恩返し
「土井先生は……」
「うん?」
「どうして手裏剣、使わねんすか」
ろうそくも点けていない縁側で見る星空は、余りにも満天で、文句の付けようもないほどの迫力だった。
質問しながら俺は、土井先生に視線を乗せる。
本人は湯のみを手に持ったまま、苦笑を浮かべる。
「そんなこときり丸も知ってるだろう。私は手裏剣が苦手なんだ」
いつもと変わらない優しい声。
「でも、教師になる前はチョークなんか使ってなかったんでしょ? 練り物と一緒で、食べる使うが苦手なんじゃなくて、存在が苦手なんすか?」
その優しい声でも、俺の体に覆いかぶさる暗雲は拭えなかった。
片方の膝を抱えて、追い詰めるような気持ちで返答を待つ。
「うん、そうだなあ」
その返答はとても曖昧だった。
――俺はここ数日、学園から離れていた。
もう慣れっこになっていた『実習』とは名ばかりの、実質はほとんど下請け忍務のために、学園から山をいくつか越えた城まで出向いていたのだ。
六年生になったばかりの春である。
忍務自体はとても簡単なもので、戦の原因となっているあるものを、その城から回収するというものだった。
……そのあるものは忍務上、明かすことはできないが、とてもつまらないものだ。
それをさっさと回収した俺は、次の日、つまりは今日、夜が明けてから帰路に着いた。
「あー……くっそ」
この立ち込める火薬の匂いと、焦げ臭い煙。
ところどころで上がる雄叫びがいちいち俺の胃を揺さぶった。
まるで池に石を放り込むように、思い出したくもない光景が腹の底から舞い上がってちらつく。
これがまた、最低に気分を悪くさせる。
俺は被っていた笠をさっと深く被り直し、見ない聞かないように足を早めた。
……そう、俺にできることはこのくらいしかない。
この戦を止めるための小細工しかできないんだ。
そんなこと、わかっている。
でも阿呆な城主たちが戦を辞めるとその口を開くまで、刻一刻と家族同士が引き裂かれているのかと思うと、居ても立ってもいられなくなる。
つまり、俺は今だに自分の感情を制御できていないということで、わざわざ戦が目に付くような忍務をさせるのは、学園長なりの俺への引導なのだろう。
「あー……」
でもそんなに簡単に割り切れるものでもない。
春うららかな日差しの中、俺の背後ではしばらくドンパチと物騒な音が響いていた――
「随分曖昧な返答っすね」
湯のみに少しだけ残っていたお茶をくるくると回して、自分で茶柱を立てる。
会話がつまらないと思っているのではなく、自分なんて何も守れやしない、誰よりも無力なんだという気がして、つまらないのだ。
「……私は、」
思い切ったように土井先生が口を開いた。
「手裏剣を使って家中の者たちが殺されたんだ。目の前で、だ。……忍者だったんだ、私の家を襲ったのは」
俺はその言葉に驚いて茶柱どころではなくなり、慌てて土井先生へ視線を戻した。
そして土井先生は、中には刀を使うやつもいたなと付け加えた。
何も言えなくなった俺に、土井先生は相変わらず優しく笑いかける。
「先生ごめん……」
その優しい目元に居たたまれなくなり、俺は視線を落とした。
申し訳なかった。
土井先生は鬱々として行き場のなかった俺に優しくしてくれただけなのに。
「ごめん……」
「なんできり丸が謝るんだ、きり丸は悪いことしてないだろう」
そして頭を引き寄せられて、少し強めにわしわしと撫でられた。
なんて優しいんだろう。
どうして俺の面倒に向き合ってくれるんだろう。
土井先生に対して言葉にならないほどの感激が溢れ出て、鬱々としていたのも手伝い、少し目頭が熱くなってしまった。
「いや、私の方こそ悪かった。大人気なかったな。ごめんな」
「そんなこと、ないっす」
その返答で少し涙ぐんでいるのが知れたのか、土井先生は一層明るい声で話し始めた。
「……大丈夫だよ、きり丸。確かにそれは優しい思い出ではないけれど、私にはたくさん素晴らしい思い出もある。飛び切り優しくて温かいやつだ」
「……どんなすか?」
俺は顔を上げた。
声が嬉しそうだったから、表情はどうなのだろうと知りたくなった。
「あはは、きり丸との思い出だよ」
「嬉しいっすけど、たくさんって言いましたね? 他にもあるんすか?」
「……ああ、あるよ」
「どんな?」
「そりゃもちろん、山田家との思い出とかな」
何かを言いたそうに、でも少しだけためらってから、土井先生は再び口を開いた。
「……あとは、路頭に迷うところだった私を助けてくれて、私に忍びになりたいと思わせた人との思い出とかな、短かったけど」
「……そんなの初めて聞きました」
「初めて話したから」
先を促す意味も込めて沈黙した。
すると土井先生は懐かしいその人とまさに今、面会しているかのような表情を浮かべた。
「その人は本当に無条件に私の世話をしてくれて、私がまた頑張る勇気をくれたんだ。だから、今の私が居るのはその人と、山田家と、お前のお陰だよきり丸」
土井先生の手が優しく伸び、また俺の頭をひとしきり撫でた。
そして「お前を大事にすることがその人への恩返しだという気もするんだ」と付け加えられた。
土井先生は星空を見上げて、願うように呟く。
ーーまた会いたいなあ、と。
「きーりーちゃんっ 起きて」
翌朝、俺は乱太郎に起こされた。
「昨日は実習お疲れさま」
けど、春眠暁を覚えず。
俺はまだ薄ぼんやりとした意識の中、夕べの土井先生との会話をおさらいしていた。
土井先生はその後、「不思議と顔や名前が思い出せないんだけど……薄情かなさすがに」と苦笑していた。
その光景と、朝日眩い乱太郎の顔が一瞬混在した。
「今日はきりちゃん、お休みでしょ。私も予定ないから一緒に薬草摘みにいかない?」
「……薬草……?」
寝ぼけ眼をこじ開けて、乱太郎に確認する。
乱太郎は昨日の土井先生みたいに柔らかく笑っていた。
「うん、もう春でしょ。この時期たくさん採れるから、一緒に行こう」
「……わかった……」
一人で居てもまた実習のこと思い出してしまいそうだし、と自分を納得させながら、なるほど乱太郎も気を使ってるんだなと合点がいった。
怠い体を無理やり起こし、乱太郎と一緒に支度にかかる。
朝飯や着替えなどを終わらせ、乱太郎と二人で忍術学園の門を抜ける。
いつもは持たないが、今日だけはなんとなく持ってきてしまった念のための荷物に、改めて必要性を問う。
だが、結論も出る前に、もう門をくぐったしと諦めて抱え直した。
そうして目的の裏裏裏山の谷に二人で向かう。
途中、クラスメイトの話や乱太郎の実習の話、最近できた南蛮直輸入の医療具屋の話などをした。
「うわ! きりちゃん! すごいきり!」
浅い谷底と、その谷の上で二手に分かれて薬草を採取していた。
不意に乱太郎が上から叫んだので、何のこっちゃと見上げる。
「うわ! 霧!」
見上げてわかったことは、乱太郎が言っていた『きり』とは『霧』のことだということと、最早谷の上に居るはずの乱太郎すら見えなくなっていたということだった。
「きりちゃーん! 大丈夫ー!? 霧が酷いから一旦合流しよーう!」
「おう、わかったー! 崖を登るのは危険だし、俺が少し回ってそっち行くー! 乱太郎は動くなよー!」
「はーい! きりちゃんも気をつけてー!」
そこに相手はいるはずと手探りのように声をぶつけ合う。
意思の疎通がはかれたところで、俺は採取した薬草を担ぎ、荷物を確認して歩き出した。
谷を抜けてしばらく歩くと、段々とその霧が煙たく感じるようになり、大嫌いな焦げ臭い匂いも混じり始めた。
……この近辺で戦でも起こっているのたろうか……
まだ視界は奪われたままなので、一応腕で喉元を守りながら、体勢を低くして進む。
乱太郎は大丈夫かな、そう思った瞬間に強い風が一吹きして、一気に視界が拓けた。
「……なん……!?」
俺は我が目を疑う。
確かに霧がかかる前は青々とした新芽が山を彩っていたのに、霧が吹き去ると全てが紅葉の赤や黄で埋め尽くされていた。
しかも今はまだ正午前のはずだというのに、夕焼けが紅葉の赤をより一層濃くしている。
「ど、どうなってんだ……!?」
景色自体は確かに見慣れたもののはずなのに、強い違和感に襲われる。
慌てて背負っている薬草の籠を覗いたが、そこにはまだ新鮮な春草が香っていた。
「……乱太郎っ!」
慌てて乱太郎が待っているであろう谷の上へ向かう。
もはや霧さえ晴れてしまえば、さほど距離はない。
だが、すぐに到着したというのに乱太郎の姿は影も形もなくなっていた。
なんだ、どういうことなんだ、何が起こっている……!?
さすがに冷静ではいられず、俺は慌ただしく自問する。
とりあえず村を探して住民に色々聞いてみよう。
そう結論が出て、山を降りることにした。
歩きながら確認したが、この近辺で一際太い煙が上がっている場所がある。
そこには間違えなく村があるはずだ。
真っ直ぐにそちらに走る。
そして、山の木々が拓ける見通しが付いたくらいか、
「きゃー!」
「うわー!」
と、女性のものと思われる叫び声と少年の雄叫びが、前方から響いてきた。
……なんだ……?
無意識に足を早める。
そして拓けた視界に映り込んできたのは、燃え盛る大きな屋敷だった。
俺が目印にした煙はここからだったらしい。
……中に人がまだ……!?
大急ぎで薬草の籠を置き、その屋敷に向かって走り出した。
何も考えてなどいない。
体が勝手にそうしようとした。
突然目の前の二階の窓から少年が飛び出して来て、俺は慌てて足を止めた。
あの体勢は自らが飛んでそうなったものではない。
誰かに窓から突き飛ばされたのだ。
それと同時に、二階にいた女性のものと思われる断末魔が耳を刺した。
何が起こっているのかを理解するのと、飛び出してきた少年を間一髪のところで受け止めるのとでは、そう時間の差はなかった。
「くそ、母上は!?」
――この屋敷の家族が命を狙われているのだ。
少年は俺に受け止められたことにも気付かなかった様子で、煩わしそうに腕を振りほどき、そのまままた炎が燃え盛る屋敷へと駆け込んでいく。
「!? 何やってんだ……!?」
慌てて俺も後を追い、屋敷に駆け込む。
灼熱の風が俺を追い出そうと吹き付けてくるが、少年を放っておける道理もなかった。
「母上っ! どこですかー!?」
「おい! お前落ち着け!」
追いついた俺はその少年の肩を掴み、腹を掴み、乱暴に担ぎ上げた。
放せとジタバタ暴れていたが、普段から鍛えている俺にとって、それは些細なことである。
とりあえず急ごう……出口が塞がれる前に……!
次々に汗が滴る。
それら全てが床に落ちるよりも前に蒸発してしまうような、そんな錯覚を抱くほどの熱気だ。
その中で安全な道筋を探していたら、天井がメキメキと音を鳴らし、すぐに大きな音を立てながら玄関の前を完全に塞いでしまった。
「……くそっ」
次に俺が目をつけたのは窓だった。
急いで見回す。
「うし!」
あくまで比較的にだが、まだ進めそうな道筋を見つけ、俺は走り出した。
上に向かって風が吹き抜ける。
炎は勢いを増す。
少年を抱えたまま、窓から飛び出した。
「……っいてえ……!」
はっとして、少年の存在を思い出す。
乱暴に扱いすぎたかもと我に返り、少年の体勢を整えてやる。
「お前っ、大丈夫か? ……て、はあっ!?」
俺は仰天した。
目を見開いた。
母上、母上、と声を殺して泣く少年が、余りにも土井先生に似ていたからだ。
「うそだろ……土井、」
そこまで言いかけて、そんなわけないかと自分で言葉を抑制する。
すると目の前の少年が何かに気付いたように、
「っ! はんすけぇ!!」
と思い切りよく叫んだ。
俺は更に驚いた。
「居たか!?」
「そっちは!?」
驚いてはいたが、厳つい男たちの声を聞き我に返る。
「とっ、とりあえず場所を変えるぞ!」
「え!?」
無理やりにその土井先生似の少年の手を引き、俺は走り出した。
薬草の籠を置きっ放しにしていたことなど、微塵も頭に過ぎらない。
しばらく走り、それから速度を緩めて早歩きで動き回った。
道中で俺は記憶を辿り、知人の住んでいるはずの村に向かったが、その知人どころか家一軒すら見当たらなかった。
仕方なく別の村を目指したが、そこも似たようなもので、ようやく見つけた一軒に尋ねても、そんな人は聞いたこともないと追い返されてしまった。
そうこうしている内に日も暮れきってしまい、山中では灯りもほとんどなかったので、近くに見えた小川の側で夕飯も兼ねて野宿することにした。
「疲れたろ、そこの川で水を飲むといい」
言われるがままについて来ていた少年は、また言われるがままに川で水分を摂る。
俺の持っていた水では、到底二人が満足に喉を潤すには足りていなかったので助かった。
その間に俺は荷物を下ろし、食堂のおばちゃんに持たされた弁当代りのおにぎりを出そうと、懐に手を突っ込む。
そして、あることに気が付いた。
「うわ、うそ、まじかよ」
少年救出の一連のアクションのせいか、着物が酷く破れていたのだ。
袖の肘から下の部分が、ごっそりとなくなっている。
見れば腰の部分も破れていた。
……全く気付いていなかった……。
いつも薬草摘みには持って出かけないが、今日はたまたま持っていた荷物を広げる。
そう、今日に限っては忍装束を持ってきていたのだ。
昼間ならともかく、夜ならそうそう人に見られないだろうと思い、深く考えずに着替え始める。
「……え……?」
その様子を見ていたのか、少年が余りの喫驚に声を落とした。
「ん? どうした? 服が破けちまったからよ、明日新しく服を調達するまでの辛抱だ。それより水は飲めたか? 大したもんはないけど、夕飯にするぞ」
俺が言い終えても、おずおずと近寄るだけで何も返事は寄越さない。
……俺が忍とわかって警戒しているのかもしれない。
しかし俺にも確認しないといけないことがある。
俺の置かれている状況もそうだが、何よりさっきこの子が言っていたことだ。
とりあえず、おばちゃんのおにぎりを差し出す。
「ところで、さっきなんで俺が『土井』って言ったとき『はんすけ』って言ったんだ? ……おま、いや、君の名前なのか?」
その少年は下を向き、ちょびちょびとおにぎりを頬張るばかりで、反応は返っては来ない。
俺は話しかけるのを一旦諦めて、その様子を観察した。
……本当に土井先生にそっくりだ。
他人の空似か、それとも……
沈黙の中で、俺はすぐに見入らせられていた。
ものを食べるという仕草一つにしても、本当に土井先生そのものを思わせたからだ。
そして、思い出す。
春の景色が一転し、秋になったということを。
乱太郎が元いた場所から姿を消したということを。
少年の屋敷があり、家族がそこに住んでいたことを。
そして、いるはずの知人がいなかったということを。
つまりだ、俺はどうにかして土井先生が子どもだった時代に迷い込んだということだろうか。
信じたくもないが、その可能性は高い。
むしろ否定できる要素も、「そんなこと常識でありえない」というだけの、なんの根拠もないことだけだ。
「お、うめえか」
少年がもう一個のおにぎりに手を伸ばしたのを見て、俺は我に戻る。
それでも何も反応を示さず、少しだけ動揺したように足元を見ていた。
やはり警戒されているようだ。
「何でしゃべんねえの?」
思い切って聞いても、肩をビクつかせるだけで、他は何も変わらない。
俺は口に米をいっぱい詰め込んだまま、最後のおにぎりに手を伸ばし、行儀悪く続けた。
「まあ、しゃべらないのは君の自由だけどよ、とりあえず宛もないんだろう? 今夜は俺とここで野宿にするか」
なるべく警戒心を解けるように愛想良く笑ってやる。
強張っていた少年の表情も、少しだけ緩んだように見えた。
その後、俺は少年に木陰の寝床を提案し、俺が起きて見張っておくから寝ろと促した。
まんま土井先生の顔で、野宿に抵抗がありそうな表情とか、怯えている顔をするのは少しだけ違和感ではあったけども、恐らく全てのことが初体験なのだろう。
少年が横になるのを見届けて、俺もふぅ、と息を着く。
……俺が思うに、この少年の家への襲来は忍者が絡んでやがる。
上火を使っていたようだし、そもそもただの村人エーならば、燃え盛る屋敷の二階から上手く逃げ失せることもできないだろう。
そうか……それに……
ーー私は、手裏剣を使って家中の者たちが殺されたんだ。
昨晩の土井先生の声を思い出す。
ほとんど忍者で確定だろう。
俺を警戒するのは仕方の無いことだ。
しばらく考えている間にも、少年は何度も何度も寝返りを打った。
そこでようやく、寝付けないらしいと気がつく。
……そうだよな、この少年が幼き日の土井先生であれなかれ、少なくとも人間の断末魔を聞いたのはつい今日のことなんだ。
そんなにすぐ寝付けるわけもないか。
ふ、と、見えもしないはずの少年の表情と、小さい頃の自分の苦しみが重なった気がした。
俺はのそりと立ち上がり、特に音を殺すこともなく少年の隣に腰を下ろす。
「……眠れねんだな」
反応は特にない。
「いいこと教えてやる。今日みたいな夜は、目を瞑らない方がいい。せっかく頭上に満天の星空が広がってんだから、それを見てさ。一点に視線を集中させないように、猫とか湯のみとか、本当に何でもいいから、ただひたすらに形を探すんだ」
そうでもして思考を誤魔化さないと、自分がどうにかなりそうだったことを、俺は覚えている。
何が起きたのかと考えても、そんなこと堂々巡りで意味なんか持ちやしないんだ。
どうにかできる未来のことを思い悩むのはいいが、これは全くの別もの、自分の精神をすり減らすだけ。
「……そしたら、気付いたらいつの間にか寝ついていて、いつの間にか日がまた登ってるよ」
土井先生が普段俺にしてくれているように、できる限り優しく頭を撫でてみる。
髪の毛のごわごわした感じも、よく知る土井先生のものを彷彿とさせた。
翌朝、日が登る少し前には近くにいくつか用心縄を仕掛け終え、俺は仮眠を取り始めた。
そして日が登り切ったところで、また目を覚ます。
幸いなことに少年は、あの後大して時間を費やすことなく眠りについた。
俺が試行錯誤して行き着いた方法が役に立って、本当に誇らしく思えた。
けれども朝になってみれば、とても苦しそうにうなされている。
俺は慌てて少年を揺さぶり、
「おい、大丈夫か」
と声をかけた。
まるで何かから大慌てで逃げるように、少年は飛び起きる。
そしてしばらく俺と、俺が身にまとった忍装束をまじまじと観察し、荒かった息も少しずつ整えられる。
吐く息がいちいち白く曇るものだから、それはよくわかった。
「大丈夫か。相当うなされてたぞ」
改めて手を伸ばしてやる。
だが、また一度大きくビクついたあと、少し体を引くだけで、宙に浮いたままの俺の右手を掴むことはなかった。
……まだ警戒しているらしい。
また「無理もないか」と、行き場のない右手で自分の首を一掻きして誤魔化し、小さく息をついた。
とりあえず朝飯にしよう、と口から出たかどうか確かではなかったが、俺は立ち上がり、予め用意していた刻んだ里芋の茎を熱湯で煮、目の前で即席の味噌汁を作ってやった。
それを携帯していたお碗に注いでやり、少年に差し出す。
少年は警戒して立ちすくんだが、「冷えるぞ」という俺の一言で渋々と近寄る。
お碗を受け取った少年は、手頃な岩に腰を下ろした。
果たして味噌汁の湯気か、少年の息か、どちらとも着かない白い空気をぼんやりと眺め、既に野宿には優しくない季節だと実感した。
今晩はどこか寝床を手配しなければいけないだろう。
もう一つ、今度は茶碗だが、そいつに俺の分の味噌汁を注ぎ、同じように手頃な岩に腰を掛ける。
茶碗から上がる温かい空気にもほのかに味噌の香りが乗っており、匂いだけで体が温まる思いがした。
ふうふうといつまでも熱湯を冷まし続ける少年とは裏腹に、俺は二・三回熱気を吹き飛ばしたあとは、ちまちまと茶碗に口を付けていった。
「お兄さん……」
味噌汁も半分くらい飲み進めたころ、まだ声変わりも終わっていない声が小さく聞こえ、俺は味噌汁から少年へ視線を上げた。
そこには土井先生に瓜二つの少年が座っており、俺は状況を再認識させられる。
「昨日から……その……ごめんなさい」
どうやらずっと黙秘していたことを謝りたいらしい。
手に持った味噌汁の存在を思い出し、視線をそちらに戻した。
「俺の素性が知れねえから警戒してたんだろ。当たり前なこった、気にすんな」
「うん……」
言葉を終えると同時に、残った味噌汁を飲み干す。
「私は土井家次男の半助だ。初めはお兄さんが村の人と思って、助けに来てくれたんじゃないかと名乗ったのだ」
「そうかよ」
今はまだ何かを続けたそうだったので、気の利いた相槌を打つよりも、短く済ませてやる。
「お兄さん、忍者なんだよね」
唐突な疑問符に答えるため、改めてその顔を覗き込む。
本当にどこまでも土井先生の顔にそっくりだ。
……いや、土井先生の面影があると言った方が正しいのだろうか。
「きり丸だ。きり丸と呼んでくれ」
その顔で『お兄さん』はちょっときつい。
「……きり丸は、忍者でしょ」
気を取り直して、疑問符がまたやってくる。
「ああそうだ」
しっかりとその二つの目を見て、はっきりと肯定する。
すると見る見るその表情は強張っていき、途端に腰を上げた。
「あそこで何してたの!? 私の家を襲った忍者と関係あるんでしょ!?」
なるほど、未だに俺への警戒は解けていなかったらしい。
俺はゆっくりと立ち上がり、その手に強く握られていた使用済みのお碗を受け取った。
ついでにその緊張しきった小さな体をほぐすように、頭を少し撫でてやる。
「悪いがおま……君の家のことは知らねえ。ちょっと問題があってあそこにいた。俺にもまだ良くわかってねんだ」
そう、何がどうなって今ここにいるのか、まだ良くわかってねえ。
「じゃあ……きり丸は……私の家族を襲った忍者とは……」
「ああ、関係もないし、悪いが正体も知らない」
「……そうか……」
安堵しているのか落胆しているのか、どちらとも読めない表情で少年は、視線だけを落とした。
一通り碗を洗い終わり、調理した周辺を砂や泥で埋め直し、後片付けを終えたころ、この先どうするかという話になった。
当然少年は家族を探したいと申し出、そして俺はそれを快諾した。
本当のことを言うと、俺の知る土井先生は家族と生き別れているわけで、おそらくこの少年ももう再会することはないのだろう。
だが、『家族を探しても無駄だ』などとは到底言えず、気が済むのならと承諾したのだ。
ただ問題はあった。
「真っ昼間に忍装束じゃ、やっぱ目立ちすぎるな……」
そう、俺の服をどうにかして調達しなければならない。
昨日着ていた半分焼け落ちている着物にしても、目立ってしまうので同じことだ。
二人で少年の家の方向へ歩きながら、俺はどう服を調達するかと考えていた。
元々は暖色に包まれた山中にいたのだが、人が二人並んで歩くのがせいぜいの道を見つけ、それを進む。
見通しもよくない、閉塞感のある空間だ。
そこではほとんど人通りもなく、誰かに服を譲ってくれとお願いしようにもその『誰か』も見当たらない。
どうしたものかと考える余り、次第に会話もなくなった。
そうしてとうとう、ざしっざしっ、と草履で砂利を蹴り歩く音だけが響くようになる。
――そこで違和感に気がついた。
「あ、そういえばきり丸っ」
「おう、なんだ」
あくまで自然に会話を続けるふりをして、それとなく背後の気配に集中する。
俺たち二人の足音に混じり、必死に音を殺すように歩く足音が、数人分混ざり込んでいた。
しかし消音は到底完全なものとは言えず、おそらく忍のものではないことだけは見当がつけられる。
「だから、それがもしかしたら原因で私の家は狙われたのかも……きり丸?」
話を半分も聴かずに、背後の人数とこの先それをどう処理するかに頭を回していると、少年が低い位置から心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
俺はその肩をとんとんと叩き、また横に並ばせる。
「落ち着いて聞け、絶対振り向くな。確証はねえが、たぶん追手に付かれてる」
「ええ!?」
「振り向くなよ」
反射的に背後を確認しようとした少年を間一髪で止める。
あくまで何も気づいていないように自然に前を向いて歩け、と小さな声で指示を出す。
しかしながら、この追手かも知れないやつらを処理するには、やはり人数の確認と追手である確証が必要だったため、俺は常套手段を使うことにした。
「お、悪い、草履の紐が解けかかってる。結い直すから少し待ってくれ」
「え、あ、うん……」
そう言って白々しく木陰にかがむ。
草履の紐を一度解き、改めて結ぶ。
その間に気付かれぬように、追手の気配を追う。
これは間違いねえな……。
俺たちが立ち止まって後ろの奴らも立ち止まるのは、俺たちに用がある証拠だ。
更に隠れるというのは、俺たちにはまだ気づかれたくないからだろう。
慎重なのかビビってんのか知らねえが、御大層な追手なこって。
人数は恐らく四人。
木陰に二人と、藪に一人、小道を挟んで反対の藪にもう一人。
身の隠し方も、自分の腹のでかさも知らねえようなド素人たちだ。
俺は結い終えて「待たせたな」と少年の肩を持ち、また静かに歩き出した。
「よく聞けよ」
「うん」
「相手は四人だが、忍ではない。あの突き当りで右に曲がったところで隠れるから、君は俺にひっつけよ。うまく行けばやり過ごせるかも知れない」
「う、うん……わかった」
まるで唾を飲み込む音が聞こえて来そうなほどに、少年は緊張した。
心なしか俺に身を寄せる。
その仕草がとても愛らしく思え、相手が土井先生ということも忘れ、こそばゆい気持ちになった。
……これが、土井先生が俺たちは組に抱えていた、守ってやらなくてはという活力なのかと静かに納得する。
「大丈夫だよ。俺が守ってやるから」
お得意の笑顔を作ってやると、少年は少しだけ笑い返した。
作戦実行の突き当りまで、一歩一歩、確実に踏みしめていく。
相変わらず、ざしざしと砂利の音は響いているが、角を曲がるためか追手も少しずつ距離を詰めて来ている。
盗み見た少年の表情も大変に緊張していたが、追手側も相当に緊張していることだろう。
足音を掻き消すのがどんどん下手になってきている。
……ちなみに俺は、日々の忍務と持ち前の度胸のお陰か、全くもって緊張なんかしていない。
例え戦闘になったとしても、戦闘どころか喧嘩の経験すら皆無であろうあのおっさんたちに負ける気は全くしない。
いや、これは三禁に値するか。
確実に少年を守るなら慎むべし、だな。
そしてついにその曲がり角に差しかかる――
曲がるや否や、指示通りに俺に引っ付いて来た少年を半ば抱え上げ、小道を逸れて藪の中に身を埋める。
カモフラージュ用の迷彩布は生憎と持ちあわせていなかったが、装束の深緑で事足りたらしく、呑気に曲がってきた追手は、俺たちの姿が消えたことにしばし騒然とした。
どうしていいのかわからないらしく、声を荒らげながら右往左往している。
「なんてこった! 土井家はまだ誰一人として遺体は確認できてないんだ! 次男くらいはどうにかしねえとどやされちまうぞ!」
「全員逃したともなれば報酬ももらえやせんねえ」
「そんなことより一緒に居た若造は忍者ですかね」
「そりゃそういう装束着てたんだか……ら……」
騒然としていた四人が、途端に静まり返った。
誰かがそう指示したような性急な静寂だ。
……緊張感が両者の間を蝕む。
俺が抱え込むように庇っていた少年も、相当に震えていた。
これは長くは持たないと踏み、手頃な小石を拾い上げて低い位置からそれをなるべく遠くに投げる。
かさっ
「あっちか! 今あっちで微かな音が聞こえたな!」
「へい! 確かに聞こえやした!」
「お前は念のためこの辺りを見張れっ」
嬉々として小石の後を三人が追っていった。
どうしようどうしよう、と一人残された男が忙しなく辺りを見回したり、走り去った三人の背中を視線で追ったりしている。
「ちょっと待ってろ」
先ほどの葉擦れとどちらの方が小さかったか。
小声でそう少年に残し、俺は静かに頭巾の端を引き上げ顔の半分を隠した。
風の音すらも殺すように立ち上がり、男に近づく。
男は突如現れた俺に声も出ないほどに驚いていた。
その背後をいち早く取り、首元に竹箸を突き立てる。
鋭利そうなもので相手を脅せるものなら何でも良かった。
「あ、あわ、あわわ」
「わかってると思うが声を上げるんじゃ、」
「っうわあああああ!!!!」
「あ、おいっ、こらっ」
しかし残念ながら動揺させすぎてしまったらしい。
男は俺の脅迫に自制の崩壊で打ち勝ち、叫び声を上げた。
「おい、なんだ今の叫び声は!?」
「町田か!? どうしたっ」
くっそ、と喉の奥で悪態を吐き、その男の頭を懇親の力を込めて思い切り引き下ろして、俺自身の膝にぶつけた。
後頭部を強打した男はいとも簡単に意識を失い、その場に力なく倒れ込む。
「どうしたっ」
「……っ!?」
「うへえっ、さっきの若造だあ!?」
小石を追っていた間抜けな仲間たちが戻り、倒れている仲間を目の当たりにして、眉頭が怯えたように引きつる。
しばらく……と言っても、息を一度吸って吐くくらいの間、三人は戦々恐々としたが、一際体格のいいおっさんが呻き声を上げて飛びかかってきた。
間に合うくらいの短い嘆息を漏らし、俺はがら空きになったおっさんの脇に入り込んで、鋭く拳を叩きつけた。
おふ、とも、うをふ、とも取れる声が漏れ、おっさんはそのまま脇を抑えてうずくまった。
だがそのおっさんの勇敢な姿が、もう二人にも火を灯したらしく、同様に殴りかかってきた。
それでもその二人の息はてんでバラバラで、初めに殴りかかってきたおっさん以上に隙に満ちていた。
まず初めに駆け込んできた男に、軽く助走をつけての上段蹴りを顎に入れてやり、雪崩れ込むように現れたもう一人の顔面にもう一丁、回し蹴りをお見舞いしてやる。
俺自身の長髪の先が視界に入り込み、まもなく素直に重力に従った。
二人は起き上がる気配もなくその場に倒れ込んだが、さすがに脇を一発殴っただけではノセなかった初めの体格のいいおっさんが、改めて襲いかかってくる。
俺は冷静に裏拳で一発顎を弾いてやり、そのまま視界が揺れ始めた男のみぞおちに肘を打ち込んだ。
また情けない声を漏らし、今度こそ俺の膝や拳とは裏腹な、柔らかい落ち葉の敷き布団で安らかに眠った(たぶん死んではいないはず)。
四人とももう動く気配がないのを確認し、少年を隠れさせた藪を見やった。
どうやら途中から見ていたらしく、すぐに目が合う。
「にしし。まあ、なんだ。忍装束しか持ってなかったし、ろくな武器も銭も持ち合わせがなかったからさ、丁度いいやと思って」
そしていそいそとノシた男たちの懐を漁る。
四人合わせれば結構な銭と、小刀や縄、薬などをそこらから探り当て、最後に全員の服をひっぺがす。
肌着は残してやったので、その辺の優しさは買って欲しいところだ。
「きり丸……なんで身ぐるみ剥ぐの?」
恐る恐る少年が問う。
なるべく皺を付けぬようにその衣類を自分の腕に畳みかけながら、笑顔を浮かべて歩み寄る。
「そんなの売るに決まってるだろ」
「売るの?」
「ああ、売るね。こいつらが着ていたものをそのまま着てたんじゃまたすぐ見つかるし、何より銭になるものは貰っとかないと損だぜ。俺はタダ働きはごめんだからな」
「……そう……」
それでもやはり「苦無でも持ってりゃ完璧だったんだがよ」という気持ちは隠しきれず、そう呟いた。
……まあ、本業が忍ではない彼らに、それはさすがに期待し過ぎだな。
戦利品と呼ぶに相応しい大荷物を抱え、しばらく山を下ったころ、道端で物売りの一行と出くわした。
ちょうどいいので持っていた着物を換金してもらい、更に新しく二人分の着物と笠を購入した。
生憎と武器の類は揃えがなく、ここでも何も調達できなかったのは辛いところだ。
そこでついでとばかりに俺は荷物を一度広げることにした。
忍装束と一緒に持ち出した忍具は、手裏剣と自作の焙烙火矢がそれぞれ手頃な数に、耆著(きしゃく)、そして幸いなことに寸鉄も一対入っていた。
なんだよ寸鉄あったのかよ、と自分に駄目出しをしながら、それらを改めて装備し直す。
「それにしてもきり丸って強いんだね!」
その様子をずっと黙って見ていた少年が、屈託なく笑いかけてくる。
覗いた笑顔があまりにも土井先生そのままで、なんだか褒められているように錯覚し、安い表現だがとても嬉しくなる。
「おう! 俺は最高の先生に教わってるからな!」
間接的に俺も土井先生を褒めたつもりだった。
しかし、俺が将来の教え子とは知るはずもなく、少年は急に元気を失くす。
「そうなんだ……」
どうやら何か余計なことを思い出させてしまったようで、俺は失態を反省する。
とりあえず話題を変えてしまおう。
「ま、とりあえず先へ進むか」
「う、うん」
二人で改めて歩き出した。
そうして更にしばらく進むと、見覚えのある山道につながる。
少年はしばらく前から口数が減っており、なるほど既に勝手知った道だったから静かだったのかと合点がいく。
被っている笠をどんどん深くしていく様は、俺にまで緊張感を誘う。
「この辺か?」
「うん、もう着く」
まだ完全には拓けてはいない山の中だったが、俺は辺りを見回す。
ふむ……これはまずいな……
見たところ、まだ屋敷すら見えていない距離にも関わらず、見張りらしき要員が十人ほど。
恐らく屋敷に近づくに連れて、更に増えるだろう。
……本当に御大層なことだ。
よほど躍起になって土井家の人間を探しているらしい。
いくら笠を被って顔を隠しているからと言って、この少年を長居させるのは危険だと判断する。
「君、」
歩きながら少年に話しかける。
返事はないが聞いていない道理もなく、気にせず続ける。
――視界に黒く倒壊した屋敷が映り込んだのは、ちょうどこの時だった。
「こりゃ結構めんどうだぜ、すごい数の見張りだ。悪いがここでは立ち止まることはできそうにねえ。屋敷を見る分にはいいが、ひとまずは歩き続けて素通りするぞ」
少年は終始無言だったが、指示にはちゃんと従ってくれる。
屋敷を素通りしてしばらく進み、見張りの目も届かなくなったところでようやく俺は足を止めた。
草を踏み歩く音が、やけに鮮明に耳に残っている。
「……」
身長の差から、笠を被っていると顔が確認できないので、俺は少年の笠の端を少し引き上げてその顔を覗く。
そこには今にも泣き出しそうな瞳が、必死に涙を抱きかかえるように伏せられていた。
俺は慌てて視線を他所に飛ばした。
涙を必死に隠そうとしている少年を、まじまじと観察しているわけにも行かない。
「悪いな……」
真っ黒く倒壊して何がなんだかわからなくなっていた屋敷を思い出しながら、俺は控えめに言った。
「しばらく待っててやりてえがよ、見たろ。尋常じゃない警戒の仕方だ。……あれじゃ他の家族も近づけないだろうな」
「……うん」
ただ感情を隠すように、少年は力なく相槌を打つ。
こんなときだからこそ、俺はゆっくりと気の済むまで泣かせてやりたい気持ちでいっぱいだったのが、残念なことに人の気配に気がついてしまい、
「辛いことを言うようだが……一旦この場を離れよう」
歩みを促すことしかできない自分に落胆した。
それでも少年は立派に頷き、さっさとその足を運び始めた。
さぞやその足は重たいだろうに。
俺の瞼の裏には情けなくも、中々動き出せなかった幼い背中が過る。
しばらく無言で歩いた。
歩く速さは昨日と同じくらいだ。
日も徐々に暮れ始め、山道もしばらく続く。
俺は万が一にでもまた追手に付かれた場合を考え、改めて道中で忍装束に着替えることにした。
普段の着物では戦闘には不利だったからだ。
しかし幸いなことにそれ以降は何事もなく、俺たちは山中の小川に出くわす。
……恐らく昨晩寝泊まりした小川の上流に当たる場所だろう。
「……ちょっと休憩するか」
また少年は声もなく頷いた。
誰のものかわかりきっている鼻を啜る音が、もうしばらく耳に響き続けていた。
隠すように身震いをしていることにも気がついている。
敢えて知らないふりを続け、小川で喉を潤し、水を補給する。
ゆっくりと少年も俺の横で膝を着いた。
そのままのゆっくりとした動作で水の流れに手を伸ばす。
しかしその手が水に触れる前に、動きの全てが止まってしまった。
「……おい?」
余りにも長い間、流れの一寸手前から先へ進まないので、思わず声をかける。
少年の方へ顔を向けると、笠は被っておらず、見事なまでに涙やら鼻水やらでぐちゃぐちゃになった土井先生の顔が視界に飛び込んできた。
……俺にはもう、見て見ぬふりはできなかった。
「うっ、ひっく……」
「おいおい、本当に大丈夫か……」
そんなもの、答えることすらままならないことはわかっている。
俺は咄嗟に頭巾を解き、その見るに耐えない泣き顔を覆ってやった。
――思う存分泣け、誰も見ていないから。
言葉では言わずに背中を擦ってやる。
さっきは歩みを促すことしかできなかったが、ここなら心ゆくまで泣いても許される。
少年は持てる小さな体を目一杯使って、泣き喚いた。
力なく崩れそうになり、そのまま俺の方へ雪崩れ込む。
必死に堪えるように俺の襟元を強く握り、それでもぼろぼろと涙を流し続ける。
よほど今、辛い思いをしているだろう。
家族を失うということは、理屈や気休めで割り切れるほど軽い出来事ではない。
不意にまた、この少年が幼き日の自分と重なる。
俺までも涙が溢れ出て止められなかった。
――なんと救われた気持ちだろう。
俺が今、この少年のためにここにいられたことを誇りに思う。
この救われた気持ちはきっと、すがって泣く相手のいなかった幼き日の自分がもたらすものだ。
どんなにこうやってすがる相手を欲したことか。
そして今俺は、家族を失って絶望しているこの少年のために、ここにいてやれている。
あの時の辛い経験は無駄ではなかったと思わせてくれる……いやむしろ、あのつらい経験を意味のあるものへと変えてくれている。
感謝の気持ちと愛しい気持ちが止めどなく溢れ、俺が何が何でも守ってやるからな、などと柄にもなく暑苦しいことを考えてしまった。
そしてそんな自分も嫌いじゃない、と思わず笑ってしまう。
相手が土井先生だと思い出したのは、それからもうしばらく後のことだ。
俺の膝にすがって泣き続けた少年を、俺はその同じ時間だけ受け止め続け、手が擦れる感覚を忘れるくらいに背中を擦ってやった。
次第に泣き声が小さくなっていき、そうしてようやく、その少年は泣き疲れて眠った。
しかしその両手は絶対に俺から離れまいとしているように、しっかりと俺の両の膝を掴んでいる。
日が沈みきるのと大した時間の差はないころだった。
俺はそのまだ幼く愛らしい寝顔を一人で見ながら、相手が土井先生だということを思い出し、とたんに恥ずかしくなった。
けれども、同時に今までの恩返しができていたらいいな、と厚かましくも願っていた。
次に少年が目を覚ましたのは、亥の刻半ばのころ(午後十時ごろ)だった。
途中から丸めた荷物を俺の膝の代用としてそこに置き、今日の宿をどうするかと思案しているところだった。
人のいない山中では、この時間でも既に冷え込みが強くなっている。
とても静かに目を覚ました少年が、盛大に腫らせた目元を容赦なく擦り付ける様を見ながら、俺はなんだかとても暖かい気持ちになり、思わず気の抜けた息をついていた。
「よぉ、起きたな」
「あ……きり丸……私……」
何故こんなにも瞼が重いのか、どうして川辺で荷物を抱いて寝ていたのか、果ては寝落ちる前の自分は……色々な疑問が本人の中で浮かんでは消えていたことだろう。
突然に少年は恥ずかしく思えたのか、少し照れるように「さっきは取り乱してすまなかった」と年甲斐もなく言った。
俺はまた頭を撫でてやって、言葉なくその気持ちに応える。
少年は更に照れたような笑みを浮かべた。
「……さて、これからのことだけどよ」
「うん」
「君の顔は知れているようだから、ここからある程度離れるまでは夜行動することにした。ろくな変装道具もないしな。今から動いていいか?」
少年は頷きながら、「どこへ行くの?」と短く問う。
「まぁ、色々考えたんだが……」
山田先生の家や忍術学園など、本当に色々と考えた。
しかしそれらは余りにも将来の土井先生と関係が深すぎる気がして、今出会わせるには時期尚早のように思えた。
つまり、自分の中で却下したばかりだ。
そしてそれは金楽寺もまた同様のこと。
苦し紛れにようやく出た結論が、一つだけある。
「あそこしかないかな、と。とりあえず笠かぶれ。もう行くぞ」
「あ、うん!」
荷物を抱えた俺の背中を追うように、小走りでぴったりとくっついた。
「しばらく」という四文字に押し込むには余りにも長い時間を歩き続けた。
ようやく辿り着いた目的の町は、当たり前のように暗く、そして深く眠りについていた。
それでも一か八か、この見覚えのある小川の前の小道を歩く。
「着いたぞ」
「……ここ?」
「おう」
俺は戸に手を伸ばす。
寝ているだろうなと申し訳なく思うよりも、ここにいるのだろうかという心配の方が大きかった。
だが、ここまで来たんだ、当たってみよう。
トントントン
木の優しい音が寝静まった町に響く。
「ごめんください」
戸の隣にあった窓から声を入れる。
少し家の中で物音が立った。
ゆらゆらとろうそくの灯りが玄関に近づくのがわかる。
カララ、と立て付けのいいなめらかな音が響いた。
ろうそくに照らされて、多少若かったが見覚えのある顔が現れた。
「夜分遅くにすみません。部屋を探しておりまして」
とても訝しげに俺の顔を観察したのは、わかりし日の大家さんだった。
少年のことも見て、もう一往復俺たちのことを見比べると、
「はあ……今の時分をご存知ですか」
と呆れたように呟いた。
「すみません。しかし事情を聞かずに数日泊まれる部屋をお貸しいただきたいのです」
懐に手を入れ、予め準備しておいた銭の束を差し出した。
少しの間、何を差し出されたか理解していなかった大家さんのために一言付け加える。
「これは謝礼です」
「え? これ全部ですか?」
「はい」
ただでさえ怪しいので、これ以上怪しまれないように愛想のいい笑顔を浮かべる。
大家さんは慌てて、「わ、わかりました。父を呼んで参ります」と家の中に駆け込んで行った。
「……きり丸、そんなにあげちゃっていいの?」
「こいつはあげるんじゃないやい。しっかり代わりに屋根をもらうだろ? 銭は必要なときに使うために集めてるんだからよ、ドブに捨てるのはごめんだが、こうやって意味のあることに使うのくらいは、もう乗り越えたさ」
成長しただろ、と付け加えようと思ったが、少年は俺の過去を知らないことを思い出した。
そこへ大家さんとそっくりなおやじさんが戻ってくる。
むしろ俺のよく知る大家さんはこっちのような気がした。
また同じように俺と少年とを見比べて、なるほど訳ありというわけですね、と切り出した。
そして徐ろに草履を履き、ろうそくを若い方の大家さんから受け取ると、こちらへ、と先導し始めた。
「ではお約束どおり、事情も素性も伺いませんので、前払いとして先程ご提示いただいた金銭は領収しますね」
「あ、はい、どうぞ。部屋に着いたらお渡しします」
「あと、何があるかわからないので、こちらとしても新しい建物では不安がありますゆえ、古いものでもいいでしょうか」
「夜を凌げればどちらでも」
しん、と静寂が支配する町中では、俺たちの会話はよく響いた。
星も月も冷えた空気により美しく反射している。
白い息さえも輝いて見えるほどであった。
それからの間、会話もなく黙ってついていくと、大家さんは足を止めた。
小川沿いの道の、一番町から外れた端っこの小さな一間の家だった。
「こちらになります。備え付けの家具はご自由にお使いください」
「どうもありがとう」
約束の銭を渡し、俺たちは早速その屋根の下に入った。
大家さんは思いの外ごきげんに来た道を戻って行ったようだ。
「ふあぁぁ……」
乱暴に荷物を置くと、少年は大の字に横になって眠たそうに息を着く。
俺もゆっくりと荷物を下ろし、腰も下ろす。
「いやあ、本当によかったな。部屋が見つかって」
「うん」
「冬場の野宿はやっぱりきついもんな、はは」
「……う……ん……」
その途切れるような声でようやく、どれほど疲弊していたかを理解した。
俺は今にも寝落ちそうな少年の元に近づき、顔を覗き込む。
「いきなりこんなに歩かせちまって悪かったよ。君はよく頑張った」
またあやすように頭を少し撫でてやった。
続けざまに「もう休んでいいぞ」と言ったときには、既に少年は眠りについていたように思う。
俺も力を抜くように小さく笑って、それから部屋の隅で見つけた布団をかけてやった。
ちゃんと寝れるのはどれくらいぶりだろうか、と俺も呑気に考え、もう一つの布団を自分にかける。
眠りに落ちる間際、果たして俺はいつまでこの少年の側に居てやれるだろうかと考えていたような気がするが、それは意識と共に暗中へ落ちていった。
そしてその先のことも……。
「きり丸! きーりーまーるっ」
翌朝は、まるで一晩で充電しきったように元気な笑顔で起こされた。
一間の狭い空間に設けられた、こりゃまた狭い窓からは、正午前の柔らかな光が入り込んでいた。
「おう……朝か……」
「いいや、どうやらもう町の中はお昼時だぞ。大家さんがお昼にどうぞとおにぎりとおかずを持ってきてくれて、私もそれで起きた」
「……そうか」
ここ数日の疲れのせいか、いつまでも眠気が抜けない頭を回転させる。
「……おはよう!」
唐突にあいさつが降ってくる。
俺は腹を括り、無理矢理に起き上がった。
「……おはよう」
少年は愛嬌のある笑顔を向けている。
同時に俺は、空腹に気がついた。
そういえばさっき、お昼がどうとか言ってたっけな……
「お昼?」
「これこれ、おかずは二品も持ってきてくれたんだ!」
差し出された昼食に目をやって、何に向けたかもわからないまま、ありがたやとそれらを拝む。
急いで布団を片付け、俺と少年で部屋の真ん中にあった囲炉裏を囲った。
改めて感謝を述べながら、俺と少年は一気にそれらを平らげる。
食事中にまた今日はどうしようかという話をしたら、
「今日は私がきり丸の『問題』に付き合う番だ!」
と言い出したので、ありがたく調査に付き合ってもらうことにした。
よくよく考えると、こちらの時代に来てからまだ三日目である。
すっかり溶け込んでるな、と思いながら、もし本当に帰る方法を見つけてしまったら俺はどうするだろうかとの考えが止まらなかった。
俺は――
――この少年を置いて帰れるだろうか。
だが、その考えも虚しく、杞憂に終わった。
そんなに簡単には帰らせてくれないらしい。
なんの手がかりもないまま、日が傾き、仕方なく帰路に着く。
道中では、俺が今どうしてここにいるのかを再確認するように、少年に話して聞かせた。
難しい顔をして、ふむふむと話を聞いてくれ、一人であーでもないこーでもないと色々な可能性を吟味していた。
その光景に何やら胸が満たされ、頬が緩み、気付かれないようにするので精一杯だった。
……ちなみに、俺が少年の将来を知っているということまでは、さすがに話せずじまいだ。
そうして日が暮れきったころに昨日借りた部屋に帰り着いた。
玄関にまた『夕食です』とおにぎりとおかずが置かれていた。
なんとまあ厚待遇なことか。
大家さんに少し奮発して銭を渡しておいて正解だったようだ。
部屋の真ん中に位置している囲炉裏を、また二人で囲むように座り込む。
板張りの床が冷たく、少し落ち着かないが、自分の尻で温めるしかないので、どちらも何も言わなかった。
もらった食事はお互いが届く範囲の脇に置き、向かい合うというよりは隣り合って座った。
それにしても。
俺は今日一日の思考の続きをするように、煮物と漬物に箸を通わせながら考えた。
俺はこのままこの時代に生きるのだろうか……?
待てよ、そうなったら土井先生が面倒をみる「きり丸」と俺は出会うのだろうか?
それって一体どうなるんだ?
「この煮物、おいしいね」
不意に少年が声を発した。
始終会話をしていなかったことを思い出す。
「うん……ああ、うめえな」
「ありがたいね」
「そうだな」
今度はおにぎりに箸を伸ばす。
弾力があると言うには少し固すぎるお米を咀嚼しながら、残り物だろうなと勘ぐってしまった。
それでもありがたいことには変わりはないので、箸は進める。
「……わ、私は煮物の具では芋とちくわが好きなんだ」
少年の言葉に目を丸めた。
「え? 君はちくわが食べられるのか!? 誰かが練り物で喉を詰まらせたという話を聞いて苦手になったんじゃ……!?」
「え、そうなの!? 練り物って喉に詰まるの!?」
はっとして、急いで口を閉じた。
少年を見ると、既に青ざめた顔をしていた。
お、俺……やっちまったかもしれない……
「あ、悪りい。今の忘れて」
「あ、うん、ははは」
空笑いが文字通り虚しい。
あー……土井先生ごめん。
食堂のおばちゃん、本当にごめん。
「と、ところできり丸は煮物ではどの具が好きなの?」
「俺か? 俺はそうだな……やっぱ卵かな」
「卵! 卵もおいしいね!」
ぱあっと表情は明るくなったが、少年の箸はそれ以降、練り物を狙うことはなくなってしまった。
「ところできり丸。きり丸はいくつなの?」
「俺か? 俺は十五だ」
今日はやけに喋るなあと思っていたが、この辺りでようやく俺は気がついた。
一日中考え事に没頭していて、会話が少なかったのだ。
それで沈黙に耐えられず、俺に話題を振ってきているのだろう。
俺もまだまだ配慮が足りないな、と反省した。
なので、会話をつなげる意味で「君は?」と質問を返す。
しかし返ってきたのはその返答ではなく、
「ねえ、きり丸」
少し暗めの声であった。
何事かと少し身構える。
「きり丸は何故私のことを『君』と呼ぶの」
ドキリとした。
俺はただ、土井先生に対して『土井先生』以外の呼び方をするのをためらっていただけだった。
増して、こんな幼子本人に『君は将来俺の教師だから、先生と呼ばせてくれ』とはよもや言えまい。
だから、抜け道として『君』と呼んでいた。
しかしそれはまた何か配慮に欠けていたのだろうか、と焦りを誘う。
なるべく傷を付けたくない、付けなくて済む言葉を返してやりたい。
そう思うほど簡単には都合のいい返答は見つけられず、口を開けずにいると少年は顔を下げた。
「もう私の名前を呼んでくれる人はいないから……できれば名前で呼んでほしい……」
表情は見えなかったが声はとても辛そうで、俺は大事なことを思い出させられた。
――『摂津の』きり丸
俺は自分の名字を覚えていない。
もちろん俺が家族を失ったのが、この土井先生よりよほど幼いときだったというのもある。
それでも、広いこの世の中で誰一人として俺の名前を知る人がいないのかと、極寒にも似た孤独に確かに俺は飲み込まれたことがある。
何よりも呼んでくれる人が居れば、あんな思いはしなくて済んだはずなのだ。
……わかっていた唯一のこの『きり丸』という名前に、必死にしがみつくような思いは。
「……ごめん……本当に配慮が足らなかったな」
「……」
「……言ってくれてありがとう、半助」
辛そうな顔をして欲しくなくて、また頭を撫でようと箸を置いた。
まさにその瞬間、部屋の中に人工的な小さな風が吹き、いとも簡単にろうそくの火を打ち消してしまった。
隣家の間接的な灯りだけが、この宿の中に光をもたらす。
それはほとんど何の役にも立たず、部屋の中はほぼ暗闇に変わっていた。
それと同時に、たくさんの気配がこの部屋に雪崩れ込んだのがわかった。
しまった、完全にしてやられた……!!
その気配たちは半助を連れ戻しに来た奴らだと確信した俺は、一刻も早く応戦するために慌ててあぐらから膝を立て、半助の方へ手を伸ばす。
しかしその努力も虚しく、いくら臨戦態勢に入っても物の断片的な輪郭しかわからない。
ドタバタと暴れまわる音と、もごもごと言葉を発そうと足掻く音声だけが先行して俺を焦らす。
「半助! おい! 無事か!」
微々たる可能性に賭けて呼んでみたが、やはり物騒な物音の他には何も届かない。
分かりきっていたが、本来半助が居たはずのところにはもう何もなかった。
「くっそ! 何しやがる!」
そして何も見えずに動きが鈍くなっている俺をこの追手たちが放っておくはずもなく、俺の体はいとも簡単に床に伏せられた。
腕を捻られ、背中ごと床に押さえつけられている。
昨日の昼間に交戦した雇われの追手とは明らかに違う、これはプロ忍どもだ。
やり方が忍そのもの。
くそ……くっそ!
既に半助はこの宿にはいないと考えた方がいい。
たった今、数人がドタバタと宿を後にしたのがわかったからだ。
俺は頭に登った血を落ち着けるように、気付かれないほどの深呼吸をした。
今焦ったり怒ったりしても半助は戻って来ない。
最善なのは、俺が落ち着いて最善策を導き出すこと。
「おい! 縄をよこせ! 縄だ! こいつを動けないようにっ、」
「お頭、縄を持つのはあいつの役目でした!」
「何だと!」
会話の声の数からして、この宿に残っているのは二人だ。
そしてこの頃になり、ようやく目が慣れてきた。
縄が見つからずにわたわたしている二人を待ってやる義理などなく、俺への注意を怠った『お頭』を背中から振り落とすように足を回し、ついでに踵を頭に打ち込んでやろうとした。
欲張りな作戦はその通りにはいかなかったが、それでも体から重みが落ちたので、そのまま動作を続け飛び起きた。
俺は忍装束の上に着物を着ており、一番上だけをささっと脱ぎ取ると、小さく無駄のない構えを作っている二人に向けて大雑把に投げつけた。
それにこの二人が動揺するかどうかは大した問題ではなく、その着物に紛れるように俺は床を力強く蹴った。
若い方がしびれを切らせてその上着を払いのける。
目があったが、その一瞬で思うように間合いに飛び込めた俺は、素早くそいつの真下で受け身を取り、体が転がる遠心力を使って、股の間の急所に蹴りを打ち込んだ。
鈍い感触が踵を伝う。
確かに手応えがあり、そしてその通りにその若い忍は蹲って悶えた。
その間にも俺はその衝撃を利用して受け身の勢いを殺し、さっと体勢を起こす。
今度はお頭と目を合わせ、互いに宣戦布告する。
出方を伺い合うようなまどろっこしい戦い方をしている場合ではないので、遠慮なく俺が先に間合いを詰める。
だが、お頭は俺がどんなに距離を詰めようとも冷静に俺の出方を待った。
見据える視線が高圧的だが、それに屈していられるほどの余裕は俺にはない。
……と、思っていたが。
どんなに距離を詰めても微動だにしないことが逆に不気味に思え、俺はお頭の懐に一度入ったにも関わらず、一歩下がって蹴りで探りを入れることにした。
肉体の強固さに自身があるのか?
暗器でも仕込んでやがるのか。
それともただ鈍いだけなのか。
――否、何もないのに何かあるように思わせるハッタリ作戦だ。
まんまと引っかかった俺は、探りを入れるために軽く中段に回した足を、その脇で力強く捕まえられてしまう。
お約束の手順だが、その足を軸に反対の足で頭を狙う。
しかし、やはりそれも見透かされており、肘で受け止められ、片方と同じように脇に抱えられる。
このままでは床に叩き付けられる。
俺は慌てて両手を伸ばし、上半身を反転させて床に手を着き肘を着き、がっしりと重心を構えてから、両足にありったけの力を込める。
回転を利用して足を振りほどくためだ。
体の柔らかい三治郎や団蔵ならもっと上手くこなしただろうが、俺ではそうもいかず、不格好にやっとこさ足を振りほどかせた。
反動でお頭の目の前に無様な仰向けを晒した俺は、息を着く間もなく体を転がし、その勢いでまた体勢を整えた。
「若いだけあって、動きが拙くていいな。体力もある」
息一つ切らしていないお頭が、余裕を誇示するかのように話しかけてくる。
こっちはやっとこさまともに息ができたような心持ちだというのに。
「なあ若造、お前もうちで雇ってやろうか。あんな童に何故執着してるかわからんが、この先いいことないぞ」
「悪いがおっさん、あんたと話してる余裕はねーんだ」
「そうか、それは残念だ」
お頭はその言葉を最後に、俺に向かって二つ・三つ、何かの飛び道具を放つ。
宙を切る音が八方や四方手裏剣とは明らかに違う。
俺は万一のことを考え、その全てを避けきったあと、それを確認してギョッと背筋が凍る。
鏢刀(ひょうとう)だ。
命中しなくとも、掠りさえすれば深手を負わせることのできる鏢刀。
何もそこまでする必要もないだろうと思ったが、それだけやつらは本気で半助を連れて行きたいらしい。
しかし飛び道具なんざ、隠し持つには限度がある。
このまま全神経をかけて避け続け、頃合いを見計らってまた間合いを詰めよう。
俺は念の為に小刀を手に持った。
実践用ではなく、あくまで護身用だとわかっているが、刃物は刃物。
鏢刀を払い落とすには何か物を使わないとだめだ。
それから飛び道具を使っての攻防が展開されたが、俺目掛けて飛んできたものを刃物にうち当てたとき、それがお頭の方へ飛んで行った。
お頭が一瞬の間だけ、それに気を取られる。
俺はここぞとばかりにまた踏み込み、お頭の懐に向かって跳ぶ。
いや、跳ぼうとした。
しかし視界に、お頭もそれを待っていたかのように踏み込んだのが見え、しまった、また謀られたと心を乱される。
その刹那の雑念のため、難なく鏢刀を払い落としたお頭の渾身の体当たりを全身で受け、耐え切れずに後ろに倒れた。
こいつこそ、な、なんて大味な戦い方だ!
気づけば俺は床に押さえつけられ、苦無をまっすぐに首元に伸ばされていた。
ジタバタと暴れてみるのもいいが、相手はプロの忍者で、しかも鏢刀を使うほど必死になっている。
ここで俺の首を掻き切ることすら厭わないだろう。
俺が死んでは元も子もない、半助を守れない。
しかし……どうする!?
――ああ、だめだ、色々と思考を巡らせてはみたが、首を捕らえられてはもう打つ手がない。
そもそもまだ六年生になったばかりの俺と、プロ忍のこいつとでは力量にも経験にも差がありすぎたんだ。
脳内で誰かが言い訳を始める。
「前言撤回だ。報告よりやるかとも思ったが、所詮は若造だな。俺が相手をしてやることもなかった。童一人守れないとは情けない」
くっそ。
好き放題言いやがって。
「どうした。悔しくて言葉も出ないか」
こんなとき、乱太郎ならどうする。
庄左ヱ門なら。
中在家先輩なら。
……土井先生なら。
「ああ、言葉なんざ出ねえよ……!」
俺はなんとしてでも半助を守らなきゃなんねえってのに……!
土井先生の顔が脳裏に浮かび、一つ慣れない感触が指先に当たることに気がついた。
――そうか、これは……もうこの手しかないだろう。
「完敗だよ全くくっそ……! 俺なんて一人で何もできねえ――
――なんて、言うかよバーカ」
忍者はスタンドプレーが基本だ、自分でなんとかするしかねんだ。
頭巾に隠れ、目元しか見えないお頭の表情が明らかに動揺した。
間を置くことなく、追い詰めるように嘲笑してやる。
「あの子を守ってんのが俺一人だなんていつ言ったよ。――おい! 今だっ!!」
できる限りの力を腹に込めて天井に向かって叫び上げた。
慌てて天井へ飛ばした視線に釣られて、お頭の腕の力が若干緩む。
それこそ『今だ』と俺は素早く首元に構えられたその苦無を振り払い、俺の手に触れていた囲炉裏の灰を乱暴にひっつかんで、何事かと視線を戻してきたその眼球に叩きつけてやる。
「うわっ!? 何だと!? くそっガキ!!」
どうしようもなく目を押さえつけるしかないお頭の胸板を思いっきり蹴飛ばしてやって、俺は晴れて自由の身になる。
動きを奪うなら今だと、抵抗すらできないであろうお頭の頭蓋骨目掛けて、囲炉裏の上に吊るされていた鍋を両手で力の限り振りかざした。
それはとても不快な、表現しようもないような鈍い打撃音を発した。
「悪りぃな。半助の身が心配でよ、手加減なんざしてる余裕なくてさ。まあ、運が良ければ死なねえだろ」
俺は言葉通りにお頭の生死を見届けている余裕はなく、直ぐ様踵を返して出口に向かう。
せめてこの建物から出るくらいは、何事もなくいけるだろうと信じきっていたが、それは甘かった。
「いてえっ!?」
急に俺の髷が思い切り引かれた。
その痛みに引かれるがまま後ろに後退し、すっぽりとまた敵の腕の中に収まってしまった。
「よくもお頭を! 行かせるものか!」
真っ先に急所を叩いた若い方だった。
「離せよ!」
「離すものか! 大体お前、髪の毛が長すぎるんだよ! 引っ張ってくださいって言ってるようなもんじゃないか!」
「いてててて!!」
「さっきの借りは返させてもらうぞ!」
若い忍は髪を引く手に力を加え続ける。
この野郎……!
俺の……大事な髪(しょうひん)を……!!
俺は自分の身の心配よりも、その商品価値の方が心配になってしまった。
これ以上こいつの好きなようにさせて堪るか!
ことの重大さが違うのはわかっているが、先ほどお頭に侮辱されたときと同じくらいに腸が煮えくり返りそうになっていた。
「おい、お前、いい加減にっ、しろよ!」
「な、なんだ?!」
叫ぶように気合を込め、俺は上から手を伸ばし相手の装束の肩の部分を力いっぱい掴むと、足や腰も使って背負投げのように投げ飛ばした。
大々的な音を鳴らして床に叩きつけられる。
肺への衝撃か、カハカハと実のない咳をしている。
その忍が掴んでいた俺の髪の毛は無事に解放され、なんとか傷は付かずに済んだようだ。
俺はその忍に馬乗りになり、装束の襟元を掴んで上体を起こし、顔面にしなやかで弾むような拳を一発お見舞いしてやった。
反動でまた床にへばり込んだ若い忍は、そのまま焦点を合わせることもままならない様子だったので、俺はそれに満足した。
「今回はこのくらいで許してやるよ。……半助をどこに連れて行ったか教える気はねえか」
しかし既に問いは届いていなかったようで、若い忍はしばらくの間動けずに床にしがみついていた。
ようやくこの宿から解放された俺は、まず家の周りの足跡を確認した。
しかしその足跡は余りにも不自然で、思っていた敵の数よりも少なく思わせた。
――これは罠か。
だとすると、奴らは足跡が残らない屋根の上を伝って行ったと思われる。
俺は宿の窓枠に足をかけ、ひらりと身を浮かせて屋根に上る。
なるほどこれはわかりやすい。
平屋続きの屋根からだと、一本道になっていた。
その目指す先には貸宿屋がある。
先ほど見つけた足跡は反対に伸びているので、もう一度だけ追う方向を考える。
かく乱させるために、キツネ走りをして逃げた可能性もあるのではないか。
否、子ども一人を抱えてのキツネ走りはねえだろう、と改めて目的を絞る。
素早く屋根の上を移動する。
一番怪しかった貸宿屋の屋根に到着すると、俺は静かに窓から中の様子を伺った。
だが、そこに半助がいる様子はない。
その宿の中にいる人たちの動きや環境も確認したが、どうやら忍の変装ではなさそうだ。
俺はまた急いで顔を上げて、周りを見回す。
何か手がかりを。
半助が連れて行かれた場所の手がかりを。
残念ながら何も見当たらないので、俺は手がかりを探しながら少し戻ってみることにした。
不自然な足跡があればすぐに見つけられるように、屋根からは既に降りている。
念のため薄闇にできた木々の影を渡って川辺の道を動く。
「ん? あれは……」
川に架かった橋の手前で立ち止まる。
何かが橋の前に落ちていたのだ。
不自然に真っ直ぐな棒……いや、あれは箸だ。
ダジャレではない。
橋の前に箸が落ちている。
……大家さんが弁当に付けてくれていた箸だ。
半助が故意にせよそうじゃないにせよ、落としていったものかも知れない。
こっちか! と心の中で独り言を発し、俺は何の疑いもなくその橋を渡る。
これでまた追える!
橋を渡り切ると、更に右側にもう一本、同じ箸が落ちていた。
でかした、半助は故意に箸を落として行っている!
その期待に応えるため、加速して右の方へ走る。
次の目印はと探すよりも先に、道の先に怪しげな男が玄関の軒先に立っているのが目に留まる。
視認とほぼ同時に、手頃な路地に身を隠す。
その軒先の男は不自然なほどに右見左見しており、忙しなく動き回っている。
見るからに怪しい。
俺はまた周囲を確認し、まどろっこしいのはごめんなので、またひらりと平屋の屋根に登った。
少なくとも玄関先で見張っている男には気づかれねえだろう。
姿勢を低くし、足音を殺すように柔らかく屋根を蹴り移動する。
見張りの男が付いていた家の屋根に到着すると、俺は体勢を低くしたまま、窓の数と位置を把握する。
各面に一つずつ設けられており、玄関の面を除けば三つとなる。
一つ目の窓から覗き込む。
そこには半助の姿は愚か、人間の姿はなかった。
どうやら二つの間と玄関をつなぐ廊下のようだ。
二つ目の窓を覗く。
そこにも半助はいなかったが、忍装束をまとっている男が一人確認できた。
しかも武器を広げて手入れをしている……これは当たりか?
そして最後の窓から盗み見る。
――いた。
半助はそこにいた。
隠すことなく堂々と忍装束を着たままの、大の男が二人で見張っている。
その間に、縄で縛られた半助はいた。
気丈に振舞っているのか、半助も堂々と構えている。
その姿にほっと胸を撫で下ろす。
さて、家の構造としては二つの部屋に別れていることが確認できた。
覗いても誰もいなかった廊下は別として、武器を手入れしている男がいた部屋が一つ目、半助たちがいた部屋が二つ目。
それぞれの部屋を区切るものは、しっかりとした麩(ふすま)の引き戸だ。
玄関先の男を合わせると、恐らく四人が相手となろう。
プロ忍四人を同時に相手にするなど無謀も甚だしいので、ここは確実に数を減らそうと作戦を立てる。
まず玄関先の男だ。
やつを上から奇襲して動けないようにする。
それから武器の手入れをしていた男。
……俺は懐に手を入れ、アレを持ってきたことを確認する。
そのアレとは、俺が自分で火薬を詰めて作った焙烙火矢だ。
主に証拠隠滅や脅かしが目的の、小さめの爆発を起こすものである。
これで武器くらいは吹き飛ばせるだろう。
男ごと吹き飛ばしてやる。
そして恐らくその爆発音で半助の元に付いている二人の見張りの内、少なくとも一人が隣の部屋に様子を見に行くので、そこでもう一発焙烙火矢をお見舞いしていやり、足止めをする。
半助は反対の部屋の壁際に座らされていたのだ、間違っても巻き込まれる心配はない。
そして最後に半助の捉えられている部屋に侵入して、見張りの男をノす。
――よし、完璧だ。
もちろん思い通りにことが運ばないことも念頭には入れるが、おおよそこれで行けるだろう。
俺は屋根の上を静かに玄関側へ移動し、早速と言わんばかりに見張りの男めがけて飛び降りた。
「うをぉっ!?」
男の背中に両膝蹴りが入り、男はそれでも悶えることすら許されず、俺の重みで地べたに倒された。
その強い衝撃に言葉もなくただ息を整えようと必死になっている。
その背中から降りることなく、首に腕を回し、強く締め上げる。
「悪いなおっさん、しばらく静かにしててくれよ」
体で覚えた七秒が経過したと同時に、ジタバタしていた手足がピタリと止み、男の体は力なく項垂れた。
傍から見たらただ酔いつぶれた男がはた迷惑にも、道のど真ん中で寝ているように見えるだけだろう。
静かに立ち上がる。
次だ。
武器の手入れをしていた方の部屋へ外から回る。
その部屋の窓の下に着き、焙烙火矢と付竹(つけだけ)を取り出す。
もう一度だけ部屋の中を覗いて、投げる位置を確認する。
「何奴!?」
「しまった!」
その部屋にたまたまもう一人が様子を見に来ていたらしく、そいつと目が合ってしまった。
俺は大層焦りながらも、
「乱太郎じゃあるまいし、こんなときにやめてくれよ不運菌め!」
悪態を吐きながら焙烙火矢に点火し、慌てて窓から武器を広げていた辺りに投げつける。
それと同時に、まさにその同じ窓を突き破って男が一人飛び出して来た。
窓枠の破壊音と、俺の投げた焙烙火矢が爆発した音、そして金具が飛んだりぶつかったりする音が連続して響く。
だが残念なことにその派手な音の中に、人間の悲鳴や驚きの声は混じっていなかった。
外したかっ!
そう声にしようとしたが、目の前に飛び出してきた男がいきなり飛びかかってきたので、それはできずに焦ったままで応戦する。
その男はいとも簡単に俺の襟元を引っ掴み、拳を顔面に寄越す。
めりめりと頬に食い込んだその拳の勢いを殺せず、建物の壁に背中を打ち付ける。
今日一番のクリティカルヒットに俺は身悶えしたが、当たり前にそれだけで俺を解放するつもりなどなく、バランスを崩して膝を着いた俺の髷を掴み上げる。
――お前も俺の大事な髪を……!?
「お前、お頭はどうした?」
「痛てえんだよバカっ!」
髪の毛を掴んでいる手を俺の右手で固定し、左腕いっぱいを使って、後ろから前に捻るように上腕に体重をかけた。
その上腕だけでは俺の体重を支えられず、男の体勢はいとも簡単に崩れる。
素早く受け身を取ろうとしたようだが、あえなく地面に叩きつけられるだけとなった。
そして慌てて立ち上がろうとしたので、鳩尾に狙いを定め、肘を重力に任せて打ち込む。
うごぉっとうめき声を上げて男は腹を丸める。
横を向き、痛みでとても動ける状態ではなさそうだったので、これ以上はいいかと見切りを付けて、急いで半助の元へ向かう。
この男に応援が来ないところを見ると、残りは恐らくこの建物から半助を連れて逃げているはずだ。
だが今追えばまだ遠くへは行っていないだろう。
俺は立ち上がり、人が一人余裕で通れるほどの大きな穴が空いた建物の中に入る。
そこかしこに俺が爆破した武器類が散らかっており、そこを抜けると先ほどまで半助が捉えられていた部屋に出る。
踏み入り唖然とした。
半助の姿はもちろんなかったが、男が一人倒れていたからだ。
どうやら爆破した武器の一片が、麩を突き破り直撃したようだ。
頭にたんこぶができている。
しめたと得した気分になりながら、半助を追うために玄関から飛び出す。
左右を見ても姿は確認できなかったので、本日何度目になるか、また勢いをつけて屋根に登る。
すると一目瞭然、この建物の真裏を、子どもを肩に抱えて走り去る小柄な男が、その後ろ姿を晒していた。
その間抜けな姿にだんだんと怒りがこみ上げてくる。
何故だかわからないが、本当に今さらまた頭に血が登り始める。
俺は強く瓦を蹴り、音を殺すこともせずに屋根伝いに全速力で走った。
大した時間もかからずに追いつき、最後に思いっきり屋根の先を蹴って、逃げていた男の先に着地する。
男は肩を震わせ、足を止めた。
「くそっ、追いつかれたか!?」
明らかに怯んだそいつの態度が、また一層俺の腸を滾らせる。
ふつふつとこの五臓六腑が心地悪く騒いでいる。
俺は怒りや憎悪をむき出しにしたままの顔をゆっくりと上げた。
まだ子どもとは言え、人間を一人抱えてこんなに走ったのは評価してやる。
けどな――
「このドケチのきりちゃんから大事なもん奪おうってのあ、いい度胸じゃねえか!」
我ながら修羅のような顔をしていたように思う。
顔中の筋肉と言う筋肉が引き攣っていた。
余りの気迫に大の男、プロの忍者が怯んで獲物を地べたに落としたくらいだ。
その最後の忍は甲斐性もなく俺に背中を向けて走りだした。
敵の手から放れた半助には、俺がその忍を追いかける後ろ姿だけが見えていただろう。
追いつかれることを悟ったそいつは、途端に振り返って手に持っていた四方手裏剣を俺に向けて振りかざす。
そう、握られた四方手裏剣でも交戦できるくらいには間合いは詰まっていた。
ただ、今の俺は、怒りのお陰か脳が活性化しているようで、相手の動きが鈍く見える。
その振りかざす手を避けるようにも、俺自身の後ろ髪をそいつの顔面にぶつけるようにも、俺は大きな動作で身をかがめた。
髪の先が確かに男の顔面にぶち当たる。
だが「いてえ!」と声も上げさせず、そのまま男の足を自分の足で引っ掛けてやり体を転ばす。
何が起こったのか全く理解できていない様子で、ただ目を瞬かせる男の鳩尾にまた力強く一撃を食らわせる。
「俺の髪はこうやって使うんだよ! わかったか!」
懐から縄を取り出す。
「そんでその後は商品として売るんだ。お前ら汚ねえ手で触んじゃねえ」
痛みに身を丸めている男を、素早く縛り上げる。
俺は最後に縄の硬さだけを再確認して、急いで半助の元へ駆け寄る。
「大丈夫か!?」
縛られたままの身を起こしてやると、途端に半助の瞳が涙で溢れかえった。
嗚咽以外の言葉は何も出てこない。
「怖い思いさせちまったな、ごめん。俺、本当にふがいないな」
苦虫を噛み潰したように口の中がまずかった。
あんなに俺が守る、などと息巻いていたのに、こんなに怖い思いをさせるなんて、この先大丈夫かと自分でも不安になってしまう。
「……ううん、ありがとう」
それでも涙を流しながら、そう言った。
やっとの思いで発していた。
縄を解いてやっても体が言うことを聞かないのか、じっと震えている。
俺はわしゃわしゃと乱暴に頭を撫でてやり、力強く抱擁する。
「ごめん、でももう大丈夫だから。半助のことは必ず守り通すから」
「……うん」
「とりあえず場所も割れちまったからこのまましばらく走るぞ」
半助の腕を掴み、体を起こしてやりながら指示すると、「え?」ととても間の抜けた疑問符が返ってきた。
俺は既に歩き出していた足を止め、
「まさか忘れ物があるとは言わないよな」
「……うん」
「じゃぁいいな、行くぞ」
と笑顔で会話した。
笑顔を意識したのは、一刻も早く半助からあの恐怖心を拭うためであった。
その意図を理解してか、半助もうっすらと笑ってくれる。
俺はその様子に感心しながら改めて走りだした。
二人でそのまま町を突っ切って行く。
次第に家屋がなくなり、大きな道もなくなり、縦一列に並んでやっと通れるような険しい山道に入る。
こんな夜更けに山に入るのは懸命ではないことはわかっているが、今は身を隠すほうが先決だ。
走ったことにより火照った体では、山での冷え込みも余り身に沁みなかった。
「きり丸、これからどこへ行くの?」
しばらく走ったあと、山中のどこでもない場所で半助と足を休めていた。
まだ整わない息を混ぜながら、半助が確認する。
「俺の記憶があってれば、この山を越えた麓に小さな寺があるんだ。ひとまず今晩はそこで屋根を貸してもらおうと」
「山はあとどれくらいで越えられる?」
「まだ七分辺りだ。道のりは長いぜ」
「……わかった」
半助は何かを覚悟したように目元を尖らせる。
その仕草が見慣れないものだったので、少しおかしく思えた。
「残念だが、明日はもっと移動するからな」
「え!?」
からかってやると、素直に顔が青ざめる。
またそれが可愛く、そして愛しく思え、頭を乱暴に撫でながら丸太から腰を上げた。
「ははは、当たり前だろ。ほとぼりが冷めるまで、この辺りにはいられないからな……ほら、行くぞ」
「う、うん……!」
一度屈伸して筋肉を少しほぐし、また走り出した。
半助も後に続く。
そうして相も変わらずの山景色をまたしばらく走り、歩幅もペースも安定していたころ。
登頂部を過ぎて下りに入った俺たちは、一際冷たい空気が肌を撫でていることに気がついた。
「……霧……」
「ほんとだ」
冷気は口からも鼻からも入り込み、温まっている体温をゆっくりと下げていく。
同時に視界も奪われ、最終的には足を止めることを余儀なくされた。
その霧はどんどんと深くなり、比例するように俺の心臓がどんどんと強く波打つ。
嫌な予感がする。
これは……
「……この霧は、」
まさかとは思うが……
いや、違ってくれ。
頼む、これはただの霧だ。
「半助、はぐれると悪い。手を貸せ」
「う、うん」
半助の冷たくも柔らかい手を掴む。
夜中の闇に深い山中、そして濃い霧……
ただでさえこれは相当にやばい状況かもしれない。
葉のこすれ合う音がやけに響き、しかしそれ以外は音もない。
景色も白くなったままだ。
まるで、金縛りにでも遭っているように、俺たちはこの濃厚な霧に拘束されていた。
――!?
何かが耳に止まる。
「……今、」
「きーりーちゃーん!」
「!? やっぱり! 乱太郎ー!?」
半助の手を引きながら、乱太郎の声に導かれるように藪を踏み歩く。
「きりちゃん!」
乱太郎の姿をついに捉えた。
それと同時に、俺はこの時代の人間ではないことを思い出し、間抜けにも一度心から安堵した。
――これで帰れる。
しかし、また踏み出そうとしたその瞬間。
自分の手を掴む暖かいものに気がついた。
先ほどは確かに冷たかったのに、今はとても暖かいのだ。
それでもその温もりは……――
山中のはずが、乱太郎と俺と半助以外の景色は切り取られていた。
驚くほど不思議で、心地の悪い空間である。
「きりちゃん! 良かった無事で!」
乱太郎が大きく笑顔を浮かべて走って来たが、途中から表情が硬くなった。
俺が手をつないでいる半助に気づいただけでなく、俺の表情による真意にも気がついたのだ。
「……こ、この子は?」
俺は顔を隠す。
どうやらきり丸の様子がおかしいらしい、と二人は思っただろう。
「わ、私は土井半助だ」
俺の代わりに半助が返事をした。
案の定、目玉が落ちそうなほどに驚いて、乱太郎の視線がこちらに向けられたのがわかった。
観念したように頷く。
「そんな……!? どういうこと……!?」
俺だってわからない。
乱太郎とはぐれた日、俺は過去に迷い込み、幼い土井先生と出会った。
そして、俺は……いや、俺が守り抜くと誓ったのだ。
俺にそうしてくれたように。
そう、これは恩返しなんだ。
それに半助は今まさに追われている身で、しかもここは深い山中だ。
付け加えるならば真夜中でもある。
知識や経験の全くない子どもを、一人で投げ出せるような状況ではない。
……途中で投げ出すわけにはいかない。
「乱太郎……」
「きりちゃん?」
心配そうに俺の顔を覗いたのは、乱太郎だけではなかった。
そして俯いていた俺の視界に入ったのは、半助の方だ。
その不安の入り混じった表情を見て、俺は自分の誓いを再確認する。
「俺は……俺は半助を守るって決めたんだ。……だから……だから、帰らない!」
「……帰らないってどういうこと? 何を言ってるの?」
当然のことだが、この短時間では全ては飲み込めないだろう。
乱太郎が、確認するように問う。
長年共に過ごし、慣れ親しんだその柔らかい声が、決意を揺さぶる。
そんな自分をつなぎとめるように、半助と繋いでいる手に力を込めた。
「ねえ、きりちゃん。きりちゃんが帰って来ないって心配している人がたくさんいる」
「……」
「……だから、一緒に帰ろう?」
悪い、帰らない……そう言おうと思った。
なのに、心許なくて握っていた手を放したのは、半助だった。
強く握っていたはずなのに、それは優しく簡単に解かれた。
「きり丸。よくわからないけど、今なら帰れるんでしょ?」
半助に俺の事情を話していたことを、少しだけ後悔した。
俺の返答などこれっぽちも待ってやせず、半助は続ける。
「私は大丈夫だから。きり丸からたくさん学んだよ。大丈夫、私はきり丸のような、大事なものをちゃんと守れる忍になりたい。目標ができた私は、自分でなんとかできるから。だからきり丸は、帰って」
言いながら半助は、一歩、また一歩とゆっくり距離を作っていく。
……結局駄々を捏ねているのは俺ということらしい。
でも、だからと言って。
こんな状況に半助一人を置いていけるわけがない。
それに……
「なに言ってんだよ、半助は俺が守るって……恩返しするって決めたんだ……」
半助は笑った。
「きり丸、それはおかしいぞ。私はきり丸に恩なんか売っていない。むしろ、私が恩返ししなくちゃ。ありがとうね」
その笑顔が余りにも大人びていて、土井先生を思い出して泣きたくなった。
早く会いたいと思った。
やはり俺は、情けなくも土井先生に甘えているだけなのかもしれない。
子どもも大人も関係なく、俺を拾い上げてくれた土井先生に。
何も言葉にならずに、ただじっと立ち竦んでいると、何の前触れもなく半助が走り始めた。
その迷いなき足取りは、俺には見えない道が見えているようだった。
こんなに足場の悪い山道だというのに、何のためらいもない。
こんなに暗がりだというのに、恐れも覗かせない。
「きり丸! ありがとう! 立派な忍になったら、また絶対会おうね!」
「あ、おい! 半助待て!」
追うように一歩踏み出したが、俺の腕を乱太郎がしっかりと掴んでいた。
そっちは違う道だと、俺を守るように。
「乱太郎!? 放せよ! 何すんだよ!」
言っている間にもその姿は霧に紛れて、すぐに見えなくなった。
「半助が行っちまった……じゃねえか……」
不甲斐ない俺は、それでも半助に対して言葉を紡げなかった。
手を伸ばして引きとめようとしたのだって、言葉が出ないからだ。
一体どんな言葉をかけてやればいいのかわからなかったし、どんな言葉をかけたいかもまとまっていなかった。
『ありがとう』なんざ陳腐すぎて、言葉にできなかった。
ついに、藪や小枝を踏み走る音さえ聞こえなくなり、手を伸ばしていたことも忘れて脱力した。
同時に捕まえられていた乱太郎の腕も、俺から離れていった。
また静かで柔らかく、乱太郎が告げる。
「……きり丸なら、私の腕なんか振りほどけたよね……」
その意味を考えろと言いたいのだろう。
わかっている。
帰らなければいけないことくらい。
俺はこの時代に属した人間ではないということくらい。
またしても何も言えなくなった俺に、乱太郎は明るく肩を叩いて笑う。
「きりちゃん、帰ろう。大丈夫、ちゃんと土井先生は待ってるから」
「……おう……」
「ていうか、きり丸がいなくなったって報告したときの土井先生の慌てっぷりったら、本当に笑っちゃうんだよ」
時代錯誤の俺と半助が離れたことを確認したように、霧が徐々に薄くなってきていた。
半助の時代とは違い、今はまだ正午になったばかりの昼間だと気がつく。
そして、そう。
この新芽の匂い。
肌寒い深秋ではなく、心温まる春だった。
霧が完全に晴れると、そこは既に裏山の見慣れた景色。
明るい環境とは裏腹に、俺は半助のことが心配で仕方がなかった。
乱太郎が道中、姿を消していた間のことを色々と話してくれたが、ほとんど耳に入っていなかった。
上の空だったからか、気づけば忍術学園の塀の前にいて、乱太郎は既に小松田さんに帰還の報告をしていた。
俺の分も済ませてくれ、俺たち二人は懐かしい門をくぐる。
……何日ぶりだろうか……
門の木材の材質がやけに指先に残り、懐かしいとも新鮮とも取れる不思議な気持ちにさせた。
小松田さんも笑顔で「おかえり」と言ってくれる。
「きっ、きり丸ぅー!!」
何とも間抜けな声がして、俺は振り返った。
土井先生が慌てて駆け寄ってくる。
「きり丸! どこにいたんだ!? 心配したんだぞ!!」
「ちょっと! 土井先生!? 痛い痛い!」
土井先生の力いっぱいの抱擁が、その激しく安堵して笑う姿が、気付かずに俺の中に残っていたらしい濃霧を吹き飛ばした。
……あんなにも気持ちが沈んでいたというのに。
「いやあ、本当にもう心配したんだからな! 二度とこんなことするんじゃないぞ!」
痛いほどの抱擁は続いていたが、それが不思議とこそばゆくて嬉しくて、改めて安心させられる。
いつでもその体いっぱいを使って、俺と真剣に向き合ってくれる土井先生。
そんな先生が大好きで、感謝が止めどない。
その気持ちを言葉にできないのは本当に歯がゆくてどうしようもないが、言葉にできたところで照れくさくて言えやしないんだろう。
「ね、きりちゃん。半助くんは無事だったでしょ」
乱太郎が満足そうに教えてくれた。
一方の土井先生は、「なんだなんだ、半助とは!?」と少し困ったように笑っている。
俺と分かれたあと、大変な思いをしたに違いないのに、土井先生は俺の前で笑っている。
そのことが嬉しくて、
「……うん……ちゃんと恩返しできたかな……。まだ足りないな……」
緩んだ表情を抑えられなかった。
終
(次ページに少しだけあとがき)
【あとがき】
いかがでしたでしょうか!
最後の戦闘シーンからそのまま雪崩れ込んで終わってしまった感は否めませんが、割りかし満足しています。
今回はなんというか、きりちゃんと土井先生の絆というか、きり丸が土井先生に抱いているであろう気持ちを描きたくて筆を執りました。
もう、この二人のことを考えると本当に泣きたくなります。うう。
先生と生徒以上の、増して友情とか人情とか、そういうのを超えた絆があるんだろうなあと思うと。
本当は土井先生の日(10.1)に間に合えば一番だったんですが、見積り甘すぎて間に合うどころの話ではありませんでした……すみません。。
あと、割りと思いつくネタだと思うので、どちら様かネタ被りあったらすみません。
こんな長いお話をこんなところまでお読みいただき、本当にありがとうございました。