。どうやら廊下で立ち話をしているらしく、姿は見えないまま声だけが響き続けた。
「……ああ、でも、顔色がかなりよくなってるじゃないか。あのときは心配したが休んだ効果があったね。じゃ、今後も頼むよ。法人班はこれから忙しくなるんだから」
「え、そうなんすか」
不意を突かれたことで転がり落ちたらしい声を聞いて、ぼくの肝がきゅ、と縮む。社長はこれから法人班の中で起こる変化を知っているけど、ギルベルトくんはまだ知らない。そして、今この場で知ることになるかもしれない。
ギルベルトくんの疑問符のあと、少しだけ間が空いた。
「そうだね、ギルベルト」
「はい」
「鞄、置いてきて。ちょっと話がある」
「話……すか?」
あ、ほら、来た来た。はらはらとした心地が拭えず、ずっと廊下のほうから目が離せなかった。姿は見えていないままだけど、声の近さからして、どんどんこちらに進んで来ている。
「うん、まあね。異動の話」
「い……?」
「大丈夫、営業部所属は変わらないよ。君にぴったりの肩書きを用意したところなんだ」
……『君にぴったり』か。そう思っているのは、果たして社長以外にどれだけいるのだろう。いや、確かに、本人の意志を知らなければ適任と思う人も多いかもしれない。ギルベルトくんの指導はわかりやすいし的確だ。
「悪い話かどうかは、君次第だよ」
付け加えられた言葉に、ん、と違和感を飲み込む。この言い方はあれだ、やっぱり、ギルベルトくんの意に沿わないことを知ってのものだ。
「……わかりました。じゃ、鞄、置いて来ます。応接室でいいっすか?」
「ああ、そうだね。10分後くらいに行く」
「わかりました」
すぐにギルベルトくん本人の姿がこのフロアに立ち入った。ずっと入り口を見ていたぼくと、まるで何かを探すようにさっとフロアを見渡したギルベルトくんとで目が合う。その瞬間からさわさわとしたむず痒い心地が湧き立って、思わず頬が緩んでしまった。……の割に、ギルベルトくんはさっと目線を外して、「おう」と小声で挨拶してくれたものの、あとはただ静かに自分のデスクに向かうだけ……ぼくは思わず首を傾げてしまった。……なんか、素っ気ないじゃない。……たった30分くらいでも、離れていた時間をもったいなく感じてしまって、またギルベルトくんと顔を合わせられただけで、こんなに嬉しいのに……それはぼくだけ?
「――イヴァンくん?」
「え、あっ、すみませんっ」
部長に呼ばれていたことを思い出して、慌ててまたデスクのほうへ足を向けた。ギルベルトくんは一度も着席することなく、鞄を置いてパソコンを立ち上げると、そそくさとフロアを出て行った。
その横顔から目が離せなかったぼくは、一抹の不安と一縷の希望を両方握りしめたまま、部長が始めてくれた書類の説明に耳を傾けた。
結局、社長がギルベルトくんに人事の話をしている間、ぼくもずっと部長につきっきりで、仕事の引き継ぎをしてもらっていた。もう最後のほうにさしかかると、半ば書類の整理を手伝わされている感じになっていたけど。
部長職の仕事を簡単にまとめると、内容は、各班長が上げてきた毎日の進捗状況や営業の内容から、どうしたらどんな層に販売できるのかを分析して、足りないスキルの向上の手助けをすること。それから、新市場開拓のための検討や視察にも出るし、会社ぐるみのお付合いにも顔を出す。あとは、班員がもらってきて、班長を通したあとの書類の精査、承認。それからあとの暇な時間は、ひたすらに進捗や予算、売上などなど計算、計算、計算。いろんな書式に合わせていろんな報告書を書かなければならないらしい。ああ、そうだ、ほかにも班長では対応できないクレームや、大口案件への同行なんかも仕事の内とのこと。……思っていた以上にやることがありそうで、これは以外と大変かもしれない。新年度に入る前から、早速いくつか引き継ぎの挨拶に連れて行かれるらしく、個人的なアポイントは入れないでくれと釘を刺されてしまった。
社長との話し合いに行っていたギルベルトくんは、ぼくがまだ部長からあれやこれやと話を聞いている間に戻ってきていた。思った通り、普段通りに過ごすギルベルトくんを見て、早くその身体の中で渦巻く思考を知りたくてむずむずしてしまう。……本人としては、久々の出勤ということもあり、帰社してくる班員たちに見舞いの言葉をかけられて少し嬉しそうではあった。……ギルベルトくんの異動を知っている人はどれくらいいるんだろう。言われてみれば、ギルベルトくんも後継の班長に引き継ぎとかをしなければいけないはずだから、周知される日も近いだろう。
ほとんど午後になってから出勤したぼくにとって、一度過ぎてしまえば終業時間はとても早く訪れたように思う。おそらくそれはギルベルトくんも同じ。ぼくの斜め前のデスクに座って、他の班員と明日の打ち合わせをしているのを横目で見ていた。
ぼくのほうは、なんとか一通り書類の説明は終わり、少しほっとしている。書式は多岐に渡るけど量自体はそんなに多くはなかった。けれど、他にも気になることがあったせいだと思う、少しだけ頭がふわふわしている。いや、これは視界にギルベルトくんが入っているからだろうか。結局出社してからは二言くらいしか交わしておらず、待てを言われている気分がして気持ちがそわそわする。早く退社してしまいたい。そう思っても、ただなんとなく『これからは部長になるし、真っ先に退社するわけには……』という、自分でもよくわからない使命感が働き、みんなが順次退社していく様子を眺めていた。……あ、もちろん、不自然にならないように、報告書を書くふりをしながら。
そうしたら何とも予想外なことが起こる。ぼくの斜め前のデスクに座っているギルベルトくんが、会話が終わったかと思ったら、「んじゃ、俺様帰るわ」と徐に鞄を持ち上げて席を立ってしまった。え、ぼくを置いて帰っちゃうの。驚きのあまり声にならず、ぼくはその少し軽やかにも見える背中を見送ってしまった。……てっきり一緒に帰るとか、そういうのを想像していたからの驚きだ。でも確かに、もう学生じゃないんだから、一緒に帰ろうというのも変な話か。
ゔ、と携帯電話の端末が揺れた。メールを受信したときの通知音だったので、とりあえず画面を覗き込めば新着のメールが一件。予想というよりは期待を込めて開いてやれば、名前を見ただけで嬉しくなってしまうギルベルトくんからだった。……そして文面を見て、うっと声を抑えるような真似をしてしまった。
『今日、うちに来るだろ?』
……ああ、ぼくはなんて単純なんだろう。その文面を見ただけで、身体の真ん中からぽかぽかと熱が広がって体温が上がっていくのがわかる。……かわいい、だいすき。これはきっと、会社で今までと変わらないくらいの素っ気なさだった反動だ。この一文にぼくは有頂天になってしまい、大急ぎで返事を送った。
『いくいく。行きたい』
送信する、まさにその瞬間だけ、違和感のような不安が混ざり込んだ。退勤したあと、人目を盗んで同じ屋根の下に入り浸って……まるであのときと同じ流れだ。支え合うというよりは癒着し合うと言ったほうが適切だったあのころ。あんな風になってしまわないか、それが一瞬だけ心配として過ぎっていた。……ただ、送信ボタンから指を放すころには、もう大人だし大丈夫だ、と気を逸らしていて、何も思わなかったことにしてしまった。
ギルベルトくんの返事もすぐに返ってくる。
『じゃ、なんか適当に飯作っとく。律儀に待つ必要なんてねえんだから、さっさと帰れよ』
ああ、もう、今すぐ帰りたい。今すぐ帰って、ぎゅうって、この両腕に潰れんばかりに抱きしめたい……。逸る気持ちが抑えられず、ぼくは急いで立ち上がっていた。今なら急げば追いつけるけど、きっと今姿を見てしまったら、外とか関係なく抱きしめてしまいそうだ。だから、何よりも自分の冷静さを取り戻すことを意識して、不自然のないように退勤した。
もうすっかり我が物にも思える帰路を辿って、ギルベルトくんのマンションに到着する。一応玄関のチャイムを鳴らしたものの、中から「開いてるぞ」という声が聞こえて、勝手に中に入った。……ああ、なんだろう、この解放されている感じまで嬉しくてどきどきしてしまう。キッチンのほうからトントントンとまな板と包丁を扱う音がして、ぼくはなぜか忍び足になっていた。この身体を埋め尽くすどきどきを勘違いしているかもしれない。彼はいったいどんな姿でキッチンに立っているだろうか。ぼくはどこにも寄り道なんかしてないんだから、帰るや否やすぐにスーツを脱いで、料理を始めてくれたに違いない。病み上がりで疲れているだろうに、そう思っただけで抱きしめたい気持ちがもう限界を迎えそうだ。
あのころとは間取りはもちろんのこと、匂いも視界もぜんぜん違うというのに、あのころと重なる気がする。この高揚する心がそうさせるのだろうか。湧き出てくる愛おしさが妙に身体に沁みていく感覚を抱く。早く、一刻も早く、ギルベルトくんの存在感をまた実感したい、したくてたまらない。
廊下からキッチンに繋がる戸枠に手をかけた。ついに、ぼくの視界にギルベルトくんの後ろ姿が飛び込んでくる。長袖のTシャツに、少し大きめのデニム。さっきまできっちりとしたスーツを着ていたギルベルトくんが、一気にラフな姿に変わっていたものだから、そこでも胸が高鳴ってしまった。……こんなギルベルトくんを見られるのって、きっとぼくだけ。きっとぼくだけ。
ときめきが爆発して、「ただいま」となんの躊躇もなく声をかけてしまった。背中を向けていたギルベルトくんの肩がびく、と跳ねたのが見えて、あ、しまったと反省したけど、構わずに歩み寄った。手元を覗き込むように隣に立ったぼくに、ギルベルトくんは手を止めることなく横顔で口を開いた。
「おう、今日は、お疲れ」
自分が高ぶりすぎていたせいだろうか、ギルベルトくんの態度が会社で感じたような素っ気なさを持っているような気がした。今朝こそようやく思いが通じたのに、浮かれているのはよもやぼくだけ、そんな焦燥が湧く。高揚していた分だけ、居心地の悪い緊張感が胃のあたりにわだかまった。
「あ、うん、ギルベルトくんも、お疲れさま。無理してない?」
「……は? してねえよ。こんなにピンピンしてんだぜ」
トントントン、と軽快な音は続いていく。今はサラダを作っているのか、にんじんが細く切られていく。……その手つきを眺めて、真面目なギルベルトくんのこと、長年自炊で暮らしてきたんだろうとすぐにわかる。もうそれどころじゃなかったけど。ぼくはこんなにも抱きしめたくて仕方がないのに、どうしてギルベルトくんはこんなに素っ気ないんだろう。ぼくがまた、距離感を読み誤ってしまっただろうか。
ここで絶対に間違いを犯したくなくて、ぼくはギルベルトくんの気持ちをなんとか探ろうとした。素っ気なさそうにしている様子をちゃんと眺めて、それからぼくは気づく。ギルベルトくんはこんなぼくにもわかりすいヒントを、ちゃんと出してくれていた。……耳が、真っ赤だった。色素が薄い……というか、これはもはや欠乏に近いんじゃないかと思ってしまうほど、透き通った肌を持つギルベルトくんは、感情が肌の色に出やすい。特に照れたときとか。……耳が真っ赤なギルベルトくんは、Uの字に開いた首元も、ぜんぶしっかりと赤く染め上げていた。
……ああ、ぼくは、これを知っている。今度は緊張感が手のひらを返すように期待感に姿を変えた。
「――ギルベルトくん、」
これ以上は待てない。明らかに身構えた様子も可愛くて仕方がない。
「ぎゅうって、してもいい?」
こぼした途端、心地よく響いていた包丁の音が止まった。動作がしばし停止したかと思うと、ゆっくりと包丁をまな板の上に置く。そのまま顔を上げたギルベルトくんはぼくを見るなり、照れ隠しに口元を尖らせて「……ったく、お前は本当に、」と文句を言おうとした。だけど、それすらすぐに観念して「……あ、いあ、なんでもない」とぼやき、
「――!」
終いにはギルベルトくんのほうから、ぼくの背中に腕を回してくれた。まるで顔を隠すようにぼくの肩にそれを埋めて、ぎゅうっと力がこもるのが可愛い。可愛くて、愛おしくて、泣きたくなるほど幸せだった。……そうか、ぼく、ギルベルトくんとまた一緒にいられるようになったんだ。許してもらえた。嬉しい、嬉しい。こんなに嬉しいことって、ぼくの人生ではきっともうない。上手く加減できたかはわからないけど、ぼくも掻き立てられるままにぎゅうと腕を回した。
この喜びを噛み締めていたら、また勝手に感情が込み上げてくる。苦しいほどの好きが溢れて、はらはらとギルベルトくんの上に落ちていき、それをギルベルトくんも静かに受け取ってくれていた。
*
それから、日々は少しだけ過ぎる。ぼくたちだけじゃなく、この国すべてが新年度を迎えて、新しく吹き込む風にみんなが密かに活気立っていた。ぼくは結局のところ、最後まで断りきれず……というか、ギルベルトくんと上手くいくようになったのに退職する意味はなく、そのまま部長になってしまった。動機が不純だと罵ってくれてもいい。自覚はしている。そしてギルベルトくんも、晴れて『栄誉ある教育担当』に配置換えをされていた。……ちなみにこの『栄誉ある教育担当』とは、社長の弁だ。
ただ、一つだけ結果オーライだと一人で盛り上がってしまったこともある。『部長』も『教育担当』も営業部には一人しかいないわけで、ぼくたちのデスクは比較的近くに並べられることになった。ぼくにもギルベルトくんにも、部署の人たちがアクセスしやすくするためだそうだ。
今日は、その一日めだった。元々ギルベルトくんのことを『班長』と呼ぶ人は少なく、そこはスムーズに移行できていたようだけど、ぼくのほうは、この間まで同じ島を作っていた同僚から『イヴァン……あ、部長、』と呼び直されることが何度もあった。ぼく自身、呼ばれると少しむず痒い心地になるけど、きっとその内慣れる。
そして今日は新年度の一日めということもあり、『幹部会』と言う名の、部長以上が出席する会食に参加させられたぼくだ。どうやら毎年、新年度の一日めに開催されている飲み会らしいのだけど、ぼくは夕食だけいただいて帰ることにしていた。……だって、ぼくには待ってくれている人がいるから。
どうやら社長の計らいらしいのだけど、会食の席にわざわざウォトカまで準備してくれていて、おかげでぼくは、今、とてもいいほろ酔い気分で夜道を歩いている。もちろん向かっているのは、会社から徒歩15分のギルベルトくんのマンションだ。夜ご飯は食べておいてねとは伝えてあるから、きっとギルベルトくんは済ませているころだと思う。
あのころと重ねるのは少し気が引けてしまうんだけど、でも、やっぱりぼくもギルベルトくんも、毎日一緒にいないとだめだった。一日たりとも、ぼくは自分の家に帰る気にはなれず、ギルベルトくんもそれを促すことはなかった。だからぼくは今日も、なんの迷いもなくギルベルトくんの元に帰ろうとしている。
これ以上の軽い足取りはそうそうないでしょう、と楽しくなっていたぼくは、いつもと違う道を歩いていたところで閉店準備をしている花屋さんを見つけた。そういえばこの地ではあまり遅くまで開いている花屋さんを見ないなと思ったら、ふらふらと勝手に足がそのお店に向かっていた。そうだ、ギルベルトくんにお花を買って帰ろう。特に何かお祝いしたかったとかじゃなくて、ただそこに咲いていたお花が可愛くて、ギルベルトくんにも喜んでほしくて、ふわふわした思考のまま『とっておきの』花束をお願いした。
茎を切って、葉を整えて。店員さんの手元を見ながら、ぼくはできあがっていく花束を心待ちにしていた。ラッピングしている紙から、くるくると先を巻くリボンを飾って。……そうだ、ぼくは今朝思ったことがあった。今日でちょうど、ぼくたちが復縁して二週間だ。これは記念日として立派な日じゃないかと、店員さんにも話してしまっていた気がする。ええ、素敵ですね、と花束を渡してくれた笑顔に嬉しさがもっと膨れ上がった。
改めて花束を抱えなおしたぼくは、とてもいい香りに包まれながら再び帰路に乗る。店員さんがどんな花を使って、花言葉はこうで、といろいろ教えてくれていた気がするけど、気分よく酔っ払っているぼくには難しくてあんまりよく覚えていない。黄色や白のお花を基調とした、温かみのある色合いの花束だから、きっと気に入ってくれるに違いない。マンションが見えてきて、逸る気持ちを抑えるのも楽しく思えてしまいそうだ。
エレベータに乗り五階に到着して、まっすぐと脇目も振らずにギルベルトくんの家の玄関に向かう。花束のプレゼントで驚かせたかったぼくは、静かに玄関に入った。ぼくが帰ることを知っていたから鍵は開いていたし、また気づかれぬようにそっとした手つきで施錠した。それから革靴を脱ぎ、酔っ払っているからどうしても重心が落ち着かないけど、なんとか大きな音を立てずに玄関に上がることができた。
また花束を持ち直して、しとしとと廊下を歩いて進む。今日もギルベルトくんの生活音はキッチンから聞こえていて、これはお皿洗いでもしている音だとわかる。……一人で夕飯を摂らせてしまったんだなあと、申し訳なさも抱いたかもしれない。近づくほどに流水音が大きくなり、ぼくは廊下に鞄を置いてから、ついに花束を後ろ手に隠してキッチンに忍び込んだ。
音楽を聴いているのか楽しそうに頭を揺らしながら、エプロンをつけた後ろ姿が踊っている。……可愛い。銀色の短髪がいつにも増してうなじをよく見せてくれているような気がして、吸い寄せられるしかなかった。足音を殺したまま、そっとギルベルトくんに近づく。一向にぼくに気づく気配もなくて、それはそれで楽しそうなのが可愛いから万事オッケーとした。
「ギルベルトくん、」
ぼくはちゅ、とそのうなじに触れるだけのキスをさせてもらう。滑る肌が、やっぱり可愛い。
「うをお! なんだよお前っ、心ッ臓に悪いだろうが!」
泡だらけの手で、慌てて顔だけぼくのほうに向けた。そのお顔はまたすぐに真っ赤になる。怒ってるからじゃなくて、照れているからだ。それがもう、どんなにぼくの心を踊らせるか、ギルベルトくんは知らないんだ。
自分が機嫌よく酔っ払っているものだから、ふにゃふにゃとまとまらない思考のままギルベルトくんを眺めていた。きっと最高にだらしがない顔をしている自覚はあるけど、ぼくのこの心の緩み方を知られるのは悪い気はしない。読み通り耳につけていたイヤホンを片方だけ外して、はあ、と観念したように、またお皿のほうに身体を向けた。今のぼくにお咎めなんか意味を持たないと悟った、賢明な判断だ。
「と、とりあえず、お疲れ?」
また水洗を再開しながら、ギルベルトくんは挨拶をしてくれた。けれど、今はその言葉はなんとなく引っかかる。
「やだ、他人行儀」
ふにゃふにゃついでに、文句を垂れてしまった。
そういえば後から聞いた話だけど、ぼくたちがお付き合いを再開したその日に、ぼくが『ただいま』と言ったことが、少し気恥ずかしかったらしい。ぼくも言われて初めてそう言ってしまったことに気づいたんだけど、確かにいきなり『ただいま』なんて言われたら気まずいかもしれない。そう思い返して、ぼくはそれから『お邪魔します』と言うようにしていたんだった。
けど、たぶん、今言った言葉がぼくの本音だ。それをしっかりと聞いた上で、ギルベルトくんは「うるせえ。そんな、い、いきなり、」と、また照れ隠しに口元を尖らせた。……もう、ずるい、また可愛いから許すって口から出ちゃいそうだ。
後ろからギルベルトくんの手元を覗き込むと、ちょうどお皿洗いは終わったところのようで、仕上げに自分の手を洗っているところだった。それをかけてあったタオルで拭いて、ゆっくりとぼくのほうへ身体を翻す。
別にぼくのほうに翻したわけじゃないかもしれないけど、彼の背中のところにぴったりと貼りついていたから、ふり返ったギルベルトくんの顔はぼくの目の前にあった。イヤホンを両方とも外したあと、何かをまだ言い足りないのか、堪えるようにぼくを見上げている。……これは、キスしたいとか、そういうことだろうか。今日はもうアルコールのせいにして、全部を都合よく解釈してしまいそうだ。
抱きしめたさがぼくの中で暴れ出したところで、ガサ、と後ろ手に隠していたものを思い出した。そうだった、ぼくは彼を驚かせようと思って……
「うふふ、あのね。ちょっといい?」
「んだよ、まだ片づけ中だ」
言葉の割に、ぼくに返ってくる視線が熱くてくらくらしちゃいそう。
「もう、今終わったでしょ? ……はい、」
声と一緒に、ようやく握りしめていた花束を差し出した。
「これね、」
「なっ⁉︎」
わさ、と植物が揺れる音とともに、キッチンに柔らかい香りが広がる。ギルベルトくんは嬉しそうというよりは少し戸惑っている様子で、反応を後押ししてあげるように「お祝い」と笑いかけてみた。
ふい、とギルベルトくんの顔が横を向く。ああ、また照れ隠しの内かなと、都合よく解釈してしまう。
「ぼくたちの復縁二週間記念だよ」
「……二週間って、お前なあ」
その呆れたような声つきも可愛くて好き。
ぼくは花束を二人で抱えていることにも気づかず、そのままギルベルトくんの唇を奪ってやった。ふに、と触れた唇がいつもより冷えているように感じて、ぼくの体温がいつもより高いんだと知った。詰められる距離に圧され、窮屈そうに香る花の匂いが気持ちを高ぶらせていく。
「んっ、」
キスという行為は、こんなに高揚させられるものだったろうか。今日は穏やかさが息を潜めて、代わりに痺れるような興奮がぼくを芯から掻き立てた。重ねることをやめられなくなってしまう、離したくない。体温が移ったのか、口内は暖かくて、吐息は艶やかで……もっと近くで、もっと深くまで。湧き出る欲のままに、花束を挟んでギルベルトくんに身体を寄せてしまった。この花束が作る距離なんて大したものじゃないはずなのに、途端にそれがもどかしくなる。
「……ンっ」
「は、ぁ、イヴァン……、」
呼ばれたことで、刹那的に我に戻る。もしかして身体を押しつけすぎていただろうか。ギルベルトくんの背後には炊事場があって、下には戸棚がある。痛くしてしまっていないかと、ただそれを確認したかった……のに。……ごくり、と、ぼくは自分が固唾を飲み込んだ音をはっきりと聞いた。
ほんの一握りだけ残っていた理性でギルベルトくんの様子を確認したが最後、そのうっとりと溶けるような瞳にいろんなものが崩れ落ちていった。……ああ、そうだ。ぼくはちゃんとわかっていた。この芯から疼くような欲。ぼくは、こんなにもギルベルトくんに触れたかった、もっと奥まで、もっと深くまで。これもアルコールのせいだろうか、今日ほどこの衝動を自覚したことはない。
自然と吐息が熱くなる。この二週間、ぼくは『我慢をさせられた』なんて思っていない。でも今日は、今日だけは、触れ合おうって……言ってしまってもいいだろうか。頭の片隅で、まだ瑞々しかったころの拙い触れ合いが、うっすらと浮かんでは消えていく。そう、あのころはお互いまだ未熟で、青かった。
ぼくの身体を埋め尽くす熱はとどまるどころか、どんどん冷静さを失って、ついにぼくはギルベルトくんの耳元に口を当てた。
「ギルベルトくん、覚えてる……? ぼくたち昔さ、どうやって身体を重ねていいかわからなくて……ひたすらに、触れ合うだけで」
満足していたかと問われれば、それは容易に肯定はできなかっただろう。ギルベルトくんもぼくが言わんとしていることがわかっているようで、静かにあのころを思い返しているようだった。彼の中にも確実に沸騰している熱があることを確信するような、そんな息遣いが聞こえてくる。
「……おう、覚えてる」
ギルベルトくんの手が、花束を抱えている片方を残して、きゅっとぼくの背中に回った。きっとその手のひらもよほど熱くなっているに違いない。もう、二人して理性は働いていなかった。
「今はぼく、君の中にどうやって好きを注げるのか覚えたよ。……君に、もっと深いところまで、触ってみたい……、」
ぼくの背中に回った彼の手が、いっそうシャツを強く握り込んだ感覚があった。
「ん、」
「……ンッ、ギル、くん……っ!」
だからぼくは、それを承諾と受け取った。絡め直した唇で、もっと互いの体温を上げさせる。窮屈そうにぼくたちに抱かれたままの花束は、もうしばらくそこからぼくたちを見守っていた。
*
それ以降も、ぼくたちは毎日毎日、ずっと張りつくようにお互いのそばにいた。ただ、あんなに幸福だと確信した触れ合いのあと、何故かギルベルトくんはそういう雰囲気に強く身構えるようになった。話をするのも気まずそうにして、まるで避けたがっているように感じて、ぼくもなかなか言い出せなくなった。
もしかしてあの夜は、ギルベルトくんの中では消してしまいたい夜になっていないだろうか。本当は酔っ払ったぼくに合わせただけで、彼自身は望んでいなかったんじゃないのか。後者は十二分にあり得る話で、ぼくはいつも思考が歪んでしまう前に、努めてそこで考えを止めてしまう。……こわいのは、時間が経つほどに記憶が変形していき、彼のそのときの気持ちが、いや、たった今の気持ちでさえ、どんどん掴めなくなっていくことだ。確かにぼくに側にいて欲しそうにするのに、ある一定の距離を守っているような……。学生のときも、彼とお付き合いを始めた当初はこんな風に感じていたのは覚えている。あのときはキスに進むことで幾分か安心はできたのだけど、今回はほとんど身体の隅々まで触れ合ってこれだ。どうしたらいいだろうか。
書類に目を通すふりをしながら、横目でギルベルトくんを一瞥した。
会社でのギルベルトくんは、案外楽しそうに過ごしている。だけど、それはあくまで見た目の問題だ。クレーム対応が必要になることはそんなにたくさんあるわけじゃないし、彼の指導の賜物なのか、クレームに発展する案件自体が劇的に減っていた。今はまだ任用されてから一ヶ月程度しか経っていないのに。あとは一週間に一回、あるかないかくらいの頻度だけど、専門企業が開催しているような技術的なセミナーに出かけて行き、帰ったらそこで学んだことを資料としてまとめて、社内セミナーの準備をする。それ以外、新人もいなければ、相談されるような難しい案件もないときは、暇そうに本を読んでいる。一度ふざけて「仕事をしてください」と茶化したときは「は? 勉強だよ」と本の表紙を見せられた。見事なまでに営業術についての本だったので、真面目すぎるよと返してしまった。……正直に言うけど、やっぱりこの采配はぼくでも納得できない。ギルベルトくんの持ち腐れだと思う……絶対外に出したほうが真価を発揮できるのに。
逆に今はぼくのほうが出かけなければならないことが多くて、てんやわんやの毎日だ。元々営業だしそんなに苦ではないんだけど、フロアにギルベルトくんを一人で残して出るのは、毎回底が抜けるような寂しさを味わう。今日だってそうだ。目を通していた書類をファイルに挟み、ぼくは営業鞄を持ち出した。
「――おう、お出かけか?」
静まり返っていたフロアが、ぱあと灯りを点けたように明るくなる。ギルベルトくんのほうを見やれば、読書をするための眼鏡をかけていて、本を読んでいた体勢のまま見上げていた。握られている表紙から察するに今読んでいる本は、カム機構についての技術書らしい。
「うん、新規開拓〜。……の、アポイントが取れたからね」
「ほう」
他にもファイリングする書類を選んで、不器用なりに丁寧に入れ込んでいく。時計を見れば出発しようと思っていた時間を、ほんの少しだけ過ぎてしまっていた。
「君が先週行った技術セミナーあるでしょ?」
「ああ、ジャパンキコーの? そういえば予定表にあったの、今日になったのか」
「そうそう。ちょうど幹部がこっち来てるからさ、ダメ元で電話してたんだけど、今日ならって。時間もらえちゃった」
今話しているジャパンキコーとは、日本に本拠を置く機械部品の大手企業だ。欧州でも名前を知らない企業はないくらいの、最大級大手、その幹部にアポが取れたことは、おそらく運が味方してくれたとしか言えないほどの状況だ。
パソコンの電源を落としながらの片手間ではあったけど、そのまま会話は流れていくと思っていたから、
「……そう、か」
ギルベルトくんがそこで作った変な間に、思わず注目してしまった。
「ん? どうかした?」
「あ、いや……アポイントの相手って、営業?」
「ううん、技術関係の幹部の人だよ」
「……そ。じゃあ、気にすんな」
さらに首を傾げて真意を促した。何か不都合でもあるんだろうか。これから行く客先ということもあり、これだけでは興味を拭えなかった。
フロアの出口に向かって進むと、途中でギルベルトくんのデスクを横切れる位置にいたので、ほんの少しだけ立ち寄る。
「お前もう出るんだろ? 後で話しゃいいことだから」
「そう? じゃ、帰ったらね」
ぼくとギルベルトくんはほぼ同時に手を差し出して、互いにそれを握り合って行ってきますの代わりにする。ぼくは自分の感情を隠さないから綻んだままにギルベルトくんに目配せをして、でも意地っ張りな彼は「おう、」とまた素っ気なく返すだけ。素直に微笑まれるより彼らしいから、こっちのほうが好きだと思ってしまうのは、ぼくがもうギルベルトくんの虜である証拠だなあ、なんて。そんなことを呑気に実感してから、ようやく手を放す。
ぼくはフロアを出る前、もう一度彼に手を振って会社を出て行った。
そんなことがあった日の夕方。社内でも定時を迎えていて、既にかなりの数のデスクが空になった後だった。あとはこれからアポイントだという営業員が数名だけ残っている。その内の一人がギルベルトくんから営業のアドバイスを受けている横で、ぼくは今日の報告書の取りまとめをしていた。……後はサーバに保存するだけだけど。営業部の長はぼくなので、ぼくが報告書を確認したら最後、その報告書は有事の際のみ他の人の目に触れる。ぼくは案外適当なので、内容の帳尻さえ合っていれば認めを書いて、はい、お終い。
ちょうどギルベルトくんも指導が終わったらしく、フロアに向けて「他はいいか〜? 俺様退勤しちまうぜ〜」と声をかけていた。特に反応がなければそのままパソコンの電源を落とす動作に入るので、ぼくもそれに合わせていそいそとデスク周りの片づけを始める。ただの同僚さながら、「じゃ、お疲れ」と一緒くたに挨拶をされて、ギルベルトくんはフロアを後にした。ぼくも大急ぎで帰り支度を進め、「じゃ、あんまり遅くなったらだめだよ」と残業組に声をかけて靴箱に向かう。
ちょうど会社を出たところだった。ギルベルトくんに追いつかなきゃと思っていたから、会社の玄関から小走りで彼のマンションを目指していたんだけど、
「おーい、」
どういうわけか背後から彼の呼ぶ声が聞こえた。
「あれ、ギルベルトくん?」
「お前気づけよ。玄関出たところで待ってたんだよ」
「あら、いつも先に帰ってるから気づかなかったよ、ごめんね」
彼を見ただけでこんなにだらしのない顔になっちゃうのは問題だ。だけど、彼が駆け寄っているのはぼくの元なんだと思うと、変にくすぐられた心地になって、つい口元がゆるんでしまう。さすがにもう会社の前くらいは自制できるようになっていたと思ったんだけどな。彼がぼくに追いついたところで、
「今日も君ん家に行っていい?」
並んで歩き始めた。
「そうそう、それなんだがな」
「うん?」
珍しく二つ返事がなかった。
「今日、昼間に言おうと思ってたことだよ。悪いが、俺様今日はちょっと出かけるから」
付き合い始めて一月半、今までこんなことはなかったから、驚きのあまり立ち止まってしまった。
「え、ギルベルトくん、どこかに行くの?」
「おう。先週セミナー行ったときにさ、ジャパンキコーの営業から飲みに行こうぜって誘われたんだ」
「……え。そ、そうなんだ」
それで今日、ぼくが営業に行くことに驚いていたんだ。ぼくが会ったのは伝えた通り、本社の技術関係の部長さんだったから、たぶんセミナーには顔を出していないはずで……つまり、ギルベルトくんが会うのは、ぼくと会った人とは違う人だ。
「まだ行くか決めてなかったからお前にも言ってなかった。急で悪ぃな」
気遣うように笑ってくれたけど、街灯の明かりだけではよく見えない。
どうしてだろう、この微妙な心地悪さは不安……だろうか……? 焦りだろうか、はたまた嫉妬……? ぼくは今この場で必死に笑顔を作ろうとしていたけど、この場に相応しいのが笑顔なのかまでは考える余裕がなかった。
「そうだったんだね」
「まあ、安心しろ。なんか俺様が教育担当してるっつったら、仕事のことで相談したいことがあるからって言ってたぜ」
仕事のことで相談……同じ営業として、だろうか。腑に落ちない点がいくつもあったけど、営業同士、飲みなんてよくある話だと、自分を丸め込んだ。
……丸め込んだけど、でも、少なくともこの一ヶ月半は、そんなことは一度もなくて。いや、サンプルが一ヶ月半だけなのはどう考えても少なすぎる。ましてや、ぼくはギルベルトくんの営業スタイルをあまりよくは知らないから……どっと、冷や汗が浮かんだ。こんなに執着しちゃうのは、きっとおかしいことなんだ。わかってる。……わかっている、けど、どうしても、強張った身体が苦しい。
「……ぼくも行くって言ったら、怒る?」
思い切って、ギルベルトくんの様子を窺った。付き合っていない状態でさえ、12年もの間、ギルベルトくんは誰とも関係をもたなかったんだ。こんなに心配をするのは今さらだってことも、ちゃんと理解している。
ぼくだから長く感じたのかもしれない。少しの沈黙を経て、ギルベルトくんはケセセ、と笑い声を上げた。
「まったく、心配症なやつだな」
屈託なく笑って、ぼくの髪の毛をくしゃくしゃと一通り撫で回した。
「お前も上層部にアプローチしたんだろ。俺様を誘ったのも、今本社から幹部と一緒に来てるやり手の営業、つまり社内でも発言力があるやつだ。これで俺様も後押しすれば、新規受注の話に繋がるかも知んねえぜ。話持って帰ればまた前線に出してもらえるってこともあるかもだしな」
胸を張るように堂々と宣言して、楽しそうに笑うから、それ以上は何も言えなくなる。……〝営業として〟ギルベルトくんはこの飲みに行くつもりなんだ。今の彼にとっては願ってもないチャンス……これ以上みっともなくしがみついていられない。――ぼくは、意識をして拳から力を抜いた。
「……はは。大丈夫そうだね」
「ったりめえだぜ。まったく、お前もヤキモチ丸出しだな」
痛いところを突かれる。けど、言葉に出して言及するということは、それだけ気にしていないということ。ぼくが抱いていたのが嫉妬なのだと理解した上で、ちゃんとぼくに話してくれたことは嬉しい。だから、寂しいけどその気持ちを押し込んで、えへへ、と笑って見せた。
「んじゃ、俺様はこのまま駅に向かうから。お前はチャリ使っていいぜ、あ、家の鍵も渡しとく」
なんでもないことのように手のひらの上に自宅の鍵を落とし込まれ、ぼくはしばし瞬きをくり返してしまった。ぼくって、本当に単純……これだけのことに舞い上がって、さっきまでの不安が一気に吹き飛んでいった。飛び上がりたいくらい嬉しかったけど、ここはまだ外だと言うことも弁えて、なるべく平常心を装った。
「うん、いってらっしゃい。……ねえ、帰るとき教えて、駅まで迎えに行きたい」
そろ、とギルベルトくんの手を握る。周りにはわからないように、隠すようにそっと。
「……ケセセ、はいはい。じゃあ、行ってくるぜ」
ぎゅう、と強く握り返してくれたギルベルトくんはぼくの手を放して、そのままそれで手のひらを見せた。彼が歩行者用の少し暗めの道に消えて行くまで、見守らずにはいられなかった。すごく名残惜しいけど、我慢、我慢。
さて、ぼくはこれから見慣れたギルベルトくんの相棒を探して、一足先に彼の帰りを待っていようと思う。飲みに行くと言うことは、ご飯を食べてくるということで……。そうだ、ギルベルトくんが帰ってからやるつもりの家事を、ぼくが済ませていたら喜んでくれるだろうか。想像しただけで、唐突にやる気が湧き上がってくる。早く彼がびっくりする顔が見たい。
踵を返して、駐輪場に向かった。もうほとんど日が沈みきった夕暮れの道を、ぼくは初めて颯爽と走り抜けた。中々に爽快だ。ぼくも自転車買おうかなと思ったくらいだ。
それからぼくは、一人で昨日の残り物のご飯を温めて食べて、溜まっていたお皿洗いや、干しっぱなしになっていた洗濯物を畳んで待っていた。……結局それらが終わってもギルベルトくんからの連絡はなく、手持ち無沙汰になることに比例して、だんだんそわそわと落ち着きがなくなってくる。
12年もの間、ギルベルトくんなしで生きてきたというのに、今となってはその間にどんな生活をしていたのかわからない。ソファにだらしなく横になって、何度も何度も、携帯端末の画面を確認しては落胆をくり返した。
ギルベルトくんの話は上手くいっているだろうか。彼が一番望む形に進めているから時間がかかっているのか。それとも、相手もやり手だと言っていたから、手こずっているのかな……。いや、単純に意気投合したのかもしれない。元々日本とドイツの技術屋の気性が似ているのは、見ているだけでもよくわかっていた。
はあ、と深すぎる嘆息を漏らしてしまった。先程から何十回とくり返している手つきで携帯端末の画面を点灯させ……、ん! と思わず声を上げてその場で起き上がる。
深すぎるため息のせいで気づいていなかったのか、新着メールを受信していた。そんなに慌てなくても、と自分で笑ってしまいそうなほどに慌てて、そのメールを確認した。
『駅着いたぜー』
ああ、もう。素っ気ないその文面を見て、間違いなくギルベルトくんだ、と過ぎた喜びを誤魔化そうとした。メールを返しながら大急ぎで家を飛び出して、自転車には構わずに徒歩で駅に向かう。もしギルベルトくんが酔っ払っていたら、身体を支えてあげるのに自転車は邪魔になる。それだけの理由だ。ほとんど駆け足と言っても過言ではないくらいの大股で、ぼくは踊るようにギルベルトくんの待っているであろう駅に向かう。
周りのお店はすっかり電気を落としてしまった道のりで、駅から伸びる明かりが見えないかと今か今かと歩を進めた。ようやく建物の間に一層強い光を捉える。そしてその中に、紛れもなくギルベルトくんの姿を見つけて、ぼくの心は本当に踊っていた。どくどくと脈は早くなり、抱きしめたい衝動でいっぱい。……もう付き合い始めて一ヶ月半、しかも、離れていたのなんて、たったの数時間なのに、これはあんまりじゃないか。他でもない自分自身に対しての小言が浮かんで、でもそれすら有頂天の今のぼくにはあんまり意味はない。
「ギルベルトくん!」
行く手を阻んでいた最後の横断歩道を渡りきって、もう届く距離だと声を上げた。元からぼくの姿に気づいていたギルベルトくんも、いつもより柔らかい表情でぼくのほうに歩き出す。ああ、眼鏡をしていないから、本当にこの人影がぼくなのか、確信が持てていなかったようだ。
「おう、お疲れ。遅くなって悪ぃな」
合流するとすぐに、思っていたよりもはっきりとした呂律で発した。
「――あれ、あんまり酔ってない?」
「ああ、おう。飲むのより話すのに夢中になっちまって。ケセセ」
そうか、やっぱり意気投合のほうかと、少しだけ引っかかりを覚えたけど、今は彼が楽しそうだから気づかなかったことにする。
いつもの歩調なら十分くらいで家に着くところを、二人してのろのろと歩いていく。ぼくはずっと、本当にずーっと、気になっていたことを、
「……で、お話はどうだった?」
ようやくここで尋ねることができた。
そこでしばし言葉の気配が止まる。てっきりこれまでと同じ勢いで声が返ってくると思っていたから、うーん、と熟考するように唸ったことは意外だった。
「……ギルベルトくん?」
話に夢中になっていたらしいのに、上手くいかなかったんだろうか。正解を少し待てば、意を決したようにぼくを見て、
「そいつの会社に来ないかっつう話……だった」
ためらいがちに教えてくれた。歩みさえ止まらなかったものの、もちろん不意をつかれたぼくだ。
「ひ、引き抜きってこと?」
「まあ、そんなところだな」
「お給料は?」
素直に一番気になったところを尋ねてしまった。引き抜きはだいたい待遇がよくなるから、半分は純粋な好奇心だ。けど、それを尋ねた途端、は、とギルベルトくんが思い切り息を吸ったのが聞こえた。
「それがな。あいつ俺様の給料知ってやがったんだぜ。そんで、今の倍は出すからって」
腕を組み、訝しげにどうやって調べたんだ、とごちった。ぼくはそれどころではなかったんだけど。
ギルベルトくんの営業する姿は数回しか見られなかったけど、こんな大手に目をつけられるなんて、さすがだ。しかも、もしかしなくとも今の会社よりも彼の才能をよくわかっているからこその、今回の誘いなんじゃないだろうか。そう考えたら自分のことのように嬉しくなって、声を上げそうなのを抑えるように口元を手で覆った。
「……すごいよ。さすがギルベルトくんだよ。分かる人にはわかるんだねえ」
「……ケセセ。そいつも、宝の持ち腐れだって言っててさ。俺様みたいなのを日本じゃ『窓際族』って言うらしいぜ。うちに来たら営業の最前線ですよって。なんか、新しいマーケットの責任者をしてほしいんだと」
妙に落ち着いた声を出すから、気になってギルベルトくんの顔を正面から覗き込んだ。
「よかったじゃない。君、出たがってたでしょう」
すっかり街灯の他には明かりがなくなった住宅街に入っていたから、ちゃんと表情が読み取れたかはわからない。ギルベルトくんから返事はなくて、一生懸命に彼の気持ちをわかろうとした。……もしかして、今の会社から離れるのが寂しいのだろうか。
そうか、今まで培ってきたキャリアはいいとして、築いてきた人間関係や信頼は反故にしてしまうかもしれないのか。……ぼくの隣のデスクがギルベルトくんじゃないのは、確かに少し寂しい。ようやくそこまで気持ちが落ち着いて、
「でも、君がいなくなるのは寂しいな」
口ではそう言いながらも、ぼくも転職しようかな……と深く考えずに逃避をしていた。一旦はそれで、自分の感情には蓋をしたことにする。今はぼくのことより、ギルベルトくんのことだ。
「そうだな。……んで、おまけに、」
「……うん」
「転職するなら、勤務先は日本だってよ」
「え……」
頭の中で突風が起こったようだった。思考でごった返していたところが、唐突に真っさらの状態になる。……いやだ、ぼくは毎日ギルベルトくんに会えないなんて、耐えられない。
「ケセセ」
張りの弱い笑い声。気づいて、ギルベルトくんの表情に改めて注目した。……さっきから薄々と感じていた違和感のようなものは……そうか。……ようやくギルベルトくんの心中が見えてきた。
「……嬉しくないの?」
「うーん……」
曖昧に呟いたのを見て、ぼくの見えたものが確信めく。認められたみたいで嬉しい反面、後ろ髪を引かれる想いもあって、どうしていいのかわからないんだ。
「……俺様はなあ、あの会社が気に入ってんだ。……それに……」
「……うん?」
ちら、とまっすぐにぼくを伺うように一瞥した。
「……いや、なんでもない、」
なんだろう。ぼくには言いづらいことなのだろうか。ざわ、と気持ち悪い胸騒ぎがした。でもやっぱりここは、ぼくの気持ちよりギルベルトくんのことだ。慌てて繕って、
「とりあえず詳しく話を聞いてみたら?」
得意な笑みを浮かべていた。そう、今はギルベルトくんがより幸せになれることを願いたい。
「……イヴァン、」
意味を含めたような声色だった。ぼくに何か伝えたいことがあるときの、声づかい。
「うん?」
「……ううん、んでもねえよ」
なのに、ふい、とどこかに視線をやってしまった。……これは、ぼくは知っている。ギルベルトくんがぼくに触れてほしいときの仕草だ。わかりにくいのにわかりやすいから、いろいろとぼくの中に渦巻いていた感情を、可愛いというその一言が飲み込んだ。……何はともあれ、帰ったらいっぱい甘やかしてあげようと、ぼくは暗闇に乗じて彼と手を繋いだ。
*
「――あの、社長、」
その次の日だった。
ギルベルトくんは次のセミナーに向けて、資料の買い出しのために本屋に行っていた。……というのは口実で、やっぱり少し上の空だったから、気分転換に出るようにぼくが促した。どの道、デスクに居ても本に穴を開ける虫になるだけだ。
彼が社用車で乗り出したのをしっかりと確認して、ぼくは経営層の構える事務所に向かった。そこで社長室に目当ての人がいることをしっかりと確認して、ノックを鳴らした。
「誰かい?」
おそらくデスクに着いたままの、少し距離のある声が返ってくる。ぼくは「営業部ブラギンスキですが、」と前置きをつけて扉を開けた。
「ああ、イヴァンくん。どうだい、部長の椅子は馴染んできたかな」
軽快な笑顔で立ち上がって、歓迎するような仕草でぼくのほうへ歩み寄って来てくれた。促されるままに入室して、扉を閉じる。
「あの、ギルベルトくんの件なんですけど」
「……ああ、なんだい?」
表情は崩していないのに、どことなく空気が変わったような気がする。立派なソファがあるのに座ることを促されることもなく、立ち話のまま社長は続けた。
「ギルベルトがどうかしたかな?」
上手に声や表情では隠すのに、不安にさせるこの空気感は意図してのもののような気がする。こんなに感情を露わにする人だったかなと最近思うようになっていたんだけど、もしかしてぼくは、ようやくこの人の本当の人となりが見えるようになったのだろうか。
それでも、本来ここへ来た目的を全うするために、しゃんと床を踏みしめた。
「いえ、ご存知のように彼、ずっと営業員に戻りたがってて……」
倍のお給料を提示されても、転職をためらうほどギルベルトくんはこの会社が好きなんだ。ぼくが直談判でも何でもして、社長にそれを理解してもらいたい。
「……うん? なんだ、相談でも受けたのか?」
「ぶ、部下の話を聞くのは……上司として当たり前で……」
ぼくがここで出しゃばるのは不自然だったか、と思い至ったのはたった今。何とか苦しい言い訳をしたところで、
「ほほう、まあそうだけどね。ギルベルトに限っては、君も少し違うんじゃないの?」
……何だろう、とても嫌な言い方をされた。まるでぼくがギルベルトくんのことを好きだから、どうにかしようとしていると言われているみたいだ。……と、思ったけど、少し考えたら、図星すぎてばつが悪く感じているだけかもしれない。まったく一つの外れもないんだもの。
けれど、社長のぼくに対する心象は今は二の次だ。話題を逸らされる前にと、ぼくは会話の主導権を握ろうとした。
「あの、それで。ギルベルトくんの異動を考えてあげてくれませんか」
改めて提言した。もちろん、社長の座に就くほどの人だ、ぼくの言っている意味も当然わかっているはずだ。
「……イヴァンくん」
「はい」
社長の眼差しは、大真面目なものになっていた。いつも社員の前では底抜けに明るくふるまっているけれど、さすがにこういう顔もできなければ社長は務まらないだろう。それは常々思ってはいた。ぼくはその眼差しをしっかりと見返してやる。ぼくも本気だ。
「私は、ギルベルトは営業よりも教育に向いていると思っているよ」
「でもっ、今の彼が毎日どんな風に勤務してるか、知らないはずがないでしょう⁉︎」
あんまりにも変わりばえのないことを言うものだから、ついぼくも力が入ってしまった。我に戻ったところで、何とか余分な力を抜いてしまう。
「教育とは名ばかりで、飼い殺しみたいになってるじゃないですか。ギルベルトくんは、外に出ればもっとできるのに、彼のやる気を殺してる」
どうにか伝わってほしいと言葉を選んだ。本当に、ギルベルトくんをあの席に座らせておくことは、賢明とは言えない。せめて、時間が空いたときくらいは、自由に営業させてもいいんじゃ、
「……まあ、捉え方の問題だね」
次の言葉を準備していたら、社長の言葉が割って入った。
捉え方の問題……とても不可解な言葉だ。つまり、社長はこういう側面をわかっていて、あえて彼を机に繋いでいると。……いや、それは考えすぎだろうか、いくらなんでも会社にとってのデメリットが大きい。それを凌駕してしまえるほど、ギルベルトくんの教育能力を信頼している……?
「確かに彼は、指導することにかけても、とても才能があるとは思います。けど、」
「あのね、イヴァンくん、私はね」
わ、と脳裏に驚嘆が過った。社長の顔つきが、まるでわざと不愉快だと語っているように思えたからだ。
「ギルベルトはとても優秀な人材だと思っているけど」
「……はい」
「だけど、君かギルベルトかどっちかを選べって言われたら、私は君を選ぶよ」
はっきりとそこまで言い切って、ぼくの出方を窺うようにまじまじと見ていた。
……話の流れが掴めない。何で今、こんなことを言うんだろうか。頭をフルに回して、社長の言わんとしていることについて、隅々にまで思考を巡らせる。……ぼくがあんまりにもギルベルトくんのことを言ったら、彼を辞めさせるってことを言いたいのだろうか。……この流れだと、そうとしか聞こえない。けど、ギルベルトくんはもう、この会社にはなくてはならない人のはずで。
「意味、わかってくれたよね?」
釘を刺す物言いに、そうかとぼくの中で明瞭になったことがある。そうだ、これは間違いない。
「私情を仕事に持ち込むのはよくないよ」
やっと点と点が繋がった。……この人、ギルベルトくんのことが好きじゃないんだ。しかも、実は腹の中でずっと疎んでいたに違いない。だから、彼の希望なんて聞く気がないと。……私怨かどうかなんて関係ない。今は、その事実に打ちのめされた気分だった。
「じゃ、業務に戻ってね。部下のことを大切にするのはいいことだけど、くれぐれも私情は抜きにして」
反論をする暇さえ与えられず、社長室から追い出されて、ぼくは立ち尽くしてしまった。……だって、ギルベルトくんはあんなにこの会社に愛着を持っているのに。今の社長のことだって、嫌いじゃないって言っていたのに……。
なんだろう。ここまで来たら、ぼくは全力でギルベルトくんの転職を応援したくなってしまった。……ぼくに私情を持ち込むなと言っているわりに、自分は私怨をだらだらと垂れ流してるなんて、納得もいかない。このままじゃ本当に、ギルベルトくんは将来を食いつぶされて終わってしまう。
ぼくは、しっかりと顔を上げた。見据える先の目標を捉えて、気を引き締める。ぼくはギルベルトくんに幸せになってもらいたい。そのためなら、何でもできる。
第七話「オモイ・フィーラー」 へつづく
(次ページにあとがき)
あとがき
ご読了ありがとうございます!
またなんかちょっと不穏な感じですね……?
いかがでしたでしょうか、第6話。
今のところ全8話の予定なので、あともうちょいです。
イヴァンちゃん視点のお話だと、どうしてもギルくんを「可愛い」と描写しがちなので、ギルくんにごめんね……と。
大丈夫、最高にかっこいいよ( ´ ▽ ` )
ただ、イヴァンちゃんの言語野では、その状態を可愛いって言うんだ……あれ、これ既視感……?笑
このお話の結末は、おそらくみなさんがピンと来たような結末になるとは思うのですが、まだ一悶着か二悶着かくらいある予定なので、もう少しお付き合いくださいませ〜。
次話はろぷの日以降のアップになる可能性が高いので、少々空くかもしれませんが、よろしくお願いします(*'▽'*)
はてさて、次話はそれぞれが決断を迫られますよ……!
お楽しみにしていただけると幸いです〜!
それでは、改めましてご読了ありがとうございました!