特別な夜を、これからも
「間に合わない、か……」
腕時計で時間を確認し、始はひとつため息をついた。
今日は朝から過密スケジュールで、時間は分刻みで動いていた。最後の仕事が少し遠い場所だったのもあり、ツキノ寮へ帰れるのは日付けを跨ぐ頃だろう。送迎の車内のバックシートで揺られながら、始はせめて少しでも仮眠を取っておこうと目を閉じた。疲れている身体をできるだけ休めておきたかった。
しかし視界を遮断しても、眠気はさっぱりやって来ない。代わりに先程SNSで見たプロセラルームの光景が頭に浮かび上がる。本日の主役であるプロセラの魔王様は、今年もたくさん祝われて幸せそうだった。始からのサプライズメッセージも大層喜んでもらえたようで、何よりだ。
海からプロセラのメッセージカードに一言書いてくれと言われた時は驚いたし、あの場所に自分が名を連ねてもいいものかと悩んだ。グラビとプロセラでひとつの家族のような認識ではあるが、今日この日においてはまた、プロセラという枠は特別になる。始は部外者だった。
数日前の話だ。朝、始が共有ルームに居たところを、隼を除くプロセラメンバー全員で取り囲まれた。突然の事態に、何か重大な事件が起きたのかとびっくりしたものだ。五人が五人とも神妙な顔をしていたのも心臓に悪かったし、全員がステージの演技のように綺麗に揃ってお願いしますと頭を下げた時も、何事かと焦りさえした。ちなみにその場にいた葵も一緒にあたふたと焦ってくれたのが、やたらと心強く感じた。味方がいるのはありがたいことだ。
物々しくグラビの領土に乗り込んで来たプロセラ勢から事情を聞かされて、一大事でなかったことに取り敢えず安堵した。そして件の内容について始が生真面目に小難しく悩んでいると、それを遠慮と受け取ったのか、陽が強引にカードを渡してきた。
「本当に一言でいいんで、お願いします。あいつ、始さん成分が足りないーとか言って騒いで煩いんですよ」
「お時間取らせて本当にすみません! でも俺たちからもお願いします!」
ぶっきらぼうな陽の言い方から滲み出る優しさや、隼のために必死な様子の夜たちを目にすれば、始の中から断る理由は消え失せた。他でもないプロセラの全員が、隼のためにそれを望んでいるのなら。
始はファンクラブ会員一桁の特典で、毎年隼へメッセージカードを送っている。なので正直一言と言っても何を書こうか悩んだ。思いついた言葉はワンパターンで、十年分のどこかでおそらく被っているだろう。だけどそれでも、贈る言葉には相応しいかとペンを取る。さらさらと書き入れれば、五人は満足そうに笑って再度始へ頭を下げて礼を言い、去って行った。
後にして思えば、始の本日のスケジュールを知っていて頼みに来たのだろう。誕生日の当日には、始が来られないかもしれない。隼が誕生日の夜を、最後まで憂いなく楽しく過ごせるようにという仲間たちからの計らいなのだ。
この十年の間で、プロセラのパーティーが終わったあとで始が一番最後に隼を訪い、二人で祝うことが習慣になっていた。
約束があったわけじゃない。最初はただ、真っ先に祝うべきなのは近しい人で、自分が祝うのはそのあとだと思ったから、始は最後に顔を出しただけなのだ。
「特別な一日の終わりを二人で一緒にって、俺的にはそれが一番特別なことだと思うんだけどねえ?」
そんな始を見て、いつかの春が呆れたように言った。その時はいまいち意味が理解できなかった。パーティーには参加しないのと訊かれて、自分は部外者だから、そのあとでいいんだと確か返したはずだ。
王様はそういうところ、本当に鈍感だなあとわざとらしくしみじみ言う相方にイラついて、本体を叩き割る勢いでつい手が出てしまったのもいい思い出だ。
あれからそこそこの時が過ぎた。今なら春の言っていたことが分かる。
二人きりのその静かで温かな時間を、いつの間にか楽しみにしていたのは始の方だった。
ある時はプロセラの共有ルームで、ある時は彼の部屋で。始が訪れた瞬間、花開くように綻ぶ隼の顔がとても好ましく、この胸をやわらかくさせてくれるものだと気づいたのは、いつの頃だっただろう。
出会ったばかりの頃は、こんなふうに毎年出向いて誕生日を祝って、などと考えたこともなかった。さらに昔の話をするならば──まだ彼と出会う前、学生の頃。家族が自分の誕生日を祝ってはくれていた。けれど友人と一緒にパーティーをして祝うなんてことは、するのもされるのもついぞ経験がなかった。
春という特別な友人ができて、彼に初めて誕生日プレゼントをもらった時はひどく驚いたが、それと同時にとても嬉しかった。少しの気恥しさと、胸を埋める喜びが心を満たしたのを今でもよく覚えている。とても大切な記憶のひとつだ。
二ヶ月後に迎える彼の誕生日には何を返そうかと物凄く悩んだ。家族ではない関係の、たったひとりの特別な人のために何かを選ぶというのは、その時の始には大層難しかった。連日雑貨店を渡り歩いていた。そうして思考に思考を重ねて選び抜いたのは、何の変哲もない文房具だった。自分が当時使用していた物で、使い易くて気に入っていた。始が贈ったそれを見て、春はありがとう、大切に使わせてもらうねと屈託なく笑ったのだ。
その笑顔は今でも思い出せる。自分がプレゼントを貰った時と同じくらい、いや、それ以上に胸の内へ湧き上がった喜びも。
「わあ、君とお揃いだね! 嬉しいなあ」
「お揃いだと、嬉しいのか?」
「同じ物を持ってるのって連帯感を感じるんだよねえ。自分のお気に入りの物をくれるのって、それだけ気にかけてもらえてるんだなあって思えるし。うちの妹たちは性別も年齢も違うから、誕生日プレゼントはせがまれてもお揃いになるなんてことないしね。これは友達ならではって感じがしない?」
「友達……」
「え、あれ? 俺たち友達だよね?!」
友達、という言葉に何やら考え込んだ始に焦った顔を見せる春が面白くて、声を出して笑った。つられて春も笑い、二人で馬鹿みたいに笑い合った。あれから彼との絆は綿々と続いている。
隼へのプレゼントは今年も勿論既に準備してある。今は始の部屋の机の上で、出番を待っている状態だ。隼だけでなく、始は全員に何かしらを贈っているし、他のメンバーもそうだ。毎月誰かの誕生日だから、月に一度はプレゼントを選んでいる。プレゼントと言っても特別に仰々しいものではなく、その時々で見つけたちょっとした物だ。昔のように小難しく考えたりはしない。
美味しそうなお菓子、あれば便利そうだなと思う雑貨、ふと目が合って手に取った品。仕事の合間の息抜きに、そういう物を見て回る。そんなことがもう長い間ずっと続いている。
最近はどこまで続いていけるのかな、なんて思うようになった。いつまで、いつまででもと良くも悪くも真っ直ぐに、無邪気に言い切っていられることができた年齢はもうとうに過ぎた。
今を精一杯大切に生きて、それから未来へ行こうなんて、堅実な考えになったものだと始は笑った。
「そういえば連絡をしていなかったな」
始は目を開けてスマホを手に取る。SNSの画面を開き、帰宅は今日中に間に合わない旨をメッセージに入れたら、即座に返事が返ってくる。
遅くまでお疲れ様。気をつけて帰ってきてね。それから。
「待っているよ、か……」
約束を、しているわけじゃない。隼は明日は午後からの仕事なので、時間的には余裕がある(毎年誕生日翌日の午前は、黒月が休みをもぎ取ってくれるらしい)。それでも遅くなるようなら先に寝ていてほしいのだが、きっと彼は始を待っているだろう。
それを、嬉しいと思う。
「あいつの誕生日なのに、俺の方が貰ってる気がするな」
言葉にして呟けば、早く帰りたい気持ちが沸き起こってくる。一刻も早く、早く隼の元へ。
急に一分一秒が惜しくなり、気もそぞろになる。仮眠は諦めてS N Sに流れるプロセラのパーティー現場の写真を眺めた。ここ最近は妙に気分が上下したり、急に感情的になったりすることがある。それはきっと、それだけ心を揺らすものが、身の回りにあるからなのだ。
外の景色が見慣れた街並みに変わり、寮の建物が見えた時にはようやくか、という気持ちになる。運転手に礼を言って車を降りると、始は急ぎ足で閉まっている正面玄関を通り越して裏口へと向かう。扉を開ける時間すらもどかしい。エレベーターを待つ時間はさらにじれったく感じた。
ようやく会える。早く会いたい。
「隼……!」
三階に着くと、フロアは静かだった。既に日付けは変わり、深夜なのだから当然だ。仕事のある面々は部屋に戻って就寝しただろうし、そうすると今、隼は独りきりなのかもしれない。
楽しい夜に寂しい思いをさせてしまったかと、胸がチクリと傷んだ。白の魔王様はとても寂しがりなのだ。
「ただいま」
プロセラの共有ルームは、厳密には始にとってのホームではない。けれど一言目に交わすのならば、その言葉が相応しいと思った。
「始、おかえり! 遅くまでお疲れ様!」
共有ルームにひとり、こたつに顔を伏せていた隼がパッと顔を上げて微笑んだ。
ああ、この顔が見たかったんだと感じると同時に、独りきりで待たせてしまったことを申し訳なく思う。
「……悪い、ギリギリ間に合わなかったな?」
「大丈夫! 心はちゃんと一緒にいたもの」
何だそれ、と以前の自分なら答えていた。でも今は、駆け出してすぐに彼の傍に行きたいと思うくらい、嬉しいという感情が込み上げる。
「そうか」
改めて室内を見れば、丸いこたつが堂々たる佇まいで中央部に置かれていた。六人で入れる大きさだから、存在感もバッチリだ。
微笑ましく思いながら、冷静を装ってそろそろと近くに歩み寄る。
「こたつ、入っていいか?」
「どうぞどうぞ!」
仕事のバッグを適当に放り、チェスターコートを脱いで、ルームの隅に追いやられているソファの背に投げかける。ずぼらな仕草に隼がくすくすと笑う。始は隼の向かいではなく、そんな彼の左隣に滑り込んだ。
腕がさりげなく当たる距離だ。ずっとこたつで温まっていただろう体温が、帰宅したばかりの身体には気持ちいい。
「わっ、始、冷えてるねえ」
「夜は結構寒くなってきたからな」
「明日から本気出すつもりだったけど……って、あ、もう日付けが変わってるんだったね。よーし! 本気タイムするから始にくっついちゃおうっと!」
「ほどほどにしろよ?」
笑いながら、始は右腕にかかる温かな体温の重みに目を閉じた。この時間を、この熱を、二人はいつまで。
こたつの中で身を寄せ合う。過ぎていく秋の夜長に二人きり、秘密の時間を閉じ込める。
「始成分を急速充電~~~! はぁ~、堪らない! 生き返るぅ……!」
腹の周りに両腕が絡み付いてくる。遠慮なくギュッと抱きしめてくる手の上から自分の手のひらを重ねれば、くふくふと幸せそうに隼は笑った。
「僕ね、始の手のひら、とーっても好きだよ」
「知ってる」
手が好き、と全員から褒められたのはまだ記憶に新しい。手放しで褒めそやされれば恥ずかしくもなったが、自分が何かを与えることができるなら、それは誇らしいことだ。
右手を持ち上げて、始に抱きついている隼の肩を抱き返す。そのまま首、耳へと手のひらを滑らせて銀の髪を絡め取る。最後に頭を撫でてやれば、隼は小さく震えた。
「あのね、あのね? 君に話したいことが沢山あるんだ!」
始は言葉で答える代わりに、また頭を撫でる。
揺れる声音は笑っているようにも、泣いているようにも聞こえた。とても大事にしたくなって、殊更優しく髪を撫でた。
明日の午前中は始も休みだ。今夜は時間を気にせずにゆっくり過ごせるだろう。
(あ、プレゼントを持ってくるのを忘れた……)
隼に会うことしか考えられなくて、直行でここに来てしまった。プレゼントはまだ始の部屋で出番を待っているままだ。
しかし、この温もりを振りほどいて外に出るなんて到底無理な話だった。温かいこたつも、腕の中に捕らえた熱も、もう離したくない。
(あとでもいいか。誕生日の翌日からは後夜祭とか言ってたしな?)
空が暁に染まるまで、二人きりの夜を楽しもう。
始は止め処なく溢れ出す隼の話に、じっと耳を傾けた。