第五話 カンパイ・シャオ
その日、イヴァンは学校にも来ていなかった。学校では接触しないことにしているので、イヴァンが欠席したことを知ったのは放課したあとだ。
いつも自宅の最寄駅で待ち合わせをするものの、学校から駅までの道は同じだ。だから、あたかも関係はないような距離を保ちながらも、側を歩いて帰ることが多かった。けれど、今日はイヴァンの姿が見えない。仕方なくそのまま駅に行ってみると、そこにも姿はなく、かといってあいつに限って先に帰るということは考えられなかったので、そこでようやく結論が出た。……体調でも崩したのか、それをメッセージで送信して、それから返事を待って四時間余りだ。
そわそわと気持ちが落ち着かない。変な胸騒ぎがしていた。あいつとこういう関係になってから、一日足りとも共に過ごさなかった午後はなかったなあと、ベッドの上で自分を持て余していた。……俺様たちは手遅れなほどに溶け合って、もうお互いがいないと存在できないんじゃないかと思うほど、一緒くたになっていた。俺様一人がそういう感覚に陥っているのかは正直なところわからないが、普段の言葉つきからして、おそらくイヴァンもそうだ。ずっと一緒にいようねと微笑む顔が浮かぶ。
それからさらに三時間くらい経っただろうか。結局返事がもらえないままに日付は変わっていて、きっとよほど体調が悪いに違いない、どこかで事故にでも遭っていたらどうしよう、と不安が募るばかりだった。元々、イヴァンがいなければ一人で使っているような家だ。この気がかりを拭い去ってくれる人もいない。
――そこへ、玄関のチャイムが鳴った。
日付も変わったような時間、一体誰だと思う暇もなく、勝手に『イヴァンだ!』と決めつけて部屋を飛び出した。こんな時間まで何で連絡一つ寄越さない、何で俺様のことを放っておいた、色んな悪態が脳みその中で湧き出ては消えて、その状態のまま家の中を小走りで玄関に向かった。勢いに任せて扉を開くと、
「っギルベルト、くん……!」
玄関前に立っていたのは、期待通りの、待ちに待ったイヴァンその人だった。とにかく出で立ちには何の代わり映えもなく安心はしたものの、顔が真っ青で、先ほど浮かんだ悪態を綺麗さっぱり忘れてしまった。……これはただならない、何かがあった。それをすぐに察した。だから、少しだけ大人ぶって冷静にそれを受け入れた。
「おう、どうした、こんな夜中に」
「うん、ごめんね。君に伝えたいことが、あって」
「……なんだ?」
目すら見返さない。散々泣いたような跡、目元が少し腫れている。……何があったんだ、何が今、イヴァンの身に起こっているんだ。勘ぐるだけで心が捩れて痛みを感じた。
未だ玄関を開いてから一度も俺様を見ないまま、
「ぼく、来週引っ越すことに、なって」
押し留めたような声で、空気を震わせた。
「ら、来週……⁉︎」
伝染したように、俺様の声まで震えてしまった。訝しみや悲しみよりも、来週ってなんだっけ、という自問が先に立って、イヴァンのために理解を示そうと、ただ返答に必死になっていた。
「きゅ、急だな。大丈夫か、顔色悪りぃぜ?」
とりあえず家に入るようにと仕草で促してはみたものの、イヴァンはそこから一歩も動こうとしない。あまつさえ、そこに立ち尽くすばかりだった。
「うん……その、父さんが、いなくちゃって……」
「いなくなった……? あの、借金抱えてた父ちゃんか?」
「うん」
イヴァンの家は、五人家族だ。明るい姉ちゃんと、美人な妹、いつも少し疲れたような顔をしている母親、そして借金が減らない父親。だから、『ぼくは大学へは行けないから、ギルくんはしっかり勉強楽しんでほしい』と言っていたイヴァンに『俺様が勉強を教えてやるから、奨学金とって、同じ大学に行こうぜ』と、そこまで話をしていて、俺様はついこの間こそ、受験が終わって安心していたところだった。
そんな家庭事情を抱えている一家が、父親を失ったという。もともと主な収入は母親のほうにあったと聞いていたが、引っ越すほどとは……よほど切羽詰まっているらしい。それは、イヴァンのこの表情からも見て取れる。
「お、お前ん家、大丈夫なのか? てか、お前は」
大丈夫なわけがないとわかっていながらも、他に繋げようがなかった。どうにかしてイヴァンの気持ちを少しでも楽にしてやりたい。そう過ることは、〝恋人〟として何らおかしなことじゃないはずだ。
俺様のほうがそわそわと落ち着きがなかった。何でもいいから今のイヴァンの胸中を教えてほしくて見守っていたのに、イヴァンは、じっと何かを待つように黙り込んでいた。
きっと、一家で唯一の男として、いろんなものの板挟みにあっている。……だからだろうか、イヴァンの暗然とした表情を見れば見るほど、俺様まで泣きたくなるような心持ちになってしまう。
頼むから、何とか言ってくれ。切望するように見ていた口元が、ようやくはっきりと動いた。
「ギルベルトくん」
「あんだ」
「ぼくたち、お別れしよう」
「…………は?」
まるで絵に描いたような、思考停止だった。頭の中の回路がショートしたように、考えが進まなくなる。途端にイヴァンの表情が読めなくなり、同時に綺麗さっぱりと言葉が消え去る。どうやらショートしたのは言語野の近くだ。
「ぼくは今回のことで、母さんの実家のロシアに引っ越すことになったんだ」
いつも好きで覗き込んでいたイヴァンの瞳が、容赦なく俺様の視線を捉えている。脳を介さずともそれだけは理解できて、有無を言わせぬ気迫で持って、俺様は行動まで封じられてしまった。
「いつ連絡できるかもわからないし……だって……国を跨ぐし……」
じわじわと、血が通っていくような不思議な感覚が意識を覆った。突然、イヴァンの言っていることが明瞭になり、ああ、と飲み込むようにすべてが腑に落ちる。
「……だから、別れる、と」
「……うん」
イヴァンはきっと、この出来事を〝いい機会〟だと思っている。
半年もすれば大学に入って、これまで以上に自由になる俺様だ。むしろ、今からでもなんとかすれば、イヴァンの引越し先の地区の大学に、入れないこともないかもしれない。最後に顔を合わせたのがいつかもわからない父親に未練はないのだから、イヴァンが望むなら、俺様は喜んでついていく。……だが、そういった『残っている可能性』をすべて見なかったふりをして、俺様との離別を選ぼうとしているのだ。――本当に今の状況は、ブラギンスキ家にとって一大事なんだろう、それは疑う気もない。……だが、俺様からすれば、お互い成人するまで電話やメールで繋がっていればいい話で、わざわざ〝別れ〟を選ぶような出来事とは思えなかった。
他にもいろんなことを言いたそうだったが、いつまでも何も言わないイヴァンだ。きっとこれ以上の言い訳は野暮だと思っている。イヴァンの瞳がぐらついている。いつも一足先に涙をこさえやがるから、俺様が一足先に冷静になってしまう。
元々頭になど血は昇っていなかった。反対に、身体の中から血の気が引き、寒気のような不快感が背中を走った。
「……わかった」
……ずっと一緒にいようって、言っていたくせに。ぜんぶ嘘だったのかよ、そう、胸ぐらを掴み上げて揺さぶってやれたらよかった。実際に俺様の手のひらに集まっていたのは強張りではなく、脱力感で、やるせなさに拳を開く。
そんな簡単に……手放せる存在だったって、ことだ……。
「そうだよな。国境を跨いじまうのは、さすがにお互い大変かもな」
感情一つ通わない言葉を、安々とくれてやった。……あ、でも、非常にまずい。視界が滲んで、ぐつぐつと眼球が煮えるように痛む。慌てて顔を上げたのは、涙を流し戻そうとしたからだ。イヴァンの情けない顔を見れば、泣く気も冷めるかと思った。
「……ギルベルトくん」
なのに今さらそんな、優しく撫でるような声を出す。聞いていられるわけがなかった。
「家の事情なら仕方ねえし……、」
どんな顔をして話せばいいのかわからない。だから、俺様の顔つきは不自然だったに違いない。言葉も、本当はもっとたくさん浮かんでいた。滝のように溢れかえって、どれを掴んでいいのかわからないくらいに、たくさんの言葉だ。大半が恨み言だったかもしれない。イヴァンに対しても、素直になれない自分に対しても。
だが、どんなに恨み言をこさえようとも、イヴァンがそうしたいなら、もう引き止める気概も湧かなかった。浮かんでいた数多の言葉の中で先頭に出てきた言葉があったが、それは喉に引っかかって、上手く言葉にできなかった。たった一言、今までありがとうと、言わなきゃいけないのはわかっていたのに。
二人でどれだけ沈黙を並べただろうか。これ以上は不毛だと察してから深呼吸をして、一歩だけ後ろに下がった。
「――お前のもん、もう持って帰っちまいなよ。明日から来ねえだろ?」
どうしてもみっともない姿は見せたくなくて、普段通りを装った。変に笑うこともなければ、そっけなくすることもない。そんな俺様に対してイヴァンは、「うん……」と小声でためらっているようだった。
もう、その声すら聞いていられない。俺様の深いところまでイヴァンが入り込みすぎていたのだと自覚していたからこそ、これから会えなくなるイヴァンの存在感を、一刻も早く消してしまいたかった。そのまま普段は使われていない父親の寝室に向かい、迷いが残ったままの手つきでドアノブを握る。俺様自身の寝室には、イヴァンが持ち帰るべき私物が余りにも多すぎたからだ。
「……わりいな、イヴァン、俺様今日疲れたから先に寝るわ。勝手にやってていいぜ。合鍵は、ポストとかに入れて帰ってくれりゃいい」
顔を気持ち程度だけ、イヴァンのほうへ向けてはみたものの、俺様の視界に入っていたのはイヴァンの足元だけだった。
「向こうでも、頑張れよ」
ようやく、少しだけ勇気が固まる。なんとか気持ちを奮い立たせて瞳を上げれば、魂が抜けたような間抜け面のイヴァンと目が合った。玄関チャイムを鳴らしたときよりも、よほど冷め冷めとした表情だ。
それが、ふ、とぎこちなく笑う。
「うん。ギルくんも、大学、がんばってね」
その愛おしくてたまらない、精一杯の背伸びをしたような笑みのせいで、緩む涙腺に拍車がかかった。
「まだ気が早えよ。半年後だ。じゃ、おやすみ」
俺様だけ泣き顔で終わらせるのは癪なので、絶対に笑ってやろうと口門を上げたはずだが、扉を閉めて悔しさに飲み込まれた。だめだった、絶対に最後は口元が歪んでいた。最後だったんだ、もっと上手に笑いたかった。
だがそのあとの俺様には、とうてい笑うという行為はできなかった。どこにぶつけたらいいのかわからない感傷が、俺様を一晩かけて隅々まで食い尽くしていったからだ。イヴァンが言っていたことが真実なのか冗談なのか、そんなことを吟味する余裕すらなかった。少なくとも、あの顔色を見れば、嘘なんじゃないかなんて思えるはずもない。……この別れは、たぶん、紛れもない現実だ。
……別れなんて、意外と呆気ないものだ。自分がどんなに想っていても、何の意味もないことを知った。……それが俺様の、イヴァンとの最後の思い出だった。
*
――身体の痛みを感じて、寝返りを打った。先ほどまでは感じなかった眩しさを覚え、たちまち意識が浮上する。目を開けば、もう八年は暮らしている勝手知った自宅マンションの寝室だった。八年も暮らしているはずなのに、どうしてこんなに違和感を抱いているのだろうか。自分でもわからないが、とても不思議な感覚だった。
ベッドに起き上がる。寝ている間に汗をかいたのか、寝巻きがべったりと肌に張りついていた。……今の身体の軽さからして、おそらく熱はもうないはずだ。
そこまで思考が明確になって、そういえば今はいつの何時だと肝が冷えた。いったい何時間寝ていたんだ。……時計を見れば、11時を指している。採光具合から言って、昼前の11時だろう。つまり、またしても連絡を入れる前に欠勤してしまったことになる。
「ああ、やっちまった……」
独り言だが、わざとじゃないことだけは誰かにわかってほしくて、わざわざ声に出していた。
軽くなった身体をベッドから抜け出させる。多少ふらついたが、これは寝起きのものだ。わかっている。サイドテーブルに置かれていた携帯電話端末を見つけて、そういえばフランシスは来なかったなと思い出した。確か昨日、電話が来たあとにメールで折り返して体調を崩した旨を伝えた。そしたら、仕事終わりに家に行くと返事が来て、それとなく気にはかけていた。……その矢先に……そうだ、あいつが来たんだった。まったくの想定外の来客だったから、自分でもどんな言動をしたのかはっきりとは覚えていない。……というか、待てよ……そういえば、あいつを出迎えたあと、確か、意識が朦朧として……そうだ、あいつを家に入れたんだ。思い出した。
あれが本来予定していたフランシスだったらどんなに気が楽だったか。すっかり重量を増した頭を抱えて、あいつの前でまた目眩を起こして身動きが取れなくなったこと、肩を貸してもらったこと、そして、ベッドまで付き添ってもらったことを思い出してしまった。
顔が熱くなる。ぼうぼうと脳みそが燃えているように、全身に巡っている血液までもが沸騰しそうだ。あいつに、触れてしまった。そうだ、そもそもここしばらくは過呼吸を持っていたことを忘れるくらいには、発作を起こしていなかったのに……あいつと……。
気づいたら、自分の指先で口元を覆っていた。誤魔化すように唇に触れて、柔らかさを確かめるような真似をして……何をこんなに大事に抱えているのだろう。既に日付感覚が曖昧だが、おそらく三日ほど前に交わしたキスにより突沸した情のせいで、自分という人間そのものがわからなくなる。あれほどあいつに踏み込まれることを恐れていたのに、キスをされたことを思い出したのはこれで何度目だ。こんなにも焼きついて、意識から離れない。……どうにかしている。
とりあえず腹も減ったし、ベッドから離れようと立ち上がった。その際にしっかりと携帯電話端末を握りしめ、何か連絡が入っていないかと確認する。そこには3件のメールが届いていた。
1件め、『持ってきたお見舞いはキッチンに置いてます。レトルトだからレンチンでも食べられるみたい』と、あいつから。きっと下心もあっただろう、けれど、たぶんこれは、罪滅ぼしに近いように思う。……脳裏を過っていたのは、先日の過呼吸のときのことだ。息をするのに必死であいつが何を言っていたのかほとんどわからなかったが、隣で泣いていたあいつを見て、俺様が冷静にならねえとなと思ったら、少し呼吸が落ち着いた。こんなことを言ったら、あいつは怒るだろうか。だが、俺様のことで必死になってくれる姿は、素直に暖かく感じたんだ。
綻びそうになった口元に気づいて、急いできゅっと引き締めた。
2件め、『着いたよ。反応ないけど大丈夫? 5分待って返事なかったら、今日はひとまず帰るよ』と、フランシスから。……そうか、フランシスは来てくれていたのか。無駄足を踏ませてしまっことに申し訳なくなる。メールの受信時間を見れば、あいつのメールから10分も空いてなかった。……危うくフランシスとあいつが鉢合わせするところだったのかと、冷や汗をかいた。
最後のメールを見る前にキッチンに到着して、先に中を覗いてみた。あいつのメールの通りに買い物袋がカウンターに置かれてある。少し覗いているバナナも見つけて、とりあえず何でもいいから腹に入れたかったので、それを手に取った。一旦携帯電話の端末をカウンターに置き、皮を剥いて頬張る。そのままカウンターに寄りかかってまた端末を拾い上げた。
3件め、『ちゃんと元気になってね』と、またあいつから。……そこは普通『早く元気になってね』とかだろう、相変わらずどこかマイペースなやつだなと、今度こそ頬が緩んでしまった。小さいころはあいつのほうが身体が弱くて、おまけに鈍臭くて、よく姿を探していたっけか。――ああ、そうか。端末から視線が外れ、どこか思い出の中を探すように彷徨った。『ちゃんと元気になれよ』って、俺様がよく言っていたんだ……。忙しないが、今度はぐに、と口元が歪む。バナナを頬張っているのに、またわけのわからない感傷が湧いて、胸が痛くなる。
今日はもう欠勤でいいとして、こうなったら明日は意地でも出社してやろうと心に決めた。何より、これ以上休んだら、またあいつがここまで来てしまいそうだ。それまでに、しっかり自分の心と向き合って、態度を決めておく必要がある。
キスしたときに溢れて止まらなかった気持ちを、観念して自覚するべきだとおぼろげにはわかっていた。じゃないと、きっとまた感情が突沸したときに、三日前の二の舞になってしまう。ちゃんと自分と向き合って、この気持ちをどうするべきなのか、見極めておかなくてはならない。
空きっ腹にはバナナで十分だったので、とにかくべとついた身体を洗いたくて浴室に向かった。シャワーを浴びながら、何度もここ最近のことを反芻しては身体が火照るが、それもこれも全部、シャワーのせいにしてしまう。
ゆっくりと目を閉じて、余計なものをすべて流し落とした心で考える。……あいつに会いたい。イヴァンに、触れたい。掻き立てる衝動が、埋もれるように漠然とそこにあるのも知っている。……だが裏腹に、そんなものは気の迷いだと宣う冷静な自分もいる。……思い出せ、あいつとの日々は常にどこかが痛んでいたじゃないか。そして最後には、簡単に俺様を手放した。もう、あんな思いはしたくない。誰かに近づいてもいいかなと思う度に顔を現す、厄介な一生ものの傷を、あいつは俺様に刻みつけたんだ。一時の気の迷いで、また奈落の底に落とされるのだけは避けるべきだ。……何度考えても、やはり結論はそこに行き着くばかりだった。
*
翌日にはちゃんと出勤しようと決めていた俺様は、それからも大事を取ってずっとベッドの上にいた。……いや、溜まっていた洗濯物や流し台の片づけなどは済ませたが、それ以外はという話だ。あれから熱は一度も上がらなかったので、本当に大したことはない単なる風邪だったんだろう。まったく、見計らったようなタイミングだったなあと自分に感心さえしてしまいそうだ。
気持ちのほうも……一晩かけてじっくりと自分と向き合った甲斐があり、かなり落ち着いたと思われる。あいつに刻まれたものが傷であれなんであれ、俺様があいつのことを忘れられないのは、残念ながら一つの事実だ。そこはもう、認めざるを得ない。……だがこうも考えられる、認めてしまったから、もう動揺はない。……それこそ、世の中にはいろんな形の情がある。あいにく、俺様を呪うようにして居座っている情は、もう子どものころほど単純ではなくなってしまったんだ。
家を出る準備をしていた。せっかくだからとあいつが買ってきてくれたリゾットを温めて腹ごしらえをして、スーツに着替えようとクローゼットを開いたところだった。
ピンポン、と弾むようなチャイムの音が家の中に響いた。こんな朝っぱらから、と考えたときに、たどり着く可能性はただ一つだ。それを瞬時に頭で理解して、寝室から廊下に出る。ここからなら玄関の様子を確認できるからで、しばし息を潜めて気に留める。二回くらい呼吸をくり返す間があっただろうか、再びチャイムが鳴った。
「ギルベルトくん、ぼくだよ。おはよう」
案の定だ。むしろ可能性はそれしかないと思っていたので、驚きはなかった。それでもビク、と身体が強張ったのは、脳みそで理解しているだけでは心構えが足りないからだろうか。……あんなに散々、一晩かけてもう大丈夫だと思ったのに、この有様なのは少しばかり情けない。……あいつの声を聞いただけで、狼狽えてなんて返事するべきかもわからなくなってしまった。
「その、出勤前に様子をみようかと思って……」
続いた口上を聞いている内に、ふ、と少しだけ強張りが抜ける。こんなところまでのこのこと出てきておいて、今さらためらい混じりの声色なんかさせているから、ちぐはぐすぎるだろと少し気が緩んだ。同時に、足が自然と玄関に向けて動き出している。
「あの、じょ、上司として……、」
言い訳をもう一つ付け加えて、それにも俺様は内心で「気が早えだろ……」とツッコミを入れていた。あいつが営業部の部長になるのは、来月の頭からだ。まだ一週間とちょっとある。
とにかく、ここまで散々醜態を晒してしまっていたことも相まって、これ以上の体たらくは避けるために気を強く構えた。玄関のチェーンを外し、そのまま鍵も開ける。重い扉をぐっと押し開けば……
どく、とあいつを視認した瞬間から、脈拍が活発になった。我ながらなんてわかりやすい。今にも涙腺が決壊してしまいそうなほど、しょぼくれたあいつがそこに立っていた。俺様を見るなり安堵したようにも緊張したようにも、瞳が踊って瞬く。……なんて顔をしてやがんだ、まったく。相変わらずの泣き虫具合に、さらに気が綻んじまうじゃねえか。
「……わりいな。もう本当に大丈夫だ。今日は出勤するからよ、先に行っててくれ」
安心させてやるつもりで、に、と目を細めてほくそ笑んでやった。
「で、でもまだ顔が青いよ、ほんとに大丈夫?」
首を傾げて、またそっと呟くように尋ねられる。
「病院行ってないでしょ……? ちゃんと行かないと……ぼくが連れてってあげるから、」
控えめな声の割に、言葉の距離感がおかしい。……病院に連れてくってなんだ。どうしてそこで引っかかったのかわからない、ただ、その言葉のせいでひどく肩に力が入った。自分の気が緩み過ぎていたことにも決まりが悪くなったのかもしれない。
「っ恋人面……、すんじゃねえよ……」
咄嗟に溢れたのは、そんなモノローグのような心証だ。調子に乗るなと忠告するのと、どちらのほうが穏便に流せていただろうか。他に言葉の選択の余地があっただろうとは、あとから思い返したが、今は目を合わせていられるほど冷静でもなかった。腹にこさえた苛立ちをなかったことにしようと必死だった。
「――そんな言い方、しなくていいじゃない」
声色の変化に虚を突かれて、顔を上げた。思わず目を合わせたら、ぎらぎらと熱を持っている。俺様の中に突沸したような苛立ちが、こいつの中からも湧き出ているのがわかった。それはさらに俺様を煽る。よほど恋人面と言われたことが癪だったのだろう。だが、これだけははっきりさせておく必要がある。
「お前とは、今後なにもない」
言い切ったところで、
「なっ、なんで⁉︎」
珍しくあいつは声を上げた。はあっと多めに息を吸い込んで、
「なんでそんなにだめなの⁉︎」
切実な瞳がこちらを捉えていた。それを見ていると、こいつの根本は変わっていないんだと不意打ちを食らったように視界が眩む。あのとき、ずっと一途に俺様を……俺様だけを見ていた眼差しだ。この眼差しがあって初めて、俺様を選んでくれたんだと確信ができた、あのときと同じもの。瞳の揺らめき方から視界同士がぶつかり合うこの距離まで。すべてが、あのころを彷彿とさせる。
「また……! そんな風に……ぼくを見るのに……!」
いつの間にか目を奪われていたのだと気づかされた。ふる、とすみれ色の瞳がいっそう大きく揺れて、見る見る内に輝きが増えていく。
そうだ、思い出せ。あの眼差しは結局は『一途』じゃなかったんだ。こいつの言葉を鵜呑みにしては、いつかまた投げ出されたときに痛い目を見る。俺様は、同じ轍は踏まない。
「……もう、あんな気持ちは……ごめんだ……」
わざわざそんなこと教えてやる必要なんかこれっぽちもないはずなのに、勝手にまた心が溢れた。どうして拒むのか、まるで言い訳のような、懺悔のような、そんな救えない心地で垂れ流してしまった。あわよくばこのややこしい心情を、それごとどうにかしてくれないかと……きっとそんな念願もあったんだろう。
いっぺんにぐしゃっと心の中が散らかった。自分の中にあった渇求を拾い出してしまい、やっぱり心のどこかではこいつを求めて止まない自分が、虎視眈々と唆す機会を狙っているのだと自認する。もう一度傷つくくらい構わないだろと、今にも走り出してしまいそうだ。
「……別れたときのこと?」
あいつの、優しく耳に触れる声が落ちた。だが、なんて返事をするべきか、また見失う。いかんせんたった今、俺様の中では胸中がぐちゃぐちゃになるほどの葛藤がくり広げられているのだから。
果たしてこの状況で、俺様はどうすることが正しいだろうか。……いや、この際、正しいかどうかはもういい。どうすることが、互いにとって一番いい結果に繋がるだろうかと、真剣に考え込んでしまった。その答えはそう簡単に出るものじゃない。一歩足を引くとそれに合わせて、そっと玄関の扉を支えられた。音もない、ただの思考だけの時間。あいつは、俺様からの返事を待っているのだろうか。
「……ぼくだって、好きで別れたんじゃない……」
ぼそ、と独りごちるように言った。だが、この至近距離だ。もちろん俺様には聞こえていて、またその一言に突沸した感情があった。
……好きで別れたんじゃない。どの口が言うんだ。……そりゃ、家族の事情で引越しを余儀なくされたかもしれない。だが、俺様があのとき思ったことはそのまま変わっていない。……本当に恋人でいたかったなら、方法はいくらでもあったと。それを、こいつは。
ふう、と深呼吸をした。今はそれを言っても仕方がない。あのとき、若さゆえに犯した過ちは、何もこいつだけじゃないこともちゃんとわきまえているつもりだ。だが、こいつにも知ってほしいことはある。……俺様が見た、あの、暗幕のかかったような光景を。『残されたもの』が、どれだけ暗く澱んで見えたかを。……新天地ですべてが新鮮だったお前には、きっとわからない。……心のどこかで、こいつもそれを味わえばいいのになんて、幼稚な気持ちが存在していて、そいつが口を開かせた。
「……お前はよ、新しい環境だったからよかったよな。俺様なんて、それまで通りの生活にぽっかりと穴が空いたんだ。お前が座ってたところが、全部穴になったんだよ」
それはつまり、俺様の『隣』がすべてって意味だ。大きくて真っ黒な穴に囲まれて、いつもその穴が作った他人との距離に怯えていて。
「……ぼくが、」
意識を引かれる。瞳を覗き込む前から、こいつは俺様のことを歪みそうな視界で見ていた。
「ぼくが、本当に新しい環境でよかったと思ってるの? どこを探しても君がいない街で、ぼくは、ぼくそのものが浮いていたんだ」
はた、と喉元がすっきりしたような感覚を抱く。何かわからないが、爽快なひらめきが走ったように、目線が変わったような気がした。見たこともないどこかで、こいつは俺様を探すように生きてきたのか。浮かべたほど都合良くはないかもしれないが、勝手にその状景が脳裏に過ぎった。……そうだったのか、あんな途方に暮れるような心地になっていたのは、こいつも同じだった……のか。そんなこと、考えたこともなかった。ただただ、俺様一人があいつに縛りつけられて、こんな痛い思いをしていたのかと、それだけに固執していた。
だが、それは今知ったことだ。今まで散々離別していたんだ。知る術なんてなかった。それもこれも、やはりたどり着くところは……あの、真夜中の……疲れていたのに、結局一睡もできなかったあの、寒くて暗い、あの、真夜中の……こいつとの最後の会話、だ。
「――そんなの、知らねえよ。知るわけねえだろ。……あんな……あんなっ、」
「なに?」
ぎゅっと、拳に力を入れた。ここまで言ったんだ、この際だから言っちまえと、気持ちがせり上がってくる。俺様は、まっすぐに、一目も逸らせぬように、こいつの瞳を見てやった。
「あんな、一方的な別れ方、」
それ以降は言葉がつっかえた。
「え……⁉︎ だって、ぼ、ぼくこそ……君が、別れを拒んでくれていたら……っ」
しっかりと釘づけていた瞳もぼうっと炎を灯すように活気が流れ込む。必死さのあまり、少しだけ前の眼差しに逆戻りして、それでもお互い一歩も引けなかった。
「はっ、あの状況で拒めるわけねえだろ……⁉︎」
「いつも、ぼくばかりわがままを言っていたから、君にもわがままを……っ」
――なんだ、そんなことを考えてやがったのか。だが、そんなの、こいつの勝手な感傷だ。
「何言ってんだよ。そんなの……俺様のほうがいつもお前に甘えてただろ……⁉︎」
そうだ。こいつは俺様に甘えるふりをして、その実、俺様がいつでも寄りかかれるように、手を伸ばせるようにしてくれていただけだ。手を伸ばしたいと思ったとき、すでにこいつから伸ばされていた手が、どれほど救いだったが、それを知らないはずがない。
「そっ、それは! ぼくがそうしてほしくて!」
「……は?」
「君に、甘えてほしくて……甘えてくれるように……していたから……」
自信もなげに、声のトーンが一気に落ち込んだ。今まで隠していたであろう気持ちを吐露してしまったことに、本人が一番揺らいでいるように見える。いや、今初めて自覚したのか。そんな面立ちだ。
「……はあ? お前、ほんとにそんな風に思ってんの?」
「え?」
だって、甘えるも甘えねえも、俺様の勝手だろ。こいつは本当に『自分のせいで、ギルベルトくんが〝甘えさせられて〟いた』と思ってやがんのか。
「……ケセ、お前、相変わらず素っ頓狂なやつだな」
「笑わないでよ意地悪……」
口元が尖って、代わりに一気に空気が柔らかくなる。どうやら俺様が抱いた疑問に気づいたようで、少し気恥ずかしそうに俺様を見ていた。そして持ち直したように空気を吸い込んで、
「とにかく、付き合うときも進路を決めるときも、全部ぼくのわがままだったから……いい機会だと思って……」
おそらく、当時自責していたのであろう事柄が口から走り出てくる。
いい機会だと思って? これはつまり、あの状況で俺様から〝わがまま〟を言うことを期待していたということだ。もしそれが本当なら、あのときのこいつは、俺様のことを何もわかっていなかったということになる。
「じゃあなんだ、俺様に『行かないでくれイヴァン』って言わせたかったってことか」
「ほら、また意地悪な言い方をする」
「そういうこったろ。俺様は、そんなこと言うキャラじゃねえ……よ」
……こんな、何年もの年月を浪費してから、ようやくあのときの言い訳をしているなんて。惨めさがさわさわと波及していき、そのせいで胃の辺りを覆っていた苛立ちが、静かにすぼんでいく。……確かに、俺様も、イヴァンに決断を託しすぎていた。……ちゃんとこうしたかったと、言えればよかったんだ。あのとき噛み締めた様々な悲観的な感情すべてが、それだけで避けられるものだったとするなら、俺様たちはいったいどれだけの遠回りを……、
「……ごめん、確かにそうだったね……君はそんなこと、言えないよね……」
こいつも肩を落とした。とどのつまりは、互いに反省すべき点はあったわけで、それを互いに今この瞬間まで気づけなかったということだ。だがきっとこれは、どの道いつかは俺様たちを分かっていたすれ違いに、なっていたようにも思う。どこかで一度、ぶつかる必要はあったのかもしれない。……そして、俺様たちが通った『いつか』は、最悪のタイミングのものだった。……あれから12年だ。12年。……お互い子どもじゃなくなっている。広い世界も見た。……いざというとき、こいつはあっさりと俺様を手放すことも、知ってしまった。ならば、互いに固執する必要はどこにもない。
「わかったら、」
俺様が口を開いたのと、
「じゃあ君、」
目の前にあった瞳が激しく燃え滾ったのは、ほぼ同時だった。
「ぼくのこと、嫌いになったわけじゃないんだよね?」
ドッドッドッドと心臓が焦っているのは、こいつが力強く踏み込んで、俺様は壁に背中を取られていたからだ。近い、距離が、近くて、くらくらする。玄関のほうから、しっかりとノブの金属が噛み合った音が聞こえても、身動き一つ取れない。今までで最も強固に俺様の視界を捉える目の表情が、鮮烈に揺らめいている。
肌で感じ取る。こいつはまた、俺様の奥に眠る〝念願〟に語りかけようとしている。知っているんだ、俺様の中にまだ、どうしようもなく溺れそうな想いがあることを。
何か、何か反論しなくては。往生際が悪いと思ってしまう自分もいたが、それでも意地になって言葉を探した。
「今は、す、好きじゃねえよ。もう終わってんだ」
必死に発した言葉も、今や本心かも怪しいそれを並べただけで胸が苦しくなる。……いや、わかっている。俺様は……、
「……それもうそ」
「う、うそじゃねえッ!」
「……じゃ、逃げなよ」
そうだ、喫煙所のときと同じだ。
近づく気配で、察している。こいつはまた、俺様にキスをしようとしている。かき乱すような、熱すぎる視線を向けられて、まんまとそこに釘づけになって、不意に息を呑む。こいつの言うように、俺様はどこも握られてもいなければ、捕らえられてもいない。あたかも俺様の心を測るように、静かにそこで待っている息遣いが、いとも簡単に意識を占領していく。……心臓が、何かを訴えるようにうるさく響いていた。もはや意志ではなく、本能で、
「っ、」
つま先に乗っていた。自分でも驚いた。キスをしたのは、唇を、押しつけたのは――……俺様のほうだった。ざわざわと巡る血液が沸騰している。高ぶった気持ちが抑えられず、そのままイヴァンの首に腕を巻きつけて、いつまでも放せずにいたのも、俺様のほうだった。
ゆっくりと、イヴァンの腕が俺様の背中を抱く。それが決定打だった。本当に手放せなくなる。
「んっ、ん、イヴァンっ」
何度も何度も、深くまでイヴァンにキスをした。なんと表現していいかわからない。とにかく体幹から背筋、果ては頭蓋の中まで、震撼するような安堵に、脳みそはもはや溶けきっていた。喫煙所で突沸したのと同じだ、好きで好きでたまらない。何十回と同じ言葉が身体を埋め尽くして、その度に重なるところが熱くなる。たった一つの事由により、湧き上がった窮屈と歯痒さと後悔と意地をすべて、多幸感が勝手に目隠ししていく。いつの間にか熱くなっていたのは身体だけでなく、心根の中まで燃えたぎっていた。
初めからこうしておけばよかったんだ。いつか傷ついたっていい、そう思ってしまえるほどの高揚感に支配されている。一時の気の迷いに決まっている。こわい。またあんなに深く溺れてしまうのが、恐ろしい。なのに、ほとばしる気持ちを抑えられなかった。もう頭の中が、収拾がつかないほどにぐちゃぐちゃだ。
だがその矢先に、イヴァンの熱がゆっくりと放れる。キスに夢中になっていて、自分の息が乱れていることにすら気づいていなかった。
霞みがかったような上気した視界で、何とかイヴァンの表情から心を捉えようとした。酷く思い詰めているような顔つきがそこにはあって、こいつ自身がこれを望んだんじゃないのか、と気が焦る。なんでそんなに口元を歪ませているんだ。音もなく俺様の背中から腕を解き、寄せていた身体を離した。今にも感情が溢れ出しそうな目元が、あんまりにも鮮やかで、またしても視界を奪われた。
「……ごめん、やっぱりこんなの……っ、意地悪は、ぼくだ……ごめんね……」
ぼんやりと熱にふやかされた頭で、こいつの言ったことを正しく理解しようとした。口では拒んでいた俺様に迫ったことを、気に病んでいるということだろう。……だが、今のは明らかに……。唇が触れた瞬間のことを何度思い出しても、やはり俺様がつま先を伸ばして、そして、イヴァンに触れた。何をそんなに、
「……じゃ、会社で」
踵を返したイヴァンに、がつんと頭を殴られたような心地になった。イヴァンは望まない俺様がキスをしたのだと思っていて、自分を咎めている。このままイヴァンを行かせていいのか。このまま、また、あっさりと手放して……、
――『確かに、俺様も、イヴァンに決断を託しすぎていた』
――『ちゃんとこうしたかったと、言えればよかったんだ』
――『それだけで避けられるものだったとするなら、俺様たちはいったいどれだけの遠回りを……、』
さっき後悔したばかりじゃねえか。俺様は、本当にイヴァンを、心の底からイヴァンを、拒みたいと思っているのか。この先、もしイヴァンが姿を消したとして、俺様はまた同じ後悔をしないのか。……こんなにイヴァンを……、
自分でも予想外のことだった。頭の中でよく吟味する暇もなく、玄関を開けようとしたイヴァンの腕を掴んで、思い切り引っ張っていた。バランスを崩しかけた大きな身体は何とか踏ん張ったが、その間もずっと、イヴァンの目線がしっかり俺様を捉えるまで待ってやった。そして、はたりと、それは俺様の上で止まる。
「なんで、そこでやめんだよ」
「だって……――!」
もうなりふり構っていられなかった。その温もりをまた一刻も早く受け入れたくて、また俺様のほうからキスをする。あいにく、ここまで拒んでおいて今さら引き止めるような言葉を、俺様は言えない。そういう性分なんだ。だから、せめてこの熱くなった身体で、理解してほしい。無茶を承知で、イヴァンに何度もキスをした。
「イヴァン、」
くり返すキスの合間に、どうしても呼びたくなった名前を呼ぶ。ようやくイヴァンの身体がすべて、俺様と向かい合って、困ったように笑った。もともと下がり気味の眉尻が、もっともっと下がっている。その柔らかすぎる目元で、
「……えへへ、かわいい……」
漏れた言葉と一緒に、イヴァンはぽろぽろと涙を溢れさせた。驚いて、不意を突かれて、俺様まで心臓の辺りが悲痛の叫びをあげた。痛くて、切なくて、苦しくて、ぼうぼうと目頭が熱くなる。湧き出る涙を押し込むように、今度はお互いからキスをした。どん、と背中が壁に当たる。奥まで、深くまで届きそうなほど、イヴァンは力強く舌を重ねてくれる。辛くて苦しいと思う気持ちは一向に拭えなかったが、ただ一つだけ、この安心感だけはおそらく12年ぶりに抱いているだろう。いかなる隙間も作らないように、二人で、必死に蓋をし合った。
こんなに人と距離をなくして過ごしたのは初めてかもしれない。止めどなく溢れたキスをしていた、まさにその玄関前の廊下に、俺様たちはいた。地べたに座って抱き合って、あのころよりももっともっと近くで、互いの温もりを確かめ合っていた。イヴァンを引き止めて、キスをしたときからどれくらい経ったかもわからない。互いの長年にわたる欠落感を埋めるように、ただ静かに……イヴァンはたまにすすり泣いて、時間が過ぎた。キスをしていたときはどちらもぐちゃぐちゃに泣いていたので、会社に電話することもできず、落ち着いたころにはすでに始業時間を過ぎていた。あとからイヴァンがメールを送っていたみたいだが……連日体調不良で欠勤していた俺様はともかくとして、もしかするとイヴァンはお咎めを喰らうかもしれない。その点は申し訳なさもあったが、今は、今だけは、この存在感を手放せなかった。
久々に抱きついた身体は、あのときよりも厚みも大きさも増していて、これはあれだ、熊みたいになったなと、揶揄混じりに静かに笑った。おまけにロシアにずっといたせいだろうか、しんしんとした匂いがする気がする。……これは雪の匂いだろうか。勝手なイメージかもしれないが、土地の匂いが染みついているのかもしれない。熊みたいな図体と雪の匂い……それをしっかりとこの五感に刻み込む。
おそらく、これでまた俺様たちが道を分かつことになったら、今ここでイヴァンに気を許してしまったことを激しく後悔するんだろう。だが、そうであったとしても、イヴァンを求めてしまう気持ちが心を占領してしまった。
「……ギルベルトくん」
こんなにも名前を呼ばれて嬉しいと思えるんだ。
「イヴァン、」
たとえ一瞬の幸福でも、皆無よりはいいのかもしれない。この結論に至るまでの数ヶ月、イヴァンには悪いことをした。きっと、たくさん悩んだだろう、ひどいことも言ったと思う。それなのに、こんな俺様をまたも、見捨てないでくれていた。……ほら、俺様たちの関係性は、あのときから変わっていないんだ。そして俺様たちはもう子どもじゃない。……大丈夫、今度こそきっと、上手くいく。
「イヴァン、」
「うん?」
抱き合ったまま、目線も合わせないで呼びかけた。
「その、悪かった……。俺様、お前を振り回してるよな。……わりい、自覚してる……」
「……うん、」
まだ少し、イヴァンの相槌も揺れている。間違いなく、ここ数ヶ月はイヴァンの負担が大きかった。俺様がいつまでも幼稚な意地を張っていたせいだ。認めてしまったら、受け入れてしまったら、こんなにもすべてが楽に飲み込める。イヴァンはもう、障害があっても安易に俺様を諦めたりしない……こんなにもはっきり見せてくれていたことにも、気づいていなかった。
「俺様だけあのころから変わってねえよな……情けねえ……。あのころの恋愛から、なんも成長してねえ……」
言い訳にも聞こえていたかもしれない。だが、これは心からの懺悔で、償いだった。イヴァンの感じていたであろう苦しさは、すべて俺様のせいだとちゃんとわかっていることを、明言しておきたかった。
そっと、髪の毛に触れられた感触がする。イヴァンがゆっくりと触れて、
「ギル、」
耳元にある口からは穏やかな声が通る。呼ばれ慣れない名前のせいか、落ち着いていた胸の鼓動がとくとくと強く鳴った。
「……ぼくのあと、誰かとお付き合いした?」
何を突然、と身構えたが、これまでイヴァン以外とこんなに親密になったことはない。だが、俺様と離別している間にこいつは誰かとそういう関係になっている。この差を認めるのも癪に思えて、答えを探している間に、イヴァンはまた次の質問を寄越した。
「じゃ、ぼくの前は……?」
何度問われようとも、後にも先にも、俺様にはイヴァン以外の恋人はいなかった。イヴァンと経験したことが、俺様のすべてだ。……だが、イヴァンは、〝他の誰か〟を知っている。これじゃよほど、俺様がずっとイヴァンに未練があったみたいじゃないか。
そうこうしている間に、イヴァンは「ふふ、」と穏やかに笑った。
「じゃあ、成長のしようがないよ。……あのころのままでも、情けなくない」
答えてないのに、すべてしっかりと伝わっていた。
「……ううん、あのままでいてくれて、ありがとう」
おまけに俺様のことを慰めようとしている。……恋愛において、こいつは一歩も二歩も先に行っているからこそ、こんなに余裕があるのか。……と、思いかけたが、違う。高校生のときも、こいつはこうやって、俺様を甘やかしていたんだ。……こういうところは変わっちゃいねえ。
だが、こんな話題になっているのもいい機会だ。余計なやきもきを解消するために、俺様は身体を離して、イヴァンの目をしっかりと見据えてやった。
「そういうお前はどうなんだよ。恋人の匂いをプンプンさせて、なあ?」
「あれ、ヤキモチ?」
嬉しそうに笑いやがったのが納得できない。
「そんなんじゃねえよ。イヴァンのくせに」
語気を荒げてもまるで無意味で、
「お付き合いしたよ。二人」
隠すこともせずに、正直にそう教えた。
「その人たちには悪いけど、今にして思えば、君を吹っ切るための恋愛だったけどね。……それができなかったから、ぼくは今ここにいる」
そうしていっそう、笑みを深めて見せた。そう言っておけば、少なくともその二人と比べたら俺様がいいのだと伝わると思ってやがる。だが、自分で言うのもなんだが、俺様は恋愛する上では、そうとう難があるはずだ。……なのに、こんなところに戻ってきてまで……とか……。ぼんっ、と小さな爆発が起こったように、頭が真っ白になった。
「お、お前、どうにかしてるぜ」
「ありがとう」
渾身の冷静なふりにも悪意なく言い放ち、仕上げにまたキスをされた。何がありがとうだ。こいつ、勝手に俺様の心の中を覗いた気になっている。……だが、あながち間違っていないから、返答に困ってしまうのだ。
「……ギル、」
耐えられずに逸らしていた視線を結ぶ。
「だいすき」
それだけを紡いで、あとは眼差しにすべてを語らせていた。
その降り注ぐような眼差しが暖かくて、懐かしさに襲われる。……あのころのように、でも、もっと上手に互いを愛していけるだろうか……。少なくとも、イヴァンにはその覚悟も気持ちもある。それがちゃんと伝わってきて、う、とまた目頭が強張ってしまった。瞳を覆った涙の膜も、水滴にならないよう祈る気持ちでイヴァンを見つめ返した。
頬を緩ませて、俺様の髪の毛にまたそっと指を通す。そのまま横顔に触れられて、「ギルベルトくん」と呼びかけられる。
「ぼくと、あのころの続きを、してくれませんか」
……ああ、ため息を吐くように、すべてが決壊した。この吹き出した気持ちが何なのか把握できないほど、身体を満たす激情に言葉を奪われるばかりだ。
すぐにでも返事をしてやりたいが、なんて返事をしたらいい。こういうときは、何というのがいいのかわからない。増して、言葉を俺様から奪った激情は湧き上がるばかりで、喉を詰まらせる。きっとまともな返事じゃ、うまく返せない。
「……ギルベルトくん?」
「……お前、しつこすぎなんだよ……」
苦肉の策で返したのはそれだった。もう顔も見られないほどの好きで溢れて、胸が苦しい。これ以上、俺様の心を揺さぶらないでほしい。壊れてしまいそうなんだ。
「ええ、だって、ギルベルトくんが好きなんだもん」
無邪気に笑うイヴァンを見返す。やっぱりちゃんと、伝えたい。イヴァンも言葉を待っているはずだ。こんな俺様がいいってんなら、
「……イヴァン、いいぜ。お前とやり直してやらあ」
あくまで上から目線で言ってやろうと思ったのに、うまくそれができず、隠すように抱きしめていた。
「だが覚悟しろよ。俺様は一筋縄じゃいかねえぜ」
言い終えて、深呼吸をした。するとイヴァンからも背中に手が回って、
「……ふふ、一緒なら怖くないよ、きっと」
小躍りするように声も跳ねながら、ゆっくりと背中を撫でられた。混ざり合う温もりが、これ以上ないほどに心地いい。こんなの、初めから手放せるはずがなかったんだ。
少しの間、また静かに二人抱き合っていた。大げさではなく、今の俺様には必要な時間だった。……その内イヴァンが背中に回した手でトントン、と合図をして、察した俺様は身体を放した。
「とりあえず、今日までは休んでなよ」
やはりその話題だ。俺様もそそくさとイヴァンから離れて、身動きを取れるようにしてやる。
「というか、そのほうがぼくも会社に言い訳しやすいかな。ギルベルトくんを病院に連れて行ったとかなんとか、言い訳ができる」
そう、そろそろイヴァンを出勤させたほうがいい。心配させまいとしているのか、小さく笑っているが、たぶん、遅刻する旨しか伝えていない。これ以上引き止めるのは、あんまりにも考えなしだ。……まして、来月から部長になるというのに。
名残惜しさで身が捩れそうだったが、それこそもうあのころのような子どもじゃないんだ。その痛みを押し込んで、率先して立ち上がった。フローリングの床に長時間座っていたせいで、脚の周りが少し痛む。
「ケセセ、はいはい。俺様は今日までは大人しくしとくぜ。いってらっしゃい、しろくまちゃん」
口をついて出た言葉に、二人して驚いた。……なんだ、しろくまちゃんって。熊みたいな図体と、雪の匂いから、確かにさっき連想はしたが……しろくまって。そんな風に呼んでしまったことに自分で照れ臭くなってしまい、
「おう、悪い、つい呼んじまった」
慌てて訂正した。……だが、見ていたイヴァンは、
「ううん、いいの」
何がそんなに嬉しいのか、機嫌よく笑って玄関に向かう。しっかりとカバンも持って、最後に、ちゅ、とおでこにキスをされた。……こ、これじゃ、まるで夫の見送りをするつ……こ、これ以上はやめよう……。
頭が茹っている間にも、イヴァンは玄関の扉を開く。それから温和な笑みを浮かべて、「いってきます」と手を振る。その光景に、またくら、と眩暈のような違和感を覚えた。
……まだ体調が悪いのだろうか。身体中にじんじんとした痛みを感じる気がして、イヴァンを笑顔で見送るのがやっとだった。……なんだろう、心の奥底に、まだ慟哭の塊がある。
とうとうイヴァンが出て行った玄関が閉じてしまった。いつも聞いているはずの金属音が、やけに耳に刺さる。まさにそれが号砲だったかのように、ぐっと、胃のほうから不快感が湧き上がった。懐かしすぎる喪失感が喉の奥から押し上げてきて、慌てて口元を抑えた。嗚咽が漏れるように喉が強張っている。
――さびしい、おいていかないでくれ、むなしいんだ、なんで、おれだけ、
いきなりどうしたんだ。自分の脳裏を掠めた悲嘆に戸惑う。ついには立っていることさえ困難になり、その場に座り込んでしまった。さっきまで自分を抱いていた温もりが恋しくて、気が狂いそうになった。今イヴァンを見送ったばかりだというのに、どうしてこんなに聞き分けがない心痛がこみ上げる。もう意地も張っていない。俺様もイヴァンも、互いの気持ちをしっかりと確かめ合ったはずなのに、何でだ、どうして。こんなに空っぽで、何もない。イヴァンは仕事に行っただけだと、ちゃんと頭では理解しているのに、心のどこかでじたばたと駄々をこねている子どもがいるようだ。
押しとどめていた痛みが、ついに結晶となってぼたぼたと床に落ちていく。
……だめだ、やっぱり辛いじゃねえか。イヴァンと正面から向き合ったのに、この苦しさはいったい何なんだ。イヴァンへの気持ちを認めてしまえば楽になると思っていたもやもやは、イヴァンと触れ合っても晴れるどころか、いっそう重くて苦しいだけだ。……なんなんだ、これは。いっそイヴァンの後を追って……いや、それだとイヴァンが伝えることに辻褄が合わなくなる。
だが、だめだ。今すぐに、この瞬間に、ここにイヴァンがいないことが、どうしてこんなにも耐えられない――
第六話「テンカイ・サブズィエ」 へつづく
(次ページにあとがき)
あとがき
ご読了ありがとうございます!
ついに〜〜〜!!!!
……うるさいですね、すみません。笑。
ともあれ、ついに思いが通じました。
いかがでしたでしょうか、第5話。
ギルくん視点書く度に思うんですけど、
本当にこのお話のギルくん拗らせてる……。
もう少し見守っててやってください。
さて、次話は思いが通じた二人に、いろんなことが降りかかりますよ……!
お楽しみにしていただけると幸いです〜!
次回はもうちょっと早めに書けたらいいのですが……(^_^;)
それでは、改めましてご読了ありがとうございました!