ぶつかる草原
一
下坂部平太は、お茶を出した。
「悪りぃな、気ぃ遣わせて」
自宅と併設している工房の、来客用の椅子に座っている、かつての先輩をもてなすための茶である。
「いえ、富松先輩もいつも遥々ありがとうございます……」
「いいってことよ」
富松は愛想良く笑ったが、平太の十歳・十一歳という幼い毎日に植えついた性格は拭われることなく、そのままで育った平太はボソボソと返した。――もう平太が忍術学園を卒業して、間もなくで三年になるところだ。
平太は町外れに家を建て、そこで忍具専門の工房を構えていた。既に普及している忍具から、客の要望に応えたオーダーメイドの忍具や武器まで。設計から手がけることもままあった。
「でさ、この間納品した城なんだけど」
「はい……」
「忍びの知識はあるけど忍びとして活動してねぇ人を探してるらしくってさ。おれも詳しい内容は聞いてねぇんだけど、とりあえずお前のことを推しといたぜ。経営苦しいんだろ? 一回お抱えやってみたらどうだ?」
せっかくの先輩の申し出に、とりあえず感謝の気持ちを述べて、詳細を聞いておくということになった。お抱えの忍び、というよりはお抱えの用具師など頭のどこにもなかった平太は、『ありがた迷惑……』と思ってしまったが、それは言わずにおいた。
ある日。よく晴れた日。
「久しぶり〜怪士丸」
学園のころとは何も変わらず、飄々とした空気感のまま成長した伏木蔵が、怪士丸の経営している書店に現れた。
その書店は忍びに関する文献や、忍びが好みそうな情報を記した古今東西の書籍など、幅広く取り扱っている。時折手に入れてほしい文献などを忍務として引き受け、それを自らが探し出して回収するということも、怪士丸は行っていた。忍術学園の関係者は元より、各方面の忍びの御用達となっている。
「伏木蔵……元気そうだね」
「まぁね」
何がそんなに楽しいのか、いつもの軽い足取りでその店の中を徘徊する。だが表情を見てやれば、足取りとは似ても似つかぬ蒼白さで、慣れていない者は驚くだろう。無論、慣れっこである怪士丸は、また寝不足が続いているのだろう、くらいに止め、
「今日はどんな本をお探しで?」
と、愛想のいい店員を演じた。伏木蔵も、愛想のいい常連客の顔を作る。
「珍獣の本をね」
改めて本棚に視線を這わせ、
「次の依頼先の城にさ、珍獣使いの手練れがいるらしくって」
途端に親しくなったその顔も含め、言い終えるまでの間、怪士丸は伏木蔵の行動を観察した。口は止まったが、視線は忙しなく動いている。
「……タソガレドキの依頼?」
短く問う。好奇心からである。
伏木蔵は本棚から視線を外すことなく進め、
「内容を聞くのは野暮だよ怪士丸」
と興味も無げに指摘した。
しかしその言葉は怪士丸には違って聞こえたようで、「ふふ」と小さく漏らした。
「そう言っていつも教えてくれるじゃない」
「そう? そんな覚えないけどなぁ。スリルー」
「……そういうことにしとこうか」
最後にそう怪士丸がまとめた。
引き続き伏木蔵は本の背表紙に意識を滑らせる。何と熱心なことだろうか。一心不乱にしばらく続ける。
その内に我慢ならなくなったのは怪士丸で、
「……珍獣に関してなら、ここの本より孫次郎の方が遥かに博識だよ」
と横槍を入れてしまった。
客が何かを探しているときは極力関わらないように気を遣うのだが、旧知の仲の伏木蔵であるにも増し、事実、この店には胸を張れるほどの珍獣に関する本は置いていなかった。それは店主である怪士丸が一番よく知っていた。
助言を受けた伏木蔵は、きりがよいところで視線を怪士丸に移した。真顔で話すことでもないので、少しだけ頬を緩め、
「わかってるんだけどね、しばらく返事がないんだ」
怪士丸に教えた。
「あ、そうか。そうだったね。孫次郎から返事をもらえる人の方が少ないね。……なら、直接行ってみれば?」
「無駄足は嫌だ」
何の重みもなく、軽々しく吐き捨てた。
観念したように小さく息を吐き、
「どんな珍獣かわかってるの?」
視点を変える。もしかすると、この店にある数少ない珍獣の本の中に、目当ての情報があるかもしれない。
その場から動くことはないが、しっかりと怪士丸と目を合わせ、
「うん。えとね、蜘蛛の仲間で大きさは人の顔くらいあるって、なんだったかな。足りないがなんとかってやつ。あと、蛇の仲間で、馬くらいの大きさがあるって、黒子田さんがなんとかってやつ」
大真面目に答えた。
しかしそれでは余りにも大雑把すぎる。その情報にピンと来ないので、おそらくこの店にもその情報はないのかと思われるが、そうわかった途端に全く違うことが気になった。
「相変わらずおおらかだね」
「無頓着って言いたいんでしょ。……いい? 珍獣の類は大体伝来するときに表現が誇大していくものだよ。きっと大したものじゃない」
そう伏木蔵が言い切ったのはいいが、
「うーん、まぁ、とりあえず、やっぱり孫次郎に聞いた方が早そうだよ」
改めて助言をした。
中々会いづらい孫次郎について何か情報を持っていなかったかと、頭の中を満遍なく巡った。――一つ、思い当たる節が浮上する。
「あ、そういえば、つい先週くらいかな? 平太も孫次郎の居場所を聞きに来たよ」
「平太が? 動物の防具についての依頼でも来たのかな」
全く分野の違う二人の接点を考えると、そうとしか結論が出なかった。安直にぼやく。それに対して怪士丸は「さあねえ」と相槌を打った。
それからうっすらと浮かんだのは、平太がどこどこの城に就職することになったという世間話だった。
諦め悪く、今度は巻物を漁り始めた伏木蔵を眺め、
「伏木蔵はタソガレドキに就職しないの? いつもタソガレドキの下請けみたいなことやってるのに」
またもや好奇心に任せてそう問うていた。
先ほどと同様、視線は本棚のままに、伏木蔵は大して興味も唆られない話題に乗った。
「やだなぁ怪士丸。今時そんなこと、雑渡さんでも聞かないよ」
「どうして?」
「だってそれはさ、」
棚に手が伸びる。勘定台に肘をついて店内を一望している怪士丸は、飽きもせずにその様子を眺めていた。
「雑渡さんに資金援助してもらうための点数稼ぎだってこと、皆知ってるんだよ。お金ないとやりたいこともできないからね〜」
本当に何でもないことのように伏木蔵は、軽くそう流した。その間にも持っていた巻物をまた諦めたように戻し、
「そうか、大変だね」
相槌の間にも怪士丸の前に移動した。帰るねと言ったわけでもないのに、怪士丸はそれを簡単に察し、
「じゃ、体には気をつけて。またよろしく」
「はーい」
伏木蔵はその通りに、何の惜しげもなく店の出口に向かった。
退店の直前、まだその背中が見えている内に「孫次郎にも、よろしく」と投げかけると、背中のまま手が上がり「必ず」との返答をもらった。
しばらく人の出入りがなくなることを予想し、店内を片付けしようと棚の前へ出る。
春もまだだというのに、店先の地面に反射して照らし込む太陽の光が、とても強く眩しく思え、それだけで何やら目眩でも起こしそうである。この中を伏木蔵は今歩いているのかと思うと、呑気にもここが自営の店でよかったと思ってしまう。薄暗い店内を、奥の掃除用具入れを目指して歩いていく。
「あ、」
「ん?」
焦ったように伏木蔵が戻ってきた。
「怪士丸に依頼」
簡潔にその理由を述べる。
もう既に箒に手を伸ばしていた体勢から、伏木蔵の方へ向き直した。手にはしっかりと箒を掴んでいる。
「なあに」
「ここからそう遠くない南の村に、五月村って村があるんだけど」
「うん。干し肉で有名な」
「そうそう。そこの乙名の娘の日記を拝借してほしい」
その依頼を自身の中で噛み砕く。つまり伏木蔵が欲しているのは、どこかの少女の日記ということか。
「そう。いいよ。たくさんあった場合は?」
「なるべく新しいやつ。読む時間もそんなにないから、量は気にしない。習慣がわかるものなら一冊でも。無理はしなくていいけど」
「わかった。期限は」
「そうだねえ、孫次郎のところにも行くし、一週間かな」
その『一週間』という期間を具体的に頭の中で思い描き、特に言い添えることはないかと思考が巡った。何も思い至らなかったので、そう伏木蔵に目で伝えると、
「引き渡し方法はまた相談してもいい?」
と伏木蔵が続けた。割りとよく依頼をする伏木蔵は、既に依頼時に確認される流れを覚えているので、先に伝えたのである。
「伏木蔵だけ特別にね」
怪士丸は笑う。
「ありがとう。また近いうちに何らかの形で連絡を寄越すよ」
「毎度あり。忍務頑張って」
「はいはあい」
とんとんとんとんと、軽快に進んでいった会話は、その軽いままの乗りで終結した。長年の信頼関係の成せる技だが、怪士丸は伏木蔵が改めて退店したのを見届け、今度こそ店内の箒がけを遂行した。
それから数日離れた時と場所である。
とある国と国の境目の、木々の深い森の中。
大木の群れを慕うように生い茂る草むらを踏み分け、薬草毒草の研究をしている伏木蔵ですらあまりお目にかかれない珍しい草をも掻き分け、ようやく目当ての小屋に到着した。小川のほとりに建てられたその小屋の周辺には、獣の匂いが漂っている。
「……来客が多いな」
その小川で何かを捕っていた孫次郎が、気配を察知して振り返った。
「久しぶり〜もしかして平太来てた?」
「うん」
小川に足を浸けたまま、その場から動かない孫次郎に伏木蔵は近づいていき、
「怪士丸から聞いた」
と笑いかけた。
孫次郎もそれに反応してかうっすらと笑顔を作り、
「人手がいるから手を貸せってさ。良かったねえ、明日ならもう街に出てたよ」
まるで突然の訪問に対する嫌味かのように語った。
だが伏木蔵はそれを気に留める様子もなく、自身の訪問と共に孫次郎の周りに集まってきた動物たちを見渡した。
「この子たちはどうするの?」
孫次郎の留守中の話である。
「伏木蔵が面倒を見ててくれるの?」
また試すように伏木蔵に視線を宛てたが、またしてもそれを軽く流した。
「あいにくぼくも忍務が控えててね」
「……冗談だよ。竹谷先輩が来てくれるって」
「そりゃよかった」
屈み込み、孫次郎は足元に寄っていた数匹の頭や顎を撫でてやった。
「で、何の用?」
「あぁ、次の依頼先に珍獣使いがいるってことで、孫次郎に相談」
「どんな?」
動物から目を放す。
「一つは蜘蛛の仲間で足りないがなんとかってやつ」
「蜘蛛で……足りない?」
「うん、そう」
確認のために復唱され、あっさりとそれを肯定してやると、孫次郎は献身的に視線を上げて思考の中を巡った。
視線が戻る。
「……タランチュラ?」
「ああ! そうそれ! さすが孫次郎〜」
いつもの軽い調子で誉めたが、興味の湧かなかった孫次郎は、ぶっきらぼうに「で、他にもいるの?」と気遣いだけを見せた。
伏木蔵は「まだいるよ」と前置きをしてから、「えーと」と続ける。
「馬くらいの大きさのある、蛇の仲間で黒子田さんがなんとかって」
「クロコダイル」
間髪入れずにそう指摘してやれば、伏木蔵はぱぁっと目を輝かせ、
「わぁ! そうだよ! それ! 黒子田居る!」
と声を張り上げた。
依頼内容くらいメモを取りなよ、そう説教してやりたい気持ちを抑え、孫次郎は口を瞑った。
「で? なんか知ってる?」
楽そうに伏木蔵は問う。
ようやく川面から離れようと動き出した孫次郎を目で追う。バシャバシャと透明な水飛沫が飛び、動物たちが楽しそうにはしゃいだ。
「実は少し前に八千子の治療で天笠に渡ってきたんだ。そこで珍獣をいくつか見てきたけど、その中にいた」
伏木蔵の肩に手を置き、自身の足を川から引き上げる。動物たちも次々に後を追った。
「おお! で? で?」
川のほとりにあった小屋に孫次郎が向かうので、伏木蔵もそうする。中に入るや否や伏木蔵の目に留まったのは新しい布団一組だった。それまでの孫次郎の生活を考えると大いなる進歩ではあるが、元々それが一般的なので言及はしない。
「タランチュラは大きな蜘蛛だよ」
一間しかない小屋の壁に出たとっかかり、それに引っ掛けられた布で自身の濡れた部分を雑に拭っていく。同じように濡れた床も、足で布を動かして大雑把に拭う。
「ただ、大きいものでも大人の手のひらくらいかな。猛毒を持ってるとされているけど、本当は見かけ倒しなことがほとんどだとか。あ、毒性はあるよ。けど、猛毒ってほどじゃない。この国では冬になると死んでしまうから、飼うのは大変なはずだよ」
「ふむふむ」
孫次郎は拭った布をとっかかりにかけ直した。
「で、クロコダイルは蛇の仲間と言っても、巨大なトカゲを思い浮かべた方がいい」
何か資料でも探しているのか、雑に置かれた書物を漁っていた。
「それでも、ぼくが見たやつは馬ほどの大きさはなかったけどね。獰猛な肉食。動きも意外と素早いから注意が必要。体力はない」
「へえ。弱点とかないの?」
単刀直入にそう尋ねると、諦めたようで手を止め、伏木蔵に向けて体勢を整えた。
「弱点は目かな」
惜しみなくその情報の提供を行う。
「噛む力は強いんだけど、口を開くのはそうでもないから、一度口を縛ってしまえば、怖くないって印象かな」
ふんふんなるほど、と漏らしながら伏木蔵は記憶の中に刻む。孫次郎の表情を盗み見ると、伏木蔵の反応を伺っているようだったので、情報はそこまでで終わりなのだと判断をした。
より一層テンションを上げて、伏木蔵は声を張った。
「やぁ、遥々足を運んだ甲斐があったよ! ありがとう。その足らんなんとかの解毒剤とかあったりしないの?」
ものはついでなので聞いてみたが、孫次郎はまた面倒臭そうな顔をして、眉をしかめた。
「……タランチュラ。そこは伏木蔵の本職でしょ」
「まぁそうだけど。肝心の毒そのものがないと、解毒剤は作りようがないよ」
「頑張って」
特に親身になる素振りも見せず、軽快に切り捨てられてしまった。だが、駄目で元々だったらしく、軽い足取りは変わることはない。
孫次郎に小屋の出入口に誘導されていたので、されるがままに扉の前に立ち、
「はは、スリルー。ありがとう。孫次郎も平太の依頼頑張って」
そう告げた頃には、既に伏木蔵の体は小屋の外に出ていた。
孫次郎もまた何か作業を再開するつもりがあるのだろう、共に小屋を出ながら、
「適当にね」
と言葉通りの適当さを持って提案していた。
特に別れのあいさつも寄越さずに、また川の中にザブザブと立ち入った孫次郎に背を向け、伏木蔵もまた歩き出した。小屋に入るにあたり、一度外していた笠を再び頭に乗せ、留紐を結びながら歩を進める。大きな収穫になったので、それに満足しながら、頭の中でこれから待ち受ける忍務の予行演習を行った。
二
また少し時間が過ぎた。
平太が孫次郎を連れ、富松に紹介された美衣(びー)城という城に赴いていた。
「下坂部くん、よくこんな人材を見つけて来てくれたねえ。助かるよ」
「はあ……」
そもそもは平太が一人で雇われる話ではあったが、その仕事内容が珍獣用の防具を作るというものであった。その内に、そういえばその珍獣の世話ができる人材も探しているのだけど、心当たりはないかと問われ、孫次郎に話を振ったような形である。やはり乗り気にはならなかった孫次郎ではあったが、平太に「珍獣を見るだけでも顔を出してみれば」と言われ、釣られて来たのである。そしてその道中で、短期間なら勉強の意味でも世話を引き受けてもいいかなと、そんな風に気持ちが変わっていったようである。
「獣の匂いが染み付いてていいねえ。その狼は? 初島くんの?」
「はい……病み上がりということで、この子だけはどうしても同行させたいと……」
「そうかそうか。いいぞ、特別だ」
面接というよりは、既に顔合わせのような雰囲気になっていたが、この城の珍獣使いで飼い主でもある折賀市番(おれがいちばん)が、楽しそうに孫次郎の肩を叩いた。言葉はどうであれ、一応返答した平太とは違い、孫次郎は無言で持ってその不愉快さを現したが、折賀が気にしている様子は特にはなかった。
「あの、孫次郎の任期は」
平太が会話の主導権を無理に奪いとった。
「君と同じで、半年更新というのはどうだ」
そう返答したのは、美衣城の忍者部隊の首領、浦桐太蔵(うらぎりたいぞう)である。短めの髷を揺らしている、確かによく仕事ができそうな人物である。彼の所見一つで、この城の陣容、ひいては勝敗が決まると言っても過言ではない。
「……長い……」
孫次郎が小声でごちった。
「まあそう言うなよ。報酬は弾むから」
浦桐が自慢気にそう笑うと、孫次郎は更に不快に感じたようで、小さく笑って流した。付き合いが長い平太だからこそ、その反応が『不愉快』を表すものだとわかった。
「とにかく、これから君たちの直属の上司はこの『折賀』になるので、何かあれば折賀に言うように」
浦桐はその説明を最後に、じゃ、と一行から抜け、それから改めて折賀が城内や仕事場所、その内容を案内した。
真っ先に向かったのは、もちろんこれから一番縁を持つであろう『珍獣』の飼育小屋である。その動物の特性上、小屋の横に小さな池を設けていると折賀が楽しげに教えた。その辺りから孫次郎は思うところがあったが、いよいよその小屋に到着し、小さく「あぁ」と感嘆詞を漏らした。
「この国ではあまり見かけないと思うが、南蛮や天竺では結構見かける動物だ。クロコダイルという」
思わず平太を見やったが、平太は首を傾げた。……そうだ、伏木蔵と話したときは二人きりだったので、平太は知らないのである。伏木蔵の『次の依頼先』に『珍獣使い』がいること。そしてその珍獣使いが使っているのが、『クロコダイル』と『タランチュラ』であること。
「もしかして折賀さん」
「おお、しゃべった。どうした初島」
「もしかしてタランチュラいません……?」
なんの捻りもなくそう尋ねると、折賀は目を丸めた。その反応は実にわかりやすいものである。
「あ、え、えと。クロコダイルとタランチュラを使う珍獣使いって、獣遁術者の間では最近有名で」
「あ、そうなの?」
照れたように折賀は頬を緩めたが、孫次郎が腹の内で『阿呆だなあ』と思っていたことには、おそらく気は回っていなかっただろう。平太はそんな様子を見て「孫次郎の情報網さすがー」と呑気に手を叩いた。
――まさにちょうどその頃。美衣城とは少し離れた荒地にて。
大きな岩陰に、私服を着た青年が二人立っていた。伏木蔵と怪士丸である。
「これ」
依頼されていた書物――五月村の乙名の娘の日記――を伏木蔵の手に渡しながら、怪士丸はそう伝えた。受け取るや否や、伏木蔵はそれをパラパラと捲り始め、
「使えそう?」
と問われるのを、目線を変えずに聞いていた。
「うーん……そもそもこれは今回の忍務の予備知識だから。でも使えそう。助かる。ありがとう」
最後には笑顔になり、満足感も露わにそれを腕の中に収めた。懐から謝礼の銭束を差し出す。
「ちょっとまけて。忍務前でお金なくって」
「きり丸が聞いたら泣く話だよ」
「……だよねえ」
「はい、確かに」
しっかりとその銭束を受け取った怪士丸も、ニコリと笑って体を反転させた。
「じゃ、明日からだっけ。頑張ってね」
伏木蔵から懐が陰になったところで、それらの銭を懐にしまう。
「また何かあったらいつでも声をかけて」
「うん、ありがとう〜。怪士丸も気をつけて帰ってね」
早々と怪士丸が立ち去ったその場に、伏木蔵は腰を下ろした。早速その書物に目を通し始めたのである。
……この度、美衣城の忍者部隊と、タソガレドキ忍軍が手を組むことになった。なので、未だ組頭として健在の雑渡昆奈門から依頼を受け、美衣城の忍者部隊に裏はないかを洗い出すこととなったのだ。この五月村の乙名の娘とは、現在の美衣城の城主の妻に当たる人物になっているので、何かの参考になればと依頼をしていたのである。
いよいよ伏木蔵の忍務は翌日から始まる。今は十分な情報を蓄えるのだ。
それから改めて数日が経過する。平太と孫次郎は、まだ慣れぬ城内を並んで歩いていた。飼育小屋に向かう道中で、屋根のある踊り場のようなところを通過するところである。
この城の『珍獣使い』と名高い折賀は、ほとんどその動物たちの世話を自らすることはなく、今回雇われた孫次郎のような『飼育係』にそれを一任していた。自分に従わせる訓練のときだけ顔をだし、飴と鞭ならぬ、餌と鞭で彼らを調教した。そう言った態度が気に食わず、孫次郎は平太を見かける度にブツブツと愚痴を零していた。……今も例外ではない。
「餌だって、本来与えるべき肉じゃなくて、野菜で量をごまかした肉団子だし……それにあんなんじゃ、狩りの仕方も忘れるよ。自然に帰せない……」
「それはぼくでもあんまりだと思うよ……自然に帰すつもりはないのかもね……」
ボソボソと平太もその静かな愚痴に同意を極め込む。周りに聞かれないために静かにごちっているわけではなく、本来のテンションでそうしているだけである。
「!?」
途端に、二人同時に足元に向けていた顔を上げた。自然と足も止まる。二人でその動作をしたことに気づき、今度は仲良く見合わせた。
「まごじ……」
「……うん、これは」
やはり二人して気づいていたのだ。間違いではなかったことに安堵を覚え、聞こえた音を探るようにあちこちに視線を回す。
「六年の最後に使ってた矢羽音だ……」
平太が続ける。今度は意図的に声を極々小声に留めた。
「この癖」
「伏木蔵だ。今日の夜……」
二人はその会話を最後に、それ以上は何も言わなくなった。それまでのことは何もなかったかのように、そのまままた飼育小屋へ向けて歩みを進めた。
次の日の早朝である。
この城の忍者部隊は毎日朝礼と夕礼がある。その時に勤務を交代し、引き継ぎを行うのである。そして平太や孫次郎も、朝礼の出席を折賀により義務付けられていた。
「折賀さん」
朝礼後に二人で並んで声をかける。
「おお、どうした」
頭巾を手に持ったまま、折賀は振り返った。
「防具に必要な物品を揃えて来ます。外出許可をください」
「おお、そうか。いよいよか」
楽しそうにまた笑うが、平太や孫次郎の表情は特に変化はしない。むしろいつもに増してどんよりとしている気がしていたが、それには気づかぬふりを強行した。
「腕の良い職人のところへも行くので、数日はかかるかと」
続けたのは引き続きの平太である。
「何日だ?」
「三日、四日くらいですかねえ」
折賀とは言葉を交わしたくないから、と事前に平太に伝えていた孫次郎である。口を瞑ったままその会話を眺め、全てを平太に任せていた孫次郎に、折賀は注意を向けた。
「……は、初島も行くのか?」
前任の飼育係ではクロコダイルの飼育が手に負えなかったので、折賀は、というより城全体として、孫次郎がいないと困るのである。
しかしそんな事情は知ったこっちゃないと、平太はどんよりした空気を引き連れたまま、
「その動物にあった重さや質感の素材を選びたいので……詳しい孫次郎を連れて行きたいです。いいものを作るためなので譲れません……」
と差し迫った。
「わ、わかったわかった。ではなるべく早く戻るように」
許可を勝ち取ると、緊張させていた空気を緩ませる。そこで折賀は威圧されていただけで、実際距離を詰めて迫られていたのではないことに気がついたが、「支度しなくちゃねー」と楽しそうに歩いていく二人の背中を視線で追うだけであった。
「……なんか気味悪いな、あの二人」
折賀のぼやきが耳に入り、二人はほくそ笑んでいた。
支度を終えると、世話を任されていたクロコダイルらに懇切丁寧な別れを告げ、二人で城を後にした。美衣城から山を二つ越えたところにある茶屋に到着したのは、すでに夕方のことになっていた。
「お、来た来た」
そこで二人を出迎えたのは、
「伏木蔵」
「また会ったね」
ここで落ち合うよう、昨晩申し合わせたのである。
平太と孫次郎は伏木蔵の向かいに腰を下ろし、月見うどんをそれぞれが注文した。
「で、話したいことって」
落ち合うことを申し合わせた際、伏木蔵は「急遽話したいことがある」と伝えていたので、孫次郎はそう促した。伏木蔵にとっても話を振られるのは、ありがたいことである。
「そうだね、じゃ早速」
「うん」
伏木蔵は声量をそのままに、
「君たちが雇われている堆肥屋があるじゃない」
初っ端からいきなり目が点になったが、そうか、と二人はすぐに思い至った。『城』とは、『土』が『成る』と記すので、伏木蔵は会話を暗号化しているのである。
そうとわかり、平太と孫次郎は聞く体制を変えた。
「そこで使われている草は、二つに分かれてるみたいなんだ」
――ここで言う『草』とは、忍びのことである。……それが二つに分かれている、つまり、内部分裂をしており、派閥が存在するということだ。
「ああ、」
「だからか」
平太も孫次郎も思い当たる節があったらしく、誰にもわからぬほどの動作で驚いていた。
「で、その内の一方は、もう一方の草を枯らせてしまうだけだけど、もう一方は草だけでなく、堆肥屋全体を駄目にしてしまう恐れがあるんだ」
今度はわかりやすく目を丸めた。
「そうなれば満遍なく枯らされてしまうから、その堆肥屋で働く者は全て、隅々まで、飼っている動物も含めて本当に全部、大変なことになるよ。もちろん君たちも例外じゃない。経営者は君たちまで守るつもりはないようだから」
伏木蔵の真面目な眼差しの横から、ぬっと店員の手が伸びた。うどんが到着したのである。
だが既にそんなことより、伏木蔵の話が気になって仕方のない二人は、もどかしい気持ちに駆られただけである。
「どうぞ、食べて」
伏木蔵が促す。平太と孫次郎はつけられた箸を拾い、小さく手を合わせて、一斉にうどんをすすり始めた。
「食べ終わったら、外へ出て話の続きをしよう。ここからが本題だから」
言われるがままに、急いでその麺を胃袋に流し込む。
つるりと食べ終わった二人は早々と勘定を済ませ、三人で茶屋を後にする。美衣城とは反対方向を目指し、並んで歩いた。
「まあ、さっき話した通りなんだけどね」
伏木蔵は早速切り出した。
「ぼくも訳あって美衣城の調査をしていたんだけど、あそこの忍者部隊はどうにも分裂しているようだ。一方はどこか外に野望を向けていて、自分たちが抜けることだけを考えているみたいだけど、もう一方は自分たちが抜けるときに、城の全てを燃やし尽くす計画を進めているようなんだ」
「……くそ……折賀め……」
孫次郎が悪態を吐く。それもそうだ。ただでさえいけ好かないというのに、そんなことを陰で企てているならば、もう容赦はできない。
だがその悪態を聞き、伏木蔵は「あ、」と緊張感の欠片もない声を漏らした。
気づけば三人は、背の高い春草が生い茂る林の脇道を歩いていた。
「ちなみに、君たちの上司に当たる折賀は、外に野望が向いてる方。少数派なんだ。城を燃やそうとしているのは忍者部隊トップの浦桐ってやつが仕切ってる多数派。折賀と浦桐は派閥が違うからそういう話はしないし、浦桐の『燃焼計画』に折賀の動物だけでなく、その世話などを任されている君たちも含まれてるってわけ」
「なんてこった……」
至って真面目に平太はそうぼやいた。
孫次郎はというと、うっすらと口元は笑っているが、怒りを抑えようとしているのがよくわかる。
そこまでの話を改めて噛んで含めてやった伏木蔵は、
「さあ、ぼくは関係のあるものないもの関わらず、全て燃やしてしまおうという彼らの野望を知ったからには、放っておけないと思うんだけど、君たちはどうする?」
突拍子もなくそう提案した。意図的に足を止め、二人に考えることを促す。
真っ先に反応したのは、孫次郎である。
「動物見殺し許せない」
「……動物だけじゃないよね……?」
おそるおそる平太が問いかけると、「あ、うん、まあ」と曖昧な返事を寄越した。
二人の反応でもって、伏木蔵は本題を提示することにした。
「そこで、君たちに協力を煽りたい」
こんなにも目立ってしまう、井戸端会議さながらの作戦会議ではさすがにまずいかと思慮する。警戒するように辺りを見回し、誰もいないことを確認して、道から外れて林に入った。春草の中で屈むと、三人の存在感はたちどころに姿を消す。
その一連の動作だけでも、己の忍びとしての勘がどれほど鈍っているか実感した平太は、
「……ぼくもうずっと忍びとして活動してないよ」
危惧されることを簡潔に問うた。
「大丈夫、そんな凝ったこと頼まないから」
伏木蔵はなんの遠慮もなく教えた。
「ああそう……」
ありがたいような少し残念なような、不思議な感覚を平太は味わった。
「君たちにはそれぞれ三つ頼みたいことがある」
まるで子供に諭すようにわかりやすく、伏木蔵は指を三本立てた。
そして素直な子供のように、平太も孫次郎も合わせて「うん」と相槌を打つ。
「平太に対する一つ目はこれ」
懐から四つ折りにしていた和紙の束を取り出した。それは麻の紐で縛っており、気の遠くなるような指示でも書かれているのでは、と懸念させた。青ざめている表情がさらに青ざめたのを見て、伏木蔵は小さく笑いながら教えた。
「あとで個別に説明する」
「はーい……」
「で、孫次郎に対する一つ目もこれ」
また懐に手を入れて、此度取り出したのは小さな竹筒である。
「嫌な匂い」
眉を真っ先にしかめた。
「よくわかったね。これも後で説明するね」
それを身に着けることに気の進まない孫次郎であったが、仕方なさそうに受け取った。
改めて二人で伏木蔵に視線を送る。
「そんで、二人に対する二つ目は、ぼくが連絡するまでは何も知らん顔でいること。派閥やその計画のことも含めて」
それならできる、と平太は少しほっとしたように表情を緩めた。しかし三つ目がまだなのだと気がつき、改めて気を引き締め直す。また先ほどと同じように、先を促す意味で二人で伏木蔵を見やった。
同時に同じような表情を向けられるので、伏木蔵は思わず吹き出し、「ごめんごめん、三つ目はまた追々」と結んだ。
その言葉が信じられずか、わずかの間様子を伺い二人は沈黙した。他意はない伏木蔵も沈黙したので、しばし会話に穴が開く。
次にそろそろと手を挙げたのは孫次郎だ。
「じゃぼくからも頼み」
「うん」
「だいたいわかるけど」
伏木蔵が余裕をもって伝える。
伏木蔵が『だいたいわかる』と言った内容とは、孫次郎の性格を知っていれば簡単に導き出せることだった。孫次郎は、不当な扱いをされている動物たちを連れ出したいと思っていた。あわよくば自分の元へだが、環境として難しいので、少なくともふるさとの天竺で、しっかりと面倒を見ることができる者に託したいと思っていた。
それを伏木蔵が『だいたいわかる』と豪語したので、「じゃあよろしく」とだけ孫次郎は言い添え、伏木蔵も自信過剰な瞳を止めず「いいよ」と笑った。平太だけが声には出さずに、その目に不満を語らせた。
それから伏木蔵は一つ目としてそれぞれに手渡した『お願い』を、それぞれに説明してやった。終わると『じゃまた美衣城で会おう』と残し、自分はそそくさと城の方へ向けて姿を消した。
平太と孫次郎は今回の伏木蔵との打ち合わせのため、外出許可を騙し取っていた。その辻褄を合わせるべく、本当に腕のいい職人の元へ向かい、本当にこだわり抜いた素材を二人で探した。
三日後に城に帰還すると、城内は何やら慌ただしい様子である。二人は疑問に思い、留守を預けていた飼育係に引き継ぎ作業中に尋ねると、何やら忍びの侵入者がいたらしいというのだ。伏木蔵を思い出して肝を冷やした二人だが、複数人だったと付け加えられたので、何故かほっと胸を撫で下ろす。この城では折賀よりも実力が上に位置する、刈田小綿(かりたおめん)という変装が得意な忍びが、その後を追っているとのことである。
雑談を含めた引き継ぎ作業が終了すると、平太は早速孫次郎を引き連れ、クロコダイルのあらゆる角度や長さを計測する。麻で縛っていた紙の束を広げ、それらをすらすらと書き留めていく。
必要な寸法は揃った。協力に感謝を述べた平太は、後を任せて自身の与えられた工房へ向かう。愛用の工具や注文しておいた資材など、ありとあらゆるものが揃っていた。
まずは設計図を作る。全部で四匹いるクロコダイルの一匹一匹に対して、それぞれ違う寸法のものを設計してやった。素早い走りを妨げない重さで、口の開閉を邪魔しない構造で、それでいて敵の攻撃をしっかりと防げる防具を考案する。
作れば作るほど、やはり自然の形が一番なのではないかと思えてくるが、雇い主折賀の指示であり、また雇い主美衣城のお金であるからに、平太は己の疑問を押し沈めて進めた。
――伏木蔵が平太に託した一つ目の『お願い』とは、任されていたクロコダイルの防具に細工をすることだった。クロコダイルの絵に『ここにはこういう仕掛けを』などの説明があったので、紙の束になっていたのだ。例えば、ある一点を狙うと口の開閉ができなくなるよう仕掛けや、またある動作をすれば、目の前に目隠しが降りる仕掛けなどである。
平太はその製作に没頭した。
一方その頃、孫次郎も伏木蔵に託された『お願い』の一つ目を実行していた。
「ふう、危なかったね八千子」
城の台所の裏口を出てしばらく進んだ木陰で、孫次郎は愛狼の頭を優しくかつ力強く撫でた。
「伏木蔵は難題を寄越す……君が居なかったら全うできなかった」
屈んでお礼を言う孫次郎に、八千子も応えるよう頭をすり寄せた。一通り労わり合い、再び孫次郎は立ち上がる。一気に空が近くなる。
「……それにしても何を企んでいるんだろうね、伏木蔵は」
どこにいるかもわからない同志に向けて、孫次郎は視線を飛ばした。
――伏木蔵が孫次郎に『お願い』の説明をする際、その場の緊張感はほぼ消えていた。
「孫次郎に頼みたいことだけど……君なら『動物の餌を探しにきた』とか言って台所に入れるだろう」
さらっと言ってのけられ、無理難題を突きつけられるのだろうと、孫次郎に覚悟させた。いつもの軽い調子のまま、伏木蔵は続ける。
「おそらく宴会用の大皿をしまってある付近に、桜の印のついた小筒がある。その小筒の中身と、さっき渡した小筒の中身を入れ替えてほしい」
まるで『簡単なことさ』とでも言いたげな表情である。
嫌な匂いが鼻を刺す小筒を懐から取り出し、それを伏木蔵の前に突きつけた。
「……これは?」
この小筒の中身のために自分は骨を折らなくてはならない。その嫌な匂いについて知るくらいは許されるだろう。伏木蔵に負けじと軽い調子で問うと、やはり同じような軽さで、
「ただの眠り薬だよ。ぐっすり寝るやつ」
出し惜しみなどこれっぽちもせずに、いとも簡単に教えた。
用量さえ守れば致死性のない毒物であると確認した孫次郎は、再びそれを懐にしまう。
「その桜の印のついた小筒は匂いとかある? 八千子に捜索を手伝ってもらうかも」
「そうだね……たぶん、はちみつと山椒……あと肉の匂いがすると思う」
「はちみつと山椒、それから肉ね。了解」
なんとなくイメージが掴めたので、孫次郎は了承し、それを引き受けた。
――それを実行すべく、城の台所に潜入したところ、やはり一筋縄でいかないのが忍務である。わざわざ食事のあと、台所に勤務する者らが休憩に入ったのを見計らって潜入したというのに、結局宴会用の大皿の周辺では、目当てのものが見つけられなかった。八千子と共に大急ぎで捜索をすると、それは意外にも普段使いの調味料棚に収納されていた。ようやく見つけたので、物陰に身を隠してから中身を入れ替えていたが、運悪く台所に向かっている足音が聞こえた。大慌てでその小筒の蓋を閉じ、適当な食品棚に顔を突っ込んだ。ちょうどそこへ、その足音の主が台所に踏み込み、伏木蔵の言っていた『動物の餌を探しに来た』という言い訳を使ってしまった。
……本当に使うことになるとは思っていなかったので、心地悪く冷や汗をかいたのを孫次郎は忘れない。
それから、さあどう気づかれずに小筒を元の位置に戻そうかと潜考していると、八千子が台所の反対側で一吠え鳴らした。驚いて使いがそちらに視線を向けた隙に、さっと小筒を戻すことができたというわけだ。
孫次郎も「こらこらこんなところで吠えるんじゃない」と叱るふりをして、「出直します」と急いで裏口から外へ出て行った。
孫次郎の窮地には、いつもこうやって臨機応援に助け舟を出す八千子である。今一度感謝の気持ちを伝え、孫次郎はまた飼育小屋の方へ戻った。
それからの数日は、クロコダイルの世話以外はほとんど平太の工房へ出向き、設計の見直しや製作の手伝いなどをこなした。……あとは伏木蔵の指示を待つだけである。
伏木蔵は度々美衣城を空けているようであった。本人の雇い主である雑渡の元へ、定期的に報告に出向いていると話していたので、おそらくはその周期なのだろう。
夜も耽り、すっかりあたりが暗くなっていたが、平太の工房ではろうそくがゆらめき、その中で二人は作業をしていた。……何でも、数日後に城主の奥方のお誕生日会という名目で、大宴会が執り行われるらしく、それまでに完成させよとの指示であった。
密かにその宴会当日に伏木蔵からの『指示』があるのではないかと、二人して心に留めていた。つまり、それを含めて、二人はクロコダイルの細工付防具の完成を急いでいた。
「伏木蔵見なかった?」
そんな黙々とした夜半である。
「……怪士丸だ」
二人の前に、細身のシルエットが現れた。
平太は少し前に会ってはいたが、孫次郎にとってはもう数年ぶりの再会に当たるはずである。お互いに一言ずつ「お疲れ」と交わした後、
「定期的に雑渡さんへ報告に向かってるから、たぶんそれ。夜明けには戻るよ。伝言?」
平太が初めの質問に答えた。
「いや、どちらかというと渡したいものがあってね」
小さく笑った。
相変わらず凹みの激しい頬には、ろうそくの光がくっきりと影を落としている。
「なら、明日の晩にまたここへ来るといい。丑時の始め(午前一時)くらいだ」
「わかった」
次に教えたのは孫次郎で、怪士丸も潔くそれに返答すると、一刻を惜しむようにその場を去っていった。
同じように次の晩も、平太と孫次郎はクロコダイルの防具に追い込みをかけていた。
そこへまずは伏木蔵が現れ、怪士丸の件を伝えたところ、では怪士丸を待とうとその場で座り込んだ。それが子時の正刻(午前零時)辺だったので、少しだけ待ってやれば、怪士丸は意外とすぐに現れた。
早速伏木蔵に歩み寄り、
「はい、伏木蔵」
と小瓶を取り出した。小瓶と言っても、あまり見かけないほどの極々小さなものである。
「……これは?」
思わず首を傾げた。何かの液体が入っている。平太と孫次郎も、手を止めその流れを見守る。
先日は伏木蔵が平太と孫次郎に、中身のわからないものを差し出していた。それを思い出し、二人はこういう感覚だったのだな、と呑気に頭を掠めていた。だが、怪士丸は、
「必要かなと思って、」
天使のような笑顔を浮かべ、
「タランチュラの毒液」
それまでの調子で言い放った。
平太は息を呑んだ。
伏木蔵ですら、意外さと歓喜により「おお!」と声を上げてしまった。
「どうやって採ったの怪士丸! スリル〜」
「ほとんど孫次郎のお陰だけどね」
まさかの告白に一番驚いたのは平太だった。
「孫次郎いつの間に……」
四六時中共に工房で作業をしていたように思ったが、なるほど、よくよく思い返すと、確かに『思っていた』だけのようである。
納得が行かないので、粘り気のある視線を孫次郎にお見舞いしてやると、うっすらと笑い、しれっとピースサインを掲げた。その動作は平太をいじけさせ、また工具を握り直させた。
それに気づいてか気づかずか、怪士丸は今一度懐に手を入れ、今度は少し厚めの本を取り出す。
「あと、少しだけその蜘蛛の毒について載ってある文書。見つけた」
「怪士丸最高」
思わず伏木蔵は抱擁を与えていた。平太はそれには視線もくれてやらず、
「……どうせぼくは役立たずですよーだ」
と口を尖らせた。そこでようやく他の三人は「そんなことないって」と小さく笑ってやる。
その後、早々と帰路に就こうとした怪士丸を伏木蔵は引き止め、
「ちょうどいいから怪士丸も頼まれてよ。人手が足りない。一晩でいいからさ」
と言い寄った。怪士丸はそれをまた朗らかに了承し、そのまま詳細の実行日の打ち合わせをすることを伏木蔵が宣言した。
平太と孫次郎の予想通り、城主の奥方の誕生日に行われる宴会の際に、その計画阻止の計画を実行するとのことだった。年に二・三回のみの大宴会であるが故、浦桐たちの『美衣城裏切り計画』もこの日に設定されている。それが、一つの大きな理由として挙げられた。
合わせて、当日は城の忍者部隊もその宴会に参加する決まりのようで、城内の警戒が最薄になる予想だという。もちろん忍者部隊は酒は飲まないが、城主から下っ端の使いまで皆が集まる。そして野外で肉や野菜を焼き、それらが全てに振舞われるのが恒例行事となっていることも、伏木蔵は話して聞かせた。……当日は、戦力の全てが一箇所に集まるということだ。そしてその一箇所とは、『飼育小屋』とは本丸を挟んで反対側にあたる、本丸前広場である。これほどまでの好機はないだろうとのことだった。
それから飼育小屋から城外への最短ルートと移動方法をまた打ち合わせをし、それでは当日まではまた普段通りでよろしく、と伏木蔵と怪士丸はその場を離れて行った。
三
容赦なく時は進み、早々に奥方の誕生日宴会当日になっていた。まさにその日の朝、平太と孫次郎はクロコダイル用の防具を完成させた。しばらく「完成はまだか」とピリピリしていた折賀であったが、その報告を受けるなり非常に喜び、即刻の現物納品と着脱方法の説明を要求した。求めに従いそれらをお披露目すると、それはまたとてもご満悦の様子で、始終興味津々に話を聞いていた。
その対応が一通り終わったのは、裕に小腹を空かせる昼前になっていた。否、完成報告を一刻も早く行うために、朝食の前に折賀の元へ出向いた二人にとっては、小腹どころではなく、非常に腹を空かしていた。
静かに工房の外で孫次郎を待つ八千子も、また同じである。
ようやく折賀が退散すると、孫次郎と仲良くおにぎりを準備し、クロコダイルや八千子にも食事を摂らせ、夕方から催される大宴会の忙しない準備の音に浸っていた。……宴会が今日ならば、阻止すべき浦桐らの美衣城無差別燃焼計画……基、裏切り計画も今日なのである。つまり、それらを妨害する伏木蔵らが計画した作戦を実行するのも、合わせて今日というわけだ。
平太らが専用の工房で一息吐いていたときである。いよいよだなという空気が漂っていた中で、寄り添うように伏せていた八千子が上体を上げた。それを前触れとして、今度は窓から伏木蔵が飛び込んで来る。
「やぁ、元気? って何だい君たち、疲れた顔してるねえ」
その軽さと口ぶりは明らかに誰かを彷彿とさせるものだったが、あえてそれは言及せず、「あ、数日ぶり」と平太は消え入りそうな声で返した。本当に疲れきり、今にでも失神してしまいそうなほど、顔から血の気が引いていた。……元からある程度青ざめてはいるが、余計にという意味である。
続けて孫次郎が、
「そりゃそうだよ。折賀と伏木蔵から無理な期限を切られたせいで、何日徹夜したと思ってるの」
と強めに悪態を吐いた。よほど辛い日取りだったようである。
しかし伏木蔵はそんな訴えには小麦の粉ほどの労わりも見せず、
「……それなんだ」
孫次郎の発言を人差し指で指し示した。
その指先を追い「どれなんだ?」と平太が復唱するも、それにもお構いなしで続ける。
「ほら、浦桐たちは今日、この美衣城を裏切ってタソガレドキにつくつもりでしょう。だけど、折賀は浦桐たちとは違う派閥なんだ……なのに、クロコダイル用の防具の納品日が、多少無理をさせての今日で通している辺り、もしかすると折賀の属する派閥も、今日中に何かを実行するのかもしれない。そっちの方は警戒が強くて時間もないしで、調べられてないんだ」
「なるほど」
素直に拳を反対の手についたのは、平太である。その後を引き継ぐように孫次郎が「じゃ、目は光らせておかないとね」と、真面目な言葉にして返した。
うんうん、と意図が伝わったことに満足した伏木蔵は頷き、それからわざとらしく「あ、ところで」と付け加えて、さらに会話の主導権を確保した。
「君たちに三つ目のお願い」
笑顔で放つ。
きょとんとしてしまった二人であるが、
「ああ、忘れてた」
と孫次郎が応えた。
此度の阻止計画の手助けを依頼された際、三つ頼みがあると言われていたのだ。内の最後の頼みは追々と言われていたが、どうやら今ここで発表があるようだ。
またもや滑らかな手つきで懐に手を伸ばし、「これ」と包みを出した。その包みの中に入っていたのは、質の良さそうな、しかし何の変哲もない布の束である。手のひらの大きさほどのそれを、それぞれに準備していた。
「またなんか渡された」
まじまじと二人でそれを観察したが、やはりそれは何の代わり映えもない、ただの布の束である。だというのに、伏木蔵はそれについて何かを説明する様子もなく、
「覆面の下、それ入れといて」
とだけ指示を降ろした。
「え? これなに?」
「信用していいやつ?」
何も説明がないので、あてつけのように平太と孫次郎で言い迫ってやったが、やはりそれに悪乗りするようなこともせず、
「もちろんだよ。悪いようにはしない」
ニヤリと笑った。
「動きやすいように忍び装束を着るでしょう。そのタイミングは広場で焼き物が始まる前がいいよ。進行表だと戌時の初刻(午後七時)くらいかなあ。ちなみにその布は水で濡らして固く絞ってから、口と鼻を覆うよう、しっかりとよろしく」
意外にも細かい指示に二人は更に疑問符を浮かべるが、きっと何かの術の対策なのは察するところである。おそらくは霞扇のような、無差別な飛散系の毒でも使うのだろう。
まだ乾いているその布をそれぞれが懐にしまうと、伏木蔵は安堵したように小さく息を吐き出してから、
「もし宴会に出席しろって言われたら、なるべく料理からは遠ざかること。できれば焼き始める前には抜け出すなり何なりして、その布を口元に当てておいてほしいかな。できればじゃないね。絶対よろしく」
まだまだ要求の精度を上げていく。無理だという気は毛頭ないが。
それから「じゃ、よろしく」とないも同然の窓枠に手をかけ、軽やかにまた外へ姿を消した。
「伏木蔵って」
「すごい忍者してるよね」
二人は半ば面倒臭そうにごちった。先ほどまでそこにいた伏木蔵の姿が残像として残っている。尊敬はするが、そうなりたいとは正直なところ、思わない二人である。とにかく、例え作戦の全容を把握しておらずとも、『作戦の一端』という役回りが非常に心地よく感じている二人である。
今一度、
「伏木蔵って」
「すごいよね」
と、今度は小さく賞賛した。
しばらく二人は仮眠を取ることにした。すぐに対応できるよう、必要な荷物は手の届くところに置いていた。そうして酉時の正刻(午後六時)ごろ、八千子が唐突にまた半分だけ体勢を上げた。ほんの小さな間が置かれ、平太の工房の扉……というには余りにも簡易な作りになっている戸が、乱暴に開け放たれた。
「おお! やはりここにいたか!」
ビクッと肩を震わせて覚醒した平太と、不本意を露わに眉間に皺を寄せる孫次郎。二人が同時にもたげていた頭を上げた。
「……折賀。……さん」
耐え切れずに名前を呼んだのは孫次郎である。
「何だ何だ! これから奥方様の大宴会だぞ! 早く広場に向かわないか!」
まるでここ数日の平太らの努力を知りもしないような配慮のなさに、孫次郎のみならず、平太も思うところがたくさんあった。だが、敢えて『何も知らぬ雇われの身』を演じることに徹し、その指示に従うことにした。
そばに置いてあった『必要な荷物』を、注視しなければわからないほどの動作で掴み、折賀に続いて工房の戸から外へ出る。折賀がそのまま真っすぐに広場に向かうので、二人も同じようについて進んだ。
――孫次郎は後から追ってきた八千子に、工房の外で一撫でやると、あたかもそれが何かの指示だったかのうように、どこかへ向けて静かに進路を変えた。言うまでもなく、それについて折賀が気づいている様子はない。素知らぬ顔でそのまま背中を追っていった。
広場に到着すると、既にそこには多くの家臣で人だかりができており、平太は軽く目眩を起こしてしまった。こんなにも多くの人間が集まる場は久しぶりであり、付け加えるならば、大の苦手である。伏木蔵は料理を焼き始める前にはその場を離れて、と言っていたがとんでもない。一刻も早く退散したいほどの心持ちである。そしてそれを察してか、本人も同意見であるからか、孫次郎は平太を連れて、人だかりのほぼ最後部へ抜けた。折賀はあのまま中心部に突き進んでいくのであろう。
お祭り騒ぎに浮かれて、大宴会の開会を告げる発表があり、それに拍手喝采が起こった。瞬く間に酒やら茶やらが入った猪口・湯のみが手渡り、ほとんどの人間にそれらが行き渡った。……その手際の良さには目を見張る。さすが毎年恒例の行事である。
平太と孫次郎は顔を合わせたこともないような大臣が乾杯の音頭を取り、それを皮切りに野外焼き肉宴会は晴れて開幕を迎えた。
乾杯が行われるころには、最後部も最末端に躍り出ていた二人は、選んでいた茶をその場で飲み干した。律儀に近くの湯のみ回収所にそれを置き、誰も見ていないことを確認すると、目配せだけで「行くぞ」と合図し合う。
鼻のいい孫次郎は気づいていたが、既に肉の焼ける匂いがこんなところまで広がってきていたのである。大慌てで少し離れた厠に向かい、それに沿うようにして育っている大木を登った。
ある程度の高さに到着すると、孫次郎の指示でまず真っ先に頭巾を巻いた。それから持っていた水筒を取り出し、伏木蔵から指示があったように、質のいい布の束をそれで濡らした。よく絞ってから、それを鼻から口を覆うように入れ込む。続いて着ているものを反転させると、あっという間に忍び装束を着た立派な忍びに成り代わった。
久々の忍び装束にそわそわとしている平太は別として、背景に溶け込めるこういった身なりは、孫次郎にとってはとても落ち着けるものである。今にも咲きそうな夜桜に紛れ、冷静に広場を見渡していた。焼ける肉や野菜の匂いを鼻の先で感じながら。
するとあることに気がついた。
まだ宴会が始まって一刻も経っていないというのに、宴会の参加者たちが次から次へと肩や膝を貸し合い、心地よさそうに眠り始めたのである。おそらくは伏木蔵の仕業だろうと感知したが、爽快なまでのこの睡眠大会ぶりに、思わず二人は見合わせて笑った。
「あ、いたね」
背後の葉が揺れ、振り向いた二人の目の前に、怪士丸と、その後ろから伏木蔵が現れる。
「すごいでしょ、ぼくの薬」
「うん、すごい」
自慢げな伏木蔵にも素直に答える平太だったが、そう告げた余裕綽々の笑顔が無邪気なものへと変わり、
「これをやったのはぼくじゃなくて、孫次郎なんだよ。実は」
と教えた。
またしても『いつの間に!』と驚いていた平太であったは、一番驚いていたのは孫次郎本人である。そしてそれは期待通りの反応だったらしく、更に得意満面になった。
「あはは、ほら、一つ目のお願いだよ。小瓶の中身を入れ替えてってやつ」
「ああ」
脳内で展開の合致が行われる。
伏木蔵曰く、城主の奥方は五月村出身で、祝い事の際には、野外で肉や野菜を特産の調味料を使って焼くという習わしがあるという。今回はそれを利用した作戦だったのだ。
頃合いを見計らったように、今度は怪士丸が口を開いた。
「じゃ、ぼくが軽く調査した結果を話すね」
どうやら何かの調査を依頼されていたらしく、
「寝落ちた参加者の中に浦桐はいたよ。けど、足田と折賀はいなかった。それと岩田って人と、藤本って人」
話の内容から依頼について察した平太と孫次郎は、しばらく見守ることとし、口を開いた伏木蔵へ視線を向かわせる。
「その三下二人組はどうでもいいけど、足田と折賀がいないのは気になるね。調べよう」
目交ぜでまたそれを依頼された怪士丸は、嫌な顔一つもせずに「いいよ」と了承した。安堵に表情を緩ませ、続いて手持ち無沙汰である平太と孫次郎に目を向けた。
「……そうだね、その間に平太たちは動物たちの保護を進めておいてほしい」
「了解」
そこだけ生き生きと孫次郎は返答をした。早速と言わんばかりに平太の装束の袖口を掴み、その大木から飛んで地べたに着地してみせた。かろうじて両足だけで着地できた平太は、「急すぎ」と弱めに悪態を吐いてやる。
背後にあった伏木蔵らの気配がどこかへ飛んでいったのを感じ取り、また自分たちは自分たちで色んなことをしなければならないことを実感した二人である。とにかく今回は、折賀のような『自称飼い主』と言わせたくなる悪質な人間から、クロコダイルだけでなく、城に属している動物全般を開放してやりたいという気持ちを、強く心に留めながら進む。
元々の計画とは少し変わるが、平太と孫次郎がクロコダイルの小屋を目前としたところであった。大宴会に参加した何千人という人間が、今回のように一気に眠ってしまうと、それまでの空気が嘘かのように澄み渡るのだと知った。静かに時間だけが過ぎていくようで、とても不思議な感覚に見舞われる。
クロコダイルの小屋に到着した。
誰もいないはずなので、遠慮なくその扉を開く。
「おお、来たか。一体何やってた……ん?」
「ん?」
突拍子がないにもほどがある。
――平太と孫次郎を出迎えた人物がいたのである。
「下坂部に初島?」
直属の上司に当たる折賀だ。
クロコダイルの檻と、出口のある小屋の間には、仕切りが二つあった。その真中に一匹を入れ、口を縛り、平太の作った防具を装着している最中だったようである。注視すれば、檻の中にいるクロコダイル三匹には、既に防具が装着されていた。
当の折賀は、忍び装束をまとった二人に目を丸めた。明らかにこれまでと雰囲気が違う二人を嗅ぎ取り、足元から注意深く観察、それに比例して表情をどんどん強張らせる。
「な、なんだその格好は……! は、さては! お前たち……何か企んでたなぁ!?」
言葉と同時に折賀は威嚇のためか、不意打ちさながらに手裏剣を打っていた。
大慌てでその小屋の扉を閉め、二人で見合わせる。気が動転していたので、手を添えたままだったその扉から、衝撃が二つ伝う。今打たれた手裏剣が、この薄っぺらい扉に刺さったのである。
孫次郎はともかくとして、戦闘など卒業以来一度もしていなかった平太は、非常に焦った。いつ折賀が飛び出してくるかわからぬ扉から、急いで数歩距離を取る。
「どうしよう孫次郎、あの防具つけられてたら勝ち目ない……」
一応在学中に得意としていた武器を取り出し、それを構えた。鉄双節棍である。
ちょうどそのとき、折賀がクロコダイルの檻の中に現れた。目玉を落としそうになった二人であるが、折賀がそこにあった仕掛けで、今度はその檻の格子を開放してみせた。
なるほど、だから檻の中に折賀は入ったのかと、合点がいった。
その檻から解き放たれたクロコダイルは、広い世界に躊躇することなく飛び出し、まるで指示されたように二人に迫り行く。その光景により、既にクロコダイルのことしか頭に入らなくなっていた孫次郎は、
「いいから平太は折賀をやって」
駆け出しながら、ひゅうっと指笛を吹いた。甲高い音が空に吸い込まれるように響き上がると、どこからともなく八千子が現れる。
「おっ、おお、ま、孫次郎もがんばって……!」
加減などあるはずのないクロコダイルに向かい、孫次郎は果敢にも立ち向かう。その背中に激励の言葉をかけるが、既に聞こえてはいないだろう。
平太はふと気がついた。折賀がクロコダイル四匹に続き、その檻の開門から外へ出てきていた。全神経をクロコダイルに注いでいる孫次郎に対し、またややこしい飛び道具を使おうとしたので、平太は考えなしに地べたを蹴った。
かけ声もうめき声も一切ないまま、折賀の横から割って入り、思い切り良く鉄製のその武器を振りかざした。自身に薄い影が落ちた折賀は、そちらに向きを変えるより他に、手立てはなかった。
――孫次郎と八千子は、言葉の通じぬクロコダイルを相手に飛び回っていた。
平太の設計した防具も、伏木蔵が加えるように指示した細工も覚えている。その製作の全てに手を貸していたのである。だが、さすがに素早い動きのクロコダイル四匹を、同時に相手にするのは骨を折る思いであった。
八千子との連携を図り、声や笛を使って指示を出す。まずはその動きを止めるべく、目の部分に取りつけた細工を作動させるよう、手順を呈する。その通りに高く飛び上がった八千子は、一匹のクロコダイルの大きな口を飛び越え尾の先に着地し、その衝撃を利用して再び飛び上がり、そのクロコダイルの首に華麗に着地した。突然の錘に苦しんだようだったが容赦はしない。八千子が別の仕掛けの作動スイッチに近かったので、すかさず指示を変え、クロコダイルの頬の横のスイッチを押すよう促した。八千子は嘘かのように、すぐさま頬の横をその狼爪でもって器用に押した。するとその瞬間、防具に組み込んであったバネが働き、クロコダイルの抵抗むなしく、その口は防具の圧力に耐えられずに閉じられた。……口の開けないクロコダイルなど、これっぽっちも怖くはないのである。
本日の八千子の調子がわかった孫次郎は、早々と次の指示を出す。あっという間に、他の三匹も口を開くことができなくなり、そうなれば後は楽なので、目隠しの仕掛けを自らの手で作動させた。
最後にその圧力のかかった口を小さく持ち上げ、伏木蔵から預かったままになっていた小筒を取り出した。当時は慌てていたので、指示のあった小瓶に全てを移し替えることができず、そこにはまだ『眠り薬』が残っていた。それを暴れるクロコダイルを抑えながら口に放り込んでいく。よほど強い薬なのか、クロコダイルはすぐに動きを鈍らせ、とうとう寝落ちたかのように動かなくなった。
孫次郎の当初からの目的であった『クロコダイルの解放』は、とりあえずは本人らに傷をつけずに実行できそうだと満足した。
……平太は折賀を相手にしっかりやっているだろうか。ふと思い出し、孫次郎はそちらに視線を向けた。そこでようやく気づいた現状に、我が目を疑うこととなる。
折賀と対戦しているのは、いつの間にか怪士丸に代わっていた。何が起こっているのかと色んな可能性が脳裏を巡る。平太の姿を探すと、クロコダイルの小屋の脇の草むらで、伏木蔵と平太の二人を見つけた。明らかに伏木蔵に介抱されているような平太を目にし、更に良からぬ思考が脳裏を圧迫する。……折賀の使うタランチュラとは、そんなにも危険な毒虫ではないはず。慌ててその身を突き動かした。
――時はほんの少しだけ遡る。平太は孫次郎に役割を振り分けられ、折賀の妨害をしてから、よし、と改めて気を引き締めていた。『すごい忍者してる』と自らが評した伏木蔵とは、肩を並べて忍術を学んだのである。やればできるはずだ。そう喚起させて、珍しく前向きに挑んだ。
普段から珍獣を使う折賀はどうやら得意武器はないようで、平太は折賀が打ってくる様々な飛び道具をかい潜りながら、接近できるように挑み続けた。しかし接近すればするほど、愛虫のタランチュラを直接装束に落とそうと図られる。
孫次郎が以前、そんなに気にするほどのものではないよ、とも言っていたが、それにしたって毒虫は毒虫である。咬まれれば痛いはずだ。
どこを咬まれたわけでもないというのに、平太は既に半べそに近い心持ちで、その禍々しく目に留まるタランチュラを警戒していた。
しばらく一進一退の攻防が続く。平太は小さな違和感に気づき始める。首筋や脇の下など、俄かに痛みを持ち始めていたのである。確証もなく焦る。折賀が寄越したタランチュラ攻撃は全て避けていたはずである。それなのに一体この症状は。気のせいか。意識が渦巻き始め、集中力が散漫になる。ここぞと言いたげに折賀は平太の足をかけた。そんな単純な攻撃も避けることができなかった。初めは気が動転しすぎだと平太は自らを叱ったが、次にその原因を確信する。……仰向けから起き上がることができない。全くもって動かすことができない、自分の腹を。何とも不思議な感覚である。どんなに意識をやっても、その腹には力が向かわないのである。
視界に広がっている深い星空に、嫌味な笑みを浮かべた折賀の顔が、無遠慮に覗き込む。
「……やぁっと効いてきたか」
「何を……した」
痛む喉元を無理に震わせて、そう悪あがきをした。本当は時間稼ぎのつもりである。全身、体のありとあらゆる節々に激痛が走り始める。あまりの痛みに全身から汗が吹き出る。
「俺の本当の武器はタランチュラでもクロコダイルでもないってことさ。そいつは猛毒だから、覚悟を決めるんだな」
屈辱的に見下すその眼差しは、死に際に追い込まれた憐れな生き物を見るようである。平太は覚悟を決めるというよりは、悪趣味だなと思った。
「うをぉっ!?」
悪態も吐けずに痛みに耐えていると、突然視界に忍び足袋が映り込み、それは目も追えぬ速さで折賀を視界から蹴飛ばした。
「なんだお前ら!?」
折賀の悲痛な叫びとと共に、今度は伏木蔵の顔が視界に入り込む。
「平太! 平太大丈夫!? しゃべれる!?」
近くで武器を交えている音が聞こえているので、おそらく折賀の相手をしているのは怪士丸である。やつの戦略に気をつけろと警告をしたいと思ってはいるが、激痛がそれを邪魔する。意識を保つので精一杯である。
「と、とにかく安全なところに移ろう……ん?」
移動をさせようと平太の体に伏木蔵が手をかけると、何か気になることがあったらしく、視線を止めた。
「これは……もしかして……」
呟くや否や、伏木蔵は荒々しく顔を上げた。
「っ怪士丸! ゴケグモだ! タランチュラは目くらまし! 気をつけて!」
直ぐにまた平太へ視線を戻し、
「大丈夫、ゴケグモなら解毒剤を持ってきてる!」
そう言ってまずは、と平太の無気力な体を少しは安全な、小屋の脇へ運んだ。それから袖口に手を突っ込むと、いくつかの小さな包みを取り出した。微妙に包み方が違うそれらを見比べ、「これか」と漏らしてから軽く口に咥えると、その他をまた袖口にしまう。残しておいた一包を改めて手に持ち、慌てて投薬準備を始めた。
――そうして解毒剤を投薬したところに、孫次郎は現れた。
「平太大丈夫!?」
心配から声をかけたが、少しずつ表情は和らいできていた。それでも残念なことに、まだ言葉を吐けるほどには回復していない。
「うん、これで落ち着くはずだよ。あまり毒性の強くないタランチュラを使うのが理解できなくて、念のため、あらゆる虫の解毒剤を持ってきてたんだ。怪士丸からもらった本を参考にね。どうやら正解だったようで」
「さすが伏木蔵だ」
賞賛の意を込めて横目で一瞥すると、伏木蔵は「どうも」と小さく笑った。
それから改めて気を引き締め、怪士丸の方へ視線を変えた。
「孫次郎は今の内に動物の搬送に取りかかって。ぼくは平太を運ぶから、人手が一気に半分減ったと思ってほしい」
「そうか。わかった」
言葉通りならばすぐにでも動き始めるところであるが、孫次郎はそうはせず、改めて息を吸い直した。
「伏木蔵、」
「なに?」
気になっていることがあるようで、
「折賀はここにいる。けど、足田は?」
と問いかけた。
足田というのは、この城の忍者部隊の副頭領である。先ほど怪士丸が『寝落ちた人の中にいない忍び』として挙げていた名前で、今怪士丸が応戦している折賀と一緒にいるところを度々見かけている。邪魔されては困る、と孫次郎は行方を気にしていた。
これもまた惜しむことはなく、伏木蔵は話して聞かせる。
「なんかよくわからないけど、本人の部屋で既に縛られてたんだ。敵対している多数派の仕業かな。それとも……。どの道しばらく動けないようにしてきたから、孫次郎は気にせずとりあえず動物を優先して」
「……わかった」
今度こそ深く頷き、そして孫次郎は体勢を低くしたままに小屋の裏に回り、隠していた台車を引きずりだした。平太と作ったものである。睡眠薬を使い、ぐっすりと眠らせたクロコダイルを一匹一匹、運べる限界の大きさの檻に入れ、その台車に乗せていく。
合わせて、伏木蔵も平太を肩に担ぎ始めた。
「怪士丸ー! そいつ早く片付けて、とっとと逃げようー!」
まだ対戦中だというのに、先ほどの緊張感はどこへやら、伏木蔵はそう投げかけた。……当たり前だが、返事はない。ただ、聞こえている確信はあったので、城の裏門に足早に向かう。
――怪士丸は縄鏢を使った。その縄さばきは学園を卒業する間近にもなると、教師陣をも唸らせるほどの腕前だった。そしてそれに折賀も苦戦しているようである。単純に相性も悪かったのだ。近距離で相手の意表をつく戦い方の折賀と、長距離中距離を主に力を発揮する怪士丸……勝敗は簡単に見えた。攻撃ができない状況で攻められ続け、自然と怪士丸の意図した方向へ折賀は追い詰められていく。そうしてついに、足を絡められ、その場で倒れ込み、あえなく文字通りのお縄となったのである。
罪のない使用人や動物たちまで、無差別に燃やし尽くそうと企てていた浦桐派の計画は、派閥構成員の深い睡眠により、この日は実行されなかった。同時に、伏木蔵にしっぽは掴ませなかったが、何かしら企んでいた折賀らから、無事に動物を回収することもできた。
城主の奥方の誕生日会を利用した様々な思惑のぶつかり合いを制したのは、見事伏木蔵らとなった。
折賀を縄に収めた怪士丸は、動物の搬送をしていた孫次郎に手を貸そうとしたが、伏木蔵に呼び止められる。運搬していた平太をその場に下ろし、伏木蔵は「ちょっと個人的な忍務が残ってるから」と役割の変更を求めた。
「先に孫次郎の隠れ家に戻ってて」
「了解」
迅速かつ手短な打ち合わせを一言交わした。
一人で四匹のクロコダイルを、そして数匹の折賀の愛獣たちを運ぶのは一苦労であろうが、それでも平太を任されることにした。
搬出の際に自由に動き回れないよう、クロコダイルやその他の動物のための簡易的な檻が必要だと判断していた伏木蔵は、城外にも準備しておこう、と約束をしていた。平太を担いだ怪士丸もその檻の元に向かい、到着すると、そこで平太の介抱を含め檻番をした。
少し待てば、孫次郎が「これで全部」と本望を全うできたことを伝え、これからどうするのかと視線だけで訴える。
「伏木蔵が、先に孫次郎の隠れ家に戻っててって」
平太の様子を確認するため落としていた腰を上げた。テキパキと動き始めた怪士丸の耳元で、「隠れ家じゃないし」と孫次郎は抗議をしていたが、わかった上で言っていた怪士丸は思わず笑ってしまった。
二人は台車を最大限活用するよう工夫を凝らした。最終的には動物が重なり合っている檻を二段重ねにして、台車の空間に余力を作り、そこに平太を横たえた。こうすれば人手は分散されることはなく、この足場の悪い森の中でも、台車を押しながら横断ができるということである。林も抜け、草原も抜け、星空の色がすっかり深くなり、頭上に広がっていた。
伏木蔵は帰路にて二人に追いついたので、更に台車を押す人数は増え、また進むのが一層楽になる。交代で前から引く者と後ろから押す者を、代わる代わる分担もした。
「何してきたの? 何かの回収?」
並んで台車を引いているときである。唐突に怪士丸が疑問を口にした。特に話しても支障はないのか、伏木蔵はつらつらと言葉を置いていった。
「ううん、あいつらが企てていた計画がわかりやすいように、その会議の議事録とかを目の留まるところに置いてきてやったんだ。皆は縛った上でね。すっごいスリルだったよ」
まるでそれを楽しんできた来たかのように身震いをして見せた。
「雑渡さんへの報告とかは?」
その話を横から聞いていた孫次郎も、会話に割って入る。
そもそも伏木蔵の忍務の内容を詳しくは知らないので、あのままあの忍者部隊を『忍びとして不可』としてしまっていて良かったのだろうか。
そう気を揉んでみたものの、当の伏木蔵はこれっぽっちもそのことには触れず、
「うん、同じものを転写してきたから、報告書はそれで十分」
と、数枚の紙の束を懐から取り出した。
「仕事が早いね」
「まあね。期待には答えなくちゃね」
またいつもの余裕綽々な、あたかも全てのことを軽くこなしているかのような笑顔で、伏木蔵は自慢してみせた。それも照れ隠しの一つなのだと知っていた二人も、誇らしい気持ちになっていた。
その後、夜明けのころには無事に孫次郎の家に到着した。道中で平太が目を覚ますことはなかったが、孫次郎の家にある新調した布団に移そうと運ばれているときに、ようやく目を覚ました。体の怠さを訴える一方で、死ぬかと思った、あー死ぬかと思った……と繰り返した。
それから四人で朝食を摂りながら今回の活動を振り返り、そうして今後どうするかについて語らった。
とりあえずはクロコダイルを故郷に帰すことが先決だ、と主張した孫次郎。自身の店があるから、とざっくばらんに話す怪士丸。しばらくは療養したい気持ちです……と、ボソボソ呟く平太。そして最後に、今回も依頼元になるタソガレドキ忍軍の雑渡昆奈門への報告を入れなければ、と弁じる伏木蔵。どれも尊重すべきであり、故に、矢庭に四人の解散が決定した。無論、異論を唱える者もいない。
思えばいつ始まったかもよくわからない、今回の忍び活動だ。だが、たまたまとは言え、またこの四人がこうやって同じ目的に向かい進めたことは、とても愉快なことである。あの頃と変わらず、何故か顔面は蒼白なままではあったが、お互いの活力に触れたことはとてもいい刺激となったのだ。
朝食を摂り終えるや否や、一同は惜しむことも特にはせず、さっぱりと解散していった。
おしまい
後記
まず初めに、ご読了本当にありがとうございます。細かいことは気にしない、あのお人になりきってお読みいただけたでしょうか?
前記しましたが、成長一年の忍務パロディ好きが高じ、このような本を発行することとなりました。今回は主に、「この人のこういうシーンを書きたい」「こういうことをしているあの人を見たい」と言った、己の願望を詰め込んだような形になっております。泣く泣く削った設定や場面も多かったのですが、とても楽しかったです。皆様にもそれが伝わると嬉しいです。お気づきの方も多いかと思われますが、同時発行の成長一年は組「狐の合戦場」とも世界線が通じているので、合わせてお楽しみいただけると幸いです。
普段の活動としましては、ピクシブなどで小説を書かせていただいております。ご興味をお持ちの方はぜひとも遊びにきてください。(ほとんど腐っているので、苦手な方はご注意ください)そして、今後の活動としましては、現段階では未定となります。もしまた何かを発行した際は、お付き合いいただけると幸いです。
最後にはなりましたが、素晴らしいという言葉では語りきれないカバーイラストをご快諾いただきましたぷっけ様、並びに、発行してみたいなあと淡く思っていた私の背中を押してくださった矢車様、本当にありがとうございました。お二人のお陰で、ここまで辿り着くことができました。感謝でいっぱいです。(カバーイラスト初見時の興奮たるや……)
また、こんなに長い後記を含め、ご読了いただきました皆様に置かれましても、お付き合いくださり、本当にありがとうございました。お読みになったご感想やご意見などもいただけると、とても嬉しく思います。また私の作品をお見かけくださった際は、どうぞよろしくお願いします。
ありがとうございました!
きゃんどる
「今彦一座」
「ぶつかる草原」
発行:きゃんどる (ボーロ実験)
初出:2015.7.5
special thanx!
カバーイラスト:ぷっけ様