3. 水面を追う①
その後、支配人がシャロスと連絡を取ってくれて、間に立ってまた話をつけてくれたらしかった。どうやらシャロスは暴力に対する賠償金こそ請求しないものの、まだしつこく私の処女権を狙っているらしいという話だ。――まったく、思いっきり股間を蹴られた相手とどうしても交わりたいとは……本当にあの男の頭の中はわからない。それを支配人づてに聞いただけで、ぶるる、と寒気が走った。
見ての通り、というのか、私はもう二度とシャロスと対峙できる自信はなく、支配人もそれを察しているようだった。だからか、私に新たな日程の調整を促すことはなく、支配人が勝手にシャロスを断ってくれているらしい。……正直なところ三百万は惜しいのかもしれない……けれど、けれど……、私は、やはりあの男とことに至ることはできないと確信した。例え一億を積まれたって無理かもしれない。今回破られた約束が「唇にキスをするな」だからまあ、なんとかよかったものの、それがもっと過激な約束事だったらたまったものではないからだ。(それでも許せないが!)もしかすると支配人が持たせてくれたあの契約書がなければ、シャロスはそれこそコンドームもせずに私と交わろうとしていたかもしれない。……ゾッとする。
まあ、ともあれ、シャロスとの約束は処女権に対する三百万なわけで、当然それは私が拒み続けている限り、手には入らない。ということは、私はタダでシャロスという変態男にファーストキスを譲った形になるが……それが双方の同意だったのだから諦めるしかないのだろう。……五十万くらいなら請求してよくないか? と思うが、きっと支配人からは却下を食らう。そもそも、それができるなら支配人が既にやっているはずだ。
それから一週間ほどが経った。シャロスは度々店に訪れているそうだが、支配人が出禁にしてくれたようだ。店が終わっても裏手にある寮に帰るだけの私は出待ちのしようもなく、私が直接シャロスを見ることは、そのあと一度もなかった。
ちなみに『一抜け』と言っていたヒッチは、あれ以降キャストとしてホールに出なくなった。人気キャストの一人だけあって、惜しむ客はあとを絶たなかったが、裏でヒッチが毎日浮かれていることを知っている私は、内心で意地悪くほくそ笑んでいた。
ときどき、ゲストに同伴やアフターに誘われるようになっていたが、なんとなくシャロスのことがあって気が引けてしまうため、「まだ新人だから」と言って断っている。……しばらくはこれで許されるはずだ。何せ、私がここにきてからまだ一ヶ月とちょっとしか経っていないのだから。まだ新人も新人だ。
そしてその〝新人〟には特別な仕事が与えられている。それは指名フリーで入ってきたゲストの対応だ。これまで時間をかけて関係性を築いてきているベテランと違い、新人はまだ固定ゲストが少ないため、こうやって顔を広げていく。
そしてこの日も、予約はあって一つ二つの暇人であるこの新人『スカイ』は、支配人の指令で新規のゲストにつくことになった。
「――スカイ、十五番テーブル。フリー指名なんだけど、お願いしていい?」
支配人がいつものように柔らかく尋ねる。支配人なのだから「行きなさい」でいいのに、彼は決してそんな言葉は使わない。だからほかのキャストたちを含めて信頼が篤い。
「うん、行くよ」
もちろん私も断る口実も理由もないので、鏡の前に立って臨戦体制に入った。
「助かるよ。じゃあ十五番テーブル、担当スカイ」
インカムに向かって支配人が呟く。そのあとまたジジ、と機械音が鳴って、
「スカイ、十五番テーブル、ワイヤー様」
「ワイヤー様、了解」
いつもならこれでやり取りは終わりのはずなのだが、今回は何かが違っているらしい。再び支配人のインカムから機械音が漏れ出しただけでなく、支配人が少し待つようにと私の肩を持ったので、私もその場でインカム間のやり取りを伺った。
「――うーん、了解。本当に大丈夫そう?」
インカムに向けて尋ねながら、支配人が眉を顰める。そしてまたそれに返答するために機械音が鳴り響く。
「わかった。了解」
インカムへの会話が終わると、支配人はすぐさま私のほうへ視線を向けた。やはり私に何かまだ伝えることがあったらしい。
「ワイヤー様、既に結構酔っ払ってるみたいなんだ」
「……はあ……」
つまり私は、酔っ払いの相手をすればいいということなのだろう。何を支配人がそんなに懸念しているのかわからないが、変にいろいろと偽装しなければならないシラフスタートの客より、適当にしていればいい酔っ払いのほうがいくらか楽だろう。
「黒服は一応近くに待機しているし大丈夫だとは思うって受付も言ってるけど、まあ、念のため気をつけてね」
「あ、はい」
「よおし、じゃあ、今度こそいってらっしゃい!」
「はい!」
そうしてようやくいつものように支配人に見送られ、私は随分と慣れた歩調でホールへと踏み出した。そう、もうこんなことは何度目かになり、そしてこれはその一回にすぎなかった。
十五番テーブルと言えば、店の玄関に近い位置にあるテーブル席だ。おそらく、何かトラブルになったときにすぐつまみ出しやすい席なのだろう。だがそのためバックヤードからは距離があり、私は扉を潜ってホールの中を颯爽と突っ切った。ホールの中央にある大きな柱を越えると、そこに『ワイヤー様』の後頭部が見える。坊主にしている、ガタイが良くて、おまけに柄が悪そうな中年と初老の間くらいの男のようだ。後ろから見ていると、どうやら男は不自然に頭を左右に揺らしている。酔っ払っているだけなのだろうが、なんだか気味が悪いなと思った。それでも私は歩を進める。
ワイヤーというゲストの前まで来てしっかりと立ち姿を見せた。
「お待たせいたしました。本日担当のスカイです。ワイヤー様、よろしくお願いします」
そういうとそこに座っていた男は既にかなり据わっている目でばちばちと瞬きをして「はあ?」と声を上げた。
私はまさか「は?」と言われるとは思っておらず、心の中で「ん?」と問い返してしまった。この先どうすればいいのか、と考えていると、ようやく男は状況を理解したらしく、
「あぁ、よろしく」
短くそう加えた。
内心かなり焦ったが、まあ私のことを認識してくれたのだからこれで大丈夫だろう。
「失礼します」
……と、自分を落ち着けつつ、こんな右も左もわからない状態でキャバクラになんか来るなよ、と喉の奥で悪態を吐いてしまった。
さあ、仕切り直して接客――と思い口を開いたところで、先にこの男が大きく伸びをしながら大きく口を開けた。
「うはあ〜まずはあれだな、ビールほしいなビール」
「かしこまりました」
私は側に立っていた黒服――ボーイともいう――にその注文を伝え、黒服もインカムで厨房にそれを伝えてくれる。あとは待っていれば完成したものをその黒服が取りに行き、ここまで運んでくれるという寸法だ。基本的なワインやシャンパンは既にテーブルに備わっているが、そのほかのオーダーはすべてこの形式でやっている。
私はここからの会話が詰まることが目に見えていたので、準備しておいた質問を投げかけることにした。
「――それで、どうされたんです?」
ワイヤーという男の顔を覗き込む。さっきまで煙草を吸っていたのか、匂いが鼻の先に留まった。……支配人が吸っているものよりも苦い臭いがして、なんだかこれはもう、〝極めて〟いるなと思ってしまった。
「もうそんなに飲まれてるってことは、何か嫌なことでもあったんですか?」
金色のチェーンネックレスに、薄い茶色のサングラスをシャツのボタンにかけている……いやはやこれは、〝いかにも〟な出立ちに感心すらしてしまう。
「はあ? なんもねえよ」
めんどくさそうにワイヤーという男は答えた。足を投げ出して、視線をあちこちに飛ばしている。何をそんなに見て回っているのだろう。酔っ払いで目が回ったのか。
とりあえず男が酒を飲んでキャバクラに遊びにくるなんて、鬱憤を晴らしたい以外に理由があるだろうか。初対面で女の好みもわからない私は、こうするのが一番かと思って続ける。
「本当です? 私でよければ話聞きますよ」
ちょうどそこで先ほど頼んでおいたビールが届けられた。
私は「はい」とそれを手渡して、私なりにできる限りの笑顔を作ったつもりだ。そしてそのままその男の反応を待った。……なかなか反応しなかったからだ。
私のことをじーっと見つめて、おそらくほとんど回っていないその頭で何かを考えようとしているのだろう。
「ほら、飲んでぜんぶ吐き出して、忘れちゃいましょう」
私はそのビールをワイヤーという男の前において、テーブルの上に置いてあったおつまみを引き寄せた。タイミングを見て、私のための飲み物も注文してもらおうと考えていたとき。顔を向けると、ワイヤーという男はまだ私のことを見ていた。
私の顔がそんなに気になるのかと思い首を傾げると、男は何かを決意したように、ぴくりと眉を動かした。
「――なんだあ? その態度は」
「え?」
突然その男が声を張り上げるものだから、私は目を丸々と見開いてしまう。
「その目つき、お前俺のことバカにしてんだろ!」
男は上背を強調するように背筋を伸ばして、私を上から威嚇するように怒鳴った。
何が何だかわからないながら、私は必死に逆撫でしまいと返答を続ける。
「い、いいえ、してません」
「話し方も雑だし、おい、俺はお前の客だぞ!」
「あ、はい?」
「詫びとしてなんかサービスないの? サービス!」
「サービス、ですか?」
何も噛み合わない会話はずっとそのままで、私の頭の中は理解を追いつけようと必死に巡っていた。それなのにこのワイヤーという男は、激しく床を踏み鳴らすように歩き、
「あーもう、埒があかねえ! 支配人呼べ! 支配人! おい、そこのボーイ!」
テーブルの脇に立っていた黒服に怒鳴りつけた。思っていたよりも背が高いことに驚く。かなりの大柄だ。
「はい、お客さま何か?」
驚いた黒服も慌てて駆け寄ってくる。黒服二人がここへ来て警戒態勢に入った。見回してみれば、近くのテーブルのゲストたちも静まり返り、すべての目玉がこちらを向いている。
「何かじゃねえよ! この女の態度に問題ありだ! 支配人呼べ!」
「か、かしこまりました」
ワイヤーとの会話の末、一人の黒服が後ろを向いてインカムを操作した。一番早い支配人の呼び出し方だが、私は内心で、心底、焦りまくっていた。いったい私が何をしたというのか。私はただ、日々の鬱憤も話せるようにと――。
支配人が走ってきた音がして、また頭が真っ白になる。なんてことだ、シャロスのことで既に迷惑をかけているというのに、これ以上迷惑をかけてしまうなんて。……これ以上、迷惑をかけたくないのに――!
さ、と私の横で支配人の気配が止まった。
「はい、お待たせいたしましたお客さま。支配人のアルレルトと申します」
支配人がすらっとしたスタイリッシュなお辞儀をしてみせたが、この礼儀知らずの酔っ払い男は支配人が顔も上げる前から、
「なんだあ、随分な若造じゃねえか!」
支配人に向けてまで罵倒を飛ばした。ホールの中にぴり、と緊張感が走る。
「まあいい、この女! 接客態度がなってねえぞ! どういうつもりだ!」
ぐっ、と右足を踏み込んだワイヤーという男は、随分な力を込めて私を指し示した。その指先が私を捉えたと同時、なぜか強く焦燥感が湧き上がる。
しかし支配人はその指し示した手を下ろさせるように手首を掴み、
「いえ、スカイは当店で自信を持って提供しているキャストでして、おそらくお客さまのご趣向に合わなかっただけかと」
ゆっくりワイヤーという男の手を引かせた。
「今すぐに別のキャストをあてさせていただきますので――、」
「――そんなのはいい! 詫びだ詫び! 詫びで何か飲ませろ!」
その言葉が出てきたことで、私は雷が落ちるようにあっという間に、すべてが一本の線で繋がった。ただなんとなくでしかないのだが……、こいつのやりたいことは、単純に勝手なイチャモンをつけて、タダで飲み食いしようというだけのものではないのか。
すると私の中にあった焦燥感は一気に引いていき、この男に対する侮蔑の感情がふつふつと湧いてくる。
もちろん支配人もそんなゲストには毅然とした態度を崩さない。
「いえ、お客さま、ほかのゲストさまにも失礼になりますので、当店ではそのようなことは行っておりません」
「はあ!? なんだと!?」
今にも殴りかかりそうになっているのを見て、黒服だけでなく私まで警戒態勢に入っていた。私は座ったままだが、しっかりとこの目を留めてワイヤーの一挙手一投足を捉え続けた。
「ご不満でしたら、お客さまのご利用料金すべて返金いたしますので、どうぞお引き取りください」
そこまで支配人が言い切ったときだ。
ふわり、とワイヤーという男の表情が綻ぶ。何か驚くものでも見つけたような顔つきになるが、依然としてワイヤーが見ていたのは支配人だ。
「……おい、ちょっと待て。お前、――オーシャンか?」
ワイヤーがこぼした言葉に私まで度肝を抜かれ、思わず支配人の顔を確認してしまった。何も言わずにただそこに立っている。心を殺しているのかなるべく見せないようにしていたようだが、〝あの支配人〟が何も言い返せずに固まっている時点で、どれだけ動揺しているのかがわかった。
――『お前、オーシャンか?』
その言葉の意味は明らかだった。
――『支配人も昔は人気の男娼だったらしいんだわ』
そうだ、『オーシャン』と呼ばれる意味はただ一つ、支配人の――
どわ、と大声をあげて目の前の酔っ払いが笑い始めた。不快な笑い声がホールの中に響き渡る。
「わ、やっぱそうだろ!? その耳の傷! 俺がつけたやつだよな!? わーはっは! おい、こいつ、俺が五年くらい前によく買ってた男娼だぞ!」
今度はホールの中にいるほかのテーブルのゲストに向かって叫び散らし始めた。
しかしそれで我を取り戻したのか、
「お客さま、ほかのお客さまのご迷惑になりますので、」
支配人が黒服にワイヤーをつまみ出すよう合図しながら、また芯を取り戻したその声で咎めた。
「ああ!?」
黒服二人に両方を捕まえられて連行されながらも、ワイヤーはしつこくホールの中に向けて叫び続ける。支配人もなんとかワイヤーを止めようと言葉を被せ続けていた。
しかし柄の大きな男の声は嫌なことによく響く。
「今じゃキャバクラの支配人ってか!? 今度は女をこき使って荒稼ぎしてやがるのか!? 落ちぶれてるやつはどこまで行っても変わんねえなあ!?」
あまりにも激しくもがくものだから、黒服も手こずっている。そのまま黒服の腕をもすり抜けそうになっているのを見て、私は思わず立ち上がっていた。
「もしかしてここの女とも全員寝てたりしてな!? 身体売るくらいヤるのが好きなんだろ!? はは、愉快!」
聞くに耐えない言葉の羅列に、私は掻き乱された感情を抑えるのに必死だった。支配人のこと何も知らないくせに、搾取していた側のやつが――!
「もう客は取ってねえのか!? おいまたしゃぶってくれよ! お前のフェラテクはんぱなかったよなあ! がっはっは! こんなやつが支配人ってことは、もしかしてここのVIPの相手は支配人がするのか?!」
我慢の限界だ。
「なあ!? この卑しいオカマ゛ッごふ!?」
「――スカイ!?」
ワイヤーという男は私の中の越えてはいけない一線を越えていた。もう拳を抑えることよりも、振り抜くことに意味を見出してしまった私は、ワイヤーの顔面に思い切りのいいそれをぶつけていた。
ホールの中から、きゃっ、と女たちの短い悲鳴が聞こえる。しかし私の怒りはそんなことを気にする余裕もないほどに燃え上がっていた。
「んだあ!? このクソ売女あ!?」
黒服を振り払ったワイヤーが思いっきり私に向かって振りかぶってきたので、今度はその拳をいなして身体を翻し、体勢を崩したワイヤーの横から思いっきり鳩尾に膝蹴りをくれてやった。
「ぐほっ!?」
今日のドレスがタイトでなくて本当によかった、などと思っていたのは、このホールの中でおそらく私だけだろう。
「お客さま!」
「お客さま!」
私が伸ばした男に向かって、黒服たちが慌てて駆け寄った。そいつは急所に私の強烈な蹴りを食らい、すっかり意識を失っていた。
そしてそこに支配人も駆け寄る。
「早くっ、エレンを呼んで!」
「は、はいっ支配人!」
「このお客さまを奥へ。スカイ、君も一旦奥へ」
思いっきり怒りに任せて力を振るって放心していた私に、突然支配人の視線が向いた。驚いて肩が跳ね上がり、
「え、あ、はい」
黒服たちがずるずるとワイヤーの身体をバックヤードまで引きずっていく横に私もついて下がった。
「皆さま、大変お騒がせいたしました」
支配人はバックヤードの入り口でくるりとゲストに正面を向けて、
「お詫びとしてパラダイスハートより心を込めて、追加オーダーメニューよりドリンクを一杯サービスさせていただきます。どうぞ引き続きお楽しみください」
先ほどワイヤーの喚いたことを嘘だと否定するような上品なお辞儀をして見せた。
それからまた慌ててバックヤードに駆け込んでくる。そこで支配人の様子を見ていた私の肩を叩いて、一緒に店舗側にあるオフィスに傾れ込んだ。
完全に伸びきっているワイヤーの身体は一応はパイプ椅子に乗せられているが、とても不安定で雑だった。……まあ、私が知ったこっちゃないが。
私も支配人が座ったもう一脚のパイプ椅子の横に立ち、項垂れる支配人を見ている黒服たちを見ていた。
こんなに事務所の空気が重かったことが、未だかつてあっただろうか。
ここへきてようやく私は、ゲストに暴力を振るうという暴挙に出てしまったことに思い至った。今はシャロスのときとは違う――この男は、別に誰も物理的には傷つけてはいなかった。
だが、だからなんだというのだ。
ワイヤーが捲し立てた支配人への罵詈雑言を思い出して、再び胃の中をどろどろに滾らせてしまった。――支配人のことを何も知らないくせに、よくもこの酔っ払い風俗男め。
……だが、その脇で支配人が項垂れているのも、また事実だった。
「……支配人、すみません……」
私はやったことを後悔はしていないが、これからかけるであろう迷惑について先んじて謝罪をした。
すると支配人は少しだけ顔を上げて、
「……はは、ゲストを殴るのは前代未聞だよスカイ」
もう笑うしかないような声使いで返された。――やはり、ゲストに手を出してしまったことは問題だったらしい。再び頭を抱え直した支配人を見て、思わず私も肩を落としてしまった。
「……ごめんなさい……」
……そうだ、殴ったことはあの場を制圧するのに仕方がなかったにせよ、それをよりにもよって〝黒服ではなくキャスト〟が、〝ホールの真ん中で〟ゲストに対して暴力を振るったのがいけなかった。……それは確かに、反省すべきかもしれない。
「いや、僕のためだったんだよね……ありがとう」
思いもよらず、支配人が顔を上げて私のほうへ振り返った。
「い、いや」
あんまりにもまっすぐ見て感謝されるものだから、私はこそばゆくなってしまい、目を逸らした。私はただ、支配人を〝守りたかった〟だけだ。
しかし改めて支配人を見ると、いつも落ち着いて穏やかな顔をしているのに、今は初めて見るような青ざめた顔をしている。……これは内心かなり動揺しているのだろうと察した。――ということは、ワイヤーが言っていたことは――……
「――支配人、イェーガー氏がいらっしゃいました」
オフィスの扉がノックされ、また別の黒服が顔を覗かせる。
「ああ、ここまで通して」
「かしこまりました」
そういえばワイヤーが伸びたとき、支配人は黒服に『エレンを呼んで』と言っていた。先ほど黒服が言った『イェーガー氏』というのがその人物なのだろうか。私は気になってオフィスの扉が次に開くのをじっと待ってしまった。
ばたばたと廊下を歩いてくる豪快な足音がいくつも響き、ガチャ、と扉が開かれたと同時に、青い制服を身にまとった背の高い男が入ってきた。
「よお。何かあったか?」
「ああ、このお客さんが問題行動をして。うちの従業員が伸びさせたんだ」
支配人がすかさずその男の元へ駆け寄る。
私はその男を見て呆気に取られていた。そうだ、この男はあのとき――シャロスと初めて約束して、それを反故にしたとき――、私を保護してここまで送ってくれた警察官だった。
二人して伸びきったワイヤーの様子を確認している。
よく見ると、オフィスの入り口で扉を持ったまま、もう一人の警察官がそこに立っていたことに気がついた。――私が保護されたときにパトカーの助手席にいた警察官だ。そう頻繁にはお目にかかれないしっかりとした赤毛だったので、よく覚えている。
「わあ、こりゃしっかり伸びてんな」
「いつもの感じで頼むよ」
「おう、正当防衛な。勝手に処理しとく。こいつもうちで預かるぜ」
「よろしく頼むよ。いつもすまないね」
「ああ、気にすんな」
あっという間に二人の会話はまとまってしまい、エレンという警察官は、いち早くその大柄なワイヤーを担いでオフィスを出て行ってしまった。
なんとも……なんとも板につききった流れを見せられて、いや実はこういうことけっこうあるのか……と勘ぐってしまった。『いつもの感じで』とも言っていたこともある。
何にせよ、これで無事にワイヤーはいなくなったわけだが、それでも支配人は重たそうに身体をまたパイプ椅子に乗せた。
また項垂れ始めてしまったのだが、私はこの際なので聞いてみることにした。
「支配人……警察とも繋がってるんですか」
私の勘ぐることではないと諭されるだろうかと身構えたが、
「個人的にね」
思っていたよりもあっさりと答えをくれた。
「たまたま幼馴染がここの管轄の警官だったんだよ。ラッキーなことにね」
「はあ……」
なるほど、と私は一人で納得する。
ということは、この二人は〝闇社会の人間と警察官〟という癒着の関係ではなく、ただの〝幼馴染〟
だと……。あれだけ警戒してしまった自分を思い出して、狐にでも摘まれた気分になった。
言葉遣いからするに、おそらくお互いがその道に進んでいたのは知らなかったようだし、再会したあとも敵対しなかったということなのだろう。こういうこともあり得るのかと深く感心した。
「――君たちはもう戻っていいよ」
支配人の声がして意識を向けると、支配人が黒服二人に指示を出していた。……ということは、私はまだここで待機……なのだろうか。ゲストを殴った罰として謹慎……とか、そういう決まりがあるのかもしれない。……と、思ったが、この支配人に限ってそれはなさそうな気もする。
とりあえず何かを思い詰めたように頭を抱えている支配人を見ていた。こんな状況は初めてで、そんな場合ではないとわかっていたのに支配人のつむじを見つけて、一人でこそばゆさに耐えていた。
そこで、支配人の気配が動く。ゆっくりと姿勢を正して顔を上げると、
「……ごめんね、情けないところ見せちゃったよね」
困ったように笑って見せられた。
情けないところ、と支配人は言うが、いったいどの部分を言っているのかよくわからなかった。ワイヤーが言ったことが本当であれ嘘であれ、大勢がいる前であんなことを言われたら、誰だって固まってしまうだろう。
今回私が見た『情けない姿』というのは、もっぱらワイヤーのものだ。
「――あんなに頭が真っ白になったのは久しぶりだ」
そしてまたその両手で頭を抱えた。
先ほどからずっとそうやって何かを思考している支配人を見て、何をそんなに考え込んでいるのだろうと疑問に思う。隠していた過去を暴露されて、これからどうするべきか悩んでいるのだろうか。……いやもしかしたら、それこそ大勢の前で客を伸びさせた私の扱いに困っているのかもしれない。
私こそ気づかない間に一人で考え込んでしまっていた。
「……やっぱり皆、気になっちゃったよね……話したほうがいいのかなあ……」
支配人のほうへまた視線を向ける。……やはり支配人は、自身の過去のことを言っているのかもしれない。
「支配人の、過去のこと……?」
「うん」
念のためにと確認したが、やはりそうらしい。……ワイヤーの話が本当であれ嘘であれ、確かに気になってしまったキャストやスタッフは多いだろう。いかんせん、元々噂が立っていたことではある。
〝私たち〟に対してそれを告げるのは、そんなにハードルは高くない気はするのだが。ただ、これは支配人の秘密にしておきたかったことの一つに違いないだろうし、それを暴いたときの支配人の心の傷を考えると……容易にこうするべき、ああするべき、と私には言えなかった。
「……それは……支配人自身が決めるしかないね……」
だから私は、私に言える最大限のアドバイスをした。
「……本当なんだ。彼が言ってたこと」
とても落ち着いた声色で……いや、おそらく〝落ち着いているふり〟をしている声色で、支配人は語り始めた。
私はその閑かさに惹かれ、一歩だけ支配人に寄る。支配人の海の水面のような瞳の中から、鈍くても光っていた光が逃げ出そうとしているのではないかと不安になった。そんな瞳だった。
「僕は三年前まで男娼だったんだ。それこそ君たちと同じ、親の借金の肩代わりにね。……僕に課せられた金額は六億だったんだ」
それを聞いて私はあ、と声を溢しそうになった。
初めて私と支配人が会った日、私をさらった日、支配人は言っていた……今までに六億の借金を背負わされた子ども知っている、と。――まさかそれが、支配人自身の話だった……と。
「人間一人を解体して売り捌いても六億にはとうていならない。だから僕は死ぬ気で働くしかなかった。やつらが引き受けた仕事はすべて、文句も言えずにこなした。……何せ初めての仕事が、五人の男に輪姦されることだったんだ。死ぬかと思ったよ、はは」
想像しただけでも死んだほうがマシだと思ってしまった……。……そんな、……支配人が……本当に?
これまでの気品溢れる、いや、気品だけでなく優しさや人情み溢れる支配人からは、少しも想像ができない過去だった。
ハッ、と閃きととともに息が肺に押し入ってきた。
私にメイクをしてくれていたときに見た、支配人の耳にあった痛々しい傷。確か、ワイヤーが『その耳の傷! 俺がつけたやつだよな!?』と笑っていた。思い出したらまた、腹の底がごろごろと燃え始めようとする。……しまった、ワイヤーを警察に引き渡さずに、私が〝制裁〟を下すべきだったと心底後悔した。
「でも、三年前に僕が売られた組織のボスと話す機会があって。僕は売られる前に弁護士を目指していたから、法には詳しかったんだ。そこでボスが処理に困っていた案件について口出しした。そしたら僕のことを気に入ってくれたみたいで、男娼を上がる代わりに、その楽園会の構成員になるように言われたんだ。……そして行き着いたのがここ」
やはりずっとは自分を騙し通せなかったのか、ところどころ声が震えていたが、支配人は言いたいことを言い上げたらしい。次の言葉が続かないことを察して、私はようやく、一言だけ「そう」と相槌を打ってやった。――おそらく、私からの慰めなんて期待していないだろう。
しかし支配人も私がそれ以上何も言わないことを察して、やはりすっかりと光が逃げてしまったその瞳を上げた。……まるで、仄暗い海の底のような色だ。
その、思い出の中に迷い込んでしまったような、どこか心許ない支配人の表情を見て、私の中にあった感情はすべて一緒くたにされて押しつぶされた。……胸が痛い、支配人が苦しんでいるのがわかる。けれど、私には何もできない。
「……あ、ごめん、急に身の上話なんか聞かせちゃって」
支配人はまるで別人のように軽く笑った。突然変わってしまった調子に一時反応が遅れたが、私はなんとか自分を取り戻した。
「ううん……なんで支配人がこんなに私たちに優しいのか、それがわかったよ」
今の私に言えるのはそれしかなかった。
見返していた支配人の瞳にはいつの間にかちゃんと光が戻っていて、表情の暗さも、まるで始めからなかったかのような変貌ぶりだった。
「あはは、その通りさ、」
けれどまた、少しだけ声の調子が下を向いたようだった。快活に上がっていた眉も項垂れて、
「君たちに降りかかる理不尽が少しでも少なくなればいいと思ってる」
自分に再確認するようにぼそぼそと呟いた。
支配人がその男娼をさせられている期間に経験してきたことなど、想像もできない。……それだけではない、その〝楽園会〟という組織の構成員にされてからもだ。どれだけのやりたくないことを強制させられてきたのだろう。
そしてそんなにも辛い目に遭っているというのに、それでも、私たちのことを守ろうとしてくれている。
「……本当に、優しい人……」
「――あ、いた!」
突然激しい勢いでオフィスの扉が開いたかと思えば、二、三人の着飾った女たちがオフィスに駆け込んできた。
「わ、君たち。もう休憩の時間?」
わらわらと支配人の前に集まってきて、
「そー! 支配人大丈夫? あのゲストほんとあり得ないわ!」
「もうゲストですらない! ゴミゴミ!」
それぞれ思い思いにワイヤーへの悪態を吐き散らかしていた。やはり支配人は慕われているんだなと思うと、少し心が緩む。
「はは、心配してくれてありがとう」
先ほどまでの調子を今度こそ本当に吹き飛ばせたようで、支配人も快く笑っていた。私はそれを見て、一人で安堵する……あのまま支配人が落ちてしまっていたらどうしようかと。
「――スカイもよくやったわー!」
まるで矢を射るように唐突に彼女たちの視線が私に向き、私は慌ててそちらを見やった。
「そう! ガツンって!」
「見ててすっきりしちゃった!」
「え、あ、」
「そーそー! スカイかっこよかったねえ! 心の中で拍手しちゃったわ」
こんな陰湿な女が格闘術を披露したところでこれまで賞賛なんて浴びたことがなかった私は、彼女たちから向けられる賛美の言葉にたじたじになってしまった。
「ねえ、まさかスカイ罰受けたりしないよね?」
「そうだよ! そんなの納得いかないし!」
予想外の言葉が女たちから飛び出してきて、私は思いっきりその返答を待つために支配人を確認してしまった。
しかし支配人はいつもの人の良さそうな笑顔で、
「あぁ、うん、特にスカイに罰をとか考えてないよ」
私を安心させるためなのか、私のほうを盗み見るように目配せをしてくれた。
「よかったー!」
「あのあと、ウチのゲストに『君たちもあれ、習ってるの?』って聞かれてー、」
「うそ、おもしろ」
「でもスカイかっこよかったから、私もやってもいいかもーって思った!」
「確かにー!」
そしてその場であとから入ってきた女たち三人が盛り上がっていて、それを私と支配人は横から聞いていた。
またしても支配人が私に目配せをくれて、『ありがとう』とふうわり笑って口パクするから、
「ど、ども……」
私は恥ずかしくなってしまい、咄嗟に顔を逸らしてしまった。顔が歪むのを抑えられないほどだったからだ。
私はあのあと、予約も入っていなかったのでもうホールには出なくていいと言われた。やはり、ゲストに対して暴力を振るったこと、罰はないにしろ、何かしらの成長は必要なのかもしれないと思った。
まだ廊下のほうでバタバタしている音が聞こえているときから、私は一人で自室のベッドの上に横になっていた。
ワイヤーとのやり取りのことを思い返すと、やはりどうがんばったって怒りが抑えられない。私があの男を木っ端微塵にしておくべきだった。
――というのは軽く冗談で。大部分は本気だが。
私はワイヤーを殴ってしまった翌日、また暇な時間を談話室で過ごしていた。……いや、ここにいれば、支配人が会いにきてくれるのではないかと思っていたからここにいる。
今日は雨が降っている。窓の外を見ると空も薄暗く、まだしばらくは降り続きそうな空だった。
昨晩は支配人のことを考えている内に、あっという間に朝を迎えてしまっていた。
支配人が六億の借金の代わりに、いたくもないこんな犯罪組織に、そしてきっと加わりたくもない犯罪に、加えられているのだろう。
あんなに私たちが自由になるために尽力してくれている支配人のその行動原理は理解できた。……けれど疑問なのは、――支配人は? ということだった。
支配人は、自由になりたくないのか?
そんなわけないだろう、この世界に自由なんていらないという稀有な人間は、まあいたとしても十本の指だけでも数えられそうだ。……シャロスの一件で、私には到底理解が及ばない人種がいることを知ったので、一歩引いて考えてみた。
それに、支配人に〝予行演習〟をしてもらったときに身体のあちこちにあった傷もそうだ。おそらくその一つ一つにトラウマ的な経験があるのだろう。支配人は歩みたくもない人生を歩まされていて、苦しみたくもない柵に捉えられている。……そのことが、私は心の底から納得がいかなかった。
「――アニ、やっぱりいた」
窓の外を見ていた私の耳に、ついに待ち侘びた声が飛び込んできた。急いで振り返ると、やはりそこには支配人がいた。もうすっかりいつもの柔和な笑顔に戻っている。――あんな経験を経て、よくこんな風に笑えるものだと瞠目してしまう。
「支配人、」
「昨日は大変だったね」
「はあ……」
私が座っている席の向かいの席に腰を下ろす。いつものことだ。
よく見たら談話室の入り口のほうで、支配人の〝会社〟のほうの部下らしき人が待機していた。……何か用事でもいるのだろうか。
「あのあと、僕が男娼だった話を皆にしたんだ」
早速その話題を切り出した支配人に注意を切り替え、私はそちらに視線を向けた。
「でも借金のこととかは言ってないから、できれば君も秘密にしておいてほしい。彼女たちに余計な心配をかけたくないから」
その眼差しはいつになく真剣だった。
それもそうだろう、支配人がしたくもない仕事をさせられているなんて知れば、私でなくても――ほかの慕っている女たちでも、当然のようにどうにかしたいと思ってしまうだろう。
ちらり、と支配人の瞳を覗き込んだ。……よかった、そこにはちゃんと光が戻っている。
「……その、支配人が今の状況を抜け出せる手立てはないの?」
「え?」
「私たちは借金さえ返せば自由になれるんでしょ? でも、支配人は?」
尋ねると支配人はむずむずとバツが悪そうな顔をした。少し考えたあとに観念をしたように息を吐いて、
「ああ、僕、ね」
右手をジャケットの内ポケットに差し込み、煙草を探すような仕草をした。
だがその手は空ぶっただけで、何も持たぬまま出てきたようだ。切らしているのだろうか。
「そうだなあ。……楽園会が壊滅するか、僕が解放されるに見合った金額を献上できれば、ってところかな……」
手持ち無沙汰と言いたげに、本人の指先を絡めて遊んだ。
しかし私はそれどころではない。知りたいことをさらに重ねた。
「……それってどれくらい……?」
「まあ、僕の借金の残り四億に少し色をつける感じは必要かな」
唯一私にもできそうだと思ったことだったが……、
「……四億……」
思わずその言葉を噛み締めてしまった。
その目標金額が四億五億の話となると、どうだろうか。私に何かできるだろうか。あるいはやはり、ここの女たちに協力を煽いで、皆でやるしか――
「……はは、気にしないでよ。僕は大丈夫だから」
笑う声が聞こえたので支配人を見ると、またとても優しげに笑っていた。……どうしてこんなときにそんな顔ができるのか、考えようとしただけで胸が苦しくなる。
そうだ、支配人はきっとここの女たちを巻き込むなんて耐えられないだろう。今まで頑なにそうしてきたように。
ならば、私だけでも。
「……支配人」
「なあに」
穏やかな眼差しには到底釣り合わないが、それは構わなかった。私は確固たる決意を持って、支配人の眼差しを見返した。
「私、外営業、やっぱやってみる」
「……え?」
「支配人だけ自由になれないのは、なんか……嫌だ。けど、まずは自分に課せられた金額を返し切らないと助けになれない。だから、少しでも早く、多くお金がほしい。……支配人、割のいい人、またあてて。今度はちゃんとやるから。シャロスでもいい。キスだってくれてやる」
そう啖呵を切ってやったが、支配人の表情は曇っていくばかりだ。……わかっている、それが支配人の人となりだから。けれど、私にだって譲れないものがある。
「……アニ、」
再考するようその声色で投げかけられるが、その大好きな穏やかな声も、眼差しも、私はなんとかしたい。
ただじっと支配人に私の決意を眼差しで示していたら、先ほどよりも幾分も深いため息を落とした。私にどんな風に伝えようか迷っているのだろう、少し考え事をするように視線を泳がせて、それから今度はその視線をだいたい私のところに戻した。
「……その、君は君でいいんだ。これまで清い仕事を貫いてきたんだから、今さら汚れることはないんだよ」
「でもそれじゃあ時間がかかる!」
そもそも、ここまでだって〝清い仕事〟を守れていたのはただの成り行きだ。私は元々そんなものは手放してしまうつもりでいた。だから、今さらいらない。それよりも時間が惜しい。
「……うん、でも君の大事なものは守れる。君は君のままでいてよ」
支配人を見て、私は思わず胸を押さえそうになってしまった。ぎゅう、と心臓が絞り上げられるような痛みを感じたからだ。
『君のままでいてよ』と言った支配人があまりにも哀しそうだった。その声が、あまりにも苦しそうだった。そんなことを支配人に言われてしまったら、私はこの決意をどうすればいい。
「……あ、そうだ! 君の格闘術はすごかったよね! この際キャストをやめて、ボーイ……黒服になるのはどう? 接客なんてしなくていいよ。君のタイプの仕事じゃない」
まるで名案を思いついたように明るく言ったが、
「でもそれだとさらに収入が減るんじゃ……」
私が指摘したことで、大事なことを思い出したらしかった。――私自身にも、返済しなければならない金があること。
支配人自身もそれを失念していたことに落胆したのだろう。みるみる内にその視線は手元へ落ちていった。
「……ああ、確かにそうだね。ごめん、今のはなかったことにしてもらうよ」
きっと私が急にこんなことを言い出したから動揺しているのだろう。これまで一人で耐えてきたのだろうから、まさか自分が守っている女にこんなことを言われるなんて思ったこともないに違いない。
結局結論の出なかった会話は、沈黙へと吸い込まれていくだけだった。
「――補佐、出発のお時間です!」
談話室の入り口のほうから知らない男が呼んだ。
「ああ、もう?」
支配人が立ち上がりながら適当にその男に返事をした。それから私のほうを向いて、
「ごめん、僕行くね。今日もがんばろうね」
そう言ってさっさと談話室を出ていく。
「……はい」
私はその心許なく見えるようになってしまった背中を見送るしかなかった。
今日は雨が降っているから、何をするにも鬱々とした気持ちになってしまいそうだ。
――私はこの先、どうしたらいいのだろう。
自問したところで先ほど支配人に見せられた表情を思い出して、泣きたくなるだけだった。雨のことを『空が泣いている』とか洒落た言葉でいうやつがいるが、今は私の中の雨が早く止んでくれることを願うばかりだった。
つづく