猫は人工的な香りが嫌い「……」
伸ばした手をパシッと払われて唖然とする。軽いハグなんて数え切れないくらいしている、ただの挨拶だ。顔を上げれば、やけに冷めた目を向けられた。
そのままふいっと顔を背けた始は、何かを言うでもなくグラビの共有ルームを出て行った。
ガーン、という音が耳の奥に響き渡り、隼はその場に膝から崩れ落ちた。
「始に……、嫌われた……!」
「あらら……。珍しくものすっごく不機嫌を露わにしてましたね」
ソファに座ってスマホゲームをぽちぽち操作していた恋の呟きに、隼はさらに崩れて床と仲良くなる。
「わわっ、隼さん! そんなに床とべったりしたら汚れちゃいますよ! ただでさえ白いのに!」
「そうですよ。白色は汚れたら洗濯が大変ですからね」
ほら、起き上がってこっち来て下さい、と隼を抱え起こす駆も、おそらく慰めてくれているのだろう。よたよたと起こされ、隼は恋の隣に座らされた。背を丸め、がっくりと下を向く姿に憐憫を誘われた恋が、お茶飲みますか、淹れましょうかと訊いてくれる声が遠い。
始と仲違いを起こすこともたまにはある。これだけ長く付き合っているのだから、すべてが順風満帆なんてことはない。とはいえ隼から突っかかっていったことはただの一度もなかった。大抵は始が隼の煮え切らない態度にイライラしてだとか、イタズラが度を過ぎた時とか、そういう場合に叱られたり怒られたりするのだ。
「今回は、何が悪かったのかな……」
「えっと、何でですかね。隼さんは別に変なことしてませんし、さっきまでは始さん、普通にドラマの台本読んでたんですけど」
ハーブティーを淹れてくれたらしい恋が、カップが三つ乗ったトレーを手にキッチンから戻り、再び隼の隣に座る。目の前に差し出されたカップから、湯気と共にほんのりとレモンが香る。隼はありがとうとお礼を言い、一口含む。レモンバームの爽やかなミントの風味がして、少しだけ落ち着きを取り戻す。
そこで初めて、隼は自分がまだ帰宅したばかりで鞄すら肩に掛けたままだったことに気がついた。鞄を下ろし、その中に入っている物を思う。夕飯にはまだ早いこの時間帯に、珍しく始が寮に居ることは知っていた。だからナイスタイミングとばかりに急ぎ足で帰って来たのだ。一刻も早く、彼にそれを見せたくて。
でも、もう無理かもしれない。
後ろ向きな思考がどんどん沸いてくる。常日頃はポジティブ思考に自信のある隼だが、始のこととなると一喜一憂しすぎてこの世の終わりのような気持ちにさえなってくる。
「終わった……。僕はもうダメかも……」
「ええっ?! 諦めるの早すぎですよ隼さん! 原因もまだサッパリじゃないですか。始さんは意味もなく怒るなんてことしませんよ!」
「それはつまり、怒る要素が僕にあったってことだよね?」
「へっ? いや、あの、それは」
わたわたする恋をいじめたいわけじゃないのに、つい揚げ足を取って八つ当たり気味になってしまったことへ、隼はさらに自己嫌悪を募らせる。
けれどごめんねと謝る余裕もなくて、ただひたすら共有ルームの空気を悪くしていた。目を閉じれば、隼を冷たく一瞥した瞳が浮かび上がる。あれは確かに、怒りを孕んでいた。
両手で顔を覆って、泣きたくなる気持ちを抑え込む。始の気配を探ってみれば、慣れたそれは彼の部屋から感じられた。隼の存在を丸ごと遮断されてはいないことに、恐ろしいほど安堵を感じる。
怒らせてしまったが、繋がりを切られるほどではないらしい。とはいえ迂闊な選択をすれば、あっさりと遮断されてしまうのだろうけど。
「あ、……あ、どうしよう」
対応に困った恋が、さらにあわあわとし始めた。隼の扱いに慣れたプロセラの誰かがいれば、この状況も上手く流してくれるだろうに、申し訳なく思う。
(自分の部屋へ帰ろう)
一晩経てば、明日になれば始も落ち着くかもしれない。鞄の中の物は、きっともう渡せそうにないけれど、仕方ない。間が悪かったのだ。隼は何とか表情を取り繕い、覆っていた両手を外した時、駆の顔がドアップで映って心臓が跳ねるほど驚いた。
「──っ?!」
「ちょ、駆さん! 何してるの?!」
駆は隼のごく間近で、小型動物のように鼻をふんふんと動かした。目を閉じてしばらく何やら考え、また隼を見た。
「隼さん、何かふんわりと良い匂いがしますね」
「え」
予想外のことを言われ、状況も忘れて隼は目を瞬く。恋も首を傾げた。
「俺は何も感じないけど」
「微かにだからね。これは……何の匂いだろう。ちょっと甘くて、でもお香のような感じもする。食べ物……? うーん、どうだろう」
「食べ物に対する執念! 凄いけど今それ必要な話?!」
心当たりがある。
隼は鞄を見遣り、可愛くラッピングされた物──駆の言う通り、お菓子だった──を思って苦笑した。しっかり包んだのに、嗅ぎ分けてしまう駆の鼻の良さが可笑しかった。どうせ始に渡せないのなら別の誰かに渡してもといいかと一瞬考えたが、形状が形状だけにそうすることは躊躇われた。それならば自分で食べてしまった方がマシだ。
「今日のお仕事は、お菓子に関係する番組の撮影だったんだ。服にバニラの香りでも残っていたのかな。駆は本当に鼻がいいね」
隼が笑顔を見せたら、恋があからさまにほっとした。さすがグラビの特攻隊長。重い空気を打破するのもお手の物だ。心の中で駆に感謝しながら、隼はその流れに乗って場を辞そうとした。
しかし立ち上がりかけた隼の腕を、駆がしっかりと掴む。
「駆? 僕は上へ戻るよ」
「隼さん。始さんは隼さんに怒ってるわけじゃないですよ。虫の居所が悪いのは間違いないですけど、遠慮して引かなくても大丈夫です」
なにが、と凍った唇を動かそうとして失敗する。駆の真っ直ぐな視線が痛い。
「始さん、隼さんになら何しても受け入れてもらえるっていう感じで甘えてる節があるんですよね。何に怒ってるのかまではさすがにわからないんですけど、甘えてるんですよあれは」
だから大丈夫なんです。そう駆の口からハッキリと伝えられる言葉に隼は動揺した。とてもじゃないけれど、甘えられているようには全くもって受け取れない。
「あー、あ、なるほど! 言われてみればそうかも。物言いたげだったけど、ムシャクシャして纏まらないって感じだった!」
恋からの援護射撃に、隼はえっ、と驚く。
「ホント、始さんは動物っぽいとこあるよね」
「うんうん。だからネコ科って言われちゃうんだよね……って本人の前で言ったらアンクロの刑にされちゃうけど」
言葉が出てこないから態度でぶつかってくる、子供みたいでもあり動物みたいでもある。
そんな内容を二人でうんうんと頷きながら語り合っている。隼はついていけなくて、え、え、と困惑するばかりだった。
隼よりも始の近くにいる彼らには、始という人物について、隼とはまた違った見え方がするのだろう。それを面白いとは思いながら、隼は話には乗れなかった。だって、あの冷たい目が脳裏に焼き付いて消えてくれないのだから。
「とにかく埒が明かないので行きましょう!」
さあ、と駆は隼の腕を取って共有ルームを出ようとする。
「え、どこへ」
「始さんのお部屋です!」
「ええっ! 無理だよ、そんな」
「行きましょう行きましょう、それがいいです! 問題はその日のうちに解決ですよー!」
いつの間にか右腕を駆、左腕を恋にがっちり固められて、あれよあれよという間に隼は廊下へと連れ出された。
「始さんに渡したい物があるんですよね」
駆の指摘に息を飲む。その通りだ。だけど。
「折角隼さんが帰宅して真っ先にうちの共有ルームに寄ってくれたのに、追い返したりしたら海さんやプロセラの皆に申し訳ないですからね」
海さん、というところを強調されて、隼は思わず笑った。
「海が筆頭なんだ。彼は僕の保護者なのかな?」
「勿論保護者ですよね! 隼さんのことは海さんに訊けば確実ですから」
「僕本人よりも?」
「「モチロンです!」」
恋と駆の答えが見事にハモる。
軽快に返る言葉が、プロセラとはまた違った感じで心地良い。いい子たちだな、と隼は思う。そんな彼らが始の側にいることも、とても嬉しい。孤高の王様はもう孤独ではない。それは孤高の魔王様が孤独ではなくなったのと同じように。
魔王様の城は今日も賑やかで、王様の城も同じく賑やかなのだ。
始の部屋の前に到着した時は緊張したが、隼の腕を解放した駆と恋が容赦なくドアをどんどんと叩く様は頼もしかった。
「始さん! 始さーん! 起きてますよね?!」
「始さーん! すみません、ここ開けてもらってもいいですか?」
黒年少コンビが開けてコールをすると、しばらくして天の岩戸が開かれた。
「お前ら……、近所迷惑だぞ」
「もう! 始さんこそダメですよ、隼さんに甘えてちゃ」
「そうですよ! せっかく来てくれたのに」
「……別に、甘えてなんかない」
ふいっと顔を背けた始は、二人に叱られて心做しかしゅんとする。猫の耳が付いていたら伏せっているに違いない。
「始」
思い切って隼が声を掛けると、始は目を細めて凶悪な視線を寄越した。ひえっと叫びたくなるようなそれに、これはやっぱり怒っているのではと冷や汗が流れる。
始さん、と駆と恋に咎めるような声音で呼び掛けられ、始はちっと大きく舌打ちをすると、隼の腕を掴んだ。驚く隼が反応できないうちに、部屋の中へと引きずり込まれる。
「駆、恋。夕飯はあとで皆と食べるから」
「はい、わかりました。お待ちしてますね!」
「あ、夜さんが新レシピを食べてみてほしいって連絡くれましたよ。今晩ご相伴に預かりますと返事しておきましたので!」
「え、夜さんの新レシピ?! それを先に言ってよ恋! くぅー、楽しみだなあ! しっかりお腹空かせておかなくっちゃ」
「駆さんの今日イチの笑顔!」
すっかり夕飯の話題に夢中になった二人と別れた。部屋のドアが閉まる音が大きく響いてどきりとする。隼は始に腕を取られたまま、リビングに連れて行かれた。
「はじ、っ」
やや乱暴にソファへ座らされると、始が隼の首元に顔を近づけてきた。隼が何事かと戦々恐々としていると、ぼそりと不機嫌な一言が聞こえてきた。
「やっぱりにおう」
「……ええっ!」
始の言い草からは、とても良い方向には取れない言葉だ。
だけど風呂はちゃんと入っているし、下水に落ちたなんてことも勿論ない。そもそもここへ来る前にしていた仕事はバラエティ番組の収録で、それも食べ物系である。いつも以上に清潔感には気をつけていた。
隼から離れていく始を呆然と眺め、隼はおもむろに自分の手や首元をくんくんと嗅いだ。やはり何も臭わない。自分のにおいは分からないものだから、気づかないだけかもしれないが。
「隼」
「はい!」
「脱げ」
「はい! ……え?」
言われた内容を脳が受け止める前に、再び始が隼へ近づいた。
羽織っていた夏物の薄手のジャケットが乱暴にもぎ取られた。隼が目を白黒させている間に始は今度はシャツに手を掛け、こちらももぎ取る勢いでボタンを外しにかかる。
「えっ、ちょっ、は、はじめ!」
慌てる隼をものともせずに前を開いたシャツを剥ぎ取ると、始はシャツの胸ポケットに何か入っていることに気づいた。手のひらサイズの一枚の紙だ。
「あっ、それは」
そこで初めて隼は、駆が嗅ぎとった匂いの正体に気がついた。彼は鞄に入っていたお菓子の匂いを嗅いだわけじゃない。駆の嗅覚に引っかかったのは、これだったのだ。
そういえばあの時、お香のような匂いだと言っていた。
「……名刺。誰のだ?」
長い指でポケットから抜き取った紙は、本日の収録でお世話になったスタイリストのものだった。
「知らない名前だな。においの原因はこれか」
始はつまらなさそうにそれを無造作にテーブルの上へ放った。紙がひらひらと力なく落ちていく。
彼は駆と同じように、それに対してにおう、と指摘していたのだ。ずっと胸元に入れていたせいで、隼の嗅覚はとっくに麻痺してしまっていた。だから意識の上から消えていた。
あんなに忌々しそうな顔をするのなら、始はこの香りが相当気に入らなかったのだろう。その紙が隼の胸ポケットに収まることになった経緯を思い出しながら、隼は俯いた。また気持ちがひとつ下向いてしまった。
「……」
始の問いに答える気力が無くて黙っていたら、彼は何やら思うところがあったらしい。
シャツをソファに放ってから、再び隼の前に立つ。その手が隼のベルトを外してスラックスを脱がそうとしている。それには隼も驚いて、慌てて始の手を止めた。
「待って始! まだ外は明るいのに! そもそも僕たち、まだそんな関係じゃないし! そんなのダメ、ダメだよ絶対!」
キャーと思わず悲鳴を上げても、始は苛立ったように強引に引っ張って脱がしてしまった。下着と靴下だけという格好でまたしても呆然とする隼に、始は大判のタオルを持ってきて隼の身体に掛けた。そして靴下も脱がしてしまうと、強奪した衣服を抱えて洗面所の扉を開ける。何が始まるのかと思いきや、洗濯機を開けてぽいっと勢いよく抱えていた服を放り込んだのだ。
隼が絶句していると始が戻ってきた。
「やっぱり全部脱げ。全部洗う」
「えっ……」
「脱がないなら脱がす」
「え、えええーっ?!」
始の目が据わっている。隼は肉食獣に睨まれた小動物の気持ちになった。何がどうやっぱりなのかさっぱり理解できないが、目の前の大型の獣からはひしひしと本気が伝わってくる。
「落ち着いて話し合おうよ、始! こんな乱暴に始に脱がされるなんてとんでもないご褒美……じゃなかった、いや嬉しいんだけどねってそれも違う、違うんだ! ああっ、誤解しないで始! 君が僕にしてくれることなら何だってご褒美……じゃなくて! あ、待って! 早まらないで始! 僕の心の準備が……!」
隼をタオルで巻くと、始は本当に隼の下着を引っ張って脱がせてしまった。
子供の頃から身の回りのことは何でもやってもらっていた。だから隼は人に着替えさせてもらうことや、裸を晒すことに躊躇いも恥じらいも感じない。入浴の世話だってされていた。
それなのに、始にそれをされたという衝撃が天地をひっくり返すほどの威力を持って、隼の脳天へと突き抜けた。
(今、僕の身に何が起こっているの?!)
始の部屋で、何故服を脱がされて素っ裸になっているのだろう。
天罰なのか、ご褒美なのか。それとももっと得体の知れない恐ろしい何かなのか。
(何かって何?)
隼が激しく自問自答を繰り返していると、洗濯機の回る音が聞こえてきた。
「始が、僕の下着を洗って……え、いや待って、どういうことなの?!」
思考が追い付かない。何故こんな目に遭っているのだろうか。
目の前に影が落ち、ぼんやりと見上げたら洗面所から戻ってきた始が仁王立ちしていた。妙な迫力を感じ、隼は思わず両腕で自分を抱きしめた。これで終わりじゃない。そんな危機感に襲われた。
「あの、」
「隼、来い」
「ふぁっ」
腕を引かれて立ち上がらされた。慌てて巻かれたタオルが落ちないようにぎゅっと握る。そのまま始に連れられてきたのはなんと浴室だった。すぐ隣でガコンガコンと洗濯機が回っている。
「入れ」
隼は浴室の中へ押しやられて、またしても思考が飽和する。
(始の部屋のお風呂!)
寮の部屋はどこも同じ造りになっているため、見掛けはすべて同じだ(隼の部屋は特殊な事情で例外だが)。けれどここを使うのは正真正銘始だけで、客人が出入りしたことは一度もないと断言できる。ちょっと前に、春の部屋の風呂が故障して借りに来たことがあったかもしれないが、そこは事故扱いでノーカウントだ。
とにかくここは、究極のプライベート空間と言えた。急に胸の奥が熱くなって、どきどきと心臓が煩く逸る。どうしようと入り口を振り返り、隼は目を見開いて固まった。
「始……、なんで服を脱いでるの……?」
始は浴室のドアの前で、ルームウェアにしているラフな上下を脱いでいるところだった。
スウェットを豪快に脱ぎ捨てながら、始は不機嫌そうな顔をした。
「なんでって、濡れるからだろ」
「……はい?」
始が靴下まで脱いで、下着一枚になったところで我に返った隼は持ち前の運動神経のすべてを使って顔を背けた。
心臓が壊れそうなくらいどきどきしている。
今見たものは、一体何なんだ!
「ひっ」
背後から肩を掴まれて、浴室に置いてあった小さな椅子に座らされる。目の前には壁があり、そこには鏡が貼られていた。隼の真後ろに立った始の姿が映り込むのが見えて、隼は反射的に目を閉じる。これは見たらいけないものだ、多分。
巻いていたタオルが剥ぎ取られて、混乱はピークを迎える。続いて浴室のドアが閉まる音がした直後、頭の上から温かいお湯が降り注いだ。
「わあっ?!」
シャワーを掛けられたのは理解したが、何がどうしてこうなっているのだろう。
(もしかして、丸洗いしたくなるほどあの匂いが気に入らなかったの?)
あまりに予想外のことが立て続けに起こり、逆に冷静になってきた頭がそれに思い当たる。
目を瞑ってじっとしているとシャワーが止まり、始の手が隼の髪を洗い始める。手付きはとても優しくて、ほどよい力加減が心地良かった。泡立つシャンプーの香りがふんわりと鼻を掠める。普段、始に近づいた時に微かに香る匂いだということに気づき、隼は嬉しくなった。
けれど自分が洗われる意味を考えて、高揚はすぐに急降下する。悲しくなったり嬉しくなったり、情緒はぐしゃぐしゃだ。
流れ落ちる泡でついでのように胸元まで一緒に洗われたのは、あの匂いが隼に残ることを始が厭ったからだ。
隼は洗い流される泡と一緒に思わず泣きたくなった。
濡れた身体が大判タオルで再び巻かれ、別のタオルで優しく髪を拭われる。隼はもう悲鳴を上げる元気も無く、意気消沈したままリビングのソファに誘導された。腰を下ろすと始はまた洗面所の方へ向かい、ドライヤーを手に戻ってきた。素足ではあるが、再びスウェットを着ている。
ブラシを使って丁寧にドライヤーを当てられて、隼はもうこのまま眠ってしまいたい気持ちに駆られた。始に毛繕いされるのが嬉しくないはずがない。いつもなら狂喜乱舞の果てに安らかに気を失うレベルの恐ろしいサプライズだ。
けれど、無視できない悲しみが、飛び上がりそうな心をじっとりと地面に縫い付けている。
これは全部夢、きっと夢だ。
嬉しいことを夢にするのは残念だけど、悲しいこともまた、全部夢になる。だからもう眠らせてほしい。
「におい、取れたな」
髪を乾かし終わった始が、どこか満足そうに言う。
「……そんなに嫌だった?」
「俺の部屋に入れるなら絶対に洗おうと思った」
あんまりな言い草に、唖然として隼は顔を上げた。
昼間の収録での出来事が、走馬灯のように過ぎる。
控え室に入った時、心に染み込むような、ノスタルジックな香りがした。
匂いの元を辿れば、中央に据えられたテーブルの上にルームフレグランスが置いてあり、そこからふんわりと優しい香りが広がっていた。
はっきりと匂いは分かるのに、押し付けがましさは全くない。どこか心を震わせるオリエンタルの香りが、始によく似合いそうだと思ったのだ。
人工的な香りが少々苦手な彼ではあるが、これなら気に入ってくれそうな気がした。美しい琥珀色の液体も、見た目で心を癒してくれる。
『これ、どこの物かな?』
興味を持ち、隼は今回世話になるスタイリストに訊いてみた。
『あ、すみません。これは隣のスタッフ用ミーティングルームに置く物だったんですが、清掃の人が霜月さんの控え室に間違えて置いちゃったんですね。香り、大丈夫でしたか?』
『強いにおいはあまり得意ではないけれど、これはとても素敵な香りだね。良かったらどこで買えるのか教えてほしいな』
『お気に召したなら良かったです。これはですねえ、──』
最近人気のあるルームフレグランスで、自然成分が由来のシリーズらしい。これはアンバーの香りだと教えられ、隼は宝石の琥珀を連想した。幾千万の時を経て地上で育まれた神秘の宝石にもまた、癒しの効果があるのだ。
仕事が終わったあともディフューザーの近くにいたら、スタイリストが香りを持ち帰りますかと訊いてくれた。
『適当な用紙が無かったので、これで失礼しますね。ちょっとこだわった紙を使ってるんですよ』
彼は自分の名刺を取り出し、紙の縁にオイルを一滴垂らした。上質な名刺の紙からふんわりとほどよく香りが広がり、隼は喜んでそれを胸のポケットに入れた。帰りの道中、送迎の車の中で優しい香りに癒されていた。今度の休みに教えてもらった店に行き、購入しようと決めた。
始に似合うと思い、始を想って購入しようとした香りが、本人によってこれほど否定されるだなんて少しも考えていなかった。
「お前はやっぱりその匂いがいい」
「え? 僕は何も付けてないけど……」
強いて言うなら今の隼は、始のシャンプーの匂いがするだけだ。
「香水の類じゃない。お前自身の匂いだ」
「自分じゃわからないけど、どんな感じなのかな」
「だから他人の匂いを付けて俺の部屋に来るな」
「……え」
何だかとんでもない誤解をされているような言葉に、隼は呆気にとられた。
「もう一度同じことがあったらまた洗うからな。文句は聞かない」
「もしかして、僕に知らない匂いが付いてたのが嫌で、さっき共有ルームから逃げたの?」
「逃げてない」
ムッとした始を凝視して、隼は本日何度目かの唖然とした顔をした。
自分のテリトリーに知らない匂いを付けられたから嫌がって洗うなんて、そんな動物的な。
礼節を持った非常に常識人である始が、まさかそんな即物的な手段に出るとか、一体誰が想像するだろうか。
不意に大型のネコ科を思い出す。不機嫌は何処かへ行ったらしい満足そうな始を、隼はまじまじと見つめた。しかもただ洗うだけでなく、自分と同じシャンプーを使って同じ匂いを付けるだなんて。
始は自分が何をしたのか理解しているのだろうか。
(いやない、それは絶対にないよね)
赤の他人どころかたとえ友人相手ですら、ドン引きでは済まないくらいの非常識極まりない行動である。平素散々な言われようのプロセラをも遥かに凌ぐ、完全なる奇行だった。
それを隼に対して疑問も持たず躊躇いもなく実行するということは、始にとっての隼は、彼のテリトリーに入っているのが当然の存在である、と結論付けられるわけだ。
「……あのね、春が同じ状態で君の部屋を訪ねて来たらどうする?」
バクバクと期待に高鳴る心臓を宥めて、隼は絞り出すように尋ねた。
「は? 断固入れないに決まってるだろ。風呂入って出直して来させる」
特別扱い。
頭の中でそんな言葉が乱舞した。
(え、何これ。僕はもしかして始にとんでもなく好かれてるの?!)
「……始!」
「何だ?」
「好きだよ!」
「ああ」
当然のように頷かれて、隼はまた混乱した。
(無自覚に始から好かれている可能性──!)
ずっとずっと一方通行の思いで構わないと思っていたが、そうでない可能性が目の前にどかんと降ってきた。期待感で胸が苦しくなる。どうしよう、これで夢だったら死ねる自信がある。先ほど夢にしてしまいたいと願った自分を殴りに行きたい。寝てる場合じゃない。寝たら死ぬ。
そわそわと身動ぎした時、手が自分の鞄に当たった。
「あ、そういえば」
隼は元々これを始に渡したくて、急いで帰ってきたことを思い出した。
「どうした?」
「あのね、これ」
鞄の中から綺麗にラッピングされた包みを取り出す。それを始へと手渡した。始の手の中へ収まる様子を目に焼き付ける。もう無理だと諦めていた光景に、胸が温かくなる。
「これは、菓子か?」
「うん。今日のお仕事、バラエティの収録だったんだけどね」
ゲストがアイシングクッキーのデコレーションを競うという趣旨の番組だった。土台のクッキーは必要な形を事前に注文して用意してもらい、収録当日はデコレーションのみをするというものだ。
その名も『デコレーションで推し事対決!』という、つまり推しへの愛を炸裂させる内容だったわけだ。
隼は当然始をイメージしたデコレーションをした。始のモチーフである蝶の形のクッキーに紫色のクリームを塗った。ちゃっかり自分のカラーである白やグレーなどもアクセントに使いまくった。出来栄えは自分でも奇跡だと言える素晴らしさだった。隼の推しへの愛を、公共の電波でこれでもかと主張できたのも嬉しかったし、何よりも番組は大いに盛り上がった。
自分で作ったものは持ち帰らせてもらうことができたので、隼は折角だからと始本人に渡したかったのである。
包装紙を開き、中を見た始の目が真ん丸く見開かれる。そこには隼渾身の力作が並んでいた。
「これをお前が?」
「そうだよ。全力で頑張っちゃった。始への愛を全国へアピールできるチャンスだったし」
「……食べてもいいか?」
こんなに綺麗だと、ちょっと勿体ない気もするが。
目元を和らげてクッキーを愛おしそうに眺める始に、隼は今度は込み上げる喜びで泣きたくなった。
「勿論だよ。そう言ってくれるのは嬉しいのだけど、それは食べ物だしね?」
そうだな、と笑った始は綺麗にデコレーションされた蝶をひとつ摘んで口の中へ入れる。
「美味いな」
「クッキー自体はプロが作ってくれたものだから、味は保証するよ!」
「ありがとう」
ふわりと笑う始の表情に釘付けになる。ああ、やっぱり君が好きだなあと隼は心から思った。
いつか、始が隼を特別に思っていることを自覚してくれたら、今日のことを照れながら笑い話にしてくれるかもしれない。
「始はやっぱり猫ちゃんだね」
「猫じゃない。何だ突然」
撫でようと思っても、気まぐれにするりとこの腕を抜けてしまう。
「何でもないよ。ところで僕の服は」
「まだ洗濯中だ。代わりに俺の服を、と言いたいが……しまった。勢いで下着まで洗っちまった」
「え。まさか無意識だったの? 始って結構激情家さんだよねえ」
「……悪かった。ついカッとなってやったのは反省してる。服はお前の部屋から持ってくるか。着替えの場所は……、海ならわかるか」
始にも海が隼の保護者扱いをされていて、隼は思わず笑った。もう少ししたら海は帰ってくる予定だった。
「そうだねえ。海にお願いしようか」
この状況を伝えられて、可哀想なくらい狼狽する海の顔が容易に想像できる。
「ところで、もうひとつ残念なお知らせがあるのだけど」
「何だ?」
「僕が今日着てた服、洗濯禁止の特殊素材だったから、多分ダメになったと思う」
「────っ」
絶句して目を見開いた始は、我に返ると酷く申し訳なさそうに謝った。
「本当に悪かった。弁償する。そこまで気が回らなかったんだ」
確かに今思えば、始らしくない浅慮な行動だった。
我を忘れるほど、隼が他の誰かに取られたと思ったことに憤りを感じた。そんなふうに取っても、いいのだろうか。
「……何でそこでニヤけてるんだ、お前は」
「はっ、つい抑えきれない喜びが顔に出てしまった……!」
「意味がわからない。怒るところだろう、そこは」
始の指摘も随分とあさっての方向で、隼は頬が緩むのを止められない。
普通の人が相手であれば、いきなり説明もなく無理矢理脱がされた時点で怒るだろう。そこをすっ飛ばしているのにも気づかないなんて。
「僕が始に怒る理由なんてないよ」
「いや、あるだろ」
「大丈夫だよ、始。僕たちきっと幸せになろうね!」
ますます怪訝な顔になった始に、隼は笑った。
その後、帰宅早々隼に呼ばれて始の部屋を訪ねた海は、全裸にタオルを巻いただけの隼と部屋着の始が並んでソファに座っているのを見た途端、絶叫して腰を抜かしたのだった。